丙辰,詔曰:「長沙王興、真定王得、河間王邵、中山王茂,皆襲爵為王,不應經義.其以興為臨湘侯,得為真定侯,邵為樂成侯,茂為單父侯.」其宗室及絕國封侯者凡一百三十七人.丁巳,降趙王良為趙公,太原王章為齊公,魯王興為魯公.(「光武帝紀下」建武十三年) 建武十三年、合計で7つの王が降格処分となりました。 建武年間には二度、大きな封建がありましてひとつは二年に宗室の功臣や劉氏群雄を王に封じたもの、ふたつは十五年に光武帝の皇子十人を公に封じたもの。 光武帝による宗族封建の顔ぶれは以下の通りです。 ・叔父良・・・広陽王(のち趙王) ・兄子章・・・太原王(のち斉王) ・兄子興・・・魯王 ・族父歙・・・泗水王 ・歙の子終・・・淄川王 ・歙の従弟茂・・・中山王 ・舂陵侯家祉・・・城陽王*1 ・長沙王家興・・・長沙王 ・真定王家得・・・真定王 ・河間王家邵・・・河間王 舂陵侯家と長沙王家とは景帝を共通の祖とする