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夢や仕事、趣味や大切な人――あなたの「生きがい」は何ですか?
[第2弾] 2026年1月26日公開
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十五時を過ぎたころ、俄に廊下が騒がしくなった。大勢の営業部員が足音を立てながら、会議室から出てくる。第一会議室、毎月末の営業部全支社会議、最終週金曜の十三時から十五時、プロジェクターとスクリーンに加えリモート会議用モニターを使用――ここ数日間、意識の底に沈殿していた情報がやっと溶け始め、同時に身体が弛緩する。無意識のうちに緊張していたみたいだ。
全員が退出したころを見計らい、第一会議室へと向かう。スクリーンを巻き上げ、プロジェクターの電源を落とし、リモート会議用の機材を所定の位置へと片付ける。今月は何の不具合も起きなかった。安堵の溜息が、もぬけの殻の会議室にぽつんと着地する。
先月は、会議の途中で各支社に音声が届かなくなった。こういうときに呼び出されるのが私の部署の仕事だ。沢山の営業部員の視線を浴びながら、一人で機材トラブルに立ち向かうあの時間。早くしろよ、メンテしとけよ――そんな声が今にも聞こえてきそうな、あの空間。
何の不具合も発生しなかったときは定期的な動作確認を労られないのに、何かしら不具合が起きたときには苛立ちをぶつけられる。何も起きなかった、という状態を生み出すまでの努力は、人々の視界からは簡単に漏れ出る。
使用前の状態に戻った会議室を、一人で見渡す。壁に掛けられたカレンダーが、窓から差し込む木漏れ日に照らされている。そうだ、来週にはもう月が変わる。次の月曜日は少し早く出社して全会議室のカレンダーを捲っておかなければならない。
その作業だって、特に誰からも言及されない。捲り忘れることがあれば、そのとき初めて誰かの目に映る。
「イエス、プリーズ」
スマホに向かってそう話しかけると、優しそうな女性の声で『So then, let's get started』と返ってくる。私は水を一口含むと、ソファの上で姿勢を正した。
最初は対面で始めた英会話のレッスンを、今はAIアプリで代替している。単純に月謝が高かったし、ただでさえ日常に起伏がないうえサービス精神の乏しい先生に当たってしまったので、雑談が全く続かなかったのだ。そもそも英会話だって、週末を少しでも有意義に過ごすために始めただけで、気まずさを乗り越えてでも続けたいものではなかった。
『Did anything interesting happen this week?』
ただ、相手がアプリになったからといって雑談の引き出しが増えるわけでもない。アプリは毎週律儀に『何か面白いことあった?』なんて訊いてくれるけれど、結局「アイワズビージー、ウィズワーク」等と味気ない返答を差し出してしまう。
自分でさえ、自分に言及したくなる部分が見当たらない。
『Oh, I see. What kind of work kept you busy?』
アプリの質問はいつも優しい。私のモノクロの生活から、どうにか光る箇所を掬い上げようとしてくれる。
どんな仕事で忙しくしていたのか――毎日問題なく会社が回るように動き回ってはいるけれど、そのどれも、明確には表現しづらい。自分の指先からでさえ、私の日々は零れ落ちてしまう。
じゃあ、一体私は、何のために。
『Was there anything memorable?』
閉口していた私に、アプリが重ねて問うてくる。対人レッスンよりも遥かに優しい対応に、なぜかきゅっと寂しくなる。
何か印象に残ったこと。
心の中で繰り返したのち、ふいに思い出された光景があった。会議室のカレンダーを照らし出していた、十五時過ぎの太陽の滲み。
「イエスタデイ、アイソウ……ごめんなさい、ここからは日本語でお願いします。木漏れ日って英語で何て言いますか?」
『はい。日本語で解説します』
アプリが続ける。
『木漏れ日という日本語に該当する適切な英単語はありません。そのため、“sunlight filtering through the trees”のように訳すことになります』
「へえ」思わず声が漏れる。
『そのような日本語は他にもあります。いくつか紹介しますか?』
「あ、お願いします」
誰にも見られていないのに、小さく頭を下げる。
『もったいない、は有名ですが、わびさび、いただきます、ごちそうさま等も本来の意味を反映することが困難な日本語です。最近では、生きがい、も翻訳困難な日本語として注目されています』
「生きがい」
私の呟きを受け取ったアプリが、説明を付け足す。
『生きがいという日本語は、心の小さな機微から人生の大きな目的まで幅広い意味を含んでおり、そのニュアンスを正しく翻訳することは困難です。このように、本来の意味を掬いきれない言葉にこそ、その国の本質的な感性が反映されているのかもしれません。TED TalksやYouTubeでも“Ikigai”をテーマにしたプレゼンが多数あります。いくつか紹介しますか?』
第一会議室のカレンダーの一枚目を、思い切り捲る。厚紙が破れる音が、まだ眠そうな月曜日を目覚めさせる。
廊下から挨拶を交わす声が聞こえてくる。皆、出社し始める時間だ。
数字や成果からは漏れ出る部分だけれど、今月も全ての会議室のカレンダーを私が替えた。
誰かに掬い取ってもらえなくとも、今日ここの機材を使う人たちは何の不具合にも見舞われないはずだ。
窓から差し込む朝の光に、始まりのページが照らされている。
木漏れ日、生きがい、私の毎日。
抱きしめられないものだからこそ、全部抱きしめたくなった。
編集/POW-DER デザイン/スープアップデザインズ イラスト/谷山彩子
制作/朝日新聞出版メディアプロデュース部ブランドスタジオ 企画/AERA DIGITAL AD セクション

