顔を捨てた男のレビュー・感想・評価
全110件中、1~20件目を表示
現実の捉え方の違いで分かれた人生の明暗
アダム・ピアソンを寡聞にして存じ上げず、彼自身がいわばリアル・オズワルドと形容したくなるような俳優であることを後で知って本当に驚いた。
正直な話、物語序盤のエドワードを見ながら「この風貌で俳優として働いてる設定なんてシュールだな」などと思い、オズワルドについては、特殊メイクだろうという先入観で見ていた。あの見た目であそこまで陽キャなのも主題を語るための誇張に見え、非現実的だと感じていた。
今は、ピアソンに土下座したい気持ちだ。セバスチャン・スタンもすごかったが、振り返ればこれは神経線維腫症当事者であるアダム・ピアソンありきの映画なのだ。
不条理スリラーという惹句の本作、確かに前半はその言葉通りの印象だ。雨漏りする天井から何か(ネズミ? もっと大きなものも落ちてきたような)が落ちてくる場面や、謎の薬によってエドワードの顔がベロンと剥がれて変わってゆくところなどは本当に気味が悪い。顔を捨てるって整形手術じゃないんだ……いや手術にしてくれよ。
ところがオズワルドが登場してからは、じめじめしていた物語の湿度が彼の明るさによって下がり、同時にエドワードの苦悩の描写がどこか皮肉めいたものに見えてきた。オズワルドのトークや行動は小気味よく魅力があり、そのかたわらであれこれ足掻いて包帯グルグル巻きになったりするエドワードを滑稽にさえ感じた。
容貌が変わる前のエドワードは、俳優という人前で表現する仕事に就いてはいたものの、与えられていたのは企業向けの人権教育動画における障害者のステレオタイプのような役だ。彼の仕事への向き合い方もどこか受け身に見える。治験(だったか?)で顔の腫瘍を改善する治療を受ける決断でさえも、エドワード自身が熱望して、という様子ではなく話の流れで、という印象だった。
治療で顔が変わった彼は、エドワードは死んだと偽ってガイと名乗り、一転して不動産営業で成功した。だが、隣人の劇作家イングリッドが彼との交流を題材にして書いた劇を介してオズワルドに出会ってから、彼のアイデンティティは揺らぎ始める。
イングリッドとのごく私的なエピソードを劇作品に仕立てられ、その上後から来たオズワルドの提案でその結末を変えられるなど、エドワードにも同情したくなる点はある。
ただ、彼がオズワルドとの出会いにより不安定になっていった本質的な理由は、過去の自分を彼と比較してしまったからではないだろうか。
序盤、レディー・ガガの「現実を受け入れない限り幸せにはなれない」といった言葉が紹介される。これはポジティブな受容を指すように思われる。
元のエドワードは端役で細々と暮らし、天井から雨漏りがしネズミが落ちてきて、それが不快でもなかなか修理を頼まない。死にたくなるほど現実を拒絶するわけではないが、我慢することで現実に自分を馴染ませようとする、それが治療前の彼の生き方だったように見える。
ただ、治療でイケメンになり営業で成功した以上は、オズワルドに出会おうが今の自分を肯定しておけばよかったのだが……。
「配られたカードで勝負するしかないのさ……それがどういう意味であれ」というスヌーピーの名言がある。手持ちのカードの強みを理解し、ポジティブに向き合い積極的に活用して人生を謳歌しているオズワルド。一方、既に手放したカードに後から執着を見せるエドワード。どちらが賢明な生き方かは言うまでもない。
一見ルッキズム批判の話のようでありながら、実は外見の問題のみにとどまらず「自分が今置かれている現実をどう捉えるかで人生は変わる」というテーマが語られているようにも思えた。
SNSの普及で自分の幸福を他人との比較で測る傾向が強まっている現代だからこそ、オズワルドのような生き方を実践するピアソンの言葉が刺さる。
「みんな、小さなデバイスを持ち歩いていて、まるで低い自尊心を養う装置みたいに、Instagramをスクロールしながら、他人が輝いている姿と自分の現実を比較してしまっています。」
「壊れていてもいい。自分の不完全さを受け入れて、でもその中で美しく、素晴らしい存在でいようとすることを大切にしてほしいです。」
(The Hollywood Reporter Japan インタビュー記事より)
どこまでいっても寄る辺のない心の迷宮
本作でオズワルドを演じているアダム・ピアソンが主演した監督の前作『Chained for Life』が日本で観られないがとても残念なのだが、アダム・ピアソンで繋がった姉妹編、もしくは精神的続編と呼ぶべき関係性にあって興味深い。ただ、前作がルッキズムから逃れられない価値観や社会がテーマだったのに対して、本作はもっと主観的なアイデンティティーの話になっている。極論すれば、本作の主人公やオズワルドの外見は果たして本当にその通りなのかすら疑わしく、実際、なにかしら疾患がありはするのだろうが、周囲の人たちもさして強烈に反応はしていない。つまり全シーンが「主人公の脳内で見えているもの」というフィルターを通す必要があり、平たく言えば人間はどんな姿や性格や能力を持っていようと、主観と自己評価がすべてという解釈もできる(もちろんそれだけの話ではないが)。劇中で憧憬の対象となるオズワルドのキャラも、客観的に見ればずいぶん無神経でいい加減な人物でもあって、羨ましいという感情も突き詰めれば自分の写し絵で、実態はない。どこまでいっても寄る辺のない心の迷宮。一度迷い込んだら出口はない。そんな怖さがみごとに映像に置き換えられている。
「エレファント・マン」から45年、映画と私たちは進歩したのか?と問いかける
人の外見の好き嫌い、また内なる嫌悪感や差別的感情についての難題を突きつけてくる映画だ。ただしけっして社会派のまじめなドラマというわけではなく、サスペンスとダークなユーモアと不条理さのバランスが絶妙な娯楽作になっている点もいい。
主人公エドワードの序盤の外見は容易に「エレファント・マン」(1980年のデヴッド・リンチ監督作)を想起させる。一方、新薬の効果で古い異形の“外面”が崩れて中から新しい(セバスチャン・スタンの)顔が出現するシーンは、「ザ・フライ」(1986年のデヴィッド・クローネンバーグ監督作)の変身シーンの逆バージョンのようだと感じた。「2人のデヴィッド」の80年代の名作に通じる趣は、スーパー16ミリフィルムで撮影された映像の質感によって補強されている。
脚本も手がけたアーロン・シンバーグ監督は、生まれつき口唇口蓋裂があったため矯正手術を何度も受けたことを明かしている。そうした実体験に基づき、外見やアイデンティティをテーマに映画を作っており、長編第2作「Chained for Life」では神経線維腫症1型の当事者であるアダム・ピアソンを主演に抜擢。シンバーグ監督はこの第3作でもピアソンをオズワルド役で起用し、脚本開発段階から助言を得て当事者の視点を盛り込んでいったという。
イングリッド(レナーテ・レインスベ)が書いた舞台劇に、「醜いものを忌み嫌うのは人間の本能だ」という台詞がある。また、序盤に映る啓発ビデオでも、「“恐れ”は獣への警戒心から生まれた」「我々は原始的な脳の反応を制御できません」と説明される。そうした本能に基づく感情を理性や知性で制御するのが文明人としての進歩というわけだ。「エレファント・マン」から45年が経ち、多様性やインクルージョンといったお題目は語られるようになったものの、映画やドラマの中でアダム・ピアソンのような当事者が重要な役で登場することはまだ少ない。また世界的な傾向としても、主に民族や人種の点で昨今、多様性尊重への反動が広がりつつある。「顔を捨てた男」を観ると、私たち人間の理性は本当に進歩しているのか、と問われている気がする。
面白い
これ面白かった〜!
エドワード(セバスチャン・スタン)は顔の変形で自分に自信がなくて、隣に引っ越してきた劇作家志望のイングリットに好意を持ちつつも自分の気持ちを伝える事ができない。ある日、画期的な薬で新しい顔を手に入れた彼は、エドワードを殺しガイに生まれ変わる。見た目は変わったので周りから好奇の目で見られることは無くなったけど、中身は変わってないから特に誰かに好かれることもない。彼は俳優志望で変形した顔がネックだったのもあるけど、演技もそこまで上手くないし人を引きつける魅力がないんだよね。
そんな時に、昔の自分に似た顔を持ちながらも、明るく堂々と生きる男オズワルド(アダム・ピアソン)が現れる。オズワルドは人間的にも魅力に溢れていて、ますますガイの心は蝕まれていく。
「顔さえ普通だったら、自分の人生は違っていたはず」って思ってたのに、蓋を開けてみれば似たような顔のオズワルドの方が人に好かれてやりたい事やって楽しそうに見えるわけ。ハンサムな顔を手に入れても上手くいかないガイを見て、なんか人生ってそんなもんだよな…って感じた次第。
そういえばエドワードの頃に出くわした隣人の男性が女性と手を繋いでいて、明らかにエドワードより幸せな人生を送っているように見えたのに、彼は首を吊って自殺しちゃうんだよね。結局は見えるものが全てではなく、幸せか不幸かなんて蓋開けてみなければわからないって事だよね。
ガイのこの先の人生が少しでも幸せなものになればいいよな〜って思いつつ、自分も普通の幸せを大事にしていきたいなって思いましたよ。オススメです。
見た目より中身❓中身より見た目⁉️
捨てた顔そっくりのオズワルドに取り憑かれて、自分を見失う男
それをセバスチャン・スタンが二役のようにリアルに演じて、
トランプ大統領の伝記映画「アプレンティス」とはまた一味違う
繊細な演技でした。
色々と勉強になり身につまされる映画でした。
かなり不気味な顔のエドワード(セバスチャン・スタン)は、
ある日新しい治療法により、美しい顔を手に入れます。
ハンサムになって、エドワードは「死んだ」ことにして不動産会社で、
ガイと言う名前で新しい人生を幸せにスタートしていました。
しかし間もなく、過去の醜い自分そっくりの
オズワルド(アダム・ピアソン)が
現れて周囲に好印象を持たれて行くようになる。
それに従ってエドワードは、自分を見失って行く。
●隣人の劇作家イングリッド。
たった一人醜い自分を受け入れてくれたイングリット。
でも不意にその手をそっと握っただけで、
イングリッドはパッと反射的に身を避けて帰ってしまう。
なのにオズワルドに触れられても全く気にしない・・・とか、
オズワルドと演劇仲間の話しに加われない面白みのないエドワード。
おどおどして社交性がないのとオズワルドの前では、どうも引け目を感じる。
オズワルドは常に友人たちの輪の中心にいる。
エドワードはやがて嫉妬に狂って、奇声を挙げたり暴力行為で刑務所にまで
入る羽目になる。
◆驚いた事。
オズワルドを演じたアダム・ピアソンさんは、特殊メイクでも、
仮面でもなく自前のお顔・・・だった事。
ぶっちゃけた気持ち。
私はオズワルドの顔は、直視できないと思います。
いくら話術が巧みでもお金持ちでも、良い人でも、
無理だと思う。
ただし人間的に、
★オズワルドは素晴らしいと思う。
容姿のハンディにも負けない強さ、
前向きで常に明るくプラス思考で決して落ち込まない。
対してエドワードは
■臆病、
和食のメニューが決められなくて、オズワルドに揶揄われていたけど、
★イングリッドから離れろよ‼️とも、思うけれど、
顔を捨てた時に、今までの人間関係も全て作新すべきだった。
でもイングリッドはエドワードには母親のように大事な、
ただ一人醜い自分を受け入れてくれた女性だったんですね。
「エレファントマン」そっくりのお顔でした。
エレファントマンの主人公は自分の顔を見せ物にするしか、
生きる術(すべ)が無い時代の、とても心の美しい青年でした。
「サブスタンス」にもちょっと似てるるだけど、デミ・ムーアほど悲惨な
ラストではなかったですね。
A24の映画は目の付け所は新鮮だけれど、ラストが弱いかも。
「やられたー、すげえー、感動した‼️」
というラストの衝撃がない。
面白いけれど、どこか物足りないのでした。
自分を捨てた男
現代版『エレファント・マン』か、もう一つの『サブスタンス』か。
ルッキズム、それに対する社会への風刺、自身のアイデンティティー…。
衝撃と斬新の不条理スリラー。製作は納得のA24。
エドワードは疾病が原因で特異な容姿を持つ。ズバリ言うと、歪んだような醜い顔。
初めて見た時はドキリとさせられる。そう感じてしまうのは人間の素直な反応。越してきた隣人イングリッドのファーストリアクションも妥当なもの。
重要なのはその後。奇異の目を向けたままか、受け入れるか。
見ていくと、彼が善良な男である事が分かる。その見た目故に常に社会の視線を感じ、性格はちと内向的だが。
イングリッドも自然に接するようになる。そんなイングリッドに惹かれるエドワード。が、見た目が障害になったからか、自身に一歩踏み出す勇気が無いからか、それ以上の進展はナシ…。
役者志望でもある。が、映画やTVに出た事はナシ。時々回ってくる役は“障害者を社会に受け入れよう”的な教材VTRの障害者役。そういう役しか与えられない。
こんな顔になってしまったのが運の尽きか、見た目が他人と違う者は堪え忍ぶしかないのか、煮え切らぬ自分の人生を歩んでいたある日…。
新薬の発明で容姿を変えられる事を知る。その治療を受ける。
暫くして、身体に異変。嘔吐や寝苦しさ。顔の肉片や皮膚が剥がれ落ち…。
このシーン、本当に『サブスタンス』みたい。
となると、主人公が辿る運命や展開もある程度予想出来る。
決してそれは予定調和ではなく、見る者に痛烈に突き付ける。
見た目とは…? 容姿が変わって幸せになれるのか…?
新たな顔を手に入れたエドワードは、ガイと名を改め、エドワードは死んだ事にする。イングリッドはそれを知り、ショックを受け…。
セールスマンとなり、ハンサムフェイスで成績も好調。新たな人生、順風満帆に思えたが…。
劇作家でもあるイングリッドが、劇の役者オーディションを。劇の内容は、自分とエドワードの出会いを基にした物語。つまり、エドワード役の顔に障害を持った役者を募っている。
ガイはオーディションに参加。エドワードは、僕だ。
顔に障害を持った者が集まる中、ガイはマスクを被って。
イングリッドから咎められるが、オーディションで熱演を見せる。それもその筈、自分で自分を演じるのだから。
オーディションには合格。役を手にし、イングリッドとも念願のいい関係になったが…。
劇の噂を聞き付け、劇場にひょっこり現れた男。
オズワルドといって、生まれつき顔に障害を持つ。
しかしそれを思わせないくらい陽気な性格。トークは達者で歌も上手くて、彼がいるだけで場が賑やかに。ガイ…つまりかつてのエドワードとは真逆。
イングリッドもすっかりオズワルドの虜。演出家の判断でエドワード役をオズワルドに。オズワルドの性格を受けて悲劇の最後をハッピーエンドに。
ガイはエドワード役を降ろされ、ラストの新たな顔になった僅かな役だけ。
紛糾するガイ。
新たな顔を手に入れたのに…。
かつての自分のような男に自分が奪われていく…。
何という皮肉!
新たな顔でやっと普通の人生を歩んでいた所へ、役を手に入れる為にかつての自分の顔のようなマスクを被る。それ自体シュール。
自分で自分を演じていたら、突然現れたかつての自分と同じような男。
彼は素顔のままで、かつての自分が欲しかったものを手にしていく。
これは悪夢か、しっぺ返しか。
大袈裟にではないが、シニカルでブラックな笑いがじわじわ効く。『美女と野獣』を揶揄した押し問答も。
本作で長編劇映画監督デビューのアーロン・シンバーグはルッキズム題材のドキュメンタリーを手掛けた事もあって、ピリリと問い掛ける。
結局、世の中って…。
ルッキズムって何だ…?
じゃあ何故、自分だけ奇異の目で見られた…?
答えは一目瞭然。
イケメン・アンチヒーローだけじゃない!
某大統領の若き頃で見る者を驚かせたセバスチャン・スタンがまたまた見る者を驚かせる。
エドワード時は特殊メイクで、ガイ時は素顔で、ある意味一人二役。複雑な内面を巧みに。
セバスチャン・スタンにはこれからまだまだ驚かされそう。
『センチメンタル・バリュー』でオスカーノミネートも期待されるレナーテ・レインスヴェの好助演や美貌も光るが、誰より驚かされたのは、言うまでもなく彼!
オズワルド役のアダム・ピアソン。てっきり特殊メイクかなと思ったら、実際に先天的に顔に障害を持つ。
そんな容姿でも役者の道を。本作で大注目され、次回作にあの『エレファント・マン』の再映画化!
オズワルドの性格はピアソンまんまだという。
ピアソンのこれからは是非応援したいが、危惧も。そういう役限定のキャスティングになりやしないか…?
かつて日本人がサムライや海外イメージのヘンテコニホンジンのステレオタイプであったように。
演技力で認められ、アンサンブルキャストの一人になってこそ、真の多様性社会。
ハリウッドは偏見無く彼を受け入れてくれるか…?
顔を変えて幸せになった者もいる。整形手術を経て人生薔薇色に変わった人も多々。
不慮の事態で顔を失い、不幸になった者も…。かつて“扇風機おばさん”という人がいた。
容姿が変わって幸せになれるのか…?
人それぞれ。月並みな言い方しか出来ないが。
いや、本当にそう。
自暴自棄になったガイ。会社で奇行。
劇の最中に舞台に上がり込んで大暴れ。挙げ句、不慮の事故…。
そしてある事件を起こす…。
ここまで来れば容姿どうこうじゃない。中身が醜くなったのだ。
顔を捨てる前はあんなに善良だった男が…。
そんなガイをオズワルドもイングリッドも見捨てずまた受け入れるが…。
顔だけじゃなく自分自身を捨てた男のこれからは果たして…?
自分を捨ててはいけない。
高みの見物を許してくれない作品
やるせない作品だった。
この映画は、観客に、単純に誰かを憎んだり、憐れんだりさせない。つまり、分かったつもりになって、安心して高みの見物をさせることを許してくれない。
もちろん、「ルッキズム」に関わり、明らかな差別をかましてくる人物や、単にポリコレの視点から表面的な対応をし、裏では全く別の顔を見せる分かりやすい人物たちも登場する。けれど、それらはみんな今作では第三者。
主要な登場人物たちに関しては、誰にもその明快さがなく、様々なシチュエーションの中で、その人物の意外な一面が次々と浮かび上がってくるので、自分の気持ちがあちらこちらに引っ張られて落ち着かない。
新春一作目としては、中々に重たかったが、感動ポルノとは一線を画した、A24らしい良作。
<ここから、内容に触れます>
・劇中での「タイプライター」の扱い方が無茶苦茶うまい!
主人公の好意の象徴というだけでなく、「文字を打つという実用性とインテリアとしての存在」というのは、そのまま「人間性と外見」の象徴に置き換えられる中で、彼女に一度も使われずに、簡単に「あげようか?」と言われてしまう切なさ。
いっそ捨てられた方がスッキリするのに、いつまでも彼女の家に残り続けているのを見ると、観ているこちらも、ぐるぐると色んなことを考えさせられる。
・あの皮膚科医は、なぜ彼のマスクを作ったのか。医学的な進歩のためというよりは、使用前と使用後の比較によって得られる富や名声を求めるいやらしさがチラつく。「ルッキズム」と「経済」の結びつきが嫌な感じ。
・エドワードは、どうしてあの瞬間に、嘘をついてまで、別の人生を生きようと決めたのか。同様にイングリッドは、なぜ、エドワードが創作のヒントになったことについて隠したのか。
どちらも、他人に「自分のなりたい自分を見せること(=顔またはマスク)」を優先させてしまったところが共通している。
その「なりたい自分」という顔またはマスクに自分を合わせようとした結果、エドワードはオズワルドに自分の人生を奪われることになり、イングリッドも経済的には成功したかもしれないが、作家活動から離れることになって、変なカルトグループの餌食にハマった。
「ルッキズム」とは、「虚飾=自信のなさ」の裏返しなのだろうか。
・ラストのオズワルドが発する容赦ない一言に、やるせなさが更に膨らんだ。
※一つ目のレビューから長くなりましたが、ここまで読んでいただいた皆さま、本年もよろしくお願いします。
【”素顔のままで。”今作は特異な顔の男が隣室の劇作家の女性に惹かれ、特殊な手術でハンサムになるも自身に似た自分に自信がある特異な顔の男の登場により、自身を失って行くシニカルブラックコメディである。】
■特異な顔を持つ俳優志望のエドワード・ラミュエル(セバスチャン・スタン)。アパルトメントの隣室で劇作家を目指すイングリッド(レナーテ・レインスヴェ)に惹かれながらも、自分の容姿に自信が無い彼であるが、彼女はそれを気にせずに彼と親しくなる。
エドワードはそんな彼女の態度を見て、外見を劇的に変える治療を受け、ハンサムな顔を手に入れる。エドワードは別人として人生を歩みだすかのように見えるが、彼の前に、同じく特異な顔を持ちながら、堂々と明るく振る舞うオズワルドが現れた事で、彼の運命は狂って行くのである。
◆感想<Caution!内容に触れています。>
・大変にシニカルで、ブラックで、サスペンス要素も有りながら、イロイロと考えさせられる作品である。
・特異な顔を持つ俳優志望のエドワード・ラミュエルが、隣室のイングリッドと親しくなった事で自信を持ち治療を受けハンサムになるも、彼は周囲の視線が気になり、相変わらずオドオドと暮らしている。果てはエドワードを死んだ事にしてガイ・モラーツと名乗り、イングリッドの演劇に且つての自分と同じ異形のマスクを着け出演するのである。
・そこに、且つての自分と同様な異形の顔の男、オズワルドが現れる。彼はエドワードと違い、自信に溢れユーモアもある皆に好かれる男として登場する。
・イングリッドは、エドワード・ラミュエル(ガイ・モラーツ)よりも、オズワルドを選び、彼を自身の演劇に起用し、その後共に生活までするのである。
一方、エドワード・ラミュエル(ガイ・モラーツ)は不動産業者として成功するが、オズワルドを妬み、且つての自分の顔のマスクをしながら接客し、首になるのである。
・更に、自棄になったエドワード・ラミュエル(ガイ・モラーツ)は、イングリッドの劇にマスクを付けて乱入し、舞台を無茶苦茶にするも舞台装置が崩れて来て、両手両足を骨折し、イングリッドとオズワルドに慰められながら、憮然とした表情で共に食事をするのである。だが、彼は手が使えずに彼らが楽しそうに食事する姿を見ているだけなのである。
自棄になった彼は、自分のリハビリをしてくれている男をナイフで刺し獄中に、一方イングリッドとオズワルドは幸せな生活を送るのである。
・時は経ち、老いたエドワード・ラミュエル(ガイ・モラーツ)は、イングリッドとオズワルドとレストランで食卓を囲むのである。二人の子が巣立ったイングリッドとオズワルドは、カナダで悠々自適の生活をする事を語るが、独り身のエドワード・ラミュエルは、彼らの話を恨めしそうに聞いているのである。
<今作は特異な容姿の男が隣室の劇作家の卵の女性に惹かれ、特殊な手術でハンサムになるも自身に似た自分に自信がある特異な顔の男の登場により、自身を失って行くシニカルブラックコメディなのである。>
醜いと嗤われた人にしか分からない深淵。
皆さんは、手塚治虫先生の神漫画・ブラックジャックの中に、《気の弱いシラノ》と云う御噺が有るのをご存知か?
人には各々大なり小なりコンプレックス…劣等感と云うモノが在ると云いますが、
大概は、凡人共やハイスペ共の偽善的な建前に過ぎません。
然し、残念ながら…現実は本当に残酷且つ過酷なもので、
中にはホンモノな人達がいます。
«ユニークフェイス»と…ポジティブなのかネガティブなのかよく分からん呼び方でどんなに茶を濁そうが、
彼らを視る世間共の大多数は、
バケモノだのフリークだの不細工だのと内心で罵倒し…嘲嗤い…自身と比べて安堵し優越感に浸るのです。
昨今、ルッキズムの名の下に、
口では直接罵らず、直接石を投げないだけで、
【目は口ほどに物を言う】を字でいく様に…
道行く人々の彼らを見る視線は、同情や憐憫、憎悪や愉悦に彩られている。
皆さんは…
他者から生理的に気持ち悪いと真顔で云われたことがありますか?
何処からか転がってきた消しゴムを拾うとして、右斜め後ろにいた同級生の女子から…
「やめて!触らないで!!」と叫ばれた事はありますか?
席替えの時に…敵意に満ちた眼で睨められながら半泣きされた事はありますか?
「オマエなんかに好きになられたら、その娘(こ)が可哀想だから、オマエは誰も好きになっちゃ駄目だよ」と諭された事はありますか?
……無くていいんです、こんな事。
そんな経験は、しなくて済むなら…しないに限ります☺️
言い返す事も諦め…
醜い自分が悪い、デブな自分が悪い、ダイエット出来ない自分が悪い…と、
…卑下する事で、現実逃避する。
今作の主人公は、恐らくその百倍…いや、千…万倍は、ずっとずっとずっと…ずぅぅぅっと仄暗い心の底で、息を潜めながら生きていたに違いないと、、
独断と偏見で、私はそう考えています。
先天的な病により顔面が変形し、内向的に他者との深い関わり合いを避け続けてきた主人公が、
何故に売れない役者を続けてきたのか?
そんなの……愛されたいからに決まってるからじゃないですか!
こんな見た目の自分でも誰かに認めてもらいたい…好意を向けてほしい…
人生で…一度でいいから、“好き”だと云われてみたい…
一度でいいから、自分からお金を払う云々ではなく、好意を寄せてきてくれた異性と、身体を重ねてみたい…
一度でいいから、好きになってしまった…なんて悲嘆に暮れる事なく、
正々堂々好きになった人に、好きだと告白したい。
…たとえ、形だけでも良いから…【自分】じゃない赤の他人…架空の誰かに【変身】してみたい。
そう思う事が、そんなに罪ですか?ダメですか?
不細工は、夢見る事も許されませんか?
そんな主人公にも転機がが訪れるんです。
それは画期的な新薬の治験者。
強烈な副作用に苦しみながらも…主人公は本当に変身するのです、嘘の様なイケメンに。
まるでクローネンバーグ監督の身体変形みたく、顔の表皮が無数の腫瘍毎…ベロンと剥がれ落ちていく。
セバスチャン・スタン並のルックスになった彼は、勝ち組になれました。
«エドワード»の名前を棄て、役者と云う過去を棄て、ボロアパートを引き払い、
今では不動産会社のエース営業マン。
そんな彼にも唯一、心残りが在る。
産まれて初めて自分を忌み嫌わず、普段と同じ…誰にでもそうする様な感じで接してくれた隣室の女性…初恋の君。
劇作家志望だった彼女を街中で見つけてしまったところから、
彼の悲運が再び動き出してしまう。
彼女のオリジナル戯曲…《エドワード》の主役オーディションに思わず参加してしまう。
最初は順風満帆…憧れの君を愛でたくゲットし、念願の恋仲に…
然しながら、何事も絶頂を迎えれば、後は降るだけが真理な如く…
主人公の前に、ヤツが現れる。
本当は«そうなりたかったであろうもう一人の自分»
かつての自分と似た疾患を患い、変形した容姿ながら、
そんな後ろめたさや悲壮感を一切見せずに、明朗快活にして自由闊達なナイスガイの…オズワルド。
私から見て…気色悪いくらいの善人で、
「世界がオレを愛さないのなら、オレが世界を愛せばいいのさ🥰ラブ&ピース!」
…って冗談抜きで臆面も無く真顔で云えるだろう好漢。
さては…あんた、人生3周目だろ?って言いたくなるくらいのポジティバー。
つまり、私が最も苦手とするタイプ。
嫉妬するのも烏滸がましいと、付け入る隙を与えてくれず…それなのに、向こうはお構い無しにグイグイとこちらのATフィールドを打ち抜いて懐柔してくる人誑し😭
顔がどんなに整って、どれだけの美女に言い寄られようが…
一度付いた心の疵は、そう容易く消えることも、拭うことも出来ない。
結局、、何処までいっても、私は私…自分は自分、彼は彼。
無い物ねだりの、隣の芝生は青いが連続するばかりが人生なのさってね、
巫山戯んなコンチクショウ😭😭😭
ただ…終盤辺りのあの茶番劇は一体何なんだ?
主人公は優柔不断なまま、恐らく流される様に、オズワルド夫妻と一緒にカルト堕ちって、一体何のオチだよ、アレは🤣🤣
人生はズームすると悲劇で、引きで観ると喜劇ってか?
……オレのくだらない人生も、誰かにとっては嗤い噺くらいにはなるのかな?
この映画が言いたかったこと。それは・・・🥋
顔が奇形化する病気のために消極的な人生をおくるセバスチャンスタンが、病院で顔を直して新しい人生を歩んでると、目の前に自分の前の顔に似た男が現れるという話。
ルッキズムを扱った映画ということで「サブスタンス」にも似た話かなと思ってましたが、こちらは観客に、エドワードみたいに見た目を気にして消極的な生き方でいいの?オズワルドみたいに見た目関係なく、よりよい人生をおくるにはどうしたらいいの?というメッセージ性が感じられ、とても面白かったです。
と、書きましたが…。
ご覧になったほとんどの方は、そのメッセージを見逃し、この映画が何を言ってるのかよくわからないかと思いました。いや、むしろわからなくて当然だと思います。。
この映画が言いたかったこと。
それは「柔術をやれば自信がついて人生が変わる!」(爆)
いや、柔術やってない人わかんないって😛
冒頭にマンションの住人がエドワードに「柔術とか格闘技やれば?」みたいに言ってきて、だいぶ話が進んでオズワルドが自己紹介するとき「柔術やってる」と回収。ガイが舞台で暴れて事故った時、柔術やってるオズワルドは無傷で回避できるのも、護身や危険回避こそが柔術の考え方の根底にあるから。ラストに日本食レストラン行くのも柔術の源流の国、日本に対する敬意かなと好意的に感じました。
👉柔術とは。
現在、世界的に柔術(JIU-JITSU)という場合、ブラジリアン柔術を指します。こちらは元は講道館柔道の前田光世が海外諸国に柔道を普及するために世界を渡り歩き、最終的にブラジルの地で暮らし、カルロス・グレイシーに教えたところから始まった格闘技です。最初はグレイシー柔術と呼んでいましたが、やがてグレイシー以外に分派、拡大し、ブラジリアン柔術もしくは、柔術という呼び名となりました。
元々、柔術は武士が刀を無くした際の格闘術として日本で生まれたもので、打撃技、投げ技、関節技などを含み今でいう総合格闘技のイメージに近いものでしたが、嘉納治五郎がスポーツ化するために、柔術から打撃技など危険な行為を除き発明したのが今の講道館柔道になります。前田光世も嘉納治五郎も元々は柔術の技術がバックボーンにあったわけです。
つまり、今の柔術(JIU-JITSU)は、柔道が柔術として元々もっていた技術、いわば武士の魂をタイムカプセルのように保持したまま、現代に伝える格闘技とも言えるわけです。
👉柔術の力。
成り立ちは実践重視な格闘技ですが、護身を重要なコンセプトにし、弱い人のための格闘技でもあり、やると知らないうちにフィジカルも強くなりますが、ボディコミュニケーションで自分や他人をコントロールする面白さ、そこには知恵の輪のようなパズルみたいな要素もあり、何歳からでも始められる格闘技です。
👉柔術で自分に自信がつく。
今行ってる道場でも通い始めて半年から一年もすると男子も女子も顔つきが変わる方、たくさん見てます。どこか表情がキリッてなるんですよね。
この映画も午前中に柔術道場でさっぱりしたあとに観たタイミングだったので、え?って声出ちゃいましたが😆
明日も練習がんばりまーす。
ルッキズムの皮肉に満ちた寓話
かつての「エレファント・マン」を想起させる設定だが、本作はその一歩先を行く物語だった。
”エレファント・マン”ことジョン・メリックはサーカスの見世物として悲惨な人生を歩むが、彼に比べると本作のエドワードは周囲からの奇異の目を気にしながらも、それなりに普通の日常生活を送っている。彼が住むアパートの管理人、仕事仲間、バーの客たちは彼を見ても気味悪がる様子を見せない。そういう意味では、19世紀末頃を舞台にした「エレファント・マン」とは明らかに時代の違いも感じた。
ただ、そうはいってもエドワード本人は自身の容姿に対するコンプレックスに苦しみ、友達も恋人も作らず孤独と不安に駆られている。周囲がどう見ようと、本人の中では”普通と違う”ことに苦しみ、ジョン・メリックと同様に常に疎外感を感じているのだ。
そんなエドワードは実験段階の治療でハンサムな男に生まれ変わり、不動産会社の営業マンとして新たな人生をスタートさせる。高級マンションに住み、恋人もできて成功の美酒に酔いしれる。ここから本作は「エレファント・マン」から一歩先を行く物語になっていく。
そこでキーマンとなるのがオズワルドという、かつてのエドワード同様、顔に大きな障害を持った男である。彼はエドワードと正反対で、自分の外見を気にすることなく、陽気で社交的で誰からも愛されている。エドワードの持っていないものをすべて持っているのだ。
以前の自分のように醜い容姿をした彼が幸せそうな人生を送っているのを見て、きっとエドワードはこれまでの人生を否定されたような気持になったのではないだろうか。外見ではなく内面が魅力的であれば愛される。それを体現するオズワルドを見て、エドワードの心は打ち砕かれたに違いない。
カラオケで美声を響かせて聴衆をうっとりさせるオズワルド。それを羨望の眼差しで見つめるエドワードの表情が印象的だった。
人間的魅力は外見ではなく内面にこそ宿る。これはルッキズムに対する痛烈な皮肉とも取れる。個人的には最近観た「サブスタンス」を連想した。ただ、「サブスタンス」のデミ・ムーアが最後まで若さと美貌に憑りつかれていたのに対し、今作のエドワードはそこまで暴走しなかったのはせめてもの救いである。そこは両者、似て非なる所である。
監督、脚本は本作が長編3作目の新鋭ということである。自分は初見となるが、余白を残した演出が時折見られて中々面白いと思った。
例えば、エドワードの部屋の天井にできた水漏れによる穴。これは日が経つにつれてどんどん大きくなっていく。ドラマ上これが特に機能するような場面はないのだが、エドワードの孤独のメタファーと捉えれば中々シュールで面白い。
終盤のエドワードの行動も、どういう感情から起こしたのか説明されない。かなり突然だったので驚いてしまったが、自暴自棄的に見えるこの行動にもきっと何か真意があるはずだ。オズワルド=かつての自分をバカにされたことによる怒りだったのかもしれない。
一方、ラストシーンの意味については今一つよく分からず、後になって調べてようやく分かった次第である。確かに途中で何度か伏線は張られていたが、少し分かりづらいと思った。画面をよく見ていないと気付かない人も多いのではないだろうか。
ちなみに、このラストシーンでも見られたが、カメラが度々がズームインする場面がある。ちょっと作為的という気もしたが、インパクトを与えるという意味では中々面白い効果を上げていると思った。
キャストでは、エドワーズを演じたセバスチャン・スタンの巧演が素晴らしかった。前半は特殊メイクをしているため、ほとんど彼だと気付かない容姿をしている。先入観をなくして純粋に彼の演技力を堪能できた。舞台がニューヨークということもあろう。劇中でも指摘されていたが、ウディ・アレンよろしく猫背でオドオドした演技は新鮮だった。
また、オズワルド役のアダム・ピアソンも印象に残った。彼は実際に神経線維腫症を患っており、本作の外見そのままの素顔ということである。
尚、彼は同監督の前作で主演を務めたということらしい。残念ながら、日本未公開作なので観ることは出来ない。ただ、彼のような個性派俳優を続けて映画に登場させていることから、この監督は何かしら一貫したテーマを持っているような気がした。
後半のトントン拍子で軽くなってしまう
トッツィーに軍配。
外面(ルッキズム)か、内面(性格)か、究極の選択を投げかける映画。
平日に突然の休みができたので、適当に映画を物色していたところ、「顔を捨てた男」のタイトルが目に入った。ミステリーっぽいのかなぁ、と思って鑑賞した。
その思いはほぼ外れたものの、人間の外面(ルッキズム)と内面(性格)がその人の人生(観)に多大な影響を与えている(く)様子を、見事に描写している良質な映画だった。
主人公のエドワードの顔面は、疾病による腫れものによって、醜く膨れ上がっていた。性格は、控え目で、物静か、波風を立たせないよう気を配って人生を静かに送っている。それは、その風貌から成るべく目立たないように、他人の目に触れないように、陰に潜んだ生活ぶりだった。
そんな状況のなかで、治験による新薬の投与によって、エドワードは、見事に本来の自分の顔を取り戻す。その後は、自分を「ガイ」と名乗り、不動産会社のトップセールスマンになるなど、彼の人生は、180度変わったかのように見えたが、ある日、ガイの前に、以前の彼の醜い顔とそっくり瓜二つの顔をした、オズワルドが現れる。
オズワルドは、以前のエドワードとは違って、その風貌とは裏腹に、明朗快活で、前向きな性格、人生を心から謳歌している。そして、思いを寄せていた女性、イングリッドまでが次第に、オズワルドに心を引き寄せられるようになる。挙句の果てには、俳優業もしていたガイの役をも奪われてしまう始末。
ここ以降からが、この映画の本質を表現していく、重要なチャプターになっている。
このオズワルドの出現によって、ガイは恐らく、自分自身を否定されたように感じたに違いない。ガイは、以前のその顔の風貌に、非常に苦しみ、コンプレックスを抱いてきたにもかかわらず、全く同じ顔をしているオズワルドは、その事を気にしている素振りもなく、むしろ、他人以上に自由奔放に人生を楽しんでいる。それを目の当たりにしたとき、ガイの心の中にあった何かが、ことごとく崩壊していったんだと思う。
そして、その崩壊が、その顔とともに、真に生まれ変わるきっかけになれば良かったが、残念ながら、そうはならなかった。
ガイは、次第にオズワルドを妬み、疎ましく思うようになる。その状況は、以前の自分の顔に対するエドワードの性格そのものとそれほど変わらない。
オズワルドは、ガイに言う。屈託のない、けれど、本質をついた、少しトゲのある言葉、「キミは変わらないなぁ。」。すなわち、「せっかく本来の顔を取り戻したのに、ネガティブな内面(性格)も変わらなければ、その後の人生に意味はないよ。」という、オズワルドのこの何気ない言葉は、何とも考えさせられる。
本来の顔をやっとの思いで手に入れたものの、内面(性格)を変えられずに、その後の人生が開けなかったエドワード(ガイ)と、自分の顔のことは一切気にすることなく、明るく振舞うオズワルド。
この二人の人生描写の対比を通して、いやがうえにも鑑賞する者に、外面(ルッキズム)以上に重要なものは何かという普遍的な問いを投げかけている。
時間つぶしのために適当に選んだが、心の奥底にいつまでも残りそうな、忘れられないような映画だった。人生には、人それぞれ程度の差こそあれ、理不尽なこと、不平等なこと、納得できないこと、様々なことがあって、ストレスが溜まる毎日だと思うが、この映画は、そんなストレスを多少なりとも浄化してくれる、鑑賞して損はない映画だと思う。
【パンフレットを読んで】
エドワードの隣にたまたま住んでいる女性(イングリッド)が、都合よく話しかけてきて、そんなに親しくなるか? とか、オズワルドのような、そんなベリースーパー陽キャラみたいな人間なんているわけないよなぁ。とか、映画「あるある」っぽいことも考えながら鑑賞したのち、購入したパンフレットを読んだら、なんと、このオズワルド役の俳優、アダム・ピアソンさんは、この映画に「素顔」で出演していることがわかり、軽い衝撃を受けました。
てっきり、相手役セバスチャン・スタンと同様に、「特殊メイク」かと思っていて、最後まで気づかなかった。
正直、自身のレビューの最後のほうで、「鑑賞する者に、外面(ルッキズム)以上に重要なものは何かという普遍的な問いを投げかけている。」などと、青臭くて綺麗ごと過ぎる言葉を書いてしまったな、と思ったのですが、オズワルド役の人生を「地で行く」、アダム・ピアソンさんの存在を知ったら、いやいや、「青臭くて綺麗ごと過ぎる」、どころか、至極当然な問いかけであると思い直しました。
全110件中、1~20件目を表示










