今年2009年には満79歳になるクリント・イーストウッドというこの映画作家の凄まじいまでのエネルギーは一体何処から来ているのだろうか?
一向にボルテージが下がる様子がなく、テンションが緩んだユッタリとした老境を感じさせるような作品にもなっておらず、 或いは小粒なスケールの佳作が増えてきたといったような傾向も今のところ皆無である。
映画史上において巨匠、名匠と呼ばれる偉大な映画監督であっても決して避けて通ることが出来なかった加齢から来る作品上に見られる上記のような衰えが全く見られない。
それどころか年齢を重ねる毎に、取り扱うテーマは重くなり(嘗ての様な軽い作品が姿を消してしまったのはちょっと残念だが)、だからと言って決して頭でっかちな映画になっている訳でもなく、また説教臭くなって来ている訳でもない。
老いて益々作品は重厚且つ緻密になり、構成にも隙が見られない。また映画自体もスケールアップしている為、イーストウッドの新作が封切られる度に多くの観客が口を揃えて「前作を上回る出来栄えである。」と意図も容易に言い切ってしまうこととなり、驚きの色が隠せない。
参考までに巨匠、名匠と呼ばれる映画監督で、老齢まで映画を撮り続けた人達の作品と製作時の年齢を以下に示す。
ジョン・フォード監督: シャイアン('64)=69歳、荒野の女たち('66)=71歳
ハワード・ホークス監督: エル・ドラド('66)=71歳、リオ・ロボ('70)=74歳
ジョン・ヒューストン監督: 勝利への脱出('80)=74歳、アニー('82)=76歳、女と男の名誉('85)=79歳、ザ・デッド/『ダブリン市民』('87)より=81歳
ビリー・ワイルダー監督: 悲愁('79)=73歳、バディ・バディ('81)=75歳
アルフレッド・ヒッチコック監督: フレンジー('72)=73歳、ファミリー・プロット('76)=77歳
黒澤明監督:乱('85)= 75歳、夢('90)=80歳、八月の狂詩曲('91)=81歳、まあだだよ('93)=83歳
そしてイーストウッドはと言うと以下に示すような状況だ。
クリント・イーストウッド監督: スペース・カウボーイ('00)-兼主演=70歳、ブラッド・ワーク('02)-兼主演=72歳、ミスティック・リバー('03)-兼音楽=73歳、ピアノ・ブルース('03)=73歳、ミリオンダラー・ベイビー('04)-兼主演=74歳、父親たちの星条旗('06)-兼音楽=76歳、硫黄島からの手紙('06)=76歳、さよなら。いつかわかること('08)-音楽=78歳、チェンジリング('08)-兼音楽=78歳、グラン・トリノ('08)-兼主演=78歳
短期間で撮影を終え、次々と作品を送り出す多作家であるところも未だ変わらず、その驚異的なペースも以前と変わらない。自らのプロダクション(マルパソ)を持つ製作者でもあり、作品によっては主演、音楽も兼ねるというこのエネルギーに対抗し得る映画作家は目下の所、古今東西を探してもちょっと見当たらない。
さて今回の作品はどうだったのかと言えば、一言で言ってその出来の良さに圧倒されてしまった。
イーストウッドの描く一連の犯罪を取り扱ったサスペンス・スリラーとしては珍しい時代物であり、丁度ユニヴァーサル・スタジオが設立され、映画がサイレントからトーキーへと移り変わる1920年代後半のロサンゼルス(ほぼハリウッド近辺である)を舞台にしており、この映画の冒頭に現れるユニヴァーサル映画のトレード・マークも怪奇映画の名作「フランケンシュタイン ('31)」、「魔人ドラキュラ ('31)」、「フランケンシュタインの花嫁 ('35)」、音楽映画の名作「オーケストラの少女 ('37)」やアメリカ時代のヒッチコックの初期傑作「逃走迷路 ('42)」で見られるあの懐かしのマークだ。
誘拐された一人息子を孤独に探し出そうとするシングル・マザーであるクリスティン・コリンズ(アンジェリーナ・ジョリー)の姿を描いた感動的な母物であり、同時に恐るべき史実に基づいた猟奇殺人を描いたかなり陰惨な犯罪劇でもある。これら二つが絡み合いながら進行する内に浮き彫りになって来るのは、当時の警察のずさんな捜査と警察組織自体のあるまじき行為の数々であり、猟奇殺人もさることながら、最も恐ろしいのはそんな捜査記録を組織ぐるみで隠蔽する為の暴力行為であり、警察組織の腐敗ぶりである。この女主人公が受ける数々の受難のシーンをリアルに見せられる内に、観ているこちら側も次第に生理的に耐えられなくなる程の痛み、苦しみ、恐怖を実感させられることとなる。
警察組織の腐敗と言えば、イーストウッドが四半世紀以上も前から「ダーティハリー・シリーズ ('71)~('88)」, 「ガントレット ('77)」等で繰返し描き続けて来たテーマであるが、当時のように法を無視した正義の暴力で悪を一掃すると言ったような勧善懲悪のヒーローも登場せず、アクション派女優として有名なアンジェリーナ・ジョリーも今回に限っては唯ひたすら精神的なタフネス振りを見せることに終始している。
やがて当時の警察組織に対し予てから疑問を抱いていた教会側が彼女に手を差し伸べ、無償で弁護士が付き、またこの猟奇殺人事件の捜査に疑問を抱いた正義感のある一捜査官が立ち上がる。そして最終的には市民運動にまで発展し、映画はクライマックスへと、殺人事件の真相究明と警察側が執った暴力行為が次々と明るみにされる法廷シーンへと進む。この法廷シーンにおける法に則った完全懲悪振りは、爽快さと力強さに満ち溢れており、そこに至るまでに共有体験させられた生理的な不快感が一掃されることとなる。
にも拘らず、どこか心が晴れず曖昧さが残るのは、捉われた20人近い子供たちの内、数人は逃げ出すことに成功したのが分かるのだが、彼女の一人息子は本当に殺害されたのか?或いは逃げ延びて何処かで生きているのか?がこの法廷シーンでは何も証明されないからである。
映画は刑務所に収監されている犯人を死刑前日に訪問し、涙ながらに真相告白を迫るクリスティンの姿を追う。更には死刑執行の模様までもが非常にリアルにこれまた生理的な痛みと不快感の極みを伴いながら厳しくも淡々とした口調で描かれていき、またも映画を観ている観客側に突きつけられる。この辺りは同じくイーストウッド監督作品の「トゥルー・クライム ('99)」を想起させるが、ここでの救いのない痛々しさは、それを遥かに凌駕しており、トルーマン・カポーティ原作、リチャード・ブルックス監督作品「冷血 ('67)」を思わせる程である。
それから数年が経ち、時は1934年の春となり、丁度アカデミー賞の受賞式の夜、フランク・キャプラ監督の名作「或る夜の出来事 ('34)」が「クレオパトラ ('34)」, 「影なき男
('34)」等をおさえて作品賞を受賞したその直後に、クリスティンはあの猟奇殺人事件で捉われた少年の内の一人が今尚生きており、無事に生還したと言う知らせを受ける。
映画の最後では、今や表面的には完全に社会復帰を果たしたクリスティンが、この僅かではあるが小さな希望を抱きつつ、一生涯を一人息子の捜索に費やしたという事実が字幕で知らされ、その深い母親の愛情を感じながらも、非常にやるせない思いと漠然とした不安感を伴いながら終わる。
クリント・イーストウッド程、社会における暴力とその恐怖を生理的な痛みを伴って表現出来る作家は居ない。またその暴力の結果として生じる様々な問題に関しては、漠然とした煮え切らない結末を示すことが多く、不安感を拭えないものが多い。時には明確に回答が示されたりすることもあるが, それは決して絶対的なものではなく、賛否両論を捲き起こし、最終的には観ているこちら側の一人一人の判断に委ねられることが大半である。これもこの作家ならではの特質であり、複雑な社会の問題点をリアルに浮き彫りにしていくといった点において、本質的に過去よりも寧ろ現代の映画製作に非常にマッチしているように思えてならない。
次回作が早くも控えている。4月25日(土)ロードショー公開予定の「グラン・トリノ」だ。
本作では久しぶりに主演も兼ねているから楽しみだ。噂にによると俳優としてはこれを最後にして、今後は監督業に専念する(?)とのことである。
「グラン・トリノ」とは1972年製のフォード車。BIG3全盛時代の象徴のような車である。この映画は朝鮮戦争を経験した後、フォードで自動車工として働き、定年後も日本車に押されて沈みゆくデトロイトに住み着いている頑固老人の最期を綴った古き良き時代のアメリカへの鎮魂歌のような作品らしい。
俳優イーストウッドとして、あのジョン・ウェインが映画の中で自らが演じて来た数々の役柄と共に自己を葬り伝説化させた名作「ラスト・シューティスト('77) (ダーティ・ハリーの)ドン・シーゲル監督」のような作品になるのではないか?と、過去にイーストウッドが好んで演じた役柄の集大成のような映画になっているのではないかと、今からとても楽しみなのである。
既に本国アメリカでは、全イーストウッド作品中過去最高の興行収入を得て上映中とのことである。