同僚たちとおしゃべりをしていたら、寝床に入ってから眠りにつくまで何を考えているか、という話になった。
生真面目な人が「やりかけの仕事が頭から離れなくて困っている」と言った。かわいそうである。でもこの人がすごく仕事ができるのは夜まで律儀に考えているからなのかもわからない。楽天的な人が「頭の中で趣味のゲームをしている。やりこみすぎてけっこう正しいシミュレーションになってる」とこたえた。楽しそうである。あと将棋盤がなくても将棋ができる棋士とかみたいでちょっとかっこいい。
私は「妄想をしています」とこたえた。すると別の一人が「わたしもです」と言う。どんな妄想かと問えば、明日何を着ようかなー、とか、こないだラクガキしたポストイット、職場のデスクの引き出しに入れっぱなしになってるんじゃないかなー、とか、そういうのです、と言う。ラクガキの内容は友人のペットをモデルにした小鳥さんだそうである。
私は真顔になった。それは妄想ではない。想である。妄の字にあやまれ。あいつはいいやつだぞ。とくに役には立ちませんが。
否、妄想というのは本来、現実でない思い込みをさすはずである。私は自分の空想を現実ではないと了解して楽しんでいるのだから、正しくは「現実離れした空想」というべきだろう。
しかし私はそれらをたいへん大切にしている。眠る前の私はどこへでも行ける。寒波が来ているという北海道の、いつか本で読んだ、粉雪が風で彫刻をつくる山の、そのいちばん奥で雪のかたちをながめることができる。戦前の海辺の町に生まれて島まで遠泳できる年齢になるのを心待ちにしている子どもの目で漣を数えることができる。ファンタジーの世界でみなしごとして泥棒をやって暮らし、ある日ドラゴンの子どもと出会うことだってできる。疲れきって旅に出た先のアイルランドの小さなウイスキー醸造所で出会った老人と意気投合し、最終的に醸造所の跡取りになることもできる。
最後のは仕事で疲れたときのお気に入りの空想である。私の中では周辺の景色はもとより、醸造所のようす、その主の顔立ちから服装までが作り込まれている。私の脳の特性なのか、それらの描写はすべて文字である。画像ではない。
私にとっての妄想とはそうしたものである。実際に描いた小鳥さんの絵のことではない。しかしこの人が絵を描くとは知らなかった。私は自分で絵を描くのはからきしだが、観るのは好きなのだ。今度見せてもらおう。
私がそのような内容をかいつまんで話すと、小鳥さんの女性はすこし笑い、遠くへ行きたいんですね、と言う。
いつも遠くへ行きたいのね。
私は少しだけ息を止める。
いつも遠くへ行きたいのではない人なんて、いるのだろうか。
そう思う。しかし私はもう大人で、それはもう、しっかりはっきり大人で、だから遠くへ行きたくない人だっていることを知っている。知っているけれどーー
遠くへ行きたくない人がいるのか。
わたしの姉もそうでした。おそらく娘も。
彼女はそのように言う。
わたしはあの人たちを好きですよ。ふだんは自分のいちばん近しい人だと感じている。子どものころは姉を、親になってからは娘を。
でも、わたしは遠くへ行かない。遠くへ行こうと思っても、わたしの遠くは、それほど遠くない。あの人たちは遠くへ行く。それが当たり前だとでもいうように。目をあけたまま夢を見る機能が、生まれつきそなわっているかのように。
同じ親から生まれた姉が、わたし自身が産んだ娘が、どうしてそんなにわたしと違うんだろうと、ときどきそう思うんです。
私はちょっと困って、それから、自分がさっき考えたことをそのまま口にした。いや、そういう、空想癖というのはですね、自分自身にとっては、いいものですが、別に役には立たないですよ。ほんとに。少しも。
そうでしょうか、と彼女は言う。わたしはね、人間がほんとうに辛いとき、助けになるのは、遠くへ行く力なんじゃないかと、そう思っているんです。わたし自身はたいして苦労もせず生きてきて、だからそれがなくても平気で生きてきたんですが、子どもがいるとニュースを見ても本を読んでも何かと悲観的になりがちでね。子どものためにお金をためて、でもその価値は下がるんだろうなと思って、投資信託を買って、それから思うんです。でもこの子は、遠くへ行ける子だから、円安も投資信託の手数料も運用益の税金が免除になる新NISAも関係ないところへ行ける子なのだから、と。