傘をひらいて、空を

伝聞と嘘とほんとうの話。

遠くへ行きたくなる人よ

 同僚たちとおしゃべりをしていたら、寝床に入ってから眠りにつくまで何を考えているか、という話になった。
 生真面目な人が「やりかけの仕事が頭から離れなくて困っている」と言った。かわいそうである。でもこの人がすごく仕事ができるのは夜まで律儀に考えているからなのかもわからない。楽天的な人が「頭の中で趣味のゲームをしている。やりこみすぎてけっこう正しいシミュレーションになってる」とこたえた。楽しそうである。あと将棋盤がなくても将棋ができる棋士とかみたいでちょっとかっこいい。

 私は「妄想をしています」とこたえた。すると別の一人が「わたしもです」と言う。どんな妄想かと問えば、明日何を着ようかなー、とか、こないだラクガキしたポストイット、職場のデスクの引き出しに入れっぱなしになってるんじゃないかなー、とか、そういうのです、と言う。ラクガキの内容は友人のペットをモデルにした小鳥さんだそうである。
 私は真顔になった。それは妄想ではない。想である。妄の字にあやまれ。あいつはいいやつだぞ。とくに役には立ちませんが。

 否、妄想というのは本来、現実でない思い込みをさすはずである。私は自分の空想を現実ではないと了解して楽しんでいるのだから、正しくは「現実離れした空想」というべきだろう。
 しかし私はそれらをたいへん大切にしている。眠る前の私はどこへでも行ける。寒波が来ているという北海道の、いつか本で読んだ、粉雪が風で彫刻をつくる山の、そのいちばん奥で雪のかたちをながめることができる。戦前の海辺の町に生まれて島まで遠泳できる年齢になるのを心待ちにしている子どもの目で漣を数えることができる。ファンタジーの世界でみなしごとして泥棒をやって暮らし、ある日ドラゴンの子どもと出会うことだってできる。疲れきって旅に出た先のアイルランドの小さなウイスキー醸造所で出会った老人と意気投合し、最終的に醸造所の跡取りになることもできる。
 最後のは仕事で疲れたときのお気に入りの空想である。私の中では周辺の景色はもとより、醸造所のようす、その主の顔立ちから服装までが作り込まれている。私の脳の特性なのか、それらの描写はすべて文字である。画像ではない。
 私にとっての妄想とはそうしたものである。実際に描いた小鳥さんの絵のことではない。しかしこの人が絵を描くとは知らなかった。私は自分で絵を描くのはからきしだが、観るのは好きなのだ。今度見せてもらおう。

 私がそのような内容をかいつまんで話すと、小鳥さんの女性はすこし笑い、遠くへ行きたいんですね、と言う。
 いつも遠くへ行きたいのね。
 私は少しだけ息を止める。
 いつも遠くへ行きたいのではない人なんて、いるのだろうか。
 そう思う。しかし私はもう大人で、それはもう、しっかりはっきり大人で、だから遠くへ行きたくない人だっていることを知っている。知っているけれどーー
 遠くへ行きたくない人がいるのか。

 わたしの姉もそうでした。おそらく娘も。
 彼女はそのように言う。
 わたしはあの人たちを好きですよ。ふだんは自分のいちばん近しい人だと感じている。子どものころは姉を、親になってからは娘を。
 でも、わたしは遠くへ行かない。遠くへ行こうと思っても、わたしの遠くは、それほど遠くない。あの人たちは遠くへ行く。それが当たり前だとでもいうように。目をあけたまま夢を見る機能が、生まれつきそなわっているかのように。
 同じ親から生まれた姉が、わたし自身が産んだ娘が、どうしてそんなにわたしと違うんだろうと、ときどきそう思うんです。

 私はちょっと困って、それから、自分がさっき考えたことをそのまま口にした。いや、そういう、空想癖というのはですね、自分自身にとっては、いいものですが、別に役には立たないですよ。ほんとに。少しも。
 そうでしょうか、と彼女は言う。わたしはね、人間がほんとうに辛いとき、助けになるのは、遠くへ行く力なんじゃないかと、そう思っているんです。わたし自身はたいして苦労もせず生きてきて、だからそれがなくても平気で生きてきたんですが、子どもがいるとニュースを見ても本を読んでも何かと悲観的になりがちでね。子どものためにお金をためて、でもその価値は下がるんだろうなと思って、投資信託を買って、それから思うんです。でもこの子は、遠くへ行ける子だから、円安も投資信託の手数料も運用益の税金が免除になる新NISAも関係ないところへ行ける子なのだから、と。
 

雑煮、あるいは雑煮のようなもの

 弊社はフルリモート勤務がメインの会社で、だからオフィスには、関東圏に住んでいる社員がときどき出社することを想定した席数しかない。そのため年に二回の懇親会は地方在住者に交通費が出る大きな会議のあと、オフィスがあるビルの中の大きな会議室を使用しておこなう。建物の中には弊社と同じような勤務体系の企業が入っていて、物理的な参加者の多い会を開くときには部屋を予約して使うのである。
 仕事でかかわりのある人を見つけて話していて何となし形成されたグループで、ふと会話が途切れた。そこでわたしは無害な話題を振った。
 雑煮の話である。

 弊社はIT関連企業だが、わたしは入社前、文化人類学を専攻していた(お金がなくなって就職した)。弊社ではわたしの経歴はそれほど目立たない。ミイラの研究をしていた博士号持ちのエンジニアだの、元柔道選手の経理だの、不登校・大検から司法試験合格の法務だの、変な経歴の人間がゴロゴロしているからである。採用プロセスに何らかの問題があると思われる。
 フルリモートの企業では居住地が柔軟だから、出身地の分散も大きいと推測できる。そして正月の記憶も新しい一月の懇親会、ならば雑煮だろう。どのような雑煮を食べるか。そもそも雑煮を食べるか。
 案の定、関東風がもっとも多かったが、関西風の人がいて、それから根菜がたっぷり入った具だくさんのすまし汁仕立てのものだという人がいた。鰤か鶏かと尋ねれば鶏だという。具材の詳細を訊き、親御さんのどちらかが、長野県の、そうだな、諏訪のあたりですか、と尋ねると、そうですと言う。
 一人がわたしの過去の専攻について話し、別の一人が「さすがあ」などと言ってくれたが、わたしは院生時代、日本国内の風習を調べていたのではない。東アジアの医療機関で市民と医療従事者のやりとりを記録するなどしていた。
 全然関係ないじゃん、と誰かが笑い、全然関係ないんですよ、とわたしも笑う。雑煮の話は、世間話です。

 わたしがこれまでに食べたことのある雑煮はすべて他人の家の雑煮である。
 わたしは雑煮が出てくる環境に育たなかった。文化的な差異ではない。いや、ある意味で文化的な差異なのだが、行事食が提供されない程度には殺伐とした環境だったのである。
 わたしはそのような環境を、もちろん好ましいとは思わなかったが、痛ましいとも思っていなかった。なにしろ自分にとっては自分の経験が「普通」なのだ。「お正月のある家と、ない家があります」くらいの認識だった。
 わたしはそのような過去の話をほとんど開示しないのだが、それでも少女時代から今に至るまで、いろいろな家に呼ばれてお正月のご馳走を振る舞われてきた。キリスト教圏ではクリスマスに留学生が故郷に帰らずのんびりしていると問答無用で誰かの家のホームパーティーに連行されると聞くが(クリスマスにひとりぼっちの知人を放っておくのは倫理的ではないと考える人がたくさんいるため)、日本人にとっては正月がそうなのかもわからない。
 あるいはわたしには、宿命的に寄る辺のなさがこびりついていて、ある種の人がそれをかぎつけるのかもしれない。
 それでわたしは、関東風関西風はもとより、凍り豆腐が入ったのやら、穴子で出汁を取るのやら、実にいろいろな雑煮を食べる機会を得ることになった。そういう立場を、わたしはそんなにいやではなかった。特定の伝統文化の継承者ではないこと。いつも来客であること。好意で何かを提供される者であること。

 うちは雑煮もおせちもナシです。誰も好きじゃないから。
 誰かがそう言う。いいですね、とわたしは言う。そしたら何を食べますか。年末年始休暇はなんとなくこれを食べる、というのはありますか。すき焼きや蟹が多いですが、もちろんそうじゃなくても。
 うちは必ずソフトクリームを食べます。車だしてミニストップに買いに行ってまで、なぜか絶対食べる。うん、あらかじめ買えるソフトクリーム風のアイスは、緊急時以外不可ですね。ミニストップじゃなくていいんですけど、その場でにゅーってする、あの「ソフトクリーム」である必要がある。あとほぼ確実に豚の角煮を煮ます、母も祖母もやってました。
 その答えを聞いて、その場の全員がどよめく。いいですね、とわたしは言う。沖縄にご縁がある? ない。なくて豚の角煮。いいですねえ。
 わたしは他人のオリジナルの正月の風習がとても好きで、個人的に収集している。個人が生活していていつのまにか形成する習慣は、伝統と同じくらい興味深い。

浮気と乗り換えと味噌

 妻の梅干しの話を聞いて、味噌のことを考えた。僕はぼんやりしている時間の半分以上は食べもののことを考えている。
 「これでなければいけない」というほどではない。しかし「やはりこれがよい」というものはある。父親の故郷の信州味噌である。信州味噌ならなんでも、とはいかず、わざわざ自分の親(僕の祖父母)から送ってもらっていた。それで僕もその味に慣れてしまい、独立してからも似たものを取り寄せて味噌汁をつくっている。
 僕の場合は親の出身が長野県だったからなのだが、そうでなくても東京の人間の多くは信州味噌がデフォルトであるように思う。多くの人がマルコメやハナマルキを買っている。他の味噌が好きな人はそれこそ親の出身地の味噌になじんでいるのだろう。
 しかし、長野県出身の父親と千葉県出身の母親に育てられた東京育ちの僕は、ときどき八丁味噌がむしょうに食べたくなる。一年間名古屋に出向して、そのときは「これもうまいね」という程度だったものが、東京に戻ってきてしばらくしたら、ときどき発作的に赤だしの味噌汁を欲する身体になっていたのである。遅効性の薬物かなんかかよ。
 名古屋から戻って十数年たつ今でもときどき発作をおこして、赤だしがうまいとわかっている店にかけこむ。

 僕はそのことを、なんとなく家族に言っていない。何も悪いことではないし、妻などは食いしん坊だから、「食べたくなるものが多いのは素晴らしいことだ」と褒めるだろう。
 それでも、なんとなく、後ろめたい。
 それはたぶん、僕が選ばなかった人生の選択肢について想起させるものだからだと思う。
 後悔しているとかやり直したいとか、そういうことではない。もう一度選べるとしても今と同じ道を選ぶ。でも、選ばなかったほうを選んだらどうなっていたかという思いは、残る。それを選んでいたら自分は今ごろ別の人間で、そいつはどんなやつで、どんな幸福を感じているのだろう、というような、夢想が。

 妻と知りあったのは名古屋に出向する少し前で、僕には彼女がいた。つきあいはじめたころには理想的だと思っていた彼女だ。マッチングアプリで想定していた条件をぜんぶちょっとずつ上回っていた。かわいくて、学歴があって、しっかりした企業で働いていて、結婚願望があって。
 そのころの僕は、自分で言うのもなんだけど、同世代の女の子たちからしたら「優良物件」だった。飛び抜けた金持ちじゃない、でも目立った欠点がない、定年まで平均より明瞭に上の収入が見込まれる、優良物件。
 僕は内面の九割、そのポジションに安心感と薄い優越感を持っていた。そうして一割だけ、「堅実な道からはずれてでも挑戦をしてみたい」という欲を持っていた。「恋愛で要求されるリードするとかそういうの、全然好きじゃねえな」とも感じていた。
 その「一割」が部分ではなく卵だとわかってしまったのは、今の妻のせいである。職業はカメラマン、自分ひとりの食い扶持以上の稼ぎは乱高下が当たり前、飛び回っていないとしんどくなる性質で、安定みたいなものには全然興味がない、そういう女だ。ものの考え方が、聞けば理屈は通っているが、常識的ではない。子どもを持ってからは「子どものために保守的になったよ。えらい?」などと言っているが、一般的にはぜんぜんぶっとんだ人のままである。
 子どもは僕の希望で、「僕がメインで育てるから」と説得してどうにか承知してもらってつくった。結婚は事実婚も含めていまだに同意を得られていない。理由は「結婚が嫌いだから」。妻というのは一緒に暮らして子育てする上での便宜上の呼称にすぎない。
 変な女なのである。
 一緒に生活して得のある女ではない。当時の彼女のように、自分も働きながら当たり前の顔して晩ごはんを作ってくれる人では全然ない。出産を承諾してもらえたとしても父親として保護者権限を持つためにはあれこれ手続きをしなくてはならない。
 名古屋出向のあいだ、そのような変な女と当時の彼女を、僕は天秤にかけた。東海道新幹線が新横浜を過ぎたら、品川駅で降りるか東京駅で降りるか決めなくてはならない。品川駅は当時の彼女の家から便がよく、東京駅は今の妻の住まいから近かった。
 そのような経緯で、名古屋時代は僕にとって岐路の象徴になったのだと思う。挑戦や子育てのための転職をせず順調に役職がついていたであろう仕事を、当たり前にするものだと思っていた「普通」の結婚を、相手に「自然に」家事育児の負荷をかけていられる立場を、選ぶことができた時期。
 そんなだから僕は、ひとりで赤だしの味噌汁を食べにいくのである。

元彼のババアの梅干しのこと

 なにごとにも基準はある。わたしの梅干しの味の基本はババアの梅干しである。
 この「ババア」はわたしの祖母ではない。会ったこともなければ名前も知らない鹿児島県のおばあさんで、存命なら百歳を超えているだろう。

 二十代のころにつきあっていた男の子はたいそうおしゃれで、信じられないほど古いマンションに住んでいた。外から見るとお化けが出そうに見えて、中はわりときれいだった。物件選びの決め手は収納力だったと彼は言っていた。だって陽に当たったらぜんぶが悪くなるんだよ、というのが彼の言で、だから居室には衣類のすべてを仕舞えるクローゼットがあったし、玄関にも天井までのシューズクローゼットがついていた。バブル期に景気よく建てられた建物だったのだろう。
 そのシューズクローゼットの上二段には靴が入っておらず、靴が入った段との境目には季節ものの暖房器具などが収納されており、その上には謎のガラスびんや古いバックパックが入っていた。
 あれは何、と訊くと彼はこたえた。あれは非常持ち出し袋とか、ババアの梅干しとか、そういうの。僕は田舎のババアのこと好きだから帰省したらちゃんと訪ねてるんだ。あ、言っとくけど僕は都会の子だよ、天文館で走り回ってたからね。
 東京の人間には何を言っているのかわからないが、要するに彼は地方都市で育ち、祖母は田園地帯に住んでいるということだろう、とわたしは思った。
 わたしはなにがしかの予感をおぼえ、それを食べさせてもらった。そうして思った。本物だ。

 わたしの母方の祖母は同じ都内に住んでいた。彼女も梅仕事はしていが、梅干しはつくっていなかった。祖母は言うのだった。わたしはお友だちの家の庭木からごく普通の青梅をもらって梅酒をつけるのがせいぜいだわね。それなら自分でもそこそこ楽しめるものができあがる。梅干しはそうじゃない。わたしの中に基準があるからね。よい梅干しは、木の才能と人の才能が揃わなくてはできあがらない。探してもなかなか売ってはいない。
 才能って何、と幼い私が訊くと、祖母はすっと目を細め、じきにわかる、とささやいた。世の中には本物がある。それを作るのが才能というものよ。
 お嬢さん育ちだったがその後ずいぶん苦労したという祖母は、ときどきそんなふうに本の中の人のようなことを言うのだった。陽気で小難しいことの嫌いな母の安定した愛情からは得られない、薄暗く光る何かを、わたしはこの祖母から受け取っていたように思う。
 そうはいっても梅干しである。
 祖母は彼女が本物とするさまざまなものを見せるために、定期的にわたしを連れ歩いた。美術館や博物館、百貨店の買いもしないハイブランドのフロア。それらには子どもの目にもうつるほどのエネルギーがあったし、母がときどき祖母からもらってくる正統派の和総菜や(母いわく)ハイカラな洋菓子はわたしの家の食卓を賑わせた。祖母は美しいものが好きで、食い道楽の料理上手だったのだ。その祖母が亡くなったあと、食べてもいない梅干しの話を覚えている子どもがいようか。
 そんなわけでわたしはそのことをすっかり忘れて大人になり、ちゃらちゃらと男の子とつきあい、そうして唐突に「ババアの梅干し」と出会ったのだった。

 わたしは軽薄な若者だったから、他の人を好きになってそれがバレて、鹿児島出身のおしゃれな男の子と別れた。そのことにとくに異論はない。浮気してバレたら、まあ別れますよねと思う。わたしは恒常的な浮気性ではなかったが、つきあっている人がいても飽きるなり何なりして次の人を好きになることはあり、そのような期間を「のりしろ」と呼んでいた。浮気者の一種ではあろう。そのような人間が「のりしろ」の存在を知られて即日彼氏の家を追い出されるのは道理というものである。
 しかしあの梅干しにだけは、いまだ未練がある。
 惜しいことをした、と当時の浮気相手が言う(今の伴侶である)。きみは浮気がバレた瞬間に梅干しのことを考えるべきだった。そのでっかい靴箱からババアの梅干しのガラス瓶をひったくって出るべきだった。「こいつはもらってくぜ、手切れ金だ」とか言って。少なくともおれにはナイスな梅干しを漬けるばあちゃんはいなかった。きみがそうしていたらおれも本物の梅干しを食えたかもしれない。なに、そんな女は当分話のネタになるから、うらまれやしないさ。おれなら酒の席の鉄板の話題にするね。
 わたしは笑う。なんでギルティな側の人間が手切れ金をもらえるんだよ。

緑のベストのサンタクロース

 サンタクロースを見た。おそらく本物である。

 東京の年末はいいものだ。
 わたしがそう感じるのは、年末年始にしなければならないタスクがなく、気詰まりな予定もない、暢気な立場にあるからだろうか。甥姪にお年玉を用意したのはもうずいぶん前のことで、自分たちの子を含め、みな成人して、毎年集まりたがる年齢ではない。
 そんなだから、年末年始に人と会わない。
 大掃除もしない。寒い中でやらなくてもいいからである。秋口にそれに相当する行事を入れている。マンション住まいで掃除の作業はたいしたことがなく、ものを整理整頓して捨てるのが主なので、「棚卸し」と呼んでいる。息子が高校生の時分、近所のスーパーマーケットでアルバイトをしていてこの語に遭遇したとき、「お店でもやるんですか」と訊いて「お店以外のどこでやるの」と笑われたのだそうだ。
 おせち料理なども作らない。子どもが小さいときには年中行事を体験させるために小さいのを予約して買っていた。今ではツマミとしてほしくなった年にだけ買う。あとは雑煮を作るが、そんなのはふだんの晩ごはんより手間がかからない。そうして買ってきた刺身だの、ふだんより少しばかり具材が豪華な鍋だの、瓶詰めの珍味だのを片手にだらだら酒を飲み、締めに雑煮を食べる。二日か三日になると、それらに飽きた連れあいがカレーを煮る。
 それきりである。
 だから年末年始のわたしは気楽で、ことのほか力が抜けている。

 わたしの思う年末年始の美点のひとつは景気の良いことである。
 イルミネーションは無料で惜しげもなく輝き、人々はどことなく華やかに、上機嫌に見える。商店にはプレゼントに適した商品が並び、あるいは初売りで大量に客が訪れて、たくさんのものが買われている。みんなに贈り物の相手がいてみんながお金の心配をしていないかのような、プレゼントをもらえない子どもがいないかのような、幸福な錯覚をおぼえる。道端にサンタクロースなどもいる。大学生の同級生だった連れあいがアルバイトで安っぽいサンタクロースの衣装を着てケーキを売っていたことをなつかしく思い出す。今にして思えばずいぶんと細身の、サイズが合っていない服から手首がにょきっと出ている、頼りないサンタクロースだった。ちょっと腹の出た今のほうが似合うのではないか。

 そう思って、それから、いや、うちの人では貫禄が足らない、と思い直した。
 というのも、目の前を、サンタクロースが横切ったのである。
 真っ白く量の多い髭は繊細な質感で、とてもじゃないけどつけ髭には見えない。肌との境目に浮いた感じがない。長さが鎖骨より少し上までなのも、なにやら自然である。
足元は大きなブーツで、ついた傷を磨きこんで目立たなくしたような風情で、踏みしめているのが乾いたアスファルトなのが惜しい、雪のほうが似合うのに、と思う。
 あちこちに中身を配ったためだろうか、いくぶんへたって少し汚れた大きな袋をかついでいる。例の赤い衣装は店員さんが着るようなものとはまったく異なる重厚感があり、やや陰りのある、ベルベットのような質感の赤だ。そうして、その上から緑色のベストを着ている。
 サンタクロースが通り過ぎる。
 わたしは少し首を曲げてその背中を見送る。
 いかにも着古した手編みのベストで、クリスマスの柄が編みこまれている。あれはなんだろう、サンタクロースの衣装はほんとうは緑色だったと聞いたことがあるから、その名残だろうか。
 背の高い、いくぶん若めのおじいさんだった。ちらと見えた目元は青かったような、そうでなかったような。やさしげな目尻の皺が印象に残った。

 そりゃきっと本物だよ。
 帰って連れあいに話すと、彼はそのように言った。
 野良サンタのクオリティじゃない。プロのサンタクロースだろう。フィンランドにはいると聞くし、日本にもいるのかもしれない。あるいは出稼ぎかもわからない。というか、本来は出稼ぎに来るものだよな。いや稼ぐんじゃなく、放出するんだけども。
 わたしは笑う。

 クリスマスのあと、夜はいっそう静謐で、空気が澄んだ感じがする。わたしはそれが、ことのほか好きである。
少しずつ人が減り、車も減り、二十九日を境に東京のいちばん静かな夜が訪れる。大晦日から元旦にかけては少しだけ騒がしくなるだろうけれど、それもごく短時間のことだ。閑さや岩にしみ入る蝉の声、的な騒ぎにすぎない。
 わたしの好きな、東京の年末年始である。

わたしの人工的な帰省

 「帰省」の準備をする。
 友人たちに連絡を取る。幸い、仲の良かった全員と会えそうだ。といってもわたしを入れて五人だけだから、全員集合が非現実的というわけではない。
 とはいえ一人とは五年ぶり、わたし自身も帰るのは二年ぶりだから、貴重な機会ではある。町はわたしが住んでいた頃からだいぶ様変わりしたけれど、二年に一度は帰るようにしているから、ちゃんと「わたしの町」のままで、あのころからの友だちと変わったところを言い合うのもお決まりの娯楽だ。
 せっかくだからあのころにはなかった、ちょっといい宿に泊まることにする。
 パートナーに宿泊先を送り、「いいでしょ」と言う。
 いいねとパートナーが言う。楽しんでおいで。でもそれは帰省なの?
 帰省と呼んでいる、とわたしはこたえる。もうあなたとも長いから、わたしの内面と同じ用語を使いたいと思うよ、だから帰省と呼ぶよ。

 実際のところ、その町はわたしの生まれ故郷ではない。進学のために引っ越して、修士課程を出るまで六年間いただけの場所である。赤の他人ならぬ赤の他土地だ。でもわたしはその町がとても好きだった。それに十八歳から二十四歳の六年間は、どうかするとゼロ歳から十八歳までと同じくらい、大量の思い出をつくってくれた。第二の故郷という慣用句さえ、その場所にはいくらか軽い。
 そしてわたしには本物の帰省先、すなわち実家はない。わたしは東京都内の、それも賃貸住宅の育ちで、両親はわたしの在学中にさっさとコンパクトな住まいに移った。わたしは都内に就職したが、自分で賃貸を借りる以外の選択肢を思い浮かべもしなかった。
 わたしが出産すると、母は通いで手伝いに来てくれた。狭いけどうちに泊まる? と誘ったのだが、「ほんとうに狭いからいやだ」と平気で断り、「たまにはこの家と赤ちゃん任せて二人で外出しなさいよ。泊まりでもいいわよ。あたし、一人でNetflix観まくりながら子守したい」などと提案するのだった。
 ついでに、パートナーのご両親は彼の実家にあたる一軒家を売って、ちょっと豪華な高齢者向け住宅に入居している。まだ介護は必要ないのだが、そのような高齢者のための住宅があるのだそうだ。
 そんなわけで、わたしたちはときどき、双方にとってなじみのない現在の親たちの住居へ日帰りで赴き、子どもの(親たちにとっては孫の)顔を見せる。そういうのはたとえお正月期間にやったところで帰省とは呼ばないだろう。親たちはまだ元気だから、遊びに来たいときに来ていて、特別な感じもない。

 「帰省」で会うお友だちは正月に実家に帰らなくてもいいの。
 そのように訊かれてわたしはこたえる。ひとりはもともとあの町の近くの人。ひとりはご両親がわりと高齢で、去年実家仕舞いをしたから、今後はお正月ヒマなんだって。あと一人は学生時代から実家と疎遠だったし、もう一人も今は自由だから。
 説明しながら思う。考えてみれば、年末年始の帰省というのは若者に多い習慣なのかもわからない。親戚づきあいがさかんな一族ならもっと強制力があるのだろうけれど、親きょうだいと自分の二世代だけのつきあいなら自分たちのいいようにするだろう。一人っ子なら(わたしもそうだ)よけいに「集まる」感がないし、きょうだいと仲が良いともかぎらない。

 各自が帰りたいところを故郷と呼べばいいのだし、今住んでいるところだけが帰るところ、というのも素敵だと思う。
 もちろん、それは別の誰かにとっては、非現実的なきれいごと、恵まれた人間の戯れ言にすぎないのだろう。
 実家仕舞いをした友だちとは五年ぶりで、彼女はこれまでの年末年始の大半を実家での役割に捧げていた。別の友だちとは、彼女が結婚してから離婚するまで一度も、彼女の夫の同伴なしに会うことができなかった。
 わたしの知らない「イエ」を当然とする世界に、彼女たちは住んでいた。
 わたしが好き勝手できる親のもとに生まれたのはただの幸運だ。パートナーはわたしが選んだが、そのご両親までコミで選んだのではない。パートナーのご両親がわたしたちの過ごしかたをわたしたちの判断にまかせてくれるのはただの幸運である。
 それでも、好きにしたらいいんだ、と思う。
 わたしはもうとうに大人で、大人というのは自分の世界のあり方を決められるものだと、そう思っている。そのために孤独になることも引き受けなければいけないと思っている。
 そんなだから、自分の年末年始を自分の好きにする友人たちと集まれることが、ことのほか嬉しい。孤独になってもやむを得ないと思っているから、よけいに嬉しい。

愛された人

 お話、二つとも、愛情の対象が怖いやつですね。こういう男やこういう女になるのが怖い話でもある。
 かっこいい叔父さん、将来こうなりたいような男だった叔父さんが、ろくでもなかった話
 愛してくれるはずって思い込んでた母親のはずの人が、生んだ子どもに愛どころか関心も向けてなくて、モテとか愛されとかだけ見てた話。
 お二人、打ち合わせしてきたんですか。してない? マジか。
 いやおれの話はそんな、お二人みたいなのではないので。
 普通です。
 普通。

 みんな、あるでしょ、怖いもの。
 僕は高いところが、単純に怖いんですけど。ええ、そうですね。小さいときから。
 ええ、東京タワーに連れて行かれたときも、スカイツリーに連れて行かれたときも、ほら床が透かしになってるところあるでしょ、あんなの近づくだけで髪が太る感じする。
 怖かったですよ。

 はい、おれ生まれたときから東京の人間で。今日みたいな感じで、山や海に遊び行くことはありますけど、住居としては、東京から出たことないです。もう首都高ですか?
 夜景、きれいですね。
 駅の近くでおろしてもらえるんですか。ありがとうございます。
 はい。ええ、どこでも大丈夫です。都心ならだいたいのところから三、四十分で着くんで。ありがとうございます。

 みなさん高所恐怖症の気持ち想像したことあります?
 今も怖いですよ。こんな低い壁の向こうが、奈落なんですから。そこをびゅんびゅん車が走るんだから。まあ今は渋滞気味でノロノロですけど。
 はい。
 ヒマつぶしの話として、言うんですけど、高いところに行ったときの、おれの、あれはね、特定の欲望を持つ人間だけがわかる怖さなんですよ。
 高いところの怖さって。
 あの、よかったら、ああ、その川、これ何て言う川です?
 いい川ですね。
 東京には溢れる川がたくさんあったんだって、習いましたよ、小学校の郷土の学習とか、そういうときに。
 放水路なんかでゆったり流れるように治水したそうですが、上流に行くと今でも迫力がありますよ。
 行ったことがあります。
 山のほうから、ええ、とても多くの水を、雨の後なんかすごいですよ。
 ごうごうと。
 ご覧になってみてください。橋の上から。

 僕は小さいころから、大きい河のそばの、ずいぶんと大きな橋のたもとに住んでおりましてね。はい、車がびゅんびゅん通って、観光客も通るような、大きな橋です。
 ええ、両親がそのたもとに家を構えておりまして。
 当時は安かったのだそうですよ。

 ええ。
 なぜかわからないんですけれども。
 僕はずっと、あの大川に落ちたかったんです。

 なぜでしょうねえ。
 両親も祖父母もずいぶんとかわいがってくれたので、そんなに悪いことも、なかったはずなんですが。

 なぜでしょうねえ。
 七つのころが最初でした。
 僕は寝静まった家を抜けては、その橋の真ん中に行って、橋から身を乗り出して、水面を見下ろしていたものです。

 すこし重心を傾けたら、僕はもういなくなる。

 それがとても安心できる事実で、それを確認して、帰ってあったかい清潔な布団にくるまって寝ました。
 はい。
 落ちてはいません。
 あんなにも美しい誘惑を、その後知らないまま、大人になりました。

 よく、夜中に家族のだいじなものを持って、河に落とす真似をしました。
 金の指輪とか、かばんとか、ポーチとか。
 大事なものを落とす空想を、どうしてもやめれらない。石のついたイヤリングとか、セルロイドのペンとか、機械式の腕時計とか。
 家族がね、帰宅すると玄関先に置いておくんです、だいじなものを。切り子の花瓶の横のトレイに。
 それを持って夜中に橋に行く。怖くて歯が浮く感じがする。落としたら取りに行かなくてはいけない。それが怖い。あんまり怖いと、暑さや寒さがすっと遠ざかる。
 やめれられないまま、家を出て。
 まだ怖いんです。高いところが。

 おれにとっては当たり前の欲望なんです。
 高いところから飛び降りたくなるなんて、当然のことじゃないですか。


 みんなはどうしてそうじゃないんだろう。

 

 ああ、失礼、僕もうおいとましますね。
 今日はありがとうございました。