第20話 ピンぼけ
日光をたっぷりと浴びた瀬戸内海は、きらびやかに輝く。
穏やかな水面を滑るように内火艇が走っていた。舳先には、濃灰色の艟艨が佇んでいる。その艦影は、長らくこの国を代表する戦艦だった長門よりも大きい。有名な海軍歌にある「浮かべる城」そのものの勇姿を前にすると、航空主兵論者の山本五十六でさえも
(ドイツ人に貸してやるのは惜しいな)
と箱入り娘を持つ父親のような顔になってしまう。
山本の周囲に、宇垣纒参謀長や黒島亀人先任参謀は付き添っていなかった。すでに山本は連合艦隊司令長官を退いていた。満州での油田発見後、首相の近衛文麿がホノルルでルーズベルトと会談したことで、対米開戦は寸前で回避された。今の山本はGF長官時代の厳めしさが失われ、飄々とした気配すら漂わせている。
甲板に上がると、ペンキの香りがした。軍楽隊が海行かばを演奏する中、布袋様のような顔立ちの男が山本を出迎えた。
「ご無沙汰しておりました」
遣欧艦隊司令長官の山口多門はおっとりと言う。山本は「これから世話になるよ」と返した。
二人の会話は親しげだった。山口はその顔に見合わず、朝も夜も問わず部下に猛訓練を課す癖があり、「人殺し多聞」の二つ名を持っていた。無能と判断した上官には人を人とも思わぬ態度をとる不遜さも持ち合わせていたが、山本相手には人懐っこさを丸出しにしていた。
二人を結ぶのは、航空部門に通じた「ペラ屋」という共通項だけではない。20代のころ、山口が駐米武官として着任して右も左も分からなかった時分、先輩武官だった山本から薫陶を受けた。10年ほど前のロンドン軍縮交渉でも、山本と山口は英米との妥協の道を探った。海軍で親独派が幅を利かせる中、国際派の二人は一種の同志のような感覚があった。
山口の自室に入ると、山本は問いかけた。
「大和はどうだい」
「こんなフネで贅沢暮らしを送ってしまうと、もうペラ屋に戻れなくなっちまいますよ」
山本は大きな身体を揺すって、「たまには他流試合もいいもんさ」と言った。これからの航海予定と寄港地を事務的に確認した後、山口はぼやいた。
「しかし、ヒットラーの考えていることはよくわからんですな。汎欧州なんて冠した組織に、日本を招くなんて」
遣欧艦隊の目的地はフランスだった。2カ月後に同国で開催される汎欧州条約機構の初会合に、日本首席代表として出席する山本を送り届けるのが表向きの任務だった。
だが、それだけではない。遣欧艦隊はそのまま、フランスに駐留する手筈になっている。英国内戦で大西洋の航路事情が不安定化する中で、ソ連を念頭に置いたPEVO陣営の砲艦外交の一翼を担う狙いがあった。
GF内では、先の大戦で日英同盟に基づいて地中海で船団護衛任務に当たった、第二特務艦隊の再来と評する人間もいた。だが、主に駆逐艦で構成された第二特務艦隊に対し、艦隊の規模はこちらが上回っている。
遣欧艦隊の陣容は、
戦艦 大和
重巡洋艦 高雄、鳥海
軽巡洋艦 矢矧
駆逐艦 秋雲、風雲、朝雲、初月、若月
――と小ぶりながらも有力な水上打撃艦隊として構成されていた。
「ドイツ人は不安なのさ。ロイヤル・ネイヴィーを飲み込んだソ連海軍は、今や数だけでは日米と並ぶだけの陣容だ」
「一年や二年でネルソンの後継者になれるならロシア人も大したものです。江田島の教官を彼らに任せた方がいいかもしれませんね」
山口の軽口を、山本は静かに笑う。その眼には温かみがにじんでいる。
山口を遣欧艦隊司令長官に推挙したのは、山本だった。
山本が永野軍令部総長から遣欧艦隊の人事を相談された際、山口の名前を挙げたのは、ここ一番での勝負強さを見込んでのことだった。候補に挙がっていた他のメンバーの中には、ハンモック・ナンバーは上位であっても、優柔不断な態度を取ったり、決戦直前に心変わりしたりしかねない人間もいた。山口ならば、大和を任せられると判断していた。
山口はここで気になっていたことを尋ねた。
「ところで、山本さん。密約はあったんですか」
山本は呆けた表情で聞き返す。
「なんだいそりゃあ」
「ハルノートの時、ドイツが石油支援を表明してきたでしょう。噂じゃ副総統のヘスも秘密裏に来日していたとか」
「そんな噂があるのか」
「今回の艦隊の派遣だって、秘蔵っ子の大和を繰り出すなんて、貧乏性のウチの海軍にしてはずいぶん気前が良すぎるし」
「だから、油と引き換えに艦隊を送る約束があったんじゃないかって? まさか。与太話だよ」
「与太話ですか」
「俺は聞いたことがないな」
山口は山本の惚け顔をじっと観察した。どうにも博打を打っているときのポーカーフェイスと重なって見えて仕方がなかった。GF長官を辞めても食えないオヤジさんだな、と内心で苦笑する。
会話を無理やり転ずるかのように、山本は脇にやっていた紙袋を押し出した。中の箱には川西屋と屋号が書かれている。
「田舎の饅頭だ」
「長岡のものですか」
「そう。水まんじゅうといってな。饅頭に砂糖をかけて食う。うんめぇぞ」
山口は部屋の外で待機していた主計士官を呼び出した。妙に構えた面の若者だった。短期現役制度で海軍に入隊した男で、最近の異動で大和に着任したばかりだった。
「中曽根君、閣下からの土産だ。昼飯のあとで、みんなで食おう」
男は構えた面のまま、まんじゅう入りの紙箱を受け取った。背をピンと伸ばして敬礼する姿は、まるで青年将校を理想化したようなたたずまいだな、と山口は凡庸な感想を抱いた。
◆ ◇ ◆
1943年10月。フランス南部・ニース。
リゾート都市として知られるこの街は、空から見れば紺碧の地中海と調和するかのように、暖色の色鮮やかな屋根の家々が立ち並ぶ。普段は半袖の観光客も目立つ時期だが、街のいたるところでケピ帽をかぶった仏国家憲兵隊が厳戒態勢を敷き、物々しい雰囲気に包まれていた。
それもそのはず。フランスのペタン政権にとって、初めての国際会議となるPEVOの設立会合がこの街で挙行されていた。独伊仏の三大国を中核に、ハンガリーやルーマニア、ベルギーにオランダといった親独的な中小国がずらりと顔をそろえた。日本やイランも準加盟国として名前を連ねている。
初日は事務総長に選出された名うての汎欧州主義者、リヒャルト・クーデンホーフ=カレルギーが滔々と「欧州における新秩序の建設を我らの手で」といった具合で設立趣意を読み上げた。続く採決で、本部機能はオランダの古都マーストリヒトへの設置が決まり、軍事部門のトップである評議会議長には仏陸軍の重鎮、マキシム・ヴェイガン大将が就任した。
会議は、指揮権のあり方や軍事同盟としての定義から、英国内戦への対応まで幅広く議論するため、3日間の会期が設定されていた。初日のセッションが全て終わると、軍人、役人、報道陣は街に解き放たれ、主だった飲食店をパンパンに埋め尽くした。
「今日のひな壇、ファシストの詰め合わせみたいだったな」
あまり上等とは言えないレストランで、熊のようにガタイのいい大男が苦々しそうに言う。大男は初日の会議を傍聴したものの、カレルギー伯の演説が文字にできないほど退屈だったので機嫌が悪かった。口ひげに泡がつくのも厭わず、ぬくいビールを思いっきりあおった。
「お前んところのボリス王も来ていただろう」
「ボリス王はブルガリアだ。我が祖国は今もなおフォン・ホルティ提督閣下の統治下にあるよ」
「似たようなもんだろう。どうせヒトラーのお仲間さ」
大男は豪快に笑った。彼――アーネスト・ヘミングウェイは周囲から〝パパ〟と呼ばれるのも当然と思えるほどの父性を放っていた。なぜ、神はこの無神経な男に溢れんばかりの文才を与えたもうたのか。精神構造の分析が必要だ。スペイン内戦以来の友人だったロバート・キャパは、端正な顔で考え込んだ。
ヘミングウェイはアメリカの雑誌「コリアーズ」の特約記者、キャパは同誌のお雇いカメラマンとして、ニースに駆けつけていた。コリアーズだけではない。米国やその他の国々の新聞各社も、今回の会議に大勢の人手を繰り出していた。ドイツが主導する新たな外交枠組みは、どんな姿で産声を上げるのか。英国内戦にどんな影響を及ぼすのか。ソ連とどう対峙するのか。会議の一挙手一投足に世界中が注視していたが、二人の視点は違った。平凡な発表文を型どおりに流すために来たわけじゃない。世間をあっと言わせて、新聞社から声がかかるような特ダネを探し求めていた。
キャパはうめく。
「しかし、わが民族の敵はいつ登場するのかな」
キャパはユダヤ系だった。初日の会議には、アドルフ・ヒトラーは最後まで姿を現さなかった。
「コリアーズの編集長にヒトラーを撮ってこなければ、小切手を返してもらうといわれているんだけれど」
「それは結構難題だぞ」
「パパ、なぜだい」
少し頭を捻れば分かるもんだ、とヘミングウェイはつむじの辺りを撫でる。
「なぜ、開催場所がベルリンじゃないのか。軍民のトップにドイツ人を充てないのか。クラウツ臭さを消すために決まっているだろう。だから、ヒトラーの野郎はこそこそ隠れているのさ」
「来なかったら俺は破滅だ」
「無職になったら一緒にキューバで釣りでもしようや」
あんたほど気楽に生きちゃいないよ、とキャパが言い返そうとしたところで、注文していた黒豚のステーキが運ばれてきた。じゅうじゅうと滴る肉汁が鼻をくすぐる。豚というより子羊のようなジューシーさで、二人は瞬く間に平らげてしまった。美食で知られる仏伊に挟まれる街というだけあって、こんな安レストランでもニューヨークなら30ドルは出さなければありつけないメニューが出てくる。
腹が満たされたことで、会話も上向きとなった。
「ロンメルはいい被写体になったんじゃないか」
「うん。あれは良いカネになるね」
ダンケルクに突っ込んだロンメル将軍は、米国でもそれなりの知名度があった。軍事評議会の副議長に選出され、議長のウェイガンとがっちり握手する場面を、キャパはライカで押さえていた。4年前には矛を向け合った軍人同士の和解という場面は、メディア向けにおあつらえ向きのワンシーンだった。
キャパは自然と漏らす。
「でも、あの顔はもっと近くで撮りたいな。パパ、ロンメルにインタビューを申し込んだらどうだい」
それを聞いたヘミングウェイは吹き出したが、しばらくして真面目な顔になった。確かにロンメルは金になるもんな、と独り言をつぶやく。
「ゲッベルス博士が許可するものかね」
思案顔でヘミングウェイは身体を前後にゆすりながら唸った。意外と乗り気だな。キャパはヘミングウェイのためにビールをもう一杯注文した。
「モノは試しさ。仮にOKを取れれば、巻頭4ページ、署名付きは間違いなしだ」
「そりゃあそうだが」
「ロンメルがパパの作品を読んでいれば、意外と受け入れるかも」
「馬鹿、俺の本はナチでは焚書対象だったんだぞ」
言葉とは裏腹に、ヘミングウェイの口元は緩んでいた。ヘミングウェイの筆致は短文を多用するが、これは作家になる前の新聞記者時代の習性が息づいていた。他紙に一泡吹かせるような大物にインタビューすることほど、新聞記者の醍醐味はない。
「ロンメル一行はホテル・サヴォイアに構えているんだったかな」
「パパ、撮影は俺に任せてくれよ」
その時はお前の腕に期待しているぞ、とヘミングウェイはキャパの肩を叩いた後、突然、店内をぐるりと見渡した。
「俺たちの話なんか誰も聞いちゃいないよ」
「いや、そうじゃない」
ヘミングウェイは声を潜めて、キャパに耳打ちする。
「特ダネはもう一つあるかもしれんぞ」
困惑顔のキャパに構わず、ヘミングウェイは続けた。
「さっきの会場で、スペインの時に知り合ったタイムズ――ニューヨークじゃなくてロンドンの方――の古参記者と再会したんだが」
「うん」
「やっこさんによると、英外務省の役人がこのニースに出没しているんだと」
「イギリスが? 連中、会議にも参加していないだろ。一体何のために」
「そりゃあまだわからんがね。はるばるバカンスに来たってことはないだろうさ」
ヘミングウェイは獰猛そうな顔で舌なめずりした。
「少なくとも面白い場面に出会えそうなのは間違いないぜ」
【あとがき】
Pan-Europäische VertragsOrganisationのつづりでPEVO? もっといい綴りがあったら教えてください。
資料代が結構かさみます。部屋に、古本が山積みに。掃除機をかける面積が減って楽です。
アメリカ内戦を描いた映画「シビルウォー」を友人と観に行きました。観たい要素が満遍なくあって、大満足でした。オススメです。
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