エピローグ ふるさと
一九四五年四月。
早朝、薄い霧が富士裾野演習場を包んでいた。冷気が肌を刺す中、天幕には日独両政府のトップが揃っている。
演習開始の合図が始まると、部隊は機敏に動き出した。クルップ製の堅牢な装甲板が朝陽を反射する。日独混成のパンツァーカイルが霊峰富士を征服せんとばかりに進んだ。パーツァーカイルの矛に位置するティーガーⅠが獲物を探す捕食者のようにゆっくりと砲塔を旋回させた。
「一年前を思い出せば、こうして平和に閲兵しているのがウソのようですね」
主賓席で、エルヴィン・ロンメルは隣に座る山本五十六から話しかけられた。
周囲に担がれる格好で総統選挙に出馬したロンメルは、ドイツ将星随一の知名度と甘いフェイスから圧倒的な支持を得て、二代総統に選出された。
就任後、真っ先に訪問したのがソ連だった。英国でヒトラーとスターリンが同じ場所で爆殺されたことで、独ソはいつ全面戦争に突入してもおかしくないほど緊張が高まっていた。
モスクワでモロトフ新首相と会談に臨んだロンメルは、その場で真相解明のための独ソ共同での調査団派遣を提案し、モロトフは快諾した。二人は軍人と外交官と出自こそ大きく違えども、全面戦争を避ける必要があるとの認識では一致していた。
ほどなくして調査団はお手盛りの調査を終え、事件をアイルランド独立派の過激分子による爆破テロと結論付けた報告書を発表した。ジャーナリストの中には、一斉に幹部が姿を消した親衛隊による犯行を疑う者もいたが、真相は闇に葬られたままだ。
ロンメルは山本に頷きながら言う。
「次の世代が戦争を知らずに済む世界をつくりたいものです」
「確かに」
山本は声を下げて続けた。
「ところでソ連にもアウトバーンをつなげるんですって?」
「独ソ親善というやつです。両国間の経済的な結びつきを強めれば、戦争を起こすだけ損になります」
「あんまり独ソで仲良くされると、またウチの内閣が吹き飛ぶから勘弁してくださいよ」
山本の冗談に、ロンメルは苦笑した。ティーガーⅠの発砲音で、二人の会話は途切れた。
合間を見て、ロンメルはトイレを理由に天幕からこっそりと抜けだした。
そして、近くに止めてあった総統専用車に乗り込む。
一人の男がすでに座っていた。
髭をさっぱりと落としたヒトラー、いや、角栄がそこにはいた。ロンメルは声を震わせながら言う。
「オヤジさん、お元気そうで」
「この時代の日本は不便だよ。新潟から来るのにえらくかかっちまった」
角栄はにいっと笑い、白い歯をみせた。ロンメルは慎重に尋ねる。
「事件の後遺症はいかがですか」
「何もないッ。不思議とピンピンしている。この体はよっぽど悪運強いらしいナ」
角栄は体を動きまわして健在ぶりをアピールした。
暗殺事件の結果は、角栄の言葉の通りだった。鞄に仕込まれていた爆弾は作動したものの、厚い机に爆風を塞がれる格好となり、威力がわずかに足りなかった。爆発に巻き込まれて即死したスターリンに対し、ヒトラーは頭を打って卒倒しただけだった。ロンメルは漏らす。
「あの時の機転はさすがでした」
ドイツ本国に搬送中、意識を取り戻した角栄は、状況を把握すると、ロンメルに事前収録していた音源の放送と、時間差で自身の死を公表するよう伝えた。そして、架空のパスポートをつくらせ、そのまま日本へ渡った。
「俺が生きていたとなればソ連も黙ってはいないだろう。ヒトラーも死んだから、奴らも納得しているんだ」
角栄は頭をかく。
「それに、もともとお前に引き継がせるつもりだったから、いいタイミングではあった」
「いいタイミングですか」
ロンメルは呆れた声を出す。命を狙われてそう言える神経の太さは見習いたくても難しそうだった。
「いいか、これからが重要な局面だぞ」
角栄は諭すようにロンメルに言う。
「欧州全体を一つの国家、ヨーロッパ合衆国へと昇華させられれば、戦争なんてつまらないものは起きなくなる。資本の投下だって国境を越えて効率的に行えるようになる。ロンメル、お前にはそういう未来を築いてほしい」
「オヤジさんがつくった条約機構の発展形ですか」
「そうだ。俺のいた世界では、ゆったりとした歩みだったが、あれじゃあダメだ。この世界ならドゴールもいる。うまく連携してやってみてくれ」
角栄は楽しそうに体を揺らした。
「ところで、この不思議な世界をつくったのはヒムラーだったんだろう。元の世界に戻る方法は分かったかい」
「親衛隊の残党を絞り上げていますが、いかんせ当のヒムラーがおっ死んでしまいましたから」
「なかなか、難しいか。まァ、何かの拍子に戻れるだろうさ。引き続き、よろしく頼むよ」
車の外からコンコンと叩く音がした。ロンメルは腕時計をちらりと見た。そろそろ演習が終わる時間だった。
「オヤジさん、そろそろ行かねばなりません」
「そうか」
「どうか身元はバレないようにしてくださいよ。ドイツでも知っているのは一握りです」
「おぅ。今の俺は新潟在住のドイツ人実業家に過ぎん。第一、ヒトラーが新潟で生きているなんて言い出すヤツがいても誰も信じないさ」
「それはそうですね」
二人は屈託なく笑った。車からわずかに漏れた笑い声は、澄み渡った富士の空気に溶け込んでいった。
◇
新潟・柏崎の生家に近いところで一軒家を借りた角栄は、穏やかな日々を過ごしていた。
していた、と表現したのは、回遊魚のようなこの男は、いつまでも隠居生活を送っていられるようなタチではなかったためだ。折しもナチスドイツで民主化選挙が行われたことを契機に、帝国日本でも「バスに乗り遅れるな」を合言葉に各政党が息を吹き返し、衆議院の解散総選挙が年明け早々に行われた。
ある日、角栄はこの世界の選挙風景を観察しようと、柏崎の駅前に行った。
そこでは、小雪が降り注ぐ中、モーニング姿が似合わない青年がミカン箱の上に立って演説していた。チョビ髭は切りそろえられており、タスキはまだ真新しく純白だ。演説はところどころにどもりが混じり、お世辞にも上手いとは言えない。かんじきを履いた人々が行きかうが、誰も立ち止まっていなかった。
青年は、見慣れない白人が立ち止まったのを見て、一瞬戸惑った顔を浮かべた後、必死に声を枯らし始めた。ようやく捕まえた聴衆を逃さんとする気迫が込められていた。
根性は十分。だけど、それだけじゃあいけない。
角栄は、ツカツカと歩み寄り、青年をミカン箱から引きずり下ろした。何をするんだと抵抗する青年に「いいかッ」と活を入れる。
「よく見ていろ。演説というのはこうやるんだ」
未だに慣れない日本語で、角栄は訴えを始めた。
「みなさーん!」
モンペを着た夫人が不審げな目で角栄を見た。
「越後の人間は、これまで西の海にすとんと落ちる夕日しか見てこなかった」
ヨレヨレの国民服を着た男も立ち止まる。
「いいですかッ、必ず、皆さんに東の海からゆらゆらゆったりと昇る朝日を見せてごらんにいれましょう。約束しましょう。ナニ、どうするのかって。こうすりゃあいいんです」
いつしか聴衆は一〇人近くになっていた。角栄は一拍置き、一同を見渡した。固く握った右手を上げ、視線を集中させた後、勢いよく振り下ろす。腹に力を入れて大声を出した。
「みなさーんッ! この新潟と群馬にある三国峠を切り崩しちまいましょう。そうすれば、日本海の季節風は太平洋側に抜けて、越後に雪は降らなくなる。みんなが大雪に苦しむことはなくなるのであります。切り崩した土は日本海へ持っていって、埋め立てて佐渡を陸続きにさせてしまえばいいのでありますッ! そうでしょう、みなさん」
荒唐無稽な内容ではあったが、聴衆は聞き入っていた。裏日本の生活がいまだ苦しい中で、角栄の話す内容には夢がちりばめられていた。
「これは単なるホラ話ではないッ。雪国での厳しい暮らしを骨の髄まで味わった人間を東京に送り出せば、近い将来に実現する未来であります。どうか、私の隣に立っている青年に一票をやってくださいッ!」
演説の熱気が冷めやらぬ中、角栄は入れ替わる格好で青年をミカン箱に乗せてやった。耳元でささやく。
「今見せたようにやってみろ。帝国とか民主主義とか、偉そうな御託はみんな聞き飽きている。目線を地べたに這いつくばらせて、自分の体験で語ってみろ」
「わ、分かりました」
青年は多少、どもりながらも演説を再開した。
「み、みなさーん! 私が、いま、ご紹介にあずかりました田中角栄でありますッ!」
ずいぶんとキレの良くなった演説を背中で聞きながら、角栄はその場を立ち去った。
その日の夜、風邪をこじらせた角栄は早めに布団に入った。
痛い。急に、胸が締め付けられる思いがした。
徐々に締め付けは強さを増していき、あっという間に息ができないほどになった。布団から這い出ようとしたが、もう、体の先に力が入らなかった。
呼吸は薄くなり、瞼が徐々に重くなる。
寒さの感覚だけが残る中、視界がドス黒く包まれた。
永遠とも思える時間を過ごした後、いつの間にか胸の痛みがなくなっているのに気付いた。
わっと起き上がり、胸の辺りを撫でまわした。
ついで、頭、腕、足と触っていく。五体満足。変わりない。
なんだ。おっ死んじまったかと思ったぞ。安堵のあまり、ふぐりの辺りに自然と手がいった。握ると、ちゃんと二つあった。ふぅ。やれやれ。
……二つ?
「なにッ」
慌てて装束を解くと、確かにそれは二つだった。
アドルフ・ヒトラーの体ではなくなったのか。
ようやく俺は元の世界に戻ってこられたのか。
腕組みしながら考えていると、外から足音が聞こえた。ジッと耳を澄ませば、金属と金属がぶつかる音、さらに何かが燃える音もした。
障子越しに年端も行かぬ少年が、声を張り上げる。角栄に話しかけている様子だった。
「大殿! 本能寺が取り囲まれております! 旗印は桔梗紋にて、惟任日向守様、御謀反!」
なるほど。
角栄は慌てずに、胸元から取り出した扇子をバッと広げた。余裕すら醸し出しつつ、優雅に羽ばたかせる。
さんざん「今太閤」などと持ち上げておきながら、今度は第六天魔王を演じろと来たか。まぁ、いいさ。精いっぱい生き抜いてやる。
日本の内閣総理大臣を舐めるなよ。
もしも田中角栄がヒトラーに転生したら 完
【あとがき】
書き始めた当初は、到底完結出来ねぇだろうなぁと思っていたのですが、皆様のお蔭もあって、ケリをつけられました。
資料として買い集め、今は部屋の片隅に積んでいる角栄本とナチス本を見るにつけ、何か別のものも書けるんじゃないかと妄想しつつ。本作はここで一区切りとしたいと思います。
一年間、お付き合いありがとうございました。
書籍版
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