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端的に言えば、教育は失敗した。
ウエンディ王女は、派遣された家庭教師をにこにこと出迎え、そして、それだけだった。
座学では本を手に取ることもなく、ダンスやマナーではただ微笑み座っていた。
教師たちは、言葉による知識伝達と共に、出来得る限りの手で彼女に実践を積ませようとしたが、それはかなわなかった。
「どうぞ続けて?」
王女は微笑みながらただそう言った。
カトラリーの持ち方は、とやって見せ、では王女様も、と促すのだが、彼女は手を動かさない。
ダンスのステップは、とやって見せ、では王女様も、と促すのだが、彼女は足を動かさない。
「どうぞ続けて?」
教師たちに出来ることは、ただひたすら、必要な知識を詰め込むために解説を続けるだけだ。
覚書のひとつもとらない彼女に、それら知識がしみこむ様子がなくとも、やるしかない。
宰相ローワンにとって、今更、というのが、推測できる彼女の心中だ。
個人としては、理解できた。
もしも彼女が自分の娘だったら、と、そう考えただけで、胸がふさがれる思いだ。
誰にかえりみられることもなく、愛どころか、存在が無であることなど、許されるべきではない。
それが、嫁に出さねばならないから早急に教育を受けよ、とは、勝手も甚だしい。
知ったことではない、と、自分ならば言うだろう。
しかし、宰相としては頭を抱える事態である。
一カ月ごとに王が進捗を確認し、三カ月目には直々に王女にお叱りがあった。
それが他の誰かであれば、震え上がって即座に命じられた仕事を進めるのだが、ただ、ウエンディ王女には、そんな説教は無意味だった。
当然だ。
王のなんたるかを彼女は知らないし、逆らってふりかかる不利益についても、無頓着だ。
もちろん、庶民に比べれば格段に良い衣食住を与えられていただろうが、庶民の生活そのものを知らないだろうから、それを取り上げられることへの恐れもない。
何より彼女は、知っていた。
自分が今、外交の最大の切り札だと。
勿論、詳細は知らないだろうし、理解もしていないだろう。
彼女に分かるのは、今まで放置していたというのに、今度はよってたかって淑女に仕立てあげ、他国へ嫁がせようとしていることだけ。
それで十分だ。
「分かりました、国王陛下」
彼女は王の苦言にそう答え、けれど、行動を変えはしなかった。
ずっと、ただ、微笑んで、そしてただ、それだけで。
「王よ……いかがしましょう」
残り一カ月となったところで、ローワンは最終判断を仰いだ。
この五カ月で、彼の心中にも少し変化があった。
ウエンディ王女殿下は、もしや、怒りのせいで教育を拒否しているわけではないのではないか、と。
王女は学ばないのではなく、学べないのではないか。
よく考えれば、彼女は三歳の子供と同じだ。
三歳の子に、文字を覚え詩を綴り、ステップを覚え優雅に踊れと誰が言う?
出来もしない要求は、するほうが悪いのだ。
結局、ダリア王女を送ることになるのだろう。
そう思った。
しかし、王が下した決断は、ローワンの想定を超えたところにあった。
「決定は覆らぬ。ウエンディを送る」
「しかし......! しかし、王よ、どうも……私には、あの方が国と国とをとりもつとは思われません」
言葉を選びつつ、ずっと考えていた懸念を伝える。
王女はどうにもなりません、とはとても言えるわけがなかった。
王は、何かを決心したような顔で答えた。
「よいか、よく聞け。
あれは……あれは、病弱であった。だから、王宮の奥深くで、大切に育てた。
体の弱さから、教育もままならず、しかし、近年、特効薬により健康を取り戻した。
大事に大事に育てた、我が掌中の珠であるが、友好の証として嫁がせる」
宰相と側近たちは、しばらく意味が呑み込めなかった。
だが、じわじわと理解される。
この、王であり、父である男は、ウエンディ王女殿下の人生さえ奪おうとしているのだと。
生きてきた時間を消し去り、偽の人生を与え、塗り替えようというのだ。
ローワンは心底恐ろしかった。
王の冷徹さが、ではない。
同じ娘でありながら、片方への愛は、片方への無関心に勝るのだという、人の心の闇のようなものが恐ろしいと思った。
そしてほんの少し、別の恐れも混じる。
こんなことをして、いいわけがない。
一人の王女の人生を踏みつけにして、その上に成り立つ国が、果たして幸福な未来を歩めるだろうか。
「し、しかし、アウリラの要求は、有能な王女ということでございます」
「外交に有能な、だろう。決して言語に優れマナーに優れているという意味ではない。
ウエンディが外交に励めば良いのだ、そうだろう?」
「……それで納得するでしょうか」
「どうせ小国からの要求だ、連合国をかさに着て強気に出ているが、国力はこちらが上だろう。
むやみに戦をしかけてくるとは思えん、抗議されたらこちらも抗議し返せ。
レヴァーゼで最も愛された王女には、その価値があると言い張ればいい」
王の言うことも一理ある、とローワンは思った。
今まで名を聞いたこともない国から、歴史あるレヴァーゼへの尊大な要求に呑み込めないものを感じていたのは、自分も同じだ。
だから、ローワンの答えは決まっていた。
王への返答は、諾以外ありえない。
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ウエンディが『目覚めた』のは、3歳の頃だった。
ちょうど、乳母が引退し、王宮を退けると挨拶をしに来た時のことだ。
「良い子でお過ごしなさい」
おっとりした乳母がそう言った瞬間、頭が割れるように痛んだ。
あまりの痛みに泣き叫んだが、当の乳母は、別れを惜しんでいるのだと勘違いし、
「ごめんなさいね王女様、私には私の子が待っているの」
そう微笑ましそうに言い残して去った。
残されたのは、メイドとウエンディの二人だけで、そのメイドは、ただひたすらウエンディが泣き止むまで壁際に立っていた。
後に分かったが、それが彼女の仕事だった。
メイドは侍女とは違い、身分は平民だ。
王女殿下の身体にみだりに触れることは、禁じられていた。
とにもかくにも、頭痛にのたうち回り、それが唐突に収まった時、ウエンディはすでにウエンディではなかった。
『沢渡雪乃』というのが、認識している自分の名前だ。
ウエンディとしての自覚もあった。
ただ、ウエンディは3歳の何の教育も受けていない幼児でしかなく、自我はほとんどない。
ろくに話しかけられることもないから言語は習得されず、泣いても慰める者はいないため悲しいという感情すら曖昧だ。
ましてや喜びなど知らないし、腹が減ってもそこにどんな名がつくのか知らない。
だから、意識はほとんど雪乃に占められている。
沢渡雪乃は、日本人だった。
ごくごく普通の家庭に生まれ、ごくごく普通に育った。
会社員の母と、教員の父を持ち、それなりの教育を施され、十分な学歴をもって名のある外資系商社に就職をした。
数年で秘書室に異動し、ハイペースで実績を積み上げていたと自負している。
仕事は楽しく、つらいこともあったが、やりがいを感じていた。
恋愛とはやや縁遠かったから、29歳で独身だったけれど、それほどの問題だとは思っていない。
順風満帆というほどではないが、山あり谷ありの当たり前の人生で、いつか結婚することもあるだろう、くらいには楽観的でもあった。
残念ながら、その前に事故で死んでしまったのだが。
さて、そういう訳で、雪乃は日本での生活を29年間してきた記憶がある。
室内の調度品、乳母の存在、メイドの仕事などを眺めるに、ここが貴族以上の環境であることはすぐに分かった。
そして、そうなると、これほどに放置されているのがいかにおかしいことかも理解していた。
最初の内は、そのうち教育が始まるのだろうと呑気に構えていたが、5歳になってもなんの音沙汰もなく、気づけば父にも母にも兄弟にも会ったことがないと首を傾げることになる。
ただ、幼児の体は、とにかく疲れる。
そして眠い。
いつでもどこでも眠れる。
体感時間は、大人よりもずっと短いだろう。
そもそも言葉が話せなかったから、自分から何かアプローチすることもできなかった。
5歳の頃、メイド同士が会話している言葉がようやく聞き取れるようになり、ここが王宮だということ、そしてウエンディが王女であることを知る。
となればもう、決定的におかしい。
こんなに放置されているのは、普通ではない。
それから、メイド達の会話だけではなく、中庭でひとり運動をしながら、こっそりあちこちに足を延ばすようになった。
誰もウエンディがどこで何をしているか、気にかけることはなかったので。
次第に、側妃の子という自分の立場が明らかになり、忘れられた王女としての自覚ができてきたころ、雪乃には二つの選択肢があった。
ひとつは、自分の存在を知らせ、きちんと王女として扱ってもらうこと。
これはまっとうな流れだ。
けれど、雪乃はもうひとつの人生を選んだ。
このまま忘れられることだ。
衣食住は足りている。
そして、自由だ。
これは本当に、心躍るような事実だった。
思えば前世では、物心ついてから死ぬまで、何かを学んでいない時期というのがなかった。
それが、今は自由を余るほど与えられている。
なにしろこの状態は雪乃のせいではないのだから、誰に責められるいわれもない。
雪乃は、王女でありながら、一人の時間を満喫する人生を得たのだ。
とはいえ、さすがに無学はまずい。
この世の記憶が薄いせいか、前世の記憶は生々しく、無知と無学が人をどんなふうにしてしまうのか、よく知っていた。
幸運だったのは、側妃であった実母が、生まれた子のためにと本をたくさん準備してくれていたことだ。
日本では絵本にあたるような、挿絵と単語の書かれた幼児用の学習書から、小学生用の児童書あたりまでが揃えられていて、雪乃はそれを使って文字とある程度の常識を学んだ。
自慢ではないが、学習するということにおいて、受験大国で育った記憶のある雪乃はエキスパートだ。
まあ、当時の努力はほとんど無駄になったけれども。
もちろん、やる気になった時だけだ。
やりたくないときはやらない。
ただ寝て過ごした。
が、正直、暇だった。
なにせやることがない。
残念ながら玩具のようなものもなかったし、淑女として与えられる刺繍道具などもなく、かといって運動用の道具もない。
当たり前だがゲームもないし娯楽本もない。
寝るか、学ぶか。
それで結局、部屋にある分の本は擦り切れるまで読んでしまった。
十四歳になった頃、夜中にこっそり出歩いた裏庭で、メイドの制服を見つけた。
近くの茂みではなにやら男女のひそやかな声がしていて、王宮でこんな馬鹿なことをするメイドの服なら構わないだろうと、それを持って帰った。
彼女がその後どうしたのかは分からないが、前世、そこそこ厳しく仕事をさせられた雪乃には、自業自得としか思えない。
幸いにして、十四歳前後というのは、平民がとっくに働いている頃で、雪乃がその制服を着て歩いても違和感はなかった。
それに、王宮のこんな奥深くに入り込める人間というのは、身元がしっかりしている者ばかりで、いちいち誰何することもないようだった。
それ以降、雪乃はメイド服を着て、昼でもふらりと部屋の外に出た。
収集品で埋め尽くされた部屋で絵画を鑑賞し、彫刻を触り、この国の芸術を堪能した。
会話を盗み聞きし、人々の思想や常識を吸収した。
図書室を発見し、辞書と歴史書を手に入れた。
そして、ようやく、今自分がこのような扱いである理由を知った。
生まれてから五歳まで寵愛をほしいままにしたダリア王女と、最も望まれて生まれてきた正妃の子であるローレンス第四王子の、ほんの隙間に誕生した王女。
ウエンディという子は、10人いる王家の子の中で、唯一忘れられた子であった。
それを知った時、そこはかとないむなしさを覚えた。
雪乃は雪乃の記憶を持つが、ウエンディでもあった。
まだ小さい、三歳までのウエンディは、まるで透明な膜に包まれたような世界にいた。
そこには誰もいなかった。
与えられるのは乳だけ、包まれるのは産着だけ。
愛されも憎まれもしない子。
もしも雪乃が目覚めなければ、今頃ウエンディはどうなっていただろう。
誰とも話さず、字も読めず、楽しいこともつらいことすら知らず、空っぽの時間だけを長く長く過ごす。
それはひとだろうか。
人間と呼べるだろうか。
この王城にいる全ての人々は、人間としてのウエンディを殺したも同然だった。
それなのに。
彼らは、この可哀想な娘に、他国に嫁げと要求した。
面白い、と思う。
自分たちが本当に何をしたのか、彼らは分かっていない。
人間ではないものを、緊張関係にある他国に嫁がせるなんて、危機感が足りていないと言わざるを得ない。
それがただ、ウエンディが人間ではない者になっていると知らないだけだとしても、やはり危機感がないことに変わりはない。
面白いじゃない。
ただ、雪乃は彼らにチャンスを与えることにした。
詰め込まれる教育が、なんの成果もないと示してみたのだ。
常にぼんやりと微笑み、同じ言葉を繰り返し、教えられたことすら実践できない子ですよ、というふりをしたのだ。
実際は、本でも読んだことのない知識を興味深く聞き、知識としては知っていたが実際に見たことのなかったマナーやダンスの動きを観察した。
部屋で一人で復習することもあった。
しかしはた目には、学ぶ気のないお姫様に見えていただろう。
本当にこんな娘を他国に送るつもり?
考え直した方が身のためよ?
そんな気持ちで、ひたすらぼんやりと対応していた。
教師たちは、決して怒鳴ったりはしなかったが、次第に苛立ちを隠さなくなった。
宰相が説得に来て、そのうちやがて父である王が説教に来た。
すべてに同じ対応をした。
このままではまずい、という表情が宰相の顔に浮かぶようになった頃、初めて別の訪問者があった。
それは、すっきりとしたドレスを着こなした、二十歳前後のおっとりした女性で、ダリアと名乗った。
「あなたの姉よ」
彼女はそう雪乃に語り掛け、そしてそのまま──手にした扇で雪乃の頬を打ち据えた。
さすがに驚いた。
優しい顔のまま、いきなり暴力だ。
「ちゃんとしなさい、お前。どうせどこにいても同じなのだから、ちゃんと嫁いでもらわないと困るわ。
そうでしょう?
お前じゃなければ、私になってしまうのだから」
すごいなこいつ。
雪乃は、母は違えど、同じ側妃の子という立場のウエンディを、ダリアが当たり前に見下していることに感心した。
父親の寵愛が原因だろう。
その愛は、正妃の子にまるまる移ってしまったはずだが、それでも五歳まで愛されていたのならば上等だろう。
それに、まるまると言ったが、もしかしたらそうではないのかもしれない。
なにしろ、最もふさわしいダリアを置いて、ウエンディを嫁がせようと決めたのは、父王だ。
それが愛情故でないとは思えない。
そして、ダリアもその自覚がある。
父親の愛の差が、彼女をこんなにも傲慢にしている。
「分かりました、お姉様」
雪乃がそう言うと、彼女は満足そうに帰っていった。
もちろん、言うことをきくつもりはなく、その後も雪乃は同じように教育をやんわりと拒否し続けた。
ダリアはたびたび顔を見せるようになり、そのたびに焦りの色を濃くしながら、雪乃を何度も打ち据えた。
嫁ぐまであとひと月ちょっとという頃、マナーの授業中に、王とダリアが鉢合わせしたことがあった。
雪乃が相変わらずぼんやりと笑っているのを見て、ダリアは泣いた。
そして父に抱き着き、訴えた。
「嫌よ、お父様、私をよそにやらないで!
そんなことのために、語学と外交を学んだのではないわ!
全て……全てこの国とお父様のためなのに、それなのに……!」
「ダリア、泣くでない」
「温かく迎え入れられるなんてとうてい思えないではないですか……!
使者の無礼な対応を私は確かに見ましたわ、あんなに私達を見下している国で、どうして幸せな花嫁になれるでしょう……。
ああ、きっと閉じ込められ、人質として一生を暮らすのです。
嫌……嫌ぁぁぁぁ!」
親と子は抱き合って泣き、それを雪乃は黙って眺めていた。
よくもまあ、と思いながら。
幸福な結婚ではないことを、よくもまあ、平気でウエンディに聞かせられるものだ。
つまりそれは、二人とも、ウエンディがまともな子ではないと考えている証拠だ。
何を言ってもどうせ分からないと思っている。
けれど雪乃は忘れない。
彼らがどれだけウエンディという存在をないがしろにし、人間として扱わず、この先不幸になっても構わない存在だと考えているか、心に刻む。
その直後、ウエンディが正式にアウリラ地方国に嫁ぐことが王により決定された。
彼らは、与えられたチャンスを棒に振ったというわけだ。
だから雪乃は、この国をぶっ潰してやろうと決めた。