3月に開催した「東京の台所2」筆者、大平一枝さんのオンラインイベントで、多くの方から「東京以外の台所も見たい」という声をいただきました。今回は以前から取材希望が多かった「神奈川の台所」を、番外編として5回にわたってお届けします。
〈住人プロフィール〉
61歳(会社員・男性)
賃貸マンション・2LDK・JR東海道線 横浜駅・横浜市神奈川区
入居1年・築年数約30年・妻(自営業・60歳)とのふたり暮らし
結婚以来、ときには妻が単身赴任するなどして互いに忙しく働いてきた。
彼はこの夏に早期退職を選択。妻の還暦も機に、近々夫婦でスペイン巡礼路を歩く予定だ。
とくに40歳くらいまでは、台所にゆっくり立つ余裕もないほど仕事がたてこみ、外食が多かったというが、今は日々、料理を満喫している様子が台所からもわかった。調理家電やご当地調味料、全国の隠れた名産品がひしめきあっている。賑(にぎ)やかでいかにも楽しそうな空間だ。
家は、ずっと賃貸暮らしだ。
旧居も現在の住まいに近い、外階段の3階建ての古いアパートだった。居心地が良く、30年ちかく住んだという。
「狭いのですが、軸足でくるくると回転しながら、ラップを取り出したり、電気ケトルを操作したり、正面で調理したり。身の丈にフィットした狭い台所が大好きでした」と懐かしそうに彼は振り返る。
家を買うという選択肢がない。
「大金をつぎ込むのは怖いですね。自分の価値観が変わることもあるから。そのときは良くても、気に入らなくなったら困るし。車も1988年製の中古を37年間乗ってるんですよ。旧車好きというんじゃなく、たまたま壊れないから乗り続けているだけなんですが」
取材は妻も同席していた。カラカラとよく笑う陽気な人だ。撮影中も、夫婦のかたらいが自然体で、仲むつまじさが伝わる。
ともに料理をするふたりはいかにも、おいしいものに目がなさそうだ。静岡では知られているみかんを発酵させた酢や、名古屋のスーパーでしか買えない粗糖、食肉卸の会社のオリジナルハンバーグなど、珍しいものが次々と出てくる。
29年前に結婚祝いでもらった川口市の鋳物メーカーの鍋は、最近、高い加工代を払ってフッ素樹脂を塗り直してもらったとのこと。
食を楽しむことには投資を惜しまないと見受けたが、私は住人の親しみやすい人柄に乗じて、ついぶしつけに素朴な疑問を投げかけた。──食のほかに、お金は何に使うのですか?
ああそういえばと、彼が初めて気づいたように言う。
「家を買わない分、旅にお金をかけますね。あちこちに行き、カナダ、南アフリカ、アイスランド、パタゴニア。世界地図の四隅は制覇しました」
旅好き。高いホテルには泊まらない。有名なレストランではなく、どこへ行っても「アスク・ローカル」の精神で、地元の味を楽しむ。そして、「フランスのなんでもない店の鯖(さば)サンドイッチがとびきりおいしくて感動」し、帰国後、再現する。そういう旅のスタイルを好むというものさしが、夫婦で一致している。
台所やダイニングの賑やかで楽しげな理由の一端が腑(ふ)に落ちた。

「ポン酢、しろだし、料理本。結婚して初めて知りました」
山口で生まれ育ち、18歳で進学のため上京した。ひとり暮らし歴は長いが、ほとんど料理をせず、調味料は塩と醤油(しょうゆ)しか知らないような生活だった。
「結婚して、ポン酢ってものがあるんだと初めて知った。しろだし、味噌(みそ)、料理本……。全部自分の引き出しにないものばかりでした。今のネットのように、料理の情報もそんなになかったので」
妻がシャトルシェフ(保温調理器具)を買ってきて、さらに目からウロコが落ちるようだった。
「便利でびっくりしました。家電に背中を押され、料理ができた気も。共働きなので、いるほうが作るというスタイルで、少しずつ料理をするようになったとはいえ、今のようによくやるようになったのは50過ぎてから。仕事が暇になり、帰り道に食材を買って料理をするリズムが定着してきました」
最寄りがJR横浜駅という立地も大きい。食材、加工品、調味料、菓子、パン。専門店からスーパーまでそろい、ないものがない。
ちょこちょこと仕事帰りに必要なものを買うので、週末にまとめ買いをする習慣もない。
帰りにスターバックスでコーヒーを飲み、おかわりが安くなる「ワンモアコーヒー」を買って持ち帰る。ゼラチンを加え、コーヒーゼリーを作ったらおいしくできた。
取材の日はホットケーキミックスを使った紅茶風味のスコーンの作り置きがあった。
「思いつきで、ときどき菓子も作ります」
ただし、手間ひまかけた凝ったものは作らない。「こだわって時間をかけたおいしいものより、パパッと、あるものでおいしいものを作れることが大事。“パパッと”が、僕の最優先順位です」と一貫している。
外食や旅先で食べたものも、「やってみようかな」と家でトライすることが多い。
得意の「ざく切りサラダ」は、最初はフランスの船着き場で食べた。ヨーグルトにカレー粉、マヨネーズ、粒マスタード、はちみつを加え、ざくざくと一口大に切った野菜とあえるだけである。
「うまくできないこともあるけれど、おいしいね、あのときの味だねと言われるとやっぱり嬉(うれ)しいです」
ドン・キホーテの燻製(くんせい)ミックスナッツもあれば、西日本でしか買えないカールもある。横浜刑務所の人気製品「横浜刑務所で作ったパスタ」を刑務所まで買いに行くことも。
気取らなくておいしいものがこの家には満載だ。
食卓脇のワゴンに、卓上調味料やカトラリー、よく使うマグとともに一冊のリングノートが差し込まれていた。尋ねると、「食べたものの日記です。気がついたときに夫婦のどちらかが書く。書かない日もあって適当です。……そうだこれ、言われてみれば25年になります」。
ふだんの夕食のメニューから、近所の中華屋で食べたものや、誰かと食べた日は店の名や相手の名を。旅先に持参することも。
「書きっぱなしの置きっぱなしで、そんなに読み返すこともない。たまたま旅行先のタスマニアの文具屋で、売れ残っていたロンリープラネットのカレンダーノートを買って以来、なんとなく25年も続いてしまいました」
窓側の棚にはずらりと過去のノートが並んでいる。
年を重ねるなかでいつか、ままならない事情で旅ができなくなったり、台所に立てなくなったりする日がくるかもしれない。そのとき、このノートはないよりあったほうがずっといい。
豪華な持ち家や車を持たないかわりに、旅を愛し、食を愛した日々が詰まっている。ふたりのものの考え方や、生き方のものさしが、じつはいちばんわかる宝物ではあるまいか。
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