朝日新聞デジタル

「パパッと」作り、まとめ買いはしない。彼の日々ごはんと食事日記〈2〉

LIFE
2025.07.23

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  • 本城直季
    写真家

    現実の都市風景をミニチュアのように撮る独特の撮影手法で知られる。写真集『small planet』(リトルモア)で第32回木村伊兵衛写真賞を受賞。ほかに『Treasure Box』(講談社)など。1978年東京生まれ。

  • 大平一枝
    文筆家

    長野県生まれ。市井の生活者を独自の目線で描くルポルタージュコラム多数。著書に『ジャンク・スタイル』(平凡社)、『人生フルーツサンド』(大和書房)、『注文に時間がかかるカフェ』(ポプラ社)など。本連載は、書き下ろしを加えた『東京の台所』『男と女の台所』(平凡社)、『それでも食べて生きてゆく 東京の台所』(毎日新聞出版)の3冊が書籍化されている。

3月に開催した「東京の台所2」筆者、大平一枝さんのオンラインイベントで、多くの方から「東京以外の台所も見たい」という声をいただきました。今回は以前から取材希望が多かった「神奈川の台所」を、番外編として5回にわたってお届けします。

〈住人プロフィール〉
61歳(会社員・男性)
賃貸マンション・2LDK・JR東海道線 横浜駅・横浜市神奈川区
入居1年・築年数約30年・妻(自営業・60歳)とのふたり暮らし

 結婚以来、ときには妻が単身赴任するなどして互いに忙しく働いてきた。
 彼はこの夏に早期退職を選択。妻の還暦も機に、近々夫婦でスペイン巡礼路を歩く予定だ。

 とくに40歳くらいまでは、台所にゆっくり立つ余裕もないほど仕事がたてこみ、外食が多かったというが、今は日々、料理を満喫している様子が台所からもわかった。調理家電やご当地調味料、全国の隠れた名産品がひしめきあっている。賑(にぎ)やかでいかにも楽しそうな空間だ。

 家は、ずっと賃貸暮らしだ。
 旧居も現在の住まいに近い、外階段の3階建ての古いアパートだった。居心地が良く、30年ちかく住んだという。
 「狭いのですが、軸足でくるくると回転しながら、ラップを取り出したり、電気ケトルを操作したり、正面で調理したり。身の丈にフィットした狭い台所が大好きでした」と懐かしそうに彼は振り返る。

 家を買うという選択肢がない。
 「大金をつぎ込むのは怖いですね。自分の価値観が変わることもあるから。そのときは良くても、気に入らなくなったら困るし。車も1988年製の中古を37年間乗ってるんですよ。旧車好きというんじゃなく、たまたま壊れないから乗り続けているだけなんですが」

 取材は妻も同席していた。カラカラとよく笑う陽気な人だ。撮影中も、夫婦のかたらいが自然体で、仲むつまじさが伝わる。
 ともに料理をするふたりはいかにも、おいしいものに目がなさそうだ。静岡では知られているみかんを発酵させた酢や、名古屋のスーパーでしか買えない粗糖、食肉卸の会社のオリジナルハンバーグなど、珍しいものが次々と出てくる。
 29年前に結婚祝いでもらった川口市の鋳物メーカーの鍋は、最近、高い加工代を払ってフッ素樹脂を塗り直してもらったとのこと。
 食を楽しむことには投資を惜しまないと見受けたが、私は住人の親しみやすい人柄に乗じて、ついぶしつけに素朴な疑問を投げかけた。──食のほかに、お金は何に使うのですか?

 ああそういえばと、彼が初めて気づいたように言う。
 「家を買わない分、旅にお金をかけますね。あちこちに行き、カナダ、南アフリカ、アイスランド、パタゴニア。世界地図の四隅は制覇しました」

 旅好き。高いホテルには泊まらない。有名なレストランではなく、どこへ行っても「アスク・ローカル」の精神で、地元の味を楽しむ。そして、「フランスのなんでもない店の鯖(さば)サンドイッチがとびきりおいしくて感動」し、帰国後、再現する。そういう旅のスタイルを好むというものさしが、夫婦で一致している。
 台所やダイニングの賑やかで楽しげな理由の一端が腑(ふ)に落ちた。

「ポン酢、しろだし、料理本。結婚して初めて知りました」

 山口で生まれ育ち、18歳で進学のため上京した。ひとり暮らし歴は長いが、ほとんど料理をせず、調味料は塩と醤油(しょうゆ)しか知らないような生活だった。
 「結婚して、ポン酢ってものがあるんだと初めて知った。しろだし、味噌(みそ)、料理本……。全部自分の引き出しにないものばかりでした。今のネットのように、料理の情報もそんなになかったので」

 妻がシャトルシェフ(保温調理器具)を買ってきて、さらに目からウロコが落ちるようだった。
 「便利でびっくりしました。家電に背中を押され、料理ができた気も。共働きなので、いるほうが作るというスタイルで、少しずつ料理をするようになったとはいえ、今のようによくやるようになったのは50過ぎてから。仕事が暇になり、帰り道に食材を買って料理をするリズムが定着してきました」

 最寄りがJR横浜駅という立地も大きい。食材、加工品、調味料、菓子、パン。専門店からスーパーまでそろい、ないものがない。

 ちょこちょこと仕事帰りに必要なものを買うので、週末にまとめ買いをする習慣もない。
 帰りにスターバックスでコーヒーを飲み、おかわりが安くなる「ワンモアコーヒー」を買って持ち帰る。ゼラチンを加え、コーヒーゼリーを作ったらおいしくできた。

 取材の日はホットケーキミックスを使った紅茶風味のスコーンの作り置きがあった。
 「思いつきで、ときどき菓子も作ります」

 ただし、手間ひまかけた凝ったものは作らない。「こだわって時間をかけたおいしいものより、パパッと、あるものでおいしいものを作れることが大事。“パパッと”が、僕の最優先順位です」と一貫している。

 外食や旅先で食べたものも、「やってみようかな」と家でトライすることが多い。
 得意の「ざく切りサラダ」は、最初はフランスの船着き場で食べた。ヨーグルトにカレー粉、マヨネーズ、粒マスタード、はちみつを加え、ざくざくと一口大に切った野菜とあえるだけである。
 「うまくできないこともあるけれど、おいしいね、あのときの味だねと言われるとやっぱり嬉(うれ)しいです」

 ドン・キホーテの燻製(くんせい)ミックスナッツもあれば、西日本でしか買えないカールもある。横浜刑務所の人気製品「横浜刑務所で作ったパスタ」を刑務所まで買いに行くことも。
 気取らなくておいしいものがこの家には満載だ。

 食卓脇のワゴンに、卓上調味料やカトラリー、よく使うマグとともに一冊のリングノートが差し込まれていた。尋ねると、「食べたものの日記です。気がついたときに夫婦のどちらかが書く。書かない日もあって適当です。……そうだこれ、言われてみれば25年になります」。

 ふだんの夕食のメニューから、近所の中華屋で食べたものや、誰かと食べた日は店の名や相手の名を。旅先に持参することも。
 「書きっぱなしの置きっぱなしで、そんなに読み返すこともない。たまたま旅行先のタスマニアの文具屋で、売れ残っていたロンリープラネットのカレンダーノートを買って以来、なんとなく25年も続いてしまいました」

 窓側の棚にはずらりと過去のノートが並んでいる。
 年を重ねるなかでいつか、ままならない事情で旅ができなくなったり、台所に立てなくなったりする日がくるかもしれない。そのとき、このノートはないよりあったほうがずっといい。  
 豪華な持ち家や車を持たないかわりに、旅を愛し、食を愛した日々が詰まっている。ふたりのものの考え方や、生き方のものさしが、じつはいちばんわかる宝物ではあるまいか。 

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tai-chan
2025年7月31日 9:21 AM

早期リタイアおめでとうございます。気候の良い混まない時期に、好きな場所に出掛け、好きに時間を使える幸せを満喫して下さい。おすすめは地元民が通う市場、その土地の匂いがするような。ガイドの星が幾つとかに価値を求めるのも良いし、星で表せない価値に重きを置くのも良し、一回きりの人生。愛用の道具達と台所見せていただき、多謝です。

4nBgoHUyBd3d
2025年8月18日 3:39 PM

過去ノートがきちんと並んでいる棚をみるだけでもいままで生きていらっしゃった生活の知恵や工夫が存分にしのばれる。なんともはやうらやましい宝物である。

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tai-chan
2025年7月31日 9:21 AM

早期リタイアおめでとうございます。気候の良い混まない時期に、好きな場所に出掛け、好きに時間を使える幸せを満喫して下さい。おすすめは地元民が通う市場、その土地の匂いがするような。ガイドの星が幾つとかに価値を求めるのも良いし、星で表せない価値に重きを置くのも良し、一回きりの人生。愛用の道具達と台所見せていただき、多謝です。

4nBgoHUyBd3d
2025年8月18日 3:39 PM

過去ノートがきちんと並んでいる棚をみるだけでもいままで生きていらっしゃった生活の知恵や工夫が存分にしのばれる。なんともはやうらやましい宝物である。