電脳塵芥

四方山雑記

政府備蓄米の「古古古米」が「5キロ83円」の情報の出処


https://x.com/kharaguchi/status/1927833656628044151

 もはや陰謀論者系国会議員の一人と言って良い立憲民主の原口一博が上記の様な投稿を行い、果ては産経新聞が「備蓄米は「家畜用だろう?古古古米」「5キロ83円が2千円」 立民・原口一博氏のX物議」という記事を書くまでに至っている。産機の記事は〆に国民民主の玉木の「1年経てば動物のエサ」を泉健太が批判したという事に触れている事から批判的部分を多少は含む内容とは言える。ところで、そもそも「5キロ83円」とは何処から来たのかが欠如しているので、この部分を補っておく。まず政府備蓄米は下記の表の様に5年繰り越した場合には飼料用等として販売されるという流れがある。


https://www.maff.go.jp/j/council/seisaku/syokuryo/250131/attach/pdf/250131-7.pdf

つまり「古古古古古米」になった場合に飼料用等、非主食用に販売される。今回の政府備蓄米放出においては令和3年の「古古古米」が販売されるのであって、この段階の古米が主食用に回されること自体は不思議ではない。なお今回の販売価格は農水省資料では「1万80円 60kg」となっている。そしてこの備蓄米が5年経ち飼料用等に販売される段階での販売金額だが、公表されていない様で公的な資料における金額は見つからなかった。ただ2025年1月末ごろにキヤノングローバル戦略研究所研究主幹の山下 一仁がプレジデントで掲載した記事(後にキャノングローバル研究所のHPにも転載)において”備蓄米は毎年20万トンずつ主食用米(1万5000円/60kg)として買い入れ、放出しなければ5年後にエサ米(1000円/60kg)”と書かれ、「1000円 60kg」という情報が出たことによって備蓄米が飼料用米として出る際の値段が「60kg1000円」と認識された様だ。とはいえ実際にこの値段で備蓄米が売りに出されているかは他資料から確かめることができない為にここではその正確性は不明だ*1。そしてこの「価格」が5月28日ごろに拡散する。


https://x.com/IkawaMototaka/status/1927712243187114404

「井川 意高 サブアカ改め本アカ@IkawaMototaka」は何故か計算を間違えており「5㎏ 16円」と書いているが、16円では1キロあたりの値段だろう。ここら辺の情報を受けて5㎏にすると「83円」だ、というのが冒頭の5月29日の原口の投稿へと繋がったのだろう。「1000円 60kg」が正確な値段なのかは不明だが、その価格が事実に近しいとしても今回放出された「古古古米」ではない為に参照価格としては不適当だ。玉木による「1年経てば動物のエサ」発言を発端として、井川の自民党は「国民を家畜」、原口の「家畜用だろう?」へと繋がっていったのだろうが、「5キロ83円」含めて批判として大きくズレているし、不正確と言わざるを得ない。

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*1:単純に飼料用米における価格からその価格はあり得ないとする主張も見たが、そもそもこれは5年間保存した備蓄米であって飼料用米用途として作られた米の値段とは単純な比較はできない。

クルド人が「日本の温泉文化を壊す」とされている写真は水着着用エリアでの写真だよ


https://x.com/momoiromegapho/status/1929347976079512018

 というのが拡散しているけれども、この写真の場所は「箱根小涌園ユネッサン」という施設における公式曰く「水着で入れる温泉の屋外アミューズメント」という場所となる。つまりはこのクルド人とされる人たちがラッシュガードをつけている事は正しい、というよりもむしろ裸であるほうが不味い施設となる。ちなみにネットでは同箇所で写真を挙げている人が他にもいるように写真撮影も施設側がOKとしてる場所だ。それくらいに荒い投稿なので数多のツッコミを投稿者の「桃色メガホン@momoiromegapho」は受けたのだが、そのツッコミを受けてかタトゥーが問題であるという論旨を明確化している。


https://x.com/momoiromegapho/status/1929409283428368787

なお初めの投稿は「午前10:22 · 2025年6月2日」であり、タトゥーについての投稿は「午後2:26 · 2025年6月2日」となる。この時間差的弁明から「桃色メガホン」は当初投稿については水着を問題にしていたのではないかとも邪推してしまう。ちなみにyoutubeにも「クルド人解体工が日本の温泉文化も壊す」動画を挙げているが説明文にはタトゥーについての文章を入れているものの、動画自体はタトゥーを問題視していない。この動画だけを見れば水着をつけている事を問題視している姿勢が見え隠れする。

なお確かにユネッサンはタトゥーは禁止なのだが、「よくある質問」ではラッシュガード隠せばOKとはある。

とはいえ、手の甲にタトゥーが見えるからダメという判断もあるのかもしれないし、シールなどで隠すべきというならば一応の理はある。一方でこの施設に二人が入れている以上は屋外エリア使用時にNGが出なかったとも考えられるが、施設判断がどこまでこの基準を厳格に適用しているかは不明なので何とも言えない部分はある。入れ墨/タトゥーがあると入れない温泉が多いのは事実だが、ただやはり冒頭の「日本の温泉文化を壊す」は手の甲だけ見えるタトゥーをもってしてそれが「日本の温泉文化を壊す」というのは大仰だろう。最後に脇道だが「桃色メガホン」のyoutubeの説明文には次のようなことが書かれている。

ユネッサンについての桃色メガホンによる動画は「ユネッサン」であることすら動画説明文には存在しない。この動画はなんの「真偽検証」をしたのか疑問だ。貼られている写真のソースすらないしね(本人はまとめサイト無断転載禁止とXのbioに書いているが、この写真も出典を書かないなら無断転載だろう)。

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マクドナルドのちいかわコラボにて、中国人の転売ヤーが大量に頼んだ残骸という画像および動画は転売ヤーの根拠にはなり得ていない


https://x.com/NScVdviPJE71064/status/1923746182687490178

 上記の様な投稿が拡散していた。本題に入る前の前提としてちいかわなどの人気商品は需要が高く、そこに「転売ヤー」が集まって商品を大量購入するという現象は現在の日本ではあり触れた光景であって今回もそのような事が起きた可能性は高いとは考える。ただし転売ヤーは別に中国人だけではなく日本人もいるので「中国人」の強調は投稿者の思想なのだろう。「日本の子ども向けの風習」というならば、こういったお菓子のおまけについているランダムのコレクション商品において、「おまけ」が欲しくてお菓子が捨てられる的な話はそれこそこの手の商品が出始めた時からあったし、別に「日本人」の品が特別高いわけでもないと思うのだが。メルカリで転売副業、みたいな情報商材もあるわけであるし。
 そして本題なのだがこの「一夫多妻男(妻2人)@NScVdviPJE71064」の画像と動画は別の投稿者による無断転載である。画像にある横浜クイーンズスクエア店はスレッズで「川島史靖fumiyasu.kawashima」が5月17日の7時40分に投稿した写真だ。


https://www.threads.com/@fumiyasu.kawashima/post/DJu0a2PPDxG

川島は「転売ヤー」という単語を出しているがそこに「中国人」という単語は存在しない。ところでこの川島の写真なのだが「一夫多妻男(妻2人)」の投稿についているコミュニティノートを見ればわかる様に、ハッピーセットはドリンクはSサイズ(変更不可)、付け加えるならばサイドをポテトにした場合もSサイズ(変更不可)である様で、しかしながらSサイズドリンクは一つのみ(前列左から3つ目)となる。そして目視で確認できるちいかわのオモチャが付いているのは前列左端と前列左から3つ目の2つである。床に落ちているポテトなどを含めて、この写真にはハッピーセットは2つしか映っていないし、川島がいう様にオモチャだけが取られた形跡もない。なのでこの写真は単純に注文数が多かったなどもあり、横浜クイーンズスクエア店のオペレーションが上手く回っていなかったのだろう。それと店員の顔が見えない様に加工されている為にAIではないか的な反応もあったがこれはプライバシー配慮による加工だろう。
 次に動画なのだが、これは横浜ではなく高田馬場駅前店となる。スレッズでは在日香港人の「跳跳貓jumpjumpcat222」による5月17日8時半ごろの投稿が拡散しており、そこには食べ物を無駄にする日本人批判が書かれている。とはいえ、この「跳跳貓」による投稿が初発ではない。おそらく初発となるのは中国のSNSである小紅書で書かれた5月16日15時ごろ投稿だろう。


https://www.xiaohongshu.com/explore/6826d92f00000000120050c2?app_platform=ios&app_version=8.76&share_from_user_hidden=true&xsec_source=app_share&type=video&xsec_token=CBwd7rmt5P0xP_Cyyzx57-sbZ6leu4bwdKyE9QlrMo_gk=&author_share=1&xhsshare=CopyLink&shareRedId=OD1EMjk9OTo2NzUyOTgwNjZHOTc9Rzk5&apptime=1747761704&share_id=3947de520dcf49de942a24e5980a60ad

実際にこの5月16日の高田馬場店のマクドナルドの投稿を検索すると、注文で1,2時間待ちという投稿がいくつか残存している*1。転売屋が大量購入したというよりも、モバイルオーダーやUberによる注文が大量に発生する傍ら、配達員の数が足りずにこうなったというのがおそらく実情だろう。その配達先で転売屋に渡ったかまでは不明だが、この動画をもってして「おまちゃだけ残っていた残骸」というのは、粗雑な推論でしかなく、実態に即していない様に思える。
 実際に転売ヤーが発生してはいるだろうし、大量に積まれたちいかわのオモチャ写真が小紅書には存在するので、転売行為があることは否定しない。ただ産経新聞は今回の動画をネタ元としたであろう「マクドナルドの子供向けセット「ちいかわ」人気で早期終了 食品放棄の映像も、転売目的か」という記事を公開している。その一方で「ハッピーセット騒動、専門家は「もうけにならない」と“転売ヤー説”否定 マクドナルド謝罪も、第2弾の動向に注目」もあったりして、要は元が取れないのではという疑問を語っている専門家もいたりする。いずれにしても事実(転売規模)はよくわからないというところだが、とりあえずは冒頭の「一夫多妻男(妻2人)」の投稿の写真、動画内容を「事実」として拡散させるのは不適当ではないかなと。

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国会議員の「税金(所得税)は2010円」は3日分の歳費(給与)に対しての話だよ


https://x.com/smith_john87277/status/1921352198765588490


https://x.com/kkkfff1234k/status/1898122241436794939

 上記の様な「国会議員が払っている税金(所得税)は2010円」という情報が出回っていたし、今後も使用されるかもしれないので軽くメモしておく。今回の流れの発端はtiktokで「ゼイリシ橋本」が3月7日に公開した「国会議員の給与は税金がいくら引かれているのか? 税理士が解説」という下記の動画だ。


https://www.tiktok.com/@zeirishihashimoto/video/7478999815171493138

「ゼイリシ橋本」は国会議員の明細とされるものを動画内で出して解説しているが、そもそもこれは2019年8月に立花孝志がyoutubeで公開した動画がネタ元となる。当時のことを紹介したデイリースポーツの記事にはこうある。

今回7月分は29日から末日までの3日分で、給料に当たる「歳費・12万5225円」。立花氏は「3日でもらえる給料がこれです」と解説した。
 その右側には、事後使用報告の義務がなく批判が集まっている「文書通信交通滞在費・100万円」と記載されていた。
(略)
 所得税は2010円で、「3日で112万3215円」と報告した。

つまりこの所得税「2010円」は2019年7月に参院選挙が行われた影響で立花が国会議員となった7月29日から31日までの3日分の歳費を紹介している事であり、当然ながら所得税も3日分の歳費にかかった税金でしかない(文書交通費は非課税。なのでこの「100万円」の手当に対しての「庶民的感覚」からの違和感は致し方ないとは思う)。しかしゼイリシ橋本はその部分を抜かして語っているので、冒頭の投稿などの極端ともいえる「税金の低さ」がクローズアップされることに繋がったのだろう。
 それと補足しておくが明細にある文書交通費100万円はその後に政治問題となったが、今現在は法改正がなされて調査研究広報滞在費という名前に変更されて2025年8月1日から施行される。どう変化するかまでは不明だ。

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トインビーが書いていない「民族の神話を学ばなかった民族は、例外なく滅んでいる」についての深堀

 歴史学者アーノルド・J・トインビーが「12、13歳くらいまでに民族の神話を学ばなかった民族は、例外なく滅んでいる」と述べたという言い回しがある。これは既に国会図書館のレファレンスにおいて、

・この言い回しの出典は不明
・類似文言は戸松慶議『生存法則論 :日本民族の世界観. 第1巻 (古事記篇)』(1959)が最古
("中等学校の卒業生にして自国の古典を知らぬ民族は例外なく滅ぶ")

という調査結果が出ている。さらに「ヤシロぶ」という個人ブログにおいて上記のレファレンス結果を受けて「追跡:「古事記ビジネス」に騙り継がれるトインビー「民族の神話」の系譜」という記事が書かれている。「ヤシロぶ」の記事はこの言い回しの調査であり、どの様にこの言い回しが変化したのかがわかる労作だ。

1959 戸松慶議
”中等学校の卒業生にして自国の古典を知らぬ民族は例外なく滅ぶ"
1986 吉川正文
"中等教育を終へたる者にして、その国の古語(古典)を解せざる民族は、例外無く滅びてゆく"
2004 出雲井晶
"12~13歳頃までに自分の国の神話を教えられていない民族は、例外なく滅んでいる"
2007 木原秀成
"12、13才くらいまでにその民族の神話を学ばなかった民族は、例外なく亡んでいる"
2010 竹田恒泰
"十二、三歳までに自分たちの国の神話を教えなかった民族は、百年以内に必ず滅ぶ"
2011 竹田恒泰
"十二、三歳までに民族の神話を学ばなかった民族は、例外なく滅んでいる"
2016 竹田恒泰
"十二、十三歳くらいまでに民族の神話を学ばなかった民族は、例外なく滅んでいる"

この様にこの「トインビー」のものとされる「格言(?)」はレファレンス及び、「ヤシロぶ」において実際には出典が明かされていない、要は捏造格言であるとの結論といえる。ただ現状でも流布していること、また初出とされる戸松慶議周辺に対する補足が出来るのでそれを記しておく。
 この戸松慶議についての検証部分で「ヤシロぶ」は”この文句にトインビー要素はほとんどなく、十中八九、戸松慶議本人の思想が反映された言葉に思えます。検証過程を詳述すると長くなりますのでやめます。”と再検証する側としては困る記述がなされている。なのでここから受け継げるものは特にないので独自に始めるが、このトインビーの戸松本『生存法則論』(古事記編)はレファレンスでは1959年5月に綜合文化協会から刊行されたというが、1952年に大和新聞社から59年版のもととなる本が刊行されている可能性がある。傍証としてしか示せないが1952年には『生存法則論(思想編)』が刊行されており、この思想編は59年版にも存在し、後述する59年版の直前に刊行された戸松の別書籍の巻末には『生存法則論』は59年に全6章の書籍が一定間隔で刊行されているのが確認できる。とはいえ、52年版は国会図書館を含めた各地の図書館、古本屋にはどうにも現存しておらず(「思想編」のみが所蔵、販売)その内容や存在自体が確認しようがない*1。なおこの本を著した戸松慶議は右翼団体「大和党(ダイワトウ)」のトップであり*2、『生存法則論』という書籍は彼の思想、主張が全六章に分けて刊行され、その第1巻が古事記篇ということとなる*3。初出とされる『生存法則論』の刊行年が1952年にまでさかのぼれれば日本で刊行されていたトインビーの書籍は『歴史の研究』1~3巻と限定される。とはいえ、52年版が確認できない以上、52年版=59年版と断言することは出来ない。しかしそのほかの情報から戸松の読んだ本は『歴史の研究』である可能性が高い。そもそも『生存法則論』ではp.3にトインビーは『歴史の研究』を書いたことを記述している。つまりは戸松の「出典」は『歴史の研究』と考えるのが自然だ。
 そして『生存法則論』における「中等学校の卒業生にして~」という記述はレファレンスでははしがきに書かれているとあるが、実は他のページにも存在する。しかし、この記述ははしがきと一致していないという不可思議な現象が起きている。

p.2
「トインビーは「中等学校の卒業生にして自国の古典を知らぬ民族は例外なく滅ぶ」と極言している」
p.107
「トインビーも「中等学校を出たものが、自国の古典を知らぬように教育された国民は、歴史上必ず亡んでいる」と云っている」

この様に戸松によるトインビーのものとされる発言は鍵括弧によって引用の体を外見上はとっているにもかかわらず一致しない。そして実際のところトインビーによる『歴史の研究』において上記の様に引用できる文章は存在しない。つまりは捏造と言える。もしくは戸松としては鍵括弧は引用ではなく、トインビーの主張を戸松なりに「要約」しただけという反論も可能ではあるが、国会図書館デジタルコレクション上の『歴史の研究』において例えば「中等学校」という文言は使用されていないし、それに類する単語としての「学生」もこの様な文脈で使用はされていない。また「古典/神話」「滅ぶ/亡ぶ/滅亡」などの単語で検索したが直接的な表現で戸松の鍵括弧内に相当する場所は見つけられなかった。また「要約」ですらない可能性が戸松の別書籍における書きぶりから挙げられる。戸松は1959年3月刊行の『天皇論 : 国体を破壊する皇室に訴える』*4においてもトインビーの『歴史の研究』について述べている。ただこの『天皇論』という書籍中には次のように「古典」の重要性を語る箇所が複数あるものの、「中等学校の~」というトインビーのものとされる発言は利用されていない。

p.29
"古典教訓が万邦無比、万古不易のものであるかについても何一つ知らなかった。"
p.45-46
"トインビーはその名著「歴史研究」(ママ)の中において、文明の興隆は創造力と統一であると指摘している。この原則からするならば模倣民族の日本の運命は滅亡以外にない事を物語る。創造力の根源は伝統維持とそれを尊重する精神の中に発すものであって、古典や伝統の価値を否定し、これを破壊しようとする日本人の前には創造は成り立ない。近世か現代の日本は西欧崇拝に狂って古典を軽視し、歴史伝統を無視して、日本の生命本質から隔絶された百年であったといって過言ではない。"
p.71-72
"自国の特色を現す古典を学ばずしては、祖国を知ることは勿論、建設することも不可能である。近代人の多くは自国の古典を学ばず、"
p.95
"われわれは古典や歴史伝統を守る理由は、即ちこの永遠につきることなき創造力の源泉を古典が持っているからである。トインビーは文化の興隆は実に創造にありと断言しているのをみてもその価値がわかるであろう。"

上記の複数の引用以外に付け加えるとするならば『天皇論』ではp.90にて、ドイツの歴史学者ランプレヒトの言葉として”低度の文化をもつが、高度の外来文化に接する場合、大概は奔流され滅亡する”という言葉が紹介されている。このランプレヒトの言葉は『生存法則論』におけるp.107のトインビーの「中等学校~」発言のすぐ前に位置していた言葉なのだが(両者で文章の細部は異なる)、『天皇論』においては少しおいてからトインビーは”文化の興隆は例外なく創造力と統一力である”という言葉が紹介されている。事程左様に『天皇論』において戸松は古典の重要性を語る論旨上、トインビーによる「中等学校~」を使用できるタイミングがあるにも関わらず、何故かこの言葉を一切使用していない。もともと存在していない「格言」の様なものであったために意図的かなのかは不明だが、『天皇論』には用いなかったのは重要な事実だろう。なお、”文化の興隆は例外なく創造力と統一力である”という言葉が『天皇論』でも『生存法則論』でもトインビーの言葉として使用されているが、『歴史の研究』においてこのような直接的な言い回しはない。これはランプレヒト*5の言葉として書かれている「低度の文化~」も同一であり、ランプレヒトの邦訳された著作である『近代歴史学』上にはこの言葉通りの言い回しそのもののは存在しない。とはいえ『近代歴史学』p.158には”極めて低い文化をもった民族が、極めて高度の文化を輸入することによって滅亡する”といったように、それに近しい事は書いてはいるので戸松なりにランプレヒトの言葉を解釈して出力された要約が戸松による鍵括弧内の文章なのだろう。つまり戸松によるこの鍵括弧で括ったトインビー引用スタイルは実際の文言がないだけに捏造ともいえるが、ただ戸松によるトインビー言及やランプレヒトの例を見ると一からの捏造というよりも「戸松なりにトインビーを解釈」し、要約及び自身の主張に寄せて記述しているとも考えられる。ただし「中等学校の~」という言い回しはそういった「要約」の可能性は低い。何故ならば実は『天皇論』を「古典」ではなく「神話」という単語で見ていくと次のような言い回しが存在する。

p.48
"神話の滅んだ民族は必ず滅ぶ"

上記の言い回しは『生体法則論』における「中等学校の~」とほぼ同一のものだと言えるが、ここにトインビーからの引用であるとは一言も記されていない。該当箇所は「日本を知らぬ現代日本人」という項目の出だしの一言となり、トインビーによる発言であると付け加えることは十分に可能であるにもかかわらずだ。『天皇論』でトインビーの言葉として「中等学校の~」という言い回しを使用していないことを見ると、この「民族の古典(神話)を」云々をトインビーの格言とするのは正しくなく、戸松による捏造格言と判断して良いだろう。

民族滅亡の三原則

 上記とは別にトインビーが言ったものとされる言葉として「民族滅亡の三原則」というのが紹介される場合がある。この三原則とは大まかに次の様なものだ。

1、理想を失った民族は滅亡する
2、価値を金銭に求める民族は滅亡する
3、歴史を忘れた民族は滅亡する

この言い回しには複数個あるものの、内容そのものはほぼ変わらない。結論から言ってしまえば3番目にある「歴史を忘れた民族は滅亡する」からトインビーが言ったとされる発言と関連付けたに過ぎないものと考えられ、もともとは2010年の『月間致知』にてアサヒビール名誉顧問の中条高徳の言葉として出てきたのが初出だろう*6。これ以前にはこの「三原則」はネット上は見受けられず、またトインビーとしての言葉として現れるのは調べた限りでは2016年1月25日の新エネルギー新聞に掲載された株式会社森のエネルギー研究所の大場龍夫による発言だ。この発言は森のエネルギー研究所に全文掲載されており、第三の原則の後に括弧付で「12、13歳までに民族の神話を~」も挿入されている。果たして大場がこの三原則をトインビーと関連付けた人物なのかまでは不明だが、このころにはトインビーの言葉として一部で流布している事がわかる。なお大場の発言は2016年だが、実際にネット上で複数の流布を確認できるのは2020年代以降となる。例えばX上では「民族 三原則 トインビー」(2023年12月31日まで)という検索では2019年の投稿が一つだけ引っかかるが、それ以外は2020年以降に増えてくる。またグーグルの検索では2018年における日本APRA総会(人が輝く経営実践会)でこの発言が見られるが、それ以外の多くは20年代以降のHPだ。例えば戦国マーケティング会社(2020年12月)、テンミニッツTV(2021年3月)、EXTECH(2022年3月)、仕組み経営(2023年1月)、THE GOLD ONLINE(2023年8月)などなど。そしてこれらの民族滅亡の三原則が紹介されているHPの多くには共通点がある。テンミニッツTVは10分で学べる教養を売りにしたサイトだが、その他は企業経営にまつわる情報としてこの三原則を紹介している。どうにもいつからか経営者やビジネスマン向けの言葉として、例えば「滅びる会社の3原則」のような紹介の仕方で広まっている模様だ。おそらくこの「倒産」と関連付けという意味では、2018年3月号の『致知』においては鳥羽博道ドトールコーヒー名誉会長)と越智直正(タビオ会長)でこの三原則と共に倒産について語られたのが起点だろう*7。この鳥羽と越智の対談においてはトインビーとの関連付けはされていないが、倒産と組み合わせて経営者、ビジネスマン向けの言葉としての流布はこのあたりとなるのだろう。
 この「トインビーの民族滅亡の三原則」が訂正されずにこのまま「定番」の語り口として生き残っていけば、より広がっていく可能性のあるものだろう。なお、単語を初めて紹介した致知のX上の投稿では2022年における投稿でこの三原則を紹介しているが、当然ながら中條高德の言葉としている。

おまけ:「ケマル・アタテュルク」の言葉?

 トインビーのwikipediaの記事には2025年現在「民族の神話を学ばなかった民族は例外なく滅んでいる」という項目があって三原則なども紹介されているのだが、最後に”類似した言葉がイスタンブール軍事博物館にてケマル・アタテュルクの言葉として掲示されている”とある。その言葉はトルコ語で”Tarihini bilmeyen bir millet yok olmaya mahkumdur.(歴史を知らない国家は滅亡する(自動翻訳))”となっている。ケマル・アタテュルクトルコ共和国の初代大統領であり、のちにはケマル主義という言葉も生まれていたりするのだが、実はこのケマル・アタテュルクはトインビーの『歴史の研究』にも名前が出てくる人物である。ただトインビーの書籍にはケマル・アタテュルクの言葉は紹介されていないので、この線からの戸松への伝播もない。というよりも、このケマル・アタテュルクによる"”Tarihini bilmeyen bir millet yok olmaya mahkumdur."だが、現地のネットや多少の書籍には使用されている「名言」であることは事実だが、実はどこにもその出典は書かれていない言葉となる。また英語でケマル・アタテュルクの名言を検索すると、どうにもこの言い回しの英語バージョンは存在しない。ネット上だと2009年ごろには使用されていたようだが、膾炙はしているが出典が見えてこない「怪しい」言葉と言える。「おまけ」なので、このケマル・アタテュルクの文言の検証はここまでにするが、この種の言葉はくすぐるものがやはりあるらしい。

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*1:ちなみに拓殖大学図書館において刊行年が1952年の『生存法則論, 第1巻 古事記篇』がHP上では見えるが、問い合わせたところこれは1959年版であり、1952年は誤りとの事だった。」

*2:「大和党」は「中和党」からの名称変更によるもの。この「大和党」ものちに名称が変更され、その外郭団体として綜合文化協会が出来るに至る。

*3:なお52年版での1巻は思想編であり、59年版とは章の順序が異なっていたようだ。

*4:ちなみにだが1959年の『生存法則論 古事記編』は1959年5月刊行

*5:国会図書館のデータベーズ上においては「ラムプレヒト」と記述されている。調べるならばこちらの単語で検索のこと。

*6:紙面は確認していないが、X上だと2010年3月の投稿においてこの旨の発言が確認できる。https://x.com/yudebiifun/status/10122877625https://x.com/hikimichi/status/10242499052

*7:例えばhttps://www.facebook.com/t.yonep/posts/2081212948572223https://x.com/otasuke888/status/968633902775463936https://x.com/Shinji58775678/status/1430056384863752203で確認できる

学校給食時の「いただきます」が廃止されたという都市伝説に関する検証


https://www.threads.com/@hirosasaki_official/post/DItgf2aSeMb


https://x.com/pirooooon3/status/1905167983061897377


https://x.com/kennoguchi0821/status/1862401236672331787

 以上の様に学校給食の際における「いただきます」を廃止するという情報がここ最近定期的に拡散している。一番最初に挙げたスレッズの「hirosasaki_official」に至っては「ニュース」で言っていたというが少なくとも新聞、テレビメディアでその様な「ニュース」は存在しない。ところで「ここ最近」とは記したものの、この学校給食時の「いただきます」を廃止し、そしてその理由を「給食費を払っている」という親からのクレームという話は20年以上前から流布している出所不確かな怪情報である。結論から言えば実際にこの様なクレームがあったかは不明であり、実際に「いただきます」を廃止した学校が実在したかも不明であり、実在の確認できない「都市伝説」といえる。ただし、この「都市伝説」の原型となったかもしれない学校給食時における「合掌」号令の廃止は存在する。以下、この「都市伝説」が形成されていく過程を見ていこう。

学校給食時における「合掌」号令の廃止

 学校給食時における号令について「いただきます」の廃止ではなく宗教行為としての「合掌」を問題視して、その廃止が行われているという事案が存在した。それが発生するのが96~97年なのだが、その話に行く前に90年代初頭に学校給食時における所作が「宗教行為」であるから問題視されているという言説が確認できる。それが1993年刊行の永六輔『もっとしっかり、日本人』の次の箇所だ。

 戦争中、国民学校のお昼の食事の時間、私はごはんを食べるときに手を合わせまして、「お父さん、お母さんありがとうございます。お百姓さんご苦労様でした」。まだあります。「戦地の兵隊さんありがとう。いただきまぁーす」というのが、食事の前の作法でした。
 で、上級生になりますと、ちょっと節がついて、覚えていらっしゃる方もおいでかと思います。「箸取らば、天地御世の恩恵み、父と母との恩を味わえ。いただきまぁーす」って食べてました。そして「ごちそうさま」で終わりましたね。
 今、これを義務教育の中に持ち込んではいけないという考え方があるんです。なぜやならないかというと、特定の宗教行為だからというんです。だから、給食の時にピーッと笛吹いて食べ始め、食べ終わるとまた、ピーっと笛を吹くという、そんな学校があると聞きました。(p.176)

ここで言う永六輔の主張は「手を合わせる → 感謝の言葉を言っていただきます」という部分が宗教行為に当たるからやめさせている学校があるというものだろう。ただ注意しなければいけないのは永六輔自身は「そんな学校があると聞きました」という伝聞調であって実在するかの確認はされていない。また永六輔がここでいう「宗教行為」のうち所作の全てがそれにあたるのか、それとも手を合わせる行為なのか、「いただきます」を含めた文言などがそれにあたるのかまでは不明だ。ただ別の資料を見る限りは「手を合わせる」行為を宗教行為として見なしている可能性は高い。つまりターゲットとなったのは「いただきます」ではなく「手を合わせる」行為となる。その資料が1997年のHIRO'S HOME PAGEという個人HPにおける次の記述だ。

7,8年前になるか,永六輔氏の講演で,「最近の学校では,給食を食べ始める時に太鼓や笛を合図に食べ始める。手を合わせることが宗教行為になるかららしい」という話を聞いた。

1997年更新での7、8年前となり、90年あたりのこととなる。「講演」という事と、またそもそも永の『もっとしっかり、日本人』がNHKの「視点・論点」の語りを文章化した書籍であるという事を考えると、この話は90年代初頭の永六輔の彼持ちネタの様なものだったのだろう。なお手を合わせることが宗教行為の「可能性が高い」と書いたが7、8年前という昔の話である事に加え、97年当時には実際に給食時の「合掌」そのものをやめた地域があるためにHIROの認知がそちらに引っ張られた可能性も存在する。
 1996年4月、富山市に引っ越してきた男性が「入学のしおり」に書いてあった日直の仕事の次の文言に疑問を覚える。

先生の給食を準備する。合掌の号令をかける(p.5)

男性は市立中学校に対して「合掌」仏教の礼拝形式であるという手紙を送り、公立中学校で行うことは憲法第20条、教育基本法第9条に違反する旨などを伝え、中学校では職員会議を開き、賛否両論が出る中でこの「合掌」の号令をやめさせるに至る。合掌号令後は生徒各々が頭を下げたり、合掌をしたりして食べ始めているという。新聞として報じたのは1996年7月8日の朝日新聞東京朝刊「「合掌」号令 さあ給食」が初であり、また関係者などに取材を行った1999年刊行の菅原伸郎『宗教をどう教えるか』がある。詳細が気になる方はこちらを当たっていただきたい。なおこれを書いてる身としてはそもそも給食時における「合掌」の号令という行為そのものに馴染みがなくよくわからなかったのだが、菅原によれば滋賀県北部から新潟県西部にかけての学校においては給食時に「合掌」という号令をかける作法が広く行われていたという。


石川県珠洲市の学校。菅原伸郎『宗教をどう教えるか』より

県は違うが石川県珠洲市においては日直が「合掌」という号令を行い、その後に全員が手を合わせて「いただきます」という流れが紹介されている*1。富山も同様の流れだったのだろう。そしてこの富山県の市立中学校における「合掌」号令の廃止はその後に別の小中学校にも広まったようで、当時県議会で話されるほどの問題と化していた。また産経新聞では1998年7月28日(東京朝刊)では「【教育再興】(77)宗教と伝統文化(5)消えた合掌 一部の反対に過剰反応」という見出しを用いて批判的に取り上げていると言って良い。またこの産経の記事においては担任の指導において給食当番の生徒が「気をつけ、いただきます」、「気をつけ、礼」などで食事を始めているが、「いただきます」という声は一部の生徒からしか上がらなくなっていると述べている。またこの1998年からは少し時代は経つが2001年10月31日の衆議院文部科学委員会では当時民主党所属の山谷えり子、2002年7月4日の衆議院憲法調査会政治の基本機構のあり方に関する調査小委員会では八木秀次がこの件について教育基本法と絡めた質問に利用している。山谷えり子はこの質問を受けて当時の産経新聞でも記事に扱われており、この「合掌」号令の廃止は保守系からの反発を呼んだといえるし、数年後に教育基本法とも絡ませて利用されるなどの影響を残したと言って良い。
 以上が学校給食時における実際にあった「合掌」号令の廃止となる。産経の記事などを読むと「合掌」という合図がなくなった為に副次的に一斉の「いただきます」もなくなったようではあるが、しかしこれを「いただきます」の廃止というのは少々異なるだろう。またその廃止要望理由は「宗教行為」であって「給食費を払っているから」では決してない。話題そのものは1996年に発生したがすぐに話題から消えている。00年代初頭まで保守派が使用したわけではあるが、この「合掌」号令の廃止が今現在に生き残った言説とまでは言えない。ただ一つだけ受け継がれているものはある。それが「いただきます」という言葉に対する意味付けだ。「いただきます」には「命を頂く」という行為に対する祈りがあるといったもので、永六輔などはこの説話に持っていくための「不道徳/不信心」的な前振りとして機能させているし、朝日新聞東京地方版/新潟 1997.6.13「いただきます」においても富山の例を挙げた記事の中で類似の事を書いている。語源の話にまでは立ち入らないが、この言説そのものが道徳的なものへと接続しやすいことは指摘しておく。

給食費を支払っているのだから「いただきます」を廃止

 そして今流布している学校給食における「いただきます」の廃止だが、この言説の大きな特徴が保護者から「給食費」を払っているんだから子どもに「いただきます」を言わせるな、という「非常識な親」の存在だろう。まずこの言説と極めて似ている話は1998年に確認できる。それが歴史教育学者で新しい歴史教科書をつくる会の会長を務めたこともある杉原誠四郎によるものだ。1998年2月の『世界平和研究 冬季』に記録された「政教分離と宗教教育のあり方」には次の様なエピソードが紹介されている。

現在では、極端な場合は、学校給食のときの次のような例があります。先生が食事の前に「いただきます」と言ったら、ある生徒が「私はいただきますとは言いません」 と言ったというのです。 なぜかと問うてみると、「私は給食費を払っていますから、いただきますという必要はありません」 という論理です。確かに経済的に見れば、「いただきます」という意味は、人からもらうことであり、 そういう理屈の上ではあっているかもしれません。子どもの中には「いただきます」という言葉の中に、「人のおせわになって生きています」 という意味が育っていなかったということです。

なおこの論説の最後に1997年10月18日発表となっている事から書かれたのは1997年となる。またこれも杉原自身が経験したことではなく伝聞となる。ただこの言説が今と異なるのは給食費を払っているから「いただきます」と言わないと教師に言った人物が保護者ではなく生徒であるという事だ。個人的には保護者が言うよりも反抗的思春期の学生が言い放った言葉としてならありえそうであるとは思うが、しかしいずれにしても実在性は不確かとしか言いようがない。ただこの生徒が言ったという言説は杉原のこのエピソード以外には見えない。物語としてのヒキが弱かったのだろう。なお杉原は『PAX』という雑誌(1999年10月号)の「道徳教育は子供の幸福を願って行うものだ」において"「いただきます」すら宗教的だから、言わないように指導しています"といったり、2000年1月の『「新しい道徳教育」への提言 : 「人格教育」をどう進めるか』においても給食の時間に「いただきます」をいうのが宗教に関わるとして中止されたと書いている。これは富山県の「合掌」号令の事例を挙げているのだろうが、「いただきます」そのものが宗教行為とされてはいないので厳密性には欠けるし、97年に披露した生徒による給食費エピソードの方はされていないのはやや不思議ではある。なお念のため付け加えておくが、杉原が関わったこれらの書籍はいずれも旧統一教会系の書籍となる。なお脇道ではあるが、『PAX』の1996年9月号(p.7)によれば世界日報が1996年7月26日とりあげ、その記事を思われるものが転載されているが、「合掌」と記述されておりこの時点では「いただきます」という言葉は記事には登場していない。杉原はわかりやすくするために意図的に「いただきます」に言い換えている可能性を指摘できる。
 次にこの話が見えるのが2000年と2001年。エピソードを披露したのは双方ともに同じ人物であり、それが当時の自民党議員である高市早苗となる。現在確認できている一番古い情報であることから画像でその内容を紹介しよう。

これは2000年4月号の『財界』(p.156)におけるものだ。ここでは奈良市の小学校の授業参観日にて、給食時間に生徒が「いただきます」といった際に親が給食費と関連付けて文句を言ったというものとなる。なおこのエピソードも「~というのです」と伝聞調だ。そして2001年は月刊カレント5月号において次の様に語っている。

給食の際に「いただきます」というのは、どこでも見かける光景です。ところがある学校で、「誰に向かって『いただきます』と言わせているんだ。二度と言わせるな」と怒鳴り込んできた親御さんがいたそうです。「給食費を払っているのは親だから、親がいないところでそんなことを言わせるな」ということなんですね。
(p.8)

高市のこのエピソードで気になる点として、親の発言が微妙に異なっているところだ。2001年版では親から強い憤りを感じ、より印象的に「モンスターペアレント」感が演出されているともとれる。ただ話の大筋に変化はそこまでみられないので高市がエピソードを話しやすい様に加工したための変化であるとも考えられる。月刊カレントは矢野弾との対談形式なのでこのような変化も十分あり得るだろう。それと注意すべきは2000年の記事見出しは「教育勅語の精神を」、2001年は「大きく動き出す21世紀日本の教育」という対談テーマであって、いずれも戦後教育によって今の教育は堕落したとでもいうべき価値観が存在していることだ。そのエピソードとしてこの誰しもがわかりやすい「おかしな」エピソードとして「いただきます」が利用されていると言える。なお、国会図書館デジタルコレクション上では高市によるこの「いただきます」エピソードは2001年を最後にその言説は見られない。なお奈良新聞にはデータベースが存在せず、現地新聞においてこのエピソードが語られているかの確認は行えていない。
 そして次にこの言説が登場するのが2002年7月7日の北國・富山新聞「[富山県関係国会議員・東奔西走]綿貫民輔氏、日本の伝統守れ」における次の記述だ*2

綿貫民輔衆院議長は(略)県内の一部の学校で給食前のあいさつをやめたことに苦言を呈した。
綿貫氏によると、一部の保護者から「給食費を払っているのに、いただきますと言わせるのはやめてほしい」と苦情が出たことを受けて、あいさつをやめたケースがあるという。

この記事の気になるところとして綿貫は「富山県」で「いただきます」をやめている事について語っているところだ。富山県と言えば「合掌」号令廃止が96年に行われた地域であることから「給食前のあいさつをやめた」という部分だけならば数年のズレがあるものの綿貫の認識は正しい。しかしその理由を「給食費」に求める言説は96年当時には存在していないはずだ。地元の国会議員が富山県における「合掌」廃止の経緯について知らなかった可能性は低いと思うのだが、その様な廃止が起こった県で新たな理由付けとして「給食費を払っている」という問題が出てくるとは正直なところ考えにくく、また合掌廃止とは別の動きとして「給食費」の話が出てきたとも少々考えづらい。綿貫の発言には場所が富山県であるだけに伝言ゲームによる廃止理由の付け替えが発生している可能性が考えられる。ただこの「給食費」という理由は綿貫に限らず00年代初頭に北陸地方で流布していた可能性が存在する。それを示すのが2003年6月11日の北國・富山新聞「デスク日誌 子らに七難八苦を」だ。

 北陸のある小学校でのこと。給食時間に「いただきます」と言う指導をしていた先生が、保護者からこんな講義を受けた。「給食費払っているのに何で『いただきます』といわせるの」。
 信じがたい話に出会うことは多いが、これも実話だという。先月、金沢で開いた北東アジア交流プロジェクトの金沢シンポで、小島美子さん(国立歴史民俗博物館名誉教授)が紹介してくれた。

この北國・富山新聞給食費を理由にした話を「実話」だとしている。この「実話」をしたのは小島美子だというが、当時どこでこのエピソードを聞いたのかは不明である。ただ1929年生まれの小島が現場の小学校で実際に見聞きするよりも、誰かから「実話」として聞いた可能性が高いだろう。ただ「実話」だと書きつつも、その実在性を感じる検証記事はなさそうなために「実話」と言えるかは不明だ。なおこの記事を受けて2003年6月14日の北國・富山新聞では投書が存在している。新聞記事という事もあって2002年頃から北陸地方でこの「給食費」を理由として「いただきます」廃止という言説は徐々に流布したと考えられる。
 さて、この様に00年代初頭には徐々にこの「給食費」を理由とした「いただきます」廃止言説が広まってきたのがわかる。2025年の今現在、00年代のネット情報の大多数は消失している為に明言は出来ないが、例えばネットでは2004年12月のヤフー知恵袋に「最近の幼稚園や、保育所では、昼食の前に「いただきます」を言わないそう」という書き込みが確認できる。学校から幼稚園や保育所へと対象が変化はしているが、とはいえ00年代中盤あたりからこの言説が流布していった一つの傍証だろう。そしてこの「いただきます」廃止言説が大きく動くのが2005年だ。いや、正しくは2006年なのだが、この2005年に言説が大きく動く要因が発生する。ただその話に行く前になのだが、この2005年あたりからいくつかの新聞紙でこの言説が確認できるようになる。例えば4月2日朝日新聞東京朝刊「(新校長日記 ベネッセ→五反野小)三原徹 地域の応援で食育授業」、5月9日産経新聞「【解答乱麻】明星大教授・高橋史郎 不適応教師の根は深い」、6月6日日本農業新聞「四季」などだ。特に朝日新聞では校長の発言だけにその説得力は増しただろう。該当箇所は次の通りだ。

先日、ある学校で保護者から「うちの子には、いただきますとはいわせないで」との抗議があったと聞いた。理由を聞いて開いた口がふさがらなかった。「給食費を払っているのだから言う必要がない」というのだ。

校長の発言ではあるが、この証言も伝聞調であるし必要な情報しかない為に細部も不明だ。日本農業新聞における記事も上記の校長による発言とほぼ同じであり、もしかしたら朝日新聞記事を受けての記事の可能性もある。産経新聞の高橋に関しては「実話」と述べているが、そこに信頼すべきソースはない。そして11月14日の朝日新聞朝刊「(声)いただきます言わない親」では投書で「道内のある中学校で」という北海道という場所指定までされている状態でこの言説が紹介されている。ただこの文章の末尾には「要望が出たと聞き」とある様に、実際に投稿者が見聞きした話とは言えない。なおこの11月の朝日新聞の投書はネット上で転載しているブログが存在しており、多少は拡散したかもしれない投書だ。ただこれらいくつかの記事よりも重要なのがおそらく2005年10月22日に放送されたTBSラジオ永六輔その新世界」だ。この番組内でリスナーからのハガキで「いただきます」廃止言説が紹介され、そしてそれへの永六輔の反応、この話を聞いた反響がリスナーから寄せられて番組は盛り上がりを見せる。また永六輔はこの番組を経ての11月13日に宮崎県において「若い世代へ伝えよう『いただきます』の心」と題した講演でこの件について触れている*3。ただこの時点では番組内で盛り上がったに過ぎなかっただろう。その風向き、特にネットにおける勢いが変わるのが2006年であり、きっかけを作ったのが毎日新聞だ。
 2006年1月21日の毎日新聞で次の様な記事が書かれる。それが「考:「いただきます」って言ってますか? 「給食や外食では不要」ラジオで大論争

TBSラジオ「永六輔その新世界」(土曜朝8時半~、放送エリア・関東1都6県)で昨秋、「いただきます」を巡る話題が沸騰した。きっかけは「給食費を払っているから、子どもにいただきますと言わせないで、と学校に申し入れた母親がいた」という手紙だ。
(略)
手紙は東京都内の男性から寄せられ、永六輔さん(72)が「びっくりする手紙です」と、次のように紹介した。
 《ある小学校で母親が申し入れをしました。「給食の時間に、うちの子には『いただきます』と言わせないでほしい。給食費をちゃんと払っているんだから、言わなくていいではないか」と》
 番組には数十通の反響があり、多くは申し入れに否定的だった。あるリスナーは「私は店で料理を持ってきてもらった時『いただきます』と言うし、支払いの時は『ごちそうさま』と言います。立ち食いそばなど作り手の顔が見える時は気持ちよく、よりおいしくなります」と寄せた。

ラジオと違って文章が残る新聞記事としてネットに挙がった事により認知が一気に広がたのだろう。この記事への言及がネット上で増え*4、他紙においてもこの話が用いられる。例えば3月20日中国新聞「広場 「いただきます」大切」(※投書欄)、7月12日北海道新聞朝刊「<読者の声>食べ物への感謝 学校でも教えて」、8月7日日本経済新聞「食育の現場から(10)「食卓の力」復権、家族一緒に「いただきます」」、2007年とはなるが10月23日読売新聞「立命館大講義「日本文化の源流を求めて」 弁護士、元大阪市助役・大平光代さん」などなどだ。当然、発端となった毎日新聞も記事の反響を受けた記事を書いている。またネット上でわかりやすいのは5chにおける関連スレッドの盛り上がりだろう。2005年にスレッド名に「いただきます」と「給食」が入ったスレッド名は実質的にゼロだったが*5、毎日の報道後に2006年になって30を超えるスレッドが建っている。


かころぐβより

この時点でネットにおける該当言説は確立したと言って良いだろう。また影響という意味では2006年8月7日の新潟市食育推進会議でもこの言説が登場している。

星野委員 永六輔さんが週刊誌に書いていたのですが、東京のある小学校の給食の場に一緒に参加したときに、食事の合図が、あるクラスでは笛だった。あるクラスでは太鼓だった。なぜ「いただきます」と言わないのですかということを言ったら、「いただきます」は宗教用語ですというようなお話で、校長先生は「いただきます」を子供たちに言わせない。一斉に太鼓や笛で食事をしている。

この週刊誌の特定まではしていないために上記の発言のみで判断するならば*6、「東京のある小学校」での永六輔の「経験」が記されている様に見える。ただ『もっとしっかり、日本人』においては場所指定はされていないしTBSラジオへの投書者の住所が「東京都」であることに引っ張られているようにも見える。「そんな学校があると聞きました」という伝聞調が永六輔自身の経験へと変化している事には違和感を覚える。また当時は「手を合わせる」が焦点であったと思われるが、「いただきます」に焦点が当たり過ぎなように見える。ちなみにだがこの星野委員の永の経験に対しては本多委員は「いただきます」は大概のところはやっていると思うと言い、それを受けた星野も誇張表現であると同意している。
 この後も定期的に「給食費」を理由とした「いただきます」廃止要望の話はネットにおいて定期的に上がる様になる。2011年、2012年頃のまとめとしては「「学校給食のとき「いただきます」を言わせるな?」の学校は実在するのか!?」があったりするが、題名の通りその学校の実在性が疑われたりするし、実際にその様な学校が存在するか不明のままだ。むしろこのまとめではデマと扱っているとも言える。あえていえば「学校」単位ではないならば2023年に匿名の小学校教員がnoteに書いた「みんなで「いただきます」をやめたら、給食嫌いな子が給食が好きになった話」というのがあるが、これも個人の実践であろうし、「給食費」とは何ら関係のない話である。興味深いネット情報としては2007年に教えてgooにて「「給食費を払えばいただきます言う必要ない」と言った保護者は実在しない?」という質問がなされている。

都内の公立、比較的荒れた地域の公立小保護者です。(中略)給食費云々・・・と言った元校長は、うちの小学校の校長だったらしく、その当時のPTA筋から聞いたのですが、その元校長が退職後、議員になりたい?らしく様々な教育関連の集会でしゃべりまくっているそうです。しかし、その小学校で、いただきますと言わせるな と言った保護者はいないようで、どうも元校長のマスコミ集めのようなのです。

つまり給食費云々は元校長が述べたのはデマであるとの内容だ。この投稿者曰く、この学校では毎日クラスの係りの生徒が給食室に給食の必要人数を伝えに行き、その際に「おいしい給食を作ってください、お願いします」といわなければならなかったそうであるが、これについて児童側から疑問が上がったそうだ。この内容を元校長は変化させて「いただきます」廃止にしたというのだが、しかしこの投稿者は端々に「~らしく」などの伝聞調でこの発言を真に受けて良いのかは微妙だ。「都内」といっていることから2005年4月の朝日新聞インタビューの校長が該当する可能性はあるが、書いてある情報だけでは確定することは出来ない。また返答の中には道内の話であるという反論もあるし、初期の場所指定には奈良や富山もある。ただこの様な嘘をわざわざ書き込む必要性も低く、こういった「いただきます」廃止論に対してそれが嘘であるという「噂」も一部であったのだろう。
 ただこの言説そのものは冒頭は言うに及ばず、現在も生き続けている。ここ最近の大手の新聞社でいえば2023年3月23日の読売新聞東京夕刊「もったいない語辞典」において元NHKアナウンサーの村上信夫が次のように語っている。

熊本県で、ある保護者が学校に電話してきた。「給食の時、子どもたちにいただきますを言わせないでほしい」と。教師がその理由を問うと、「給食費を払っているんだから」という。
また別の学校でのもっと驚く話。保護者が「いただきますは宗教行事みたいだからやめてほしい」と電話してきた。教師側も認めたというのだが、言わないと一斉に食べられないからと、笛を吹くことにしたというのだ。いただきますは、給食開始の合図と捉えてられていたのか、と情けなくなる。

今度は熊本県での事例が紹介されている。しかしその話の内容は「宗教行事」や「笛」などの話を見る限り永六輔の話の変化形に見える。内容そのものはもはやテンプレ的ですらある。なお「熊本県」であるが「給食費」と関連付けた話で次の様なエピソードがある。

熊本の保育園協会で、講演をした時にこんな話を聞きました。熊本県では、手弁当持参の日が月1回あったのです。これが、行政の指導でなくなったのです。「なぜなくなったか」と聞きますと、給食費を払っているのに「弁当を作れ」と言うと、「金を返せ」と言う親が増えてきたからだというのです。なぜ、手弁当持参の日を作ったかと言えば、どんなお弁当を作ってくれたかなという、ぬくもりや温かさを感じる中に幸せがあるからです。ところが「給食費を払っているのだから」という経済の物差しが幸福の物差しを押し切ってしまった。これが、今この国で起きていることです。
高橋史郎「親が育てば子どもが育つ -脳科学に基づく親学の勧め-」より。
※高橋の2007年における講演の文章化

これは「いただきます」の廃止ではないが、給食費を払っているのだから弁当持参の日がなくなったというものだ。高橋は『月刊自由民主』(2006年12月号)でも上記の発言をしており、幾度かこの話をしている事がわかる。対象が保育園であることや弁当であることから「いただきます」は恣意とは少々異なるが構造そのものは類似言説と言えるし、この言説にある「熊本県」という「場所」はこの言説が現地で混ざり合ったことによって村上に伝わり紙上での発言につながった可能性はあるかもしれない。
 この「給食費」を理由とした「いただきます」廃止言説については現状確認できた限りでは2000年の高市早苗発言が一番古くなる。しかしながら1997年には杉原誠四郎が類似言説を述べている事から高市が出発点であるといえるかは微妙なところだ。まずこの言説は杉原の周辺で存在しており、それが保守界隈などで回りまわって変化し、高市へと伝わったと考えた方が現実的だろう。2002年における綿貫民輔での発言もそういった類のものだと考えられる。でなければ00年代前半に奈良や富山で「給食費」を理由とした「いただきます」廃止を訴える親が存在するという偶然が発生した異なるが、クレームの突飛さからそれは少々考えにくい。ただいずれにしてもこの話はネットのみならず新聞などのメディアで今現在もまことしやかに語られている生きた都市伝説といえるだろう。

いくつかの教育委員会への問い合わせ

 給食費を理由とした「いただきます」廃止について、では、実際に実在したいかどうか。正直それは不明ではあるものの、探る上でのある程度の答えは出せる。まず地域が限定されている言説がいくつか登場する事だ。

奈良市説(2000年高市早苗による)
富山県説(2002年綿貫民輔による)
 北陸地方といった小島美子は時期の近さから富山と同一とみて省略する
・北海道説(2005年新聞投書による)
・東京都説(2005年ラジオ投書、2006年永六輔?)
熊本県説(2023年村上信夫による)

東京都説ではTBSラジオへの投稿者の住所が東京都というだけであるし、永六輔の雑誌記事も読めていないので「東京都説」といえるかは微妙だが念のために加えておく。こう見ていくと言説初期の方が場所の指定はそれなりにあったことが窺える。「合掌」の事例から伝言ゲーム的に発生した可能性がある富山県ならばともかくとして、全国に流布している様に見えるのに実態は不明というのはまさに「都市伝説」ともいえる。そして場所がわかるならば尋ねることは可能だ。ということで各地の教育委員会にこの件について尋ねてみたところ、次の様な回答を頂いた。

奈良市
25年前であり、文書資料があったとしても保存期限が経過し廃棄しております。そのため、奈良市の小学校で、”学校給食時に「いただきます」という挨拶は給食費を払っているのだからやめてほしいという保護者のクレームがあった”という事例に関する情報は確認することはできず、また、そのような事例についても把握しておりません。
富山県
当方で調べましたところ、有力な情報は残っておりませんでした。
富山県教育委員会 保健体育課
北海道
照会のありましたこのことにつきましては、公文書の保存年限を超えていることから現在確認できませんことを回答いたします。
北海道教育庁学校教育局健康・体育課学校給食振興
東京都
返事来ず
熊本県
2024年3月23日読売新聞夕刊「もったいない語辞典」に記載がありました事例について、本県では把握しておりません。また、「いただきます」という挨拶を止めさせたという情報も把握しておりません。
熊本県教育庁県立学校教育局体育保健課

東京都からは返事が来なかったが、熊本県以外は20年以上前のこととなるために情報が残っていないという回答となる。ただ「情報が残っていない」ということは現行でその様な学校がある可能性が低いとは言えるだろう。また熊本県の回答は村上の説を確認しておらず、その様な情報の把握もないことから村上のエピソードは「噂」の域を出ないと言える。勿論、教育委員会が把握していない特定の学校でこの「いただきます」廃止が行われている可能性は否定できないと言えるが、とはいえ現実には確かめられない事案と言ったところであり、やはり「都市伝説」といったところだろう。
 何故この様な言説が出来上がったのかは詳細には不明だが、やはり富山県における「合掌」号令の廃止という現実起こった出来事が都市伝説のタネとなったのだろう。号令の廃止は「いただきます」の欠如にもつながったともいえるし、この件について保守派からの反発も見られた。それらの人物にとって富山県の事例はある程度共有されていた問題であろうし、保守系サークル内での伝言ゲームから「給食費を払っている」から廃止という理由が後付けされた可能性はあるのではないか。そして「いただきます」廃止という行為に対して「道徳」や「教育」という視点から目を向ける大人の存在も見逃せない。永六輔は90年代初頭からこの話を行い「いただきます」の意味付けを強調して道徳的説話へと繋げている。杉原誠四郎、高市早苗綿貫民輔などの「給食費」を絡めた初期の流布者は政治的意図をもって伝統の危機、教育行政の過ちといった方面から語ることによってモラルの低下を嘆く。「日本の危機」として捉えていると言っても良いのかもしれない。特に高市早苗はこの事例を教育基本法の改正に繋げたいという政治的意図もあったろう。ただそういった「名のある人」の語る言説からやがてラジオや新聞記事などにおいてこの話が流布されるいたり、ネット民がこの話をまことしやかに話すようになる。この「給食費を払わないから「いただきます」をやめろ」は実在するならばモンスターペアレント、悪質なクレーマーの部類であり、また日本文化とも接続する面もある事から容易に批判可能な「物語」だ。だからこそ簡単に憤れるし、広まりやすい。ただ実際にこの様な事例があったのかは不明としか言いようがない。あったとしても極々レアケースであっただろうし、その話そのものも生まれたのは20年以上前だ。ただ今やネットでこの「都市伝説」で煽動し、そんな事を言うやつは「非日本人」であるなど聞き手に感情を刺激させる構造が見て取れる。とはいえ、この話は所詮は都市伝説の域であり、その実在性は確認できない。
 今後の国会図書館デジタルコレクションによる検索対象や地方紙の新聞データベースの拡充などでまた新たにわかることが出てくるかもしれないが、ひとまずこれにて調査は終わりとする。



投げ銭用ページ
note.com

*1:菅原の書籍よりも詳しかったので朝日新聞東京夕刊「合掌の風土 作法通じて人生教える」1996.12.10 を典拠とする。

*2:「北國・富山新聞」という表記だが、これは北國新聞富山新聞を合わせた名称となる。検索のためにしようとしたG-Searchというサービスでは「北國・富山新聞」となっておりいずれの新聞であるか不明のためにこの記事では「北國・富山新聞」という記述とする。

*3:11月15日 宮崎日日新聞朝刊「いただきます運動を広げて/宮崎市永六輔さん講演」

*4:例えば「「いただきます」って言ってますか?」、「「いただきます」考」、「感謝するのはお互い様」などなど。

*5:スレッド名「給食の時間ですよ。いただきます!」があるが、これは今回の件とは異なる

*6:おそらくだがこの週刊誌は「女性セブン」の事と思われる。例えば2006年3月28日更新の「「いただきます」論争-感謝の気持ちはどこへ」では女性セブンの名前が挙がっている。また『月刊自由民主 2006年12月号』でも高橋史郎が女性セブンの名前を挙げている。

ユニクロの中国にある「269の工場が撤退」という風説の流布が流れていた

【5月12日追記】ユニクロの工場リストにて、数え方を盛大に間違っていた(一部工程外注先、副資材工場の無視)のでその数字を修正



https://www.threads.com/@hirosasaki_official/post/DJSYBg9Tz4J

 最近、スレッズで上記の「hirosasaki_official」が良くデマを流して拡散されているのだが、とりあえずまたデマを流してたのでここのメモしておく。当然ながら事実ならばそんな報道は存在しない。そして実態を見るとするならば、ユニクロを運営するファーストリテイリングは「サプライチェーンの透明化と生産パートナーリスト」で工場を公開している。それによれば2025年3月現在、縫製工場が206、一部工程外注先工場が62、主要素材工場が72、副資材工場が24の合計364工場がリストに記載されている。なお、「hirosasaki」は5月の投稿だから3月現在のリストは意味がないという指摘は当たらず、そもそもこのデマが生まれたのは2024年12月2日のyoutubeにアップされた「【速報】日本の怒り!ユニクロ会長が269工場閉鎖を発表!社員の家族も帰国!ユニクロが中国で正式に終了!」だと思われる。現在、動画は削除され、アップロードした「ニホン サムライFM」というアカウントも削除されている。そのためにこの動画がどういった情報源をもとにして「269工場閉鎖を発表」は不明ではあるが、とはいえアーカイブを見る限り40万再生を超えている事からこの嘘はそれなりに拡散したと思われる。また該当の動画は削除されたが、雨後の筍の様に類似動画が出て、そちらは存在したままとなっている。


※「JAPAN 日本の凄いニュース」は検証動画でフェイクニュースと言っている

これらの動画を見てみると11月28日のBBC記事「ユニクロの柳井正氏、新疆綿は「使っていない」 BBCインタビューで説明」において、見出しにもある新疆綿についての発言などが中国で炎上したとある。この「炎上」は11月30日に人民日報に冷静な対応を中国国民に呼びかけ、欧米メディアを腐す様な内容の記事が出るくらいの反応はあったようで、その「炎上」の為にユニクロは中国現地の工場を一斉に閉鎖をする、もしくは動画によっては「閉鎖をすれば」といった様な動画などが生まれたという流れとなるのだろう。ただ実際はそんな報道はないので冒頭の動画などを含めてこの情報自体は風説の流布だといえる。なお本題とは異なるがこの情報自体はX上ではあまり拡散していないようで、スレッズでも冒頭の「hirosasaki」以外は特に拡散していなかったように思える。むしろXでは「ユニクロはこの際日本からは完全撤退し本社機能も移し、中国で事業展開すればいい」という今回の動画とは別のベクトルの投稿が拡散していた。youtubetiktok上ではデマも含むスカッと系の動画が流行る事があるが、これもその流れで拡散したのだろう。日本スゴイ系、外国人が痛い目にあうスカッと系動画の影響はわりと無視できないかもしれない。

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「クルド人」のなりすましと思われる殺害予告がまた起きていた

 以前、「クルド人のなりすましと思われる殺害予告について」というのを書いたのだが、また同様の案件が発生していたのでここに記録しておく。まず「釣られた」と思われる投稿で拡散しているのは戸田市議会議員の「河合ゆうすけ@migikatakawai」となろう。

なお、他に有名どころと言えば石井孝明もこのアカウントに殺害予告されてスクショを挙げて、「日本人かクルド人かわかりませんが気味悪いアカウントです」と投稿していたのだがこちらは現在投稿を削除済みな模様だ。何故削除したのかまではわからないが、釣られるのが癪だったのかもしれない。さて、この殺害予告をしているアカウント「PKK X 川口で日本人を殺す@Xxgm217475」(凍結済み)だがアーカイブ上では次のようなbioと固定投稿が確認できる。


https://archive.md/SR2vG

特徴的なのはメールアドレスと住所の記載だが、このメールアドレスはVtuberの「YuuRi🥀@yuuriu95」へのファンアートや仕事依頼用のメールとなる。以前の記事でも記述したが(つまり今回のなりすまし犯は以前の人間と同一の可能性がある)、このYuuRiというVtuberは2023年5月ごろから嫌がらせを受けており、2024年3月には数か月前からメールアドレスを悪用されている旨の告知をしている。今回の「クルド人」なりすましももそういったものの一環だろう。またPKK東京支部とある住所だが、これはYuuRiが在籍している株式会社Teddyという会社の住所であってクルド人とはなんら関連のない。要はYuuRiへの嫌がらせを「クルド人」というがわを被って実行したのが今回の一件だろう。そもそも固定投稿における「川口市クルド人自治区」だの「日本人殺し依頼受けつけ」だの、メールアドレスや住所などなど、まともな判断能力があれば「違和感」に気付くものだと思うが、都合の良い「情報」の為に簡単に騙された、若しくは釣られてもよいと思って釣られたのだろう。


【5月5日追記】

https://x.com/migikatakawai/status/1919124439909740762

 河合ゆうすけが「YuuRi」を犯人であると思い込んでいる模様で、盛大に釣られていた。なりすましの犯人にとっては彼を含めて賛同している人間たちは良い鴨だろう。

【5月7日追記】
 追記した河合ゆうすけによる投稿は削除されたために「YuuRi」を犯人視した投稿は不味いと判断したのだろう。加えて言えばこの投稿には石井孝明は「ちょっと。先生これ、多分、この会社への嫌がらせです。捜査情報として提供しましょう。私も脅迫されていますので連絡いたします」という投稿をしていた。これら自体は良いのだが削除後に石井と河合は次の様な論理でこの殺害予告投稿を「利用」していたのでここに置いておく。


https://x.com/ishiitakaaki/status/1919833529350824172


https://x.com/ishiitakaaki/status/1920025274034618862


https://x.com/migikatakawai/status/1920026845539631615

殺害予告をNHKETV特集「フェイクとリアル」のせいであり、番組が石井や河合に対する「犬笛」であるというものだ。殺害予告をした人間が今この時期に行った理由は不明ではあるし、犯人は捕まるべきであるが、それはともかくとしてなりすまし殺害予告すらも「利用」されている。

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