日本の医療保険制度は国際的に評価が高かった。平均寿命は世界1位である一方、国民医療費の対GDP(国内総生産)比は経済協力開発機構(OECD)諸国の平均以下、皆保険制度に基づく公平性と医療へのアクセスの容易さも、世界的にとても優れたものであった。しかし高齢化が進展し、国の債務が世界最悪水準に積み上がる中、医療費にも抑制圧力が強く働きはじめた。窓口での自己負担金は年々引き上げられ、保険料の上昇に伴い無保険者が増え始め、医療の現場は様々な歪みや困難に直面し疲弊している。

 この状況を改善すべく、内閣に昨年末設置された社会保障制度改革国民会議では、年金・介護・少子化に加え医療が重点的に取り上げられ、この8月に最終報告書が取りまとめられた。限られた時間の中、政治家と利害関係者を入れずに、短期的即効性のある改善案の数々を踏み込んで明記したことは十分に評価したい。しかし他方で、「長期的なビジョン」の重要性は会議でも再三指摘されたものの、どのような論点があり、どのような方向性を目指すべきなのかについては具体的な議論がなかった。言うまでもないことだが、医療は国民の日々の生活を大きく左右する。日本の医療保険制度の将来を考える際、国民一人ひとりが知っておくべき最も重要な論点とは何なのか、本稿ではそれを解説しよう。

高齢化していなくても医療費は上昇している

 その論点を説明するにあたり、前提となる知識が2つある。「医療需要」、そして「保険と再分配の区別」である。順に説明しよう。まず医療需要についてであるが、知っておくべきは、「所得に占める医療支出は国が豊かになるにつれ上昇を続けてきたし、そして今後も上がり続けていくだろう」という長期トレンドである。図に示すとおり、洋の東西を問わずGDPに占める医療費の割合は増加し続けている。多くの国が医療制度改革で頭を抱えている所以である。

国別に見た総医療費の対GDP比率(OECD Health data 2013より作成)

 なぜ、医療費の対GDP比率は上がり続けているのだろうか。その理由としてしばしば挙げられるのは、高齢化の進展である。しかし図から明らかなように、この上昇トレンドは世界中で長期に渡り普遍的に観察されるものであり、高齢化が主要因ではない。上昇トレンドの真の要因は所得効果である。所得効果は経済学の用語で、所得の増加がある財の消費量に与える影響のことを指す。所得効果は財によって異なり、例えば、年収が1割増えた場合、旅行の需要は増え(正の所得効果)、カップ麺の需要は減る(負の所得効果)という具合である。

 これに関して近年の実証研究が明らかにしてきたのは、健康という財については強い正の所得効果が働くということだ。健康が他の財と違うのは、健康は人生の何を楽しむ上でも重要である点、さらに人生の期間そのものを長くしてくれるという点にある。豊かになった結果、「健康はほどほどにして他のことを楽しもう」などとは誰も考えず、むしろ貧乏なときにもまして健康にお金を回そうと考えるものなのである。

 なお、医療費増加の説明の1つとして、「医療の高度化」がしばしば指摘されるが、これは結果であって原因ではない。画期的な新薬や治療技術が開発されたところで、需要がなければ使用されない。高くついても健康でいたいという人々の願望がまずあってこそ、高価な医療が開発され利用されるのである。伝染病のような安価に直せる疾病が克服され寿命が延びても社会がそこで満ち足りるわけではなく、さらなる健康と長寿を求め、がんや慢性疾患のような社会的費用の大きな疾患への挑戦が新たに始まるというのも同様の摂理である。以上、医療需要についてまとめれば、「医療費はこれからも経済成長率を上回るペースで上がっていく」と考えられる。

保険と再分配を区別しよう

 次に保険と再分配の区別について明らかにしておきたい。説明をわかりやすくするため、3つの制度を考えてみよう。まず、1、医療費を100%窓口で支払う制度(全額自己負担)、次に2、保険料を支払って医療保険に加入できる制度(任意保険)、最後に3、国民皆保険、つまり医療保険に全員が加入し保険料は所得に応じて決まる制度(保険強制加入+再分配)の3つである。

 まず1と2の違いとなる「保険」であるが、保険はそもそも、将来の不確実性が存在するときに、複数の人間で事前にお金を出し合ってリスクに備えるというものだ。この対価を払って将来のリスクをヘッジするという定義からして保険は「助け合い」ではないことを理解しておく必要がある。海外旅行保険を助け合いだと考えて購入する人はいないだろう。

 次に3が2と違うのは、全員強制加入にして保険料を所得に応じて調節する点である。低所得者にも病気になるリスクがあるし、そもそも幼少期から重度の疾患を抱えて生涯ほとんど所得のないような人もいる。そのような人々に保険料支払いを求めるのは酷だろう。このような観点から、支払い能力に応じた負担(応能負担)という考え方が出てくる。

 ここで所得に応じて負担を調整する実際的手段としては、保険料を所得に応じて調節したり、税金や公的扶助を加減したりと様々な手法があり、日本ではこの調整の実態が非常に複雑で分かりにくい制度になっているが、ここでは「支払い能力のある人間が支払い能力のない人間の医療費を肩代わりする」という再分配の構図をおさえておけば十分である。

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