Idiot's Delight

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映画『侍タイムスリッパー』感想

AmazonPrime特典の追加されたきっかけで視聴。

気になっていたが、劇場では見れなかったので嬉しい。

 

面白いという話題は聞いていた。なので期待していた。が、最初のシーンで当惑。

知らない俳優、平凡な構図、テンポも悪い(カットが長い)、音も安っぽい。

ありていに言ってしまって、とてつもなく「地味」!

これが本当に話題作なのか? 自分の目を疑った。

しかしちゃんと面白くなるのだ、これが。

 

時代劇という失われつつある文化と、失われたしまった侍の心が生むドラマが心を打つ。

何か昔に大切なものを無くしてしまったんじゃないかという寂寥だ。

ラストシーンがこれが素晴らしい形で結実するので一見の価値あり。

 

最初の地味さには、とっつきにくさがあるかも知れないが、そこは耐えて乗り越えよう。

最後のスタッフロールで吹いてしまった。けっこうスタッフが出演しているのね。

(地味とか思ってごめんなさい。面白かったです)

映画『シビル・ウォー アメリカ最期の日』感想

それほど期待していなかったのです。「プライム特典だから観るかあ」くらいでしたが、あまりに面白い!

 

※以降ネタバレを含みますのでご注意ください。

 

本作は「アメリカで内戦が起きたら」という状況を戦場カメラマンの視点で描いた映画です。

 

まず印象的なのは戦争の描写に異様な没入感があること。戦場カメラマン視点だからでしょうか、戦争状況を俯瞰で捉える構図には、胸に迫る緊張感があると感じました。

 

そこで描かれるドラマとして、主人公のベテラン戦場カメラマンのリーと新人カメラマンのジェシーの対比があります。

リーは大統領にインタビューするためワシントンD.C.に向かうことを決意します。そこにジェシーが付いてくることに。

 

当初としてリーはベテランにふさわしく戦場状況に動揺することなく撮影に取り組みます。ジェシーは上手く撮影できません。

あまりに冷徹にもみえるリーの撮影態度にジェシーは「私が撃たれた瞬間も撮影するの?」と問いかけるほどでした。

 

しかしリーにも葛藤があります。リーは戦場の写真を撮影することで「こんな悲惨なことはやめよう」と訴え続けていたつもりだったのですが、結局戦争は終わらず、アメリカは酷い内戦状態になってしまった。こんなことをして意味があるのか? そのようなことを悩みながらワシントンD.C.への旅を続けます。旅の途中でリーは悩みを募らせ、ジェシーは逆に戦場状況に適応していきます。

 

ついにワシントンD.C.に着いた一行はホワイトハウスへ突撃する兵隊に随伴し大統領との面会を目指します。旅の途中で戦場に適応していったジェシーは積極的にカメラのシャッターを切りますが、悩みを募らせていたリーは戦場にカメラを向けることができません。

 

そしてホワイトハウスに入り、いよいよ大統領目前という段階になって、ジェシーは撮影に夢中になって敵の射線に身を乗り出してしまいます。

このままではジェシーの命が危ない。リーはジェシーを突き飛ばします。

ジェシーはリーにカメラを向けたままシャッターを切ります。

撮影しているレンズ越しのリーはジェシーを突き飛ばした後にこちらに崩れ落ちてきます。リーはジェシーを庇う形で敵の銃弾を受けてしまったのです。

かつてリーに問いかけた言葉「私が撃たれた瞬間も撮影するの?」には批判の意図も含まれていたのかもしれません。「仲間が撃たれているのに撮影するのか?」と。

皮肉にもこの言葉を体現したのはジェシーの方でした。

 

今までの作品ですとジェシーはリーに「泣きながら抱きつく」のような場面を加えることで観客の感情を発散してくれます。

しかし今作ではリーをちょっと気にしつつも、ジェシーはそのまま立ち上がって先を急ぎます。

このため観客の感情は発散されず、胸の中でわだかまり続ける構成になっています。

それで本当によかったのか? と。

この映画のテーマは、この疑問を投げかけるものだと感じました。

クレジットでは「夢を見続けよう」という歌が流れます。果たしてその夢は、犠牲を伴ってまで望む価値があるものでしょうか?

この疑問は現代社会が抱える問題に通底しているような気がしました。

 

映画『ANORA アノーラ』感想 エロティック・キャピタルと尊厳にかかる理不尽さ

映画『ANORA アノーラ』を観てきましたので、その感想書いていこうと思います。

 

※以降、ネタバレを含みますのでご注意ください。

※また本作は性的な内容を含むR18作品です。感想でもその点に触れますので、併せてご注意ください。

 

 

 

 

何かの本で「女性はエロティック・キャピタルを有している」という説を読んでなるほどなと感じました。

 

本作の主人公も性的なダンスで収入を得ていて、このエロティック・キャピタルを利用して生計を立てている女性とも言えます。

 

この作品を鑑賞して、「エロティック・キャピタルを利用する女性の尊厳」って、どうなのだろう? と感じました。

 

主人公のアニーは劇中でロシア富豪の御曹司と結婚するのですが、富豪一派からは「娼婦」と基本見下されています。

 

女性の社会進出や平等などが進みつつあり、「進出」や「平等」について賛意しかないのですが、現行の「男性的な競争社会」に女性を含めるだけなのが本当に「平等」なのか? という疑問があります。

 

この映画ではその辺りの問題意識に近いものを感じました。女性の生来的に有するエロティック・キャピタルを換金する労働の尊厳があまりにも低いのは如何なものなのでしょう?

 

『星の王子様 ニューヨークに行く』という映画ではウェイトレスの女性と富豪がくっつくハッピーエンドで終わります。本作ではロシア富豪の御曹司とアニーは結局別れてしまいます。

ウェイトレスは良くて、娼婦はダメな理由はなんなんでしょうね?

 

本作のラストシーンでは、御曹司と別れた主人公の女の子と親身になってくれたロシア富豪のボディガードが、車の中で性的行為をします。

その行為は恋愛的なものではなく、アニーが店で行っていたサービスのような行為です。

ボディガードはその行為中にアニーへキスをしようとしますが、アニーはそれに怒って相手を殴りつけ、ハグするシーンで終わります。

 

一般的に映画ラストのキスシーンは典型的なハッピーエンドでしょう。

それを怒りと共に否定したアニーの心情はどのように受け止めればいいのでしょうか?

性愛を求められるのに、そこには尊厳がない。

そんな理不尽に対する怒りのようなものを私は感じました。

 

以上、そんなことを考えた映画でした。

 

『フロリダ・プロジェクト 真夏の魔法』感想

ANORA アノーラがアカデミー賞を席巻しているらしいです。

では観てみようと思いまして、明日予約を取りました。

監督は「ショーン・ベイカー」さんなる人物でして、私はこの方の作品を拝見したことがなく。

それではということで標題の「フロリダ・プロジェクト」を観てみることにいたしました。今回の記事はその感想です。

 

※以降、ネタバレを含みますのでご注意ください。

 

この映画で美しいと感じたのは「貧しくも支え合っている人々」が描かれているところです。

 

主人公は「ムーニー」という女の子と、彼女の母親である(シングルマザーの)「ヘイリー」。

彼女らは「マジック・キャッスル」という貧乏モーテルで生活しています。そのモーテルの管理人が「ボビー」。

 

この「ボビー」がなかなかいい奴でして。

ヘイリー一家はボビーからすれば「厄介もの」です。ヘイリーはほぼ無職で、宿泊費も滞留しがち。ムーニーはいたずら三昧でトラブルを引き起こしがち。

「ボビー」もそんな親子にうんざりしている様子が描かれます。

しかし子供たちに不審者近づいてきた時などは強制的に追い払ったりします。

このシーンで「こいついい奴だな」「支え合っているんだな」と思った時、この映画は「支え合い」に溢れていることに気づきました。

ヘイリーの友達のアシュリーはバイト先(ダイナー)から食料を無償で分け与えてくれたり。

あと個人的に好きなシーンでは「ランドリーのおばさんがヘイリーを“gonna be ok”と呟きながらハグしてくれたり。

 

彼らの支え合いには欺瞞や利己心があまり感じられません。「困っているから支え合っている」というシンプルさが美しく感じるのです。

 

しかしこの「支え合い」が彼女たちの命綱でもあります。

 

ある日、ムーニーたちのいたずらが過ぎて廃墟に火事を起こしてしまいます。

このことをきっかけにヘイリーの友達とは疎遠になってしまいます。

「支え合い」の連帯から外れてしまったヘイリーは、途端に生活が行き届かなくなります。

そしてお金を稼ぐために売春行為に手を染めてしまいます。最終的には通報されて我が子と引き離されることに。

じゃあ、どうすればよかったのか?

映画では現実的な解法などは述べるに至りません。最後、少女は近所の友達とディズニーランドに駆け込んで行くシーンで映画は終わります。

 

「支え合い」の美しさを描きつつも、それが貧困という極限状態が生み出しているというところに皮肉を感じます。

(映画の終盤でムーニーを連れて行こうとする児童局の職員たちはムーニーに対して、ほとんど嘘しか言いません)

 

ラストシーンの「ディズニーランドへ駆け込む」の解釈として、「幻想に逃げ込むしかない」と暗示しているようにも見受けられました。

 

あと劇中ところどころに差し込まれる「ヘリが離陸していくシーン」。

あのヘリはどこに飛んで行くのでしょうか?

 

という感じで『フロリダ・プロジェクト』とても良い映画だと思います。

アノーラも楽しみです。

『ジョーカー フォリアドゥ』感想 ネタバレあり

※以降、ネタバレを含みますのでご注意ください。

 

『ジョーカー』を“台無し”にする『フォリアドゥ』

前作『ジョーカー』では弱者アーサーが自己を解放して「ジョーカー」になることで社会に暴走を引き起こすという、ある種の痛快劇でした。

しかし今作『フォリアドゥ』ではこの“痛快さ”は継承されていません。ある意味前作を「台無し」にするようにアーサーの惨めさが映し出されます。

では、だからと言ってこの映画は面白くないのか?

個人的には「台無しにしたから面白い」と感じました。

 

上昇志向のハーレクイン

その惨めさに拍車をかけているのが相手方として登場する「ハーレクイン」でしょう。彼女は劇中の演出を見れば「ジョーカーとしてのアーサーを利用して成り上がりたい」という意図が透けて見えており、彼女にコロっと騙されるアーサーの惨めさには目を覆いたくなるものがありました。

男性の苦悩は女性が出来ればほとんど解決するくらいの陳腐なものなのです。

 

まぁ「男に擦り寄って上昇しようとするキャラクター」のテンプレートとして、最期にはハーレクインはジョーカーのもとを去ります。

ただこの去り際が面白い。

わざわざ前作で有名になった階段で待っていてアーサーに別れを告げるのです。

今までの作品ですとこのような劇的な演出は「利用価値以外の情感があった」ことを示すものとして機能します。(必要ないのにわざわざという部分で)

しかしハーレクインは徹頭徹尾アーサーに利用価値以外の情はありません。そしてこの別れのシーンでも自分のことしか考えていません。

ではなぜハーレクインはわざわざ階段でアーサーを待っていたのか。

それは「ハーレクイン(自分)の物語を“映え”させるため」ではないでしょうか。

自分の物語の質を向上させるために、わざわざ映えスポットでアーサーを待って、わざわざ別れを告げた。そういうふうに考えると「フォリアドゥ」のテーマが少し見えてくるように思います。

 

この種のキャラクター(他者を利用して上昇しようとする)は求めるものは、その時代において大勢が望む欲望対象であることの私的にも繋がっているように感じられます。

例えば「お金」だったり、「社会的地位」であったり。

ハーレクインの目的が「自分の物語の質を向上させる」とするなら、それはそのまま現代社会の欲望対象の指摘にも繋がっているように思われます。つまり「お金」より「社会的地位」より、みんな「よい物語の主人公になりたい」と考えているということではないでしょうか。(それが人生)

 

どのように物語を選び取るかが問題

翻って考えるとアーサーの物語とはなんだったんでしょうか?

アーサーとしては気持ち悪いと邪険にされ、「ジョーカー」になったとしても報われません。

今作でアーサーの願いとして「立派な息子が欲しい」というセリフを発します。

これは「責任を果たしたい」つまりは「社会の仲間に加えて欲しい」ということだったのではないかと感じられました。

ではアーサーの願いを果たすにはどのような必要があったのか。そういうことを考えさせられる映画でした。

 

このような意味合いである意味前作を台無しにしているのが今作だと思います。

それは前作の虚飾性、つまり「弱者だから無敵の人」の「無敵」部分にスポットが当たりすぎていたという反省があったのではないでしょうか。

今作はこの「弱者」にスポットをあてて、その惨めさを表現している点において面白さがあり、それは前作の面白さとはかなり異なるものだと感じました。

映画「ジョーカー」を振り返る

続編公開前なので「ジョーカー」を見返しました。久しぶりに見るといろいろなことがダブルミーニングになっていて、格差や分断の問題を表現しているように感じます。

 

僕はみんなを笑わせたいだけ

これも今まではジョーカーになる前のアーサーが持っていたささやかな夢だと思っていました。しかし今回見返して観て、それだけではないと思うようになりました。

アーサーにとって「笑う」とは、何だったのでしょう。

コメディアンであるアーサーにとって「笑う」というのは面白いことや楽しいことに対する感情表現としての意味合いももちろんあったと思います。

しかし同時にアーサーは自分でも意図しない笑いが出てしまう病気にも苦しんでいました。劇中で悲しみや緊張など、本来「笑い」という感情には相応しくない場面で笑ってしまうという苦しみとして描かれます。

つまり「笑わせたい」というアーサーの夢は、「みんなを幸福にしたい」という意味合いと併せて、「みんなを不幸にしたい」という二重の意味合いが込められていたように思います。

アーサーがジョーカーに変遷していく過程で、彼の夢は後述の意味に偏っていきます。

 

ジョーカーになったアーサーは幸福だったのか?

そしてアーサーは有名な階段のシーンを経て「ジョーカー」として覚醒(解放)します。

彼は自己を解放して幸福だったのでしょうか?

追ってきた警官を電車でまいたアーサーは悠々と駅から立ち去ります。

この時アーサーの右目から一筋の涙が流れていることを確認することができます。

映画の冒頭、ピエロのメイクをしているアーサーは左目から涙を流しています。この涙は自己を抑圧してピエロとして笑顔を見せなくてはならないアーサーの心情を表現したものです。

このシーンと韻を踏むかたちで流される「右目の涙」は何を意味するのでしょうか。

「ジョーカー」として自己を解放した結果としても、アーサー個人の幸福は獲得できていないように見受けられます。

 

この「ジョーカー」の続編となる映画が明日公開されます。分断を描いた前作から今作は何を描くのか? ジョーカーになっても幸福になれなかったアーサーは今作では幸福になれるのか? そのあたりを楽しみにしたいと思います。

 

 

 

『エルデンリング』DLCクリアしました

 

※ネタバレご注意

 

新しくキャラ作り直して123時間くらいかけてDLCクリアしました。

ラスボスはレベルを280くらいまで上げてようやく倒すことが出来ましたよ。(一周目)

プレイヤースキルがないので基本攻略は魔法剣士ビルドで、どうしても倒せない時だけ盾チクビルドで行きました。

あいかわらずアートワークの力がすごいですね。話は全くわかりませんが、とても引き込まれます。