結論として、生きている意味は以下の2点に集約されると思う。 友人や恋人、家族など身の回りの人たちと良い影響を与え合うこと。子孫、あるいは社会的な功績を残し、自らが生きた証を後世に伝えること。友人や恋人もおらず独り身で、毎日どうでもいい仕事をしながら自分で自分を養うだけしかできない我々は生きている価値が無いのだろう。 資本家に搾取されるだけの人生。それだけだった。

SB新書『集中力はいらない』の初校ゲラを読み終わりました。これは、来年の3月刊予定。執筆依頼があったときには、集中力をどうやって発揮するのか、という内容を期待されたようですが、森博嗣ですからね、まあ、なるようにしかなりません。 今日は作家の仕事はお休み。明日(10/10)から、Wシリーズの新作を書き始めることになっているので、その予定に従った休暇ですが、前倒しにしなかった理由は、引用するSF小説が、注文したのにまだ届かないからです。Wシリーズでは1作めから有名SF小説を引用しているのですけれど、そのいずれも、僕は読んだことがありません。では、どうやって選んでいるのかというと、ネットで有名な本として名前が挙がっているものの中から適当に選んで買っています(不適当かもしれませんが)。 引用文なんかあと回しにして書き始めれば良いではないか、と思われるかもしれませんが、僕は、タイトル、巻頭の引用文、
コンサルタントをやっていたころ、「議論」を見る機会がよくあった。 「見る」といったのは、私が議論に参加することは殆どなかったからだ。 というのも、コンサルティングには 「お客さんとは絶対に議論するな。お客さん同士で議論してもらえ」 という原則があり、私はそれを忠実に守ったのである。 そのため私は、第三者として、様々な会社で、多くの議論を見る機会に恵まれた。 そこで一つ気づいたことがある。 「議論のうまい人」と「議論がへたな人」は、非常にはっきりと分かれるのだ。 「議論」とは何か 当然、人によって議論に抱くイメージは異なるだろうから、まずハッキリとさせておかなければならないのが、「議論」の定義だ。 広辞苑にはこのように書かれている。 【議論】 互いに自分の説を述べ合い、論じ合うこと。意見を戦わせること。またその内容。 (広辞苑第六版) 私が見てきた議論の殆どは会議やディスカッションなど、 「
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