新刊『 スマホの中の子どもたち デジタル社会で生き抜くために大人ができること 』(エミリー・ワインスタイン、キャリー・ジェームズ著、解説:水野一成、日経BP)の翻訳を手掛けたのは、国際大学GLOCOM 主幹研究員・准教授の豊福晋平さん。ここでは本書収録の「訳者あとがき」を紹介する。教育情報化の研究者である豊福さんは、いかに本書と出会ったのか。本書はいかに画期的なのか。「大人の都合で子どもたちを統制しても、やがて行き詰まる」と語る、その真意とは。

 自分が大きな影響を受ける書籍との出会いは、いつも偶然だ。今回のきっかけは、本書の著者らが開発に関わったコモンセンス・メディアのデジタル・シティズンシップ教材である。中でもインタビュー動画教材シリーズTeen Voicesの完成度の高さとインパクトに驚嘆したことから、本書の翻訳に至るストーリーは始まる。

教材開発を支える本書との出会い

 Teen Voicesは、その名の通り中高生を対象とした教材で、ソーシャルメディア、友人関係といったテーマについて、多様なティーンエイジャーが次々と淡々と語る動画だ。しかしながら、視聴者を惹きつけて止まないのはその台詞にあって、身近な経験・葛藤・主張がちりばめられ、思索の深さが裏打ちされていて、共感を促すものであった。こうした動画がどんな経緯で制作されたのだろう?

 ここで翻訳者の素性を少し説明しておこう。私は社会学ではなく、心理学・教育学をベースにしている研究者だ。1990年代から教育情報化の研究に関わり、かつては学習者中心の1人1台端末活用を展望し、最近はデジタル・シティズンシップの普及と教材開発を展開している。

 きっかけを得た当時(2019年)、我が国は、1人1台学習者用端末整備を中心とするGIGAスクール構想の前駆段階にあった。私を含む研究グループは、デジタル環境の日常化や学習環境への普及を前提に考えたとき、これまで我が国で主流とされてきた、いわゆる、抑制・他律・心情主義の「情報モラル」アプローチはいずれ行き詰まると考えた。

 情報モラルは、伝統的な教員主導型授業をモデルにする。教員がデジタル環境利用場面の管理・介入を目論むほど、負担は重くなるので、結局は厄介モノ扱いされ、統制(学校では満足に使わせず)と放逐(家庭利用は家庭の責任)になりやすい。この構造的課題を解決しない限り、GIGAスクール環境の日常的運用はおそらく実現できない。

 むしろ、デジタルデバイスの使い手としての子どもたちには、学習者主体の活用・自律・行動規範をベースにしたデジタル・シティズンシップの考え方と、これに見合った新しい教材開発のノウハウが必要だと考え、たどり着いたのがコモンセンスの教材群だった。

 私たちは、国内教材開発のために、指導案・動画・関連レポートの徹底的な翻訳・検討を行う中で、教材開発の軸となる画期的なアイデア・方略と、背景となる本書に出会ったという次第だ。

 翻訳を手掛けて分かったのは、動画で示されるティーンエイジャーのデジタルジレンマや台詞が、ほぼ本書の内容(正確に言うと書籍化は動画制作の後)をもとにしていることだ。つまり、動画のインタビュー的な語りも芝居なのだが、それでも不自然に見えないのは、膨大な調査で得られたエピソードが下敷きとなっているからに違いない。

本書はなぜ画期的なのか

 さて、本書が画期的とも言えるのは、著者らの主領域でもある社会学をベースとしていることに加え、ハーバード大学のプロジェクト・ゼロで培われた知見も合わせて、教育的な働きかけを指向している点にあるだろう。

 具体的に言い直すと、①10代の若者の声を中心に据えた研究アプローチを採用し、彼らによって構成されたアドバイザリーグループと協力して、調査結果の共同解釈を行ったこと、②スクリーンタイムなどの単純な指標から、判断力やエージェンシー(主体性)へと課題検討のフレームワークを転換したこと、③「スマホを手放しなさい」「セクスティングなんてしないで!」といった単純な命令や決めつけではなく、共感と対話理解に基づくアプローチを提唱していること、④調査結果を実践的なアドバイスに換えて、保護者や教育者がティーンエイジャーのデジタル生活をサポートする具体的方法を提供していることだ。

 特に、デジタル環境の使い手としてのティーンエイジャーの認識を丁寧に踏まえたうえで、教育的な働きかけまでフォローしているのは貴重だ。世界中にデジタル・シティズンシップの教材を提供する機関はいくつもあるが、児童生徒側の置かれた複雑な状況と立場の理解に、これだけのウェイトを置いている例は、他にはないからである。

 というのも、教育的な営みは、たいてい大人対子どもの非対称関係の中で展開されるので、大人側の都合が普通に優先されるからだ。ただ、テクノロジーを扱う場面では、子どもの認識やスキルがしばしば大人を超えてしまうので、大人側が常に知識やスキルを与える構図を壊してしまう。これが大人の不安や動揺のタネになる。多くの大人にとってみれば、子どもが先へ先へと行ってしまうのを放置するわけにもいかず、かといって、圧倒的知識をもって子どもを説得するのも難しい。こうした大人の弱みが露呈すれば、テクノロジーと子どもたちの界隈で起こっている事象を、冷静に捉えるのが難しくなったり、テクノロジーに対する忌避・蔑視・憎悪や、子どもに対する強硬な態度として表出されたりする。昨今は、一部マスメディアの煽りも加わって、社会的なパニックを引き起こしていると言っても過言ではない。

大人の都合や価値観による教材の弊害

 こうした社会的背景と「複雑な」状況があるのに、なお、私たちが学校教育向けの教材開発を急ぐのは、将来的なニーズの高まりに先んじて、国内での実践者と授業実践を増やしたいからだが、彼らの洗練された教材・概念・方略が公開されていることが、力強い支えになっているのは明らかだ。では、それらは現在どのように展開されているのか。ひとつ例を挙げて日本国内の状況を紹介しておこう。

 本書の冒頭にも登場する「スクリーンタイム」問題は、保護者の困り度も高いので、学年を問わず「スクリーンタイムの抑制」が目標として掲げられる機会が多い。ありがちな授業テンプレートはこんな感じだ。利用時間統計を示して、児童生徒達がどれだけの時間をデジタルデバイスに費やしているか示す。2時間以上の利用で成績が低下することを言う(ちなみに、調査結果は相関関係を示しているに過ぎないが、この手の解説や授業では、因果関係として説明する)。使い過ぎは健康や学業に影響するのだから、利用は2時間以内のルールに従え、家庭で使い方のルールを決めろと言う。最後は、児童生徒にどのように改善するのか発表(宣言)させる。

 この手の教材は「正しい知識やスキルを与えれば、子どもが意に沿った判断をするようになる」という素朴なロジックで組み立てられるのだが、あまりにも大人の一方的都合や価値観の押し付けが過ぎて、子どもの側の認識や主張を含ませる余地がほとんど残らない。子どもの能力は、しばしば不当に低く評価され、大人の要求を飲ませるための都合として利用される。本書の中でも、著者らが繰り返し主張しているような「複雑な」事情がすべてスルーされて、あらかじめ用意された結論への忖度を求めるような展開が繰り返されれば、子どもたちの自己効力感は著しく傷ついてしまう。

 本書がターゲットとしている中高生の場合はもっと厳しい。中高生相手に授業をすれば、話し出す前から「どうせ説教するんだろ」的な、諦めにも似た雰囲気が漂ってしまう。もちろん、授業中の態度は悪くないし、発表や意見を求めれば答えてくれるが、概して言葉は少なく、(大人が暗に求めがちな)優等生的回答しか返って来ない。生徒側から本音や情緒的な反応が得られないのは、心のモヤモヤをぶつける相手としては、端から期待されていない、ということだ。

(写真:siro46/stock.adobe.com)
(写真:siro46/stock.adobe.com)

有効な教材を作るために

 日本国内の中高生向けにも有効な教材を作るには、先に示した①10代の若者の声を中心に据えた研究アプローチが不可欠なのはいうまでもないが、現状はまだまだ脆弱で、限られたアンケート調査機会(本書「解説」を参照)を除けば、注目されることもまずない。こうした丁寧な調査には相応の時間とコストがかかるうえに、社会的なニーズ喚起が難しいのだろう。

 私たちとしては、ひとまず②~④を教材に取り込むことから始めているのだが、約4年を通じて開発した教材に対する反響は、予想以上に大きいものがあった。

 ②については、「スクリーンタイムの抑制」ではなく、子どものエージェンシー(主体性)に焦点付けた教材群を構成している(※注1)。小学校低学年ではデバイスの「ごきげんなおしまいのしかた」、中学年では「デバイスをお休みするのはどんな時?」、高学年では「メディアの使い方、自分でバランスをとるには?」、中高生向きには「アテンションエコノミー[ユーザーの注意を引き、長く留まらせることで利益を得るビジネスモデル]と私たちの情報生活」といった一連の教材のゴールは、「自身で相応しい時間管理ができること」にある。

 ③④については、保護者向け教材・総務省「家庭で学ぶデジタル・シティズンシップ」が参考になるだろう。大人であっても、デジタル世界についての知識スキルには凸凹があるのだから、一緒に学んではどうか?という提案も含まれる。特に、思春期の子どもたちを相手にする場合、本書第8章で語られる「決めつけではなく問いかける」「呆れるのではなく共感を優先する」「戒めだけでなく複雑さを受け入れる」ことが、持続的な対話の条件になっていることが理解いただけるだろう。

 こうして、GIGAスクールやデジタルデバイスの日常化をうけ、状況は変わりつつある。学校でのデジタル・シティズンシップ教育の採用は確実に増えている。デジタルと子どもの課題で翻弄される保護者も、まず誰の声を聞くべきか、気づき始めているのではないか。

 本書がより多くの人々の手に渡り、10代の若者の声が多くの同世代と大人たち、さらには教育や政策にも届くことで、単なる規制・禁止論に陥ることなく、むしろ、若者を実質的にサポートするための議論・検討が盛んにされることを願ってやまない。

(写真:fumi/stock.adobe.com)
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<訳者>豊福 晋平(とよふく・しんぺい)
国際大学GLOCOM 主幹研究員・准教授、日本デジタル・シティズンシップ教育研究会(JDiCE)共同代表理事
一貫して教育情報化に関する研究に取り組み、インターネットの学校間交流、ウェブサイトを中心とした学校広報、北欧諸国をモデルとする学習者1人1台のICT文具論(脱教具論)などを展開してきた。近年は子どもたちの倫理的・社会的基盤を形成するデジタル・シティズンシップ教育の普及・教材開発に深く関わり、経済産業省STEAMライブラリのデジタル・シティズンシップ教材、保護者を対象とした総務省「家庭で学ぶデジタル・シティズンシップ」など、短篇動画を活用した教材群を生み出している。

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