「無理なお願いやしつこい誘いを断れなかった」「デリカシーのない質問やマウンティングを我慢した」などの経験は、ありませんか? 『エレガントな毒の吐き方 脳科学と京都人に学ぶ「言いにくいことを賢く伝える」技術』では、相手をいらだたせずに、自分のもやもやをそっと気づかせる方法を脳科学者の中野信子さんが解説しています。抜粋編第3回は、「イケズに隠されている思いやり」について紹介します。
イケズは外国人に通用するのか
「お宅のお嬢さん、ピアノうまくなりましたね」とアメリカ人が言われたらどうなるでしょう。
もちろん人によるでしょうが、かなりの確率で、イケズが通じないかもしれません。
「うまいでしょ? 将来は音楽大学に通わせるつもりなんだ」といった返答がありそう。そして、その瞬間、京都人はあのあいまいな上品な笑みを浮かべ、スッと引いていくのでしょう。
もちろん、江戸の人間も同じように言われたら「へっ、そうでもねえよ」と言ってうれしそうな顔をすることでしょう。そして、その瞬間、京都人はふふふと口の端に笑みを浮かべて、スッと引いていくのでしょう。
江戸の人間にとっては、この笑みは恐怖の笑みでもあります……。
江戸時代の日本にピアノはなかったのではというツッコミはさておき、京都人が「うれしいわぁ」と口にしたとき、それは本当に、うれしいときもあれば、うれしくないときもあるといいます。初心者には見分けが難しい。
京都人は、これは見分けなくていいんですよ、とも言います。本書には、見分ける方法についての項目も一応設けましたが、そういった感知ができなくても、京都人は「この人は感知しないんだな」と思ってそこで流すのだから、そこで話が終われば別にいいのですということでした。
もしそこで会話が途切れてしまっても、それは単に「これ以上この話はしたくないです」というような表明にすぎず、ただよそ者として扱われるだけなのだから、それ以上リスクが大きくなることはない。そこで話が終わればいいというわけです。
たとえば、「けったいな人やな」と言われたらもう「怒ってる」ということだと感知できれば、それはそれで分かっているということにはなる。けれど、そこは伝わっても伝わらなくてもよくて、大事なのは完全な決裂をもたらさないというところ、物理的な破壊のリスクを避けるというところなのだから、コミュニケーション上、一見そこは割り切れない感じがあるところをあえて残しておくのがむしろテクニックともいえるのだといいます。
人間関係に大切な「伝わらない」前提のコミュニケーション
対照的に江戸式、または現代社会風の「本音で言え」という話は、要は「ちゃんと伝わるようにしましょう運動」と言い換えてもよいもので、「こちらの言うことは間違いなく、自分の考えを100%言うから、それを100%受け止めてほしい」という、割と無理筋な要求でもあるわけです。
そんなコミュニケーションは、伝達効率としては理想的なのかもしれませんが、人間関係を維持するということを目的とした場合、実はあまりいい方法ではないのかもしれません。なぜなら人間の脳には限界があり、自分とは違う考えを持つ相手の十分な理解のためにはエネルギーも知能も時間も必要で、端的にいえば、疲れるからです。
冷静になって考えてみれば、100%本音を分かってもらう必要なんてなかったな、としばしば自省的になるということは多くの人に経験があるのではないかと思うのですが、実際はそんなに高解像度でいちいちこちらの情報を伝える必要はないのに、伝えるべきだ、という基準が設定されているだけで、本音で言わなかったということが互いを傷つけ合ったりしてしまうという場面もよく見かけます。
京都式では、「伝わらないこと」が最初から織り込み済みです。その1つの言葉の中に、相手の受取レベルに応じて2つの選択肢が必ず入っています。
伝わらなかったときは、それはそれでいい。誤解されたそのままの意味でコミュニケーションを続けていく。ただ、伝わったらちょっとうれしいな、というところはあり、その伝わったうれしさをどこかににじませておく。
伝わったときはお互いすごくいい感じの関係になれるし、伝わらなくても特に問題は起こらない。仮に、相手を拒絶するにしても、「あなたのことは嫌いだから二度と来ないでください」とは言わない。「この人には今ちょっと近づかないほうがよさそうだな」「じゃあしばらくは来ないほうがいいかな」と思ってもらうくらいで十分で、そうすれば結果的には同じことになり、相手から来ることは事実上なくなるわけですから、コミュニケーション法としてこれほど洗練された、スキのない方法はないということになります。
こういう状況を実際に見るにつけ、東京育ちの自分は、京都はすごいところだなあ……と感じさせられてしまいます。
中野信子(著)、日経BP、1320円(税込み)