Ethics-changのブログ

普段体験していることを思うがままに書いていこうと思っています。

倫理を学んで行くために必要なこと

 断酒継続中!もうアルコールなしでも特に飲みたいとも思わず生活が継続できている。もう慣れてきたという感じ。ただ、断酒して、運動も昨日は5キロ走るなど結構している(ちなみに昨年の9月頃まで走っていたのでそのときと変わらないペースで走れている。)。ただなぜか血圧は高血圧のままである。運動の後は確かに最高血圧最低血圧も低下するのであるが落ち着いてくると徐々にあがってきて、高血圧の値になってくる。身体の変化はゆっくりなのでしばらく続けていくしかないと考えている。

 現在、HUAWEIのスマートウォッチ(WATCH FIT)を使用しているのであるが、それと連動するアプリが非常に優秀なのと運動プログラムも時計と連携していてとても素晴らしい。

 ここ最近、Netflix花田少年史を全話視聴した。作者はピアノの森などの作者の一色誠先生。昭和の田舎でごく普通に暮らす小学生花田一路が突然おばけが見えるようになり、いろんな出来事が生じておばけと一緒に問題解決をするという物語である。原作は漫画でアニメ化や映画化もされている。原作は1995年度 第19回講談社漫画賞受賞をしている。なんとなく知っていたのであるが、今回通して見たのは初めてだった。

 

 花田少年はおばけにいろいろと現世に残した未練を一緒に解決していく、はじめの頃はなぜ自分ばかりが一緒にしなければならないのかと不平不満を述べつつ、しょうがなく対応している部分があるのであるが、回を重ねる度におばけになったいきさつやどうしようもない思いに徐々に気持ちを寄せてくることができている。このアニメを見ながら考えたのであるが、人が倫理的(どう生きていくのが良いのか考えていくこと)に考えていくためには、死者との対話が必要なのではないかということである。お化けたちのもしかしてだれも耳を傾けてくれないかもしれない思いに耳を傾けること、聞こえてきた声が自分だけに聞こえる者かもしれないが、確かにそれはあると信じて自らの行動を考えていくことが倫理なのではないかと思ったのである。

 これは決して今生きている人同士で学ぶことができないのではないか?もうそこにいない人がいるからこそ、そしてその人がなにがしかの社会に対する思いが残っていることを感じ取ることそのことが今をどう生きるかに繋がるかもしれないと思ったのである。

 かつてみうらじゅんは新聞の連載で

相手の気持ちになることが優しさなのに、慈愛ではなく、自愛を強め、人は悩みます。(みうらじゅんのお悩み祭り 最終回)

と述べていた。もうそこにいない人の気持ちになることが人を人が人らしく生きるための必要なことだと思う。だから、人は様々な方法で人を弔い、思い出すように墓などを作ってきたのかもしれない。そんなことを考えながら今日も一日頑張っていこうと思う。

 

 

私たちの間にあるもの

  断酒継続中!最近は朝にランニングを3~4キロしたり、ワークアウトをしたりして身体を動かしている。以前の健康診断では血圧が高かったので運動して少し下げようと思ったのだが、上(収縮期)は大分落ちてきたのであるが、下(拡張期)はなかなか下がらない。昨日は精密検査を受けて、診察も受けたのであるが、医師に検査結果を見てもらい、急に血圧が上がってますね。理由は?ときかれ、正直にいろいろありまして、帰りにお酒を飲んでました。と言うとクスっと笑われてします。悪意を感じる笑いではなかったのでいいが、いい年してみたいな雰囲気だった。その後、夜には本仲間と食事に行く!もともと精神的な持病を持っておられるのであるが、本人の認識と周囲の意見の違いに改めて目が開かれる思いだった。例えば求職中に自分の病名をオープンにすると途端にお断りが来るとのこと。なかなかオープンにして雇ってくれるところはなくて、見つけるのが大変だと行っていた。しかし、持病のあることを隠してしまうと今度はそれを隠し続けるために様々な小さな嘘をつき続けなくてはならない。本人はそのことに気がついてオープンに出来るまで10年かかったと言っていた。また専門職の人は私たちのことを知りたがるが、私たちは少しでも身体がしんどいのを楽にしてほしい。理解されることより楽になれることである。自分と相手で認識が異なることも言っていた。また自分にとって持病は自分のなかの少しの存在であるが、周囲の人は病気を中心に考えられて、変に気を遣われてしまい困るとのことだった。

 このように障害に対してはまだまだ、差別や偏見(スティグマ)や対応のミステイクがよく生じる。スティグマとはもともと焼印(牛などに押される印:絶対に取れない、ずっと背負い続ける汚名)の意味。

上記の本は最近購入した本であるが、そのあたりの障害を持たれた人の経験やスティグマのことについて研究を網羅しながらまとめている本である。少し高い本であるがなかなか読み応えのある本である。どうすればいいのか?この本には障害を持たれた当事者と出会うこと、そして出来れば一緒に体験することで障害の理解などが格段に上がることを述べている。反対に病気や障害の理解を伝えすぎると自分たちと異なる人のように理解されてしまって、逆に差別がひどくなるとも書かれている。

 ちなみに別の研究では疾患の知識や対応方法を知っている医療専門家も実は一般の人とあまり変わらないスティグマをもっていると言われている。

 健常者と言われる人も実は大なり小なり行きづらさや身体や精神のままならさを持っているのに健常者というカテゴリーを意識することで実は生きづらい側面があるのかもしれない。

 

上記の2冊の本は、そのことに対する答えとなっている本となっている。自分のしんどさをオープンに出来て、緩やかに無理せずみんなの中でいれるそんな街は自殺が少ないとのこと。反対に自殺が多い町は自分で何でもしなければならない自立を必要とされる街とのこと。このことを示している映画がある。

ショーシャンクの空に HDデジタル・リマスター版 [Blu-ray]

図書館係をしていた高齢者が刑期を終えて外にでて、一人暮らしを始め、仕事場ではいろいろと言われ、家に帰れば孤独でついに自殺を選んでしまう。そう孤独こそが人の命を奪う最大の凶器なのだ。だからそのつらさを知っているが故にいじめで無視を行うのである。

 人間は社会的動物なので社会で暮らすことが出来なければ生きることが出来ないのである。かつて中島らもは、「いいんだぜ」という曲を作り、歌っていた。


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今となっては方法禁止の言葉があふれかえっている歌であるが、中島らものだれもが平等に対応する姿勢がそこにある。きっとだれもがいいんだぜと寛容になり、許せると良いのかもしれない。

今日も最後まで読んでいただきありがとうございました。

 

落ち込みからの脱出を図るために

断酒は継続中!昨日は会議で他のスタッフから「もしかして痩せました?」と言われ気がついてもらえたことに少し嬉しくなる。気分は相変わらず落ち込んでおり、なかなか浮上しない。昨日も人が訪ねてきてくれたが、少し厳しいことを言ってしまい。その後自己嫌悪に陥る。相変わらずだなと思う。こういう時は、自分で自分を励ましたくて、誰かが失敗や落ち込みに対応について話している動画を見たりする。

現実は何も変わらず困っているのであるが、ひと時でも自分が逃げ込むために何度も見ることがある。少し紹介する。

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まずみうらじゅんみうらじゅんに訊け!お金編。もう何回見たかわからないぐらい大変な時や人が困っているときに一緒に見ている。動画の中に出てくる。「不安は投げ石のように遠くに投げたらわからなくなる」や「考えても仕方がない」という言葉がある。一瞬「そうなんだ」と思って逃げることに成功するが、後々現実がやってきて辛いことになってくる。でもこの言葉を聞きたくてつい見てしまう。

 次は先日も紹介した中島らもである。

 

前回

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は1日の天使を紹介したが、今回は失敗してもめげずにしつこく生きていこうとする姿や言葉がある。これを見ると色々あるけど生きていこうという気持ちになる。基本的に人生には目的なんかないし、成功もないし、その瞬間を楽しんで生きていこうという姿勢が気持ちを楽にしてくれる。それでもひと時であるが。

どうしようもなくなってくると頭木弘樹の絶望名言がいい!

これは、古今東西の絶望にいた人たちの言葉を取り上げ解説している。絶望には明るい話ではなく絶望なのだ。さらに絶望へと向かう言葉を読むことによって何かやっていけそうな気がする。束の間であるが。

でも人間は歳をとると変化していくようで、実は変化していないことの方が多い。特に歳を重ねてくると同じような失敗を繰り返すこと、しかもそれらの失敗から何も学んんでいないことに愕然とする。みうらじゅん中島らもや絶望名言でカフカが想像を絶する絶望の言葉を読んでも、自分自身がここにいて、あいも変わらず変わり映えのない自分がいてさらに愕然とする。「最後は自分次第」なんてよく言われるが、それさえも何が自分なのかをよくわからない。自分がわかるということはなかなか難しいことだと思う。そんな中でおすすめなのは「君と宇宙を歩くために」

この漫画は生活がなかなかうまくいかない2人がそれぞれ苦労しながら生活の工夫を見つけ出し、世の中という宇宙を歩いて行くという話、いろんなことがあるがこうやって周囲が安心した環境のなかで試行錯誤が許されるということがとてもいいことなのだと思う。これはおすすめです。

 読んでいる人からは、「どうすればいいんだ」という声が聞こえてくるが、本当のところはわからない。わからないから、困っているのだ。

こんな自分の体と頭を半分受け入れつつ日々を生きていくしかないのである。ある意味そうやって変わらず生きていくこと、自分がアホなことを引き受けていくことが必要なのかもしれない。

さあ、今日はどんな1日になるのだろうか?その筋書きが読めない流れに身を挺していこう。

今日は鬱々とした内容でした。

最後まで読んでもらいありがとうございます。

魅力は難しい。

 断酒は継続中!飲まないことが普通になってきました。本日は同じ仕事をしている人と食事であった。たぶん会うのは半年ぶり!断酒していることを伝えると驚かれたが納得してもらえた。

 食事中の話は業界の話が多く、どこも苦戦していることが話題となっていた。どうすればその仕事の魅了を伝えることができるのか?次第に話題は今後のこの業界のあり方に移っていった。この魅力という言葉が曲者だと思う。なぜなら魅力させ上がればというように魅了がなにか物事がうまく行かない原因のように思われているからである。だからあらゆる場面でとにかく魅力が多用される。「企業の魅力」、「学校の魅力」、「商品の魅了」などなど。そして魅力という問題が解決したら物事はうまくいく。そんなふうに思われているふしがあるとと思うのである。

でも本当にそうなのか?魅力がないことが原因なのだろうか?

 人はよく原因と結果を見間違える。またちょっとしたことで因果関係があると思ってしまう。何か関係ありそうと明白に原因によって結果が決まっていることの違いをよく考えないといけない。

今回の場合、明白に原因と結果が決まっている因果関係と捉えて、魅力を因果の原因と考えているのである。魅力という言葉は、明解国語辞典によると

それに接する人の心・気持ちを強くとらえ、ついにとりこにさせるようなすばらしさのあるもの。(明解国語辞典)

と書かれている。接する人の心・気持ちを強く捉えるということは、その人々の様々な背景によってこころを強く捉えるということが生じるので、なかなかこれが万人にうけるということが難しいと思うのである。例えば、今テレビやサブスクでたくさんのアニメが放映されている。時々、多くの人が視聴するアニメが登場するが、いろんな人と話をしているとそれぞれ好きなアニメが違ったりしている。またたとえ同じアニメであってもどこで魅力になったかは異なることが多い。主人公に魅力を感じる人、ストーリーに感じる人、声優に感じる人などなどである。つまり魅力というのはとても個別性が高く、どこで魅力を感じるのかはその人によって違うと思われるのである。もし、みんなが魅力を感じるアニメであれば、多くの人が視聴しようと思うからである。しかし、テレビの視聴率などをみれば分かるとおり、人気のある番組でもそれほどでもない。また、こちらがきっと受け手にはこれが魅力的だろうと思って表現をしても必ずしもそれが、相手の魅力を引きつけるとも限らない。

 ではなにが大切なのだろうか?例えば、先日ブログで山崎邦正の落語を紹介した。これまで、山崎邦正が落語家になったことは知っていたが、特に聞こうともしなかった。それが、知り合いにとても面白いよと言われて、見てみるととても面白かった。山崎邦正の落語にとても魅力を感じたのである。

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自分では探しに行こうとも思わなかったが、人から聞いたことで視聴し魅力を感じていたのである。そうすると、魅力を感じてほしい人に周囲の人がなにか魅力がありそうな情報を伝えることが大切ということになる。ではどうすれば周囲から情報が伝わるのか?それは普段仕事で出会う人に丁寧な仕事をしていることが繋がると思う。

 以前、哲学者の鷲田清一先生の本に、火山学者が毎日火山を観測していて、周囲の人がその取り組みに感銘を受け、火山の噴火の予測が誤ったときも周囲の人々はその学者の普段の姿勢からその失敗を許したと書かれていた。(記憶なので曖昧です。)

 普段の姿勢が周囲の人々に与える影響が、少しづつその魅力を形作るのではないかと思う。そうすると普段がとても大切だということになる。

それを表しているのがハンズのブランド動画である。

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このような、コンセプトがあり、そしてそれを見た人が実際の店に行ってコンセプトを実感できると、いろいろな人に伝わっていくのであると思う。

今日は少し硬い文章になりましたが、最後まで読んでもらいありがとうございました。

今日も断酒続けていきます。

応援よろしくお願いします。

 

痩せるのは足から

 継続して断酒している。昨日は妻がワインを買ってきて飲まない?と勧められたが、今辞めているのでと断った。特に理由も聞かれず。ふーん。という感じ。

 夕食前に昨年の9月以来の3キロのランニングを行う。久しぶりなのでゆっくりしたペース(キロ7分)で走る。そして疲れていたのか、夕食食べて、9時半には就寝。頭はいろいろと不安ややらないとという意識でいっぱいだが、身体がもう休もうと眠気で訴えてくる。こんなに早く寝たのは久しぶりだった。でも、結局3時半には目が覚めてしまう。

どうもの5時間ぐらい寝ると自然と起きるようになっているのかも。もっと朝6時ごろまで寝たいのに身体は思うように動いてくれない。

 好きな推しアニメに「ぼっちざロック」がある。もう何回も繰り返し見ているほど好きなアニメなのであるが、確か2話で主人公のぼっちちゃんこと後藤ひとりがバイトに行きたくないので、水風呂に入って熱を出そうとして失敗するシーンがある。そこでぼっちちゃんは「丈夫な身体が憎い」と述べている。

https://bocchi.rocks

ぼっちざろっく!真ん中が後藤ひとり

やはり身体はままならないものとして表現されている。

 頭では消えてなくなりたいと思っていても、身体は食事などを求めるし、頭ではエレガントにベースを弾いているようでも身体は思うように動かない。

 ここ最近少し編み物を行なっているが、これも頭ではわかっているが、なかなか思い通りに行かない。そんな中で作成した作品がこれである。f:id:Ethics-chang:20250512084252j:image

こんな小さな作品でも慣れないものとしてはなかなかの難易度であった。でもなぜかままならないが故にとても集中した。

 頭と身体の不思議な関係はいろんなところで見え隠れする。病気や障害を持つことや人間関係など一見頭だけ身体だけのように見えても、頭と身体の関係の中で行為が作られてくる。

でもいろいろなことを学んできた私たちは頭の方が偉いと思って、身体の声を聞かないことが多いと思う。

意外と身体の声なき声を聞くことが大切なのかもしれない。

 ここ最近の摂生と運動のおかげか今日の体重は少し減っていた。あまり痩せたという実感はないが、出かける時に靴を履いて靴を大きく感じて、痩せてると実感した。頭は何キロと数字で痩せたと判断するが、身体は靴のフィッティングで感じていた。もしかして頭では気づかないところからやせているのかもしれない。

今、電車でこれを書いているが喉が渇いてきたので水でも飲もう!

今日も最後まで読んでもらいありがとうございました。

 

憂うつながらも

 アルコール断ちは相変わら継続中!昨日も同僚と外で仕事があり、帰りに少し食事をすることになり、飲み屋さんに立ち寄ったがノンアルコールビールで過ごす。昔、務めていたときに精神科の先生が日本はアルコールに寛容であるが、飲めないと断っても無理に飲ませることもないので断ってもいいということを思い出す。その前にも食事会があり、いまアルコールを止めていると話すと「なにかなやんでるのか?」、「一口でも飲んでみたら」とか言われ、修行をしているひとに現世の面白さを伝えるようにもったいないとか一口飲んだら飲みたくなると言われるが、それも最初の内でしばらくするとだれもその話題に触れなくなる。特に強要されることもなく、食事会は進んでいった。家でも断酒以来お酒を買っていないのであるが、誰もそのことに触れてくる人はいない。とうことで、今日も断酒は継続できている。気長にやっていこうと思う。

 それより、前回も書いたが睡眠が浅くなっている。昨日も目が覚めて時計を見ると午前3時、確か11時頃には珍しく寝たはずなのに。いつもは深夜1時頃に寝るので5時半頃に目が覚めるのであるが。とするともしかして3~4時間すると目が覚めるのかもしれない。隣で妻が気持ちよく寝ていたり、子どもたちも朝いつまでも寝ている姿をみるともうあんな感じで寝ることができないと一抹のさみしさがあるが、こればかりはしょうがいない。寝不足かどうかもよく分からないが、なんとか1日やっていこうと思う。

 とここまで、くどくどと自分のどうしようもないことを書いているが、まだまだあきれることがあるのかもしれない。自分のどうしようのなさに気づくこと、それを隠さずに表現できることがいまのテーマかもしれない。

最近は山崎邦正の落語が面白い。先日、精神科の医師と映画に行ったときに山崎邦正の落語が面白いと聞いた。実際YouTubeにあがっている落語の動画をみるととても面白く、人物描写が多彩だった。落語は不思議な話芸で、一人で様々な人を描いて物語をつないでいく。聞いている者がその仕草や声色と話の流れで想像する話芸だと思う。山崎邦正の落語はその想像をうまく引き出すための触媒となっている。

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かつて筒井康隆が、ナンセンスやブラックユーモアがそのこと自体が実は本人に問いかけるものと言っていた(出典や正確な引用ではない)のを思い出した。

落語は弱者に優しい芸である。そして、話を聞いて笑えてくるのも落語に登場するどうしょうもなく失敗をしている人に自分を重ね、その人を許すことによって、自分を許しているのかもしれない。

人はその弱さを隠したくてしょうがない。でも落語はどんな偉い人も実は弱さを抱えていてどうしょうもないものだと、みんな50歩・100歩と伝えているのかもしれない。

本日も最後まで読んでいただきありがとうございます。

回復!でも憂鬱!

前回、町田康の酒を止める話を読んでお酒を飲んでいると書いたが、実はそれ以降お酒をやめている。

その後お酒を飲んだのであるが、飲みたくないという気分になった。だからもうかれこれ2週間ぐらい酒を口にしていない。案外やっていけている。思えば2年前にもほとんどお酒は飲んでいなかった。ここ最近の緊張する状況を緩和するためにお酒を飲んでいたのかもしれない。ひどいときには職場をでて、直行でコンビニに行ってパック酒(かみなり三代)かみなり三代パック 180mlとサラミソーセージを買って、ソーセージをかじりながら一挙に飲み干す。じんわりとおなかがあったかくなり、しばらくすると脳に回ってきて、なんだかぼんやりとする。乗り換えの駅でも酎ハイなどを購入してまたいっぱい、家に帰ってくハイボールでまた2杯。精神科医の松本先生もよく著作で薬物は快楽ではなく苦痛から楽になるためと書かれているがまさにその通りの状態である。深夜12時ごろにまだ飲んでいたので当然朝は残っていてまだぼんやりしていて、体調もすぐれなかったように思う。そして、4月になって2週間たったころ、それまでは依然のように帰宅時や夕食時にお酒を飲んでいたのだが、てっきり飲まなくなったのである。

 多くの人に話をするとお酒をやめるなんて正気ですか?人生損しているなどと言われる。そうはいってもそもそも何が正気で人生は何が損得かわからないので、いろんな意見を聞いても動揺しない。

 しかし、体調も回復してきて、少し調子が良くなってくると、今度は普段から逃げていた生活が戻ってくる。お酒を飲むことで頭から排除していたことである。

それが、ありありと現実としてくっきりはっきり見えてくる。途端に気持ちが落ち着かなくなり、実は酒をやめてからは、さらに睡眠時間が短くなっている。基本睡眠時間は短いので、更に短くなり少し不安な気持ちです。

 そんな感じでここ最近憂鬱に過ごしているのですが、この状態を誰にも話していないのに、今日職場の同僚などがいろいろと声をかけてくれる。一人は好きなアニメのジグソーパズルをプレゼントでもってきてもらい、一人は好きな漫画が借りたいと話に来られ、もう一人は夏の研修会へのお誘い、また名古屋のお土産を持ってきてくれる人もいた。まるでわたくしがしんどくてつらい気持ちを見透かされているようで怖かった。

もしかして、希死念慮がある人もいろんな人からつながりのある対応をしてもらって救われているのかもしれない。中島らもの今日一日の天使が今日はたくさんの天使に慰められている気分だった。Youtubeのらもさんも見てください。今日一日の天使は最後のほうです。

捨てる神あれば、拾う神あり、しらないところで救われてばかりの1日でした。

明日は気分も穏やかにいきたいなあ。

最後まで読んでいただきありがとうございました。