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牛乳から牛の体調をかぎ分ける 超小型においセンサーの可能性 最終目標は「世界平和」?

World Now 更新日: 公開日:
Qceptionのにおいセンサー心臓部のチップ
Qceptionのにおいセンサー心臓部のチップ=同社提供

ある種の病気は特有のにおいを伴うことが知られている。糖尿病患者の尿は甘いにおいがするという。においから体の異変をつかもうという発想は古くからあり、「嗅診(きゅうしん)」と呼ばれた。しかし、医師の経験や主観に頼る手法はあいまいで廃れた。その嗅診が今、最先端の技術でよみがえっている。異変を捉えるのは人間の鼻ではなく、超小型の高感度センサーだ。五感のなかで嗅覚は最も研究が遅れていると言われてきたが、近年急ピッチで解明が進んでいる。研究者を茨城県つくば市に訪ねると、においをとらえる難しさとやりがい、そして意外な応用分野を教えてくれた。

つくば市にある国立研究開発法人の物質・材料研究機構(NIMS)の吉川元起さん(48)らが中心となって開発したセンサーは、直径0.3ミリメートル、厚さ3マイクロメートルのシリコンの上に、においの分子を吸着する「感応膜」が塗ってある。分子を取り込むと、その膜が伸縮。ひずむ力を電気抵抗の変化として検知する。約400種類ある人間の嗅覚受容体を模して、感応膜も様々な材質で作っており、検知結果をあらかじめ学習させたパターンと照合し、何のにおいか識別する。

この技術を活用するため、吉川さんと研究を続けてきた今村岳さん(39)が代表となり、NIMS発のベンチャー「Qception(キューセプション)」を設立した。CEOの今村さんによれば、現在、最も実用化に近いのは、乳牛のケトーシスの判定という。エネルギー不足で大量の体脂肪が分解され、体内に「ケトン体」が増える病気だ。

においセンサー研究のため、牧場を訪れた吉川元起さん(中央)
においセンサーを牛の体調管理に役立てるため、研究をする吉川元起さん(中央)ら=Qception提供

「軽い夏バテ」を見つける

共同研究を進める国立研究開発法人、農業・食品産業技術総合研究機構(農研機構)の中久保亮さん(44)によれば、ケトーシスはお産後の乳牛が陥りやすい。出産に多くのエネルギーを使っても、直後から赤ちゃんに与える乳を出す。疲れて餌が食べられなくなっても続ける。ひどくなると、見て分かるほど活動量も乳量も減り、体や呼気から「ケトン臭」や「アセトン臭」と呼ばれる甘酸っぱいにおいがするという。

中久保さんや吉川さんらは、そこに至る前、「軽微な夏バテのような状態」とも言える「潜在性ケトーシス」の判定を目指した。農研機構の牧場で、牛乳から揮発する成分をセンサーで測定したところ、既存の血液検査や乳質検査と比べても遜色ない結果が得られた。中久保さんは「血液検査は確定診断に使われるが、牛は繊細なので大きなストレスになり、乳量も減る。乳質検査もコストや手間がかかる。一方、人間は潜在性ケトーシスをまず、かぎ分けられない」と話す。

潜在性であっても、経済損失は1症例2万5000円との試算もある。センサーであれば、牛への負担はほぼない。搾乳ロボットに組み込んで日常的に健康状態をチェックできれば、早期回復につながる。酪農分野では、経済性と牛の健康の両面を重視しながら、様々なスマート酪農技術が普及してきているといい、中久保さんは「これまで注視されてこなかった潜在性ケトーシスの改善にも目が向けられるようになっている」と説明する。

人の呼気から肺がんを予測

研究は、人の病気の判定でも進められている。

筑波大付属病院が中心となり、NIMSと茨城県立中央病院と共同で、 肺がんの手術を受けた患者66人から手術前後の呼気を提供してもらい、センサーで測定。データを用いて機械学習モデルをつくり、肺がんの有無を予測したところ、80%を超える正答率だった。

ただ、「因果関係の解明はこれから。肺がんになると、どういう成分が呼気に多くなったり少なくなったりするか、という点ははっきり分かっていない」と吉川さん。今村さんも「かぎ分けられた、と思っても、水分量などが影響していることも多い。こういう理由で、センサーにこの違いが表れています、ときちんと説明できるようにしてから次に進まないと」と話す。

研究について語る今村岳さん(左)と吉川元起さん
研究について語る今村岳さん(左)と吉川元起さん=2025年7月17日、茨城県つくば市、西尾能人撮影

においをとらえるのは容易ではなく、対象もまだ限られている。それでも、「においでこんなことまで分かるのか、と驚くことばかり」(今村さん)、「研究すればするほど、奥が深く、知らないことが出てきて、いくらでも勉強する要素がある」(吉川さん)とやりがいと手応えを語る2人は、研究の応用分野に「世界平和」を挙げている。

客観的に測るようになれば……

古くから、人々が争うときには「あいつら(敵)はくさい」といった言葉が行き交った。いじめや差別でも同じことは起きがちだ。感情に結びつきやすいにおいを客観的に測り、理性的な判断をするようになれば、少しでも平和な世界に近づけられる、と2人は信じている。

まずは、「スマホに搭載したセンサーに息を吹きかければ、病気が分かる」を目標に、研究が続けられている。