ラベル writing の投稿を表示しています。 すべての投稿を表示
ラベル writing の投稿を表示しています。 すべての投稿を表示

2009年12月6日日曜日

理系のためのサバイバル英語入門

ふと本棚を眺めていると、「理系のためのサバイバル英語入門―勝ち抜くための科学英語上達法 (ブルーバックス)」という本を発見。東京大学の1~2年生向けに教養学部で開かれていたゼミ「理系のためのサバイバル英語入門」の内容を本にしたものです。もう10年以上前に書かれたものですが、まったく色褪せていないことに驚くばかり。

一番驚いたのが、昔読んだときと今読んだときとで印象がまったく異なっていること。この本の内容を十分に咀嚼するには、読む側にもレベルアップが必要なようです。

1.まず冒頭の科学用語の英語表現をどれだけ知っているかのテストで、高校や大学で学ぶ、文学・哲学・社会学中心の英語が、理系の学問では役に立たないことに気付きます。(大学1年生の頃、初めてこの本を読んだ僕はこのレベルでした。英語そのものを教える人ってどうしてもいわゆる理系分野を知らない人になることが多いので…)

2.自然な英語を書くとはどういうことか(英語で論文を書くようになった今は、ここで説明されていることがよくわかる)

3.英語でコミュニケーションをとること。(学会などのプレゼンテーションで英語のトークをするようになったので、うなずけることがたくさん)

辞書の使い方、簡潔な英語の書き方なども参考になりますが、巻末の永久保存版「論文を書くための論文」もお勧め。ここには、科学の分野で認めてもらうためには、メディアで名声を得るのではなく、「良い論文」を書かねばならないと断言されています。科学の世界ってそういうものなので、テレビで紹介されている部分だけでは決してわからない。

本書のいたるところに、研究の面白みや、独創的な研究をしていくためのエッセンスがちりばめられています。タイトルを「英語入門」とするには惜しい内容で、「科学への入門」「研究者入門」と呼ぶ方がふさわしいです。そこに気付かずに、理系英語の入門書としてだけとらえると相当にもったいない。けれども、読む側としても「科学」や「研究者」の世界に一歩足を踏み入れてないと、大学入学当初の僕のように、この本に書かれた大切なメッセージを受け取り損ねてしまいます。

これは「科学」の世界へ入っていくための「英語」入門書です。

2009年9月17日木曜日

OMakeで快適に論文執筆:TeX編

Windows上でTeXの論文を快適に書くためのTipsを紹介。インストールが必要なものは以下の通り:
omakeと、pdflatex, pdfopen, pdfcloseがコマンドライン(コマンドプロンプトやCygwinシェル)から使えるように、環境変数PATHを設定します。

以下は僕の使っているCygwin用の.bash_profileや.zprofileの設定例です:
export MIKTEX_BIN="/cygdrive/c/Program Files/MiKTeX 2.8/miktex/bin"
export OMAKE_BIN="/cygdrive/c/Program Files/OMake/bin"
export PATH=$OMAKE_BIN:$MIKTEX_BIN:$PATH
論文のファイルが以下のように配置されていると仮定します:
project/paper.tex
project/paper.bib
準備として、omake --installで、OMakefile、OMakerootファイルを作成します。
project> omake --install
次に、OMakefileの内容を以下のように編集します。通常はtex -> dvi -> pdf という流れを辿るのですが、より快適に作業するために、pdflatexを使ってtexファイルから直接PDFを生成するように設定しています。
.PHONY: all install clean preview

USEPDFLATEX=true
PREFIX=paper

PREVIEW_PDF=$(PREFIX)-preview.pdf

LaTeXDocument($(PREFIX), $(PREFIX))

$(PREFIX).pdf: $(PREFIX).bib

preview: $(PREFIX).pdf
pdfclose --file $(PREVIEW_PDF) || true
cp $(PREFIX).pdf $(PREVIEW_PDF)
pdfopen --file $(PREVIEW_PDF) --back

.DEFAULT: preview
(注: cygwinを使わない場合は、上記のcpコマンドを、copyに置き換えるとよいです)

omakeを起動します。
project> omake -P
-Pオプションは、texやbibファイルをモニターして、更新があれば即座に再ビルドしてくれるという機能。AcrobatはPDFファイルを開くとロックしてしまいPDFファイルの上書き更新ができなくなってしまうのですが、pdfclose, pdfopenを使うことで、その問題も解決しています。快適。

関連

2009年6月10日水曜日

炭鉱のカナリア

論文書きなどで論理を練る訓練をしていると、文章には、指す対象を「あいまい」にしたまま扱える「表現力の強さ」がある、と気付くようになりました。

論文ではあいまいな表現はすぐに潰しますが、ブログで書く文章では、対象を限定しすぎてしまわないように敢えて「あいまい」にしたり、意図的に、根拠などが「あいまい」な事柄をもとに「あいまい」なことを書いて、AでBになり、だからCという一直線のロジックだけではうまくとらえられないものを表現したりしています。 なので、曖昧かどうかの区別は、おそらく普通の人より随分とはっきりしていて、読み手がどの部分に「あいまいさ」を感じて、ひっかかるかは、把握しているつもりです。

それゆえ、はてブなどで、他の人にとっては「あいまい」な表現だと気づかずに、自分の世界の中だけしか意味の通じない文章を、敵意むき出しで投げかけられると悲しくなります。なぜなら、そのような言葉を投げかける人にとっては何も「あいまい」ではないから。文章の意味は「あいまい」だけれど、敵意だけは伝わる。防ぐのが難しい強力な武器。

この様子を「炭鉱のカナリア」とは、よく言ったものだと思う。
山形浩生氏のように、徹底的に「あいまい」な部分や、相手の至らなさを糾弾して、相手を打ち負かすというのも一つの手だとは思いますが、僕の場合は、そこでまともに「相手にする」ことで得られるものに期待できず、やられっぱなしになるばかりで疲れだけが溜まります。

これは、ある意味「相手に議論する価値を認めていない」失礼な態度なのですが、「文章が伝えるもの」を意識しないと良い循環が生まれない、「残念」に「残念」という禅問答の域を越えられない、僕が先のエントリで言葉にしたかったのは、まさにそういうことなんです。(これも「あいまい」な表現ですね)

「残念」に「残念」という禅問答

「何が残念なのですか?」

梅田氏
日本のWebは残念だ
dankogai氏
楠氏

残念という意見ばかりで僕も残念です。さて、「残念」からうまく抜け出すにはどうしたらよいでしょうか?

2008年12月15日月曜日

[講演案内] Relational-Style XML Query

講演の案内です。
第3回 先端的データベースと Web 技術動向講演会
(ACM SIGMOD日本支部第40回支部大会)
2008年12月20日(土)に、「Relational-Style XML Query」の話題で、SIGMOD日本支部大会において講演を行います。申込期限は過ぎておりますが、まだ若干席が残っているようです。
Relational-Style XML Query
XMLのような階層構造を持ったデータに対して、フラットなSQLを用いて問い合わせを行う手法であるRelational-Style XML Query (SIGMOD2008で発表) について紹介します。

この内容を日本(語)で紹介するのは初めてですし、横田先生の案内によると、「どうしたらSIGMODに通るような論文を書けるか」についても期待されているご様子なので、その当たりの話も織り交ぜようかと考えています。乞うご期待。


2008年12月3日水曜日

Googleで論文が書けるか?

Googleに入って論文が書けるか? 中の人が答えています。

A common question I get is "How hard is it to publish at Google?" I want to dispel the myth that it is hard. It is easy to publish, easy to put code into open source, easy to give talks, etc. But it is also easy for great research to become great engineering, and that is an incredible lure. (よく受ける質問が、「Googleで論文を書くのは難しい?」というもの。実際難しくはないし、コードをオープンソースにしたり、発表したりするのも問題ない。それに、いい研究をいい製品にもしやすい。それがGoogleの魅力だ。)
察するに、論文を書くことができるか?という文字通りの意味ではYes。でも、論文を書くためのincentive(きっかけ、強い動機)が生まれるか、インパクトのある論文を書けるようになるか、という点では、ちょっとわからない。ここで解答している人も、Googleに入ってから筆頭著者(first author)で論文を書いているわけではないし、Papers written by Googlers に紹介されている論文も、僕が知っている分野に関しては、Googler(グーグルの社員)単独のものではなく、もとから論文を書ける力のある人がGoogleの中の人と共著になっていたりする。あるいは、論文を書いてからGooglerになった、という傾向。

同じようなコメントが日本のGooglerからも欲しいものです。少なくともPapers written by Googlersの日本版が。というのも、大学関係の人の間では、論文を書く力がつく前の人材(学部・修士課程を終えたばかり)が、プログラミングができるという理由で、日本のGoogleに青田買いされている現状を非常に懸念しています。「論文を書ける」人材が本当に欲しい場合、僕が人事担当なら、PhDを持った学生、あるいは自力でそこそこの論文誌・学会に採録される論文を書いた経験のある人しか採用しません。

大学のように入ってから中で鍛えるのならそれで良いですが、鍛える力を持った人、論文を書くことに強い意識を持った人が中にいないのなら絶望的です。青田買いされた人材が、論文に関しては青田のまま終わってしまいます。Google以外の会社や大学の研究室でも同じことが言えて、研究志向を持っていない(過去にあまり論文を書いていない)人が上司になるだけで、論文を書くことは相当難しくなると思います。

論文が自身のキャリアにおいて大事なら、「書ける」かどうかだけではなく、「書くために必要な要素(論文へのincentive、経験を持った師匠となるべき人)」が揃っているかどうかも、ぜひ確認しておきたいところです。

2008年11月26日水曜日

論文を書く前に知ってほしい「言葉」の大切さ

「言葉」で「知性」のすべてが伝わるわけではない。そんなことは百も承知しています。
以前のエントリ「知性が失われてはじめて言語が「亡びる」」では敢えて「知性」とは何かを定義しないで話をしています。「丁寧な文体」が「知性」と同一だとは言っておりませんので、あしからず。それゆえ、リンク先での「知性」とは何かという議論に反論する理由はなくて、実際、そのとおりだと思います。

少なくとも、僕ら研究者は「知性」を育て「知性」を見出す仕事をしています。つまりは現場の人間です。言葉がつたなくても、対話的にその人の持っている可能性などの「知性」を見出すのが大学という場であり教師の仕事なら、「知性」を持っていることを自らが外に伝えるのが論文です。論文の場合、表現やプレゼンテーションなど、「知性」を伝える力も含めて「知性」と考えます。

もちろん、中身がからっぽでいいかげんなら、きれいな文章でいくら取り繕ってもだめです。

論文を書くということは、自分の知性を他に認めてもらう行為です。but, but, butと続く論文は決して読みやすいものとは言えません。しかも、言葉を疎かにして、他人(しかも学生なら、目上の教師)に馴れ馴れしく話しておきながら、「自分は賢い」と認めてもらおうとは、非常におこがましい態度と言わざるを得ません。査読する側としては、読みにくい文章・要点を得ない下手なプレゼンテーションから「知性」を見出すことを強いられるために、意味が伝わりさえすればいいという書き方は迷惑極まりなく、「論文」という媒体でやるべきことではないと強く思います。

研究の世界の査読システムは、人の善意で成り立っています。お金がもらえるわけではないし、年間に何十本と読むものなので、自分の研究時間が削がれていくばかりなものです。それなのに、肝心の論文を書く側に、言葉を洗練し、内容わかりやすく伝えるための努力、読んでもらう人への敬意がない。そんな論文ばかりが集まってくるようだと、査読する側も疲弊し「知性」を見出す努力が続けられなくなります。結果として、重要な学問への貢献が見い出せなくなる、学会・論文誌の質が下がる、と悪循環に陥いるのです。

論文の査読の評価項目には、「プレゼンテーションの良し悪し」というものがあります。評価が高い論文はきまってプレゼンテーションが良いもので、そのような評価を得た論文が全体の中でも常に上位を占めています。技術的に秀逸でも、プレゼンテーションが悪い論文を救出するには、査読者がshephered(指導者)の役を買って出て、論文をbrush upさせる仕事をしなくてはなりません。しかし、査読者は匿名が基本です。論文を世に出すのを手伝っても、お金も名声も得られないため、拾い上げてくれるかどうかは完全に査読者の善意に依存しています。ですから、論文からプレゼンテーションを練り直せるだけの「知性」を見出せないようなら、単に論文をrejectすることになるでしょう。

僕が本当に伝えたかったのは、書き手の方こそ、良い文章・洗練された表現を書くために頑張って欲しい、ということです。 特にそれが学問という、善意や熱意で成り立っている場所ならなおさらです。

この努力を怠った結果は、既に今の日本で見ることができます。頑張って書かれた論文でも、返ってくる査読結果が数行で適当に書かれたものであったりと、査読者側が最初からやる気をなくしている場合があるのです(これは日本に限らないですが…)。投稿する側も、いまや研究の世界の普遍語となった英語で書くことが大事なので、手軽に業績を増やすために、英語で書いたものを日本語に直して出してしまおう、と、日本語としての文章を練り直す努力を怠ります。当然、査読者はさらにやる気を失います。極端なことには、論文を日本語では書かないという方向にもつながっていきます。そうしているうちに、「知性」を伝えることも、また「知性」を見出す仕事へのやりがいも日本語からは失われ、英語の世界に奪われる方向に傾いてしまいました。「知性」が失われたのが先か、「言葉」への思いが失われたのが先か。

「知性」は「言葉」だけでは伝わらないかもしれない。でも、「知性」を守り得るのも「言葉」なのです。

2008年11月22日土曜日

知性が失われて初めて言語が「亡びる」

これは「逃げ」でしかない。特に研究の世界においては。
むしろこれから起こるのはネイティブイングリッシュの破壊であるとか
ネイティブの英語論文より非ネイティブの英語論文の方が読みやすい場合がないか?
論文が読みやすいとしたら、それは良く練られているからだ。そもそも、わかりやすい表現が良いというのは、日本語、英語の区別がない。文章を吟味することから「逃げ」て済むなら良いが、それでは投稿してもろくに読まれないから身を滅ぼす。安易にこのような考えに同調する人がいるのがとても心配だ。

日本人が書いた日本語論文であっても読みにくい例の枚挙には暇がない。口語の方がわかりやすい?口語中心のブログでも読みにくい文章はうんざりするほどある。(例えば、「日本語が亡びるとき」の書評を批難したり、あるいは水村美苗本人を攻撃するときに、読みやすく、かつ、知性をうかがわせる文章で応えた人はほとんど見受けられない)

もし世界の標準が「日本語」で、皆が日本語で論文を書くようになったとしたらどうだろう。段落ごとに「てにをは」や「漢字」の間違いが出てくるような論文は、すぐに読む気がなくなってしまうのではないだろうか。

崩れた日本語を見たとき、まず、その言葉を操る人の知性が疑われることを肝に銘じてほしい。それが英語であろうと、ブログのような媒体であろうと同じだ。投稿される論文の中には、方言や崩れた言葉が多く混じったものもあるだろうが、競争の世界の中で消え去って日の目を見ることはない。もし表に出てくるのであれば、その論文誌・学会で査読が機能しておらず、「知性」が失われつつある兆候だ。

先の意見は「日本語が亡びるとき」を「英語が亡びるとき」に置き換えてみたのだろうが、間違った用法がはびこるから「亡びる」というのは、大きな読み違いと言わざるを得ない。

言語が「亡びる」のは、その言語を使う人の知性が失われた時だ。


(追記)
日本人特有の英語の書き方に興味があるなら、「日本人の英語 (岩波新書)」を手に取って読んでみることをお勧めする。文法ミスとまではいかなくても、意味の通じない日本人英語の例がいくつか紹介されている。The Elements of Style (Elements of Style)を読むと、英語のネィティブであろうと、「必要なことだけを書く」ために文章を練りなおさなければいけないことを教えられる。日本人の英語、論文が受け入れられないのは、日本人特有の不自然な英語が出てくることで、まず「知性」が疑われ、次に、文章で伝えるべきことをsuccinct(簡潔)に書けていないために、査読者に苦痛を与えているという事情が大きいと思われる。英語が不得手なほど、簡潔に書くための努力が必要となる。今後、多くの日本人が、「良い論文を書くために」内容ともども、文章も十分練り直して欲しいという思いを込めて。

License

Creative Commons LicenseLeo's Chronicle by Taro L. Saito is licensed under a Creative Commons Attribution-Noncommercial-Share Alike 2.1 Japan License.