山田尚子監督初のオリジナル長編映画『きみの色』が公開された。
本稿にかかわる限りでの物語の要約は以下。他人の「色」が見える少女トツ子が、美しい青色を纏った同級生きみと、離島に住まう青年ルイとスリーピースバンドを組む。そして3人で頑張って練習して、文化祭ライブを成功させる。そしてトツ子は自分の色(赤)を発見し、物語は終局へ……。
さて、本稿では本作『きみの色』を「カメラ」に注目して論じる。具体的には、山田の過去作のカメラ的表現と比較したときの本作の特殊性と共通点を指摘したうえで、それらが意味するものを論じる(もちろんネタバレ含みますが、ネタバレされて萎える系のアニメではないです。むしろ物語性の欠如に特徴のある作品なので……)。
1. レンズ性のささやかな後退
山田尚子の作家性をめぐっては「カメラレンズ的表現を好む」という指摘が多くなされている。そして、そこから「山田尚子は実写映画的な演出を好む」と分析されることも多い。たとえば批評家の渡邉大輔は、 山田の劇場作品の前作『聲の形』について「コンポジットによる奥行きや運動性、実写の単眼レンズ感を強調する本作のエフェクトは、現代のデジタル技術を取り入れたアニメーションが、いうなればかつての「映画的なもの」を吸収している例と見ることができる」としている*1。
では今作のカメラレンズ的表現はどうだったかというと、率直にいえば、山田が好むようなカメラレンズ的表現は比較的少なかったといえる。被写界深度をかなり狭く取る撮り方(シャロー・フォーカス)については本作でも継続だが、特に手ブレやハレーション、フレアについては、『きみの色』のレンズ性は、もちろん他の作家の作品に比べたら高いけれど、過去の山田映画と比していえばやや控えめだったといわざるをえないだろう。
『聲の形』と比較してみよう。『聲の形』では全編のほとんどを通してオールドレンズ的表現が使われていた。オールドレンズ的表現とはつまり、画角の周辺がボケて、かつ色収差が現れている、ということだ(picture 1)。言うまでもなくアニメ映画としては異例の演出であり、山田尚子がレンズ性に個性を見出す作家であることを強く印象づけるものである。
一方で、『きみの色』はそのような演出はしていない。POVショットではボケを刹那的に挿入してレンズ性を強調したり、超クロースアップでは奥側の眼をボカしたり、あるいはロングショットでは望遠レンズ的に撮っているものの、裏を返せばその程度であり、『聲の形』あるいは『リズと青い鳥』『たまこラブストーリー』のようなレンズ性の横溢は——後にみるように文化祭のライブシーンとルイの出航シーンを除いては——認められない。キャラクターの感情に合わせて手ブレしたり、客観ショットでボケをたくさん差し込んだり、ド派手なハレーションを起こしたりといった思い切りの良さはなく、むしろある種の落ち着きを手にしているといってよいだろう。
少なくとも文化祭ライブまでの、特に人物を映した画面において、カメラレンズ的表現はこれまでの山田作品のような派手さはなかった。これは論争的でないように思う。
こうしたレンズ性の微妙な後退を評価するために、これまでの山田のレンズ的表現を分析し、論じやすい形に整えてみよう。
2. 山田レンズの4つの効果
山田が用いてきたカメラレンズ的表現は、少なくとも4つの際立った効果——排反でも網羅的でもない——をもたらす。その4つとは①実在感、②心情表現、③センチメンタル性、④盗撮性である。
① 実在感
山田尚子論において4つの中でもっとも多く言及され、また山田自身もインタビューでたびたび示唆するところだが、カメラレンズ的表現にはキャラクターの実在感を高める効果があるといわれる*2。メディア研究者門林岳史が新海誠作品におけるような「写真的リアリズム」について述べるように、こうしたリアルさは現実に似るためというよりもむしろ写真に似るために獲得される「ある種倒錯した」感覚である*3。アニメには本来ないはずのレンズ性を画面に備えることで、あたかも実在物をカメラで撮っているかのような印象が生まれ、キャラクターがそこに本当に存在している感覚——実在感が高まる、ということだろう。 山田はインタビューで次のように語っている。
カメラで撮る感覚っていうのがすごく好きなんです。カメラがあって、被写体があって、その間に空気があるという画面作りをいつも意識していたいと思っています。そういった画面作りの中に、キャラクターの実在感を求めていることになっているんだろうと思います。キャラクターを「画である存在」だと考えたくない、というのがずっとあるんですよ*4。
アニメ制作によってキャラクターに生命を宿らせるのではなくて、既に生きている、「画ではない存在」を撮影する、という仕方によってその実在感が生み出される。山田は、アニメーターがしばしば口にするような〈命なきものに生命を吹き込む〉というやり方ではなく、〈既に生きているものを撮影する〉というスタンスで生命を演出するのだ。アニメーション研究者の土居伸彰は、アニメ制作のデジタル化・CG化によって、かつてのようなキャラクターに生命を吹き込むことによってではないしかたで作られたアニメーションが勢いを増していると主張している*5が、山田の作品はある意味でその流れに位置付けられるだろう*6。
今作『きみの色』においてもキャラクターの実在感を大切にする山田のスタンスは変わっておらず、撮影監督の富田喜允は次のように証言している。
言葉のニュアンスが難しいですが、山田監督は「実在感」という言葉を使われていました。主人公たちが本当に存在するような空気感を作りたいということを何度も言われましたね*7
しかし、既に述べたように、従来の山田作品で見られるようなレンズ性の横溢は本作では認められないからだ。ではこれはキャラクターの実在感が縮減したということを意味するのだろうか?答えは否だ。減った分のカメラレンズ的表現は、後述のように(第3節)アングルと構図によって埋め合わされ、実在感は依然として担保されている。
② 心情表現
山田はしばしば、キャラクターの心情に呼応するようなカメラレンズ的表現を用いる。
印象的なものをいつか挙げると、『たまこラブストーリー』の告白シーンのピンボケや、もち蔵のシャウトシーンの望遠レンズ的な手ブレ*8はそれぞれキャラクターの心情を上手く表現しているし、「彼が奏でるふたりの調べ」で主人公がやりたかったことを思い出すシーンでも心の微妙な揺れをピンボケで掬いとっている*9し、『聲の形』では主人公のPOVでヒロインが強烈なハレーションのうちに映し出される*10(picture 2)ことで、聾者であるヒロインに主人公が抱く理解しがたさ・掴めなさが表現されている。また、TVアニメでも、『平家物語』第1話において主人公が平家の横暴に動揺し、また驚くシーンで、落とされた杖が地面に接地する瞬間に強烈にボケさせている*11。
山田のアニメでは、キャラクターの心が揺れるとき、それに呼応してカメラやピントも揺れるのだ。それによって観客は視覚的に心の揺れを感じ取ることができる。
③ センチメンタル性
カメラレンズ的表現が用いられると、われわれはある種の切なさを感じ取る。写真の持つ刹那性がこの感傷を引き起こすのだろう。これまでに挙げた例にもこのセンチメンタル性はもちろん認められるだろう。たとえば『たまこラブストーリー』の告白シーンのレンズ性は、心情を表現するのに加えて、感傷的な効果を生んでいる。レンズのセンチメンタル性は新海誠をはじめとして多くの作家が好む効果だが、もちろん山田作品にも認められる。
以上の①②③はもちろん排反ではなく互いに重なり合うものだ。しかし、たとえば『平家物語』のオープニング冒頭15秒の、「平家物語」という文字にひたすらフレア・ボケなどのレンズ的表現をコンポジットする際の効果はもっぱらセンチメンタル性だけといえるだろう(picture 3)。写真が持つようなメモリアルな刹那性が、平家物語という滅びと〈物語ること〉を主題にした物語の切なさを予感させている。
picture 3: Asmic Ace「TVアニメ「平家物語」オープニング映像:羊文学「光るとき」」より
④ 盗撮性
盗撮性は①実在感のいわば裏面としての効果だ。アニメ映像にカメラレンズ的効果がコンポジットされると、その視点は人称性を否応なく獲得してしまう。そのシーンが誰にも見られていないものではなく、誰かが見ているものであることを明らかにしてしまうのだ。山田はアニメであればわざわざ足す必要のない演出を足して視点の人称性を暴露するのである。
山田作品が盗撮的であることは、もちろんキャラクターに実在感を持たせることと不可分である。先述のように、山田は生きていないキャラクターに生命を吹き込むのではなく、既存の生を本人に気づかれないまま撮影する、というスタンスで実在感を演出する。そして、その裏面として盗撮性も否応なく画面に備わってしまう。
盗撮性については、たとえば藤津2021などの従来の山田尚子論でも指摘されてきたところだが、この点については山田のインタビューにおいてもたびたび示唆されてきた。たとえば山田は『リズと青い鳥』の映像表現について「女の子同士の、内に秘めた思いを隠し撮りしたような映画なので、気持ちとしてはガラス越しに彼女たちを覗いている気分」*12とコメントしている。これはまさに盗撮性の暴露といってよい。
ここまで山田が用いるカメラレンズ的表現の4つの効果を見てきた。ここから、従来の山田尚子論について一点修正を加えたい。
先に確認したとおり、山田のレンズ性について「実写映画的」と形容されることがあるが、これはミスリーディングだ。というのも、少なくとも現代の実写物語映画では、ここまで派手にカメラレンズ的表現が用いられることは普通ないという点で、実写映画とは一線を画すからである。実写物語映画にはたとえば『聲の形』『リズと青い鳥』のようなレンズ性の横溢は滅多に見られない。実写映画のリアリズムはむしろカメラがそこにあることの隠匿によって下支えされるものだが、山田映画はむしろカメラの存在を暴露するものなのだ。では山田のカメラが実写映画的でないとすれば、それは何と形容すべきものなのか?それこそが「盗撮」である。あるいは「本人に秘密のドキュメンタリー撮影」とでもいうべきかもしれない。実写映画のように俳優の演技をカメラの透明性のもとに撮影するのではなく、撮られていることも知らないキャラクターを、本人たちから隠れた場所から盗撮する。それが山田尚子のやり方だ。
さて、議論の準備は整った。次節では、以上に示した道具立てを用いて『きみの色』を分析しよう。
3. 『きみの色』の盗撮性
前節では山田のカメラレンズ的表現の効果を4つに整理した。このうち①実在感と④盗撮性」については、先に引いた撮影監督の富田喜允による証言から、本作においても山田とアニメスタッフたちで共有された意図だといえる。
そして、すでに見たように、『きみの色』ではレンズ性の横溢はこれまでの作品ほどには見られない。では実在感と盗撮性は何によって生み出されているのか?本作では、それらはアングルと構図——つまりフレーミングのしかたによって演出されていると考えられる*13。つまり、レンズ性というよりはむしろカメラ性によって、『きみの色』の実在感と盗撮性は担保されているのだ。実在感と盗撮性は裏表の関係(盗撮性によって実在感が生まれるし、その逆も然り)にあるため、以下では盗撮性にしぼって議論を進める。
まず、これまでの山田映画と共通する点だが、ロングショットから望遠的に人物を撮るショットが非常に多い(picture 4-6)。これについてはいまさら言を足さずともよいだろう。
また、これもこれまでの山田作品と共通だが、内的モノローグが極端に少ないのも盗撮性が際立つ要因になる。既に生きているキャラクターを撮影する、というスタンスではキャラの心の声は聞こえるべくもないからだ。おそらく全編を通して内的モノローグと言えそうなものはなかったのではないか*14。
さらに、手前にオブジェクトを置く構図の多用によっても盗撮性が生み出されている(picture)。これは本作の独自的な特徴だ。カメラは物の影に隠れたり、隙間から覗きこむようにしてキャラクターを撮影する。
あとは、カメラがあまり動かないというのも盗撮性に寄与する。じっと静かにキャラクターを眺めるかのように、カメラは基本的に静止している。カメラがキャラクターをフォローするのは、トツ子がきみの不在に動揺して走るシーンや、きみがトツ子の寮に潜入するシーンなど、「ここぞ」というところのみであり、基本的にカメラの運動は大人しい。
あるいは、本作における視点の多くが普通のアニメよりもやや下になりがちという点も、ここで指摘しておくべきだろう。普通そうであるような起立した大人の胸〜顔の高さではなく、敢えて腰から足の付け根くらいの高さ——おそらくしゃがみながら撮影したらこれくらいの高さになるだろう——から撮影することで、カメラの存在が意識され、盗撮性が増す事になる。
4. 親のようにキャラクターを観るということ
前節では『きみの色』の盗撮性について確認した。今節では山田の作家性を検討したあとで、山田の作家論に新しい視座を提供するためにこの盗撮性について論じる。
さて、山田の作家性をめぐっては、それが「男性的である」「女性的である」という相反する指摘がなされてきた。私はこうした議論が異性愛を前提にしがちな点にも欠陥があると考えるが、それはひとまず措くとして、この二項対立によって等閑視されてしまう特徴があるということを盗撮性の検討を通して主張したい。これによって、山田の作家性を「男性的」「女性的」という見方ではない他の視点から考えることができるようになる。
数として多くはないが、山田は男性的な作家であるという立場がある。たとえば批評家の石岡良治は『リズと青い鳥』の山田尚子の作家性をめぐって「山田監督は(…)実際には男性オタクに近い目線なのかもしれません。(…)今後はもっと女性観客の獲得を目指してほしいという気持ちがあります」*15とコメントしている。確かに山田の作品はすべて女性(特に10代が多い)であり、アニメ文化において女性キャラクターは男性オタクによる萌えの対象に位置づけられてきたという事情もあり、なるほど深夜アニメのフィールドで活躍した山田の眼差しも男性的であるという考えは突飛なものではない。
これに対し、山田は女性的な作家だという立場がある。これは山田評としては主流であり、よく聞くものだ。批評レベルでは、批評家の北村匡平が山田の作家性を女性的だと評している。北村が紹介するのは、『けいおん!』第6話、原作漫画の女性キャラクター澪のパンツが丸見えになってしまう場面のアニメ化において、山田の判断でパンツを映さず別の演出をしたという逸話である。こうした山田の姿勢について、北村は「自分がどう観たいかという人間中心の発想ではなく、フィクションに生きるキャラクターに寄り添い、彼女たちの視点から世界を見ようとしているのだ。ここに認められるのは、女性から女性へと注がれるまなざしである」*16と主張する。山田の周りには女性スタッフが一般的なアニメ制作よりも有意に多いという事情も相まって、山田の作家性が女性的であるという考えは妥当なように思われる。
まず、山田は男性的だという解釈について。
映像作品の男性性をめぐる議論の多くは、多かれ少なかれローラ・マルディの古典的論文「視覚的快楽と物語映画」*17における「男性の眼差し」の規定を踏襲していると言ってよいだろう。以下、マルディ的な意味での「男性の眼差し」に山田映画は該当しないと主張することで、山田が男性的な作家であるという立場を退けたい。もちろん「男性的」説は「われわれはマルディとは違う意味で「男性的だ」と主張しているのだ」と再反論することは可能だが、それでも本稿は差し当たっての論証責任をつきかえすことにはなるだろう。
マルディの論文は精神分析にその理論的な基盤を負っているが、精神分析のロジックを排して整理すると、マルディ的図式における〈男性的な眼差し〉は以下のように定式化できる。
物語映画において「男性的な眼差し」が発生するのは、次のとき、かつその時に限る*18。
① 女性キャラクターを、観客の男性にとって理想的な女性像に沿うように描いている。
② 観客が女性キャラクターを、〈彼女を性的なしかたで眺める男性キャラクターと精神的に同一化すること〉によってか、あるいは〈単にスクリーンを観ること〉によって、性的なしかたで眺める。
マルディの挙げている例では、例えばスタンバーグの映画では女性を見世物的に撮ることで、観客は〈単にスクリーンを観ること〉によって女性を性的に眺める。一方ヒッチコック映画では、男性キャラクターが女性を性的に眺め、男性に同一化する形で観客はそれを行う。そして、両者とも女性を観客の男性にとって都合がよい理想化——女性は男性を破滅させるかもしれないし、逆に男性を性的に満たすものになるかもしれないが、いずれにしても観客男性にとっては理想化だ——を孕んでいる。
翻って、山田作品はどうだろうか。①はキャラ原案が既にある状態から企画が始まった「けいおん!」シリーズと『聲の形』、あるいは「たまこ」シリーズではマルディのいう「呪物崇拝的視覚快楽嗜好」、つまり理想化をなされたキャラクター造形が採用されているが、一方で『リズと青い鳥』『平家物語』「Garden of Remembrance」「彼が奏でるふたりの調べ」そして『きみの色』の女性キャラクターたちは、少なくとも「萌え」を意図したような理想的な女性キャラクターの一般的な規範とはかなり距離がある。以上より、①は山田の作品には適用しづらい。
②については、北村も挙げているパンツ事例も一つの反例になるが、ここでは山田がしばしば描く〈エロくない裸表現〉を挙げたい。山田の手がけるアニメーションでは、性的な満足を意図していない裸表現が頻繁に見られる。〈エロくない裸表現〉とはつまり、キャラクターの裸を描いているものの、それを扇情的に描く——つまり頬を赤らめたり、胸を強調したりすること——をしないような表現のことだ。キャラクターはあくまでも毅然としてこちらを見返す。受動的に視覚的快楽を享受されるのではなく、むしろこちらを食ってくるような能動的なあり方をこの表現は示している。たとえば、『けいおん!』の一期エンディングや、『中二病でも恋がしたい!』2期前期エンディングにおける裸表現がこれに該当するものだ(Blu-rayもっていないかつyoutubeに公式っぽい動画がないので引用できません。お手数ですがご自身で観にいってください)。こうした演出は男性の眼差しを前提しない少女表象を描くことに成功していると言える。以上より、山田尚子の作家性が男性的であるという立場は支持できない。
そして、この〈エロくない裸表現〉は「女性的」説にオルタナティブを提示することになる。つまり、「女性的」説を論駁することにはならないが、それと両立した別様の見方を示すということだ。
『たまこラブストーリー』における裸表現を見てみよう。『たまこラブストーリー』の特典ポスターでは、本作の主要キャラクター6人の〈エロくない裸表現〉が用いられている*19。注目したいのは、ここで男性キャラクターであるもち蔵までもが裸で描かれているということだ。これは女性/男性という区別ではない、他の視点を要求するものだろう。
さらに、先ほど指摘したようなこちらを食ってくるような毅然とした眼差しは、女性という見者に差し返されたものというよりかは、また別様の性質をもったものだと考えられる。
では本稿が提示する「女性的」説とは別の視点とは何か。それは山田作品の眼差しは〈親的な眼差し〉だ、というものである。山田映画における眼差しは単に女性的というよりかはむしろ親に擬されるような性質のものなのだ。山田映画において、われわれはキャラクターを愛と距離感をもって観察することになる。こうした愛と距離感によって特徴づけられる親的な眼差し——家族主義的な響きを避ければ、〈愛のある傍観者〉的な眼差しなのだ(文字数の兼ね合いでこうした眼差しを単に〈親的な眼差し〉と呼ぶことにしたい。)。
山田のカメラの盗撮性を再び考えよう。
山田の盗撮性は、『きみの色』では、レンズというよりもむしろ、十分な距離を隔てた地点からのロングショットと、オブジェクトの後ろからの撮影、低めの視点といった盗撮的なカメラワークによって立ち現れている。私は、この点に山田のある種の(理想的な)親のような〈優しさ〉が見出せると主張したい。まず、キャラクターと一定の距離が保たれているということがその優しさの一側面だ。山田はキャラクターへの愛を持ちつつも、極度に近づくことをせず、クールな距離感をとったうえでキャラクターたちを見守る。これは子供との距離感を喪失する(「子供の成功は自分の成功」)ことも、逆に距離をとりすぎる(ネグレクト)こともない、理想的な親のあり方といってよい。
また、レンズ的な表現を控えるということは、直接的な盗撮性の演出を避けるということでもある。盗撮は、やはりそこに倫理的な悪さを否応なく内包している。普通「盗撮」と言われる時のセクシャルな悪さはないものの、見るということそのものに宿る快楽とその一方向的な暴力性は看過されてはならない。その盗撮の悪さの贖罪が、本作のレンズ性を比較的抑制した姿勢に表れていると本稿は主張したい。
あるいは、贖罪は別の仕方でもなされる。山田の構図には、人物を敢えて中心から外した構図が有意に多い。たとえばトツ子と母親がバレエ教室の前で会話するショットや、トツ子ときみがベッドで喋るショット、ルイときみがそれぞれの親を文化祭ライブに誘うショットなどである。こうした不思議な構図の選択は、〈盗撮はするけれど、せめて中心からは逸らす〉という贖罪の一つの形を示していると主張したい。
カメラを派手に目立たせないということと、対象を見世物のように中心においたりしないという二つの仕方で、盗撮の贖いは達成されている。本作における山田の優しさはもちろん脚本についてもいえるが、私はその一端はこうした山田の姿勢に表れていると考える。
そして、以上のような、愛と距離感によって特徴づけられる眼差しを、本稿は〈親的な眼差し〉と呼んだ。これは山田作品を分析するための一つの有効な視座になると考える。
5. 終わりに向けてのカメラ性
これまでレンズの4つの効果の④盗撮性について主に見てきた。盗撮性と①実在感は表裏一体なので、レンズによって盗撮性が表れているときには常に実在感も生まれるし、その逆も然りである。では、②心情表現と③センチメンタル性はどうだろうか。
再三述べているように、本作ではいつもの山田映画に見られるようなカメラレンズ的表現は少ない——が、しかしそれは文化祭ライブまでの話である。文化祭ライブとその後のルイの出航シーンでは、これまで封印されていたことの鬱憤を晴らすかのように、レンズ性は決壊し、横溢する。
演奏前、舞台袖の側からトツ子(右手前)ときみ(左奥)をおさめたショットでは、かなり強めのオールドレンズ的効果が自己主張する。おそらくオールドレンズ的効果が人物に使われるのはこのショットが初めてだ。
さらに、歌唱するきみを横から映したショットでは、山田がよく使うような、刹那にボケさせてまたピントを合わせるというレンズ的演出がなされる。これも(POVでは使われていたが)客観ショットで使われるのはここがおそらく初めてだ。
また、「水金地火木土天アーメン」の歌唱シーンにおいて「私は私は惑星」と合いの手を入れるトツ子から勢いよくきみへパンするあの印象的なショットも、ライブの臨場感を高めている(これはセンチメンタル性だけなく実在感も高めているだろう)。そして、トツ子が楽しそうに身体を揺らすショットでは、本作では抑制されてきた手ブレ演出がこれみよがしに加えられている。
また、ラストのルイの出航シーンでも、埠頭に立つきみとトツ子を映すショットの望遠レンズ的な手ブレ、強いボケ感(picture 11-12)が使われている。これはライブ前までの画面では前景化しなかった演出である。
レンズ性を自身の作家性に必然的に伴うものとするのではなく、それを一つの技法として対象化し、作品全体を通してレンズ性の程度の緩急をつけて文化祭ライブのシーンのセンチメンタル性をより高めたことは、山田の作家性の更新として評価できるだろう。また、こうした緩急のあるカメラレンズ性を、特に違和感を抱かせることなく画面に落とし込んだ撮影監督富田喜允の実力も、手放しに賞賛するべきものだ。
さらに、盗撮性のレベルでも決壊は起こっている。文化祭ライブの後、場面は寮の中庭でトツ子がバレエを舞うシークエンスに移る。そこにおいて、これまで遠くから親的な仕方で見守るだけだったカメラは、突如として距離感を失い、トツ子にまとわりつくことになる。
文化祭ライブを終えたトツ子は、色とりどりの花が咲き乱れる寮の中庭に出て、幼少期におぼえたバレエを陶酔的に舞う。脚本の流れとしては、3人での演奏を通じて自分の「好き」を重んじる姿勢を身につけ、かつ文化祭の大人たちの陶酔的なダンス——明らかに湯浅政明に捧げるオマージュだろう——を見て感化されたということだろうが、注目したいのはそこではない。トツ子のバレエの終盤、トツ子は今まで決して見えなかった「自分の色」を発見する*20。そしてその直後、カメラがトツ子にまとわりつくように、抱き込むように、彼女の周りを廻るのだ(picture 13-15)。
ここまで取り持ってきたクールな距離感をわざわざ喪失させることには意味がある——これはずっと苦手意識のあったバレエを好きなように踊ることで、ずっと見えなかった自分の色を見つけたトツ子への祝福だろう。盗撮的な視点が持つ人称性は、すなわちカメラがある種の心的態度を持つことを意味する。つまり、『きみの色』のカメラは客観的に生を記録するのではなく、一定の態度——本作では愛であり、ここでは祝福だ——を示すということだ。カメラはトツ子を抱いたあと、再び軽やかに距離感を取り戻し、場面はホワイトアウトし、その後色とりどりのカラーテープが舞う画面に移行する。3人の色を等しく混ぜた白から、RGBの無限の可能性を示すカラーテープが海に舞う。
さて、エンドロールのあと、場面は3人のバンド「しろねこ堂」による「水金地火木土天アーメン」の録音である。エンドロール後は3つのショットで構成される。まず『けいおん!』を彷彿とさせるようなラジカセを定点で映す長回しのショット、それから3人が自撮りをしているそのスマホ画面。そして最後に、時間軸としてはエンドロール前に飛んで、トツ子がきみを引っ張るショット。
最後のショットが盗撮的な視点ではなく2人にトツ子に寄り添うような視点であることも本稿にとっては重要だが、とりわけて注目したいのは、本作を自撮り映像が締めくくっているという点だ。自撮りとはつまり、カメラの不在である。その場には3人を除いて他に誰もおらず、本編を通じて盗撮をしてきた人間——それは山田をはじめとした制作者であり、またわれわれ観客だ——は存在しない。カメラは3人にさよならを告げ、その人称性を失い、3人は大人たちの盗撮なき世界を歩んでいくことになる。それは親からの自立であり、また、われわれのいわば「子離れ」を促すものにもなるだろう。そうして距離感が無限遠点にまで広がった次の瞬間、それをかろうじて繋ぎ止めるように最後のショットが刹那に差し込まれ、物語は終わる。われわれが失ったものと失っていないものの境界をもはや見定められなったとき、シアターは明転するのだ。
あとがき
以上、『きみの色』におけるカメラ性あるいはカメラレンズ性について、山田の過去の作品と比較することでその特徴を論じました。
どうでしょう。やっぱり山田作品における主だったカメラレンズ効果4つのやつが改善の余地ありな気がしますが、あれは別に山田にのみ当てはまるものでもないし、排反でも網羅的でもないってとこには注意していただきたいです。
あとマルディについてはわりとちゃんと読んだうえでああいう定式化してるんですが、簡略しすぎですかね。色々思うところはありますが、とりあえずひと段落するところまで書けたので世に放ってご鞭撻を乞います。
書こうとおもってまあいっかと思った論点
・しばしば盗撮性が物語内の人物によって代理されているということ。さわ子先生のキャラクター、ゆずるやもち蔵のカメラ、西宮(観覧車)やみぞれやきみの盗み見など。あとはてらまっとさんの有名な「ツインテールの天使」でもカメラの人称性について論じられてたはず。『きみの色』についてはトツ子に盗み見られているきみが、今度はルイを盗み見るという構図になっていて、観客の眼差しの盗撮性と絡めていい感じに論じられそうですね。精神分析いけるひとは同一化うんぬん使って何か書けそうですが、カメラと観客の視点の精神的同一化みたいなものは自明視して書きたくないという思いもあり、筆が進みづらい。
・物語性の欠如。ライブシーンで親が全員遅刻するのとか、水金で大人たちが湯浅的なダンスを見せるのとか、物語のレベルではリアリズムの放棄というか、「そうはならんやろ」なんですが、本作においてそれは大した問題にはならない。なぜなら物語じたいは重要じゃなくて、カメラのうむ距離感と空気感、寓意(ex. ホワイトアウト→多彩なカラーテープ)と象徴(ex. ふりこ)と映像言語の連鎖(ex. モンタージュ)が織りなす世界を届けるのに重心をおいている作品なので。
もう一回観に行って、ガイドブックを読んだあとで、気が向いたら加筆修正しますね。ご意見ご批判ご感想などお待ちしております。
リファレンス
すいません、順番適当です。あと、web文献についてはURLをもって書誌情報に代えさせていただきます(めんどうなので)。
文献
渡邉大輔(2022)『新映画論 ポストシネマ』株式会社ゲンロン
門林岳史(2019)「映像理論」伊藤守編著『ポストメディア・セオリーズ』ミネルヴァ書房
マルディ、ローラ(1998)「視覚的快楽と物語映画」斉藤綾子訳、岩本賢児ほか編著『「新」映画理論集成①歴史/ 人種/ ジェンダー』フィルムアート社
北村匡平(2023)「山田尚子論 彼女たちの空気感と日常性」『彼女たちのまなざし』フィルムアート社
藤津亮太(2019)『ぼくらがアニメを見る理由 2010年代アニメ時評』フィルムアート社
石岡良治(2019)『現代アニメ「超」講義』PLANETS
京都アニメーション(2014)『TAMAKO MEMORY'S NOTE』京アニ出版部
沖本茂義(2015):「たまこラブストーリー」山田尚子監督インタビュー 第18回文化庁メディア芸術祭アニメーション部門新人賞受賞 2ページ目 | アニメ!アニメ!
杉本穂高(2016):山田尚子監督は“映画作家”の名にふさわしい存在だ 映画『聲の形』の演出法を分析|Real Sound|リアルサウンド 映画部
Karandash(2023):卒業論文「現代日本のアニメーションにおける語りの様式:カメラレンズ的表現に着目して」 - карандаш
Tanaka Reiko(2024):『きみの色』撮影監督 富田喜允氏に聞く, アニメ映画に欠かすことのできないAfter Effects
トライワークス(2018):『リズと青い鳥』で描かれる女子同士の危うい友情を山田尚子が解説!「女の子の秘密を隠し撮りしたような映画」|最新の映画ニュースならMOVIE WALKER PRESS
*1:渡邉 2022、p. 313
*2:沖本 2015、杉本 2016など。この事態の哲学的分析として、Karandash 2023
*3:門林 2021、pp. 199-200
*4:北村 2023、p. 136より孫引き
*5:土居 2017
*6:「ある意味で」と断っているのは、山田のアニメーションは伝統的なドローイングベースで制作されているため、命を吹き込む(アニメートする)という側面ももちろんあるからだ。
*7:Tanaka 2024
*8:それぞれ33分38秒〜、51分34秒〜(U-NEXT)
*9:24分32秒〜(Amazonプライム)
*10:10分3秒〜(Amazonプライム)
*11:2分10秒〜(U-NEXT)
*13:もちろん『きみの色』の望遠レンズ的な画面はレンズ的表現ではあるが、画面が望遠レンズ的か否かは構図によって決定されるものであり、オールドレンズ的表現や、ボケ・フレア・ゴーストなどとは身分が異なる。そして本作で少ないのは後者たちだ。
*14:最初の色についての語りは内的モノローグというよりはむしろナレーションだ。そして、「作永さんがいない」という発言は内的モノローグに見えなくはないが、口元は見えないので判断できない。トツ子の「ルイ君は音が見えているのかな」という内的モノローグで済ませてもよいセリフをわざわざ発話させているところを見ると、「作永さんが……」も発話と考えるのが自然かもしれない
*15:石岡 2019、pp. 133-134
*16:北村 2023、p. 141、強調は引用者
*17:マルディ 1998
*18:「次のとき、かつその時に限る」とは以下の条件が必要十分条件であることを示す慣用表現。
*19:京都アニメーション 2014、pp. 198-203
*20:ちなみにトツ子の色が赤色であるということは、聖堂でのトツ子の輪郭を穏やかな桃色が包んでいることによって示唆されている。これはルイの最初の演奏シーンで輪郭が窓外の緑に染められていることや、きみがトツ子と船上で話すショットの間に日暮れの青い海と空のショットが挿入されていることとを合わせて、3人がRGBをなすことを視覚的に暗示している。藤津は『リズと青い鳥』について「映像言語」が「饒舌」だと表現していたが、こういう映像言語あるいは寓意の饒舌さは、西洋絵画からも影響を受けている山田の作家性なのだろう。