ネハマス「仮定作者 統制的理想としての一元主義批評」の紹介

引用部の強調はそうでないと明記しないかぎりすべて僕によるものです。

また、引用部における中略や省略などは明示をせずにおこないます。

地の文における「」内は全て引用です。〈〉は僕が強調のために使っています。

ページ数は表記しません。

注はほぼ原注なので飛ばしたほうが読みやすいです。

リファレンス:Alexander Nehamas, “The Postulated Author: Critical Monism as a Regulative Ideal” in Critical Inquiry 8(1), 1981, pp. 133–149, reprinted in Cahn, Steven M, Stephanie Ross, and Sandra L Shapshay, eds. Aesthetics: A Comprehensive Anthology. 2nd ed. New Jersey: Wiley-Blackwell, 2020.

 

アレクサンダー・ネハマス「仮定作者——統制的理想としての一元主義批評」を翻訳した。とはいっても翻訳権を持っていないので全文を公開することはできない。そこで、長めに引用しつつ、要約と解説をまじえながら紹介していくことにする。

 

まずは簡単に、論文の立ち位置を紹介しよう。
分析美学(主に英語圏で展開する美学・芸術哲学)において〈作品の解釈はいかにして決まるのか?〉〈解釈が正しいとはどういうことか?〉といった問題を扱う〈解釈の哲学〉という分野がある。そこでは、実際の意図主義(解釈は作者の意図と照らし合わせて決定される(※いろんな限定つき))とか、価値最大化説(作品価値を最大化するような解釈こそが正しい(※いろんな限定つき)、参考)、仮説的意図主義(知識や審美眼を備えた理想的な鑑賞者が、作者の意図の仮説として作り上げたものこそが正しい解釈だ(※いろんな限定つき))といった立場がある。
本論文は、そのなかでも仮説的意図主義における古典的な論文だ。実は仮説的意図主義のうちにもバージョンがあって、実際の作者についての仮説的意図主義(参考)、仮定作者についての仮説的意図主義といった名の下で細分化されているのだが、本論文はその名のとおり、後者のほうのマニフェスト的な論文だ。いまは細かい話は置いておいて、この論文でどんなことが論じられているかを確認しよう。

 

この論文の流れをかんたんにいうとこうだ。

 

互いに矛盾しあう解釈を許容する多元主義批評(e.g.,脱構築)はこれこれの理由で間違いであり、解釈には一つの正解があるとする一元主義批評こそが正しい。
一元主義批評において解釈はこのように決まる。すなわち、実際の作者がどうであったかはさておき、解釈者のほうで作者像を仮定して、この作者像がテクストで意味したことこそが正解の解釈である。もっと詳しくいうと……

さて、本文に入ろう。論文は章分けされていないが、内容から①多元主義批評を批判する、②対案としての一元主義批評、と分けた。

あと、先にいっておくと、ネハマスの論文では「批評」と「解釈」はほとんど同じ意味で使われている。

多元主義批評を批判する

この論文は次のように始まる。

大まかにいって、多元主義批評(critical pluralism)とは、〈文学テクストは、唯一の正しい説明というものがある自然現象とはちがって、たくさんの等しく認めることのできる解釈を与えることができ、なんなら互いに矛盾しあう解釈さえも与えうるものだ〉という立場である。しかし、この理論は、私には、事実を必要性にすり替え、必要性を美徳にすり替えているように思われる。

事実を必要性にすり替え、必要性を美徳にすり替えているとはどういうことだろうか。

ハマスはそれを説明するために、多元主義批評の一例として、スタンリー・コーンゴールドによるカフカ『変身』批評を批判する。

ここでの事実とは、フィクション作品、例えばカフカ『変身』が、その刊行から60年の間に、驚くほど多種多様な148もの研究を生み出した、というものだ*1。スタンリー・コーンゴールドは、この事実を美徳へと変容させ、この批評の洪水を、この物語の要諦(point)、そして究極的には文学の本質によるものだと説明した。コーンゴールドは、ザムザが本質的に曖昧で中途半端で説明不可能な化け物に変わったことを、書くということそれ自体のアレゴリーであると解釈する。この書くという営みは、最近の数多の文学理論家によれば、不完全なコミュニケーション、不可避の誤解、必然の誤解といった結果に終わることを運命づけられているらしい。「この虫の消極性(negativity)は、文学の営為それ自体に根ざしていると考えなければならない。この虫は言葉それ自体(パロール)なのだ——つまり、言葉のコンテクスト(ランガージュ)から解き放たれ、何も示すことのない意味の不在に堕し、言葉の意味を理解しえない他者のその近くに存するという、言葉それ自体なのである[コーンゴールドの引用]」

 

つまり、こういうことだ。虫に変身したグレゴールは、家族たちとコミュニケーションが取れなくなる。こうした虫のコミュニケーションの不可能性は、書くという営みそれじたいを表しているといえる。なぜなら言葉とは誤読や誤解をまぬがれない、不完全なコミュニケーションになることを運命づけられているのだから……。

これに対し、ネハマスはこう切り返す——

もちろんコーンゴールドはひとつの解釈をつうじてこの立場に到達しているのだが、この立場が〈なぜ『変身』の正しい解釈などありえないのか〉を説明できるためには、その解釈じたいは必ず正しくなければならない。そして、この理論上のパラドックスは、内容のパラドックスにパラレルである。この立場によれば、『変身』は文学というものがコミュニケーションを完全には達成できず、したがって解釈の最終版を与えられることはありえないというその不可能性についての物語だ。これがこの物語がコミュニケートしていることである。しかし、もしこの物語がそのことをコミュニケートすることに成功しているならば、物語は〈この物語はコミュニケートすることに失敗しているということ〉をコミュニケートしていることになる。そしてもしこの物語がそれに失敗しているのならば、この失敗こそが物語がコミュニケートしていることなので、よって成功することになってしまう!
 

理論上のパラドックスとはつまり〈正しい解釈などないという立場じたいが、なんらかの解釈によって導かれている〉というもの。内容のパラドックスとはつまり〈『変身』は露ミュニケーションの不可能性をコミュニケートしている(そしてこれこそ文学の本質だ!)〉というもの。パラドックスがうまれたということは、前提のどこかが間違っていたということだ。ネハマスは、こうした多元主義の誤謬のひとつとして以下のように指摘する。

 

けっきょく文学がコミュニケートできるのは〈文学はけっきょくコミュニケートなどできない〉ということだけだ、という主張は最近[本稿は1981年刊]の文学理論においては珍しいものではない*2。私は、この主張は〈言葉は多義的であったり根本的に曖昧なものであったりするものだ〉というテーゼを不当に拡張することによって得られたものではないかと疑っている。この拡張は、あるテクストがある性質を持つとき、そのテクストはその性質を意味する(たとえば、もしある言葉が曖昧であったなら、その言葉が「曖昧」を意味する)と前提することによってなされる。たとえばジャック・デリダは、「The green is either」という文章が文法から逸脱しているという事実から、「非文法性の事例を意味している」と推察する*3

なぜわれわれは〈「読解可能」であるためにはテクストは一つの決定版の解釈を持っていなければならない〉という考えに賛同しなければならないのか[いや、しなくていい]。というのも、改訂不可能な解釈が存在しないということは〈われわれがそのテクストの意味について考えを変えることができる〉ということを意味するのであって、べつにその不在は、〈テクストの意味がわれわれの考え次第で変わる〉ということを意味しないのだ。

重要な点が2つ。

  1. ハマスはもっぱら解釈内容についての多元主義を批判しているということ。これはあとで重要になるのだが、ネハマス方法論マルクス主義批評、精神分析批評など)についての多元主義を肯定しつつ、解釈内容多元主義を否定し、少なくとも大目標としては「一つの正解の解釈を目指そう」という理想を掲げるべきだ、という規範的な主張をおこなうことになる。
  2. ハマス多元主義をほとんど相対主義と同一視しているようだということ。現代思想系のひとが「われわれは相対主義じゃないですよ」と言っているのをしばしば見かけるので、ここはひとつ論争できるポイントかもしれない。(どういう理由づけで相対主義じゃないと主張できるのかは不勉強でよく知らない。)

 

ここからネハマスは、デリダやらジェフリー・ハートマンやらフーコーやらジョナサン・カラーやらヒリス・ミラーやらを引きながら多元主義を紹介したのち、以下のように総括する。

こうしたラディカルな多元主義は、〈テクストがもつたくさんの意味のうち一部は、さまざまな解釈によって、平等にもっともらしいものとして提示される〉というテクストの本性についてのひとつの立場に基礎づけられている。しかし解釈もまた書かれたテクストであり、そのテクストも読む必要がある。だが、読むことはできない。全ての読解が誤読であるのとちょうど同じように、そのテクストも誤読されるのだ。ミラーは次のように述べている。

(孫引用)

批評の新展開には、〈文学作品は自己完結しているという考え方や、いかなる作品も特定可能な固定された意味を持つという考え〉を問い質すことが伴う。さまざまな仕方で、文学作品は予測不能なかたちで生産的であり、開かれたものと見做されるのだ。詩を読み解くことは詩の一部なのであり、今度はこの読解のほうが生産的になる。読解は、必然的な終結の訪れない終わりなき活動のただなかにおいて、複数の解釈を生産し、詩の言葉をめぐるさらなる言葉を生産する*4

(孫引用終わり)

しかし今、われわれは少なくとも、『変身』の読解のパラドックスから始まったこの説明の終結に導かれている。この読解によれば、書くことによるコミュニケートは不可能だ。全てのテクストは誤読される——なぜなら、読解とは唯一の一貫した意味をテクストに押しつける努力にすぎないものであり、したがってコミュニケーションが成功したと仮定してしまうものだから。『変身』は、それじたいその法則の一例でありながら、多数の読解を生み出してきた。しかし、「あらゆる読解は、テクストそれじたいから引き出せる証拠によって誤読だと示されうる」*5。したがって、全ての読解は新たなものに取って代わられ、今度はその新たな読解がすべて誤読されるのだ。全ては中心を欠きながら廻りつづける。それは想像上の「根源にある文学の意味」を特定しようという試みであるのだが、そのすべては導き手を失った隼[つまりカオス]となるのだ。

これとは対照的に、テクストの意味の一元主義を唱えた理論家がいる。『解釈における妥当性』で有名なE. D. ハーシュ*6だ。ハーシュの理論を超単純にしてひとことでいえば、「正しいテクストの意味は作者の意図によって決まる」というものだ。[時代によって変わるテクスト解釈のほうは「意義(significance)」と呼ばれ、意味(meaning)と対置される。ちなみにネハマス多元主義批判はハーシュのそれと重なる部分が多い]

 

さて、多元主義とハーシュの一元主義という二つの極が登場した。この両極は、次のような問いにおいてその対照性が明瞭になる。すなわち、テクストの意味は発見されるものなのだろうか。それとも作られるものなのだろうか。
ハーシュの答えは「発見される」だ。作者の意図という答えを発見したならばそれがテクストの意味になる。逆に、多元主義の答えは「作られる」になるだろう。

 

さて、この両極の間には「限定的多元主義」という立場がある。その擁護者ジャック・メイランドは、テクストの解釈において、その軸となる正解の、かつ最小の「テクスト意味」と、それにのっとった「文学的意味」という概念を立てている。

 

ハーシュが擁護する一元主義と、脱構築系の批評家の文章から引き出されるラディカルな多元主義との間には大きな隔たりがある。この隔たりの間には、テクストの意味は部分的には発見され、部分的には作られると主張している一部の最近の論者が位置しており、この主張は、M. H. エイブラムス、ピーター・ジョーンズ、ジャック・メイランドによる限定的多元主義の基礎を成している。限定的多元主義によれば、そのテクストが属する「言語のルール」が、〈解釈者が受け取り、かつ解釈者が発見する、あらゆる視点から独立した基層的なレベルの意味〉を決定するという*7。しかし、〈文の発話内容だけではその文の特定の使用の場面においてどんな発話内行為が遂行されているのかを決定できない〉のとちょうど同じように、この「中心の核」もその意味を汲み尽くすことはしない——テクストの全体的な解釈の正当性の範囲は制限するけれども。例えばメイランドは、この基層的なレベルを「テクスト意味(textual meaning)」と呼び、批評家たちからの反発を招きながらもこれを「文学的意味」と区別している。彼は次のように述べる。「合意が形成されているテクスト意味は、文学的意味のレベルにおいて解釈の妥当性の基準たりえる。合意された基本的なテクスト意味にそぐわないような文学解釈を、妥当でない解釈だとしておしなべて排除することができるのだ」(“Interpretation,” p. 36)。

テクスト意味の例としてメイランドは、「『ロミオとジュリエット』は、お互いに愛し合った男女が、互いの家族に結婚を妨害され、そして悲劇的な誤解のせいで命を落とす、という物語である」というものを挙げている。メイランドとしては、こういう〈最低限これだけは絶対正しい〉というテクスト意味を解釈の正解の基準として立てて、これと矛盾しないような解釈が正しくて矛盾するようなのは誤りだ、としたら、解釈に正解不正解が生まれ、相対主義を脱却できるじゃないかと考えたわけだ。これはけっこう思いつきやすい考えだと思う。

しかし、ネハマスはテクスト意味概念について以下のように反論する。

テクスト意味がそのテクストの最小の解釈だとすると、それがたくさんの「文学的」意味と両立することは驚くにあたらない。なぜなら、いまや文学的意味はテクストのもっと具体的な解釈であるとわかっているからだ。というのも、ある対象についてのたくさんのより細かい説明が、その対象のもっと一般的な説明と両立するというのは自明だからだ——そのたくさんのより細かい説明が違いに矛盾しあっているとしても。あるものが家具であると同時にふつうの椅子もしくは安楽長椅子もしくはソファーであるというのは可能なことだし、それらが同時にルイ14世式あるいは第一帝政様式あるいはディレクタースタイル[軽量で折りたたみ式の椅子]であるというのも可能なことである、というわけだ。しかし、こうした議論は、より細かい説明が全て両立するということを示すものではない。これと同じように、『ロミオとジュリエット』のテクスト意味がこの戯曲の全体的な読解をただ一つに決定できないということは、べつにこの戯曲に与えられてきた大量の文学的意味をこの戯曲が実際にもつということを示していない。テクスト意味と両立可能であるということは、せいぜい妥当性の必要条件にすぎないものであり、このトリヴィアルな事実は多元主義のいかなるバージョンについてもその根拠となるものではない。
 ここで両立可能性がせいぜい[原文の強調]妥当性のための必要条件どまりであるのは、テクスト意味がこうなっているというわれわれの理解にたいして、反対意見を唱えることも、修正をくわえることもできるからだ。われわれが先ほど想像していた対象が実は家具ではなく変な形をしたマシンであると判明する可能性がある。これと同じように、われわれは『ロミオとジュリエット』の最小の解釈を修正する可能性がある。テクスト意味について合意を形成できる可能性が高いのは確かだが、これを絶対視することはできない。

つまり、ネハマスのテクスト意味批判はこうまとめられる。

  1. 椅子がルイ14世式であると同時に第一帝政様式そしてディレクタースタイルであることは不可能であるのとおなじように、別にテクスト意味があるからと言ってそれを満たす解釈(文学的意味)が全部正しいとは限らない。だからテクスト意味は解釈の妥当性の基準としては不十分だ。
  2. テクスト意味だってひとつの解釈なんだから、改訂可能性に開かれており、したがって正解の基準には適さない。

ハマスはさらにデリダに対しても批判を加える。

しかし、もしテクスト意味が与えられなかったら、つまり、もしテクスト意味が文学的意味と同様に修正可能な産物であるとしたら、われわれは脱構築に対して、それがハナから求めていたものの全てを与えることになってはしまわないだろうか*8デリダは次のように書いているが、これはメイランドと同じような立場の説明になっている——「構造の中心という概念は、事実上、根本的な基礎によって基礎づけられた遊隙[free-play、機械の連結部のゆとりのこと]の概念なのだ。遊隙は根本的な不動性と安心な確実性のうえに成り立っているのだが、こうした成り立ちはそれじたい遊隙の及ばない範囲のものである」*9。この「中心」とはデリダにおいてはテクストに対する自明であったり直観的に正しかったりする読解を指すものであり、これはつまり、メイランドのいうテクスト意味である。デリダは、どれだけ自明な読解であってもそれは解釈の結果であり、それゆえ疑問を呈され、修正され、置き換えられうると主張する*10
 これは正しいと思う。科学的説明において修正から自由なデータなど存在しないのとちょうど同じように、文学批評においても疑問を呈されることから自由な読解などない。しかし、科学についてのこうした事実は、べつに、対立しているように見える科学理論を比較することは不可能だとか、その比較不可能性によってそれらの理論のどちらがよいかを判断することはできないだとか、あるいはそのような理論はそれぞれ別々の世界を扱うものであるとかいうことを示すものではない*11同様に、批評についてのこの[文学批評において疑問を呈されることから自由な読解などないという]指摘は、べつに、あるテクストについての互いに異なる解釈が、どう見ても矛盾しあうものであっても平等に受け入れ可能であるだとか、テクストは解釈の数だけ意味を持つだとかを示しているわけではない。全ての読解が修正の対象になるからといって、読解が恣意的であったり、何にも拠らず正しくなったりするわけではない。読解の更新は、常に既存の読解の長所と短所によって導かれる。そして、このプロセスが決して終わらないものに思えるとしても、それはそのプロセスを盲目的なしかたでおこなうことの理由にはならない。

改訂不可能な解釈など存在しない、という事実から、矛盾しあうような解釈を全部認めようという主張を引き出すのは誤りだ、ということだ。ネハマスはさらに多元主義を批判していく。うまい切りどころがないので長い引用になる。以下の引用部では、『変身』を例にして、〈批評はそれぞれべつのアスペクトや視点をもっているのであり、それらのどれが正しいとかは決めようがないので多元主義しかない〉みたいな主張を批判している。そして、先に述べたように、〈私が擁護するのは方法論についての一元主義ではなく、内容についての多元主義ですよ。方法論は多元主義でいいよ思いますよ〉というところまで続いている。

 

ジョーンズは多元主義の主張にたいしてより強力な根拠を与えようとしている。彼は、解釈すなわち「テクストを理解し、テクストに一貫性をもたせる営み」は必然的に「アスペクト的(aspectival、側面的)」なものになると主張する。ここで彼はアスペクトという語を「何かを見るための視点であり、なおかつ吟味される対象の外観あるいは相貌である」と理解している(Philosophy and the Novel, pp. 182, 181)。彼の結論は以下だ。すなわち、全ての解釈はなんらかの視点からのものであり、そうした視点(伝記的、マルクス主義的、精神分析的など)のどれも特権的なものではないので、テクストの互いに異なる読解は、たとえ明らかに互いに矛盾しあうものであったとしても、平等に受け入れ可能になりうる。
 ここで、次のようなケースを考えてみよう。『変身』では、ザムザの部屋の壁に掛かっている一人の女性の写真が登場する。『変身』に対する数々の幅広く多様な読解が、この写真をもっぱらザムザの性的対象として捉えている。この[たくさんの読解がみな一様に写真を性的対象として捉えているという]なんでもないような事実は、〈解釈の営みが互いに異なる視点からスタートしたとしても、それがために互いに異なる結果になる必要などないということ〉を示すのに十分だ。また、互いに異なるアプローチの結果が互いに異なるものだったからといって、それらの結果が平等にもっともらしくなるということにもならないだろう。なぜなら、私が思うに、われわれはカフカの物語においてこの写真が果たす役割について、(ただ単に互いに異なる解釈ではなく)より優れた解釈というものを生み出すことができるからだ。テクストには、雑誌から切り抜いた光沢のある写真については「写っているのは、毛皮の帽子をかぶり、毛皮のボアを巻いた貴婦人だ。背筋を伸ばして座り、腕を肘まで覆う重たげな毛皮のマフを、見る者めがけて突き出している」*12と[だけ]書かれている。ところが、ヘインズ・ポリツェルはこの写真を「卑猥で動物的」と説明し、ロバート・アダムズは「図々しくも扇情的」と考え、ヘルムート・カイザーは「性的な意味で積極的でアグレッシブな女性」を描いていると主張し、ピーター・ダウ・ウェブスターはこの女性を「母なる大地」と捉えている*13。こうした説明はテクストの中のどれにも対応するものでもないが、いったんこうした説明がポンと導入されると、それらはある人々にとっては物語それじたいの一部となりえ、それゆえこの写真は性的な内容を獲得することになる。ここから、虫が写真を自らの身体に隠して他の家具と一緒に部屋から持っていかれないようにしたことに性的な意味合いを見出すまでは、ほんの一瞬のことだ。しかし、われわれがこの写真についてじっさいに知っていることは、それが雑誌からの切り抜きであり、それが特定の誰か[モデルや俳優など]を撮ったものではない*14——ちなみにこれは作中において簡略な描写しか与えられていないことの説明になる——ということだけだ。それはなんの特徴も個性ももたない対象なのだ。写真に何か興味深い点があるとすれば、それは、写真は特に興味深いものではないように思われるのにもかかわらず、グレゴールは自身の手でその写真のために額縁を作った、ということだ。これはわれわれが知るなかで唯一の創造的な仕事であり、彼が実際に作った唯一の物だ。彼が自ら望んでというよりかはむしろ身体構造上の問題で余儀なくされてひとつの姿勢をとっている*15ということを踏まえれば、彼が持っていかれないように守っていたものは、彼が実際に創造した唯一のものであり、彼が実際に所有している唯一のものなのだ。彼のもっとも表現的な行為が、〈卑猥というよりはむしろ陳腐というべき対象を額装し、目立たせること〉にささげられたという事実は、グレゴールと世界との関係の薄弱さ、そして彼がその薄弱さに抱いている愛情の深さを際立たせるものである。[以上が性的解釈に対する反論である。]
 というわけで、解釈はある意味においてアスペクト的であるのだが、だからといって批評が「客観的」とは程遠いものになるわけではない。テクストの理解のための互いに異なるさまざまな方法[強調原文]は、おそらく平等に正当なものになるだろう。例えば、精神分析批評が実践されるべきでないという趣旨の主張が一般性をもってなされることはたぶんない。しかし、ある営みが互いに異なるさまざまな方法によって従事されうるからといって、互いに異なるさまざまな結果が必ず生じなければならないということにはならないし、たとえ生じたとしても、それらが平等にもっともらしいとされなければならないなどということにはならない。
 ジョーンズは、解釈とは営みではなくむしろその営みの産物であるという考えに陥り、次のようなより強い結論を引き出してしまっている。「われわれがテクストを解釈するときに依拠しているバックグラウンドや視点は、多くの場合、〈解釈どうし、つまり、互いに異なるさまざまな批評家たちが決定した[テクストに見出される]一貫性のパターンどうしの違い〉を提供してくれるものであり、これこそがもっとも興味深いものなのだ」(Philosophy and the Novel, p. 186)。「アスペクト」という語が視点とそこから見られるものとの両方を含むのとちょうど同じように、「解釈」という語も、テクストに見出される一貫性のパターンを発見することと、パターンそれじたいの両方を含むものになっている。しかし、たしかに、ある対象を精査するためにわれわれは(いわば幾何学的なしかたで)対象の外観、表面、側面(アスペクト)のいずれかを介して精査をおこなわなければならないが、そうはいっても、われわれが精査するのは対象であり、その外観ではないのだ。批評家が互いに異なるさまざまな方策を用いているというただそれだけのことで、互いに異なるさまざまな読解を正当化することなどできはしない。しかしながら、われわれはときにこれが可能だと考えてしまう——それは、われわれが解釈のプロセスについて正しいことを、その産物について正しいのだと取り間違えてしまうがゆえのことなのだ。
 われわれが注意を向けているのは、方法や方策についての多元主義ではなく、内容についての多元主義、つまり、〈テクストに対する互いに異なるアプローチの結果[つまり内容]は、明らかに矛盾しあうものであったとしても、テクストの意味内容の部分ないしはアスペクトとして平等にもっともらしいものになることが可能だ〉という立場だ*16。こうした立場の一例として、〈グレゴールの変身は、非生産的な労働の世界からの疎外を象徴すると同時に、それと同じくらい[のもっともらしさで]、オイディプス・コンフリクトが未解決であることによる肛門期への退化を象徴している〉という見方がある。これらのどちらの見解ももっともらしく思われるし、同様に、こうした[二つの読解内容が並立するという]現象を説明しようとする多元主義的立場ももっともらしいように思われる。しかし、こうした解釈をつぶさに観察すると、そのもっともらしさは薄まりはじめる。例えば精神分析的読解は、扉のところで動けなくなっている虫をグレゴールの父が蹴ったことを純粋な攻撃行為として解釈しなければならない。しかし、逆にグレゴールはそれを「救済」として見做しており、これはまったく正しいことだ。いっぽうマルクス主義的読解は、グレゴールの死の直前に彼の妹の音楽が彼に及ぼした効果を説明できない。解釈が直面する興味深い困難は、たいていこうした具体的なレベルに見出される。われわれはしばしば、ある種の解釈に、その詳細を十分に観察しないせいで、もっともらしさを認めてしまうのだ*17

 

 

ここから、また脱構築批判。

 

ところで、こうした具体的なレベルでの困難がいくらでもあるということで、再び、あらゆる読解は誤読であるとする脱構築の立場が正しいかのように思われるかもしれない。そして、ある意味でこれは正しい。あらゆる読解は反証に直面しうるからだ。しかし、[テクストの]すべての特徴を説明し尽くすような、これ以上の改善を望めない読解がないからといって、テクストが「読解不可能」になるわけではない。それは単に、解釈の余地が残っているということを示しているだけだ。いかなるものについても、決定版の説明、解説、理論など存在しない。また、[読解の]更新が常に劣ったものからより優れたものへの進歩になるわけではないかもしれない。しかし、全体的に見れば、更新においては、読解をより優れたものにするために、優れた読解は置き換えられずに保持される傾向にある。
 こうしたことは、『変身』についての過去の理解よりも現在の理解のほうがより優れたものになっているということを示唆するし、さらに、われわれは将来的にもっと優れた理解に到達するということも示唆している。そして、この物語についてのわれわれの理解においてどのアスペクトも所与のものではないにしろ、われわれはその諸要素のうちいくらかの重要性についてそのつど合意することができるし、それによってわれわれは、暫定的ではあるにしろ、読解の代替案を比較検討したり、評価を下したりすることができるのだ*18。こうしたことは、『変身』のマルクス主義的読解と精神分析的読解とをただ漠然と比較しようとするかぎり、明らかにはならない。このレベルで「どちらがより優れた読解か?」と問うたとしても、ばかげた問いにしかならない。しかし、われわれがここまで議論してきた具体的な問題——興をさかす問題ではなかったかもしれないが——に取り掛かるとき、その要諦が明らかになりはじめるのだ。

以上で、ネハマス多元主義批判の8割くらいは紹介できたと思う。

 

対案としての一元主義批評

というわけで、ネハマスは批評についての多元主義をしりぞけ、一元主義を唱える。しかし、ハーシュの一元主義とはいろいろ勝手が異なる。

順番に見ていこう。先述のとおり多元主義とハーシュ的一元主義のちがいは、テクストの意味について前者は「作るものだ」、後者は「発見するものだ」と答える点に整理された。ではネハマスはなんと答えるか。ネハマスによれば、テクストの意味は〈作者が意味しえたもの〉であるとする。そして、そのようなテクストの全特徴におけるそのテクストの意味を目指す(=統制的理想)ことこそが一元主義批評である。それがどうやって決まるのかはおいおい見るとして、とりあえず引用を読んでみよう。

意味とは、べつに、あらゆる解釈から独立してテクストの中に存在し、そこでたった一度きり発見されるか、運が悪ければ永遠に失われてしまうような代物ではない。かといって、それがでっち上げられたものというのも違う。私が擁護する一元主義批評は、ひとつの統制的(regulative)な理想であり、〈テクストの意味とは、なんであれそのテクストの理想的な解釈によって規定されたものである〉とする立場である。そのような解釈はテクストの特徴[重要なポイント、くらいの意味]をすべて説明するだろうが、われわれはそれに到達することはできない。われわれは、なんらかのものについてその「すべての特徴」を語るということそれじたいさえ、それがどういうことなのかを理解できる公算は低いからだ。われわれが実際に使っている考え方(そして必要としている考え方)は、〈ひとつの解釈が別の解釈よりも多くの疑問に答えることができるということで、前者の解釈が後者よりも、あらゆる疑問に答える仮想的(hypothetical)な理想の解釈により近づいている〉という考え方だ。この理想がある方向は、新たな解釈が、〈テクストのそれまで気づかれていなかった特徴を明らかにするか、既に説明されていた特徴の重要性を再調整するか、あるいはわれわれが用いている批評の一般的規則のなんらかを変更させるかする〉ときに、変更されるかもしれない。そして、この意味で、われわれが実際におこなう解釈のすべてがそこへ導かれるような唯一の理想的解釈など存在しないのかもしれないが、それでもなお依然として、一つの解釈から別の解釈への移行は合理的でありうるし、正当化されうるものだ。テクストを解釈するとは、テクストの特徴を可能なかぎりたくさん説明できるような文脈のうちにテクストを位置づけるということだ。しかし、どの特徴を説明すべきか、つまり、どの特徴が他のそれよりも重要なのかという問いじたい、テクストについての既存の解釈によって条件づけられるものである*19

そして、ネハマスは〈テクストの意味は作者の意図に訴えることによって獲得される〉といったことを述べる。意図に訴えるというのはつまり、「なぜテクストあるいはその特徴のうちひとつが現にそのようになっているかについて、特定の説明に訴えるということを意味している。『変身』において女性の写真はグレゴールの人生の陳腐さを示すために用いられている——この説明は、それが目的論的であるという点で、[表現という目的の原因である]意図に訴えるものである」。つまり、どんなテクストにも目的というものがあり、その目的は作者が意図したものであるので、目的論的な読みは意図主義的な読みになりますよね、という話だ。

しかし、ネハマスの立場は単なる意図主義ではない。彼は以下のように立場を精緻化する。以下の引用はいってみればこの論文のサビみたいな部分だ。ネハマスは作者というものを「仮定作者」「書き手(writer)」という二つの概念にわけ、解釈に使う作者の意図は前者の意図ですよ、と主張する。

テクストを解釈するというのは、テクストをその作者の産物として考慮するということなのだ*20。文学テクストは行為者によって生み出されたものであるし、そのようなものとして理解されねばならない。私にはこれは自明のことと思われるし、これは脱構築批評においてでさえ——行為者による選択が慣習と恣意の所産であると主張しこそすれ——広く受け入れられている。そして、テクストは表現行為の産物であるからして、それを理解することはそれをおこなった行為者を理解することと不可分に結びついている。しかしながら、作者とそのテクストの虚構的ナレーターとが同一ではないのとちょうど同じように、作者はその歴史的な書き手とも弁別されるものだ。作者は、その行為がテクストの諸特徴を説明するような行為者として、仮定されるのである。作者とは、〈暫定的に受け入れられ、解釈を導き、また、解釈に照らして修正されるひとつの仮説〉であるようなキャラクタのことなのだ。作者は、書き手(writer)とちがって、テクストの作用因ではなく、いってみれば形相因なのであり、書き手と同一視されず、思考のなかに現れるものだ*21
 この立場における方法論的制約は、仮定作者(postulated author)が歴史的にもっともらしくなければならないということだ。この原則はつまり、テクストはその書き手が歴史的に意味しえなかったような意味をもつことができない、というものだ。たとえば、これこれの言葉に、書き手の死後にはじめてもつようになった意味を帰属させることはできない*22。書き手が何を意味しえたかは、言語じたいについての考察や伝記的な考察だけでなく、〈文学史、世界史、心理学、人類学など様々なものについての事実〉によって決定されうる。そして、こうした決定要因のいずれかについてのわれわれの理解が変われば、それによってテクストについてのわれわれの理解も変わる可能性がある。
 したがって、意味は、書き手が意識していなかったとしても作者の意図に依存する。作者の意図は〈書き手が何を意味しえたか〉に依存する以上、テクストの意味はその限りにおいて過去の事柄であるのだが、しかし意味理解のほうはそれじたい未来の事柄だ。フロイトがいなかったら、われわれは、いまや『オイディプス王』の本質的部分となっているその性的要素を知ることはなかっただろう。しかし、もしオイディプス・コンフリクトがフロイトの考えていたように[オイディプスの]振る舞いの基礎をなしているとしたら、歴史的ソポクレスは、たとえ彼が意識していなかったとしても、オイディプス・コンフリクトをひとつの問題として考慮しえたということになる。そして、われわれはここから次のように主張できる。すなわち、ソポクレスというキャラクタ、すなわちこの戯曲の[仮定]作者は、その問題をほんとうに考慮していたのだ。それは、われわれが今世紀に至るまでそれを認識できていなかったとしても、戯曲の意味の一部になるのだ。

この引用部のポイントを整理するとこんな感じ。

  1. 作者を「仮定作者」「書き手」に分け、解釈の正解を決めるのは仮定作者の意図だとする。
  2. 仮定作者の意図とはつまり、〈書き手が意味しえたこと〉だ。〈書き手が意味したこと〉ではない。
  3. 〈書き手が意味しえたこと〉の範囲の線引きは、〈それが歴史的にもっともらしいか否か〉言い換えると、〈テクストじたい、当時の時代状況、文学史、世界史、心理学、人類学など様々なものについての事実をふまえたうえで、実際に書き手が意図した可能性があるか否か〉という基準で決まる。

    たとえば〈『オイディプス王』がオイディプス・コンプレックスをあらわしている〉という解釈が正しいのは、ソポクレスがオイディプス・コンプレックスを意図したと考えられるからではなく、ソポクレスという書き手が意図しえたから、言い換えると、仮定作者ソポクレスが意図したからだ。

この基準によると、以下のような解釈は棄却されることになる。

逆に、われわれは『変身』をめぐる次のような見解を受け入れてはならない。すなわち、作中の時計の示す時刻はグレゴールの人生における年齢と一致しており、彼は

(孫引用)
5時の電車に乗って仕事に向かうべきだった。つまり、超自我の変容たる精神的変化が、5歳という、それが起こるに正常な年齢において起こるべきだったのだ。しかし、いま、時刻はもう6時半になってしまった(グレゴールは6歳半ということだ)。彼は電車を逃したが、これはつまり、発達に不可欠な精神的エネルギーを逃してしまったということだ*23
(孫引用終わり)

こうした極めてテクニカルかつ極めて疑わしい発達理論を、カフカは知りえなかった。オイディプス・コンフリクトの説得力と普遍性は、われわれが〈カフカは自分のちからでオイディプス・コンフリクトを理解しえたし、したがってそれは物語のうちに属するのだ〉と納得させるに足るかもしれないが、いっぽう上述の発達理論は、たとえそれが正しい理論だったとしても、オイディプス・コンフリクトが持つような説得力と普遍性をまったく欠いている。

僕は〈村上春樹作品における「井戸」とは、つまり「イド」なのだ〉みたいな有名なあれを思い出した。意外に肯定的な文脈で引かれることが多くて勘弁してくれと思うが、どう考えても強引すぎだろうと思う。ただ、これはネハマスの一元主義批評の難点かもしれないのだが、ネハマスの基準ではこのイド解釈を「誤りだ」と主張できない可能性がある。というのも、もちろん村上春樹精神分析について(嫌悪感を表明しつつも)あるていど詳しい知識を持っていたはずであり、それを踏まえれば、村上はこの意味を意図しえた(could)のでありイド解釈は歴史的にもっともらしいと言えるからだ。

このへん、もっと厳しい基準が必要だと思う。要は、仮定作者が意図した意味=書き手が意図しえた意味が正しい解釈だといって、その「しえた」の基準が歴史的にもっともらしいか否かに求められているが、追加の基準が必要だろうということ。

ただ、こうした批判はチャリタブルでないかもしれない。歴史的にもっともらしいという基準は、〈ふつうに考えて意図してないでしょ〉という解釈を弾くことができると読むこともできるからだ。〈そんなことを意図することはできなかった(could not)〉という意味だけでなく、〈そんなこと意味したはずない(could not)〉という意味も弾かれるとしたら、以上の批判は当たらない。

 

話を戻そう。テクストにたくさん部分的な解釈があるからといって、一元的な正解の解釈がないとする必要はないという主張をおこなっているところを引用する。基本的に文学批評や文学研究はネハマスのいう部分的な解釈になるだろうが、それは批評の一元主義的な正解を目指すための材料(あるいは正解の一部分)だといっている。

ところで、ある意味において、テクストの作者として歴史的にもっともらしい人物像を構築することには、ある種の恣意性がある。われわれは、[一元主義批評の]原則的には、常に別様の文脈や別様の作者を構築することができるし、そうすることで、非歴史的な読解を与えることができるだろう。これはまさしく、具象絵画をおなじみのユークリッド空間の投影として解釈することの恣意性に似ている——というのも、その投影によって二次元の像を解釈することができるような世界観は、ユークリッド空間以外にも無数にあるのだ。そのような世界観の構築がやりがいのあることになりうるのと同じ理由で、われわれは、別様の作者を仮定し、新しい読解が古い読解に影響を与えるのに対応して自身の考えを進歩的に洗練させることで、常にテクストの別様の読解を試みることができるだろう。この方向での進歩は、テクストが真の意味で、そして価値ある意味において、多義的であるということを示しているかもしれない。しかしながら、われわれが実際の批評に見出すのは、自身が部分的であるということに極度に自覚的な[批評の]代替案の数々であり、そうした代替案は、もっとたくさんの部分的で他のぶつかりあわない読解が生まれることを期待して、テクストがもつ特徴の一部にだけ注意を向けるのだ。こうしたことは、あらゆるテクストが全体としてたくさんの意味をもつという立場の根拠となるわけでは決してない

 私が提示している一元主義は、べつに一つのテクストに部分的な読解がたくさん存在するということによって脅かされたりはしない。なぜなら、一元主義はそうした読解で得られた発見を、より完全なテクスト理解の追究のために活用することができるからである。方法論的多元主義は、内容の一元主義と両立するのだ。[一元主義の]統制的目的は、それぞれのテクストに対して歴史的にもっともらしい完全な作者を構築することだ——ここでいう作者とは、実際の作者自身のおそらくは断片的で不完全な自己理解とは一致しない可能性もあるようなひとつのキャラクタのことである。書き手が考えるテクストの意味は、文学批評に関わりこそすれ、その論拠(evidence)となることはないのだ。さらにいえば、われわれの構築は決して完全になることはない。

 

まとめ

最後に、ネハマスの主張をアーギュメント抜きにまとめておこう。

  1. 多元主義は間違っていて、解釈には答えがあるのだ。
  2. ただ、私が否定するのは解釈内容の多元主義であって、解釈方法の多元主義ではない。
  3. テクストの意味とは仮定作者が意図した意味だ。つまり、書き手が歴史的に考えて意図しえたものだ。
  4. そうしたテクストの意味を明らかにして、テクストの全ての特徴を十全に語るような理想の解釈を目指すのが私の推す一元主義批評だ。
  5. その理想は到達不可能だが、別にその不可能性は、理想を目指さないことの理由にはならない。

5はうまく拾えなかったかも。終わり。

 

コメント

レヴィンソンの立場が〈正しい解釈とは、実際の作者について理想的鑑賞者が立てる最良の仮説だ〉というならば、ネハマスの立場は〈正しい解釈とは、理想的作者について理想的鑑賞者が立てる最良の仮説だ〉みたいに言えるんじゃないかな、と思った。

あと、細かいところだが、以下の点は注意すべき。

ハマスは、テクストの意味は「仮定作者が意味しえたもの」といっているのではなく、「書き手が意味しえたもの」(=「仮定作者が意味したもの」)といっている。そして、批評の統制的理想とは、テクストの全特徴を語り尽くすようなしかたで、そうしたテクストの意味の全てを明らかにするものだ。

 

全訳ほしい方いらしたらツイッターのDMでお声かけください。送ります。

 

落ち着いたら、次はラマルクの作者の死論文を翻訳する予定。

 

 

 

 

 

*1:原注:これらの研究は、Stanley Corngold, The Commentator’s Despair: The Interpretation of Kafka’s “Metamorphosis” (Port Washington, NY, and London, 1973)にまとめられ、かつ論じられている。以後でてくる『変身』についての言及はすべて本書に収められているものだ。もちろん、本書以降も『変身』解釈は数々提案されている。

*2:原注:ジャック・デリダは、たとえば『声と現象』林好雄[訳]、筑摩書房や『グラマトロジーについて 上・下』足立和浩[訳]、現代思潮新社、『エクリチュールと差異』谷口博史[訳]、法政大学出版局において、こうした立場を強く擁護している。また、『散種』藤本一勇ほか[訳]、法政大学出版局も参照のこと。

*3:原注:デリダ「署名 出来事 コンテクスト」、『有限責任会社』高橋哲哉ほか[訳]、三二頁。 また、J. Hillis Miller, “The Critic as Host,” in Deconstruction and Criticism, ed. Harold Bloom et al. (New York, 1979), p. 225. も参照のこと。これとは別の優れた論考においてミラーは、〈芸術作品がある種の慣習を使うのならば、その作品はそうした慣習についても作品にもなる〉という原則に強く依拠している(“The Fiction of Realism: Sketches by Boz, Oliver Twist, and Cruickshank’s Illustrations,” in Dickens Centennial Essays, ed. Ada Nisbet and Blake Nevius [Berkeley, 1971], pp. 85–153)。

*4:原注:Miller, “Stevens’ Rock and Criticism as Cure, II,” Georgia Review 30 (Summer 1976): 333.

*5:原注:Ibid.

*6:僕注:未邦訳だが、河合大介「ハーシュにおける意図の概念」フィルカル 8(2) pp.78-88でその概要を把握できる。

*7:原注:以下の文献を参照のこと。Abrams, “Note on Wittgenstein”; “Rationality and Imagination in Cultural History: A Reply to Wayne Booth,” Critical Inquiry 2 (Spring 1976): 447–64, esp. 457 、 “What’s the Use of Theorizing about the Arts?” in In Search of Literary History, ed. Morton Bloomfield (Ithaca, NY, 1972), pp. 3–5や、 “The Deconstructive Angel,” Critical Inquiry 3 (Spring 1977): 425–38; Peter Jones, Philosophy and the Novel (Oxford, 1975), ch. 5, esp. pp. 182–3 ( 以後でてくるこの本の引用はすべてこのテクストに含まれている。)、Meiland, “Interpretation,” esp. pp. 29–31 and 35–7(以後でてくるこの論考の引用はすべてこのテクストに含まれている。)また、 Quentin Skinner, “Motives, Intentions, and the Interpretation of Texts,” New Literary History 3 (Winter 1972): 393–408. も参照のこと。

*8:原注:メイランドはテクスト意味が解釈に依存するということについては明確であるが(“Interpretation,” p. 36)、彼はそれがただ単に言葉の物理的なしるし(mark)によるものだと考え、それゆえそれに特権的な地位を与えている。

*9:原注:Derrida, “Structure, Sign, and Play in the Discourse of the Human Sciences,” in The Structuralist Controversy, ed. Richard Macksey and Eugenio Donato (Baltimore, 1970), p. 248; rpt. in Writing and Difference, pp. 278–93. Cf. Miller, “Critic as Host,” p. 218: 「しかし、『明白(obvious)』な読解はそんなに『明白』なのだろうか、あるいはそんなに『一義的』なのだろうか。(…)明白な読解とはおそらく一義的というよりかは多義的なものではあるまいか。そして、その曖昧さは、そのなじみやすい親密さや、自身を「明白」であり全員が口を揃えてそう言っているのだと認めさせる力において、最大になるのではあるまいか。

*10:原注:デリダの立場の詳細についてはCuller, Structuralist Poetics, pp. 244–5. を参照のこと。テクストの意味のいかなる部分も与えられるものではない、という私が擁護してきた立場は、スタンリー・フィッシュのアプローチとかなり似ている。たとえば “Interpreting the Variorum” (Critical Inquiry 2 [Spring 1976]: 473)では、フィッシュは「テクストの中に埋め込まれ、エンコードされたものとして意味は存在し、それはひと目見たら把握できるものだ、という考え」を批判している。ただ、私は、彼の〈意味はテクストそれじたいではなくむしろ読者の経験のほうに位置づけられる〉という推論については意見を異にする。彼の以下の論考も参照のこと。 “Literature in the Reader: Affective Stylistics,” Self-Consuming Artifacts: The Experience of Seventeenth-Century Literature (Berkeley, 1972), pp. 382–427.

*11:原注:この点については以下を参照のこと。Hilary Putnam, “Meaning and Reference,” in Naming, Necessity, and Natural Kinds, ed. Stephen Schwartz (Ithaca, NY, 1977), pp. 119–32.、 “The Meaning of ‘Meaning,’” Mind, Language, and Reality (Cambridge, 1975), pp. 215–72. この結論についての別の主張としては、以下を参照のこと。 Larry Laudan, Progress and Its Problems (Berkeley, 1977), p. l41ff.

*12:訳注:フランツ・カフカ『変身』川島隆[訳]、六頁

*13:原注:それぞれ、Heinz Politzer, Franz Kafka: Parable and Paradox (Ithaca, NY, 1966), p. 72; Robert M. Adams, Strains of Discord: Studies in Literary Openness (Ithaca, NY, 1958), p. 152; Hellmuth Kaiser, “Kafka’s Fantasy of Punishment,” Peter Dow Webster, “Franz Kafka’s ‘Metamorphosis’ as Death and Resurrection Fantasy,” and Corngold, “Metamorphosis of the Metaphor,” in The Metamorphosis, trans. and ed. Corngold (New York, 1972), pp. 153, 158, and 11. コーンゴールドの翻訳から引用した。

*14:訳注:pictureはドイツ語bildの訳語であり、「写真」とも「絵」とも解釈できる。実際変身研究では論争があるらしい。ここでの言い方だと、ネハマスは絵説をとっているとしたほうがいいかもしれない。というのも、写真が特定の誰かを撮っていないという言い方は違和感をおぼえるものだが、絵については自然な表現だからだ。しかしながら、変身研究では「写真」説のほうが優勢であるという情報をかんがみて、本稿では「写真」とした(なお、川島訳では作中でのちに出てくるphotographieとの対比をきわだたせるために敢えてbildは「絵」と訳されている。しかし、ここではそのような対比を出す必要はないので修正した)。

*15:訳注:グレゴールが壁にへばりついて全身で写真を隠す、というシーンがある。(六一頁)

*16:原注:ウェイン・ブースは方法論的多元主義に伴う問題について以下で扱っている。 Critical Understanding (Chicago, 1979)。しかし、彼の議論は、特にpp. 284–301において、内容の多元主義の延長にある。

*17:原注マルクス主義の主張としては以下を参照のこと。Bluma Goldstein, “Bachelors and Work: Social and Economic Conditions in ‘The Judgment,’ ‘The Metamorphosis’ and The Trial,” in The Kafka Debate, ed. Angel Flores (New York, 1977), pp. 147–75 and 3–5. フロイト的見解については以下を参照のこと。Kaiser, “Kafka’s Fantasy of Punishment,” esp. p. 152.

*18:原注:モンロー・ビアズリーは、似たような主張をブースのCritical Understanding in Philosophy and Literature 4 (Fall 1980): 257–65.のレビューにおいておこなっている。

*19:原注:パトナムはこのような立場を科学哲学や認識論と関連づけて論じている。“Realism and Reason,” Meaning and the Moral Sciences (London, 1978), pp. 123–40.

*20:原注:この立場は、最初期のニュー・クリティシズム、構造主義(たとえばロラン・バルトラシーヌ論』渡辺守章[訳]、みすず書房)、さらにはニュー・クリティシズムに共感的な最近の理論(たとえばJohn Ellis, The Theory of Literary Criticism: A Logical Analysis [Berkeley, 1974])、脱構築、そして読解という営みをとおして解釈にアプローチするやり方(Iser, The Act of Reading, and Fish, “Literature in the Reader” 、注23を参照のこと)を、逸脱しているように思われるかもしれない。

*21:原注:私のいう仮定作者は、ブースのいう「内包された作者(implied author)」と無関係ではない。ブースはCritical Understanding でもThe Rhetoric of Fiction (Chicago, 1961)でもこの概念に訴えている。また、ケンダル・ウォルトンが“Style and the Products and Processes of Art,” in The Concept of Style, ed. Berel Lang (Philadelphia, 1979), pp. 45–66.で論じた「透明な作者」とも無関係ではない。私はこの問題について、以下でより詳しい議論をおこなっている。“What an Author Is” (to be presented at the MLA convention, December 1981).

*22:原注:ビアズリーは、われわれはそのような意味をテクストに帰属することができる、と主張している。Possibility of Criticism, p. 19. を参照のこと。

*23:原注:Webster, “ ‘Metamorphosis’ as Death and Resurrection Fantasy” (n. 25 above), pp. 161–2.