国語教育 文学教材のネタ3 表現技法に注目して羅生門を読む - sazaesansazaesan’s diary
の続き。
羅生門についての気づきを書いておく。
原作は
今昔物語選 : 校註 - 国立国会図書館デジタルコレクション
武田祐吉 著『今昔物語選 : 校註』,明治書院,昭和13. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/1054436 (参照 2025-01-28)
79コマ 145コマ~
原作では最初から盗人で悩んでいない。老婆と死人はかつて主従関係。
広い門の下には、この男のほかに誰もいない。ただ、所々
丹塗 の剥 げた、大きな円柱 に、蟋蟀 が一匹とまっている。羅生門が、朱雀大路 にある以上は、(以下略)
映像だと、
門全体(中心に下人)→柱→きりぎりすのアップ→門周辺と朱雀大路をルーズで撮る。
羅生門が、
朱雀大路 にある以上は、この男のほかにも、雨やみをする市女笠 や揉烏帽子 が、もう二三人はありそうなものである。それが、この男のほかには誰もいない。
何故かと云うと、この二三年、京都には、地震とか辻風 とか火事とか饑饉とか云う災 がつづいて起った。そこで洛中 のさびれ方は一通りではない。
時代背景の説明をスムーズにするための苦労?
もし冒頭から、平安末期の状況→下人の解雇→門の下の下人で語ると、
読み手はすぐに平安に頭を切り替えられず、
不自然に作者がしゃしゃり出ている感じ。
ここでは、
「走れメロス」同様に、まず主人公を出し、
「え、この人誰、いつの話?」と思いながら読み進むうちに、
知らず知らず時代状況がわかる。
広い門の下には、この男のほかに誰もいない。(以下略)
何故かと云うと、この二三年、(以下略。災害多発、京都の荒廃)
その代りまた
鴉 がどこからか、たくさん集って来た。(中略)もっとも今日は、刻限 が遅いせいか、一羽も見えない。(以下略)
人もいない、鴉もいない、そこになぜ下人はいるのか?
旧記によると、仏像や仏具を打砕いて、その
丹 がついたり、金銀の箔 がついたりした木を、路ばたにつみ重ねて、薪 の料 に売っていたと云う事である。洛中がその始末であるから、羅生門の修理などは、元より誰も捨てて顧る者がなかった。
後で、死体の髪をかつらにする話、蛇を食品として売る話が出ることに対応?
羅生門は洛中ではないのか?門は洛中と洛外の中間?
なぜ舞台設定が境界上を舞台設定にしたのか?
鴉の話をする前に、
するとその荒れ果てたのをよい事にして、
狐狸 が棲 む。盗人 が棲む。とうとうしまいには、引取り手のない死人を、この門へ持って来て、棄てて行くと云う習慣さえ出来た。そこで、日の目が見えなくなると、誰でも気味を悪るがって、この門の近所へは足ぶみをしない事になってしまったのである。
人、鴉と狐狸、盗人、死人が対比?
なぜ下人は人も行かない場所で雨宿り?
もっとも今日は、
刻限 が遅いせいか、一羽も見えない。ただ、所々、崩れかかった、そうしてその崩れ目に長い草のはえた石段の上に、鴉の糞 が、点々と白くこびりついているのが見える。下人は七段ある石段の一番上の段に、洗いざらした紺の襖 の尻を据えて、右の頬に出来た、大きな面皰 を気にしながら、ぼんやり、雨のふるのを眺めていた。
映画なら、
門の上空→石段の割れ目→石段→石段を上にあがる→下人のズボン→下人の頬→下人の視線→視線の先の雨。
横光利一 蠅 (青空文庫)ほどではないにせよ、カメラワークっぽい?
ふだんなら、勿論、主人の家へ帰る可き筈である。所がその主人からは、四五日前に暇を出された。
服が洗いざらしであることと対応? 不安定な生活に入ったのは最近。
前にも書いたように、当時京都の町は一通りならず
衰微 していた。今この下人が、永年、使われていた主人から、暇を出されたのも、実はこの衰微の小さな余波にほかならない。
下人の貧困状況が、社会の大きな流れ(京都での災害多発)と関係している。
突然の困難は、何らかの社会的原因で起きる。何もなしに起きない。
だから「下人が雨やみを待っていた」と云うよりも「雨にふりこめられた下人が、行き所がなくて、途方にくれていた」と云う方が、適当である。
敢えて最初から「途方にくれていた」と書かない理由は?
その上、今日の空模様も少からず、この平安朝の下人の Sentimentalisme に影響した。
申 の刻 下 りからふり出した雨は、いまだに上るけしきがない。そこで、下人は、何をおいても差当り明日 の暮しをどうにかしようとして――云わばどうにもならない事を、どうにかしようとして、とりとめもない考えをたどりながら、さっきから朱雀大路にふる雨の音を、聞くともなく聞いていたのである。
雨は、羅生門をつつんで、遠くから、ざあっと云う音をあつめて来る。夕闇は次第に空を低くして、見上げると、門の屋根が、斜につき出した甍 の先に、重たくうす暗い雲を支えている。
どうにもならない事を、どうにかするためには、手段を選んでいる遑 はない。
地の文の情景描写(雨の音)の中に、主人公の心情(下線部)。
「どうにも」「どうにか」を連続して、リズムを作り、同じことで悩む心理を追体験?
どうにもならない事を、どうにかするためには、手段を選んでいる
遑 はない。選んでいれば、築土 の下か、道ばたの土の上で、饑死 をするばかりである。そうして、この門の上へ持って来て、犬のように棄てられてしまうばかりである。選ばないとすれば――
冒頭の羅生門に死体を捨てる話と対応?
後の老婆のセリフにも餓死あり。
下人は、手段を選ばないという事を肯定しながらも、この「すれば」のかたをつけるために、当然、その後に来る可き「
盗人 になるよりほかに仕方がない」と云う事を、積極的に肯定するだけの、勇気が出ずにいたのである。
盗人も手段として肯定するが、盗人しかない(から盗人になる)という積極的な肯定はできない。
盗人になって人を痛めつけようという野蛮な勇気ではない。
高1の私はそのような、複雑な肯定を迫られる場面を経験したことがなかった。
雨風の
患 のない、人目にかかる惧 のない、一晩楽にねられそうな所があれば、そこでともかくも、夜を明かそうと思ったからである。すると、幸い門の上の楼へ上る、幅の広い、これも丹を塗った梯子 が眼についた。上なら、人がいたにしても、どうせ死人ばかりである。
なぜ人目を避けるのか?人目を避けるにしても、死人は怖くないか?
羅生門の楼の上へ出る、幅の広い梯子の中段に、一人の男が、猫のように身をちぢめて、息を殺しながら、上の
容子 を窺っていた。楼の上からさす火の光が、かすかに、その男の右の頬をぬらしている。短い鬚の中に、赤く膿 を持った面皰 のある頬である。下人は、始めから、この上にいる者は、死人ばかりだと高を括 っていた。それが、梯子を二三段上って見ると、上では誰か火をとぼして、しかもその火をそこここと動かしているらしい。
1人称で書き直すと、
「俺はこの上にいる者は、死人ばかりだと高を
1人称で自分の顔への光について書くと奇妙?
この雨の夜に、この羅生門の上で、火をともしているからは、どうせただの者ではない。(中略 死体が山積み)
下人 は、それらの死骸の腐爛 した臭気に思わず、鼻を掩 った。しかし、その手は、次の瞬間には、もう鼻を掩う事を忘れていた。ある強い感情が、ほとんどことごとくこの男の嗅覚を奪ってしまったからだ。
下人の眼は、その時、はじめてその死骸の中に蹲 っている人間を見た。(中略 老婆の説明)
下人は、六分の恐怖と四分の好奇心とに動かされて、
暫時 は呼吸 をするのさえ忘れていた。
人がいるのを知って上がってきたが、いざ人を見ると、においも忘れるほど驚く。
においを描いた小説、他には?
その髪の毛が、一本ずつ抜けるのに従って、下人の心からは、恐怖が少しずつ消えて行った。そうして、それと同時に、この老婆に対するはげしい憎悪が、少しずつ動いて来た。――いや、この老婆に対すると云っては、
語弊 があるかも知れない。むしろ、あらゆる悪に対する反感が、一分毎に強さを増して来たのである。
ここまで詳しい心情説明。小説好きの生徒にはくどい?
これを下人の1人称にすると、下人は近代の小説家なみに分析がうまい、「自己分析おばけ」になってしまう。
髪が抜けるにつれて恐怖と憎悪が入れ替わる。
→心情の変化をどう描くかに、芥川も悩んだのだろう。
下人には、勿論、何故老婆が死人の髪の毛を抜くかわからなかった。従って、合理的には、それを善悪のいずれに片づけてよいか知らなかった。しかし下人にとっては、この雨の夜に、この羅生門の上で、死人の髪の毛を抜くと云う事が、それだけで既に許すべからざる悪であった。勿論、下人は、さっきまで自分が、盗人になる気でいた事なぞは、とうに忘れていたのである。
老婆や自分の置かれた状況をふまえ、合理的に善悪を判断する。
のではなく、直感で悪と判断して、断罪する。
漱石の「坊ちゃん」的な青年らしさ?
これを見ると、下人は始めて明白にこの老婆の生死が、全然、自分の意志に支配されていると云う事を意識した。そうしてこの意識は、今までけわしく燃えていた憎悪の心を、いつの間にか冷ましてしまった。
冒頭では、盗人になるか決められず、自分が死ぬか生きるかを決められない。
→前は自分の生死も左右できなかったのに、今は他人の生死を左右できる。
「この髪を抜いてな、この髪を抜いてな、
鬘 にしようと思うたのじゃ。」
下人は、老婆の答が存外、平凡なのに失望した。そうして失望すると同時に、また前の憎悪が、冷やかな侮蔑 と一しょに、心の中へはいって来た。
同じ憎悪が侮蔑を伴って再燃。
=似ているが微妙に違う感情が起きる。(感情の微差)
蟇 のつぶやくような声で、口ごもりながら、こんな事を云った。「(中略)わしは、この女のした事が悪いとは思うていぬ。せねば、饑死をするのじゃて、仕方がなくした事であろ。されば、今また、わしのしていた事も悪い事とは思わぬぞよ。これとてもやはりせねば、饑死をするじゃて、仕方がなくする事じゃわいの。じゃて、その仕方がない事を、よく知っていたこの女は、大方わしのする事も大目に見てくれるであろ。」
句点が多い。つぶやき、口ごもりつつ話す感じを出すため?
句点を減らすと
「わしはこの女のした事が悪いとは思うていぬ。せねば饑死をするのじゃて、仕方がなくした事であろ。されば、今またわしのしていた事も悪い事とは思わぬぞよ。これとてもやはりせねば饑死をするじゃて、仕方がなくする事じゃわいの。じゃて、その仕方がない事をよく知っていたこの女は、大方わしのする事も大目に見てくれるであろ。」
すらすらと悪びれもせず語っているように読める。
演劇の専門家は句点をどうするのか?
これとてもやはりせねば、饑死をするじゃて、仕方がなくする事じゃわいの。じゃて、その仕方がない事を、よく知っていたこの女は、大方わしのする事も大目に見てくれるであろ。
やむを得ぬ悪を、やむを得ぬ悪をした人に行っても、許してくれるか?
悪の話は縁遠いかもしれないが、
日常生活でも、他人が自分の行動をどう思うか、判断できるか?
下人はこの老婆の言に勇気を得て盗人になる、と読みたくなるが……
下人は、太刀を
鞘 におさめて、その太刀の柄 を左の手でおさえながら、冷然として、この話を聞いていた。勿論、右の手では、赤く頬に膿を持った大きな面皰 を気にしながら、聞いているのである。しかし、これを聞いている中に、下人の心には、ある勇気が生まれて来た。それは、さっき門の下で、この男には欠けていた勇気である。そうして、またさっきこの門の上へ上って、この老婆を捕えた時の勇気とは、全然、反対な方向に動こうとする勇気である。下人は、饑死をするか盗人になるかに、迷わなかったばかりではない。その時のこの男の心もちから云えば、饑死などと云う事は、ほとんど、考える事さえ出来ないほど、意識の外に追い出されていた。
「きっと、そうか。」
老婆の話が完 ると、下人は嘲 るような声で念を押した。そうして、一足前へ出ると、不意に右の手を面皰 から離して、老婆の襟上 をつかみながら、噛みつくようにこう云った。
なぜ決心してにきびから手をはなす?
冒頭にもにきび
右の頬に出来た、大きな
面皰 を気にしながら、ぼんやり、雨のふるのを眺めていた。(中略)そこで、下人は、何をおいても差当り
明日 の暮しをどうにかしようとして――云わばどうにもならない事を、どうにかしようとして、とりとめもない考えをたどりながら、さっきから朱雀大路にふる雨の音を、聞くともなく聞いていたのである。
勇気についての描写。再掲
しかし、これを聞いている中に、下人の心には、ある勇気が生まれて来た。それは、さっき門の下で、この男には欠けていた勇気である。そうして、またさっきこの門の上へ上って、この老婆を捕えた時の勇気とは、全然、反対な方向に動こうとする勇気である。
同じ勇気でも、いかなる勇気なのかが違う。
下人は、饑死をするか盗人になるかに、迷わなかったばかりではない。その時のこの男の心もちから云えば、饑死などと云う事は、ほとんど、考える事さえ出来ないほど、意識の外に追い出されていた。
階段で老婆を見ていたときと比較。
むしろ、あらゆる悪に対する反感が、一分毎に強さを増して来たのである。この時、誰かがこの下人に、さっき門の下でこの男が考えていた、
饑死 をするか盗人 になるかと云う問題を、改めて持出したら、恐らく下人は、何の未練もなく、饑死を選んだ事であろう。
飢え死にするか否かではなく、飢え死にを超越した問題になった?
外には、ただ、
黒洞々 たる夜があるばかりである。
仮に夕暮れから夜ではなく、深夜から夜明けだったら、どんな印象?
下人の
行方 は、誰も知らない。
原作は盗人が自分で語った話。
本作は旧記によりつつ、近代人が執筆。
この話は誰が見ていたのだろうか?
ひとまず以上。
4/14追記
高校生は「羅生門」の教材的価値をどう評価するか-〔作品/言語能力向上に資するもの〕として- | 学術機関リポジトリデータベース
教材として価値がある、価値がない同士でディベートさせる授業。
「地獄変」の語りをとらえる授業実践とその理論的支柱 : 「羅生門」の語りの問題に接続する発展的学習として | 学術機関リポジトリデータベース
国語科の授業における文学教育論と文学研究論の相互関係に関する研究 : 西郷理論を援用した「羅生門」実践の可能性と課題 | 学術機関リポジトリデータベース
→博士論文。言語技術と文学教育の論争も踏まえつつ、文学教育や文学理論寄りの研究を中心に、羅生門の指導方法について考察。