プロレスリング・ソーシャリティ【社会・ニュース・歴史編】

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「先行者」から25年、日本は中国にロボットでも完敗か

 いま「世界最先端」のニュースを聞くことがあれば、その大半が中国発だといってもおかしくなさそうである。

 最近の中国は特に先端技術の分野で躍進しているようで、つい先日にはロボットサッカー世界大会で中国が優勝、そして中国のスタートアップ企業がロボットボクサー2体を開発してその2体がボクシングする動画が公開された。

(⇒ 共同通信 2025年5月22日記事:人型ロボット「運動能力」が進化 中国、先端技術で主導権)

(⇒ ABEMAヒルズ 2025年5月22日記事:ジャブにフック 激しいパンチを繰り広げるも軍配はどちらに?中国企業が開発のロボットがボクシング対決)


 かつてロボットといえば日本、ロボット王国といえば日本であった。

 世界最先端のロボットを開発し活用する国といえば日本であり、あの映画トランスフォーマーシリーズで初めてトランスフォーマーを見たアメリカ人主人公が「日本製か?」と言うシーンは有名だろう。

 だが今、そういう日本のイメージは世界で消えつつある(のだろう)。

 先端技術といえばもちろんアメリカなのだが、それに匹敵し凌駕している/凌駕しつつあると思われているのは、中国である。

 そして他ならぬ日本人たち自身も、案外と身近な感覚でそれを実感しつつある――いや、既に実感していると思われる。

 と言うのも、今回のような先端ロボット関連ニュースにおいて、日本企業の名を聞くことはほとんど全くないからである。

 実際あなたも、ASIMOとペッパーくん以来、「日本製ロボット」の話題を聞くことがあるだろうか。実際に目にすることがあるだろうか。

 ハッキリ言えば日本人の意識において、日本の人型ロボットの進化はASIMOとペッパーくんで止まっている。

 いや、ASIMOとペッパーくんで進化は終焉したと言ってもオーバーではない。

 もっとも産業用ロボットの分野では、今でも日本企業は相当のシェアを確保しているのだが……

 あなたはむしろ、それを「意外」に感じるのではなかろうか。

 不幸にして産業用ロボットとは、人型もしくは動物型ロボットほど人の心にインパクトを与えないものだ。

 ドローンとかでもそうなのだが、このロボットという「お家芸」のはずの分野ですら、日本は中国に負けて凋落しつつある。

 それどころか、ちょっとしたガジェット類の分野ですら、これは面白いと感じるような新商品は中国発であることが多く――

 それが日本初であることは珍しいというのは、ネットショッピングが好きな人などはそれこそ実感しているのではなかろうか。

 いったいどうして日本と中国はここまで勢いが違うのか、どうして中国は躍進し、日本は停滞し凋落していくのか、その理由を示すことはたぶん難しい。

 それにつけても私が思うのは、あの2000年に公表された中国初の人型ロボット「先行者」のことである。

 画像検索すればわかるが、あの姿と動きは確かにユーモラスで――

 中国軍研究機関が国威を賭けて開発・発表したものと言うよりは、今で言えばディアゴスティーニの初回299円の自作組み立てキットみたいな「ロボット」だった。

 そして実際、先行者はネット上で失笑・嘲笑・からかいを引き起こしていた記憶がある。
 
 しかし先見の明を誇るわけではないが、私はあれを笑えなかった。
 
 あれを笑うのは、まるでライト兄弟の最初の飛行機がチャチだと笑うのと同じようなものだと思っていた。

 なんとなれば、最初は何でもあんなものだからである。

 ライト兄弟の飛行機が(20世紀の前半という昔でありながら)50年経たないうちにジェット機に進化したことを思えば、先行者から25年でどれだけ進歩するかわかったものではない、と思わざるを得なかったからである。

 そしたら案の定、少なくとも人型ロボットの分野では、中国は完全に日本を追い抜いた。

 今回のロボットボクサーの動きをいかに「稚拙」だと思おうと、日本はその稚拙な動きの人型ロボットさえ作れない――もっと言えば、作る雰囲気にない――という事実には、厳粛極まるものがある。

 先行者を笑うものは、25年後に泣く。

 これは現代の格言のようなものだと思うが、日本はもう中国に勝つ見込みがないのだろうか……

 

 

「退職代行」隆盛・普及は結構なこと、海外進出も夢でなし論

 近年の日本で「輝けるビジネスモデル」は何かと問われれば、それが「退職代行」であることは間違いない。

 特に「退職代行モームリ」のネーミングセンスは抜群で、同業他社(これがまた「SARABA」とか「やめたらええねん」などのネーミングなのだが)から一頭地を突き抜け――

 もはや近年最も成功・急成長した超新星企業、誰でも知ってる企業名の一角となった、と言っても過言ではないだろう。

 さてしかし、この退職代行というビジネスモデルには、もちろん批判も多くある。

 こんなものは日本でしか通用しない(成り立たない)ローカル商法だというのから、

 そもそもこんな自分でやれることを(それも入社1日とか1ヶ月とかで)カネを払って他人企業に代行してやってもらうなんて,その依頼者がけしからんというのまで……

 だが私は、この退職代行業の隆盛と普及は、べつだん嘆かわしいものでもない結構なことだと思うのである。

 それは確かに、退職代行なんていうのは欧米やフィリピンとかでは成立の余地がない業態なのかもしれないが――私は外国の雇用実態なんてほとんど知らないが――、しかし別に、日本でしか成り立たなくたっていいのである。

 どこの国にも文化圏にも、そこでしか成り立たないような業種・職業なんてゴマンとある。

 それでもとにかく地元で成り立って儲けられるのであれば、何の問題も文句もないというものだ。

 そんなことよりずっと本質的なことを考えてみると、退職代行というのは雇用者にとっても被用者にとっても、双方にメリットのあるウィンウィンの関係にあると思うのである。

 それもやはり、退職代行で辞めるなら早ければ早い方がよく、それこそ入社1日で辞めるのがメリットの最大化になると思うのである。

 当たり前のことだが、退職代行を使う被用者は、辞めたいと決意したからそうしている。

 そんな被用者を(怒ってか慌ててか)引き留めて辞めさせない・辞めさせたくないという雇用者の態度は、まるで「離婚を決意した配偶者を何とか引き留めようとする」人間と全く同じ、見苦しい上に無益な態度とは言えまいか。

 いったいぜんたい、いったん辞めることを決意した人間をどうにか断念させ留任させるのが双方にとってどういうメリットがあるのか、特に雇用者は今後どんな姿勢で彼や彼女に接していくのか、本当に理解に苦しむではないか。

 そして辞めるならもちろん、1年や数年経って戦力になってくれた後に辞めるのではなく、入社当日に辞めてくれた方がどれだけマシかわからない。

 別に退職代行利用者の悪口を言うつもりはないが、彼や彼女はいずれ近いうち辞める人間だったのである。

 しかもいわゆるバックレ(何も言わずに忽然と会社に来なくなる)ではなく、ちゃんと退職代行専門会社を通じて辞めてくれようとしているのである。

 これは会社の総務・人事担当にとって、本当に助かることに違いない。

 もしバックレられて本人と連絡が取れなかったら、あるいは本人が必要書類も出さないいい加減な人間だったら、会社としての退職手続はとても難渋を極めるのだから……


 一方で被用者にとっては、退職手続を他者へアウトソーシングできるというのは、言うまでもなく(特に心理的に)メリットしかないと言ってもおかしくない。

 確定申告書類の作成を税理士へアウトソーシングしている会社は山ほどあり、しかもそれは「自社でやりゃいいじゃん」「それくらい自社が作れないのは情けない」と言われる程度の内容であることが多いと思われるが――
 
 しかし、それをそういう風に批判・非難されることはほとんどない。

 そして最近はどうか知らないが、パソコンやスマホの設定を他人に(時にはカネを払って)代行してもらうというのは、極めてオーソドックスなことであった。

 だったら退職手続だって、アウトソーシングして何の悪いことがあろう。

 もう一つ言えば、被用者にとって自分が入社した会社が「ブラック企業」や「ホワイトすぎて成長できなさそうな企業」であるかどうかは、むろん入社前にわかるはずがない。

 そんなのを見抜ける人間は、世の中にほとんど全くいないだろう。

 つまり、どんな企業に入社するかはギャンブルや宝くじのようなものである。

 むろん不幸にして、どうやったって自分には合わない会社に入ってしまったことに入社後初めて気づく人は、必ず何人もいるものである。

 このことを考えると、むしろ退職代行で辞める人が(全ての新入社員に比べると)まだまだごくごく少数であるというのは驚くべきことであり、同時にこの業態には、さらに発展の余地があると思うべきなのだろう。

 いや、もしかしたらこの業態は「日本でしか通用しない」業態どころか、海外へ輸出することさえ可能なビジネスモデルなのかもしれない。

 欧米圏はともかくとして、特に東アジア圏では――とかくそういう括りをされる「儒教圏」では――、日本初の退職代行サービスというのがその国ごとにローカライズされた形で輸出されるというのは、あり得ることだと思うのだ。


 最後に、一言……

 これまで日本の労働シーンで何十年も言われ続けてきたのが、「雇用の流動化」が進んでない、これが日本の労働の悪いところだ、というものである。

 そして、とにもかくにも退職代行業というのは、この雇用の流動化に間違いなく資しているととしか思えない。

 ある意味これは、日本の積年の課題を「できるところから」変革しようとしている、とも思うことはできる。

 おそらく退職代行業の大手は、退職代行で蓄えた資金やノウハウやデータなどを生かし、「総合労務管理企業」への脱皮及び海外進出を本気で図るようになっていくだろう。

 

立川市の小学校に保護者母の友人男2人が乱入傷害-公立校は賤業かつ下級となる

 5月8日の午前11時頃、東京都立川市の市立第三小学校に40代と20代の男2人が乱入し、教職員5人に殴る蹴る・椅子で殴るなどの暴行を加えて警察に現行犯逮捕された。

 男らはこの小学校に通う児童の30代母親の知人で、その母親に呼び出されてこの凶行を――瓶を床に叩きつけて割ったりもしたらしい――行ったという。

 この母親は9時頃からわが子のイジメにかかる問題を担任教師と話し合い、しかしまとまらずにいったん帰宅してこの男らと再度来校したとのこと。

(⇒ 毎日新聞 2025年5月8日記事:東京・立川の小学校侵入 いじめ対応を巡るトラブルが背景か)

(⇒ 読売新聞 2025年5月8日記事:立川小学校襲撃、男2人は瓶をたたきつけ椅子で担任殴る…児童間トラブルで面談した母親と来校)


 この母親の子どもがイジメられたとされる方なのか、イジメていると疑いをかけられた方なのか、詳しいことはわからない。

 しかし誰しも直感するように、「この親にしてこの子あり」――

 親単体がダメなのか親子揃ってダメなのかは不明として、周りから「あの家とは付き合うな」と専らの評判だったとして何の不思議があるだろう。

 それにしても、つい先日も同趣旨の記事を書いたばかりだが……
 
 この手のニュースを聞いてなお公立校の教師になりたいと志願する人というのは、いったいどうなっているのだろうとあなたは思わないだろうか。

(⇒ 2025年4月29日記事:ブラック部活動と「なぜまだ教師になりたい人がいるのか」問題)


 男2人で授業時間中の小学校を急襲して暴れるなど前代未聞で、もはや小型テロである。

 そもそも発端となったイジメ問題面談が「担任」教師との間で午前9時から行われた、ということ自体が異様でもある。

 この母親がいわば問題児保護者であることが、この一つから取っても窺われる。

 仮にこのイジメ問題に、学校側の落ち度なり責任の一端があるとしても――

 職選びの観点から言えば、もうこんなイジメ問題が生じる(もちろん生じるに決まっている)職場だというだけで、こんな職は選ばないとなるのは当然のことだ。

 よく言われることだが、公立校は問題児・問題児保護者を排除できない。

 選客ができず、必然的に低品質の客が絶えることなく集まってくる。

 それはついに、ヤカラそのものの「仲間」を呼び寄せて小学校を襲撃させるなどという段階にまで至った。

 もちろんこれを防ごうとした今回の教職員たちの奮闘は賞賛されるべきもので、偉業と言ってもおかしくはない。

 が、こういうことが起こる職場・こういうことが起こると覚悟しないといけないような職業は、やはり世間から「賤業」と見なされるのは必然なのだ。

 クズ品質の客層を相手にする職業は、絶対にそう見なされるものである。

 かつて、わが子が教職を目指すと言い出せば、親は概して喜んだろう。

 しかし今は、わが子がそんなこと言い出したら全力で止めにかかって懇々と諭すのが親の役目と言っても過言ではない。

 わが子が「そんな職業」に就くなんて心配だとか許せないとか、そう思うのが普通の親心になってしまった。

 本当に、公立の教職志望者が「まだいる」のが不思議に思われる時代は、すぐそこである。

 そしてまたこれが、どんなクズなヤカラの子でも通える「公立校」というもの自体が賤しい、という通念になるのは、ただ一跳びのことだ。

 つまり今後は、公立の小学校出身であるということ自体が「低く見られる」要因になるだろう。

 上流階級で意識高い系の人たちの間では、出身大学はもちろんのことそれ以前の学歴がどうなのか――

 特に小学校と中学校が私立か公立かというのが、重要なチェックポイントになるだろう。

 むろん上流階級ではなくとも、普通の感覚を持つ親なら、わが子をこんな低品質人間たちの通う学校へ行かせたくはないものである。

 こうしてますます、日本人の格差は(世界水準並みに?)拡大していく。

 貴族や上層市民はまともな私立校の出身だが、下層市民は低劣な公立校の出身であるという、中世ヨーロッパや近代イギリスを思わせる階級差意識が普及していく。

 上級国民や下級国民という言葉は、もう揶揄として言われるのでなく、皮膚感覚的な意識として世人に定着するのではなかろうか。