木村忠正の仕事部屋(ブログ版)

ネットワーク社会論、デジタル人類学・社会学研究者のブログです。

Wikipediaにみる秩序破壊行為・改竄・誤情報とその対応方法(2008年へのタイムトリップ)

拙ブログの読者の方には、『ウィキペディア革命』という書名をきいて、思い出す方もいると思います。2001年に始まったWikipediaは、インターネットの高速化に伴う、動画サイト、SNSなどの「ソーシャルメディア」拡大の一翼を担う存在として、英語圏をはじめ、世界各国で急速に普及しました。それに伴い、誤情報、偽情報、フェイク、プロパガンダなどのリスク、中等教育・高等教育における学生たちの安易な利用への重大な懸念なども生じます。こうした状況を受けて、フランスのジャーナリストであるPierre Assoulineが、パリ政治学院のジャーナリズム専攻大学院生たちを指導して取り組んだプロジェクトを元に、学生たちが執筆し、Assoulineが序文を寄せた論集が"La Révolution Wikipédia"(2007)という本で、その邦訳が『ウィキペディア革命』として2008年に出版されたわけです。筆者はたまたまその解説文を執筆することとなり、Wikipediaについて体系的に研究を行い、草稿をまとめました。ただその草稿は5万字近くとなり、実際の解説文は半分程度に削らざるをえませんでした。そこで、2014年に、筆者自身のHPで、草稿全体を公開したのです。

今年に入り、たまたま振り返る機会があり、元々の分析・研究は20年近く前で、日本語での草稿公開から10年以上経っていますが、英語圏の研究者にとっては、日本のWikipedia文化について参考になることもあると考え、英訳に取り組むことにしました。そして、先日英訳を終え、それをresearchgate.netacademia.eduの自分のページにアップしたところです。

すると、元々の日本語版草稿についても、学術的で生硬な議論を展開しているのですが、いまでは、生成AIを利用して、広く関心を持つ方にもアクセスしやすい表現で、簡略版を作成してはどうかと思いつきました。以下は、元の草稿をGoogleのNotebookLMに読み込ませ、概要をまとめたさせたものを、筆者が適宜編集したものです。

30年来インターネット研究に関わっている筆者からみると、SNS・生成AIを巡る議論で強い違和感を感じるのは、「フェイク」「誤情報・偽情報」「プロパガンダ」「ハルシネーション」といった現象をあまりにナイーブ、短絡的に、その技術に内在する社会的問題と捉え、アジェンダ化しているように思われる点です。この論点自体については、改めて論じたいと思いますが、以下の拙稿は、20年前のWikipediaにおいても「フェイク」「誤情報・偽情報」「プロパガンダ」は問題とされていたこと(つまり、SNS・生成AIで出現した問題ではないこと)、そして、Wikipediaに現れる対処方法が社会の観点からみてきわめて興味深いことを示しています。Google検索が、生成AIにより脅かされつつあるでしょうが、おそらく、Wikipediaの方がより早期に、直接的に、そのパイを生成AIに奪われているでしょう。つまり、Wikipediaは生成AIの先達(人力での大規模言語モデル)とも考えられるわけです。

簡略版とはいえ、2万字程度と長いですが、最後までお付き合いいただければ幸いです。また、元の解説文草稿に関心をもってくださった方は、日本語版も、researchgate.netacademia.eduに上げましたので、ご高覧願えれば幸いです。

なお、以下の拙稿で、「本書」というのは、『ウィキペディア革命』本文を指しています。

 

 


解説文全体の(簡単な)まとめ

この解説文は、IT技術の急速な進展と普及によってもたらされた情報ネットワーク社会における「集合知」のあり方を、ウィキペディアを主要な事例として批判的に考察し、特に日本社会がこの現象といかに向き合うべきかを論じたものです。著者は、ウィキペディアが持つ積極的側面を認めつつも、その「知」のあり方を批判的に吟味する必要性を強調しています。

解説文の中心的な問いは、従来の百科事典に代表されるような「ガバメント原理」や「伽藍」型の「知」の集積・組織化の様式と、ウィキペディアに代表される「ガバナンス原理」や「バザール」型の新しい様式が、21世紀の社会においてどのような意味を持つのか、そして社会が共有し参照する「社会知」がいかに実践的に形成されるか、という点にあります。

筆者は、インターネットが、命令や強制ではなく主体性・自発性に基づく「ガバナンス原理」や、初期段階からソースコードが公開され参加者が自由に協働する「バザール」型の活動を促進する可能性を持つと指摘します。ウィキペディアは、誰でもいつでも編集でき、相互参照が可能で、間違いも許容しつつ修正可能なシステムであり、参加者間の信頼を前提とする点で、このガバナンス原理、バザール型を具現化したものと言えます。しかし、技術は社会との界面で多様な特性を示すため、インターネットの社会との界面では、ガバナンスだけでなく、「ガバメント原理」や秩序破壊的な「アナーキズム」原理も共存していると論じます。ウィキペディアにおいても、意図的な編集や荒らしといった秩序破壊行為は絶えず発生しています。

ウィキペディアの「知」の構造は、従来の系統樹的な分類・配列に基づくものとは異なり、ハイパーリンクや多義的なカテゴリー、タグ付けによって構成されるウェブ(クモの巣)に似ています。そして、その重要な特性は「フロー(流動性」であると指摘します。常に多くの参加者による編集、紛争、調整が行われることで、ウィキペディアウィキペディアであり続けています。このフローを支えるのは、編集機能やルール(差し戻し、ウォッチリストなど)に加え、参加者を動機付ける様々な装置(社会的威信の位階構造、編集回数の可視化など)です。

筆者は、このオープンネットワーク上の「知」を、以下の三つの異なるベクトルに分けて捉えるべきだと主張します。

  1. 「三人寄れば文殊の知恵」としての集合知: 多様な人が自由にアクセスし編集を重ねることで知識が集積される可能性。
  2. 「フィードバック知」: 集合的な活動が数値化され、当事者に提示されることで活動が動機付けられる(例:編集回数ランキング)。
  3. 「マイニング知」: マス・コラボレーションのデータを運営者が分析することで得られる、参加者が認識しない集合的行動の特性や法則性(例:PageRank、ブログの世論分析)。

そして、この「マス・コラボレーション―フィードバック知―マイニング知」が織り成す集合知は、様々な社会的活動を市場化し流動性を重視する新自由主義の文化的論理と深く結びついていると指摘します。ウィキペディア自体は営利目的ではないものの、そのフローを維持するためには、この集合知の構造に依存せざるを得ない側面があります。

しかし、ウィキペディアには課題も多いと指摘されます。一つは、運営管理や議論に関するページが増大し、コンテンツ充実に比して意見調整などのコーディネーションコストが増大している点。もう一つは、記事が絶えず変化し、「ファイナル・アンサー」が存在しないという不安定性・変動性から、学術的情報源としては注意が必要である点です。誤った情報が長期間掲載されるリスク(Seigenthaler氏の件、島原の乱の事例)も指摘されます。

そして、日本社会におけるウィキペディアの現状は、日本社会の情報ネットワーク利用が抱える長年の課題(「消費財」主導とデジタルデバイド、低い対人信頼感とサイバースペース不信、現実空間との分断)を強く反映していると分析します。特に、日本語版ウィキペディアの編集活動のフローがアニメ、ゲーム、テレビ番組といった趣味的要素や時事的なトピックに偏っていること、そして匿名(IPアドレス)による編集の割合が他の主要言語版と比べて著しく高いことを特徴として挙げます。これらの特徴は、日本社会の低い対人信頼感や社会的スキルの低い自己評価といった社会心理的態度(JFK調査結果)と整合的であると論じています。

結論として、筆者は、ウィキペディアに代表される集合知の構造に無自覚に組み込まれるのではなく、そこに働く力や原理(ガバナンス原理、新自由主義の論理など)を理解し、その可能性を能動的、積極的に活用できるかが日本社会にとっての今後の課題であると締めくくっています。ウィキペディアの今後のあり方が、情報ネットワーク社会としての日本社会の今後を示す指標となるだろうと示唆しています。

 


第1章 「ガバメント原理」と「ガバナンス原理」~インターネットがもたらす社会的活動編成原理の変化~

解説文第1章では、1990年代以降、パソコンやインターネットが広く使われるようになったことで、私たちの社会がどのように物事を決めたり、協力して活動したりするようになったのか、その変化を分かりやすく説明しています。筆者は、この変化を理解するために、「ガバメント原理」と「ガバナンス原理」という二つの異なる考え方を対比させています。

まず、「ガバメント原理」は、これまでの社会で一般的だった仕組みを表します。これは、国や会社のような大きな組織で行われてきたやり方で、具体的には以下のような特徴があります。

  • 選挙や試験などで選ばれた少数の人たちが中心となって意思決定を行う
  • 集団や組織に自由に入ったり辞めたりするのが難しい
  • どのように決定したかは公開されず、結果だけが伝えられる
  • 上の立場の人が下の立場の人に指示したり、従わせたりする力を持つ
  • 法律や規則を作るのに時間がかかり、簡単に変えられない

この「ガバメント原理」は、情報伝達の手段が限られていた時代には、大きな組織をまとめ、効率的に物事を決めるのに適していました。しかし、社会の価値観が多様になり、様々な立場の人の意見を聞く必要が出てきたり、技術が進んで変化が速くなったりしたことで、このやり方だけではうまくいかなくなってきています。情報をもっと公開すること(透明性)や、市民が直接物事を決めたいという声(直接民主主義への関心)が増えているのは、このためです。

こうした中で、インターネットは、その生まれ方や広がった仕組みから、「ガバナンス原理」という新しい社会のあり方の可能性を示唆しています。これは、命令する人がいるのではなく、各自が自発的に参加して協力し合うことで成り立つ考え方です。インターネットの「ガバナンス原理」に基づく特徴は、以下の通りです。

  • 命令や強制ではなく、「自分でやりたい」「社会の役に立ちたい」という気持ち(主体性・自発性・公益性)が活動の原動力になる
  • 活動への参加や退出がとても柔軟で自由
  • 同じ目的や考えを持つ人たちが、必要に応じて集まったり離れたりする
  • 話し合いの過程や集まった情報が、すべてみんなに見えるように公開される
  • 合意は「RFC(コメント募集)」のように、みんなの意見を聞いて、後からもっと良くしていく余地を残す形でまとめられる

こうした特徴は、一部の専門家だけで決めず、関心のある人たちが自由に意見を出し合い、より良いものにしていく価値観を示しています。

この「ガバメント原理」と「ガバナンス原理」の違いは、ソフトウェア開発における**「伽藍(がらん)」型(閉鎖的で計画的な開発)と「バザール」型(開放的で自由参加型の開発)という考え方**にも通じるものだと述べられています。従来の百科事典は「伽藍」型、ウィキペディアは「バザール」型の知識の集め方・まとめ方だと言えます。

 


第2章「ウィキペディア~ガバメント原理による「社会知」の組織化~」

この章では、第1章で提示された「ガバメント原理」と「ガバナンス原理」、「伽藍(がらん)」型と「バザール」型という対照的な考え方を使って、ウィキペディアが従来の百科事典とどう違うのか、それは社会がどのように知識を集め、整理し、共有するかの原理にどのような変化をもたらしているのかを論じています。

まず、従来の百科事典は、まさに第1章で説明された「ガバメント原理」や「伽藍」型に近い仕組みで知識が作られていると指摘されています。

  • 少数の専門家や編集者が、編集方針、項目、書き方などを厳密に決め、執筆する。
  • 内容が決まるまでの過程は、一般には公開されない。
  • 一度出版されると、内容を簡単に変えることはできない。
  • これは、選ばれた人が中央集権的に決め、その過程が非公開で、後からの変更が難しいという、「ガバメント原理」の特質と共通しています。ソフトウェア開発に例えれば、少数の技術者が密室で計画的に作り上げる「伽藍」型開発に似ています。

それに対して、ウィキペディアは、インターネット上で広く使われている「Wikiシステム」という仕組みを土台にしており、これが「ガバナンス原理」や「バザール」型の知識の集め方・まとめ方を可能にしていると論じられています。Wikiシステムには、次のような特徴があります。

  • インターネットを通じて、誰でも、いつでも、好きな時にページの作成や編集ができる。 編集方法はシンプルに統一されている。
  • 書かれた内容は、他のページと関連付けられたり、多くの人に見られることでチェックされ、より分かりやすく洗練されていく。
  • 間違いがあっても、すぐに元に戻したり、直したりできる仕組みがある。編集の履歴や、以前のバージョンが全て公開されている。
  • このシステムがうまく機能するためには、参加者同士が「情報や知識を共有し、協力することを楽しむ」という信頼の前提が最も大切である。

このような特徴は、第1章で説明された「ガバナンス原理」の特質(命令ではなく自発性、柔軟な参加、情報の完全公開、オープンな合意形成)や、「バザール」型開発(初期段階からの公開、多様なプログラマーの自由参加)と一致すると考えられています。特に、多くの人の意見を集めて合意を形成し、常に進化の余地を残す「RFC」の考え方のように、ウィキペディアも柔軟でオープンな仕組みで知識を形作っていると言えます。

また、紙の百科事典とインターネット上のウィキペディアでは、情報の「整理の仕方」や「探し方」も大きく異なります。

  • 紙の百科事典は、情報を分類し、五十音順などに並べる「系統樹」のような階層構造や「索引」が基本です。これは、情報が物理的に順番に並んでいるという「線条性」に規定されます。
  • 一方、インターネット上のウィキペディアは、関連する情報同士を「ハイパーリンク」で繋いだり、「キーワード」や「タグ」を使って情報を整理・検索します。これは「クモの巣(ウェブ)」のような構造であり、階層的な分類だけでなく、多様な関連性で情報を結びつけることができます。ウィキペディアの「カテゴリー」機能も、系統樹的な側面を持ちつつも、実際には記事に関連する「キーワード」や「タグ」のような意味合いで使われることが多いと指摘されています。

これらの違いは、知識の集め方やまとめ方が、「ガバメント原理」「伽藍」型から、「ガバナンス原理」「バザール」型へと変化していることを示唆していると筆者は述べています。単に「どちらがより正確か」というだけでなく、社会がどのように「社会知」(社会全体で共有し、参照する知識)を編集し、集積し、組織化していくかという、より根本的な原理に関わる問題として捉えられています。

しかし、第2章の最後では、インターネットやウィキペディアを単純に「バザール」や「ガバナンス」の理想的な形だと決めつけるべきではない、という注意喚起もなされています。技術は、社会との関わり方によって良い面も悪い面も示す可能性がある(例:監視カメラ)ため、ウィキペディアについても批判的に検討していく必要がある、と述べられています。

この章は、ウィキペディアが単なるオンライン百科事典ではなく、インターネット時代における新しい知識のあり方や社会的な協力・合意形成の原理を考える上で、重要な事例であることを示しています。

 


第3章 技術と社会の界面~ガバナンス、ガバメント、アナーキズムの並存~

この章では、第1章・第2章で提示された「ガバメント原理」と「ガバナンス原理」、「伽藍」型と「バザール」型という対立的な概念図を前提としつつも、インターネットやウィキペディアがこれらの原理のうち一方だけを体現しているわけではなく、複数の異なる原理が複雑に絡み合い、共存しているという、より現実的な視点が提示されています。

まず、筆者は、インターネットが「ガバナンス原理」や「バザール」様式の可能性をもたらすものとして積極的に評価する議論(例としてダン・タブスコットとアンソニー・ウィリアムズの『ウィキノミクス』が挙げられています)があることに言及しつつも、こうした議論がインターネット技術に「ガバナンス原理が内在している」とする「ナイーブな本質主義」に陥りがちであると批判しています。技術の特性は、技術そのものに固有のものではなく、社会や人間との関わりの「界面」において初めて現れるものであり、その関わり方次第で技術は正反対の特性を示す可能性もあるからです(例:監視カメラがプライバシー保護にも侵害にもなりうること)。

この視点からインターネットを見ると、それは単にガバナンス型の社会的組織や活動(時間・空間からの解放、多様性の実現、自律性・主体性、大規模コラボレーションなど)を促進する力を持つだけでなく、以下のような異なるベクトルも同時に持ち合わせていると論じられています。

  • ガバメント原理、伽藍様式を強化する側面: 国家や企業による「(社会的)制御」「管理・監視」「生活空間の組織化」「消費行動の組織化」など。
  • アナーキズム原理を誘発する側面: 匿名性に基づく秩序破壊行為や人権侵害行為(スパム、ウィルス、サイバーテロ、炎上、個人情報漏洩、ネットいじめなど)。

ウィキペディアも例外ではなく、こうした技術と社会の複雑な界面に位置づけられています。本書(解説の対象となっている書籍)は、ウィキペディアにおける政治的・イデオロギー的介入や秩序破壊行為をその脆弱性として批判しているようですが、筆者はこれに対して、この批判もまた一面的な見方であり、本質主義に陥る可能性があると指摘します。

ウィキペディアにおける「秩序破壊行為」の具体的な事例として、日本の首相官邸文部科学省など行政機関のIPアドレスからウィキペディアの項目が編集されていた件が紹介されています。また、英語版では、米国議会や企業など様々な組織からの編集行為がWikiScannerによって明らかになった事例(政治家関連記事への介入やサイバー戦など)も挙げられています。

ここで重要なのは、こうした意図的・悪意ある編集(本書が批判するウィキペディア脆弱性)を「暴き出した」WikiScannerの存在自体が、ウィキペディアの「オープン性にもとづく自己修復メカニズム」の一例であるという点です。WikiScannerは、ウィキペディアが匿名編集者のIPアドレス編集履歴を全て公開している(そしてIPアドレスと組織の対応関係がWhoisデータベースで公開されている)というオープンな仕組みがあったからこそ開発・機能し、特定の意図に基づいた編集行為を可視化することが可能になったのです。

つまり、ウィキペディアは、そのオープン性ゆえに、常に特定の意図(利害誘導)やアナーキズム的な破壊行為に晒されていますが、同時にWikiScannerのような、ガバナンス原理(情報の透明性、多数の目によるチェックなど)を機能させようとする力も強く働いているのです。

したがって、著者は、ウィキペディアを巡る議論で問うべきことは、「ガバナンスかガバメントか」「ウィキペディアか従来の百科事典か」といった単純な二項対立ではないと主張します。そうではなく、

  • ガバナンス原理がどこまで機能し、どこが機能しないのか?
  • ガバメント原理による介入や秩序破壊行為がどの程度行われ、いかなる修復機能があるのか?
  • 修復機能があっても対応できない問題は何なのか?
  • 一見オープンに見えるガバナンス原理の裏に、別の「知の原理」が働いていないか?

といった、より具体的な事柄を問うことこそが重要であると述べられています。そして、ウィキペディアオープン性は、こうした問題を分析し、検討するための可能性を私たちに与えてくれている、と結論づけられています。

このように、第3章、ウィキペディアを多角的に捉え、その複雑な現実を理解するための基礎を提供しており、後の章で展開されるより詳細な議論(秩序破壊行為の類型、修復メカニズム、課題など)への重要な橋渡しとなっています。

 


第4章 ガバナンスを機能させる仕組み

この章では、第3章で触れられたウィキペディアが直面する「秩序破壊行為」に対し、どのように「ガバナンス原理」が機能し、その「オープン性に基づく自己修復メカニズム」が成り立っているのかが詳細に論じられています。

まず、筆者はウィキペディアが白紙化、悪ふざけ、スパム、個人情報漏洩など、様々な「秩序破壊行為」に常に晒されていることを指摘し、日本語版ウィキペディアの管理文書に挙げられている24の類型に言及しています。

ついで、こうした秩序破壊行為の発生頻度や修復状況を分析した研究が紹介されています。Priedhorskyらの研究では、英語版ウィキペディアの編集のうち約5.13%が悪意ある編集("damaged revision")と規定され、これらが特定の類型に分類できることが示されました。重要なのは、これらの悪意ある編集がどれだけ早く修復されるかという点です。研究によれば、悪意ある編集の多くが比較的短時間で修復されており、Priedhorskyらの研究では42%が次に閲覧されるまでに、70%が10閲覧以内に、89%が100閲覧以内に修復されると推計されています。Viégasらの研究でも、大量削除のような行為の半数が数分以内に変更されることが示されています。

では、なぜこのような迅速な修復が可能なのでしょうか?筆者はその理由を大きく二つに分けて説明しています。一つは、ウィキペディアに実装されている運営管理・編集機能やルールです。これには、記事を以前の状態に戻す「差し戻し(revert)」機能、編集合戦を防ぐ「3RR方針(Three-revert rule)」、関心のある記事の変更を監視できる「ウォッチリスト(Watchlist)」、記事の保護、削除、投稿ブロックなどの機能が含まれます。

そしてもう一つ、より重要視されているのが、参加者を動機付け、コミュニティ意識を醸成する様々な装置(技術的、社会文化的)です。著者は、ウィキペディアは単なる静的な知識の集積ではなく、常に変化し続ける「活動」であり、「フロー(流動)」の只中にあることこそがその本質であると論じます。このフローを維持するためには、膨大な数の参加者による編集、紛争、調整、新規項目作成が絶えず行われる必要があります。

この活動を支えているのは、ウィキペディアに積極的に関与する「ウィキペディアン」と呼ばれる人々です。データ分析によれば、英語版、日本語版、フランス語版のいずれにおいても、ごく一部のきわめて活動的な人々(編集回数1000回以上のわずか1~2%の利用者)が、全編集回数の大部分(3分の2以上)を担っていることが示されています。これは、少数のコアな貢献者がウィキペディアのフローを支えていることを意味します。

こうしたウィキペディアンたちが活動を続ける動機付けについて、著者はウィキペディア内発的動機付けを強化する仕組みを備えていると指摘します。これは、活動への深い関与やコミュニティへの貢献を通じて、コミュニティ内での「威信」が高まるという仕組みです。例えば、編集回数が増えることによる権限(削除依頼や管理者の信任投票への参加など)の獲得や、コミュニティからの信任を得て管理者やさらに上位の役割(ビューロクラット、チェックユーザー、スチュワードなど)に就くことが、大きな心理的報酬として機能しています。こうした役割は、従来の「ガバメント的」な監督者ではなく、「ガバナンス的」なコーディネーターとしての役割を担いますが、それでも一定の位階構造は存在し、それが動機付けとなっています。また、編集回数などを可視化しオープンにすることも、動機付けの提供という側面があります。

著者は、このような社会的威信の位階構造化や情報の可視化、動機付けの仕組みが、ウィキペディアの迅速な修復と拡大を可能にし、情報源として多くの人々に利用されるようになった大きな要因であることを認めつつも、これが編集回数を稼ぐための姑息な活動や偽りを誘発する可能性も同時に指摘しています。

総じて、この章は、ウィキペディアが直面する秩序破壊行為という現実的な課題に対し、単なる技術的な機能だけでなく、活発な参加者の存在とその活動を支えるコミュニティ内の動機付けの仕組みこそが、ウィキペディアの「ガバナンス」を機能させ、そのダイナミックな「フロー」を維持する上で不可欠であることを詳細なデータや研究結果を基に示しています。しかし、この迅速な修復や拡大を可能にしている構造自体にも、今後の議論で掘り下げられるべき留意点があることが示唆され、次章への橋渡しがなされています。

 


第5章 記事数と項目数の狭間~コーディネーションコストの増大~

第4章では、ウィキペディアが直面する秩序破壊行為に対し、活発な参加者の存在とその活動を支えるコミュニティ内の動機付けの仕組みによって、迅速な修復や活動の拡大が可能になっていることが論じられました。それに対し、本章では、ウィキペディアがその規模を拡大していく過程で顕在化する、コンテンツ自体の充実よりも運営管理や調整に多くの労力が費やされるという構造的な課題に焦点が当てられています。

まず、ウィキペディアは多言語で展開されており、2008年2月1日現在で250以上の言語版が存在し、そのうち1000記事以上のコンテンツを持つものが150に上ることが示されています。英語版、ドイツ語版、フランス語版、日本語版などの主要言語版は、時間の経過とともに記事数を急拡大させています。

この章の重要な論点の一つは、ウィキペディアにおける「記事数」と「項目数」の違いです。従来の百科事典が主に本文で構成される「伽藍」型であったのに対し、ガバナンス原理に基づくオープンな「バザール」型であるウィキペディアでは、事典の本文(記事)以外に、編集方針や運営方針を定めた管理文書、ヘルプページ、記事を分類するカテゴリーページ、個々の利用者ページ、記事の内容や運営について議論するノートページ、画像や音声ファイルの説明ページ、そしてある項目から別の項目へ自動的に飛ばす「リダイレクト(転送)」ページなど、多種多様な種類のページが存在します。リダイレクトページは、内容がないページでも1ページとしてカウントされます(例:「記号論」から「記号学」への転送ページなど)。

その結果、「総項目数」(すべてのページの合計)と「純記事数」(リダイレクトや孤立ページを除いた、内容のある事典項目の合計)の間には大きな乖離があります。Kitturらの分析によれば、英語版ウィキペディアでは、記事そのものではなく、記事に関する議論ページ(Article Talk)や利用者関連ページ(User Talk)、運営管理に関連した文書(Maintenance)、ヘルプなど、間接的なページの割合が一貫して増大しており、2006年半ばには実際の項目記事の割合が全体の3分の2(65%)以下になっていることが示されています。リダイレクトページを含めると、総項目数に対する純記事数の割合はさらに低く、英語版の場合でさえ2割にも満たない状況が示されています。

さらに、ウィキペディアの「編集」の全てが人間によるものではありません。言語間リンクの追加や日付更新など、定型的な作業を自動で行う「ボット(Bot)」による編集が相当数含まれています。2008年1月31日時点のデータでは、日本語版やドイツ語版は比較的低い割合ですが、多くの言語版で全編集回数の15~30%近くがボットによるものであることが示されています。例えば、2002年下半期の英語版の記事数急増は、ボットによるアメリカの市町村項目の大量作成(Rambot)が主な要因でした。

このようなデータが示唆するのは、ウィキペディアがオープンな場で意見調整や合意形成を行うために、多くの労力を必要とするということです。本書が指摘するように、コンテンツそのものを作成・充実させること以上に、運営管理のための議論や関係者間の調整(コーディネーション)に多くの労力が費やされていることは間違いありません。特に英語版のように規模が大きく、百科事典として基本的な項目が出揃ってくると、新規項目の作成機会が減り、既存項目の修正や時事項目が中心となる中で、ウィキペディアンが活動を続けるエネルギーを維持できるかが今後の大きな課題になると論じられています。ウィキペディアが情報源として機能し続けるためには、常に「フロー(流動)」の只中にあること、つまり活発な活動が継続することが不可欠だからです。

総じて、本章は、ウィキペディアの驚異的な拡大という成功の裏側で、そのオープンなガバナンス構造ゆえに発生するコンテンツ作成とコーディネーションのバランスの問題、および自動編集(ボット)の役割といった構造的な課題が顕在化していることを、具体的なデータや研究結果を基に詳細に論じています。

 


第6章 ウィキペディア・リスク~学術的情報源としてのウィキペディア

第6章では、ウィキペディア学術的な情報源として利用する際に潜むリスクに焦点が当てられています。著者は、ACMアメリカコンピュータ協会)が挙げた「Wikipedia risks」として、正確性、動機、不確実な専門性、不安定性・変動性、対象範囲(偏り)、参照源の6点を提示しつつ、その中でも特に不安定性・変動性(Volatility)が、学術的な情報源として致命的な問題となりうると指摘しています。

学術的な議論では、参照する情報源が特定可能な形で固定されている必要があります。論文や書籍は出版された時点で内容が確定し、後から参照する人が同じ情報にアクセスできることが前提です。しかし、ウィキペディアの記事は、誰でも、いつでも編集できるオープンな性質上、常に内容が変化しており、「ファイナル・アンサー」と呼べる固定された版が存在しません。IBMとMITの研究者による「編集履歴推移視覚化手法(history flow visualization technique: HFV)」を用いた分析は、ウィキペディアの記事が文単位レベルでさえ、時間の経過とともに頻繁に書き換えられ、いかに不安定で流動的であるかを視覚的に示しています。

この不安定性は、学術的な引用・参照の困難さを生じさせます。ある時点で見たり引用したりした内容が、別の時には書き換わっている可能性があるからです。本書では、USAトゥデー紙元論説主幹ジョン・シーゲンソーラー氏の経歴に虚偽が長期間記載されていた事例 や、米バーモント州ミドルベリー大学で「島原の乱」の記事にあった誤情報が学生のレポートに引用され、大学がウィキペディアの引用を禁じる措置をとった事例 を挙げ、たとえ修復メカニズムが機能していても、悪意ある編集や誤った情報が閲覧され、影響を与えるリスクが存在することを強調しています。

著者は、このような性質を持つウィキペディアの記事を学術的な情報源として参照する際には、細心の注意が必要であり、可能であれば避けるべきだと主張しています。もし参照するのであれば、少なくとも閲覧した特定の版(編集時点)を明記することが望ましいとして、具体的な引用形式の提案も行っています。

 

 


第7章「集合知、あるいは、新自由主義の文化的論理」

第7章では、オープンなネットワーク空間におけるマス・コラボレーションによる「知」のあり方が議論されており、特に集合知」という概念を掘り下げつつ、それが現代社会、特に新自由主義の文化的論理といかに深く関連しているかが論じられています。

著者はまず、「集合知collective intelligence, wisdom of crowds)」という言葉が指し示すものには、少なくとも以下の三つの異なるベクトルがあると整理します。

  1. 三人文殊知: 多様な人々が自由にアクセスし、編集を積み重ねることで、ある事柄に関する適切で十分な記述を集積・共有する可能性,。これは伝統的な「三人寄れば文殊の知恵」に相当する側面です。
  2. フィードバック知: 不特定多数による集合的活動を、当事者にとって意味のある数値情報(アクセス数、評価、リンク数など)に変換して提示する知。これは、コミュニティ系ネットサービスで広く実装されており、参加者の活動を動機付ける役割を果たします。ウィキペディアにおける編集回数の表示などもこれに該当します。
  3. マイニング知: 不特定多数の行動集積をデータマイニングすることで、個々の参加者は意識しないものの、システム運営者が知ることのできる特性や法則性。GooglePageRankアルゴリズムがウェブページのリンク構造(多数のユーザーのリンク行為の集積)から重要度を判定する例や、ブログやSNSのデータから世論動向や関心の高まりを分析する例が挙げられています。これはビジネスにおいて新たなサービス開発や収益化に結びつく重要な源泉となり、往々にして秘匿される傾向があります。

筆者は、Web2.0や「ウィキノミクス」の議論が、これら三つのベクトルを截然と区別せず、利用者の参加をナイーブに礼賛している印象を受けると指摘します。ビジネスの観点からすれば、「三人文殊知」や「フィードバック知」だけでは投資対象にはなりにくい。利用者参加型メディアは、「マイニング知」を得るために、利用者に動機付けを与える「フィードバック知」の仕組みを開発・提供しているのです。

Web2.0における集合知の最も重要な特性は、流動性(フロー)にあると著者は論じます。マス・コラボレーション、フィードバック知、マイニング知は、何か固定された知ではなく、絶えず移り変わるフローであり、このフローであること自体に意味があります。このフローの過程では、知識や情報だけでなく、感情的、情動的、反射的な注目(アテンション)が大きな役割を果たしており、アテンションの産出、流通、争奪こそがサイバースペースのダイナミズムを支配する力となっています。フィードバック知とマイニング知を介して、より多くの人々がこのアテンションゲームに参加し、人々の関心の所在や動向が把握可能な形で構成されていきます。

このような集合知の特性は、現代社会の基調となっている新自由主義の文化的論理であると著者は捉えます。新自由主義は、様々な社会的活動を市場化し、需要と供給による価格決定を徹底しようとします。この過程で、フィードバック知とマイニング知が最も重要な要素となり、市場が活性化するためには流動性(フロー)が不可欠なのです。フローにおける絶え間ない変動は「リスク」となり、市場で取引される商品(差異)を生み出し、ビジネスはそこでの付加価値最大化を追求します。消費者行動の変化(AIDMAからAISASへ)における「検索」と「共有」の重要性も、こうした集合知へのビジネスの高い関心を反映していると見ます,。著者は、ジェイムソンがポストモダニズムを後期資本主義の文化的論理と規定したように、Web2.0による集合知もまた、新自由主義の文化的論理として自らを正当化しようとする側面があるのではないかと批判的に考察します,。

ウィキペディアの運営母体であるウィキメディア財団はビジネス目的ではありませんが、ウィキペディア自体も、情報源メディアとしての地位を確立・維持するために、多くの利用者を惹きつけ、活性化し続ける「フロー」が不可欠です。活力を失い、更新が滞れば、それは不完全で玉石混交な情報集積体として固定化されてしまいます。ウィキペディアは「三人文殊知」の集積を目指し、「フィードバック知」で参加者を動機付けますが、その活動は否応なく、「マイニング知」を巡る争いや新自由主義の文化的論理に巻き込まれているのです。

学術的な情報源として安定した版をアーカイブ化しているスタンフォード哲学百科事典(SEP)が、専門家による編集・査読というガバメント原理に基づいているのに対し、ウィキペディアは「中立的な観点」「検証可能性」「独自研究は載せない」という方針のもと、既に社会的に確立された情報源に依存することを原則としており,、学術的知見の最先端を提示する場ではありません。ウィキペディアは百科事典として不十分な点を数多く持ちながらも、その力は、絶え間ない変化と活発な活動が生み出すフローにあると著者は指摘します。

このフローは、特に社会的に強い関心を持たれやすい人物、出来事、論争的なトピックや、ポップカルチャー、趣味的項目(アニメ、ゲーム、テレビ番組など)によって牽引されています。特に日本語版ウィキペディアでは、テレビ、アニメ、ゲームといった趣味的要素の強い項目がフローの中心を占める傾向が強いことがデータから示されています,。また、日本語版ウィキペディアは、匿名編集の割合が他の言語版に比べて著しく高いという特徴も指摘されており(47.1%)、これは日本社会の低い対人信頼感、社会的孤立、社会的スキルの未成熟といった課題(JFK調査)を反映している可能性が示唆されています。

著者は、こうした日本語版ウィキペディアの現状は、日本社会における情報ネットワーク利用のあり方を強く反映しており、マス・コラボレーションによる集合知に無自覚に組み込まれるのではなく、能動的に活用できるかが今後の課題であると結論づけています。

 


第8章「日本社会とウィキペディア

第8章は、前章までの議論を踏まえ、ウィキペディアに代表されるオープンネットワーク上の「集合知」という現象に、日本社会がいかに向き合うべきか、そして現状の日本語版ウィキペディアのあり方が、日本社会が情報ネットワークとどのように接しているかを反映しているのかを論じています。著者は、集合知を生み出す「マス・コラボレーション―フィードバック知―マイニング知」という構造 や、それが新自由主義の文化的論理と深く結びついている側面がある ことに留意しつつも、これを一方的に否定するのではなく、ガバナンス原理が持つ可能性を積極的に生かす付き合い方を探求することの重要性を説きます。これは、文化人類学者が悪霊信仰のような異なる観念を、信じる人々の立場を尊重して理解しようとする姿勢に例えられます。

著者は、これまで日本社会における情報ネットワークの利用に関して指摘してきた三つの課題を再確認します。

  1. 消費財」主導の技術商用化とデジタルデバイド: 高度技術の商用化は進むが、実際の利用は限定的で、低頻度利用者や低所得者層を中心にデジタルデバイドを生んでいること。
  2. 低い社会的信頼感とサイバースペースへの不信感: 一般的に対人信頼感が低いことと結びつき、サイバースペースに対する不信感が醸成されていること。
  3. 現実空間とサイバースペースの分断: 現実の社会生活空間とサイバースペースが分断され、相互連結による社会的関係性やネットワークの拡大がみられないこと。

これらの課題を踏まえ、日本語版ウィキペディアのあり方には、特に二つの特徴が気になると指摘します。

第一に、フロー(流動性)を構成するトピックの偏りです。これまでの累積編集回数が多い項目(表12)や、2007年の月間編集回数上位項目を見ると、日本語版ウィキペディアのフローは、アニメ、ゲーム、テレビ番組といった趣味的要素の強い項目や、現代用語の基礎知識」的な時事項目が中心となっています。著者は、これは日本語版ウィキペディアが、メディアを中心とした「マス・コラボレーション―フィードバック知―マイニング知」が織り成す集合知の強い支配下にあることを示していると分析します。

第二に、匿名編集の割合の高さです。表14で示されるように、日本語版ウィキペディアでは、登録利用者名ではなくIPアドレスで識別される匿名による編集の割合が47.1%と、他の主要言語版と比較して著しく高くなっています

著者は、この趣味・メディア中心のフローと高い匿名性という日本語版ウィキペディアの二つの特徴が、先に挙げた日本社会の課題のうち、特にサイバースペースへの不信感」と「現実空間とサイバースペースの分断」に強く関係していると指摘します。この関連性を補強するために、2002年から2003年にかけて日本、韓国、フィンランドの大学生を対象に行ったJFK調査の結果が提示されます。

JFK調査のデータは、日本の大学生が他の二国に比べて、対人信頼感が著しく低いこと に加え、周囲を気にして自己を抑制する傾向が強いこと、社会的に孤立し、私的空間へ引きこもる傾向があること、そして社会的スキルが未成熟であることといった、強い社会心理的態度を示していることを明らかにしています。著者は、こうした日本社会における対人関係の希薄さや社会的スキルの未成熟さが、ネットワーク利用においても反映され、メディアを介したトピックにフローが支配され、匿名での書き込みが多くなるという、日本語版ウィキペディアの現状に繋がっていると論じます。

結論として、日本語版ウィキペディアの現状は、日本社会における情報ネットワーク利用のあり方を強く反映している。著者は、今後の課題は、こうした「マス・コラボレーション―フィードバック知―マイニング知」が織り成す集合知の構造に、無自覚に組み込まれるのではなく、能動的、積極的に活用できるかにあると問いかけます。ウィキペディアの今後が、情報ネットワーク社会としての日本社会の今後を示すことになるだろうと締めくくっています。


 

長文、最後まで目を通してくださり、ありがとうございました!