terasuのひとりごと

仕事や生き方まだまだ迷走中。昨日と今日では諸行無常、五十知命は程遠く・・・。自分自身を俯瞰するための独り言。

#146(2025ー69)久しぶりにつらい夜だった話

久しぶりにつらい夜だった・・・。

 

22時過ぎにベットに入り、本を読みながらそのまま寝落ちした。

 

23:30頃、

急に不安感が押し寄せてきて、目が覚めた。

寝室の暗闇が苦しい。

座ってみる。ざわざわする。

再び横になる。ざわざわする。

 

とりあえず、リビングに行ってみる。

お茶でも飲もうか・・・。

なんだろう、このざわざわした不安感。

何かに引きずり込まれそうになる。

 

気分が悪い。

とりあえず、トイレに行ってみる。。。

閉塞感がつらく、トイレのドアが閉められない・・・。

 

結果、、、、、

はい、ただの下痢、でした。。。

腹痛も何もない、ただの下痢。

今日、日中暑すぎて、冷たい飲物を飲み過ぎたのかもしれない・・・。

 

不安感は、気分不良が姿を変えた迷走神経反射だったのだろう。

 

トイレから出た後は、不安感も和らぎ、

ベッドに戻った。

 

寝室の明かりを消して、暗闇に帰った。

 

時々、ある。

心がざわざわして不安感に押しつぶされそうになること。

 

その時は、今回みたいに、

たいがい後から振り返ってみると、

身体のどこかが不調な場合が多い。

身体の不調が、なぜか「不安感」という感情を呼び起こすようだ。

でも、私の場合、身体の不調を自覚する前に、

「不安感」がどっと押し寄せるので、

その息苦しさに毎回押しつぶされそうになる。

 

ただ「不安感」は、身体の不調に起因していることがほとんどなので、

不調が解消させると、「不安感」も消える。

だから、「不安感」を長時間続くことは少ない。

 

でも、つらい・・・。

毎回、前回のことはすっかり忘れて、

「私、大丈夫やろか・・・」と思ってしまう。

不安感と深い闇に押しつぶされそうになる。

寝るのもきついし、

横になるのもつらい。

でも、座っているのもつらい。

暗闇もつらい。

辛すぎて、無駄に部屋の中を歩き回ったりする。

 

短い時間だけれど、つらい・・・。

 

短い時間でもつらいのに、

こころ等を病んで、長い期間「心のざわざわ」や「不安感」を抱き続いている人のことを思うと、その苦しさを想像するだけで、胸が痛くなる。

そんな五十知命なのでした。

#145(2025ー68)空気を読まない人間

中野信子先生へのリスペクトが止まらない(笑)

 

今日、ティーバーで見ました。

中野信子先生出演の5月30日放映「徹子の部屋」。

 

感銘の連続でした。

 

勇気をもらえた話のオンパレードだったけれど、

その中でも私の中の一番は、次の話。

 

空気を読まない人間は、

集団の基準を壊してしまうようなリスクをその人がいるだけで感じさせてしまうので、時にはその人に石を投げるということがしばしば行われるけれど、

その前に少し冷静に考えてみてほしい。

 

空気を読まない人は、

普段私達が見えていないものが見えていて、

実はその見えていないものが、価値があるものかもしれない。

 

私達の足枷(あしかせ)を壊してくれる人かもしれない。

 

その人が言っていることの本質的な意味を考えてみてほしい。

 

怠惰な日々を送っている私は、思いっきり喝を入れらたような気がした。

 

私達は「変化すること」が怖い、というか面倒くさい。

今いる集団の価値観や基準の中で過ごす方が楽だ。

 

「今あるやり方の通りにする」

「今あるルールの通りにする」

「今いる権力者の指示通りに動く」

「今ある価値観の通りに行動する」

 

でも、その価値観や基準は、

実は、本当はもう正しくないのかもしれない。

 

「空気を読まない人」というのは、

それらの既存基準に一石を投じてくれる人のことだと思った。

私達が正しいと信じている(もしくは、どこかで疑いながらも目をつぶって「正しいこと」にしている)基準に対して、コペルニクス的転回を与えてくれる人なのかもしれない、と思った。

 

と同時に、私達が勝手に思い込んでいる「〇〇しなくてはならない」という足枷を外してくれる人なのかもしれない。

 

その人が言っていることに価値があり正しいのなら、

私達はそれらを取り入れて前に進む。

自分自身の足枷となっているものを外す。

 

少なくとも、

私達は既存利益を守ることに固執せず、

自分自身の思い込みを手放し、

新しい意見に冷静に向き合い取り入れることが大切だと思った。

 

空気を読まない人が投げてくれるボールを、

真正面から受け止められる人になりたい。

 

そして、

私自身も、あえて空気を読まずボールを投げれる人になりたい。

 

そう思った五十知命なのでした。

#144(2025ー67)中野信子先生の言葉に救われる

前回のブログで書いたけれど、

最近、中野信子先生の本が私の中でマイブーム。

 

マイブーム、というか、

中野信子先生の言葉に救われている。

 

私自身、

「社交性があること」「協調性があること」「ポジティブなこと」をよしとして育てられてきた世代。

小さい頃から、優等生気質だった私は、

「社交性」があり、「協調性」があり、「ポジティブ」であるように振舞ってきた。

 

ただ、

そう振舞うことで、そんなふうになれた部分があることも事実だ。

 

でも、自分の中の

「内向性」や「非協調性」や「ネガティブ」は、決してゼロになるわけではなかった。

 

にもかかわらず、

過去の価値観の呪縛に縛られている私にとって、

それらの感情は、自分の中で胸を張って認められる感情ではなかった。

 

でも、

中野信子先生の著書に出会って、

それらの感情もすべて胸を張って認め、受け入れていいんだ、と思えるようになった。

 

中野信子先生の言葉は、「脳科学」を通して、科学的・学術的にそれらの(一般的に負と捉えられている)感情を肯定してくれる。

 

理論に基づいた科学に絶対的価値や信頼を置いている私にとって、

中野信子先生の言葉は、心に響く。救われる。

 

自分の中の「負」だと思っていた感情にも意味があること、

その感情を持つ自分を肯定すること。

 

人って、結局のところ、

誰かの言葉に救われるんだろうな~と思った

五十知命なのでした。

#143(2025ー66)「嫌い」という気持ちを大切にする

「嫌い」という感情は、日本人の社会通念的に否定されるもので、

「好き」であることが良いこと、という考えの中で私達は育ってきた。

 

その教育(学校と親の両方)を真正面から受け止めてきた優等生の私は、

日本の教育を考えた人(=その時の大人達)が望むとおり、

「嫌い」は忌むべき感情として大人になった。

 

でも、

「好き」がわからないのが悲しいことであると同様に、

「嫌い」がわからないのも、悲しいことなのではないか、と最近思う。

 

「嫌い」という気持ちは、生物としての本能であるし、

自分の中の感情をちゃんとキャッチ出来ている、ということ。

 

本能が消えていない、感情が消えていない自分を、

大切にする。

 

重要なのは、

「好き」に振り回され過ぎると日常生活に支障が生じるように、

「嫌い」にも振り回され過ぎない、ということ。

 

「好き」も度が過ぎると、「依存」になってしまって苦しいように、

「嫌い」も度が過ぎると、その感情が自分の頭の中に絶えず繰り返されて苦しい。

 

だから、

カラリと清々しく潔く「嫌い」でいる。

例えば、嫌いな食べ物。

私は、生ガキが嫌いだが、別に普段生ガキのことを考えているわけではなくて、

誰かに聞かれると「そやねん~!嫌いやねん~!」って感じ。

別に生ガキをのことを考えて、気分が悪くなったり、心が取り乱されるわけでもない。

ただ、「嫌いやねん~!」ってだけ。

 

自分にとって受け入れがたい人も一緒だと思う。

「好き」か「嫌い」かといえば、

潔く「嫌い」。

でも、その存在によって、心が取り乱されるわけではない。

生ガキも、食べなければなんともないように、

その人とも接しなければ、なんともない。

 

仮にどうしても接する必要があって、

つらさや苦しさを感じたら、

「ああ、私ってやっぱり嫌いなんや」でOKだと思う。

 

大人になって、今さら生ガキの良さを見つけて好きになる必要がないように、

今さら自分の嫌いな人のいいところを時間と労力をかけて探し出し(探したところで、見つかる保証もないけれど・・・)好きになる努力をする必要もない。

 

この世に食べ物がたくさんあるように、

この世に人間もたくさんいる。

 

「嫌いな人」の好きを見つけるほど、

私の人生、時間もエネルギーも残っているわけではない。

 

そうやって自分を大切にして生きていきたい。

 

そう思う五十知命なのでした。

(最近、中野信子さんの著書にはまり、続けて読んでいるので、かなり影響を受けた文章になっていると思います・・・。無意識に引用になっている部分があったらごめんなさい・・・。)

 

#142(2025-65) ウクレレの音が心に響く

再びマイブーム到来のウクレレ

 

最初に買ったのは30年前。

ただ、飽きっぽい私は、なかなか「楽しい」が続かず、飽きてはマイブーム、の繰り返し・・・。

そのうえ、飽きている期間の方がずっと長いので、初心者から全く前に進んでいない・・・。

今回は数回目のマイブーム(笑)。

 

いつも市販テキストで独学の私。

「ジャカジャカ♪」よりもソロウクレレでメロディーを弾くのが好きで、

いつも購入したテキストの中から好きな曲を選び、

流れるようにメロディーが奏でられることを目標に楽しんでいた。

 

先日、新しいテキストを購入。

鈴木智貴さんの「ソロ・ウクレレ20コレクション」。

久しぶりに本屋で新しい楽譜を探していている時に、たまたま見つけてひとめぼれ。

ひとめぼれポイントは、

・曲のラインナップ(五十知命にとって、愛すべき青春ソングが山盛り!)

・テキストに記載されている説明のわかりやすさ

・左手で弦を押さえる時の指(人・中・薬・小)が書かれている

 (→押さえる指が書かれていない楽譜は、自己流で押さえると、左手がバタバタするので、「この指で押さえるんだよ」と書いてくれているテキストが欲しかった)

・模範演奏がYouTubeで見ることが出来、QRコードが付いている。

 (→独学の私。今までは、何も考えず弾きたい曲のTab譜を見て1音1音弾いていたけれど、最近、模範演奏を見て聞くことはとても大切なんじゃないかと、今頃になってやっと思うようになった(笑)

 YouTubeQEコードは、スマホだけで視聴できるので、ハードルが低くありがたい。)

 

早速、

手元のスマホYouTubeのQRコードをかざし、鈴木智貴先生の模範演奏を見て聴いて、真似をして弾いてみた。

 

今まで意識したことのない、左指での弦の押さえ方、

右手での弦の弾き方。

 

自分でもびっくりした。

「え?ウクレレって、私でもこんなに心地いい音が出せるんだ。」

大して上手ではない私の演奏。

今までは、詰まらずメロディーを流すことに必死で弾いていたけれど、

そういうことじゃなかったみたい。

 

先生の真似をして弾いてみると、

いつものウクレレなのに、奏でる音が全く違う。

音の粒、ひとつひとつが響いている感じ。

 

大袈裟に言えば、

大聖堂でパイプオルガンの音(演奏じゃなくて音ね(笑))を聞いた時ぐらいの感動。(←はい、あくまで私の大袈裟な主観的感動の表現です。私のウクレレが決して上手なわけではありません(笑))

 

こんなにも弾き方ひとつで、音の響き方(多分、正確には自分の心への響き方なんだと思う)って違ってくるのか、と改めて驚いた。

 

こんな拙い弾き方なのに、こんなにも心に響くのは初心者の特権。

今は初心者だからこそ心に響くこの音色を楽しもうと思います。

 

と同時に、何を学ぶかと同じぐらい、

誰から学ぶか、何から学ぶかはとても重要だと感じた五十知命なのでした。

 

今日もウクレレ、楽しみます(^^

#141(2025-64)忘れながら、前に進む

とにかく私は記憶力が弱い。

「やらなくてはいけないこと」をすっぽり忘れてしまうわけではないので、

日常生活で困ることはないが、

過去をことごとくきれいさっぱり忘れている。

 

過去の出来事、

過去の会話、

過去に見た映画やドラマのストーリー、

過去に読んだ本の内容・・・・。

 

「過去」に関することは、

水が流れるように、私の記憶から抜け落ちてしまう・・・。

 

特に読書は大好きで、

年間約100冊ペース(今年も5月24日時点で45冊)で読んでいるのだが、

読書ノートに題名と著者及び大好きな部分を読み終わった都度書いているにもかかわらず、大部分が記憶に残っていない。

それどころか、読んだことすら忘れて、

「この本、おもしろそう」と、以前に読んだ本を再び図書館で借りる始末・・・。

(それも、けっこう毎回新鮮な気持ちで読んでいる(笑))

 

今までは、

「こんなに忘れてしまうなんて、無駄なんじゃないか。」

と思うことがあったかけれど、

最近少し捉え方が変わってきた。

 

一つ目は、

「話している時、見ている時、読んでいる時、

 その時、楽しくて幸せだったんだから、それでいいじゃん!」

という捉え方。

その時楽しくて幸せだったのは、紛れもない事実なのだから。

 

そして二つ目、

私的にはとても重要で、

「私自身は覚えていない、と思っているけれど、

 私が認識できていないだけで、

 すべては私の潜在意識に残っているのではないか。」

ということ。

人間の顕在意識(自分自身が自覚している意識)は、全体の1割にも満たなく、9割以上は自分自身では自覚していない潜在意識だといわれている。

よく例えられるのが、

海面に見えている氷山の一角が顕在意識で、海中にはその何倍も大きい氷=潜在意識が存在している、というイメージ。

その自分自身が認識していない潜在意識が、自分自身の考え方や行動決定に大きな影響を与えるという。

 

きっと私が過去に話したこと、見たこと、読んだこと、学んだことは、

すべて潜在意識に残されていて、

今の私の考え方や行動に大きな影響を与えているんだ。

 

そう捉えて、

忘れることを気にせずに、

話したいこと、見たい物、読みたい本を明いっぱい楽しみながら前に進んでいこう、

むしろ、忘れながら前に進んでいこう、

そう思う五十知命なのでした。

#140(2025-63)「孤食」は不幸せか

先日、ネットで読んだ記事によると、

「孤独な食事」は健康も幸福も蝕む。 日本は最低レベルの孤食

誰かと一緒に食事をとること(共食)は、幸福度の指標として、所得や雇用状態に匹敵するほど強力

ナショナルジオグラフィック日本版サイト 2025.05.19)

なのだそうだ。

 

もちろん、私自身も、

みんなでわいわい話をしながら食べる食事は楽しいし、

幸福に付与していることは否定はしない。

 

でも、私個人としては、

「ひとりで食べる食事は、はたして不幸なのか」とも思う。

 

「食べ物」「食べるという行為」に正面から向き合い、

感謝して食事をいただく禅僧の姿は「孤食」と重なる。

 

 

中学生・高校生・大学生、そして共働きの我が家では、

朝も夜も、食事の時間はバラバラだ。

 

平日は、

冷蔵庫にある料理の中から、

食べる時間、その時の自分の体調と空腹具合を考えて、

食べるものをピックアップして、自分で温めて食べる。

平日の食事は、「食べること」に向き合う自分ひとりの大切な時間だ。

 

休日は、

「今食べるために料理したもの」を、みんなでワイワイ言いながら食べる。

それはそれで、とても楽しい。

 

日本人の世界観「ハレとケ」風に言うなら、

我が家にとって、

平日の食事は、栄養素をありがたくいただく「ケ」であり、

休日の食事は、心の栄養とともにみんなでワイワイいただく「ハレ」なのだ。

 

みんなでワイワイ食べる食事は、楽しいし、幸せだ。

それでもなお、

孤食」は不幸せなことではない、と思う。

孤食」は不幸せなことではない、と信じている。

 

孤食」は不幸せである、という風潮が、

孤食」を余儀なくされている人が、「孤食」をしている自分を否定すること、

子どもや年老いた親に「孤食」をさせることを余儀なくさせている人が、罪悪感を感じることがありませんように・・・。

 

そう思う五十知命なのでした。