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【NHKBS放映】映画『めし』あらすじと解説/原節子と上原謙が倦怠期の夫婦を演じた成瀬巳喜男監督の珠玉の名作

映画『めし』は、NHKBSプレミアムシネマにて2025年3月19日(水)に放映(午後1:00〜午後2:38)

 

成瀬巳喜男監督の1951年の作品『めし』は、成瀬が林芙美子の原作を初めて手掛けた記念すべき作品であり、また、戦後、一時期低迷していた成瀬の復活作品でもある。この作品の興行的成功で、成瀬は『夫婦』(1953)、『妻』(1953/原作・林芙美子)という『めし』の続編的な二作を撮り、その後も林芙美子の原作を映画化した『晩菊』(1954)、『浮雲』(1955)、『放浪記』(1961)などの傑作を世に送り出すこととなった。

 

『めし』は、戦後の日本社会を背景に夫婦関係の機微を描いた作品で、夫婦役を原節子上原謙が演じている。

 

目次

 

映画『めし』作品情報

(C)1951 東宝

1951年製作/97分/日本映画(配給:東宝)

監督:成瀬巳喜男 監修:川端康成 脚色:田中澄江、井出俊郎 原作:林芙美子 製作:藤本真澄 撮影:玉井正夫 美術:中古智 音楽:早坂文雄

出演:原節子、上原謙、島崎雪子、進藤英太郎、瀧花久子、二本柳寛、杉村春子、杉葉子、小林佳樹、花井蘭子、風見章子、立花満枝、谷間小百合、中北千枝子、浦部粂子、大泉滉、音羽久米子、田中春男、山村聰

 


『風の歌をキケロ』 ―マービン・ゲイのレコードの射程 ―: 『風の歌を聴け』論

 

映画『めし』あらすじ

大阪で暮らす夫婦、初之輔と三千代は、恋愛結婚で結ばれて5年目になる。初之輔が大阪に転勤になって3年。初之輔は、北浜の証券会社に通い、三千代は、家事に追われる毎日を過ごしていた。

 

結婚当初の情熱も薄れ、二人の間には倦怠感が漂い始めていた。三千代が食事を作っても初之輔はずっと新聞に目を通したままで、まるで三千代が見えていないかのようだ。

 

ある日、初之輔の姪・里子が東京から突然訪ねてくる。自由奔放な里子は、親からすすめられた縁談がいやで逃げて来たと言う。

 

久しぶりの再会に、ごちそうを用意した三千代だったが、里子は居座って、一向に帰る気配がない。里子はやたらと叔父にべたべたして、初之輔も彼女を甘やかすばかりだ。

 

ある日、三千代は女学校時代の同級生で大阪に暮らしている友人たちと同窓会をすることとなり、里子に夕食の用意を頼んで出かけて行った。

 

久しぶりに楽しい時間を過ごして帰ってくると、夕食を食べた気配がなく、買ったばかりの初之輔の新しい靴が盗まれてしまったという。

 

里子と初之輔が二階にふたりでいる間に泥棒が入ったらしい。なぜ二人で二階にいたのか、どうして里子は食事の用意をしていないのかと尋ねると、里子が鼻血を出したのだからしょうがないじゃないかと初之輔は言う。彼のワイシャツに血がついているのが見えて、三千代は思わず、随分近くにいらしたのねと嫌味を言ってしまう。

 

たまりにたまった不満が爆発して、三千代は東京の実家に帰る決意をした。里子と同じ電車で実家に戻った三千代は、昏々と眠り続け、妹や義弟を心配させる。

 

東京で仕事を探そうと、職業安定所を訪れたものの、長蛇の列ができていて、躊躇してしまう三千代。その時、偶然、旧友のけい子に再会する。

 

けい子は夫が戦争に行ってから消息がわからないまま何年も過ぎ、失業保険ももうすぐ切れるのだと語る。男の子をひとり抱え、彼女は懸命に生きていた。その時、チンドン屋が、道路を進んで行くのが見えた。彼女は「あの人たちきっと夫婦よ」と言い、「だってあんなに息があっているんだもの」と続けた。

 

三千代は初之輔に手紙を書くが、なかなか投函できない。そんな中、突然、里子が、今度は三千代の実家を訪ねて来た・・・。

 

 

映画『めし』感想と評価

(C)1951 東宝

三千代(原節子)と初之輔(上原謙)が親の反対を押し切って結婚してから5年。大阪に転勤になってからは3年になる。阪堺電気軌道阪和線の天神之森駅が出てくることから、彼らの住まいもその周辺であることが伺える。

 

映画が始まるや、すぐに私たちは、ふたりの結婚生活が、三千代の夢や期待とは大きく異なり、早くも倦怠期に入っているのを知ることとなる。

 

初之輔は食事の時もずっと新聞を読み続けており、三千代には給仕を求めるだけだ。初之輔は酒癖が悪いわけでもければギャンブル好きなわけでもなく、妻に声を荒げたり、手をあげるような粗野な人物でもないが、この「悪気のない無関心」が、三千代にとって孤独感や不満を募らせる要因となっているのだ。

 

最近、三千代は尻尾が丸まった子猫を飼い始めた。登場人物が猫や犬に慰めを見出すのは、成瀬巳喜男作品の特徴の一つだが、ここでは同時に、食べ物をもらいに来る以外は自由に好きなように行動している猫を、家の中で家事に追われて身動きのとれない三千代と比較してもいるのである。

 

そんなふたりのもとにある日突然、初之輔の姪で東京の世田谷で暮らす里子がやって来る。縁談がいやで家出して来たとあっけらかんと語る里子は、自由恋愛で結婚した叔父夫婦への憧れと、あわよくば初之輔を奪いたいという野心が混在する、いわゆる「アプレゲール」(戦後派)の女性像を体現している。いつまでも東京に帰る気配のない里子に対して三千代は次第に苛立ちを覚え始める。

 

久しぶりにあった姪にいいところを見せたいのか、初之輔は遊びにいった里子の帰りが遅くなるといそいそと迎えに出ていくし、小遣いをやらなくてはいけないなどと言い出す。もともと初之輔はそういう優しさを持った人物ではあるのだろうが、三千代はそれが気に入らない。成瀬はわざととでもいう風に、里子が親しげに初之輔と腕を組む様などを頻繁に演出し、ちょっとした三角関係のような空気を作り出している。

 

興味深いのは、里子が三千代に自身の若い頃の夢を思い出させる存在でもある点だ。里子によって東京の生活を思い出した三千代は、かつての自分—自由や希望に満ちていた時代—と現在の単調な生活を否応なく比較してしまう。

 

面白いことに、里子を演じた島崎雪子は、映画『青い山脈』で原節子が演じたキャラクターと同じ名前なのだ。映画批評家の大久保清朗氏はこのことに関して「戦後とその分身 『めし』における成瀬巳喜男と原節子」(『ユリイカ 詩と批評 特集 原節子と〈昭和の風景〉』 2016/2)の中で「原(節子)はここで自らの過去の分身と遭遇している」と書いている。大久保氏はそのあと、すぐに別の登場人物にも言及し、次のように記している。

 

『めし』とは三千代という女性がさまざまな分身と出会い、その分身に脅かされるドッペルゲンガーの物語である。

 

ここでは分身の相手を里子にしぼって考えてみたい。三千代と里子は一見、まったく違う性質を持った相容れない関係に見えるが、まさに「分身」のように立場が重なる場面がある。実家に帰った三千代はひたすら眠ったり(母親役の杉村春子の「眠いんだよ、女は」という名台詞が登場する!)、仕事を捜そうと職業安定所に出向いたり、従兄の一夫と東京見物に行ったりする。何日かが過ぎ、そろそろ大阪に戻った方が良いと母親から言われるようになるが、そんな矢先、三千代と同じ列車で東京に戻った里子が、突然、三千代の実家にやって来る。友人と海に遊びに行って遅くなったから今日はここに泊めてもらうわと彼女は言い、三千代を呆れさせる。

 

母と妹が里子の布団を用意し始めた時、小林佳樹扮する娘婿が、これまで見せていたものとはまったく別の姿を見せ、私たちを驚かせる。彼は、義母も妻も仕事(一家は小さな洋品店を営んでいる)で疲れているのに余計な仕事をさせるな、自分の寝る用意くらい自分でしなさいと里子を叱りつけるのだ。するとあわてて三千代が里子を促しながら、布団を出しに走るのである。

 

義弟は必ずしも三千代に対して文句を言ったわけではないのだが、三千代にとっては自分のことを言われたも同然だった。つまりここでも里子は三千代の分身と言えるのである。

 

翌朝、三千代は里子を世田谷の彼女の家まで送っていく。里子は、昨晩、三千代に、一緒に遊びに行ったのは一夫だったことを告げていたが、ここでは一夫と結婚しようかしらなどと言う。その方が初之輔さんも幸せになれるんじゃないの、と。

 

これは明らかに、三千代と初之輔と一夫の三角関係を意味しており、里子の遠慮のなさに少々唖然としてしまうのだが、実際、三千代と一夫にはかつて恋愛や結婚に関する何かがあっただろうことは、成瀬の演出上からも明らかだ。それがどんな関係だったのかは想像するしかない。一夫がいまだに独身なのは三千代のことを忘れられないでいるからかもしれないし、三千代と初之輔の結婚が当初、反対されたというのは、周囲の人々が三千代と一夫を結婚させたかったからかもしれない。いずれにせよ、三千代のほうが、一夫のことを忘れられないでいるという事実はなさそうなのだが(もし一夫と結婚していたらと想像したことはあったかもしれないが、そんなことは誰にでもあることだ)。

 

里子の言葉を聞いた三千代は、しばし言葉を失うが、すぐに笑い始める。それもかなり長い間、声を出して笑うのだ。

 

この笑いをどう解釈するべきか。様々な解釈がこれまでもなされて来たようだが、里子の台詞があまりにも予期せぬもので、お門違いだったためと考えるのが自然ではないだろうか。成瀬はさんざん、三角関係を匂わせた演出をしているが、それは一種の目くらましで、私たちが思うほど、三千代は里子に「嫉妬」をしていなかったのではないか。

 

いつまでも東京に帰ろうとしない里子に苛立ちを覚えたのは、嫉妬心よりも経済的な理由のほうが大きかったのだ。十分にもてなしたいのに、できないことへの困惑と不満。経済的な余裕がない中で、里子のような「大人の厄介者」を預かることは、三千代にとってさらなる負担だったろう。決して彼女にお金を使いたくないというわけではなく、むしろ、歓待したいのに出来ないという苛立ちが、不機嫌さを助長し、いつまでも帰らない里子や、里子に帰れと諭さない夫に対する不満に発展していったのだ。三千代のそんな気持ちも一向に理解せず、里子に小遣いをやらなければ、と平気で発言する初之輔に彼女がカッとするのも無理はない。

 

成瀬は、しばしば家庭でのお金の問題、経済の問題を描いた。川本三郎は『今ひとたびの戦後日本映画』(中央文庫)の「貧乏の好きな成瀬巳喜男」の章の中で次のように書いている。

 

成瀬巳喜男は(中略)、木下恵介のように過度に感傷的になることはないし、社会派の監督のように、貧乏を社会的問題に大げさに拡大することはない。” こんな貧乏はよくある話さ“と日常的に、庶民の暮らしを描いていく。多田道太郎の言葉を借りれば成瀬巳喜男は「下層のところで人生をみる目を鍛えている」(多田道太郎”成瀬巳喜男の人と作品“『キネマ旬報』一九五六年二月上旬号)。

 

こうしたことを踏まえ、もう一度三千代と里子のやり取りを見ていると、里子が言う台詞で三千代がもっともうろたえるのは、初之輔がしているネクタイが貧乏くさいと言われる場面と、もうひとつ、東京行の列車で一緒になった一夫のネクタイを里子が褒める場面である。

いずれも初之輔に良いネクタイを買えないことへの指摘にうろたえているのだが、ここでの原節子はコメディアンヌのような可笑しみを宿している。

 

物語の終盤、三千代は、東京にやって来た初之輔に「わたし、250円も使っちゃったわ」と言っているが、このように具体的な金額が出てくるのも成瀬作品ならではである。

 

結局、この物語は、大いにメロドラマ的要素をちりばめつつも、根本的には結婚生活に疲れた妻が、実家に戻り、しばらくしてまた帰っていく話に過ぎない。東京にやって来た夫はわざわざ妻を迎えに来たのではなく、仕事のついでで寄っただけで(と、正直に彼は言う)、このような彼の性格が劇的に変わることはこれからもなさそうだし、彼女が大阪に帰ることを決意するきっかけになるような大きな出来事があったわけでもない。むしろ、もうこれ以上長く東京にいられなくなっただけとも言えよう。

 

それでも、夫を亡くした旧友が子供を抱えながら懸命に生きている姿や(三千代は彼女の姿を二度目に見かけた時、合わす顔がないと逃げ出してしまう)、その前に彼女と会った時、一緒に町でみかけた、夫婦ではないかと思われる男女二人組のチンドン屋の歩みや、妹と義弟が、お店のその日の売り上げをふたりで確かめあっている光景などが、彼女の心に残ったようである。

 

そのような、すぐに忘れてしまいそうなささいな経験の蓄積が人間の人生を作っていくのだ、と映画は語りかける。そうした人間の経験や心の機微を描くのが成瀬巳喜男の世界なのだ。

 

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