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映画『山の音』あらすじと解説/川端康成の原作を映画化。舅と嫁の心のつながりを描く成瀬巳喜男の代表作

1953年の芸術院賞を受賞した川端康成の同名小説を水木洋子が脚色。

成瀬巳喜男にとって『山の音』(1954)は『乙女ごゝろ三人姉妹』(1935)、『舞姫』(1951)に続く川端康成原作作品だ。人間関係の複雑さと、そこに潜むエロチシズムの静かな気配によって、深い思索を促す成瀬巳喜男の代表作のひとつである。

 

原節子は『めし』(1951)以来二度目の成瀬監督作品出演で、『めし』で共演した上原謙が本作でも夫役を演じている、だが、この夫は『めし』の穏やかでのんきな夫像とは真逆の氷のように冷たい性格の持ち主として描かれている。

 

原と心を通じ合わせる舅を山村聰が演じ、その妻役に長岡輝子、修一の妹役に中北千枝子が扮しているほか、杉洋子、角梨枝子、丹阿弥谷津子等が出演。

 

 

目次

 

映画『山の音』作品情報

(C) 1954 東宝

1954年製作/94分/日本映画/配給:東宝

監督:成瀬巳喜男 原作:川端康成 脚色:水木洋子 製作:藤本真澄 撮影:玉井正夫 美術:中古智 音楽:斎藤一郎 録音:下永尚 照明:石井長四郎 編集:大井英史 製作担当:馬場和夫 特殊技術:東宝技術部

出演:原節子、上原謙、山村聰、長岡輝子、中北千枝子、斎藤史子、杉洋子、角梨枝子、丹阿弥谷津子、十朱久雄、金子信雄

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映画『山の音』あらすじ

(C) 1954 東宝

会社で重役を務める尾形信吾は、妻・保子と、修一、菊子の長男夫婦と共に鎌倉に居を構えている。修一も同じ会社に勤めていて、毎朝、ふたりは東京へ一緒に出掛けて行くが、帰りはいつも別々になる。修一の帰りが遅いのは彼に愛人がいるからだ。

 

一方、菊子は夫の冷淡な態度に耐えながらも、舅である信吾に対して深い敬意と信頼を寄せていた。信吾の優しさが、菊子にとっては救いとなっていた。

 

ある日、修一の妹・房子が子供ふたりを連れて家に帰って来る。愛人を作った夫の相原に愛想がつきて、家を飛び出してきたのだ。房子は、疲れた顔で、お父さんは私が可愛くないからずっと兄ばかり可愛がっていたと父をなじり出す。

 

一度は相原の元に帰った房子だったが、すぐに飛び出し、信州の信吾の実家に世話になっていることがわかった。そのため修一が迎えに行く羽目になる。

 

修一が留守の間に信吾は会社の事務員谷崎から修一の愛人のことを聞き出した。谷崎は修一がダンスホールなどで愛人と会う際、同席させられていたという。彼女はそのことに道徳的な葛藤を抱いていた。

 

修一の相手は絹子という戦争未亡人で、信吾は絹子と同居している池田という女性と会い、修二がいかにひどいことをしているかを聞かされる。信吾は修二に暮らしぶりを注意するが、修二は悪びれる風もない。

 

ある朝、菊子が産後の状態がよくない友人を見舞うというので、信吾は、彼女と一緒に家を出た。

 

道中、信吾は菊子のことを心配し、自分たち老夫婦が家を出た方が修一とうまくやれるのではないかと尋ねるが、菊子は信吾がいなくなったら寂しさに耐えられないと涙を流した。

 

その夜、信吾が家に帰って来ると、菊子が体調を崩して休んでいた。実は菊子が病院に行ったのは、友人の見舞いではなかったのだ・・・。

 

映画『山の音』感想と評価

(C) 1954 東宝

成瀬巳喜男の映画『山の音』(1954)は、一見、穏やかな日常生活を描いているようでいて、背後には濃密で屈折した感情の動きが静かに揺らめいている。とりわけ注目すべきは、舅の信吾(山村聰)と息子の妻・菊子(原節子)の間に存在する、静かな親密さとそれに伴う微妙な禁忌性である。

 

信吾と菊子の関係性を考えるうえで重要なのは、その清廉な親密さと、決して越えてはならない一線の境界に漂う緊張感だろう。映画において二人は互いを慈しみ合い、穏やかに信頼している。しかし、阿部嘉昭が『成瀬巳喜男 映画の女性性』(河出新書)で指摘したように、その関係性の奥底には、かすかな「あってはならない恋情」が陰のように潜んでいる。もちろん、二人の関係に実際の恋愛的逸脱はないが、繊細な表情や抑制された会話の中に、微細な感情のさざ波が垣間見える。その微かなざわめきは、巧妙な「間」や視線など、成瀬監督が巧みに操る繊細な映画表現を通じて観客に伝えられる。

 

映画はまた、このような抑制された情念を、主に修一と他の登場人物たちの間に芽生える露骨で屈折したエロチシズムと対比させている。

修一(上原謙)が、愛人のもとに出かける際に会社の若い事務員、谷崎(杉葉子)を同行させるエピソードはその典型だろう。具体的なシーンが描かれるわけではないのだが、修一とその愛人との関係に巻き込まれ、自らが道徳的に堕落したような気分に襲われていると語る谷崎の言葉からその尋常でない様子が伝わって来る。成瀬は、こわばった谷崎の顔を何度もとらえ、人間が欲望や不貞の場面に巻き込まれることで生じる微妙な感情の歪み、倫理観の揺らぎを淡々と描写している。

 

また、修一が妻の菊子を「こども」と揶揄する場面には、妻を性的未熟者とみなした欲求不満、蔑視が見え隠れする。夜、修一が菊子の名を呼ぶとき、観客には彼が性的な欲求を抱いていることが暗に伝わるが、菊子が原節子という清純さの象徴ともいえる女優によって演じられているため、まるで見てはならないものを目撃したかのような気分にさせられる。これは、成瀬が表現した抑制の美学がもっとも効果的に機能した瞬間であり、わたしたちの内面に強い印象を残す。

 

さらに修一が性的倒錯を抱えていることが語られるが、直接的な描写はここでも登場しない。あくまでも他の人物たちの証言を通じて間接的に告げられるだけだ。修一の愛人や、彼女と同居する女性(二人とも戦争未亡人である)、あるいは事務員の谷崎がそれぞれ語る修一の異常性が、背徳的なイメージを作品全体に充満させている。

このように成瀬の映画では、ストレートな表現を徹底的に回避することにより、かえって背徳や欲望の不穏さを浮き彫りにするのである。

 

また、映画『山の音』には成瀬巳喜男の映像美学の特徴がよく表れた象徴的なシーンが存在する。その一つとして台風の夜のシーンをあげることができるだろう。家族が暮らす屋敷は、台風という自然の猛威のなかで突然、暗い影の連なりとして画面に映し出される。ここで成瀬は、平穏な日常の中に潜む不安や揺らぎを見事に視覚的している。

 

そして、映画のラストシーンの美しさもまた、この作品を語るうえで外すことのできないものだ。実家に戻っていた菊子は修一との別れを決意し、そのことを告げるために信吾と新宿御苑で待ち合わせをする。裸の木々が繊細な影を落とすなか、二人の姿は非常に美しく叙情的だ。この場面には、互いを支え合うようなやわらかな親密さと共に、もう二度と会うことはないのだという哀しみの諦念が漂っている。

 

成瀬はこのように繊細な演出を通じて、人間の心の奥底に眠る微妙な感情の機微を巧みに掬い取ってみせるのである。

 

 

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