前回の拙エントリー のために集めたが収まりどころが悪かった材料や、書いていて付け足したくなったことを集めてみた。
話題はあっちゃ飛びこっちゃ飛びするが、言いたいことのエッセンスを先にまとめてしまうとタイトルに掲げたように、心霊現象というのはその名の通り個々人の心の中に現れるものだろうということである。
たびたび書いている通り私自身は霊感ゼロ人間なのだが。
うっかり書き忘れていたので、前回拙記事に追記すると同時に、今回は最初に述べておく。
自称霊能力者や拝み屋の悪質なところは、家族が難病にかかっているとか困難な状況にある相手を標的にすることだと思っている。
詐欺と一緒で、普通の精神状態なら相手にしない話でも、追い詰められているとつい信じてしまい大枚を払わされることになりかねない。
10年ほど前に父親が亡くなったとき、どうやって聞きつけたのかその手合いが集まってきたと身内から聞かされたことがある。さいわい身内はちゃんと断ってくれたようだが。
ひょっとしたら中には本物の霊能力者や良心的な拝み屋がいるかも知れないが、私はその判定方法を持たない。
勢いでさらに付け加えると、弱った心に付け込む詐欺師は心情的に絶対に許せないし、そういった連中にはくれぐれも注意が必要であることも強調したい。
ツイッターでも「PayPayに振り込むと倍にして返金する」といった類の詐欺ツイートが後を絶たない。普通の心理状態であればまず相手にしない内容だが、追い詰められてしまうと藁にもすがる思いでなけなしの金を振り込んでしまうことがあるという。困窮している人をさらに困窮させるという、まさに鬼畜の所業である。人間のやることではない。
いっぽう騙された人を批判することはできない。どんな状況下でも判断力を保てというのは、絵空事である。
前回の拙記事に「霊と物質」「霊とエネルギー」の話をちょっと書いたが、このテーマは繰り返し蒸し返されている。
立命館大学名誉教授の 安斎育郎 氏に『霊はあるか 科学の視点から』(講談社ブルーバックス) という著書がある。安斎 氏はズバリ否定派で、その根拠のひとつに霊魂がエネルギーを得る手段がないことを挙げている。
『霊はあるか』は2002年初版だが、マンガ家の つのだじろう 氏はそれよりずっと前の1970年代に「少年マガジン」に連載した『うしろの百太郎』中で、霊魂実在肯定派の主人公と否定派の教師にこんな議論をさせていた。
教師「では聞くが霊のエネルギーは何だ?」
主人公「すべてのものをエネルギーで判断するのは19世紀の古い科学の考え方です」
じじいなんで連載時に掲載誌を追っかけていた。連載当時は主人公に肩入れした。だが今にして思い返すと、現代物理学の根幹の一つであるエネルギー保存の法則を、こうやすやすと否定する つのだ 氏の蛮勇には恐れ入るばかりである。そりゃ膨張宇宙とかダークマターとか未知の領域はいくらでもあるから、エネルギー保存の法則すらなんらかの形でひっくり返る可能性は絶無とは言えないかもだが。
『うしろの百太郎』からもう一件。
やはり霊魂否定派とおぼしき A.ビアス は『悪魔の辞典』「幽霊」の項目中で「幽霊はなんで裸で現れないのか? 経帷子(winding-sheet)姿か生前の服装で現れるが、服の霊なんかあるのか?」と疑問を呈していた。
『うしろの百太郎』にテロリストの怨霊が登場したエピソードでは、テロリストがねぐらに使っているテントが写っている心霊写真までが出てきた!
登場人物に「信じられない! テントの霊なんてあるの?」「すべての物質には精があるとされるから…」といった会話をさせていた。
要するに何でもアリってことだろうが、これはさすがに当時から「いかにも苦しい」と思った。
心霊現象と物理現象の関係は深入りせず「霊は心に現れる」「心霊現象は精神に直接作用する」としてしまうのがスマートのような気がする。
物理的実体が必要そうな触覚・嗅覚・味覚だろうが、物理的実体の必要性がやや薄そうな(?)視覚・聴覚だろうが、夢と同種のまぼろしと決めつけてしまえば同じレベルにアリになる。服の霊やテントの霊があったっていい。
実は人間の脳味噌はこういう観念的・抽象的な思考には案外向いているようで、この手の理屈をこね回すことは大昔から行われていた。
ぱっと思いだしたのが、悪魔が自分の子どもを人間に産ませる方法というやつだ。
悪魔は実体を持たないから、精子を自分でこさえることはできない。じゃあどうするかと言うと、まず女に姿を変え男を誘惑して受け取り、それから女と交わるのだそうだ。だから悪魔の精液は冷たいという。
出典は、ちょっと検索した限りでは見つけられなかった。代わりにつか『悪魔の精液は冷たい』というタイトルの富士見ロマン文庫が、検索上位にずらりと並んだ。
いっぽう、そっち方向に思考を巡らすことの無意味さも、それこそ古代ギリシャの時代から論じられていた。
こちらは原文が示せる。プラトン『パイドロス』(岩波文庫) の冒頭部から、少し長くなるが引用する。ソクラテスが年下の友人パイドロスと散歩しながら会話を交わす場面である。
パイドロス ……ちょっとおたずねしますけれど、ソクラテス、ボレアスがオレイテュイアをさらって行ったという言い伝えがありますが、あれは、イリソス川のどこかこのあたりで起こったことではないでしょうか。
ソクラテス そう、たしかにそういう言い伝えがあるね。
パイドロス とすると、さらわれたのはここからではありませんか? とにかくこの水の流れたるや、ものやさしく、きよらかで、澄み透っていて、このほとりで乙女たちがたわむれるのにふさわしいようにみえるではありませんか。
ソクラテス いや、それはここではなくて、二スタディオンか三スタディオンばかり下流のほうだろう。アクラの社のほうに渡るところだ。そこにはたしか、ボレアスをまつる祭壇があるはずだが。
パイドロス それはぜんぜん気がつきませんでした。ところで、ゼウスに誓って、ほんとうのところを打明けてください、ソクラテス。あなたはこの物語を、ほんとうにあった事実だと信じていらっしゃいますか。
ソクラテス いやたしかに、もしぼくが賢い人たちがしているように、そんな伝説は信じないと言えば、当節の風潮に合うことになるだろう。そして学のあるところをみせながら、「彼女オレイテュイアがパルマケイアといっしょに遊んでいるとき、ボレアスという名の風が吹いて、彼女を近くの岩からつき落したのである。彼女はこのようにして死んだのであるが、このことから、彼女がボレアスにさらわれて行ったという伝脱が生れたのである」とでも言えばよいわけだ。あるいは、アレスの丘からつき落した、と言ってもいい。なぜなら、もうひとつそういう伝説もあって、このイリソス川からではなく、アレスの丘からさらわれたとも言われているのだから。
しかし、パイドロス、ぼくの考えを言うと、こういった説明の仕方は、たしかに面白いにはちがいないだろうけれど。ただよほど才智にたけて労をいとわぬ人でなければやれないことだし、それにこんなことをする人は、あまり仕合せでもないと思うよ。なぜかというと、ほかでもないが、その人はつぎにヒポケンタウロスの姿を納得の行く形に修正しなければならないことになるし、さらにおつぎはキマイラの姿を、ということになる。さらにはまた、これと似たようなゴルゴやペガソスたちの群、そしてまだほかにも不可思議な、妖怪めいたやからどもが大挙して押しよせてくるのだ。もし誰かかこれらの怪物たちのことをそのまま信じないで、その一つ一つをもっともらしい理くつに合うように、こじつけようとしてみたまえ! さぞかしその人は、なにか強引な智慧をふりしぼらなければならないために、たくさんの暇を必要とすることだろう。
だがこのぼくには、とてもそんなことに使う暇はないのだよ。なぜかというと、君、それはこういうわけなのだ。ぼくは、あのデルポイの社の銘が命じている、われみずからを知るということがいまだにできないでいる。それならば、この肝心の事柄についてまだ無智でありながら、自分に関係のないさまざまのことについて考えをめぐらすのは笑止千万ではないかと、こうぼくには思われるのだ。だからこそぼくは、そうしたことにかかずらうことをきっぱりと止め、それについては一般にみとめられているところをそのまま信じることにして、いま言ったように、そういう事柄にではなく、ぼく自身に対して考察を向けるのだ、――はたして自分は、テュポンよりもさらに複雑怪奇でさらに傲慢狂暴な一匹のけだものなのか、それとも、もっと穏和で単純な生きものであって、いくらかでも神に似たところのある、テュポンとは反対の性質を生れつき分け与えられているのか、とね。
プラトン/藤沢令夫訳『パイドロス』(岩波文庫) P14~16 改行位置変更しています。注釈・段落記号省略しています。
プラトンの時代はギリシャ神話の成立と普及からすでに何世紀かを隔てていたであろうが、それでも古代ギリシャの人々がギリシャ神話の物語をその通りには受け取らず合理的解釈を試みていたさまが読み取れる。
引用部最後のあたりのテュポンに触れた箇所は、ソクラテスならではの諧謔だよね。
ただし後世、神話・伝説の合理的解釈を試みる暇人は、それこそ膨大な人数が出現している。私もその一人であろう。
古代ギリシャの人々と、我々現代人のなんら変わりのないことか! 下手すると彼らの方が賢いかも知れない…と少し前に同じ内容をツイッターで呟いたところ、FFさんから「プラトンと比較しちゃ酷でしょう」とリプをいただいた。
それでは古代など前近代の人々と現代人を隔てるものに何があるかというと、たいへん心もとない。普遍性、客観性、再現性などを基盤とする科学的思考というのを思いついたが、これをきちんと身につけるのは並大抵のことではない。
クーンが「パラダイム論」を提唱したきっかけは、クーンがアリストテレスを精読し直して、その「合理性」と精緻さに驚愕したことだったはず。
いっぽうで2018年の新聞記事だが…
日本の研究力低下、悪いのは…国立大と主計局、主張対立:朝日新聞デジタル
記事中に登場する財務省主計局次長(当時)の 神田真人 氏は ”(国立大学)改革がなければ、もっとひどくなっていた。世界の動きに目を閉じて塹壕に閉じこもり、旧態依然のまま死に至る可能性が高かった。改革前に戻すことなどあり得ない。" と述べている。
これはパラダイム論と並ぶ現代科学哲学の二本柱の一つであるポパーの「反証主義」を、全く理解していない言舌と言わざるを得ない。財務省という日本を代表する官庁のトップが、この始末である。
ただし現代科学哲学に照らしてネガティブな事例(すなわち「これは科学的態度とは言えない」)を示すことはできても、ポジティブな事例(「これこそが科学的態度だ」と言えそうな例)をただちに示すことができないのは、私の力不足である。有名な一般相対性理論に基づく日蝕観測の史実を再紹介するくらいなら、できるかもだが。
ソクラテスの言うデルポイ神殿の銘に背いて、怪談の類に関する解釈を続ける。「霊は心に現れる」という仮説は、ここのところ弊ブログで繰り返している…
・幽霊や妖怪変化の類は基本、人間をびっくりさせることしかできない
・本当に恐ろしいのは、生きている人間
という二箇条に、よく合致しているのではないかという自画自賛。
それでは人間に仇なす怨霊はどう解釈したらいいかというと、ソクラテスの批判を甘んじて受ける覚悟で言うが「本当に恐ろしいのは、生きている人間」のほうの具現化ではないかと考える。
前回、調子に乗って書いてしまって、あとから後ろめたさを感じている部分がある。
人間の排泄物は、感染症と、付け加えるべきは寄生虫にさえ気をつければ、自然界においてはやっかいな代物ではないと述べた箇所である。日本では少なくとも20世紀後半まで、人糞が肥料としてよく使われそれに伴い寄生虫の駆除剤が学校で配られたりしていた。だがそれはここで述べたい本筋ではない。
そのことを作曲家や競技会場の免罪に使うつもりはないと述べた。
これだけでは明らかな説明不足だった。ダブルスタンダードの誹りを免れまい。
作曲家の過去のとんでもなく酷いいじめは、暴行、強要というれっきとした犯罪とするべきだろう。
トライアスロンとマラソンスイミングの会場の可否としてまず検証しなければならないのは、水質が国際基準を満たすかどうかだろう。
医療介護関係者の必要かつ正当な業務と、もともと並べるものではなかったのだ。
蛇足を承知で今回のブログタイトルに牽強付会するなら、「心」の問題が重要なファクターとして関与してくるのではないだろうか。作曲家の場合は悪意が、競技会場の場合は無配慮または無関心が。
5月25日付拙記事 ならびに 前回7月20日付拙記事 で言及した『道成寺』『吉備津の窯』『牡丹灯籠』『破られた約束』のような物理的な暴力によって危害を加える悪霊は、存在しないと断言できる。え、いる? エネルギーは何?
だが繰り返すが一番恐ろしいのは生きている人間。とめどなくエスカレートする嗜虐性や、無関心と責任回避の連鎖がなす仇の恐ろしさ、おぞましさは、フィクションの怨霊たちの所業の及ぶところではあるまい。
それだけではない。
虐げた側、ないがしろにした側が忘れても、虐げられた側、ないがしろにされた側の記憶は消えない。それらの恨みがレンズのように焦点を結んだときに現れる悪霊は、どのような災いをなすことであろうか。
当事者が実在するのでこれ以上の妄想を巡らすことは自粛するが、オレイテュイアを誘拐したボレアスの比ではなかろう。
改めて考えると、力量のある作家たちはそうした人間の恐ろしさを描くことに力を尽くしてきたのではなかったか。ぱっと思い出しただけでも A.クリスティ 氏、S.キング 氏、宮部みゆき 氏、伊坂幸太郎 氏…いくらでも指は折れる。
「味覚として現出する幽霊はまだいなかったのでは」などと奇手を考える前に、いやそれを包含したっていいのだが、人間の恐ろしさを具体性のディテールで肉付けしていくことこそが、創作の王道の一つなのかも知れない。
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