嫁入り 出征 殺人犯 “最北の秘境駅” が見続けてきたもの

嫁入り 出征 殺人犯 “最北の秘境駅” が見続けてきたもの
駅がもし語れたら、私たちに何を話してくれるだろう。

北海道北部 稚内市にあった「抜海駅(ばっかいえき)」はことし3月、100年を超える長い歴史に幕を下ろした。

1世紀にわたり、この地を見守り続けてきた駅は、どんな物語を見てきたのだろうか。この地に嫁いできた女性の半生。戦争に赴くため、万歳で見送られた少年。駅近くで起きた凄惨な殺人事件。

そして、何もなくなった“最北の秘境駅”に何かを求めて訪れる旅人たち。

「抜海駅」が廃止されるまでの1か月、駅の記憶に寄り添った。

(稚内支局記者・奈須由樹/札幌放送局ディレクター・長谷川悠)
【NHKプラスで配信】配信期限 :5/30(金) 午後7:57まで↓↓↓

抜海駅「最後の日」3月14日

JR北海道のダイヤ改正の前日、2025年3月14日。

この日が抜海駅の「最後の日」となった。

駅にはこの日、わずか1両編成の普通列車が7本停車した。

全国から多くのファンが訪れ、駅との最後の別れを惜しんだ。

長い間、無人のまま冷えきっていた駅舎も、この日は多くの人のぬくもりで、かすかな温かさを取り戻していた。

駅の存続に向けて活動を続けてきた地元の有志団体は、駅周辺で記念ストラップを200個配り、列車の見送りを続けた。
抜海地区で唯一の民宿を営む 伊東幸さん
「最後のにぎわい。多くの人に愛された駅といううれしい気持ちと“最後”とつくのが複雑な思い」
列車の“見送り”は最終便まで続いた。

午後8時半ごろ、抜海駅に最後の列車が到着すると、こみ上げる悲しみを胸にしまい込み、最後はみんな笑顔で見送った。

最終列車はひときわ長い汽笛を鳴らして、暗闇へと消えていく。

取り残された駅舎には余韻のような風だけが強く吹き抜けていた。

JRの職員が古びた駅舎に鍵をかけると、駅は長い年月にそっと幕を下ろした。

多くのファンでにぎわった駅で最後、施錠の音が響きわたったように感じられた。

抜海駅とその周辺地域は

JR宗谷線の終点・稚内駅から南へ2駅、人里離れた場所にポツンとたたずむ抜海駅。

1986年(昭和61年)から無人の駅で、停車するのは普通列車のみ。

一部はペンキが塗られるなど修繕されてきたが、現存する木造駅舎は、ほとんど100年前の当時のままだ。
稚内市史などによると、この地域の発展には鉄路の存在が大きかったことがわかる。

何もなかったこの場所に、ニシン漁のために移住した漁師たちが抜海という土地を開拓し、鉄路の発達とともに繁栄。

多い時には800人を超える人たちが集落をつくった。

稚内に働きに出る通勤客で車両が常に満員となる時代もあったが、車の発達とともに利用は激減。

住民も減り、今では過去5年間の平均利用客は3人以下。

JRは駅を廃止せざるを得なくなったのだ。

抜海駅が見守った100年間とは

大正から、昭和、平成、そして令和。

100年を超える時間、抜海駅は寒風吹きすさぶこの地で、激動の時代を生きる人々を見守り続けてきた。

駅はこの時間にどんな物語を見てきたのだろうか。

我々は駅が廃止されるまでのおよそ1か月、その記憶に寄り添った。

この地に嫁いできた女性の半生。

万歳三唱の中、戦地に赴き、無言の帰郷となった少年。

駅近くで起きた 凄惨な殺人事件。

そして、はるかな旅路をたどって、何もなくなった駅に何かを求めて訪れる旅人たちの姿が見えてきた。

廃止までの時間を駅とともに

ことし3月、廃駅を前に、私は駅とともに長い時間を過ごした。

ただ、ここには何もない。

1日7本の普通列車とともに時折、駅を訪ねて旅人がやってくる。

1人の少年が降り立った。
滋賀から来た高校生
「3月で高校を卒業したばかり。親からもらった卒業祝いを使って抜海駅に来た。北海道の“秘境駅”にハマっていて、廃止されると聞いて最後に来たかった」
親からもらった高校の卒業祝いを握りしめて、1人で鈍行でやってきたという。

次の列車が来るのは数時間後、それまで古びたポスターや駅舎をじっくり見ていた。

ゆったり駅舎を見て回る高校生に再び声をかけた。
記者「ここで何をしているんですか?」

高校生「何をしている?駅を味わっているんです」

記者「駅はどんな味わいですか?」

高校生「言葉で表現するのは少し難しいな。駅を堪能しているという感じです。非日常を味わえるいい駅だなって」
彼は静かな駅舎で、時が止まったかのようなひとときを過ごしていた。

やがて、遠くから列車の音が近づき、静寂がゆっくりと解かれていく。

取材のお礼をする中で、最後に交わした会話がとても印象的だった。
記者「鉄道で来るのは大変ではなかったですか?」

高校生「簡単に来られるので、鉄道があれば。乗っていれば着くじゃないですか。鉄道はつながっているので」
最近の高校生は言葉や立ち居ふるまいが、どこか大人びているとは聞いていた。

しかし、“駅を味わう” “鉄道はつながっている”などと、胸の奥にまで響く言葉をいくつも投げかけるとは。

駅に別れを告げる時、振り返ることなく背を向け、そのまま列車に向かった彼の足取りは、どこか軽やかだった

何もない駅に何かを求めて

抜海駅には普通列車とともにいろいろな人の物語が運ばれているように感じられた。

ある男性は、14歳の時に家出してたどりついたのが抜海駅だったという。

ひと晩をこの駅であかし、以来、40年通っていて、抜海駅が“中学時代の友人”と語る。

廃止が決まってからは日に数人の旅人がやってきては、その姿を記録し帰っていく。

中には、始発から終着まで、15時間ほど、この駅舎で過ごす“つわもの”もいた。
駅舎に置かれている「駅ノート」には全国各地から訪れた人たちの思い思いのメッセージがしたためられていた。

見知らぬ旅人たちの思い出や感謝の言葉がつづられていて、それぞれの物語が響き合うページをめくるたび、私の心には、じんわりと温かさが広がった。
かつて栄えていた抜海駅は1986年(昭和61年)に無人駅となり、時代の変化とともに何もない駅になった。

それでもこの最北の無人駅に人々は“何か”を求め続けてきた。

人の営みとそれを受け入れてきたのが抜海駅なのだろう。

駅と同じ時代を生きた女性

水口キミさん、1925年(大正14年)生まれ。

ことしで100歳だ。

抜海地区に住み、駅とほぼ同じだけの時間を生きてきた唯一の存在だ。
記者「おいくつなんですか?」

水口さん「ことしで私100歳だもん。“驚き桃の木”だね。転ばないように気をつけないとダメだね」
水口さんは「稚内で生まれ、抜海に嫁いできた時に初めて駅を使った。自分で決めたことではなく、親のいいなりの結婚だった」と話してくれた。

「今振り返ると情けない」と冗談を交えながら振り返った。
100年という時間は私にははかりえない。

駅はこの水口さんを覚えているのだろうか。

恋愛をしたことがなく、抜海駅に初めて来たのは冬の2月ごろ。

日本髪を結い、不安な顔で訪れ、婚礼の場でも「華やかな稚内に帰りたい」と口にしていたのだそうだ。
水口キミさん
「やっぱり帰りたいって思ったよ。道路から我が家の方を眺めるいうことはしたけどね。相手も前に行きあってるとかでなかった。でも嫁に来た以上帰りたいと思っても帰ることはできないと分かっているからね」
ただ、家で初めて会った夫の善太郎さんは水口さんのことを大切にする妻思いの男だった。

抜海には知り合いがおらず、ふさぎこむ水口さんに善太郎さんが「小さな商店を営んではどうか」と背中を押してくれた。
まだ車のなかった時代、水口さんは毎日のように抜海駅から汽車に乗り、稚内で物を仕入れて店頭に並べた。

お菓子、みそ、しょうゆ、電球など「水口商店」は何でも販売した。

水口さんはいつしかこの土地に必要とされ、この土地を必要とする生き方を送るようになっていた。

抜海駅の廃止前、水口さんは思い出の駅舎に足を運んだ。
水口キミさん
「何年ぶりだろ、だいぶたつねえ。わかんないよ。でも、この雰囲気がいいね」

記者「ここに初めて来たときは不安だったんですよね?」

水口さん「よく覚えてないよ」
いくら質問を投げかけても水口さんはそのことを詳しくは覚えていない。

認知症で記憶を断片的にしか思い出すことができないのだ。
記者「前は日本髪を結ってと言ってましたよね?」

水口さん「そうだっけ。覚えてないな。もう何十年も前だからね」
私は諦めるような思いで駅に救いを求めた。

その時、水口さんは遠い記憶がよみがえったかのようにゆっくり語り始めた。
「抜海に来て、幸せって言っとくのが一番かな。善太郎さんは真面目な人でみんなから『ぜんちゃん』って呼ばれて信用されていたからね。抜海に来たときは我が家に帰りたいっていう思いしかなかった。子どもみたいなもんだな。でも本当に真面目な人だったから幸せでした」
この地に嫁いできた水口さんが、夫とともに過ごした半生をゆっくり語り始めた。

そして、この地で過ごせたことに感謝の思いがあるという。
「抜海駅があったから、私は抜海で暮らしている。この駅があるから現在の我が身がある。抜海で商売ができて良かった。1人では何もできなかったけど、商売で人とつながれて、支えてもらって現在があって、どれだけ世話になったか、はかり知れない。店で商売ができたのも、この駅のおかげ。善太郎さんとだったから今現在の我が身があるんです」
アルバムの写真を見せてもらうと、結婚当初、水口さんは本当に不安そうな顔をしていた。

しかし抜海で商売を始め徐々に打ち解けていった水口さんは本当にいい顔をしていた。

その隣にはいつも優しい夫の善太郎さんが居た。
「今度、抜海の駅と会うとき、汽車は止まらないだ。そうか、もう止まらないんだな。駅もすごい、よく頑張ったね」

抜海駅から万歳で見送られた少年

稚内市で暮らす、堀公昭さん(90歳)。

当時17歳の兄、公圓さんがみずから海軍に志願し横須賀の海軍基地へと向かったのを見送ったという。
堀公昭さん
「兵隊に行くときは見送りに行くもんだ。家の前で見送って、抜海駅でもって万歳、万歳ってね。敵をやっつけに行く名誉なことだったからさ」
その2年後、公圓さんが乗っていた護送船「りおん丸」はアメリカ軍から空爆を受け沈没。

公圓さんはパプアニューギニアで戦死したという記録が残っていた。

遺族のもとには電報が届き、稚内で合同の英霊祭が行われたが、その日遺骨だと渡された箱の中には、写真だけがはいっていたという。

83年前に見送られた少年には、まだあどけなさが残っていた。
「兵隊に行くっていうのは死ぬのも覚悟してる。悲しい気持ちもあるけれど、言葉になるような時代でなかったから。まだ17歳で、温厚でおとなしくて、みんなにかわいがられたいい人間だった」
父の公巌さんは公圓さんが最年少で海軍に志願したことから、横須賀まで同行したという。

死は覚悟していたものの、戦死したことを悔やみ深く悲しんだ。

公巌さんは戦後、新たに生まれた男児に”コウエン”と同じ読み名をつけたという。

凄惨な事件 鉄道が犯人を連れてきた

仏壇に静かに手を合わせ「ありがとう」とつぶやく1人の男性。

稚内市抜海村クトネベツに住む西岡睦夫さん(87歳)。

牧場で働き、今でも牛を優しくめでる。

その優しい人柄と笑顔が印象的な人だ。

今まで固く閉ざしてきた、悲しい駅との過去を語ってくれた。
西岡睦夫さん
「鉄道、そして駅は、産業の発展には欠かせなかった。ただ、我々家族にとってはいい思い出ばかりではない」

家族2人が殺される

昭和33年2月18日、稚内の牧場で起きた強盗殺人事件。

西岡さんの当時16歳の妹と当時26歳の叔母が殺害された。

妹は暴行を受けて首を絞められ、叔母は頭を凶器で数回殴られた。

犯人は従業員として働いていた当時18歳の男性で、のちの少年死刑囚。

西岡さんは胸の奥に閉じ込めていた67年越しの思いを初めて語ってくれた。
西岡睦夫さん
「天気のいい日でした。私と父が乾燥させた草を摘んでいたんです。父が先に家に帰ると今まで聞いたことない大声で叫んだ。私も家に入ると、目を背けたくなるような悲惨な姿で、何が起こったのか分からなかった」
「中学を卒業した妹に体を求めたけど、許さなかったから首を絞めて殺し、もうここにはいられないから、金庫から金を取ろうとしているところ運悪く叔母が外から玄関に入ってきた。何回も頭を殴られたと」
「私はすぐに出刃包丁を持ちました。犯人がいたらやろうと。そして警察を呼ぶために、そのまま抜海駅に行きました。犯人がディーゼルカーに乗っているわけでもないけど探そうと、お客さんも乗っているのにディーゼルカーの中を出刃包丁を持って歩きました。何事かと思っただろうね」
事件の背景には何があったのか。

西岡さんはその事情も話してくれた。
「当時は金もなく稚内まで流れてくる人が多かった。でも稚内には工場がなかったし、働く場所がなかったから『抜海に行きなさい、抜海に行けば牧場があるし、牛が何十頭もいるから雇ってくれる』って市内で説明されたのか、何人も抜海に流れてきた。働き口は豊富町の兜沼の方が多かったけど、厳しい冬の季節だから暖かい季節になるまでここに居なさいと人助けで何人も受け入れたことがあった」
戦後の混乱期、北海道では春になる前に季節労働者を大量に受け入れていた。

全国各地を転々とし、鉄路で抜海駅にたどりついた1人が犯人だった。

戦後の抜海には行き場のない人が毎年のように鉄道で流れ着いた。

西岡さんは冬を越せない人に人助けのため、職と暮らしを提供していたという。
「叔母が玄関へ入るところが遠くから見えたんですよ。自分は馬に乗って、叔母が家へ入って見えなくなるまでを見ていた。つまり殺される、1分か2分前の叔母の姿を見てるんです。今でこそもう60年もたつから少し薄れたけど、叔母が殺される寸前の姿をついきのうのように30年くらいは毎日、ついきのうのように思い出していたんです」
ろうそくに火をつけ、仏壇の前で静かに手を合わせる。

沈黙が語るものは涙以上に深く、痛ましかった。

部屋には遺影が飾られていた。

叔母の小さな写真が見つかり、引き延ばして遺影にした。

なかなか飾る気になれなかったが、去年ようやく飾ることにしたという。
じっと遺影を見つめ、何も言わず部屋から出た、その背中が語るのは、言葉にはならない悲しみだった。
「鉄道が人間を運んでくる、駅があって犯人を運んできて。でもそれはしかたのない個人の出来事で、やっぱり(抜海)駅があって発展してきたんだから」

不要なものが壊され必要なものが作られる

夜11時30分に最後の特急列車が通過してから駅を訪れると、近くの街灯が消えていた。

あたりは何もなく、静かな闇に包まれていた。

目の前に広がったのは満天の星空だった。

駅は100年間、誰にも邪魔されずに見続けてきたに違いない。
ただ、この星空にも変化が生まれたと地元の住民は語る。

近年、建設されている風力発電の風車が放つ光によって「星が見えにくくなった」というのだ。

かつて人々の生活を支え、経済の動脈となった駅は役目を終えて廃止され、代わりに新しい役目を与えられた風車が次々と建っていく。

駅からは優雅に回る風車がみずからの存在を誇示するかのように見え、少しうらやましそうに感じられたのではないか。

しかし、この風車も100年後には役目を終えて取り壊されることになるのだろうか。

人間は古いものを壊し、新しいものを作る。

100年前から、一歩も動かずにこの場所にある駅は、そんな人間の営みを「それも仕方のないことだ」と受け止めているのではないかと思う。

思い出の駅の廃止に地元の人は

時が流れ、人口が減り、必要とされなくなった抜海駅の「最後の日」3月14日。

我々は、水口キミさんの家を訪れて話しを聞いていた。
水口キミさん
「ちらちら雪が降って、抜海駅も終わりか。汽車止まってもう乗り降りするお客さんいないもんね。全然使わないから、しかたがないね。これは時の流れだもん」
そして、駅に移動し取材を始めた。

この日は風が強く吹きつけていて、雪も降り続いていた。

そんな中、西岡睦夫さんが駅を訪れた。

全国から訪れている多くの人のにぎわいに驚いた様子だった。

別れを惜しむように駅を見渡していた。
「我々家族にとってはいろいろあった駅だが、駅には最後はありがとうと」

抜海駅の廃止から2か月

駅が廃止されてから2か月ほどたった春、私は、ふと抜海駅に足を運んだ。

役目を終えた駅舎は板張りされ、羽音をならす虫たちが無数に舞い、ハエが窓に群がっていた。

そして、この駅に列車は止まることなく通り過ぎていった。

この駅に、もう列車は止まらない。

この駅を目指す列車はどこにもないのだ。

役目を終えた駅舎がホームにたたずむ姿は少しさみしく、誰かを待っているかのように思えた。

取材後記・抜海駅へ哀悼の意を込めて

駅がもし語れたら、抜海駅は私になんて言葉をかけるだろう。

そんな思いを胸に取材は始まった。

取材を重ねる中で見えてきたのは壮絶な時代の流れで、駅が見守り続けたものは、人々の営み、そして無数の出会いと別れだった。

抜海駅とともに過ごした時間は、どれほどになったのだろうか。

すべてを追うことは叶わなかったが、駅の記憶に、ほんの少し、寄り添えたのではないかと思う。

駅がなくなってから、2か月ほどが経過した。

近くの集落は平穏で変わらぬ時間を刻み始めている。

人口は少なくなったが、駅亡き後も明るい未来にしていけるように。

役目を終えた抜海駅には心から「お疲れさまでした」と伝えたい。
(5月16日 北海道道で放送)
稚内支局記者
奈須由樹
2021年入局 初任地は函館局 稚内支局では水産関係などを取材中
札幌放送局ディレクター
長谷川悠
2009年入局
釧路局、スポーツ番組部などを経て2年前から札幌放送局