上映開始前のスマホを怒られる
何年か前に、シネコンで上映開始前の少し薄暗くなって企業CMや予告編を流している時間帯にスマホを操作していたら、斜め後ろのおじさんから「消せよお前!」といきなり怒られたことがあった。
その時は「えー、映画はじまる前じゃん」と思った。そこそこ高い頻度で(月に7~10本くらい)映画館で映画を見ていると、全く同じCMや予告を繰り返し見ることになるし、CMを見るのにお金払ってるわけじゃないし、その時間は好きにさせてよ、という気持ちもある。
ただ後から、この「どこからどこまでをスマホやおしゃべり不可の時間と見るか」は人それぞれなところがあって、自分が思う「正解」も結構相対的だなと思い直した。今は控えるようにしている。
ネットでもちょくちょく話題になる「エンドロールで喋ってる人出てけ」も同じ形なんだろう。私も「エンドロールの間は余韻に浸りたい時もあるから喋るなら出てからにしてほしい」と思っているけれど、喋ってる人からすると「本編が終わったからOK」と思ってるのなら、CM中のスマホに怒ったおじさんと私の立場がひっくりかえって同じ形だと思った。
CMの時間帯も、映画館が設定している「上映開始時間」の後である以上、あれは上映時間なのだからスマホ・おしゃべり一切禁止だ、という考え方もあり得る。その考えからすると、私が「真っ暗ではないCMの間はOK」と思っていたのは「非常識」になる。
もちろん、まだ薄明るいCM時間と、真っ暗なエンドロールでは、後者の方が「上映時間だ」と思う人の割合は高いとは思う。
OK/NG範囲のグラデーション
映画館、スクリーンでの時間の流れとしてはおよそ以下のような感じだろうか。
- ①開場:明るい。BGMが流れていたり映画館のCMが流れている。
- ②スケジュール上の上映開始時間:やや薄暗くなり企業CMや予告編が流れている。
- ③消灯:真っ暗になり、「上映中の会話禁止」などのマナー映像が流れる。
- ④製作・制作会社や配給会社のロゴ映像
- ⑤本編上映
- ⑥エンドロール
- ⑦おまけ映像
- ⑧点灯
という時間軸の中で、攻めてる(?)人なら「⑤以外はスマホ・会話OK」と思っていて炎上するかもしれない。海外だと⑤の本編上映中もお喋りOKがコモンセンスな国もある。めちゃくちゃ厳しい異常者だと①~⑧すべてNGという人も存在するのかもしれない。
どこをOK/NGと見なすかは人によりけりで、ただOK/NGの割合の多さで「この辺が一般的なラインかな」がぼんやりとあるのが現実になっている。OK/NGの回答割合で色付けしたら⑤をピークとしたグラデーションができる。OK範囲は人それぞれでバラつきがあるけど、自分が思う範囲を「世間の常識」だと本気で信じている人も多そう。
⑥エンドロールの時間も、映画をよく見る人はスマホおしゃべりNGが「常識」でも、たまにしか行かない人だとOKと思っている人の割合も案外多いのかなと想像している。属性によって常識が変わるというか。それでちょくちょくSNSでその話題がぶり返されるのかもしれない。
本の帯
こういう話は至る所にあって、例えば本の帯も、あれを「書籍の一部」と考えるか「あくまで販促のための装飾で本体とは別もの」と考えるか人によりけりだと思う。デザインや紙にこだわって作られたものと思うと書籍の一部だという気もするし、宣伝文句など購買意欲をあおるための文言が入っているという点では、家電や家具に貼られた宣伝シールを剥がすのと同じように、買ったら捨てるのも不自然ではない気もする。
じゃあ全面帯(本体カバーよりわずかに高さが短いがほぼ全面をカバーする大きさの帯で、新書や文庫で見かける。著者や扱うモチーフの写真が大きく入っているものなど)はどうなるんだろう。ほとんどカバーとして扱われることを想定しているようなつくりだからどっちに入るんだ、などのグレーゾーンがある。
私はずっと帯を捨てていたけれど、高専生になって書店でバイトするようになって捨てなくなった。「帯も込みで商品」「帯は絶対に必要だと思っているお客さんはかなりいる」という認識になって、自宅でも帯を取っておくようになった。ただ本棚に入れる時は邪魔なので、別に保管していた。ところが20代半ばくらいになって邪魔だなと思って全部捨ててしまい、その後はまた「帯は捨てる」運用に戻っている。
昨年に本を出して作家になってからは、時々献本をいただくこともある。これはなんとなく貰い物を捨てるのも忍びなくて帯はそのままつけている。これもたくさん貰うようになったら変わるのかも。
もっと踏み込んだ人だと書籍のカバーも捨てている。私は小学生のころ『名探偵コナン』の単行本を持っていたけれど、全部カバーを捨てていた。なのでカバー袖の名探偵図鑑は失われていた。
あれは装飾であって、本そのものではないから、買ったら捨てるのが当然だとなぜか思い込んでいた。遊びにきた友達に「なんでカバーないの?」と言われて、「あっ、捨てるもんじゃないのか」と思って捨てないようになった。古書店、新古書店に当時行く習慣があれば、「カバーがないと値が下がる=一般的にあるのが普通と思われているもの」と気付いたかもしれない。
書籍カバーは1960年代以降に一般化していったそうなので、その昔を知っている人の中には「ないのが普通」という感覚もあったりするのかもしれない。
家具家電のシール
比較対象に挙げた「家電や家具のシール」にもグラデーションがある。私は機能などをうたったシールは宣伝のもんと思って剥がすし、剥がれづらいシールで剥がし跡が残ると腹が立つ。でも貼ったまま使っている人も多い。「剥がした方がすっきりしてよい」「別にそのままでも使えるんだから剥がすのも面倒だし」の価値観の差はある。
一方で安全上の注意文の書かれたシールなどは私は剥がさないけれど、これも剥がしガチ勢は全部剥がしてるのだろう。
新車のシートにかかっているビニールカバーをつけたまま乗り続ける人がいると知った時はびっくりした。だってあれはもう完全に外すことを前提に製造されてるやつじゃん、とは思ったけど、そう思わない人だっているということなのね。
家電のアクリルパネルや金属面などの傷つきやすい箇所に貼られているビニールの保護シートは、剥がさないままの人も結構多いから、その延長上とも言えるのかもしれない。「えー、だって自動車のシートは体が触れるとこだし気にならない?」と思ってしまうけど、それは私の「常識」でしかない。
「常識」が定まらない領域
しばらく前に、「メゾンマルジェラのスーツの背中の仕付け糸をお母さんが切ろうとしたら、息子に大激怒された」話が話題になった。あれは知らなきゃ絶対取りそう。「ダメージジーンズをきれいに縫い上げてあげる」に近い。
ブランドの思想として、商品にブランド名は出さない、タグを仕付け糸でつけているだけだから外して使ってもらえればいい、ただ良いものであればそれで良い、という考えから出発して(堤清二が無印良品の創業に込めた思いとそっくり)、その仕付け糸がブランドアイデンティティになって「マルジェラの証なんだから取らないで!」と反転していったという。
一方でそれを知った上で外すという人もいるので、知らない人は外す→初級者は外さない→通は外す、みたいな流れかというと、そこまで単純でもなく、ハイブランド製品をどう捉えるかという価値観の話なので、よくよくそこまで知った上でやっぱり外さない、という人もいるだろうし。
一つの「常識」に収斂せず、グレーゾーンとして残っていく領域もある。
色んなところに「常識」の衝突があるなと思って探すと面白いかもしれない。
いきなり怒る人こわい
それはそれとして、いきなり怒る人は怖い。
映画の話も「スマホを使わないでくれると助かる」という言い方ではなく、「おいお前!」のトーンでいきなり来るから怖い。電車でも腕が当たった、座席をはみ出してるなどでトラブルに発展する場面を見かけることもある。
これは何か不快なことが発生した時に、その「不快さ」を絶対視する、前提として扱うことで起こる。不快さを感じたとして、「この自分の負の感情は正しい」と見なすと、その感情を発生させた要因は「間違っている」と見なさざるを得なくなる。
映画の人も、感情を相対化させられれば、「スマホの明かりが気になるな」と思っても、「まだ真っ暗じゃないし、企業CMやってる時間だから、この人にとっては上映時間だとは思ってないのもまあ分かる」と考えて、「スマホ消してもらえると嬉しい」くらいのトーンで言うか、何も言わずに受容するかできただろうと思う。
でも感情を絶対視してしまうと、「この時間も上映時間のはずだ」「少しでも暗くなったのだからスマホは消すべき」「それが常識のはずだ」「なのにこいつは身勝手に他人へ迷惑をかけている」「許せない、許すべきではない」という方向に感情を正当化する理屈を繋げていってしまう。私は正しい/こいつが間違っているの理屈を見つける→怒り→さらに理屈を見つける→怒り、と怒りが増幅されていく。
比較的日本の社会が「私が我慢している以上、お前も我慢しろ」「楽してるやつは許されない」「誰か一人が得するくらいなら全員損した方がマシ」の価値観をベースに動いているのと繋がっているのではという気がしている。
ダメージコントロール
そうした人に出会った時は、黙ってその場を離れるか、離れるのが難しければその人の不快源を黙って除去するようにしている。反論はしないけれど、謝りもしない。かえって謝るとさらに相手がエスカレートしてくる時もある気がして。
そりゃこっちだって「えー?」って気持ちはあるけれど、刺されたくない。ひたすら被害者意識で他者への怒りを溜めこむタイプの人は一定数いる。そういう人と言い争っても、相手が納得してくれて妥協点に至る可能性は低い。言い争えば相手はますます「自分は正しいのにこいつが」になっていく。さらに恨みを募らせて、最悪刺されたりする。絶対に嫌だ。SNSだと「正論でぎゃふんと言わせてやった」系の話がバズったりもするけれど、それで死にたくない。
そうした破滅的なケースに至らなくても、言い争いになるとその後も気持ちを引きずってしまって本当に嫌になってくる。言い争いになれば、こっちも「自分の方が正しい」ロジックを積み上げ始めて、相手が受け入れなければより大きな不満になる。ストレスコーピングの側面もある。
一方で自分が納得していないのに相手の言い分をスルーするストレスの方がでかすぎて苦しくなってしまう人や場面では対決すれば良いとも思う。行きずりの人ではなく、親族や知人、職場の人など関係を継続する必要がある場合も、スルーでは解決できないし。
初手ギレ人への教育?
この前マクドナルドにいたら、隣の席のじさまに「お前貧乏ゆすりやめろ!」と周りの人がびっくりして振り向くくらいの大声で怒鳴られたことがあった。自分も隣の人が貧乏ゆすりや、髪をずっといじってたり、ペンを回してたりすると気になる時もあるから気持ちは分かる。ただ何かに集中してると完全に無意識にしてる時があるのも分かるから、私は他人には何も言わない。
この時もすぐに席を立って、別のフロアに移動した。
たぶん私は「言いやすい」ないし「舐められる」見た目をしているのかと思う。大柄でもなく、いかつくもなく、タトゥーは入っていないし、「外国人っぽい」見た目でもない。よく女性や子供が怒りの対象にされやすいという話もある。言いやすい、返り討ちに合わなさそうな人に「正しい」怒りをぶつけてくる面はあるのだろうと思う。
しっかり言い返す人がいるおかげで、「見た目が言いやすそうでも返り討ちに合う」可能性を初手ギレ人にも認識させて、失敗体験をちゃんと積ませているのだとしたら、世直しコスト、教育コストをその人達に負っていて、回避する方針の自分はフリーライダーなんじゃないかという気もして申し訳なくなってくる。
ただそれは「初手ギレ人は失敗体験を積むことで被害者意識=自己正当化の正義感を捨てて、妥当な現実認識に転換する」という前提を正とした時に成り立つ話なのだとすると、必ずしもそうではないのでは、という気もしている。
むしろ「初手ギレ人は失敗体験を積むと、世界はやはり間違っていて自分を攻撃している、という認識を深めてしまう」も十分に成り立ちそう。
みんなご安全にだよ。
年齢を重ねてくると前頭葉の働きが弱くなって(?)感情の抑制が効きにくくなるともいう。
そうだとしても、常識のグラデーションを意識して、自分の感情を絶対視せずに相対化することで、怒りのスパイラルに巻き込まれずに初手ギレ人に自分がならずに済む方向には働くのかと思う。自分もジジイになってゆくので、いろんなとこにある常識グラデーションを見るようにしていこうと思って。
以下は投げ銭がわりの設置です。お礼だけが書かれています。