異なる時代、異なる土地、異なる物語のなかで、ひとりの俳優が紡ぎ出す、感傷に満ちた二つの傑作。『イングリッシュ・ペイシェント』(監督:アンソニー・ミンゲラ、1996年)と『ナイロビの蜂(The Constant Gardener)』(監督:フェルナンド・メイレレス、2005年)。
『イングリッシュ・ペイシェント』でもっとも息が詰まるのは、キャサリン(クリスティン・スコット・トーマス)が死んでいく、あの洞窟の場面である。
女がどれほどの孤独と恐怖を味わいながら、自分を待ち続けていたかを、男が想像することを想像するだけで、胸が締めつけられる。
自分を待っている女のもとへ、命がけで戻ろうとする男。そして、戻れなかった男が、死にゆく最期のときに、誰を思い、何を悔いていたのか。
この男の後悔は、『ナイロビの蜂』にも通じている。
失った人(レイチェル・ワイズ)のことを、失ったあとでしか知ることができない男の哀しみの物語だ。
俳優レイフ・ファインズの表情は、激情を表に出さない。彼の演技は、観るものに感情を押しつけない。
『イングリッシュ・ペイシェント』と『ナイロビの蜂』は、どちらも、回想によって物語が組み立てられる。
時間は過去と現在を往復し、出来事の順番が揺らぐ。だが、それは記憶の自然な姿でもある。順序立てられた物語ではなく、断片が浮かび、別の断片とつながることで、観るものは、真実の何かに触れた気がしてくる。
そして、その断片が集められた先に見えてくるものは、ひとつの出来事ではない。
失われた命、壊れた愛、そして最後には、男のなかで、自分が何者であったのかすら曖昧になっていく。
『イングリッシュ・ペイシェント』の魅力は、キャサリンへの恋慕の描き方にもある。
アルマシーは、たいして二枚目でもない。社交性にも乏しい。けれど、そんな男に、キャサリンが惹かれていく。不思議なことに、そこに違和感がない。
街なかでアルマシーがキャサリンのあとを追う場面にも、いやらしさがない。この自然な没入感が、この作品の醍醐味である。情熱を語るセリフよりも、キャサリンが男に返す笑みや視線が、その思いを雄弁に物語る。男の視線は所有欲ではなく、むしろ抑えがたい引力のように映る。
人はなぜ、あんなふうに誰かに惹かれてしまうのか。