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例: 全ての男は獣などと言葉通りの意味での獣を自称するならば自ら檻に入るべきです。 獣が文字通りの意味ではなくても男性の責任は回避できませんし、被害者の責任を追求もできません。 一般に言われる自衛は意味がないことが研究で明らかになっています。 明確に有効であるという根拠もないのであれば 女性の行動制限や被害者の責任追及(いわゆるセカンドレイプ)につながりやすい言説は避けるべきです id:apesnotmonkeysさんがd:id:apesnotmonkeys:20091208:p1にて書かれたように「男が獣ならば獣は檻に」は皮肉です。 議論における皮肉は異なる視点をわかりやすく提供してくれますが、いくつか欠点も持っています。 (1)前提や雰囲気の欠如などで皮肉として伝わらないことがある。 (2)比喩表現や簡潔さ故に誤った解釈をされやすい 故に、皮肉で議論が解決するのは問題がシンプルかつ致命
『AERA』2009年10月12日号(朝日新聞出版)の対談記事「勝間和代×香山リカ〜『ふつうの幸せ』に答えはあるか」より。構成は小林明子さん。 【勝間和代:香山さん、家事は好きですか? 香山リカ:好きじゃないです、全然。 勝間:私、好きなんです。洗濯物がパリッとなったり、お皿がピカピカになったりするプロセスが大好き。自分の行動で物が変化するって、楽しくないですか。だから私、ご飯を食べて「ああ、おいしい」と思うだけで毎日が幸せです。今日も昼間、子どもの友達とお母さんがうちに遊びに来たんですが、デリバリーでとったサンドイッチがおいしくて、幸せでした。 香山:ご飯で幸せになれるんだったら、別に仕事で成功したり、資産を増やしたりしなくてもいいんじゃないですか。 勝間:おいしいご飯のためには、そこそこの経済力とスキルが必要です。いいレストランが判断でき、素材を吟味できたほうがいい。使いやすいお玉や粉
小学生の頃の私のあだ名は「歴史博士」に「漢字博士」。 私の特徴を何人の子に聞いても、「勉強できて真面目」「えー真面目」「真面目な人」。 それ以外の、「明るい」とか「面白い」とか「楽しい」とか、そんな、一般的な無邪気で子供らしい特徴は、ひとつも、ひとっつも、出てきたことがなかった。 長い間、勉強なんて出来なくてもいい、天真爛漫で、明るくて可愛い人に、なりたかった。 日ごろ意識してるつもりはなくとも、「明るい」とか「面白い」とか「楽しい」とか言われるのが、私の人生の目標の一つだったともいえる。そんな気がしてきた。ここ近年。 正直、「真面目」しか言われないということは、「あんた、オモロないよ」ということであり、友達失格といわれている気がして、長い間、悲しかったんだなと、最近、過去を振り返ってみて、そう思ったよ。 おかげさまで、大学時代以降、徐々に、「チャラチャラしている」とか、「ヘラヘラしている
友人とちょっと話してて、最近すっかり忘れてた問題を思い出した。 日本人って自分と違う人を珍しがるよね。 あのな、俺たちゃ珍獣じゃないんだよ。お前らに珍しいものが来たとパンダみてーな扱いされるために生まれて来たわけじゃねーんだよ。 だいたいてめーにとって珍しいからって世界的に珍しいわけじゃねーだろ? 俺みたいなやつは世界中ごろごろいんの。パンダほど希少種じゃないですから。 要するにあれだ。俺がもの珍しく見えるってのは、てめーの世界の狭さを示してるんだよ。そんなに狭い世間で生きて来たこと告白しなくていいですから。 いやでも理解は出来る。だって日本人って同じような人ばっかだもん。そりゃちょっとはずれただけでパンダみたいに珍しがりたくもなるよな。 けどおまえにとってはごく希なイベントでも俺にとってはほぼ毎回あるイベントなわけで。 いい加減飽き飽きするっつーの。いやそのネタお前が考えたのかもしれない
「気配」に「殺気」、「気分」と、日本語には「空気」にかかわる言葉が多い。場の空気をキャッチする感性を涵養する文化だといえるが、翻って空気に支配されやすい環境ともいえる。 かつて、作家の山本七平氏は著書『「空気」の研究』などで、日本人の行動原理を「日本教」によるものと定義し、その支配秩序を「空気」が握っていると喝破した。また、政治学者の丸山眞男氏は天皇制を「無責任の体系」と呼び、権力が消失する点を衝いた。これらは空気支配の証といっていいだろう。 「空気」は過去にも論じられていたものだ。だから、ここに来て「KY」(空気が読めない)という語が持ち出されたことに、ある世代より上ならば今更の感を覚えるかもしれない。 しかし、日本人の原則が明らかにされたところで、「空気」の支配力が衰えたわけではない。むしろ、いま改めて「空気」が問題になっているということは、それなりの理由があるものと考えられる。 今回
現実味を帯び始めた「サバイバル」に対する反応で「努力をしない人間は滅びればいい」というものがありました。 昔は私もバリバリその発想で「努力をしない人間はクズ」という趣旨の発言をしていたような気もしますが、最近はあまりこの発想にならなくなったような気がします。 努力をしていない事を見抜くのは難しい 「何かをしている」事を発見することと比較すると、「何もしていない」事を発見するのは難しいです。 「何もしてないんじゃないか?」という事を推測することは出来たとしても、それが濡れ衣である場合もあります。 実は隠れてコッソリ努力をする事が美徳の人なのかも知れません。 そして、濡れ衣だった場合は双方とも嫌な思いをするだけです。 情報が欠落しているだけではないか? 「コイツ努力してない」と思っている相手の家庭内で家族が倒れたり病気になっていたと後になって知るようなこともあります。 そのような場合、厳しい態
「勉強ができる」というのは別に蔑称でもなんでもない。蔑まれたと感じるのは、そう思い込んでいるだけだ。被害者意識をこじらせた結果である。 こういう記事があった。「勉強ができる」という蔑称 - 理系兼業主婦日記それ以来、私には「頭のいい子」という称号がついて回った。賞賛の意味でそう呼ばれることが多かったが、「変わってる」「すかしてる」という意味での蔑称として呼ばれることもあった。だから、私は「頭がいい」と言われることが、どうしても好きにはなれなかった。「まじめ」「いい子」という呼び名も、同じ意味で嫌いだった。 そう言って、この人は「頭がいい子」というのが蔑称であったと主張する。そうしてそれは、勉強ができる子に特有の問題だとする。日本には、勉強ができる子を蔑むような風土があって、それで自分は苦しい思いをさせられてきたし、また他にもさせられている「勉強のできる」人々がいると。 確かに、そういう場合
わたしテレビは殆ど見なくて、見るとしても教育テレビくらいなんだけど、昨日ふとテレビをつけたら『ハートをつなごう』という番組でゲイ・レズビアンが話題になっていました。途中からでしたが、わたしがもっとも感じたのは、出演してる人たちがすっごい人格者だなー!ということです。 わたしが見たのは、母親にゲイだということがバレて、それから受け入れられた、というようなお話。そして、これから自分の住む島の人たちにカムアウトしてわかってもらう、というようなことも話していて。あと、友だちはすぐフツーに捉えてくれてよかった、みたいなことと。 ホントさー、異性愛が「普通」で「標準」で「人はみな異性愛のはず」という「前提」が繰り返されるなかで暮らしてるから、異性愛じゃないとめっちゃ苦労するよね。「受け入れてもらう」とか「わかってもらう」とかそういう仕事まで一方的に背負わなきゃならなくて、すっごいもどかしいと思う。っつ
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