景色と分かち難くつながっている まだ見ぬ価値を言葉に込めて「からだ⇄世界」(21)ローカルに生きる

最寄りの空港から自宅のある島根県浜田市へ車を走らせると、赤茶色の石州瓦(せきしゅうがわら)の屋根が視界に入ってくる。県西部の石見地域で生産される粘土瓦の色彩に触れ、ふるさとに戻ってきたと心が安らぐ。ローカルジャーナリストの田中輝美(たなか・てるみ)(49)にとって、この景色と自分の身体は分かち難くつながっている。ここから離れられないと感じる。

■当事者でない
浜田市で生まれ育った。大阪大を卒業後、1999年に島根に戻り、地元紙の山陰中央新報に入社した。記者の仕事は激務だったが、楽しくて仕方がなかった。机の上に栄養ドリンクを置き、寝る間を惜しんで働いた。
仕事に慣れてきたころ「町づくりの市民団体に入りたい」と上司に相談すると「入ったら書けなくなる」と諭された。記者が当事者として記事を書けば権力の乱用につながる。その危険性に気付かせてもらえたのはありがたかったが、「当事者として景色を見てみたい」という思いは簡単には捨てきれなかった。
あるとき、同業他社の知人から「記者より面白い仕事を見つけた」と告げられた。酒蔵への取材を通して酒造りの魅力を知り、杜氏(とうじ)になる道を選ぶのだという。第三者として誰かを取材する記者ではなく「自らが当事者になる」という生き方はまぶしく見えた。
転勤で東京支社に配属されると、周囲の人の島根や地方への関心の薄さに驚いた。東京から見れば地方は存在しないも同然なのか。悔しかったが、当時は今ほどSNSが普及しておらず、興味を持ってもらう仕組みができていなかった。自分自身、島根の価値をどれほど記事に書いても、県外に届ける手段はなかった。
島根の人たちも「地方は都市に追いつかなければ」という社会の価値観にさらされて、自信を失っているように見えた。都市と地方の上下関係を変えるには、地域に暮らす人に向けて書くだけでは不十分だ。東京にも情報を届ける必要がある。その課題に挑戦してみようと、2014年に地元紙を退職した。

■過疎の先進地
当事者になれない寂しさはあっても「言語化されていない価値を言葉にする」というジャーナリストの仕事には意義を感じていた。地方を専門にするという意味を込めて「ローカルジャーナリスト」を名乗り、フリーランスで活動を始めた。
仲間とともに2020年、雑誌「みんなでつくる中国山地」を創刊した。何もないと言われがちな中国山地に、新たな価値を見いだそうとする人々の営みを、当事者と一緒に記録していく。
「百年間続ける年刊誌」をキャッチフレーズに、創刊号では「過疎は終わった」と銘打った。国勢調査の2020年と1920年の比較で、人口が減ったのは全国で島根県だけ。縮小していく日本の処方箋は中国山地にあり、一極集中とは違う小規模分散社会の構想ができるかもしれない。「過疎発祥の地」だからこそ、人口減少時代にその対策の先進地になりうる。地元にしかない知見や経験を集めて編集し、全国にシェアしたいと考えた。
地域に生きる当事者であるのがローカルジャーナリストの強みだ。半面、日々の自分の暮らしぶりは地域の人にも見られている。マスメディアのように「取材する者」と「される者」という分かりやすい線引きはない。
記者会見でどれほど気の利いた質問ができたとしても、地域で利己的に振る舞えば、長続きする信頼関係は生まれない。

■原風景の建物
小学校低学年だった1980年代初め、週末や夏休みになると祖父母の家に預けられた。浜田市の中心部から車で中国山地側へ30分ほど行くと、金城町美又(かなぎちょうみまた)地区に着く。
祖母に手を引かれ、獣道を歩いて約2キロの農協の支所まで駄菓子を買いに行くのが楽しみだった。坂道を登り切ると、高台からその美しい木造建築が見える。石州瓦の屋根が、同じ色の周囲の建物に溶け込んでいた。近所には多くの店があり、そこに集う住民から「お嬢ちゃんよく来たね」といつも声をかけられた。
だが、地域で親しまれてきた築80年超のモダンな建物は長らく空き家状態が続き、解体の危機にさらされていた。
「昔はこの場所に来ればみんなに会えた」という地域住民の思い、そして自分にとっての原風景を守るため、クラウドファンディングや私財も投じて改修費を捻出した。
2024年に「美又共存同栄ハウス」としてよみがえり、地元の大学生や地域内外から宿泊者が集う拠点になりつつある。
ローカルジャーナリストになっても、やはり当事者にはなれない。しかし人々が集う場をつくり、地域の大切な価値を語り伝え、人と人とをつないでいくことはできる。「この土地が私を形づくってくれた」という小さな気づきを、そこかしこで受け取りながら。

【取材後記/欲張りな記者】
さまざまな分野の人に会える記者の仕事は刺激的だ。その半面「主役」の活躍を傍らで見ていると、他人のことばかり書いている自分に不全感を覚えることもある。田中輝美(たなか・てるみ)さんは地方紙時代に新聞協会賞を受賞した経験もあるすご腕記者だ。彼女も同じ思いを抱えていると知って安堵(あんど)した。
30代に入るころ「ジャーナリストとして寂しさを抱えながら生きていく」と決めたという。取材する対象はどれも魅力的に感じられ、とても一つだけを取り出すわけにはいかない。欲張りだから、当事者になれない宿命は引き受けるしかない。
地域創生の鍵とも目される「関係人口」で博士論文を書き上げ、島根県立大では准教授も務める。学生たちにジャーナリストの面白さを伝える姿は、当事者の人生そのものに見えた。

(敬称略/文は共同通信編集委員・名古谷隆彦、写真は共同通信編集委員・今里彰利/年齢や肩書は2025年5月24日に新聞用に出稿した当時のものです)























