ここで小泉がちゃんと防火手袋をして栗を拾ってるのがミソで、小泉という奴らは空っぽのカリスマだからそれをしてても『お、神輿に担がれて言わされてんだな』と認識してもらえる。そこまで考えない人は『キャー!カッコイイ人がカッコイイことをやってるワ〜!』となる。
親小泉がそこまで責め立てられてないのもあの親のプロモーションの上手さである。
なんなら『ウゥ…こいずみしゅしょ…痛い中でも頑張ってしゅしょしてた…ウッ…🥺』という認識が潜在的にある。
あの時代の否定に大事なのは「は?別に痛みなんて要らんかったのだが?」だし、まぁ年月も経てばその主張も忘れる。
忘れるし、同じような疑わしき既得権益を認識しながら、未だにそれをどう名付けたらいいかわからず、小泉が“痛み”と名付けて、それに感化されて“痛み”として受け取って、“痛み”として破壊してもらおうとする。
別に何も変わらんでしょって
国民の言うこと聞く気ないから『あ、国民の言うこと聞けない公的な組織だ、破壊しなきゃ』ってされるんでしょって。
国民が大変ですって時に「じゃあ僕達が下げます!」ってクソデッケエ声で言えないプロモーションしかできない、そういう能力も残ってないから破壊されるんでしょって。
だから“痛み”と呼ばれる原因になる。
火中の栗になる。
そして我々は小泉に拾われた火中の栗のその熱さに付き合わされることになる。
それが善にせよ悪にせよ、良きにつけ悪しきにつけ。
国民が困ってる時に動けなかった組織だからグチャグチャに踏み躙られることになる。
そして、そのグチャグチャになったものの責任を小泉は取らない。
だから火中の栗を彼らは拾う。
熱さどころか、火中の栗はちゃんと爆発するのだから、まぁせめて彼の任期中に爆発してくれない方が、彼の家系の今後の評価為でもあるかもしれない。
だが嫁は栗捨てる
拾った後に冷静な嫁がしれっと捨てて後ろにいる奴らがアチチアチ燃えてるんだろうかになる。それが彼女のおもてなし。これらのやりとりには裏しかないということ。