はてなキーワード: 碇シンジとは
僕は!エバンゲリオンパイロット!碇シンジです!!!って言った矢先、旧劇になって死にたくないよ~みんな仲良くしようよ~ずっとネチネチしてるの思春期っぽくてホント良かった。
旧劇のポスター見た?ホント今じゃ真似できないデザインだと思うよ。ほんとキてるよなー最高だよ。 → https://static.mercdn.net/item/detail/orig/photos/m64504234122_1.jpg?1744110113
それがシンになって思春期の少年を書けなくなった時点でエバは終わりって言うか別物だよな。別の作品。以降のポスターみても綺麗にまとまっちゃってて旧エバのグチャグチャさを知ってるとアレ?って感じ。コレジャナイエバ
碇シンジやサイタマが弱者男性とか、冷やかしとかアオリのつもりで言ってる?
弱者男性は結構誤解されがちで、たとえばカネがない人が即、弱者男性のように思われたりしてる。
だけど厳密には、2つの要素が不可欠だ。
❶ 情けなさ
何か社会環境の被害者ではなく、自業自得による敗残者でなければならない
❷ かわいそう度の低さ
その上で、救ってあげたくなるキュートさを持っていてはいけない
サイタマの鬱憤は ❶情けなく はなくて同情の余地があるし、碇シンジは ❷ かわいそう度 がむしろ高い。「あなたはもう、何もしないで」なんて言われてるのをみたら観客の方が泣きたくなるわ。
なんかガンダムだけ好き勝手いじって終わりだったらカラーの面々も後味悪いんじゃない?
だからさ自分たちの作品もいっしょに混ぜてグチャグチャにすればよかったんだよ。
なんかさコロニー落としとかで連邦が白旗あげそうになって南極で講和条約を結ぶべく、
下交渉をしてるときに偶然アダムが見つかってセカンドインパクトが起こるところから始まるとかさ。
とかなんでもいいんだけど、もっとガンダムミーツカラーを濃厚に醸し出すような構造にすればよかったのに。
ジャンがガンダムの整備してる横でナディアがブツブツ文句言ってても良かったし。
でもそういう構想もなくはなかったのかもな、って思えるのがグラタン一家見たいなのが出てるところだよね。
なんか庵野作品の大甲子園とガンダムを混ぜるような構想もあったんじゃないひょっとしたら。
前にも書いたけど、いとうしゅうじ、とかどう考えても、渚カオルだしさ。
あれララァを幸せにするために何度も世界をリセットしてるんだけど、
まんま碇シンジを幸せにするために世界を何度もリセットしてる渚カオルと一緒じゃんかさ。
だからさ、ひょっとしたらそういう構想もあったのかも知んない。
とりあえずガンダムと使徒が戦うとかさ、そういうのも見たかったし
もうだれもエヴァは止められない、とか言った次の週にアナハイムの工場で普通に整備されてるエヴァとかも見たかったし。
ガンダムイフじゃなくて、ガンダムに庵野世界が交じるほうが良かったと思う。
やっぱり結局、カラーと言えどガンダム病には勝てなかったんだな。
ガンダム病、っていうのは、「これはガンダムだから真面目に作らないといけない」という病のことな。
いや、あれあのサンダーボルトとかなああいうのとかは肩の力抜くんだけどな、
あのナンバリングタイトルではないけど(ガンダムにはナンバリングがないから)実質的にナンバリングタイトル的なポジションを作るときのサンライズの悪い癖な。
ああいうのが伝染しちゃって結局、悪ふざけしてるようで全然出来ていない、それがガンダムジークアクスという中途半端な作品だと思う。
あるいは
シン・エヴァにおいては
渚カオルは何度も何度も何度も世界をリセットして同じことを繰り返している。
シュウジというキャラが渚カオル役として何度も世界をリセットする。
ということにも気づきを得る。
マチュとはすなわち、式波・アスカ・ラングレーを雛形としてつくられたキャラではないのか?
あの直情型で、負けん気が強く、そして何よりも「恋に生きる」ことに何のためらいもない性格。
もちろん色々と違う部分もあるが基本的な原型はアスカにあり、あとはいかにしてアスカというものから外していくかの作業を経た形にも見える。
というと
綾波レイにその原型を求めることが出来るのだろうか?
権力者の道具(碇ゲンドウ=キシリア・ザビ)として利用されることになんら抵抗を抱かない。
シン・エヴァンゲリオンにおいて
渚カオル
の三者は
駅のホームで素知らぬ顔で突っ立っている3人には
ガンダムという食材をぶち込んで煮て、炒めて、そして作り上げた。
そんな作品のようにも感じられる。
渚カオルが、碇シンジを救いたいという目的で何度も何度も何度も繰り返す世界を作り出した。
そのループの世界の中でもがき苦しむアスカは、この碇シンジという特異点がいつまでたってもウジウジとしているがためにループから抜け出せない。
でも碇シンジを救わないことには自分も救われない存在であるというジレンマを抱える。
ララァ・スンだ。
彼女を救済するために
それを終わらせようとしたのが
カオルに恋をした
アスカ(マチュ)
と
レイ(ニャアン)
ジークアクスの中で
キシリアは
当然、レイ(ニャアン)を利用して
人類補完計画(何かよくわからないが壮大な計画)を実行しようとする。
時間がない。
続きはまた書くかもしれない。
名言の状況は言われてみればそうなんだけど、文脈を切り離されて説明するのがなんかシュールだなと。
してくれないときがあるけど、差は何なのか...。
「エヴァに乗れ。乗らないなら帰れ。」
彼は、碇シンジにエヴァンゲリオンに乗ることを強要し、乗らない場合は逃げるように指示しています。
「諦めたらそこで試合終了ですよ」
要約:これは、どんな困難に直面しても、諦めずに努力し続けることが大切だということを表しています.
試合で例え、諦めた瞬間に試合が終わってしまうように、人生でも諦めずに頑張れば、成功する可能性が残っていることを伝えています.
「人の夢は終わらねぇ!!」
要約:ワンピースのキャラクター、特にルフィが大切にしている言葉として、様々な場面で登場する名言であることが分かります。
特に、ルフィのキャラクター性や、仲間との繋がり、そして目標を諦めずに進む姿勢を表す言葉として、多くのファンに愛されています。
また、ワンピースのコミックス24巻のタイトルとしても使用されています。
要約されなかったもの
「坊やだからさ」
「クリリンのことか」
先日、出先で雨に降られたので最寄り駅からバスに乗って帰った。
ちょうど二人掛けの席が空いてたので窓側に詰めて座ったところ、後から来た女性が隣に座ってきた。
日頃からはてブやXの男女論に毒されている俺は隣に女性が座ったことで緊張感が生じてしまい、女性に身体が触れないよう窓側に身体を引くような形で座りなおした。
バスが発車して、最寄りの停留所から1つ前の停留所に向かって走行中に事は起きた。
俺の肩口に女性の肩が触れたのだ。俺は焦って更に身体を引いたのだが、その引き方が少しオーバーになってしまったのだ。
その時に視界の端で女性が少し固まった様に俺には見えた。もしかして不快感を与えたか?と内心ビクビクした。
一つ前の停留所に着くと前方の一人掛けの席が空いた。
すると女性がそちらの席にさっと移ったのだが、座ってから暫く女性が妙なことをしていた。
液晶のないスマホの裏面をじっと眺める彼女の後ろ姿は、まるでイライラして爪の先を眺める女性の姿を思い起こさせた。俺のビクビクが加速した。
特にその後何かあったわけでもなく、女性もやがて液晶のある面を眺め始めたのだが、あれから時間が経ったことで、一体あれは何だったんだという気持ちがムクムクと勃起してきている状況だ。
俺の頭の中のえなりかずきと碇シンジくんが「だってしょうがないじゃないか!」と叫ぶのだが、一方で女性に不愉快な思いをさせたとしたら?という疑念とその疑念に対する罪悪感もある。
それをそのままの形で己の作品として発表すれば悪評を得るだろう。
ではここでその諸問題、「なぜ文章のパクリは忌避」されるのか。
それについて考察しようと思う。
そこで私がその作品から、富士山に対する描写をそのまま引用すればパクリとされる。
それはその「文章」を無断で引用したことを咎められるのであって、「富士山」そのものを流用したこと事態に問題は生じない。
すなわち「富士山」との表象を描写すること自体には、「パクリ」とする概念が存在していないのである。
ここで述べたいことを平易に、そして換言すればこういうことである。
なぜ文学作品の文章を光景として捉え、その文章を描写することは禁止されるのか?
ということである。
詭弁的に述べれば、こういうことだ。
「私はその文章をパクったのではない、私はその文章を光景として読み取り、私が感じたままにその文章を描写しただけである」
その理由こそが、この諸問題としての根源的なものであり、すなわち「パクリ」という行為は、文章を盗む行為ではない。
それは、作者の感性、思考を盗むことに他ならず、端的にも形而上学的に述べれば、それは作者の「魂」を盗むことである。
つまり、富士山としての描写自体に「パクリ」としての表象が生じないのは、富士山としてその表象を捕らえた際、そこには個々人において異なる情動、思考、感性が働くことに由来する。
自分が認識した事象を正確無比に相手に伝えるのは不可能である。
なぜなら知覚した事象を言語化する際に、ノイズが生じることは不可欠だからである。
仮にこうしたコード化によってもノイズが発生しないのであれば、それは他者と自己を境界線が存在しないことに成り、それは他者の存在を消失させてしまうことにつながる。
よって、他者としての存在とその存在性の認識こそが自己認識における伝達として生ずるノイズとしての証明であり、故に完璧な意思疎通は不可能である。
実際に自分が認識したものを完全に換言するのもまた不可能である。
ここで本題に戻ろう。
彼らは実際、事象に対する見事な描写に評価を与えるのではなく、
仮に富士山としての事象、光景が、文字として表せるコードとして定義化されたとしよう。
すると橙色をR132・G90・B18として示せるように、富士山も同様に共同認識のコードにより共通の形で表記することができるだろう。
その際において、富士山を示すコードを流用しようと、橙色の場合と同様、そのコードを”パクリだ!”と批判されることはないだろう。
文章の引用、パクリとされる行為は文章を盗むのではなく、作者としての”ノイズ”を盗むのであり、人は意思の疎通として害となる、その”ノイズ”に価値を置いている。
人間は巧みに描写された事象を求めて作品としての文章を読むのではない。
それは正確さに欠ける、個々人として個人的な感性と称される”ノイズ”を読む行為に他ならないのだ。
つまり、人はノイズを読み得ようとすると同時に、その”ノイズ”の出処を正確に知ろうと欲するためである。
それはすなわち、”ノイズ”の正体が判明しておらず、その”ノイズ”としての概念自体をアニミズム的にも崇高する謂れを持ち得ているからである。
これこそ換言すれば、
「逃げちゃ駄目だ、逃げちゃ駄目だ…」
今までのシリーズもピン・キリだったと言えばそうなんだが、ドラマが酷い時は怪獣パートの比重高めてたから耐えられた。
でも今回は怪獣パート少なめでドラマパートメインなのにドラマパートが酷いからもう目に余る。
時代背景を無視して超現代人的価値観で語りまくる登場人物、致命的に語彙力のないセリフ、挙げ句重要な場面ではついに全ての語彙を失い泣き崩れる始末。
せめて「説明的ではあるが芝居がかった面白みがある」「リアルな言葉のキャッチボールで芝居臭さがない」とかにして欲しい。
芝居臭くて、表現が陳腐で、説明的で、戦後が舞台とは思えないような喋り方をしてくるってのはもうマジでしんどかった。
とにかくドラマパートの大部分がカメラを止めるな初見の前半ばりにしんどい。
なんとか我慢できるのは学者と艇長の演技ぐらいで、他はもう演技指導が悪いのか役者が悪いのか、そもそもの脚本がしんどすぎて読んでる側も「こんなんどう演技してもゴミみたいなドラマパートにしかならんわ」とあきらめムードなのか、とにかくキツかった。
怪獣映画における人間パートなんてホラー映画における退屈な恋愛シーンみたいなただのツナギの前フリでしかないと言えばそうなのかもだが、それにしたって全体の比重がデカすぎる。
とにかく登場人物が全体的に幼く、その中でも主人公がぶっちぎりで子供っぽいのがしんどい。
そんな主人公が特攻とヒューマニズムの折り合いをつけた道を探る物語として全てが構築されているのは分かるが、そこまで一人の兵士にフォーカスしてしまったらもうそれはゴジラじゃなくてエヴァンゲリオンだ。
たとえばこれが庵野が作ったシン・ゴジラ-1.0だったら「はいまたいつものヤツ。コイツはほんま……」で終わるんだが、なまじ別の人間がやっているだけに諦めきれねえ。
一人の人間に向かって運命が収束しすぎていることのおかしさに気づいて止められる人は誰も居なかったのかよ……。
まあそれでも、台詞回しの表現力がもっとずっとマシだったらそれなりに形になったのかも。
子供でも分かるようにを意識しすぎたのかペラッペラな台詞回しに加えて碇シンジ型の物語構造という組み合わせが、まるで子供向けの冒険ファンタジーを見せられているような気分にさせられてしまう。
ゴジラはよかったよ。
でもドラマは酷かったと思う。
マジで。
これを高評価してるしてる人はどうやってこのドラマの酷さを乗り越えたのか教えてくれ。
「加点式で評価してるからゴジラがオッケーならそれでいいんだ」って感じとは思えないのに高評価してる人がたまにいるのマジで気になる。
碇シンジみたいなところはあるよな
1945年。突如発生した「セカンドインパクト」と、正体不明の生物「使徒」によって、第2次世界大戦は意外な形で終結を迎えることとなった。
ただ人を狩る人類の天敵、使徒。人はそれが何であるかを理解する前に、まず自身の生存のために、天敵と戦うことを余儀なくされたのである。
それから、50年。
人類は圧倒的な戦力差の前に敗北を続け、遂にユーラシア大陸から消滅。人類の生存圏は南北アメリカ大陸の一部、アフリカ南部、そして日本のみとなっていた。
1998年、使徒は遂に日本上陸を開始。九州南部の八代における、陸軍のほぼ全力にあたる48万の人類と1000万の使徒軍との戦いは、焦土作戦により一応は人類側の戦術的勝利に終わるが、同時に30万以上の将兵の損耗という壊滅的な損害を被る事になった。
一つは、九州中央に位置する熊本県を要塞化しての絶対防衛線の設置。もう一つは、14歳から17歳までの徴兵規定年齢に達していない子供たちの強制召還。
学籍のままかき集められた「学兵」の数は十万人。これを即席の兵士として熊本要塞に投入し、本土防衛のための「大人の兵士」が練成されるまでの時間を稼ぐ……。
これら少年兵のほとんどが99年中に死亡すると、政府はそう考えていた。
物言わぬ使徒との戦争に飲み込まれた子供達。その内の一人、「5121戦車小隊」に配属された人型戦車のパイロット候補生の少年碇シンジを主人公として、物語は幕を開ける