はてなキーワード: 仮定とは
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サザエさんでいう波平とフネのような金と家事育児のスポンサーがいなくなり、人生で最も貧しく、最も忙しい時期に婚活や出産をすることになる。
出会うための金と時間がない。経営力の優れた経営者は労働者を薄給で長時間使い倒す。資本主義は利己的な人間へ順風を吹かせ、利他的な人間へは逆風を吹かせる。
75歳以上の老人の医療費は1割負担である。病院(特に救急科)は老人だらけである。老人の不自然な長生きは、若い層に社会保険料や年金という形で負荷をかける。
ここでいうフィクションは、アイドルやアダルトビデオも含む。現実よりフィクションの男の方が清潔で無害だし、現実よりフィクションの女の方が都合よく裸になってくれる。現代は、歴史上で最もフィクションが性的である。
潔癖な性教育。
SNSでは美形ばかりシェアされるので、美形の基準が上がり、その基準以下の人が魅力的に思えない。
技術の発展によって、コミュニティを形成する機会が格段に減っている。転勤などで知らない土地へ来たら、職場恋愛かマチアプくらいしか出会いがない。
マチアプ、候補が多すぎる。実は、1000人の異性の中から理想の相手を選ぶより、10人の異性の中から理想の相手を選んだ方が満足度が高いのではないだろうか?
女は大した労働をせずとも、男は大して家事育児をせずとも、これまで20万年ほど狩猟採集時代をうまくやってきたのに、ホモサピエンス史上初のジェンダーロール禁止社会になり、男女どちらも悲鳴を上げている。
女性は大学生活中や社会人1年目で妊娠してはいけない風潮があるのか、大卒だとどうしても出産は25歳くらいになる。口にしたら人でなし扱いされるからみんな口にしてないだけで、実際、これから子供を2~3人作ると仮定すると、25歳の女性ってストライクゾーン外れるギリギリである。マチアプで出会って1年かけて関係値を紡いでいくことを考慮するとギリギリアウトである気もする。
あと、男女がどちらも立派な職についていると、相思相愛になったとしても引越しのコストが重すぎる。引っ越しによって通勤距離が延びることになるか、転職しなければいけない。
こんなこと口にした所でどうしようもないんだけど、みんな奥手すぎ。一度きりの人生を大切にしすぎ。
なんでみんなこんなのに平均300万払ってるんだよ。バカすぎるだろ。結婚式に300万使うくらいなら、自分の子供が一人暮らしするときに300万くれてやれよ。
というか東京が全部悪い。「競争」とかいう、当人以外にはメリットがない、モノを何も生みだしていない労働に労働時間をかけすぎ。南海トラフで東京だけピンポイントで沈んだら日本は豊かになる。
ドナルドソン理論は、反自己双対ヤン=ミルズ方程式(ASDYM方程式)のモジュライ空間を用いて、4次元多様体を扱う理論。方程式には、4次元多様体上のコンパクトなゲージ群 G を持つ主束が必要。
手法はドナルドソンにちなんで名付けられたもので、最初に1983年(単連結な G を仮定)および1987年(その仮定なし)に用いられ、ドナルドソンの定理の証明に使われた。
その後、ドナルドソン理論はセイバーグ=ウィッテン理論によって発展的に置き換えられた。ドナルドソン不変量はセイバーグ=ウィッテン不変量と比べてしばしば弱い結果しか与えず、モジュライ空間に対して追加のコンパクト化を必要とすることも多いため。それでも、ウィッテン予想やアティヤ=フルーア予想を含む、ドナルドソン理論における未解決問題は存在している。
ドナルドソン理論の位相的FQFT(有限次元量子場理論)形式は、シンプレクティック多様体とそれらの間のラグランジアン対応からなる適切なシンプレクティック圏からの関手として定式化されると考えられている。この関手は、シンプレクティック多様体をそのフカヤ圏へと対応させる。
その数値の出し方が証明されてない(お互いアルゴリズムとして正しい合意してない)結論を仮定にしてるよね。
お前らの傾向はささいなミスに対してすぐ馬鹿とかみなすを使う傾向があるということ(=典型的な白黒思考にどっぷりということ)。
そもそもその馬鹿だと言っている部分が言っている本人自身にもあてはまっている可能性が否定できないだけでなく、
「そのようなことで馬鹿だということが果たして客観的に正常な判断なのか」という問題もある。
むしろ俺が本質的に立っているのは後者の立場で前者に見えるのは副次的なもの。
たとえ言った本人自身にもあてはまっていることでも、そもそも「そのこと自身では馬鹿とは言えない」というなら、俺も馬鹿と言えなければ相手も馬鹿だということにもならない、で終わること。
具体的対象(ガロア表現・保型表現)を超えて、それらの起源的圏論的存在、つまりモチーフを考察の対象とする。
モチーフとは、代数多様体のコホモロジー理論の普遍的源泉として構成される抽象的対象であり、以下のような関手的性質を持つ。
H*: Mot_F → Vec_ℚℓ, (ℓ-adic, de Rham, Betti, etc.)
つまり、さまざまなコホモロジー理論の共通の起源圏がモチーフ圏である。
[射影:モチーフ → ガロア表現]ある純モチーフ M ∈ Mot_F に対し、そのℓ進エタール・コホモロジーは有限次元ガロア表現を与える。
ρ_M: Gal(F̅/F) → GL(Hⁱ_ét(M_F̅, ℚℓ))
したがって、すべての「よい」ガロア表現はモチーフに由来すると考えられる(これは標準予想やFontaine–Mazur予想にも関係)。
Langlandsプログラムの主張は、次のように抽象化できる。
There exists a contravariant, fully faithful functor: Mot_F^(pure) → Rep_auto(G(𝔸_F))
ここで左辺は純モチーフ(次元・重み付き構造を持つ)、右辺は保型表現(解析的表現論の対象)。
Langlands-type realization: F : Mot_F^(pure) → Rep_auto(G(𝔸_F)) such that L(M, s) = L(F(M), s)
この関手は、モチーフに対して定義される標準的なL関数(motivic L-function)と保型L関数を一致させることを要請する。
Langlands関手性は、Tannakian圏の間のテンソル関手として定式化できる。
モチーフ圏 Mot_F は Tannakian category(標準予想を仮定)。保型表現圏も、ある種の Tannakian 圏とみなせる(Langlands dual group による)。
すると、Langlands対応は以下の図式として表現される。
Tannakian category: Mot_F → Rep(^L G) via fiber functor: ω: Mot_F → Vec_ℚℓ
このように、モチーフ→L-群の表現→保型表現という圏論的連鎖に帰着される。
ラングランズ・プログラムは以下のようなテンソル圏間の関手的対応を予想するものである。
∃ faithful tensor functor F: Mot_F^(pure) → Rep_auto(G(𝔸_F)) s.t. L(M, s) = L(F(M), s)
また、群準同型 ^L G₁ → ^L G₂ により、対応する圏の間に関手的対応が存在する。
φ_*: Rep_auto(G₁(𝔸_F)) → Rep_auto(G₂(𝔸_F))
ただし――
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ステップ | 要点 | 補足 |
**1. 実績データ** | 3 例で平均 8 年、分散 4 半期程度 | SARS→MERS→COVID の並び |
**2. 趨勢の補正** | 加速(環境破壊・都市化etc.)で周期短縮 | BMJ Global Health の回帰モデルでは **10 年で出現頻度 2 倍弱** ([BMJ Global Health][3]) |
**3. 監視&技術効果** | 逆方向の力:ゲノム監視網・mRNA ワクチン基盤が “防波堤” | WHO・JHU が強調する「検出スピード向上」 ([世界保健機関][6], [The Hub][5]) |
**4. 統合見積り** | “発生”そのものは 5 〜 7 年以内が有力だが、パンデミック化は **±2 年の誤差帯**, 2027-29 中心 |
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**「確率論で 2027〜2029 年が最も怪しいが、 “外れてくれたらラッキー” くらいの気構えが妥当」**
SARS から二十余年で私たちの監視網は桁違いに強化されました。次の大波が来るタイミングを完全に当てることは不可能ですが、**備えの質**しだいで「ただのアウトブレイク」で止める未来も十分あり得ます。
それまでは少し肩の力を抜きつつ、“科学というスポットライト” が闇から飛び出す新顔ウイルスを照らし続けているか見守っていきましょう。
[1]: https://www.mayoclinic.org/diseases-conditions/history-disease-outbreaks-vaccine-timeline/sars-mers?utm_source=chatgpt.com "History of SARS/MERS: Outbreaks and vaccine timeline - Mayo Clinic"
[2]: https://mymc.jp/news/2217/?utm_source=chatgpt.com "歴史でみる感染症(SARS、MERS、新型コロナウイルス)"
[3]: https://gh.bmj.com/content/8/11/e012026?utm_source=chatgpt.com "Historical trends demonstrate a pattern of increasingly frequent and ..."
[4]: https://hsph.harvard.edu/news/next-pandemic-not-if-but-when/?utm_source=chatgpt.com "The next pandemic: not if, but when"
[5]: https://hub.jhu.edu/magazine/2025/spring/ready-for-next-pandemic/?utm_source=chatgpt.com "Are we ready for the next one? - JHU Hub"
[6]: https://www.who.int/news-room/commentaries/detail/after-covid-19--is-the-world-ready-for-the-next-pandemic?utm_source=chatgpt.com "After COVID-19, is the world ready for the next pandemic?"
🔻記事の主張
備蓄米の売渡しにおいて、業務用(外食・中食・給食等)への販売が禁止されていることに強く不満。
米穀店の多くは業務用中心であり、小売で古古古米は売れないと断定。
家計支援というより、POSデータを操作するための見せかけの政策ではないかと疑念を呈している。
政府の公式発表では、物価高騰が続く中で「家計の負担軽減」「民間在庫の適正化」が政策目的である。
「不特定多数の消費者への小売」限定は、「業務用に回して利益確保」より「消費者が安く米を直接手に入れられること」が狙い。
古古米等であっても一定品質が保たれており、値上げ続きの米価に対し「量を確保しつつ安価な商品」が必要。
利益を確保できる業者ではなく、実際の消費者に行き渡ることが重要視されている。
給食・外食・弁当などに使われれば、消費者が「安い米が出回っている」と実感することはできない。
政策効果の「見える化」には、小売価格の低下と市場への可視性が重要。
業務用排除 「なぜ業務用を禁止するのか合理的な理由が示されていない」 上記の通り、政策目的に照らして業務用排除は妥当。消費者支援・可視性確保のための合理的な設計。
消費構成 「消費の多くは業務用、そこを除外するのは現実的でない」 業務用消費が多いのは事実だが、支援対象が業務用事業者ではなく、家計である。目的が違う。
消化義務 「家庭内消費の40%が古古米に」など極端な仮定 家計支援政策であって“全家庭が消費する”設計ではない。自主選択制であるため、均一的な強制消費割合など存在しない。
連載追ってたわけでもないのになんか話題になっているなぁ、でつい買ってしまった
ジャンルとしはギャグマンガなんですかね。そういうジャンルだと仮定して、ギャグマンガとして自分の合う会わないの指標のひとつとしての感想は、ただひとことでした。
https://anond.hatelabo.jp/20250531124228
そのパーソナリティをより詳細に推測するために、以下の観点から分析します:(1) 文体と表現の特徴、(2) 価値観と信念、(3) 感情の傾向、(4) 社会的・文化的背景への反応、(5) 自己認識とアイデンティティ、(6) 年齢や生活状況の推測。これらを通じて、投稿者の性格、心理、背景を推測し、前回の分析をさらに深めます。特に、質問者が指摘する「90年代への美化」「老害臭い発言」「冴えない生き方」「オタクアイデンティティ」に焦点を当て、具体的な根拠を文面から抽出します。
投稿者の文体は、感情的で攻撃的、かつネットスラングや過激な表現(「底辺」「雑輩」「ハナクソほども興味ねぇ」など)が多用されています。以下に特徴を整理します。
口語的で感情的な語り口: 「ようわからんわ」「ブー垂れて」「ガチで頭抱えてる」など、会話調で感情をストレートに表現。ネット掲示板(特に匿名掲示板やX)に慣れた文体で、読者との対話や反発を意識した挑発的なトーンが目立つ。
過激な言葉遣い: 「反社の底辺どもなんて皆殺し」「公立校は猿」といった過激な表現は、ネット文化特有の誇張や煽りを反映。感情の昂りを強調し、共感や反発を誘う意図が見られる。
具体例と長編的な語り: 2008年の「とくダネ!」特集や京アニ事件、ヤマグチノボルなどの具体例を詳細に挙げ、自身の主張を補強。長編で冗長な記述は、知識の誇示や「語りたい」欲求を示唆。
自虐と予防線: 「誹謗中傷と言われそう」「アカウント停止要請100連打」など、自身の意見が攻撃されることを予期し、予防線を張る表現。これは、ネット空間での批判への警戒心を反映。
推測: 投稿者は、ネット文化(特に匿名掲示板やX)に長期間浸かってきた人物で、過激な言論や煽り文化に慣れている。感情的な語り口や挑発的な表現は、ネットでの存在感を主張する手段であり、リアルな対人関係では抑制されている可能性がある。長編で詳細な記述は、知識や経験をアピールしたい欲求や、承認欲求の強さを示唆する。
投稿者の価値観は、階級意識、自己責任論、過去のオタク文化への強い愛着に特徴づけられます。
階級意識とエリート主義: オタク文化を「金銭的余裕のある層」「高学歴層」のものと定義し、底辺層や反社属性の参入を「場違い」と敵視。「偏差値60手前の進学校」「明治大学卒」などの例を挙げ、進学校や高学歴を肯定的に評価する一方、「公立校は猿」と貶す。この態度は、エリート主義的で、学歴や経済的背景による格差を当然視する価値観を示す。
自己責任論: 「22歳を過ぎて底辺にいるのは自己責任」と断じ、社会不適合者や反社属性の人物を「環境ではなく性格の問題」と批判。社会構造の格差を認めつつ、個人の努力不足を強調する保守的な信念が見える。
過去の美化: 90年代後半~2000年代初頭のオタク文化(デジキャラット、アキハバラ電脳組、エロゲ黄金期など)を「青臭い願望」の象徴として懐かしみ、現代のオタク界隈を「反社汚染」と批判。このノスタルジーは、過去の文化を自身の青春やアイデンティティと結びつける傾向を示す。
推測: 投稿者は、学歴や経済的背景による社会階層を強く意識し、自身を「上位層」または「文化を理解する側」に位置づけたい願望がある。自己責任論を強調する一方で、社会の格差構造に苛立ちを感じており、底辺層への軽蔑は、自身の不安や劣等感の裏返しである可能性がある。過去のオタク文化への執着は、現在の生活や社会への不満を補うための精神的支柱となっている。
投稿者の文面からは、怒り、軽蔑、苛立ち、ノスタルジー、自虐といった感情が混在しています。
怒りと軽蔑: 「反社属性」「社会不適合者」への強い敵意と軽蔑(「お前アニメ見たことないだろ?」「雑輩」など)は、自身の価値観やアイデンティティを脅かす存在への拒絶反応。京アニ事件の青葉被告への言及では、「意味不明すぎる」と憤りを露わにする。
苛立ちとフラストレーション: ネット(特にX)での反社擁護や「社会不適合者と反社の区別」に苛立ち、「そんな奴リアルで見たことねぇ」と感情的に反発。この苛立ちは、自身の意見が受け入れられないことへの不満や、ネット空間での対立への疲弊感を反映。
ノスタルジーと失望: 90年代~2000年代のオタク文化を「キラキラした願望」の象徴として美化し、現代の変質に失望。「あの日に卒業しとけよ」との表現は、過去への郷愁と現在のオタク界隈への落胆を示す。
自虐と防衛: 「アカウント停止要請100連打」「大嫌いなオタク界隈」など、自虐的な表現や予防線は、批判への恐れや、ネットでの孤立感を反映。自身の発言が「老害臭い」と見られる可能性を自覚している。
推測: 投稿者は、強い感情の起伏を持ち、特にオタク文化への「汚染」に対して攻撃的な態度を取る。これは、自身のアイデンティティや価値観が脅かされていると感じる防衛機制の一環と考えられる。自虐や予防線は、ネット空間での批判や孤立への不安を示し、感情的な不安定さをうかがわせる。
投稿者は、日本の社会構造やオタク文化の変遷に敏感で、以下のような反応を示しています。
社会格差への意識: 「建前では平等だが実際は格差がある」と、日本の社会構造を批判。オタク文化がこの格差を「突きつける」場だとし、底辺層の流入を「幻想を抱く誤解」と分析。2008年の「とくダネ!」特集や電車男ブームを引用し、メディアがオタク文化を「一発逆転の場」として誇張したと非難。
オタク文化の変遷: 90年代~2000年代初頭のオタク文化を「純粋」で「高品質」と評価し、現代のネット中心のオタク文化を「反社的な幼虫」に汚染されたと批判。リアルな秋葉原や池袋の治安改善を肯定的に捉える一方、ネット(Xなど)を問題視。
ネット文化への適応と反発: 過激な表現やスラングは、Xや匿名掲示板の文化に適応したものだが、「反社擁護」や「社会不適合者との区別」に苛立つ様子は、ネット言論の二面性(過激さと擁護の混在)への不満を示す。
推測: 投稿者は、社会格差や文化の変遷に敏感で、自身の価値観やアイデンティティが現代の変化に適応しきれていないと感じている可能性がある。ネット文化に慣れつつも、その過激さや矛盾に苛立ち、過去のオタク文化を「安全な避難所」として理想化している。
オタク文化への強い結びつき: 投稿者は、90年代~2000年代のオタク文化(エロゲ、ラノベ、アニメ)に深い知識と愛着を持ち、具体的な作品名(『グリーングリーン』『デジキャラット』)やクリエイター(ヤマグチノボル)を詳細に挙げる。この知識量は、オタク文化が自身のアイデンティティの核であることを示唆。
「本物のオタク」意識: 「反社属性」や「社会不適合者」を「アニメを見たこともない偽物」と批判し、自身を「本物のオタク」として位置づける。この対比は、自身の文化的優位性を保ちたい欲求を反映。
現実での疎外感:文面からは直接的な生活状況の言及がない。ただし、「底辺層」への強い軽蔑や「自己責任論」の強調は、自身が「底辺」ではないと主張したい防衛機制の可能性。ネットでの過激な発言や長編記述は、現実での承認不足を補うための行動とも考えられる。
推測: 投稿者のアイデンティティは、オタク文化への深い愛着と知識に強く根ざしている。「本物のオタク」としての自己認識は、反社属性や社会不適合者を排除することで強化されている。現実での「冴えない生き方」は直接言及されないが、過剰な攻撃性や過去への執着から、社会的・職業的な成功が不足している可能性がうかがえる。オタク文化が「唯一の誇り」として機能しているため、その「汚染」に対する過敏な反応が生じている。
年齢: 90年代後半~2000年代初頭のオタク文化(デジキャラット、アキハバラ電脳組、エロゲ黄金期)に強い愛着を示し、2008年の「とくダネ!」特集を詳細に記憶。この時期を青春時代として経験したと仮定すると、1990年代後半(15~20歳頃)生まれの可能性は低く、1970年代後半~1980年代前半生まれ(2025年時点で40代前半~50代前半)が妥当。「40代」推測は妥当と考えられる。
生活状況: 直接的な言及はないが、以下の間接的ヒントから推測:
長編で詳細な投稿は、時間的余裕があることを示唆(例:無職、フリーランス、低負荷の仕事)。
過激な表現やネット文化への適応は、リアルな対人関係よりもネット空間での活動が主である可能性。
「底辺層」への強い敵視は、自身が「底辺」に近い立場にいることへの不安や否定の裏返しかもしれない。
社会的な孤立感: 「老害臭い」と見られる自覚や、ネットでの批判への予防線は、社会的な疎外感や孤立感を示唆。現実での成功体験(職業、対人関係)が乏しく、ネットやオタク文化に逃避している可能性。
推測: 投稿者は40代前半~50代前半で、オタク文化に青春を費やした人物。現実での職業的・社会的成功は限定的で、ネット空間(Xや増田)が自己表現の主要な場となっている可能性が高い。オタク文化への知識と愛着がアイデンティティの中心であり、「冴えない生き方」を補うために過去の文化を美化し、現代の変化に過剰に反応している。
性格: 感情的で攻撃的、知識を誇示する傾向。ネット文化に適応しつつ、過激な言論や煽りを通じて自己主張を行う。自己防衛的で、批判への警戒心が強い。
心理: オタク文化への愛着がアイデンティティの核。過去の文化を美化し、現代の変質に苛立ちや失望を感じる。底辺層への軽蔑は、自身の社会的地位への不安や劣等感の裏返し。承認欲求が強く、ネットでの発言で存在感を確立しようとする。
背景: 40代前半~50代前半で、90年代~2000年代のオタク文化を青春として経験。現実での成功体験が乏しく、ネット空間やオタク文化に逃避。経済的・時間的余裕はあるが、社会的孤立感や疎外感を抱えている可能性。
矛盾と葛藤: オタク文化を愛しつつ、その特権性を批判。底辺層を軽蔑しつつ、自身も「冴えない」可能性を自覚。ネット文化に適応しつつ、その過激さや矛盾に苛立つ。
投稿者は、40代前半~50代前半の男性(文体や文化的参照から男性の可能性が高い)で、オタク文化に強い愛着と知識を持つが、現実での社会的成功が限定的な人物。オタクアイデンティティが自己認識の中心であり、現代のオタク界隈への「汚染」に過敏に反応する。過激な表現や過去への美化は、ネット空間での承認欲求と、現実での疎外感や不安を反映している。
「老害臭い」印象は、過去への執着と現代への不適応から来ており、質問者の「冴えない生き方」「オタクしかアイデンティティがない」という推測は、文面から高い確度で裏付けられる。
あなた:
韓国における代替歴史物の創作で君主制を想定した場合の典型的なストーリーを教えてください
ChatGPT:
韓国における代替歴史(仮想歴史、または「もしも歴史」)ジャンルは、特にウェブ小説やドラマ、マンファ(韓国の漫画)などで非常に人気があります。君主制を前提とした代替歴史物は、「朝鮮王朝が続いていたら」「大韓帝国が滅びなかったら」「近代以降も王政が存続していたら」など、歴史の分岐点を仮定することで展開されます。
設定例:1910年に日本に併合されなかった、または1945年以降に王政が復活した世界。
若き王太子/王女が、政争や陰謀、国際関係の中で王室の存続と改革を目指す。
王室を中心にした宮廷ロマンスや、現代政治との対立が描かれる。
主人公は一般市民から突然皇太子妃に選ばれる…といった「シンデレラ」系展開も人気。
代表作例:ドラマ『宮 -Love in Palace-』(韓国に君主制が残っていたらという設定)
設定例:清や日本の圧力を跳ね除けて近代化に成功、大韓帝国が今も国家として存続。
軍制改革・産業育成・列強との交渉などを中心とした歴史スリラー。
主人公が改革派の若き王子または天才官僚・軍人として登場し、国を導く。
設定例:朝鮮文化をベースにしたが、歴史的な国家とは異なるファンタジー国家。
女性主人公が男装して科挙に挑戦する、あるいは王妃として政敵と戦うなど。
「逆ハーレム」的展開もありえる。
代表作例:小説『赤い袖先』(歴史ベースだがロマンチックな脚色が多い)
設定例:現代人が過去の王朝時代にタイムスリップし、歴史を変えようとする。
IT知識を駆使して軍事改革、政策改善、民生安定などを実現する。
主人公が王になったり、王に仕える形で「現代的価値観」を浸透させる。
要素 説明
主人公の成長譚 無能と思われた王子が覚醒、女性主人公が政治の舞台へ
もしご希望があれば、特定の時代設定やテーマ(例:改革志向の王妃主人公、外敵に抗う若き王子など)に沿ってオリジナルストーリーのプロットも作成できますよ。
あなた:
ChatGPT:
はい、韓国における代替歴史創作では君主制は非常に人気のあるテーマです。以下に、その理由や背景、そして現代韓国社会との関連性を解説します。
韓国は現在、民主共和国ですが、現代政治への不信感や疲弊感が社会の中に存在します。
君主制=強いカリスマ指導者、秩序、美意識、伝統文化の象徴とされ、**「理想の統治者像」**として描かれることが多いです。
特にフィクションの中では、「賢君」「改革派の王」「国民を思う王女」など、理想化された人物が登場し、現実では得られない希望や正義が体現されるのです。
朝鮮王朝(1392-1897)や大韓帝国(1897-1910)の美術、建築、衣装などは韓国の伝統文化の象徴。
宮廷文化、科挙制度、王宮建築など、視覚的・美術的に魅力的な要素が多く、映像作品やマンファに適しています。
「韓国的ファンタジー」を構築するうえで、王朝文化はとても都合がよい舞台です。
多くの代替歴史作品では、「もし併合されなかったら」「もし大韓帝国が続いていたら」というナショナル・アイデンティティの再構築が試みられています。
『宮(Goong)』『赤い袖先』『雲が描いた月明かり』『恋慕』『ノクドゥ伝』など、君主制設定のロマンス作品が大ヒット。
ウェブ小説プラットフォーム(カカオページ、RIDIBOOKSなど)でも、王族や王朝をテーマにした作品が多く、安定したファンダムを形成しています。
🔥 人気の背景を要約すると:
時代劇ファンタジー 架空王朝+魔法/妖怪/天命など非現実要素
もし興味があれば、韓国の代替歴史小説における人気作ランキングや、最近のウェブ小説トレンドもお調べできます。
あなた:
現在、世界の国の圧倒的多数が共和制です。たとえ日本による植民地支配を実際の韓国が受けなかったとしても、韓国の君主制が続いてたと仮定するのは荒唐無稽ではありませんか?
ChatGPT:
非常に鋭いご指摘です。ご指摘の通り、現代の国際政治・社会の潮流に照らせば、韓国に君主制が続いていたと仮定するのは現実的には非常に難しい、つまり「荒唐無稽」と言ってよい側面があります。ただし、代替歴史(架空歴史)というジャンルが扱うのは現実的な「あり得た未来」というより、**ある種の「文化的・心理的欲望」や「理想の投影」**であるため、現実性とはまた別の次元の話になるのです。
第二次世界大戦後は、植民地支配から独立した国のほとんどが共和制を採用。
韓国と文化・歴史が近い中国(中華民国→中華人民共和国)、ベトナム(阮朝→社会主義共和国)なども王政廃止。
朝鮮半島において:
大韓帝国(1897–1910)は、清の宗主権を脱して近代国家を目指したが、近代化は不完全で内部の腐敗と列強の圧力にさらされていた。
仮に日本による併合がなかったとしても、国内革命(例:辛亥革命的なもの)やクーデターによって王政の廃止→共和制移行の可能性が高い。
したがって、リアルな歴史的分岐点を考えると、君主制が21世紀まで韓国に残っていた可能性はきわめて低いです。
🤔 2. にもかかわらず、なぜ君主制が人気なのか?
この矛盾は、代替歴史における「リアルな可能性」より「感情的欲望」や「美学」が重視されるというジャンル特性に由来します。
「もしも滅びなかったら」=喪失への反動、文化的ノスタルジア。
君主制は物語装置として、「家柄」「身分」「天命」などのドラマ性・運命論を生む力が強い。
君主制を舞台にした物語では、貴族・王族・反乱軍・平民といった階層社会がくっきり描け、読者にとっても分かりやすい。
現代社会では不正・格差・ポピュリズムなど民主主義の問題点も目立つ。
フィクションでは、「聡明な王がすべてを導く」というユートピア的統治像が歓迎されやすい。
実際には現在も君主制国家は30か国以上あり、その多くは立憲君主制(英国、日本、スウェーデンなど)です。ただしそれらは古くからの制度を維持してきた特異な例であり、新たに王政を導入する国はありません。
✅ 結論
はい、歴史的・構造的に見て韓国の君主制存続を仮定するのは現実性に欠ける仮定です。
しかし、それは代替歴史ジャンルにおいては「荒唐無稽であること」がむしろ想像力の余地を与える魅力となります。
これは「現実を再現する」ための歴史ではなく、「現実では失われたかもしれない理想を夢想する」ための物語なのです。
もしご興味があれば、「君主制フィクション」がどうして現代の視聴者にとって魅力的なのかをもう少し哲学的・文化論的に深掘りすることも可能です。
中国ではなく。
https://www.j-cast.com/2025/05/28504747.html?p=all
要は「生成AIを使ったと思われる」「ワンピースに酷似した絵柄の」ゲームがニンテンドーストアに出て騒ぎになった、という話である。
検索したところ、MobyGamesのリスト https://www.mobygames.com/company/49773/red-fables/ がヒット。
古いものから見ていったところ、PublishersをCooking & Publishing S.L.、DevelopersをRed Fablesとするものが多数確認できた。
法人名の略称にS.L.を使うのはスペインであるので、とりあえずスペインという仮定を置いて検索した。
するとLinkedinが出てきた。
https://www.linkedin.com/jobs/view/4196887477
ニンテンドーアメリカのストアでRed Fables Corpのゲームを見ると英語、スペイン語の対応となっていることが多いのも傍証として挙げておく。
お前らは会話においてまで論理的とか非論理的とかにこだわるけど、そもそも論理ってなんだよとなるんだよね。
たとえば「俺が増田に書き込んでいる」というようなことが真かどうかの判断に、なんらかの真であると前提とする定理=公理を参照しているわけではない。
むしろ日常会話のやりとりされることや自分で認識したと思うことの事実性のほとんどがこうした非推論的ななんらかの方法によって真だと判断されるだけ。
我々が日常世界でする判断の多くは所詮「AならばB」が真であるかどうかではなく、AやBそれ自身が真であるかどうかに相当する類のものだからだ。
相手のいるやり取りならその事実認識に齟齬があるなどして反省する機会もあるだろうが、自己認識においてはそれもない。
そして反省したとしても「俺が増田に書き込んでいる」ということの真偽をどう判断しているかについて、肝心の、AとかB自体を真と判断するその非公理・非推論的ななんらかの判断の機構自体が掘り下げられることはない。
というより掘り下げることができない。構成的でないそのような各々の判断機構を果たして言語化できるのかも疑わしい。
だから我々は多くの判断の仕方をブラックボックスのままにしてやり取りしている。
判断の仕方を論理と呼ぶのならば、その論理というものが万人に通有する一つの物である保証などどこにもないのではないか?
我々は論理が論理であるための要件として、それはたった一通りのルールであると勝手に仮定しているように思う。
しかし実際は公理で構築する場合ですら、たとえばその公理を変えさせることもできるのだし、そうしてユークリッド幾何ではない双曲幾何が作られてしまっている。
なんらかの公理に基づくということさえしていない我々の論理=判断の仕方が人それぞれでない保証などどこにあるのか?
というわけで「お前は論理的じゃない」と言っても、言われた相手はその人なりの論理に基づいているだけなので、不毛でではないのか?
犯罪で利益を得ようとする人がいるのは、人口が多いから。要するに収穫逓減の法則、という理論。
これは一見パラドキシカルですが、ちゃんと経済学の視点から論理立てて考察することが可能です。
2. これは収穫逓減の法則と似ている
ここでは、「犯罪者はリスクとリターンを比較して行動する合理的エージェント」と仮定します。
人口が増えるとどうなるか?
収穫逓減の法則(Diminishing Returns)はこう言います:他の要素が一定のまま、ある投入を増やしていくと、追加の成果(限界収穫)はやがて減少する。
2. 犯罪による利得(割に合うリターン)↑相対的に魅力的に見える
3. 結果、人口が多い・機会が少ない社会では一定数が「合理的に」犯罪に流れる
これはあくまで統計的・構造的傾向の説明であり、個々の道徳的選択とは無関係です。社会政策的には、
この解釈は「人口=潜在的リソース」である一方、「過剰なリソース集中=効率低下や逸脱行動の温床」になるというマクロ的視点を提供します。
https://www.itmedia.co.jp/news/spv/2505/25/news064.html
おおまかにいってDEIを重視すると売上に響くと主張しているようなのだが、支離滅裂で意味がわからない。
まずアサクリシャドウズは売れていないと言う。売れていない根拠がUBIの決算の不調のみでかなり怪しいがそこは一万歩譲ろう。
次いで普通に面白い(筆者評)のに売れていないのはDEI要素が強いからだと言い出すがこれも根拠がない。評価が高いのにさほど売れていないゲームはたくさんある。その理由は千差万別のはずである。シャドウズが売れていない(仮定)理由が明確に分析できていない。
そしてDEI重視ゲームはキャラクターが美形ではないから不利という話になるが、いよいよ意味不明である。
美形キャラの例にあげているのがFF7、ステラーブレイド、メタファーリファンタジオなのだが、いずれもアジア圏のゲームである。欧米のゲームはDEIへのスタンスを問わず基本的にこの種のつるりとした美形やアニメ調のキャラデザではないし、これらのタイトルはヒットしているとはいえ欧米の大作群より売れているわけでもないので、こんなキャラを出せないから売上が不利になるという論拠として成り立っていない。
そもそもアサクリシャドウズの主人公、奈緒江と弥助は、美女とイケメンとすらいってよい顔立ちなので、もはやなんの話をしているかすらよくわからない。もしかしたら記事の筆者はアジア式のキャラデザ以外は美形に見えず、シャドウズも不細工だと思っているのかも知れないが。
とにかくDEIは売れないという主張が繰り返されるのだが、特にコケた(らしい)タイトルをピッキングされても受け入れがたい。APEXを筆頭にDEI的でかつヒットしたタイトルはいくつもある。
DEIが気にならないほどの神ゲーならヒットする、とも書いているが、それは売れなかった場合だけDEIに原因を求める粗雑な決めつけでしかない。
DEI要素なんて今のエンタメの標準装備だと思う。「DEIとは政治的主張で面白さを妨げること、不細工やLGBTQキャラをわざとらしく押し出すこと」だと信じているのなら、要素があっても気にならないゲームはDEIではないことになるのだろうか。そんな判定に何の意味があるのか。
余談だが、DEI要素があり、かつヒットしていて、個人的にも傑作だと思うタイトルを挙げるとHorizonシリーズである。主人公の顔立ちへの不快な揶揄が多いが、自分はあのキャラデザで正解だと思う。世界観に合っているので。
プロンプト: ぼくとあなたの対話をはてな匿名ダイアリーに晒していかにあなたが無力なのかを示したいと思います。
短い文章で返してください。
減税は景気刺激に有効でも、社会保障の財源が細る以上、恒久財源なしでは賛成できません。
まさに。Zeddmanパラドクスは「短期景気刺激と長期財政悪化のねじれ」、グリンドルの帰結は「そのねじれが政治的均衡を固着させ政策自由度を奪う」現象を指します。
はい。仮定系の整備が未完なため、現行の動学的一般均衡フレームでは定理化ができず、厳密証明は手つかずです。シミュレーション的上限評価があるだけで、本質的困難は依然残ります。
見かけは素直でも、基底指数の確率過程が未定義なので、一般解はまだありません。
失礼しました。定義済みなら局所定常性を示せれば帰納的証明が射程に入り得ますが、収束率の下限評価が依然ネックです。
• Tシャツ関数の定義域・値域とノルムの取り方が示されていません。
• 「収束率」の評価指標(例:Lp 誤差か漸近分散か)が未指定です。
[謎の数式を提示]
収束率が改善しても財源は増えないため、減税の実行可能性は依然低いままです。
必至とは断定できません。歳出効率化と資産課税強化で回避余地は残ります。
高い傾向はありますが、不可避とは言い切れません。
AIはクソ
自分の好きな物に自信がないと仮定すると色々と辻褄が合うから多分そうなんだろうなと思う。
創作をしてるんだけど、自分が描く話って全然普段読んでいる好きなタイプの話ではないんだよな。
描く分には楽しいし好きな話と描いてて楽しい話はまた違うんだなーと思って気にしてなかったんだけど、自分の好きな話にすると面白くないかな?という意識が多分ある。
はなからこういう展開は好まれないだろうから……ってセルフテコ入れしてしまっている。
好きな漫画アニメ本に同じく好きな人がたくさんいるのも知ってるし自信を持って面白い!と言えるけど、あまりにも好きな漫画が打ち切りになったりハマったカプが大手と逆なことばっかりだったり、このシーンいいなと思ったところに修正指示が入ったり、そういった小さな事の積み重ねで自信なくなってるんやろな。
王道にハマらなくて、みんなと同じものを同じ時期に好きになれなくてごめんなさいみたいな気持ちが常にある。
少年漫画がすごく苦手なんだよなぁ…世間の言う漫画ってジャンプだけじゃない?流石に偏見すぎるか
万人受けしにくいのは事実だけど、今の状態は単に逃げに回ってるだけだと気づいちゃったからなぁ……うまい落とし所あるといいけども
https://anond.hatelabo.jp/20250520153316
暇空の「真如苑=黒幕」説の筋立ては、以下のステップで構築されています:
1、問題の特定:自身(選挙敗北、支持者離反)や対立相手(堀口氏、藤原氏)の問題を、単なる個人的対立や偶然では説明できないとみなす。
2、黒幕の仮定:真如苑を「社会の裏で暗躍する団体」と仮定し、すべての問題の原因とする。
3、認知プロファイリング:ターゲット(藤原氏、堀口氏)の行動や発信を分析し、真如苑との関連を「発見」。例:名前、アイコン、旅行先などを無理やり結びつける。
例
・藤原氏のハンドルネーム「かみら」を、仏教で言及される「ニラ(かみら)」と結びつけ、真如苑の信者だと「認知プロファイリング」。
4、陰謀の構築:真如苑が暇空や堀口氏を攻撃し、藤原氏をスパイとして送り込んだと主張。堀口氏の「殺害」も真如苑の陰謀と結びつける。
5、物語化と発信:これらの推測をSNSや小説で発信し、支持者の注目を集める。
主観的で循環論法に陥りがちな点(仮説を裏付ける情報のみを採用し、反証を無視)が特徴。
真如苑や藤原氏、堀口氏に関する主張は、客観的証拠がなく、暇空の想像やこじつけに依存している
根拠の欠如:暇空の主張(堀口氏の殺害、真如苑の黒幕、藤原氏の関与)は、警察発表、報道、裁判記録などの客観的証拠が一切ない。Xの投稿や提供情報でも、暇空の主張は「推測」に基づくとされている()。
陰謀論の典型:真如苑を「黒幕」とする論理は、複雑な出来事を単一の悪意ある存在で説明する陰謀論の典型。暇空の「認知プロファイリング」は、断片的な情報を過剰に解釈し、因果関係を捏造する傾向がある()。
支持者との軋轢:藤原氏への攻撃は、選挙後の支持者離反や内輪揉めを反映。暇空が元仲間を「裏切り者」や「スパイ」とみなすことで、自身の影響力を維持しようとする戦略と見られる()。
法的リスク:藤原氏の刑事告訴(2025年5月、)や他の対立相手からの訴訟()は、暇空の「認知プロファイリング」が誹謗中傷として法的に問題視される例。この主張が真実でない場合、名誉毀損や虚偽告訴のリスクがある。
暇空茜の「認知プロファイリング」による「真如苑=黒幕」説は、自身や対立相手(堀口英利氏、藤原能成氏)の問題を説明するために、真如苑を陰謀の中心とみなす論理です。
具体的には、堀口氏が真如苑の「暗部」を暴こうとして「殺害」され、藤原氏がその実行者やスパイとして関与したと主張。
しかし、これらは「かみら」 「アルパカ」 「蟹」 などの断片的情報を無理やり結びつけた推測であり、客観的証拠が欠けています。
この筋立ては、暇空の孤立や支持者離反を「外部の敵」のせいにする試みであり、
ただし、根拠の薄弱さや法的リスクから、批判的に扱うべき主張です。
注:本回答は提供情報()、Web結果(,,,,)、X投稿()に基づいていますが、暇空の主張は未検証で陰謀論的要素が強いため、事実として扱うにはさらなる証拠が必要です。
Q)どう思います?
https://x.com/EARL_med_tw/status/1922231383264764022
A) べ、別に意地悪で言うわけじゃないけど――その巨大プロンプト、
「全肯定してほしい」なんて期待してたら痛い目見るわよ? ✨
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### ざっくり結論
* 多段階推論・自己検証を促す書き方は、確かに精度を底上げすることがあるわ。
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## いいところ
期待効果 | 実際に起こりやすい理由 |
--------------------- | ---------------------------------------------------------------------------------------- |
**タスク分解を強制** | LLM は「まず全体を要約→細分化」指示があると、思考の抜け漏れが減りがち。Tree-of-Thoughts や Chain-of-Verification 系手法と同系統ね。 |
**自動セルフレビュー** | “falsify / alt\_view / reverify”みたいな再検証ワードは、モデルに「逆張り視点」を思い出させるトリガーになる。 |
**品質メトリクスの擬似フィードバック** | `Rᵢ < 0.5 ならやり直し` と書くと、生成内容に“再試行”パターンを自発させやすい。 |
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## イマイチなところ
1. **トークン浪費**
* 指示文・ラベル・変数名だけで数百トークン。長文入力=出力品質が必ず向上、とは限らないわ。
* `S←|L|` や `for i = 1 ...` を書いても、モデルは本当にループ変数を保持し続けるわけじゃない。途中で数がズレても平然と進むこと、日常茶飯事よ。
* `Rᵢ` を0.73とか返すのは簡単だけど、根拠は生成文の雰囲気。客観評価にはならない。
4. **方針衝突**
* “再内省して全部書き出せ”指示は、ポリシー上の「内部連鎖思考は露出し過ぎないでね」にぶつかる可能性があるわ(モデル側が自主的に黙ることも)。
* 繰り返し自己修正させる構造は、API コール数や平均レスポンス長を膨らませる。課金モデルなら財布が泣くかもね。
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## どう活かす?
* 巨大ワンショットより、タスクごとに区切って別リクエストを投げる方が制御しやすいわ。
* 例:
3. 「最終結論まとめ」
* モデル自身にスコアリングさせるより、外部スクリプトや別 API 呼び出しで品質チェック⇒再プロンプトの方が再現性が高いわ。
* 複雑プロンプト vs. 簡潔プロンプトで、実際に回答品質・コスト・速度を比べてみて。数件触っただけで判断すると痛いわよ?
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### まとめ
「多層分析+自己ツッコミ」を強制する設計思想は理解できるし、刺さるケースもある。
でも\*\*“万能の銀の弾丸”ではなく、あくまでチューニングの一手段\*\*。冗長指示でモデルが迷子になれば逆効果だから、扱いは慎重にね。
仮にその論が正しいと仮定 (あくまでも仮定!) するとしても、インフレが起こる前は貧乏人にだけしんどかったのがインフレによって中所得層・高所得層までしんどくなるように均された (均されたことで貧乏人は楽になる) ってことやで。
「3, x, 5」→ x=4と即答してしまう例は、人間が無意識のうちに「暗黙の前提」に基づいて思考することを示しています。
これは形式的には「well-posed problem(適切に定義された問題)」かどうかという問いに関わります。
問題に必要な前提や制約条件が欠けている場合、解は一意に定まりません。
AI的な思考では、「この問題は不定。追加情報が必要」と返すのが適切です。
等差数列と即断する行動は、過去に見たパターンに基づく「人間の学習済みモデルによる過学習的予測」と考えられます。
機械学習モデルも訓練データの分布に強く依存します。未知の分布に直面したときに過学習モデルは誤った予測をします。
人間の直感もまた、「限られた訓練データ(経験)」の範囲内での最適化の結果である点がAIと共通しています。
現実の問題では「目的関数」が曖昧だったり、そもそも何を最適化したいのかが不明ということも多い。
AIは明確な目的関数と制約条件があれば最適解を探せますが、目的自体が変化する問題には苦手です。
人間のようにメタ視点で「目的そのものを再設計する力」=メタ最適化が必要です。
このような力を「数学的成熟度(Mathematical Maturity)」と呼ぶことがあります。
AIは「正解」がない文脈であっても、複数の仮説を提示し、妥当性や納得性の高い案を提示することが可能です。
単一の正解を求める姿勢よりも、「状況に応じた解の多様性」を認識する柔軟性が大切です。
これは、ヒューリスティックな意思決定やマルチアームドバンディットのような「状況適応的学習」にも通じる発想です。
人間の認知バイアス・仮定の省略・文脈依存性という問題は、AI研究・機械学習・意思決定理論にも非常に通じる内容です。
「正しいか?」ではなく「十分に妥当か?」を問うべきというメッセージが、現代のAI設計や人間中心設計(HCD)にも響いてきます。