はてなキーワード: 喪失とは
タケルが次に意識を取り戻したのは、潮騒が響く砂浜の上だった。冷たい砂が頬を撫で、潮風が彼の髪を揺らす。見上げれば、青空には白い雲がゆっくりと流れている。遠くに、東京湾アクアラインのシルエットが見えた。彼は、千葉にいる。
混乱する頭で、タケルは自分の状況を分析しようと試みた。焼きまんじゅうの深淵、そして意識の喪失。あれは、ただの夢だったのだろうか。しかし、胸の奥には、あの時感じた途方もない真理と、ノゾミの温かさが確かに残っていた。
その時、タケルの脳裏に、今まで感じたことのない異質な情報が流れ込んできた。それは、地上を這う人々の声でも、空を飛ぶ鳥の羽ばたきでもない。もっと古く、そして冷たい、地の底から響いてくる声だった。
『我々は地底の支配者。爬虫類人類なり。汝、神の分身よ。我らと共に、愚かな地上を粛清せよ』
タケルは、その声に背筋が凍るような恐怖を覚えた。彼がこれまで触れてきたのは、人間の温もりや喜び、そして世界の真理だった。しかし、この声は、それらすべてを否定する、冷酷な破壊の意志を秘めていた。
彼が意識を失っている間に、世界は変貌を始めていたのだ。千葉の地下深くに潜む地底帝国「レプティリアン」が、地上への侵攻を開始しようとしている。彼らは、人間を「愚かなる猿」と呼び、地球の生態系を破壊する癌とみなしていた。
『我々の力をもってすれば、地上は瞬く間に浄化される。お前が愛した人間も、その温もりも、すべては虚無へと還るだろう』
地底からの声は、タケルの心を揺さぶった。彼は、この世界の真理を知った。それは、すべての命が繋がっているという温かい繋がりだった。しかし、目の前には、その繋がりを断ち切ろうとする破壊の意思がある。
タケルは、ゆっくりと立ち上がった。彼の胸には、ノゾミから教わった「温もり」と、げんこつハンバーグが教えてくれた「情熱」、そして焼きまんじゅうが教えてくれた「真理」が燃え上がっていた。
「俺は、人間として生きる道を選んだ」
タケルは、地底からの声に力強く答えた。
「お前たちが言うような、無意味な破壊はさせない。この世界には、守るべき温かさがある」
タケルは、神の分身としての力を、初めて他者のために使おうと決意した。彼は、千葉の地を起点に、地底帝国の情報を解析し、その弱点を探り始める。そして、彼は、この戦いが、ただの力と力のぶつかり合いではないことを知っていた。
それは、人間が持つ「温かさ」と、地底帝国の「冷酷さ」との戦いだ。愛する人々と、彼らが築き上げてきた文化を守るための、最後の戦いが、今、千葉の地で静かに幕を開けようとしていた。
(第八幕・了)
タケルは、地底帝国との戦いを、具体的にどのように進めていくのでしょうか?
テックタッチ偏重とAI化が、国内人材募集でリクルートの稼ぐ力を縮める理由
はじめに:シンプルの代償
リクルートは「Simplify Hiring(採用を簡単に)」の名の下、求人の出稿・配信・課金をIndeed PLUSに集約して“運用の効率化”を進めている。だがこのシンプル化は、媒体(自社サイトやアプリ)が本来持つ指名検索・直アクセス・回遊・価格主導権を痩せさせ、長期的には"Minifying earning(稼ぐ力の縮小)"へ向かう。
枠売り主体の掲載課金(PPP)から、クリック課金(PPC)や応募課金(PPA)に重心が移り、媒体固有の文脈価値より入札ロジックが前面に出る。
Indeed PLUSのような配信の中枢が強まるほど、各媒体は「配信先の一つ」へと相対化される。どこに出すかよりどう最適化するかが支配的になり、媒体の独自性は埋没する。
総額(グロス)から手数料相当(ネット計上)へ寄るほど、媒体サイドの投資余力と値付け権限が細る。短期の効率は上がっても、長期の交渉力は落ちる。
自動入札・自動配信・自動生成に寄るほど、“人が作る体験”と“コミュニティ”の厚みが痩せ、「その媒体にわざわざ来る理由」が失われる。
なぜ“稼ぐ力”が縮むのか:決定的な3因子
掲載課金の世界では、読者層・編集・体験が媒体ごとの差別化要因だった。
PPC/PPAが支配的になると、媒体の違いは入札アルゴリズムの内部に吸収される。結果として、
検索面のAI要約が標準UX化するほど、ユーザーは検索結果の上で満足し、媒体ページへ降りてこない。
求人情報(職務要件・報酬・勤務地等)のコモディティ部分は上流で要約されやすく、媒体への自然流入が目減りする。
上流(検索)側の仕様変更一発で、媒体の流量と単価が振り回される体質は、自律的に稼ぐ力の対極だ。
プログラマティック配信が普及し、応募課金(PPA)が一般化すると、市場の“応募あたり相場”が可視化される。
可視化は効率を高める一方、媒体に残るテイクレートは構造的に圧縮される。
「どの媒体でも応募単価は同水準」という世界観が定着すれば、媒体固有の上振れ単価は維持しにくい。
悲観シナリオ:2025→2029の崩れ方
2025–2026:静かな痩せ細り
PPC/PPA比重の上昇により、媒体の指名検索・直アクセス・回遊・滞在といった“面の指標”が逓減。
売上の見え方は手数料型(ネット計上)に寄り、媒体側の投資余力が縮む。
代理店やATSとの関係は“ハブ中心”に再編され、媒体直販の存在感が薄れる。
検索のAI要約が求人カテゴリでも一般化し、媒体への自然流入がさらに低下。
「媒体で見る意味」を失った出稿主は、ハブ最適化+相場のみを重視するようになる。
2028:高単価ゾーンの外部寡占
ダイレクト採用を育てた陣営(コミュニティやレジュメ・スキルの“関係資産”を保有)が高単価求人を寡占。
IndeedはSMB・ボリューム採用偏重に寄り、平均単価とLTVがじり下がる。
媒体側の編集・コミュニティ投資はさらに後退し、在庫品質の低下→単価下落の負循環に入る。
配信最適化としての効率は高止まりする一方、自社で創る需要と在庫(直送求人・会員基盤・コミュニティ)が薄く、成長の上限が露呈。
ATS連携や出稿先のスイッチングコストは低く、テイクレートの継続的圧縮が常態化。
結論として、Simplify hiring = Minifying earningが“標語”ではなく業績構造になる。
KPIで見る“崩れ”
応募単価(PPA)とテイクレート:相場露出→取り分圧縮の一方通行。
在庫品質指標(閲覧深度・保存・再訪):編集・コミュニティ投資の萎縮とともに劣化。
「採用を簡単に」は、配信と運用の簡略化としては正しい。だがその裏側で、媒体が持つべき"面の力”(指名・回遊・コミュニティ・値付け権限)を自ら薄めていく。
上流(検索AI)と横(PPA相場)に収益が漏れ続ける構造を固定化するかぎり、Simplify hiring is Minifying earningは、挑発ではなく既定路線になる。
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日本でのインタビュー記事が物議を醸しており、人気アニメ「ぼっち・ざ・ろっく!」の脚本家が、原作の一部をノイズ」として削除したと主張しています。彼女はまた、キャラクターの性的搾取を避ける努力をしたとコメントし、自身のイデオロギ作品に組み込まれている示唆しました。本質的に、これはローカライザーが自身のイデオロギーを反映するために作品を改変するのと似ており、日本でも同じ問題が起きています。昨年、日本では、原に望ましくない変更が加えられたことにより、漫画家が悲しみのあまり自殺するという痛ましい事件起きました。この事件について原作者がどう感じているかは不明ですが、これらの作品のファンは、原作が忠実に再現されることを期待しており、他の意図の介入は「ノイズ」と見なされます。消費者として、私は原作者へのより大きな敬意が強調されることを願っています。
https://x.com/zkurishi/status/1967722810316558343
あなたは、ただ小さな女の子を裸で見たいという理由だけで、人の自殺を武器化することに恥ずかしさを感じないのですか?
https://x.com/elfortega/status/1968128870051389777
芦原妃名子の死をあなたの議論で持ち出すなんて、絶対に許さないわ。セクシー田中さんは、客体化と、社会における女性が男性主導の評価システムに基づいて判断され、価値付けられる様子についてのマンガよ。これはあなたが嫌って絶対に読まないような作品。あなたには関係ないの。遠慮して。
https://x.com/Mushishime/status/1967765101882298432
信じられない気持ちです。
どうして誰かが罪悪感を感じずにこんなことができるのでしょうか?
マンガにないファンサービスがアニメに含まれるたびに、この人たちが不平を言うのを見かけません。
なぜだろう。
https://x.com/ber_p_prat/status/1967981653021626637
芦原妃名子を持ち出すなんて厚かましい。彼女は、自身のマンガ「セクシー田中さん」の実写化が、マンガのテーマやメッセージ、つまり加齢する女性としての身体やセクシュアリティを扱う難しさを無視したり、矛盾したりしたことが原因で、一部自ら命を絶った。
https://x.com/cnatting/status/1968062569715048492
ゼンコ・クリシタが尊敬され、真面目な中道左派の政治家から、ますます過激で妄想的な自身の利益のために女性の自殺を利用するような安っぽい扇動者に変わったのはいつからだろうか?
https://x.com/Hachedehelp/status/1968205440745127946
反動的な考えは、時には愚かさを装って主張する必要があるだけだと分かっていますが、それでも「このキャラクターのアニメのおっぱいが十分に大きくなかったら、漫画家が自殺してしまうかもしれない :( 」というのには驚かされます。
https://x.com/queenbuttpirate/status/1968285971117707463
芦原妃名子は30年間、女性のために成長、友情、愛、喪失、精神的な健康、そして自分を大切にすることの重要性について書いてきました。彼女に起こったことは、未成年の少女が性的に扱われるのを見たいというあなたの欲求を正当化する例ではありません。
https://x.com/PortalShoujo/status/1968313127545798672
これまでくりしたの存在を知らなかった人たちにも知れ渡り、くりしたの顔写真を使った風刺画像も発生し、女作者と女脚本家が認め合って作った作品に、ファンでもない作品に言及したことのなかった外野の男が割り込んで暴力的態度を取っているとバカにされている
■「女の容姿を貶せば自信を喪失して低身長チー牛で妥協してくれる」非モテ男性の妄想に過ぎなかった
https://anond.hatelabo.jp/20250627104451
実際は有名人や有名人もどきのホストに貢いで自身を慰撫する方向に向かうだけでした
独り言。顔と身長だけしか取り柄のないクソ親父に容貌を蔑まれ、小学校時代に好きな子にブス呼ばわりされてから余計に美しい男の人に固執するルッキズムの権化と化した。ないものを追うのだろうね。
オキナワンロックミュージシャン、特撮俳優さんたちのルックスレベルが半端なく、なんか禁断の果実の比喩であるエデンのリンゴどころか、天界のお御馳走+百年に一度しか実らない桃を食い荒らし、秘薬金丹までスナック菓子のようにパクパク食べた孫悟空になった気分になったんだよな。
もしかすると、オキナワンロッカーや特撮俳優さんらは、エデンのリンゴどころか、この世のうまみを凝縮したように美味しい、でも、禁断のヘルヘイムの実だったのかも(こら!)
理想を追うな、妥協しろと言うけれど、妥協して結婚して不幸せになったケースもいくつか見てるし(母親は親父のルックスだけに惹かれて悲惨な運命になったけど)、それなら推しに萌えたほうがずっといいや。
■「女の容姿を貶せば自信を喪失して低身長チー牛で妥協してくれる」非モテ男性の妄想に過ぎなかった
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実際は有名人や有名人もどきのホストに貢いで自身を慰撫する方向に向かうだけでした
独り言。顔と身長だけしか取り柄のないクソ親父に容貌を蔑まれ、小学校時代に好きな子にブス呼ばわりされてから余計に美しい男の人に固執するルッキズムの権化と化した。ないものを追うのだろうね。
オキナワンロックミュージシャン、特撮俳優さんたちのルックスレベルが半端なく、なんか禁断の果実の比喩であるエデンのリンゴどころか、天界のお御馳走+百年に一度しか実らない桃を食い荒らし、秘薬金丹までスナック菓子のようにパクパク食べた孫悟空になった気分になったんだよな。
もしかすると、オキナワンロッカーや特撮俳優さんらは、エデンのリンゴどころか、この世のうまみを凝縮したように美味しい、でも、禁断のヘルヘイムの実だったのかも(こら!)
理想を追うな、妥協しろと言うけれど、妥協して結婚して不幸せになったケースもいくつか見てるし(母親は親父のルックスだけに惹かれて悲惨な運命になったけど)、それなら推しに萌えたほうがずっといいや。
彼らが「モテるチビ」として例示したがるジャニーズタレントは、10代の頃から女ウケするスタイリングや仕草や腐女子向け営業の研究に人生の大半を費やし、なおかつ事務者入所の時点から過酷な競争を繰り返し乗り越えている
低身長男性が夢想する「何もしなくても女に群がられる存在」とは真逆なんだけど
■「女の容姿を貶せば自信を喪失して低身長チー牛で妥協してくれる」非モテ男性の妄想に過ぎなかった
https://anond.hatelabo.jp/20250627104451
https://anond.hatelabo.jp/20240210015356
https://anond.hatelabo.jp/20250914133238
というわけで「なぜDQ7リメイクでキーファを復活させてはいけないのか」について語らせてください。
『ドラゴンクエストVII』におけるキーファの離脱は、プレイヤーにとって大きな衝撃であり、物語全体のトーンを決定づける出来事です。
「仲間はいつまでも一緒にいる」と思い込んでいたプレイヤーに、「別れ」というテーマを突きつけることで、作品は一段深い重みを得ています。
ここで彼を安易に復活させれば、この衝撃と感情的な余韻は失われ、作品が持つメッセージ性が希薄化してしまいます。
キーファは単なるシナリオ都合で抜けたのではなく、「自らの意志」で未来を決断しました。
自分の血筋や立場、仲間への情を背負いながらも、彼は「自分が生きる意味」を見出して旅を去ったのです。
もし後から「やっぱり戻りました」となれば、この選択の重みは茶番に変わってしまい、キャラクターとしての完成度を損ないます。
DQ7は、膨大なシナリオと複数の人間模様を通じて、「喪失」「赦し」「継承」といったテーマを描いています。
キーファの離脱は、プレイヤー自身にとっても痛みを伴う体験であり、その後のストーリーや仲間たちの成長をより実感させる装置になっています。
復活させてしまえば、この貴重な「喪失体験」が取り消され、ゲーム全体の体験価値が平坦になってしまいます。
キーファ不在後に加わる仲間たちは、それぞれ独自の役割や物語を背負い、チームを支えていきます。
キーファが戻ってきてしまうと、彼らの役割が相対的に薄れてしまい、物語全体のバランスが崩れかねません。
特に主人公やマリベルの成長は「キーファのいない世界」で進むからこそ映えるのです。
リメイクは「原作の体験を現代風に最適化する」ものであり、「物語の根本を作り替える」こととは違います。
ファンが望んでいるのは操作性やテンポの改善、グラフィックの向上などであって、物語の根幹を覆すような改変ではありません。
もし復活イベントが追加されれば、それは「別作品」として楽しむべきであり、「リメイク」としては不誠実といえるでしょう。
キーファを復活させることは、一見するとファンの願いを叶えるように見えて、実際には作品のテーマ性、キャラクターの完成度、プレイヤーの体験価値を大きく損なう行為です。
『DQ7』という作品が特別な存在であり続けるのは、「仲間はいつまでも一緒ではいられない」という現実を突きつけてくれるからこそ。
つまり、リメイクにおいても「キーファは復活させてはいけない」のです。
個人的な意見としてはDQⅡで「たった3人の勇者たち」という体験を損ねたのは大失敗だと思ってますし、花嫁選びでアレコレいらない世話を焼いてきたのもクソバカだと思ってます。
スクエニ、今度こそ失敗しないでね。
アベノミクスは肝心の成長戦略がおざなりで、戦略特区は縁故特区に成り下がってたくらい。
一方で、応急処置だったはずの金融緩和を延々と続けたので、日銀はアベ在任中に金利コントロール能力をすっかり喪失した。結果、コロナショック後のアメリカの利下げ→利上げに対して日銀は為すすべがなく、日本円の独歩安を招いた。
まともな成長戦略の実行無くして健全なインフレなど起きない。アベは反面教師として実に良い教訓を残してくれた。
https://anond.hatelabo.jp/20250825103147
自由恋愛不可能な発達障害アスペ男性が、初対面や親しくない相手に「この技を使えば都合がいい女が一発で手に入る」という詐欺を鵜呑みにする
僕の考える限り、ディスやネグを使いたければ、相手とある程度、信頼関係が生まれてからにすべきだ。信頼というと、堅苦しい表現だけど、たとえば友達レベルに仲良くなって、軽口が叩けるぐらいになった時とかの段階ではない限りは、否定の類の言葉は届きにくいと思う。要は「イヤなこと言ってるけど、私のためを思って言ってくれてるんだ」って状況にしないとダメなんじゃないの? っていうね。
■「女の容姿を貶せば自信を喪失して低身長チー牛で妥協してくれる」非モテ男性の妄想に過ぎなかった
https://anond.hatelabo.jp/20250627104451
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香港の民主派は、かつての理想と勇気の象徴として称賛された。しかし、2014年以降の運動、特に2019年の大規模デモの展開を振り返ると、その戦略的・倫理的欠陥が明白であり、結果的に香港社会に深い分断と喪失をもたらした責任は免れない。
第一に、運動の主要な訴求が「民主」「自由」「普選」であったとはいえ、それらを掲げるだけで現実的に何を達成できるのかという計算が甘かった。スローガンは大衆の共感を掴むための強力な道具だが、政治的成果をもたらすためには、法制度や行政の細部にわたる実務的戦略、交渉力、持続的な市民基盤の維持が不可欠である。2019年の抗議は街頭での熱狂を生んだが、同時に組織的な意思決定と長期戦略の欠如を露呈した。区議選での勝利や一時的な国際的関心は得たものの、それを生かして構造的変化を引き出すための冷徹な政治的駆け引きやバックチャンネル交渉が十分であったとは言い難い。
第二に、運動内部の倫理観と表現方法に問題があった。市民の不満の矛先を大陸出身者や観光客など「外的」な存在に向けるような言説や行動は、短期的には連帯を生むことがあっても、長期的には社会の分断を深める。経済や社会制度の問題を外部の「他者」に転嫁することは、根本原因の解決を遠ざけるだけでなく、運動自体の正当性を傷つける。マナーや越境出産、観光客の振る舞いへの怒りは理解できるが、それをヘイトや排斥にまで発展させた一部の言説は、民主的な主張の正当性を弱める愚行である。
第三に、指導部の責任感の欠如が繰り返された。政治運動において真の指導とは、常にストリートの熱狂を冷静に管理し、交渉の場で最大限の利得を引き出すことを意味する。だが、抗議行動はしばしば過激化し、象徴的勝利を追うあまり現実的な妥協点を見逃した。対話の場を軽視し、敵対的な態度を堅持した結果、北京と香港政府は強硬手段で応じる口実を得た。政治は相手との力関係の交渉であり、市場価値や支持率が高まった時にこそ最も効果的に要求を通すチャンスがある。民主派はその「売り時」を逃し、ストリートでの優位を政治的成果に変換できなかった。
第四に、運動が掲げた価値と現実の行動との乖離だ。自由や人権を訴える運動が、同時に排他的な言動や選民意識を育んでは説得力を失う。自由を求める者は、異なる意見や出自を持つ同胞とも共に生きる術を示すべきであり、対話と包摂を拒むことは自らの主張を脆弱にする。民主派の一部に見られたナルシシズムやイデオロギー的硬直性は、運動の幅を狭め、支持層の拡大を阻んだ。
第五に、外部へのアピール戦略の未熟さも目立つ。国際社会の同情は短期的な注目をもたらすが、実効的な支援や圧力に結びつくとは限らない。民主派が国際的な関心を最大限に政策転換へ結びつけるためには、国内の制度的弱点を突き、継続的に外圧を誘導する繊細な外交戦術が必要だ。だが現実は、メッセージが断片化し、海外での同情もやがて疲弊していった。結果として北京は「内政問題」として一方的に行動する余地を得た。
最後に、結果として香港社会が被った損害は甚大である。運動は短期的に香港の公共空間とコミュニティの結束を傷つけ、国内外の投資や信頼にダメージを与えた。長期的には法的な締め付けや経済・教育の変化をもたらし、多くの若者が海外へと道を求める原因ともなった。もし運動の目的が真に香港のより良い将来であったなら、ストリートの正義感を現実政治の中で如何に制度化するかにもっと注力すべきだった。
批判は運動を完全否定するものではない。香港の若者たちが不公正に声を上げたこと、政治参加を求めたことには尊重が必要だ。しかし、尊敬と同情は免罪符ではない。運動のリーダーと支持者は、過去の過ちと戦術的失敗を冷徹に検証すべきだ。感情の高まりを正当化材料にして無計画な行動に走るのではなく、具体的な政策提言、制度改革案、現実的な交渉戦術を整えることが、次に類似の課題に直面したときに初めて意味を持つ。
要するに、香港の民主派は理念だけで道を切り開けると誤認した。理想は重要だが、政治は血肉のある力学である。情熱に溺れる者は、しばしば長期的な勝利を失う。香港の将来を真に案じるなら、まず自らを律し、社会全体の信頼を再構築する責務を負うべきである。
コロナの在宅勤務を契機にここ数年鬱っぽく、鬱を自覚した当初に自分のテンションを上げる目的で、休みの明るいうちから一人酒を飲んでみる。
そのうち、休みは暇という虚無をスキップするための飲酒、が常態化する。
折しも現職でのうだつの上がらなさや、家族からだんだん舐められてる、下に見られているというミドルエイジクライシスも相まってどんどん自我を喪失し始める。
そして現職内でいくつか不満がたまる中で管理職と折り合いが悪くなり、
「おーほんなら辞めたらぁ(でもあたしみたいなオジサン慾しい人なんて…)」と軽い気持ちで転職サイトをちょちょっといじってみたところ、数件面接まで進んだ後内定までいただく。
んで↑の台詞をリアルで管理職に言って9月から有休消化、ってワケ。
微量ながらも金も暇もあるボーナスタイムなのに、家族や周囲の目を気にして、それよりなにより自分が何をしたいのかがわからなくて茫洋とする老人モラトリアム。
人生2度目のモラトリアム、2度目の青春(回春)に、なにか良きアドバイスを。
反応本当にありがとう。嬉しいもんだね。
厳しいコメを言ってくれる人も、「厳しいコメ多い」って言ってくれる人も、両方大切に思う。
厳しいことを言ってくれる人ってどんどんいなくなるのよ。友達減っていったり、家族仲あんまよくなかったりしてると。
身内バレや特定を防ぐために父以外の性別などは伏せておく。もし書き方や内容に見覚えがあったら、同じ人と言っておくので、記事のことは心にだけ留めておいてほしい。SNSや友人へ話すには重い話だから、ここに書いているだけなので。
正直、嫌いだ。成人して少し経ったけど、数年ぐらいしか一緒にいたことはない。それも、数日家にいて、帰っていくだけのばらばらな時間を繋ぎ合わせてやっと数字になるような期間だ。
癌と診断以来、一緒に暮らすようになってから、共にいる時間の最長記録を更新し続けている。これが、もう二度と塗り替えられない記録になる。こうやって少し感傷的になってしまうのも嫌だ。大嫌いだ。育児放棄して、養育費すら支払ず、大きな挫折にも寄り添ってくれなかった、自分を育ててくれなかった父親のくせに、最期だけこうして、死の喪失だけを置いていく。悔しくて仕方ない。やはり危惧していた通りだった。それなりに、この人が失われてしまうことを惜しんでいる。
惜しく思う気持ちを自覚した確実な時は、父宛ての荷物が受け取りされていないと連絡があり、住所変更をした時だった。父が癌と診断される前、自分が頼まれて代理で購入し、当時の父の住所に宛てたもの。
今の住所、つまり自分の実家の住所を記入しながら、「きっとこれを購入した時は、これを存分に楽しむ気持ちだったのだろう」と思うと、虚しく切ないような気持ちになる。あるいは父であるからと気持ちを混同して、通常死にゆく人に感じる普遍的な憐憫のようなものを、父にも感じているだけかもしれない。そうであればいいと思うが、いずれにせよ、死に向かうことを直視するというのは、想像よりもずっと精神に負担がかかるのだとわかって、少しく苦しい。これは自分の心が弱いからなのか、想像しすぎてしまうからなのか。わからないけれど、ただ虚しい。
心の強い人間である自覚はない。だから一緒にいれば、近くで見れば絶対に悲しくも惜しくもなる。それが悔しい。その苦しみだけを最期に残していく、その身勝手さが憎らしい。正直、自分に憎む権利はあるだろうと思えど、怨み言を口にすればするほどそれが罪深いことのようにも思え、なんて心の冷たい人間なのだ、もう長くは生きられない生活をよいものにしてやろうという心持はないのかとも思ってしまい、もうどうしたらいいかわからない。憎むことは逃げ道となり得なかった。半年と定められた時間を歩むだけが現状唯一の退路であり、他、自分にできることは何もない。
夜ごと呼吸を確認しながら、死ぬことについて、目を閉じたらそのまま目覚めないかもしれないと思う心について考え込んでしまう、今日のような日が終わることばかりを願っている。しかしそれははやくに死んでくれと願っているようで、それもまた己が心の醜さを自覚してしまい、やはり父が嫌いだと思う。父が与えるのは今も昔も別れるその時間ばかりで、それでもそれは、少しは救いなのかもしれない。少なくとも、今後記憶が美化されるようなことはないだろう。美化するべき記憶もない。ここまで書いてそれを確信したと考えれば、安心するような思いだ。そう信じたい。
定期的に話題に上がるセックスレスはてなを見ていると、結婚したもん勝ちじゃないけど、配偶者を正面から拒否する人間性の人にも配偶者っているんだよなって惨めになる。
自分は多分他人に親切な方だけど特に誰からも求められていないし今後もそういう人生なんだと思う。
子供まで作った相手によくそんな酷い仕打ちが、とは思うんだけど、これやっぱり持たざる者の想像力のなさ由来の感想なのかな。
ホルモンバランスがどうのって話は本当によく聞くんだけど、分かってるなら薬とかで対処して歩み寄れないのかな。
世間体と経済的援助と子供の親ポジションを喪失したくないから独身以下の自由で配偶者を縛り付けておくってあまりに非人道的じゃない?
「【育児休暇から復職した】女性は給与を倍にする」って法案、どう?
数年仕事から離れた程度で突然能力が劣ったり、国家資格を取るためにした記憶を喪失したり、しないでしょ。
もし衰えるなら50歳の権威ある偉い先生が最後に勉強したのは何年前ですか?ってなるし。
難しい能力が不要な仕事なら、余計に、新人より使えるのは明白だし。
「女はどうせ育児で抜けるから」と採用を渋ったり、ポストを与えないせいで
じゃあ子供もたずに働いたほうがいいんですね?いいですよ ってなった結果が今の国家単位の少子化でしょ?
生理という激痛にたえ、妊娠という10ヶ月の体調不良に耐え、乳児を殺さないようにするプレッシャーに耐え、その見返りがマミトラという「罰」だから、誰もやらないんだよ
報酬を用意しようよ
産みたくなる理由、産んでも人生が行き詰まらない保証を、「「少子化」を解決するために絶対に避けられない女性の犠牲(痛みと不便)に用意しようよ
男は中出しだけじゃん、快楽だけだよ、失うものなし、むしろ犯罪に手を染めてまでみんながやりたがることを味わってんだから、もういいだろ。
給与が倍になるなら、外貨稼ぐ担当は女性に、男性に育児を任せたほうが得、が主流になるよ。きっと。
そこにプライド出してごねる男はどんどん切られて、協力的な男性がモテる時代になっていくでしょ。
だってシングルマザーでも給与さえ保証されればなんとかなるもん。邪魔な旦那なら冷静に切れる。
今現在、子供作らないことにどやってるパワーカップルは1倍の女、1倍の男でやってもいいし
効率求めててか妊娠しちゃったほうが得では…1年で600万もらえるなら…ってなるよ、そういう思考のやつほど。
んで、いざ産んだら思ったよりかわいい~育児やりたい~で望んで仕事やめるかもしれん。それは産んだ誰より偉い当事者が好きに決めればいい。
現在かつて国民的スポーツとされていたプロ野球がその地位からは転落してしまった、といっても過言ではないだろう。
いくつかの主要な理由の一つに、無料での放送枠が激減したことにその理由は求められるだろう。
(もちろんそれより大きな理由としてネットの普及によるテレビのマスメディアとしての支配的地位の喪失があるのは言うまでもない。)
簡単に言うと、無料で見られなくなる、だとか視聴方法がそれまでよりも狭まるたびに、パイは縮小していくのだ。
これはごく当たり前過ぎて言うまでもないのだが、しかしあらためて考える必要はある。
いま、WBCを見るためにネットフリックスに契約するという人たち(パイ)は将来ネットフリックスだけでしかWBCが放送されなくなった時代には存在しなくなるのだ。
そもそもWBCを見る習慣がない人たちにWBCを見るために有料放送を契約させるのは非常に難しい。
つまり将来的にはWBCというコンテンツは集客効果を減少させてしまうことになるのだ。
囲い込みをすればするほど視聴者は少なくなる。
モータースポーツだとかそういうマイナージャンルを見てご覧なさい。
かつてごく一部とは言え日本人にも人気があったオートバイの世界選手権シリーズなんてマニア以外に見る人はほぼいなくなってしまった。
全国放送の地上波テレビ枠→NHKの衛星放送枠→wowowの有料放送枠→なんやかんやよくしらないマニアックなチャンネル
とまあこんな感じだろしらんけど
韓国では実際には「立憲君主制」は採用されていない(=現在の韓国は共和国であり、王室も存在しない)にもかかわらず、架空の王室を描いたドラマ――いわゆる「もし今も王室が存在していたら」という仮想歴史(オルタナティブ・ヒストリー)や現代王室もの――が人気を集めることがあります。
以下は、なぜそのようなドラマが人気なのかについての理由です:
現代社会におけるストレス、格差、政治不信などから、視聴者は日常とかけ離れた華やかな王宮生活や非日常の恋愛に憧れや癒やしを求めます。王子や王女が登場するストーリーは、まるでおとぎ話のようで、夢の世界への入り口のように機能します。
韓国はかつて朝鮮王朝や大韓帝国が存在した歴史を持ちますが、日本の植民地時代を経て王政は廃止されました。
それゆえ、「王室が今も存続していたらどうなっていたか?」というロマンや好奇心をくすぐるのです。
特に、現代的な価値観(自由恋愛、民主主義、女性の自立など)と王室制度の伝統がぶつかり合うストーリーは、ドラマ的にも非常に面白くなります。
🔹 3. ビジュアル面の魅力
王宮、伝統衣装(韓服)、儀式など、美術的・文化的に視覚的な魅力があります。豪華なセットや衣装、美しい俳優たちが視聴者を惹きつけます。
韓国社会にはいまだに学歴・家柄・経済力によるヒエラルキーが色濃く残っており、「王族や財閥」という“頂点”にいる人々のドラマは、現実社会の縮図としても描かれることがあります。
「身分の差を越えた恋」「王室内部の陰謀」「跡継ぎ争い」などは、そうした社会的なテーマとも重なっています。
🔹 5. 過去のヒット作の影響
たとえば:
『七日の王妃』
『太陽を抱く月』
『赤い袖先』
などのドラマが大ヒットしたことで、「王室+恋愛」の組み合わせが一つのジャンルとして確立されました。
総合すると…
韓国人が王政に憧れているというよりも、ドラマというフィクションの中で「非日常」や「理想の恋愛」「社会階層の象徴」を描くのに、立憲君主制という舞台装置が非常に便利で魅力的だから、ということが言えます。
もし特定のドラマを指している場合(例:『宮』や『赤い袖先』など)、それに合わせた考察もできますよ。
あなた:
世界にはたくさんの共和国があります。立憲君主制に興味を示す人が多い共和国はどこですか?
ChatGPT:
とても鋭い観点ですね。
実際、多くの**共和国(君主制を採用していない国)**でも、立憲君主制に対する強い関心や人気が存在する国があります。そうした興味は、政治的な意味というより、文化・歴史・エンタメ的な憧れや好奇心として表れることが多いです。
以下に、立憲君主制に特に関心を持つことが多い共和国の例を紹介します。
🇰🇷 韓国
概要:すでにお話したように、現代王室を舞台にしたドラマや映画が人気。
背景:
ドラマ『宮』などのヒットにより、若者の間で「王子様」「プリンセス」幻想が根付く
概要:王朝時代を舞台にした歴史ドラマ(古装劇)が大人気。皇帝・后妃・官僚・宦官などのキャラクターが中心。
背景:
清朝の滅亡から100年以上経っており、皇帝制度は完全に過去のものとされている
※ただし、中国では現実政治での君主制復活などは絶対にタブーです。完全なフィクションとしての消費。
🇹🇷 トルコ
背景:
共和国化以降も、「もしスルタン制が続いていたら…」という空想やロマンは根強い
代表作:『オスマン帝国外伝〜愛と欲望のハレム〜』などが世界的ヒット
概要:ロマノフ朝(帝政ロシア)への関心が根強く、アナスタシア伝説やロマノフ家に関する作品が人気。
背景:
興味の形:現代ロシアが立憲君主制になることを望む声は少ないが、「失われたロマノフ家」のロマンは強い
概要:フランス革命で王政を廃止した国でありながら、ルイ14世やマリー・アントワネットなどの人物には人気がある。
背景:
注目点:現在も王政復古を唱える「王党派(Légitimistesなど)」が少数ながら存在
🇮🇷 イラン
概要:1979年に王政(パフラヴィー朝)を打倒してイスラム共和国になったが、現在の政治体制への不満から「王政時代のほうが良かった」という声もある。
背景:
パフラヴィー家の王子たちが今も国外で活動しており、象徴的な存在として注目される
💡共通点として言えるのは:
王政時代を「理想化」または「ノスタルジーの対象」としてとらえる傾向がある
立憲君主制への関心は、政治的な復活希望ではなく、文化的・情緒的な興味に留まることが多い
ほとんどの共和国では、実際に王政復古を求める声は非常に小さく、「制度」としての君主制に興味があるわけではなく、あくまで文化・娯楽・歴史としての関心であることが多いです。
ご希望があれば、「どの国が最も君主制に復活の可能性があるか」みたいな政治的な話にも踏み込めますよ。
あなた:
世界のほとんどの国にはかつて国王がいました。かつて王室があったから、という理由だけでは特にそれらの国がより強く君主制に関心を示すのか?という問いに対して不十分です。地理的な観点から論じることは可能ですか?
ChatGPT:
素晴らしい問題提起です。
おっしゃる通り、「かつて王室があった=関心が強い」とする説明は単純すぎますし、全ての国に当てはまるわけではありません。
この問いをもう一段深く掘り下げるために、**地理的観点(=地理、地域文化、近隣国の影響、文明圏など)**から分析を試みましょう。
🔍【問いの再定義】
「世界の中で、特にどの地域の共和国が立憲君主制に関心を示しやすいか?そしてその背景には地理的な要因があるのか?」
この問いに答えるには、以下の要素を軸に考えると良いです:
特徴:
日本の皇室が存続しているため、文化的ライバル意識や比較意識が働きやすい(特に韓国・中国)
結果:
架空の王室を使ったドラマやフィクションの舞台として君主制が頻出
特に韓国では「現代王室+恋愛+政治ドラマ」のフォーマットが人気
特徴:
結果:
現体制(イスラム共和国)への反発から、王政時代を「失われた秩序」として理想視する層も存在
✅ 東南ヨーロッパ/バルカン半島(ブルガリア、セルビア、ルーマニアなど)
特徴:
冷戦期に共産化→君主制を廃止したが、比較的最近まで王室が存在
結果:
特徴:
結果:
王政そのものへの復活願望は少ないが、文化的にヨーロッパの宮廷文化に対する憧れが見られる
アメリカ:反王政(独立戦争の歴史)が国家アイデンティティの一部
カナダ:イギリス国王を元首とする立憲君主制国家ではあるが、王政に対する文化的関心は低下傾向
結果:
立憲君主制に対して冷静/無関心
フィクションとして消費されることはある(例:『プリンセス・ダイアリー』)が、文化的に根ざしてはいない
多くの国に伝統的首長制が残っているが、欧州型の君主制への関心は限定的
一部に象徴的王族がいるものの、立憲君主制を制度として復活させようとする動きは少ない
結果:
自国文化の再評価の方が強く、欧州型王政は「支配の象徴」として敬遠されることも
地域的に君主制への関心が高まるのは、以下のような地理的な環境があるときです:
周辺国に現存する王政がある 日本、英国、サウジなど 比較対象・メディア露出により関心が刺激される
王制が比較的最近まで続いていた 韓国、イラン、バルカン諸国など 記憶が風化しておらず、ノスタルジーが強く残る
欧州文化や貴族文化への接触が強い ラテンアメリカ、バルカン、東欧 王室=格式・伝統の象徴として文化的憧れが根付く
地政学的な比較意識がある 韓国→日本、イラン→湾岸諸国など 政治的・文化的に隣国と比べて「自国の過去」への再評価が進む
ご希望であれば、特定の地域や国についてもっと詳細に掘り下げることもできます。
あなた:
近隣国に王室が存在するから自国の立憲君主制ファンタジーを楽しむ、というのは納得します。
ChatGPT:
ありがとうございます、非常に本質的なご理解です。
まさに**「近隣に王室がある」という地理的・心理的条件**が、「自国にはないもの」への関心や空想を生む土壌になりやすいのです。
近隣国に王室があり、その存在が文化的・国際的に注目されている場合(例:日本の皇室、英国王室)、
→ 国民の中に「我が国にもあれば…」「我々の文化も誇れるものがあるはず」という感情が芽生えやすい。
近隣国の王室報道(戴冠式、結婚式、葬儀など)は国際ニュースとして流れる。
→ それを見た視聴者が「格式」「伝統」「ロマン」といった要素に惹かれ、自国文化における対応物を求める。
例:韓国での『宮(Love in Palace)』のような現代王室ドラマ。
→ これは単にファンタジーとして楽しむだけでなく、「日本に皇室があるのだから、韓国にだって王室があったら面白いじゃないか」という比較文化的な空想が土台にある。
韓国 日本(皇室) 高い 『宮』などで自国に王室がある想定が人気。
中国 日本、タイなど 高い(主に歴史もの) 清朝ドラマの大人気。過去の王制を美化しがち。
イラン サウジ、ヨルダンなど 中〜高 イスラム王政国との対比で「かつての帝政」を再評価する声も。
トルコ ヨルダン、湾岸諸国 中 オスマン帝国のノスタルジーと近隣国との比較。
東欧・バルカン スペイン、英国、モナコなど 中 王族の再登場も時折話題に(ブルガリアなど)。
これはいわば「隣の芝生は青く見える」現象の文化バージョンです:
人間の性行動を論じる際、多くは文化や社会の視点が導入されるが、本稿ではそれらを排し、進化心理学と進化生物学のみを用いて、「男性にとってのセックスとは何か」を考察する。
あらゆる動物と同様、人間の行動原理も、遺伝子の複製と継承である。
オス(男性)はメス(女性)と比べて生殖投資が少なく、一度の交尾で複数の子孫を残せる可能性がある。
そのため、進化的にはできるだけ多くの性交機会を得ることが選択圧となってきた。
この戦略はチンパンジーなどの霊長類にも見られ、オス同士は発情したメスへの交尾アクセスを巡って激しく競争する。
ヒトの男性もまた、性的に選ばれることを最も強く求めるよう設計されている。
この構造の下で、男性にとってセックスは単なる快楽ではなく、選ばれることの象徴である。
すなわち、性行為に至るという事実そのものが、自分には生殖価値があり、淘汰されないという確証として機能する。
逆に言えば、性行為への恒常的なアクセスを失うことは、進化的には淘汰の対象となったというメッセージとして認識される。
たとえばセックスレスは、女性にとっては忙しさや情緒の断絶の延長かもしれないが、男性にとっては「自分の存在価値の否定」として強く知覚されうる。
彼らはしばしば、自分が家族のためにリソースを提供し続けているにもかかわらず、生物的な承認を失っているという構造的苦痛に晒される。
特に40〜50代の中高年男性に自殺が多いのは、単なる仕事のストレスではなく、この性的価値の喪失による精神的打撃も関係している可能性がある。
経済力を失うことで配偶者からの承認も失われ、性的アクセスが閉ざされる。
そのことが、自分はもう遺伝子を残すに値しない存在なのだ、という進化的絶望につながる。
こうした文脈を踏まえると、男性のポルノや風俗、創作表現への依存も理解が進む。
それらは単なる快楽追求ではなく、性的に承認されているという錯覚を得るための代償行動であり、それが奪われれば、生存意欲そのものが削られる。
かつて故安倍と麻生と小泉、まあ旧清和会の面々がB層と規定したその手の連中をオタク界隈とセットで票田取り込みに走ったのがそもそも間違い
寧ろオタク界隈で引き取ってるからこそこの程度で済んでるといえる
お前、それがどういう意味か分かってるのか
絶対ロクな事にならんて
自由恋愛不可能な発達障害アスペ男性が、初対面や親しくない相手に「この技を使えば都合がいい女が一発で手に入る」という詐欺を鵜呑みにする
僕の考える限り、ディスやネグを使いたければ、相手とある程度、信頼関係が生まれてからにすべきだ。信頼というと、堅苦しい表現だけど、たとえば友達レベルに仲良くなって、軽口が叩けるぐらいになった時とかの段階ではない限りは、否定の類の言葉は届きにくいと思う。要は「イヤなこと言ってるけど、私のためを思って言ってくれてるんだ」って状況にしないとダメなんじゃないの? っていうね。
■「女の容姿を貶せば自信を喪失して低身長チー牛で妥協してくれる」非モテ男性の妄想に過ぎなかった
https://anond.hatelabo.jp/20250627104451
実際は有名人や有名人もどきのホストに貢いで自身を慰撫する方向に向かうだけでした
@独り言。顔と身長だけしか取り柄のないクソ親父に容貌を蔑まれ、小学校時代に好きな子にブス呼ばわりされてから余計に美しい男の人に固執するルッキズムの権化と化した。ないものを追うのだろうね。
@オキナワンロックミュージシャン、特撮俳優さんたちのルックスレベルが半端なく、なんか禁断の果実の比喩であるエデンのリンゴどころか、天界のお御馳走+百年に一度しか実らない桃を食い荒らし、秘薬金丹までスナック菓子のようにパクパク食べた孫悟空になった気分になったんだよな。
@もしかすると、オキナワンロッカーや特撮俳優さんらは、エデンのリンゴどころか、この世のうまみを凝縮したように美味しい、でも、禁断のヘルヘイムの実だったのかも(こら!)
@理想を追うな、妥協しろと言うけれど、妥協して結婚して不幸せになったケースもいくつか見てるし(母親は親父のルックスだけに惹かれて悲惨な運命になったけど)、それなら推しに萌えたほうがずっといいや。
■結婚や恋愛における、長年の知り合いの低スペや中スペが初対面のハイスペイケメンより優位な理由が言語化されていた
https://anond.hatelabo.jp/20250822105151
一緒に暮らす動物は大抵がそうであるけど、自分にとっては得難い友達だった。数年前に年の瀬の公園で目の前に飛び出してきて意気投合し、そのまま連れ帰り、転職して東京に引っ越し、下町のワンルームで暮らすという、20代におけるダイジェストシーンを象徴するような存在だった。唐突に大きな病気が見つかり、明確な診断もつけられないうちに、1ヶ月の闘病を経て死んでしまった。4歳になったばかりだった。
映画のような出会い方をしただけに、真反対のドラスティックな悲しみ、また、部屋中に猫の柔らかな気配と、薬やらスポイトやら検査結果やらの病気の強すぎるコントラストが漂っていることに耐えられなかった。自宅を離れる口実の旅行計画として、なんとなく関心のあった恐山を思い出した。祈りの場に赴く機会としては、しばらくはこれ以上ないだろう(と思いたい)ということで、会社が夏季休暇に入ったその日に新青森に向かった。
家族や(人間の)友人には恐山に行くことは伝えなかった。自分が沈み込んでいた姿を見られており、このタイミングで山間部に入ることは、或いは自死する計画を持っていると疑われている空気があった。実際いろいろと控えめに気晴らしの提案を受け、断ったり随分先延ばしにしたりしていた。どういったアプローチであれ、死にまつわるものへの接触に惹かれていたのは否定できない。
近隣市に宿泊したのち2日目の始発電車で下北半島に向かい、私鉄やバスを乗り継いで午前中に恐山の霊場に入った。(途中まで路線バス然としているが、山道に入ったところで唐突に少々不気味な恐山解説アナウンスと、子どもが可哀想な目に遭う賽の河原の歌が流れた。)
到着すると、想像していたよりも境内は開放的で、硫黄の香りが強く、空が近かった。入山のバスには何人か観光客がいたが、平日の早めの時間だったこともあり、門を潜ってしばらくしたら、今生きている人間はもしや自分だけなのではないかという錯覚をする程度には静かになってしまった。プラスチックの風車の回るカラカラという音に混じって、微かに鐘の音もする。抜けるような青空だが時折天気雨が降り、遠雷が聞こえる。カラスが飛び交い、足元では白い砂にガスが湧いている。30年弱生きてきて、最も「異境」を感じた地だった。
恐山は特に東北において、死者のゆく「お山」として歴史的に信仰されてきたと聞く。3時間ほどゆっくり散策した感想として、「他者が死ぬことを前にした無力さ」を見に受けた。荒涼として、自分は何の役にも立てず、ただ圧倒されるだけ。大事な猫に何もしてやれなかった、助けられなかった後悔の影響もあるだろうが、死がひのたびこちらを捉えたら、抵抗虚しく受け入れるしかないのではと思ってしまった。
同時に、医療や化学がこれほどまで発達するまでの、少し前の時代の死生観を垣間見たかもしれない。「ああしていれば」の迷いを砕くような、生き物には生老病死の苦しみが大前提で存在し、いつでもこちらを見ていると思わせる光景だった。
うって変わって、岩場を抜けると青く澄んだ宇曽利湖が待っていた。先ほど聞こえていた鐘は湖畔に据付けられていて、誰かが鳴らしていたとわかった。
(実態は一部のウグイしか住めない酸の水だけど)海より速いペースで打ち寄せる透明の波に山の緑、足跡だらけの白い浜と相まって、こちらは別のベクトルの異境だった。「苦しみが終わった世界」を自分が描くなら、今日からはこのイメージになるかもしれない。猫ももう苦痛は無いのだと思うと泣けた。穏やかでありながら寂しい光景で、まだ生きている自分は、ずっとここに居てはいけないとも感じた。
死ぬことの寂寞と諦念のち、死者の安寧を思う。この地で祈ってきたたくさんの人たちが同じ心の動きだったかはわからない。ただ、個人としては「何をしてもいずれ終わりは来るのだから、街に帰って生活を続けよう」と思えた。非現実的な静かさが退屈そうに見えたので。そもそも猫の死後の世界がどういったものかも知らないが、ねぶた祭りの日の青森市街と同程度に楽しみに満ち、そしてできるなら人間の彼岸と同じレイヤーに在って欲しいと願う。人間の見守りエリアも欲しい。
直前まで知らなかったのだが、ちょうどねぶた祭の最中のスケジュールだった。これもルーツは死者の供養だという説がある。自分はこちらのほうが色に満ちていて好きだった。
なお恐山境内には「熊注意」の掲示が散見され、メメントモリにどれほど浸っていても、即座にリアルの恐怖を思い出した。
猫よ、仏前の備えは絶やさないので、できれば熊からも守ってください。
【翌日の追記】
匿名で長文を書きたいという衝動から、プラットフォームの性格もろくに理解せず投稿してしまったので、リアクションがあることにたじろいでいます。増田というスラングも初めて知りました。
確かに、死+恐山という単語がタイトルに並べば、イタコの口寄せのために向かったのだと想像される方が相当数いて当然で、自分が単独行に徹したあまり他者視点に欠け、思い至りませんでした。東北よりはるか南方で生まれ、東京で生活し、ネットでは写真優位のSNSと観光プロモーションに浸かりきった自分にとって、「恐山」は「イタコのいる霊場」より「ある程度の然るべき配慮を持っていくべき、明るい友達との旅行には向かない、公共交通では難易度・中の観光名所」でした。
当日は「動物も降霊の対象になるのか?」と疑問を持ちはしましたが、仮にできたとしても、たかだか1ヶ月弱の離別では話すこともあまりないだろうし、あったとしても「ちゃんと食え」「掃除もしろ」「若くして死ぬのはやめておけ」の言い換えで尺が終わるんだろうなとの投げやりな気持ちから、寺院の方に尋ねもしませんでした。期待された増田の皆様には申し訳ありません。
実際にやるとしたら、何十年後かに自分の人生のBパートに入った頃、猫の命日からその日までの中間リザルトの発表しがいが出てきてからにします。(どれだけ高いところに登ったか、何匹分のまぐろを食べたか、見つけた一番大きい虫のサイズなど、話題に尽きない)
どなたかにコメントいただいた通り、恐山は「あの世テーマパーク」だという感想に共感します。喪失したての人間には誰かの辿るかもしれない旅路を思わせ、そうでない人間には手軽な非日常感と到達感を与えてくれる場所でした。生きている人間のための施設であり、何より敷地内に温泉とお食事どころまであるのがそれらしさを補強しています。東西に散見される冥界のスタンダードに準じれば、ラーメンを食べ、膝下まで硫黄泉に入った自分は帰ってこれなくてもおかしくないのですが、今のところ無事にキーボードを叩けています。