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2025-03-22

この連休乗り鉄日記

増田では、単なる旅日記需要はあるのだろうか。

自分場合乗り鉄旅に出るたびに個人的日記を残しているのだが、試しにそれを公開してみようと思う。

この4連休金曜日は休暇)は、1泊2日で浜名湖名古屋圏に出かけてきたので、まずは1日目の分を載せてみる。

反響があれば、2日目の分も載せるかもしれない。

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2025/3/21(1日目)

寝るのは23時になり、実家に関する夢を見たりもして、あまりよく眠れないままの5時起床。

そう、孤独な今後を考えたら、ネットコミュニティ人間関係を積み上げた方がいいんじゃないかとも思いつつ、何の蓄積にもならない一人旅に。

5時半でも薄明るいんだなと思いながらの電車

平日なので通勤客は居て、地下鉄に乗ったりすると逆方向からこちらに通った時期を思い出したりする。

新横浜では初めての中央から乗り換える。

相鉄直通線やすっかりきれいに戻った環状2号を見る。

のぞみ」は本当に自由席が2両に減っている。

今回は「こだま」なのでしばらく待ち、乗っては三島まで寝ていく。

あとはゲームサントラ聴きつつ、車窓を流して掛川

改札出ては北口に回り、今日のメインだろう天竜浜名湖鉄道

途中降りると一日券と料金が変わらなくなるので、都度の現金精算が面倒で購入。

ゆるキャンコラボなのは嬉しい。

気動車1両には平日なので20名程度しか居ず、ボックス占有できる。

ヤマハ広告浜名湖の「アマモ」の減少を告げている。

広場病院など、スローにこまめに停まっていく印象。

特に、街場にある最初の3駅は入れ替わりが激しい。

山がちに新東名を越え、川を渡れば遠州森でも人は減る。

わずか5人でまた山あい

そんな場所でも茶畑が見えるのは静岡らしい。

有形文化財らしい駅と早咲きの桜がいくつか。

天竜二俣は車庫に寝台車も。

天竜川を越えて西鹿島は乗り換え。

天竜二俣ってエヴァモデル地だったのか。

一旦外に出て遠州鉄道の切符を買い、時間あるので車両写真も撮りたかったが、入線の珍しい2番ホームは本当に2両の車両ギリギリで前が写せない。

そして12分毎の頻度がわかる程度の混み具合。

街場では高架に載り、入口に入りづらいほど混む。

新浜松新幹線からも見た2面2線だが、改札は分離しており、片面が臨時ホームなのを初めて知った。

復路ではRewriteのやや薄暗い感動曲を聴いていたが、なぜか急に「もうどうしようもない」と一人で居ることの不安が襲う。

楽しいことをしているはずなのに、親への申し訳なさがたまらなく(だから、この連休も帰らなかった)、こんなふうに逃げ続けてどうするんだろうと思ってしまう。

占いは「周囲の人が同じように悩んでいることに気づければ、孤独感が薄れるかもしれません」とのことだが、それをどうやって知ればいいのか。

再びの西鹿島

今度はホンダラッピング車両

こちらは全線通し運転なので人は増え、15人程度。

今度は職場でのイライラを感じ始める。

これもどこかに吐き出したいもので。

金指ではゆるキャン車両とすれ違って一枚。

浜名湖新東名と同じく北側から

湖岸にはサイクリングロードあるんだとか、そんな明るい水面をしばらく感じては新所原

さら東海道線を少し行き、何回目かの豊橋

昼飯をスルーしての路面電車は、井原カーブのためなので運動公園行に乗る。

昔はカーブが曲がれなかったとかい旧名鉄モ780系が来た。

その対策のせいなのか、かなり床が高い。

競輪場前では単線なので、入線待ちもあった。

井原カーブは尻が振られる軽いドリフト感。

運動公園行きのホーム交差点先にある。

運動公園車両写真を撮っては、全線制覇のために赤岩口へ歩く。

細道抜けては車庫が見える。

レールを辿るに、車庫には一旦引き上げて入る形のようだ。

バス乗り場も豊橋駅前行きとなっていた。

と15分待ったが、乗るべき車両は来ない。

車両故障で遅れとのこと。

可能なら渥美線も乗ろうと飯も食わずに急いだのだが、その意味は無くなった。

しかし、車庫からの仕立て直しが見れたのは珍しいので、先の引き上げ線に撮影

10分遅れで発車。

行きは気づかなかったが、線路上の路面は見てもわかるレベルボコボコで、車内はかなり跳ねる。

競輪場前では、引き上げ車両が出ていったようだ。

後発との間隔調整で待ちを食らうが、最前列で車窓とともに聞く車両運転手替えに慌てる無線も珍しく。

東田電停って路上待ちなのね。

東八町で客がカラの新しい車両を見て、これが当該車両なのかと思う。

後ろは詰まるように続々来る。

携帯の充電も怪しくなってくる。

そして豊橋には快速が居るが、これに乗っても想定よりは早まらない(蒲郡線は30分毎だ)。

しか快速だけあって、名鉄快特とはり合うスタート

こうなったら豊橋に戻らず、近い名鉄線を埋めていくことにしようと、豊川線渥美線の組み合わせを、三河線(海)に変更すると決める。

蒲郡駅名鉄も同じ高架ホームになっているが、ここもSuica使えないのか。

なのに券売機ひとつ新札も使えず。

20分待ちなので、温かいものを食べる。

名古屋圏なので、うどん屋にはきしめんがあり食べようとするが、こちらも新札不可。

というか、自分以外誰も居ないし店内は薄暗い(そういや、路面電車内も暗かったな)。

これでよく営業できてるなと思って入口見たら、月曜から木曜まで休みらしく、こうして食えたのはかなりの偶然なのね。

ホームにはワンマン専用車が居て、車内には蒲郡線広見線運賃表がある。

道中は開かない後ろ車両に陣取り、しばし東海道線と並走。

そのうち複雑な湾口が見えてくる。

あいを抜けての吉良吉田中間改札に曲がったホーム

そして西尾線に入るが、高架だったりするけど特筆すべきはあまりいかも。

そのままの急行で、知立要塞の高さを見る。

それを下からかに抜けていく三河線

こちらは乗る人がそれなりに多いものの、刈谷JRに絡むくらいでこちらも特筆無し。

そうして碧南到着となり、今日新規体験分はここで終了。

あとは車窓が暗くなってもよいので、ずっと座りっぱなしでもあったし、動画で見た「碧南レールパーク」なる廃線跡を2.3km歩く。

碧南の新しい駅前広場を左に曲がり、駅に停まる車両を撮っては、道路越えて最初の大浜口広場

大人けが多い感じの公園遊具ポイント器具車輪が置いてあり、レールを模した白線が引かれる。

以降、キロ表示を伴う遊歩道となり、玉津浦広場ではホームの高さが残る。

また、臨港線が伊勢湾台風廃止されたことも知る。

さらに円弧を描くような道のりで、棚尾広場の後は三河広場

そのホーム跡は両側で挟まれ、すれ違いできたんだろう広さには、子供たちの考えた見慣れない形の遊具が多数。

その先は、矢作川堤防に上がろうとするレールがぷっつりと切られて終わりとなる物語性。

長かったけど面白い道だった。

帰りは駅に向かって真っすぐ帰る。

あとは復路で、ここまでの日記スマホにまとめて刈谷で降り、遅れていた特別快速宿泊地の岡崎には18時半前。

ここで急に花粉を感じだして、感覚がいっぱいとなりつらくなってくる。

一刻も早く顔を洗いたいが、イヤホンの充電を忘れていてケーブルを買わないといけない。

岡崎駅前から住宅でそういう店が無く、大通りまでけっこう歩く羽目に。

ケーブル無駄な出費でもあるが、隣のスーパーで値下げの惣菜弁当と水が買えたのでトントンか。

街灯がなんか少なく駐車場だらけの中を戻って、ようやくホテル

フロントでは名前書いてアメニティもここでもらうタイプだが、花粉でそれどころでなくスルー

部屋は薄暗いタイプだが、古さは特に感じず良い。

さっそく部屋着になると、先の通り感覚がいっぱいで面倒になり弁当は冷たいまま、花粉対策としてのヨーグルトとまとめて食ってしまう。

大浴場も20時半からだが、待てずに部屋風呂花粉落とし。

そして日記や充電を済まして、改めての大浴場は3人入ればいっぱいなほどの小ささだったが、サウナはあるし、誰も入りに来ないのは逆に都合よかった。

明日もあるので、22時半には寝る。

2日目 → anond:20250323185640

2022-05-23

世界トヨタはかつて食器作りをしていた

トヨタ自動車日本で有名な自動車メーカーであることは言うまでもないことだが、その前身食器メーカーであったことはあまり知られていない。

豊田市愛知県北部位置しており、瀬戸市岐阜県多治見市と隣接している。

瀬戸市日本六古窯の一つである瀬戸焼で有名であり、東日本では陶磁器全般瀬戸物と呼ぶほどに広く流通していた。

多治見市もまた陶磁器名産地であり、アニメ化もされた「やくならマグカップも」の舞台と言えば説明が早いだろう。

豊田市瀬戸市を中心とした猿投地区古代から窯業が盛んであり、日本の三大古窯の一つである猿投窯跡群を形成していた。

今でこそ豊田市に窯業のイメージはあまりないが、トヨタ自動車製造事業化する以前は、瀬戸市多治見市と同じく窯業を主産業とする町であった。

窯業は縄文時代縄文土器から存在する生活に不可欠な産業で、時代と共に需要は大きくなっていき、明治維新によってさらに窯業製品需要は大きくなる。

西洋建築の勃興による煉瓦(れんが)の需要石油製品化学薬品を保存する甕(かめ)の需要送電線を支える碍子(がいし)の需要である

しかしながら、瀬戸焼はこうした需要に応えることはできなかった。

愛知県内で、最新の窯業技術産業を担ったのは常滑焼だった。

常滑焼もまた日本六古窯の一つだが、愛知県知多半島位置する常滑市伊勢湾に面しているので、海運で日本各地の需要を支えることができたからだ。

一方で、瀬戸常滑に対抗しようと流通力を強化するために鉄道を敷設したが(後の名鉄瀬戸線)時すでに遅く、近代産業から撤退して食器作りを中心とした伝統産業へと回帰していった。

常滑では明治時代伊奈製陶が創業して、INAXLIXIL企業名を変えながら国内の窯業で高いシェアを誇っている。

トイレや洗面器ではTOTOに次いで国内シェア2位で、タイルについては国内どころか世界で1位のシェアである

一方で瀬戸からはそのような大企業は生まれていないことから愛知県内の窯業で近代産業を担ったのは常滑ということが理解できるだろう。

ここでようやくトヨタの話になるが、明治時代豊田市存在しておらず、その前身である挙母町でも近代産業を支えるほどの陶磁器製品生産することはなかった。

そんな時代に、豊田佐吉挙母町で陶工長男として生まれた。

佐吉小学校卒業後に家業食器作りの修行をするが、父が伝統製法固執して経営が伸び悩んでいることに苦心していた。

18歳のころ、家業を立て直す唯一の道は最新技術を学ぶことと考え、東京方面出奔する。

その折で、東京上野で開催していた内国勧業博覧会を何度も見て、最新の窯業技術を目に焼き付けた。

そして東京から帰郷し、当時最新鋭の台車トンネル窯を製造した。

それ以前の窯は、製品を人力で運び入れてから予熱・焼成・冷却の全工程を何日もかけて行った後に、人力で運び出す必要のある代物だった。

種類にもよるが陶磁器焼成に1000~1400℃まで加温する必要がある一方で、人力で搬出入する際はもちろん窯の中に入れる温度まで下げなければならない。

これでは、温度の大幅な上下必要なので時間がかかるだけでなく熱効率も悪い。

一方で台車トンネル窯なら、製品を乗せた台車をレールに沿って動かすので、人が窯の中に入って搬入出する必要はない。

窯は温度分布のついたトンネル状の部屋になっており、台車トンネルを進行することで自動的かつ連続的に予熱・焼成・冷却ができるので、温度管理も簡易だ。

この台車トンネル窯により食器自動的大量生産できるようになったので、佐吉豊田自動食器株式会社設立することとなった。

会社設立後の経営右肩上がりだったそうだが、明治から大正へと年号が変わる頃には製品輸送に悩まされることになった。

歴史的挙母町の物資輸送矢作川の船運が担っており、豊田自動食器食器工場製造した食器類も例外ではなかった。

しかし、知多半島方面への用水供給目的とした愛知用水の開発により、矢作川の水量が減り船運が困難になった。

食器生産量は増える一方で矢作川の船便は縮小していき、代替としての馬車や人力車輸送にも限界があった。

それでも、当時は三河鉄道の敷設中であり(後の名鉄三河線)、開通によって挙母から国鉄刈谷駅鉄道輸送可能となるのは決まっていた。

しかし、それまで待ちきれない佐吉の息子の喜一郎は、自動車を独自製造して食器自動輸送することを考えた。

喜一郎は食器販売の滞りで需要の無くなった台車トンネル窯を分解して自動車部品にした。

そして、窯の燃焼ガスを動力台車運転する機構を応用して、台車に燃焼機関を乗せることで自動車の製造成功した。

さらに、食器自動輸送するだけでなく、自動車を製造販売することにも思い至った。

それだけでなく、喜一郎は将来自動車が大量生産されることを予測して、食器台車に乗せて連続的に生産するように、自動車も台車に乗せて連続的に生産する仕組みを考案した。

これが現在自動生産で主流となっている、ライン生産方式である

このようにして豊田自動食器に設けた自動製作部門分離独立したのが現在トヨタ自動車株式会社であることは、もはや説明するまでも無いだろう。

なお、食器工場第二次世界大戦空襲によって焼失し、喜一郎の経営判断により食器製造部門は切り捨てて自動生産へと舵を切ったので、豊田自動食器株式会社現存していない。

話は少しそれるが、トヨタ自動車前身豊田自動織機である、という誤記ネット上でよく見かける。

もちろん正しくは豊田自動食器なのだが、「食器」と「織機」で読みが同じなので誤変換してしまうのだろう。

それだけならまだいいが、トヨタミシン製造していたというヨタ話(トヨタだけに)も一緒に流布していることもある。

豊田市挙母町)で窯業が盛んだったことは地理的にも考古学上でも明らかなのに、なぜそのような勘違いをしてしまうのだろうか。

仮にトヨタミシン製造していたとして、それがどう自動車製造に繋がるのか、理解に苦しむばかりである

 
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