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はてなキーワード: 修辞法とは

2025-04-30

anond:20250430161009

ああ、そこまで読解力が危ういとなると、もう言語という道具を持つこと自体が重荷になってるんじゃないか

「放尿」はあくま比喩だ。意味文脈で決まる。

知的対話をせず、論理もなく感情だけで発言することを、あえて「放尿」という生理現象になぞらえて表現しているにすぎない。

それを「お前は本当に排尿の話をしていたんだな?」と字義通りに引き戻すのは、読解力の欠如を露呈してるだけの悲鳴だ。

お前の論法は、こう言ってるのと同じだ。「人を刺すような発言って言ったな?じゃあお前はずっとナイフの話をしてたのか?」

言葉役割が分かっていない者の発言とは、まさにこれ。

比喩や構文、修辞法といった言語技術理解できずに、言葉字面にしがみつくことでしか攻撃できなくなった者の末路だ。

さらに「オウム返し」を「放尿の話」と同一視して論点スライドさせようとしているが、残念ながら両者は全く別の文脈で使われている。

オウム返しとは「思考停止言葉模倣する知的破綻」、放尿は「論理裏付けなく垂れ流す発言」の喩え。

違うコンテキスト、違う批判、違う階層

それを「同じだよな?w」とまとめるのは、言語レベルでの階層処理能力の欠如=地頭限界意味する。

「本当にそれでいいのか?」と問われたから答えてやろう。

ああ、それでいい。むしろそれしか必要ない。

なぜならお前のその反応が、まさに字面しか反撃できない者の自己証明になってるからな。

2025-02-18

コラム語源起源:柱から言葉の柱へ

コラムという言葉が持つ歴史的文化的背景は、

古代建築から現代メディアに至るまで多層的な変遷を経ている。

その語源ラテン語「columna」(柱)に遡り、

英語「column」を経由して日本語に定着した。

建築用語としての「円柱」から

印刷物の「縦の列」を指すようになり、

最終的に新聞雑誌の短評欄を意味するまでに至った背景には、

18世紀イギリスでの新聞改革が深く関係している。

この増田では、コラム語源起源を軸に、その社会的役割現代における展開を考察する。

コラム語源建築文字交差点

ラテン語「columna」から英語「column」へ

コラム語源は、古代ローマ建築を支えた石柱「columna」に由来する。

この言葉英語「column」として定着する過程で、

物理的な支柱から抽象的な「縦の列」へと意味拡張された。

特に活版印刷技術の発展が、

紙面の縦方向区画を「column」と呼ぶ慣習を生み出した。

印刷用語としての「カラム」は、

16世紀英字新聞で縦組みの記事配置を指すようになり、

これが現代コラム概念の原型となった。

日本語への定着過程

日本で「コラム」が外来語として定着したのは明治期以降とされる。

1874年創刊の『郵便報知新聞』が初めて縦組みの短評欄を導入し、

当初は「雑報」と呼ばれていたが、

大正期に入り「コラム」の呼称一般化した。

興味深いことに、

戦前新聞では「円柱」の原義を意識した「柱記事」という表現も併用されていたが、

戦後GHQ指導で横組みが普及する過程で「コラム」が優勢となった。

コラム起源:1751年の新聞革命

世界初コラム連載

1751年3月11日

イギリスの『ロンドンアドバイザリーリテラリーガゼット』が紙面右端の縦長スペースに批評記事を連載開始した。

これが「コラム」と呼ばれる契機となり、

3月11日は「コラムの日」と制定されている。

当時の記事は縦12cm×横4cmのスペースに収められ、

政治風刺から市井話題まで多岐にわたる内容で、

執筆者匿名性が特徴だった。

この形式が人気を博し、

1777年には初の有料コラムニストが登場するまでに発展した。

日本における受容と展開

日本最初コラムとされるのは、

1902年毎日新聞』の「硯滴」(現「余録」)である

戦前コラム知識人層向けの教養記事が主流だったが、

1950年代大衆化時代を経て、

朝日新聞天声人語」(1904年創設)や

読売新聞編集手帳」(1949年創設)の

ような親しみやす文体が定着した。

特に高度経済成長期には、

コラム大衆の声を反映する場として機能し、

間人コラムランキング出版されるほど社会的影響力を持った。

コラム多様化メディア進化に伴う変容

伝統メディアにおける展開

新聞コラム黄金期は1970-80年代とされ、

朝日新聞天声人語」の執筆陣には芥川賞作家井上靖開高健文学者が名を連ねた。

この時期の特徴は、

800字前後の制約の中で比喩と時事批評を融合させる文体確立にある。

例えば1985年の「天声人語」では、

プラザ合意を「円がジャンプする日」と表現し、

経済用語を平易に解説する手法が評判を呼んだ。

デジタル時代の新たな形

インターネットの普及により、

ウェブコラム文字制限から解放され、

マルチメディア活用した表現可能となった。

2010年代後半からは、

SNSとの連動を意識した短文形式が台頭。

動画組み込み型の「ビジュアルコラム」や

AI生成記事との差別化を図る「人間性強調型」など、

新たな表現手法が次々と生まれている。

コラム言語学的特徴:文体修辞法

制約が生む創造

コラム文体の最大の特徴は、文字数制約(新聞で400-800字、ウェブで1500字前後)の中で最大限の表現効果を追求することにある。

この制約が比喩の多用を促し、「経済の体温計」(日経新聞)のような定型表現を生み出した。

心理学者内藤誼人氏の分析によると、

効果的なコラム

「具体例(30%)→データ提示(25%)→比喩20%)→結論(25%)」

構成比率を持つ。

修辞技法進化

戦後コラム修辞法は、

擬人法(「円が踊る」)、

対句法(「上がる物価、下がる賃金」)、

③逆説(「豊かさの貧困」)の三本柱で発展した。

2000年代以降は、

④問いか形式(「あなたはどう考える?」)、

体験談導入(「先日、コンビニで見かけた光景…」)

といった読者参加型の手法が増加している。

特にYahoo!ニュースコラムでは、

本文冒頭に読者アンケートを組み込む「インタラクティブ型」が2018年から導入されている。

コラム社会的機能公共圏としての役割

世論形成の場

歴史的コラムは、

公式報道では扱えない市井の声を拾い上げる機能果たしてきた。

1950年代朝日新聞素粒子」欄では、

読者投稿を基にした地域課題の掘り起こしが行われ、

実際に地方自治体政策変更につながった事例が複数報告されている。

近年では、毎日新聞発言」欄が東日本大震災後の被災地ルポ継続的掲載し、

復興政策への提言プラットフォームとして機能した。

文化伝達の媒介

コラム教養主義から大衆文化への橋渡し役としても重要役割を担ってきた。

1964年読売新聞編集手帳」の連載「万葉集を歩く」は、

古典文学現代語訳をコラム形式で紹介し、

単行本化されてベストセラーとなった。

2010年代には、

産経新聞産経抄」が日本伝統工芸職人を紹介するシリーズを展開、

若年層の職人志望者が3倍増加する社会現象引き起こした。

コラム未来AI時代における人間性のゆくえ

AI生成コラムの台頭

2023年、

朝日新聞社はAIコラム生成システム「COLUMN-BOT」を試験導入し、

スポーツ記事天気予報コラム自動生成を開始した。

初期段階では定型性の強い記事が中心だが、

感情分析アルゴリズムを組み込んだ「共感AI」の開発が進められている。

一方で、

人間執筆コラムには体験独自性が求められるようになり、

2024年の読売文学賞では初めてAI生成作品ノミネートされる事態が発生した。

パーソナライゼーションの進展

デジタルプラットフォームでは、

読者の閲覧履歴に基づくパーソナライズド・コラム一般化している。

2025年現在

SmartNewsの「マイコラム機能は、

ユーザー位置情報検索履歴心拍数データウェアラブル端末連動)を分析し、

最適なコラム自動配信するシステム運用である

これに伴い、

コラムニスト側にもデータ分析スキルが求められるなど、

職能の変容が進んでいる。

結論言葉の柱としての可能

コラム歴史は、

人類情報を整理し伝達する方法進化史そのものである

古代ローマの石柱からデジタル空間の縦スクロールまで、

その形態は変化し続けているが、

本質的役割——複雑な現実構造化し、

読者に新たな視点提供する——は不変と言えよう。

今後の課題は、

AIとの協働の中でいか人間らしい洞察を深化させられるかにある。

コラムという形式が、

次世代の「知の柱」としてどのような発展を遂げるか、

その行方から目が離せない。

2024-09-16

教養として押さえておくべき演説

歴史的重要演説

歴史上、多くの著名な演説が人々に影響を与え、時代を動かしてきました。

以下はその代表的な例です。

これらの演説は、その内容だけでなく、話し方や構成なども含めて学ぶ価値があります

今回はその中でもマーティン・ルーサー・キング・ジュニアの「I Have a Dream」に焦点を当てます

I Have a Dreamマーティン・ルーサー・キング・ジュニア

マーティン・ルーサー・キング・ジュニアの「I Have a Dream演説は、アメリカ公民権運動における最も影響力のある演説の一つです。

1963年8月28日ワシントンD.C.リンカーン記念堂の前で25万人以上の聴衆に向けて行われました。

この演説の主なポイントは以下の通りです。

この演説は、その後の公民権法(1964年)や投票権法(1965年)の成立に大きな影響を与えました。

また、現代社会正義運動にも継続的な影響を与えており、平等と公正を求める活動家たちにインスピレーションを与え続けています

キング牧師言葉は、人種や背景に関係なく、すべての人々が平等に扱われる社会を目指す強力なメッセージとして今日も響き続けています

I Have a Dream演説は、巧みな構成と修辞技法を用いて、強力なメッセージを伝えています

この演説の具体的な構成は以下の通りです:

導入部

演説は、アメリカ歴史的文脈を設定することからまります

エイブラハム・リンカーン奴隷解放宣言言及し、「100年前」という表現を繰り返し使用します。

アメリカ建国理念である自由平等引用し、現実との乖離を指摘します。

本論

現状の分析

黒人が直面している不平等差別実態を具体的に説明します。

「今こそ時が来た」というフレーズを繰り返し、緊急の行動を呼びかけます

未来ビジョン

私には夢がある」というフレーズを8回繰り返し使用し、平等社会ビジョンを描きます

具体的な例を挙げながら、人種間の調和平等を訴えかけます

行動の呼びかけ

非暴力による抵抗を強調し、平和的な変革を求めます

自由の鐘を鳴らせ」というフレーズを繰り返し、全国的な変革を呼びかけます

結論

アメリカ建国理念に立ち返り、全ての人々が自由享受できる未来への希望を表明します。

自由だ、ついに自由だ。全能の神に感謝する、我々はついに自由になった」という力強い言葉で締めくくります

この演説は、アナフォラ(同じ言葉で始まる文の繰り返し)やメタファー隠喩)などの修辞技法効果的に使用し、聴衆の感情に訴えかけながら、論理的構成で主張を展開しています

また、聖書歴史的文書から引用を巧みに織り交ぜることで、演説に深みと説得力を与えています

この構成により、キング牧師人種差別の現状を批判しつつ、希望に満ちた未来ビジョン提示し、聴衆に行動を促す強力なメッセージを伝えることに成功しました。

2023-11-09

anond:20231109171200

大学卒業してても、修辞法とやらに精通してても相手気持ちはわからないのか。

学費が浮いてる分、中卒の俺の勝ちだな

2023-09-29

anond:20230929212842

ワインいれるやつのことだろ。

ワインデキャンタに移すことで風味がまろやかになるように、

言葉の刺々しさを抑えるデキャンタのような効果がある修辞法だ、と言ってるんじゃないのか。

2022-11-13

[]漸降法

修辞法の一つ。

1. 反漸層法(下降漸層法、anti-climax)。言葉を並べるときに、徐々に規模の小さなものへと降りていく方法

2. 頓降法(ベイソス、Bathos)。

同じように規模の小さなものに降りていくが、より急に落ちる。オチをつける感じに近いか

2022-05-01

〇〇に置き換えると危うさが分かるだろう

…という修辞法が危ういのは「ヒトラーに例える論証」を知れば分かるだろう

https://ja.m.wikipedia.org/wiki/%E3%83%92%E3%83%88%E3%83%A9%E3%83%BC%E3%81%AB%E4%BE%8B%E3%81%88%E3%82%8B%E8%AB%96%E8%A8%BC

比喩は具体→抽象→具体の変換を経るため、しばしば捨象が起こり、ビミョーになりがちである

2021-11-26

anond:20211126081346

「字下げ」修辞法の反対ってなんて呼ぶの?

2021-10-06

anond:20211006003239

畳語法(同じ言葉を繰り返し反復する修辞法)の効果ですな。

ベルグソンによれば、なんの特徴も問題もないものでも、繰り返し現れたら、それは生命が硬直・麻痺したものと感じられ不快またはおかしみをもたらすとか何とか

2021-05-04

anond:20210504120108

話す能力なんて営業とか偉い人の説得(プレゼン)で役に立つ修辞法の一部でしかないよな。作文のほうが重要

2019-12-18

anond:20191218191145

日本語に限らず言語機能としてそういう修辞法自体一般的だと思うが、

その用法使用する層が一部に偏っているなら、

それは普通日本語ではなく専門用語と呼ばれるべきものだろ

2018-02-20

たとえ話につっこむやつはすべからくバカである!!!クソリプ事例集)※追記の方が多くなった

社会問題とかで比喩やたとえ話をすると、その表現に対してクソバカなコメントをするやつが大量に現れる。

「たとえ話は炎上するとママに教わらなかったのか?」なんてコメントがつくまでがワンセットだ。
それも風物詩ではあるが、にしてもアホみたいなクソコメの数々を見ていると情けなくなってくる。

そういうバカコメントパターンをいくつか挙げて、それらがいかバカであるかを説明してやろう。
以下、

 「たとえるなら、AはまるでBみたいなものだ」

という比喩に対するツッコミとして見てもらう。

「AとBは違う。そんなことも分からないのか。。。」

クソofクソ、最悪だ。こんな風に議論を1ミリも進めず嫌味だけ言うようなバカは本当に救いようがない。マジで消え失せてほしい。

せめて何がどう違うのか、違う理由説明してみたらどうだ?

「AとBは違う。だってBは……」

よし理由を言ったな、だがクソだ。

比喩というもの自体をまるで理解していない。AとBが違うのは当たり前なんだよ。
違うものを並べてるんだから相違点なんて考えりゃいくらでも出てくる、それを指摘するお前は何か少しでも有益なことを言っているつもりなのか? バカなのか?

いか比喩ってのはな、あえて直観的には全然のものを並べて、その数少ない共通点に目を向けさせることで、議論の本題が何なのかを理解させるやり方なんだよ。

Aについて言葉を尽くしても伝わらない、だがBと比較すると腑に落ちる、そういう場面はいくらでもあるし、だからこそ有効なんだよ。修辞法の基礎だぞどんだけ歴史あると思ってんだ。

ゆえにAとBの違いにこだわるお前は、本題と無関係な話を繰り返すバカ丸出しな状態にあることを自覚しろ。

「たとえが不適切」「たとえが悪い」

これも上のやつと同じだ。

バカすぎて、たとえの意味理解できなかったのか? なら素直にそう言えってんだ。

理解はしたが表現の仕方に文句がある? それが本題に何の関係があるんだバカか?

もっといいたとえがある。AはBじゃなくて、Cだ」

提案をくっつけてるだけマシだが、これも上のやつの派生形、ゆえにやはり意味が無い。

このタイプは2パターンあるな。

まず、議論を進展させたいという親切心で、より伝わりやす表現提案しているやつ。あっぱれな心掛けだ。
だがここまで読んで分かっただろ? どんなにうまい表現をしたところでバカは上述のようなトンチンカンな反応をするし、逆に理解力のある人間にとっては、たとえが多少下手だろうと大して議論に支障はない。
まあそういう建設的な意図提案は歓迎したいところだがな。

もう一方は、大喜利したい、うまいこと言いたいだけのタイプ
本題と無関係な話をしている自覚があるならまあそれもいいだろう。そこまで芸術点に自信があるなら、面白いかもしれんから言ってみろ。高確率でクソだろうがな!

「AとBが○○で同じなのは分かったが、××が違う。Aに関しては○○よりも××のほうが重要論点だ、なぜなら……」

これはクソじゃない、良い方の例だ。上のやつと大して変わらないじゃないかって? もはやお前は相当のバカだな。

元の発言者最初からAのことしか話してない。Bのたとえを持ち出したのもすべて、Aについて伝えたいことがあったからだ。

お前はそれを受けて、Aの話を続ける。Aに関して認識の相違があるならその話をする。

比喩が役目を終えたなら、その比喩は用済みだ。
比喩による説明が失敗した場合も、その比喩は同じく用済みだ。
次の話をしろ。

それでいいんだよ。




後書き

増田母親です。このたびはうちの馬鹿増田がこのような糞エントリを書いて皆さんに大変な迷惑をかけてしま申し訳ありませんでした。

煽り口調で何かを書く体験をしてみたかったのですが、こんなスタイルは初めてなので、いろいろと拙いところがあるやもしれません。バカだのクソだのはすべて撤回いたします。だらぶちとかファッキンとかも多分言ってないけど撤回します。

あとタイトルを見て「すべからくをことごとくの意味で使うなバカ」と思ったあなたは正しい。

追記

コメントに反応させていただきます。全部じゃないのはごめんなさい。
ちょっとカテゴリ分けした。

すべからく警察だ!!
一般的コメント
そもそもたとえ話をするなor使いどころを考えろ派
内容ではなくエントリスタイルの話
ネタ
  • たとえるならパンティーのような増田だなみたいなこと言われても困るだろ
    • フフッてなった。そりゃ困る
  • 詭弁論部に入部すると真っ先に訓練させられるのが比喩馬鹿をわかった気にさせて誤った結論へ導くためにこれほど優秀な道具はない
  • 一番かっこいいたとえは「たとえるなら 空をかける ひとすじの流れ星」だと思う。二番の「たとえるなら 風をはらい 荒れ狂う稲光」もいい。意味は正直よくわからない。
    • 自分読書記録をパッと眺めた感じだと、coolだと思った比喩は「その衣は冬を象って青く、春を呼び返すべく緑であった。容貌は美しいが、仮借なき天と星辰をしか映さぬほど高所に据えられた鏡のように無感動である」(ユルスナール『東方奇譚』)かな。(議論関係ない)
  • スカラベは糞虫
  • まるで将棋だな
    • は?

追記2

個別の返答とは別に

ブコメを見ていると、「比喩有効場合もあるがそれ以上に議論を迷走させがちだからそもそも使うべきでない」という意見が多いですね。

まったくもってその通りです。私もリアル会議とかで、たとえ話に終始して結局何の話なのか分からなくなるケースを何度か見ている。

これらをすべて分かってないとだめだ。

ただ、それでも比喩は強力だし、使うなって言っても現にいろんなところで使われている。
例えば差別問題なんかは、立場の違いで感じ方が全く違ってくるから、別の立場の感じ方を想像してもらう意図でたとえ話が飛び出してくるのはやむを得ないのではなかろうか。

そんなとき、どう受け止めて、どう話を進めるのが建設的か? という問題意識でこのエントリを書きました。

2018-01-02

anond:20180102040426

聞きかじりのうろ覚え知識を裏取らずに披露してしまうことが問題なわけであって、授業でやっていようがいまいが関係ないのでは?

意見対立していそうな相手に対して不要修辞法意見を飾ることもその相手にとって快いものではありませんしそれを面白いこと言う精神と称して正当化するのもどうかと

また、関西人であって面白いこと言う精神が常に根底にあると言うことを伝えれば万人がその姿勢理解するという考え方も問題があるかと思います

なぜならあなた関西人であることはインターネット上では誰も知らないのですから

2015-08-05

論点先取としての「戦争法案」という表現について

戦争法案」という表現が、一部の人から批判されているようだけど、なんだかなぁと思う。というのも、「戦争法案」という表現は、修辞法上の分類である論点先取」にほかならないと思うから安保法案に賛成する人は、それがあった方が戦争回避できると思っているわけだし、反対する人は、ない方が戦争回避できると思っている。つまり安保法案が「戦争法案」なのか、「戦争回避法案」なのかが議論されているわけだから、「戦争法案」という表現は、無意味とまでは言わないけれど、せいぜい主張の結論を言っているのに過ぎない。「これこれこういう理由で、安保法案は、戦争法であると主張したい」というなら筋が通っているわけだけど、一見これと似ている「安保法案は、戦争法案だから反対」という主張は、循環論法に陥っている。そして、昨今の政治運動で「戦争法案」という表現が、この前者と後者意図的混同させるような使われ方をしていることに、違和感を感じるわけだ。

ただ、論点先取は、政治・・・国の政治だけではなく、社内政治のような場面でも有効なことが多いと思う。そういう意味では、「戦争法案」という表現を使って行われる政治運動は、政治王道であるし、だからこそ成功している面もあるだろう。だからプラカードに「戦争法案」と書くことは、政治的戦略としてはとても良い。ただ、そのことによって、本来考えられるべき、法案のものの是非が覆い隠されてしまうことには、複雑な心境で眺めている。

そもそもの話を言うと、安保法案戦争法案か、戦争回避法案かなんて、そんな簡単に結論が出るものではないと思う。自分安保法案は要するに、アメリカに対して軍事的支援を行うことで、守ってもらおう・・・ただ、それによって日本自身が別の形で軍事的リスクを負うことになるかもしれないが、利益の方が大きい・・・。という考えに基づいていると思っている。要するに二つの利益を天秤にかけて、どっちが大きいかという判断が、安保法案への賛否なわけだけど、こんなこと素人に分かるはずがない。おそらく、外交プロだってからないだろうし、そんなこと、自分になんてわかるはずはない。ただ、一つ言えるのは、「それがないと著しく安全保障不利益」というほどのことではなさそうだということ。A投信を買うか、B投信を買うかみたいな、結構微妙問題なんじゃないかということ。

であれば、憲法解釈上の疑義を招いてまで、頑張って通すようなものではないだろう・・・というのは、自然結論ではないかと思う。

個人的には、今の政治マターの中で、一番関心が高いのが、自民党が進めようとしている「基本的人権の縮小」。もちろん、安全保障大事だけれど、どっちが正しいのか分からないような問題のために、取り返しのつかなくなるような事態は避けたい。避けてほしい。そういう意味で、一番嫌なシナリオは、今後自民党内の勢力争いの結果、首相が交代となり、「禊」を済ませた自民党が、次の選挙で勢力を維持し続けるということ。そして、その結果本丸である基本的人権関係規定に手をつけ出すということ。そういう意味では、安倍さんにはまだまだ首相の座にかじりついてほしい。それが日本のためだと思う。

 
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