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はてなキーワード: 原体験とは

2025-09-25

anond:20250924020345

子供の頃の原体験って結構強烈なもんで、虐待は辛いで

あんたが力強く生きてるのは素晴らしいが、元増田のきつさも理解してやってや

2025-09-12

ミートたけしのチャンネルリスナー1980年に有名なジャズミュージシャン来日したのを大学生の時に見たのが俺もジャズ原体験です!みたいなリスナー結構いて、お前今65とかやないかい!65で炎上ベーシスト動画リスナーコメントまでしっかりしてるくらいにファンってお前結構がんばってるな!ってなる

2025-08-14

anond:20250813232104

本人が言及してる通り、認めたくないものだな、自分自身の、若さ故の過ちというものを…という奴だよね。

ただ、幼稚園小学生の頃に好きだったもの原体験として肯定し続ける事もあるから、結局は年齢で変動しやすい性欲由来に対する過剰反応じゃないんかね。

あとは、厨二病ネタに出来なくなってしまったとか。

同じ時代で好きだった対象の中で、今でも好きなものと嫌いになったもの比較したら、自分なりの結論が出るんでない?

2025-06-16

anond:20250616125329

多角的分析:無菌化社会への静かなる告発\n\nこのわずか2行のテキストは、単なる子育ての愚痴や嘆きではありません。これは、現代日本社会特に都市部が抱える歪みを鋭く切り取った、極めて洗練された社会批評です。\n\n1. 表面的な情景と現実社会リンク\n\n投稿が描き出すのは、「都会の標準的子供」が置かれた、あまりにも窮屈な環境です。\n\nペット禁止: これは単に集合住宅規約だけの問題ではありません。アレルギーへの過剰な懸念、糞尿の始末といった手間、そして何より「命を管理する」という責任と不確実性からの逃避を象徴しています。生き物との触れ合いから得られる情操教育生命倫理を学ぶ機会が、リスクヘッジの名の下に奪われています。\n\n楽器禁止: 騒音問題という現実的な制約の背後には、「他人迷惑をかけてはいけない」という規範の過剰な内面化と、芸術文化的活動が「受験勉強の役に立たない」非効率ものとして切り捨てられる風潮があります。\n\nはんだごての禁止: このアイテム選択が秀逸です。「はんだごて」は、火傷や火事危険性を伴う一方で、創造性、論理的思考、そして試行錯誤する力を育む「ものづくり」の原点を象徴します。これを禁止することは、子供安全な「無菌室」に閉じ込め、失敗から学ぶという本質的な成長機会を奪う社会の姿を映し出しています。\n\nこれら3つの禁止」は、現代社会特に都市部における子育てが**「効率性」「無菌化」「リスク回避」**という三つのキーワード支配されている現実を浮き彫りにします。\n\n2. 投稿者の性格人物像の推測\n\nこの簡潔かつ痛烈な文章から投稿者の人物像が透けて見えます。\n\n世代経験: おそらく30代後半から50代。自身子供の頃には、これらの「禁止事項」がまだ当たり前ではなかった世代でしょう。ペットを飼い、楽器に触れ、あるいはプラモデルラジオの製作に夢中になった経験を持つ人物かもしれません。その「原体験」の価値を知っているからこそ、現代の子供たちが置かれた環境との断絶に強い問題意識を抱いています。\n\n知性と観察眼: 多くの言葉を費やすことなく、的確なアイテムペット楽器、はんだごて)を並べることで、問題本質を突く鋭い知性の持ち主です。世の中を冷めた目で、しかし注意深く観察しています。\n\n皮肉絶望の裏にある愛情: 「勉強だけしてるのが一番賢い」という一文は、本心から賞賛であるはずがありません。これは、価値観が「学力」という単一のモノサシに収斂してしまった社会に対する、強烈な皮肉アイロニー)です。その冷笑的な態度の裏には、「子供たちにはもっと多様で豊かな経験を通して、本当の意味で賢く、たくましく育ってほしい」という、ねじれた形の愛情祈りが感じられます。\n\n3. 世界観と真の主張の読解\n\nこの投稿者が持つ世界観と、本当に伝えたかった主張は以下の通りです。\n\n世界観: 投稿者は、現代社会を**「人間的な豊かさを削ぎ落とし、管理やすく数値化できる価値だけを追求するディストピア」**として捉えています。そこでは、子供未来労働市場で勝つための「投資対象」と化し、その育成プロセスは徹底的に効率化・最適化されます。失敗や回り道、無駄といった、かつて人間的成長に不可欠とされた要素は、すべて「コスト」として排除されるべき対象となります。\n\n真の主張: この投稿は、私たちに根源的な問いを突きつけています。\n\n「賢さ」とは何か?: ペーパーテスト高得点を取ることが、本当に「賢い」ことのすべてなのか? 他者の痛みに共感する心、美しいものに感動する感性、自らの手で何かを創造する喜び、そうした数値化できない能力こそが、人間人間たらしめる「知恵」ではないのか。投稿者は、「賢さ」の定義を取り戻せと静かにしかし力強く訴えています。\n\n管理社会の行き着く先: リスクゼロにし、すべてを予測可能範囲に収めようとする社会は、本当に子供たちのためになるのか。傷つくこと、失敗すること、思い通りにいかないことを経験しないまま大人になった人間は、予期せぬ困難に直面したときにあまりにも脆弱ではないか。これは、過保護・過干渉子育てへの批判に留まらず、社会全体の「過剰な安全志向」への警鐘です。\n\n結論\n\nこの「はてな匿名ダイアリー」の投稿は、現代都市文明が抱える病理を見事に描き出した、一篇の詩であり、一つの警句です。投稿者は、失われつつある「人間的な手触り」への郷愁と、画一的価値観が支配する社会への静かな怒りを、計算され尽くした言葉表現しました。\n\n私たちはこの2行のテキストから、単なる子育て環境の変化だけでなく、社会全体の価値観が静かにしかし確実に変容している様を読み取るべきです。これは、効率安全の名の下に、私たちが何を切り捨ててきたのかを自問自答させる、重い問いかけなのです。\n

2025-05-21

1990年代から10年間くらいの匿名掲示板とかオンラインゲームが全盛で

ネットリアルを完全に切り離す感覚の方がネット歴史から見たら特異なんだけど

そこが原体験日本氷河期おじたちがネット上でのさばっていまだに自分たちが本流だと思ってるんだよね

2025-04-15

anond:20250414112430

表現の自由歴史的背景は、国によって異なる。

そんな視点で以下、自分用のメモとして長文を残す。あえて言論自由の優位性といった憲法理論をガン無視するが、どんな規制が適切かといった考えから離れることで、表現の自由の失われた状況の風景みえることもある。

++

とくに「表現の自由による暴力(不法行為性)」をどこまで許容するかが重要視点だ。欧米日本では大きく違う。

フランスでは、あらゆる権利が「尊厳ある生」を守るための抵抗に原点を持つ。

その意味で、社会運動ストライキ争議権)と、表現の自由は同じ線上にある。たとえば、名画にペンキをかける環境団体抗議活動日本では即座に「環境テロ」として報道されるが、英仏では「レジスタンス抵抗運動)」という言葉がより広く使われていた様子だ。これは体制に対して暴力的に抗う行為意識しているからだ。

環境問題に限らず、農家などの過激な抗議行動(輸入品増加に抗議した放火破壊行為など)や、労働争議においても同様だ。フランスでは、国家や大組織による構造暴力に対するカウンターとしての「市民による尊厳を守るための抵抗」に心情的な理解が寄せられる。犯罪としての側面を否定しないまでも「レジスタンス」は革命以来の伝統という認識フランス社会は共有する。

その背景には、18世紀カトリック教会が「真理の解釈権限」を独占していた時代に、啓蒙思想が登場し、科学合理性武器公共空間を構築し、新たな政治制度模索した原体験がある。「神を冒涜する権利」は、黎明期政教分離文脈から分化した表現の自由の形であった。

一方、アメリカ表現の自由の出発点は、事情が少し違う。

制度の根幹に「科学合理性」や「絶対的真理」は置かれていない。むしろ、人それぞれ真理と信じる”信念”があり、誰も完全な真理に到達していない、という前提がある。この考えは巡礼始祖たちの宗教的多様性の中で育まれ、やがてプラグマティズムに吸収され、「思想の自由市場」(O.W.Holmes)という発想へとつながってゆく。

もっとアメリカでも、20世紀半ばまでは「有害言論の内容規制」が志向されたが、判事たちはそのたびに建国思想巡礼始祖の理念に立ち返り、「有害表現定義できない」という議論に収まった。1970年代には「社会不協和音こそが強さの証」とまで言い切る判決(1971)もあった。司法ヘイト規制消極的かつゾーニング規制シフトしてゆく歴史がそこにある。

トランプの出現などリベラル保守のあまりの違い、それでも国家として成り立つ社会。それを支えるのは、「一致しないままでも共存できる」という、個人主義を基盤とした社会の強さだ。

一方で日本は、「価値観の不一致」に不安を感じる社会だ。

会社でも地域や家庭でも、できるだけ摩擦を避けたい。コロナ禍での自粛違反者への度を越した非難などに表れているように、「他人迷惑をかけるのは不徳だ」という感情が深く根付いている。

この「迷惑感情」は、表現の自由制限する根拠として働きうる。憲法学では人権制限原理は「公共の福祉」として整理されるが、実態としてはその時々の「社会空気」に左右されがちだ。たとえば、受忍限度論という法理をとってみても、それ自体迷惑感情社会的「耐性」の程度を空気から測るものにすぎない。日本人の考える公共フランス人の考える公共とかなり異なる。

電車CM強制音声に対する訴訟「囚われの聴衆」事件1987年最高裁)では、そうした「空気」に抗う個人の主張が結局退けられた。受忍限度という大義名分の下で、「それくらい我慢しろ」と結論づけられたわけだ。迷惑感情による秩序そのもの否定するわけではないが、空気として内面化されすぎると、異論や異質さの排除へとつながりやすく、かつ世代間、階層間の認識ギャップという課題に直面する。

フランスとの比較でもう少し考えてみよう。

日本には、フランスのように「尊厳のための抵抗」を肯定する文化がない。絵画ペンキを投げれば即「テロ」として断罪される。暴力抵抗が「歴史ある社会の声」として認識されることはない。

水俣病初期の漁民暴動、60〜70年代国鉄病院のストを見ても、「迷惑感情」が前面に出て、GHQが持ち込んだ争議権は本当の意味では社会根付かなかった。正規雇用では労使協調路線非正規雇用は分断が続いているのが現状だ。ストライキがなお社会的に力をもつフランスとは対照的だ。

全農警職法事件国家公務員の争議権全否定1973年最高裁)、75年の国労スト権ストは、日本社会が「暴力的な表現や行動」との距離感を決定づけた分岐点となった。

暴れる新左翼へのストレスが頂点に達し、迷惑を嫌った大衆心理が、最終的に「暴力容認しがたいもの」と司法行政に決着を迫った形だ。

こうした着地は、人権市民一人一人の体験として自ら闘って獲得してこなかったという、日本社会構造限界を示しているのだろう。

日本社会における「市民による暴力抵抗」が断罪されやすい背景には、市民の行動が過激ものに映じるの対して、しばしば国家行政の抑圧や不作為は、暴力として認識されず、社会の中で可視化されにくい構造がある。水俣病における行政不作為反原発運動に対する過剰な監視、あるいは災害被害者の声の届きにくさなど、国家による制度暴力不作為の積み重ねに対して、市民が抗いの言葉を発するとき、その言葉とき過激さを帯びるのは当然の帰結でもある。だからこそ、表現暴力性だけを批判的に切り出すことは、構造非対称性再生産になりかねない。

構造的な非対称に加えて、もうひとつ重要なことがある。それは市民一人ひとりが権利意識再生産するための「思い出」や過去の教訓を忘却やす社会ということだ。

欧米でいう「人権」とは、突き詰めれば「こういう社会には戻りたくない」という歴史体験からまれる(米仏だけの例で暴論は承知の上)。その教訓を社会を生きる一人ひとりが繰り返し思い出すこと、それが人権ボトムアップ的な再生力だ。

しかし、日本では「権利」は「国家が授けるもの」として明治以来、教育されてきた。敗戦までその構図は変わらず、戦後アメリカが新しい憲法人権を与える側に回った。この付与される構造が、今日日本においてもなお、自由をめぐる議論憲法制度論に終始してしまう要因になっている。

だとすれば、今あらためて必要なのは自由の意義を自分たちの歴史体験として取り戻すことだ。

特に敗戦前後記憶――若者人間爆弾にし、それを大人が見送っていた時代。そして敗戦後、手のひらを返すように価値観を変えた、あの社会の激変こそ戦後日本原体験であり、空気に逆らう力を考える出発点であるべきだ。

++

ここからは、戦後日本映像表現の潮流に視点を移す。

戦後社会」と呼ばれる時期―おそらく平成初期まで―に見られた日本映像表現には、大きく三つの傾向があったように思う。

1. 既成の価値観への反抗

戦中派から戦後世代はかつての「正しさ」に対して疑いを抱き、積極的破壊しようとした。

映像作品での典型例として、岡本喜八を挙げたい。軍や国家権力風刺し、戦時空気を相対化する『肉弾』(1968年)は象徴的だ。

表現体制批判自己解放手段だった時代道徳国家価値観への反抗心がそれを後押ししていた。

「反抗」というテーマは、家族内の世代対立ないし嫁姑問題80年代の校内暴力管理教育という軸での「反抗」など形を変えて表現された。

2. 新しいアイデンティティ模索

高度経済成長のもと、戦後社会は猛烈な速度で変化し、かつて「当たり前」だった家族のあり方、地域風景は急速に姿を消した。

そのような変化の中で、新しい「自分らしさ」を探すような表現が生まれた。家族崩壊再生を描いた「岸辺のアルバム, 1977」は社会に衝撃を与えた。

3. 失われゆく価値観への郷愁

こうした変化に対する不安喪失感は、郷愁としても現れる。

山田洋次の『男はつらいよ』では、理想の家庭像を夢見るも決してそこには迎え入れられない寅さんという存在を描き続けた。

倉本聰の『北の国から』では、泥付きの一万円札をめぐる暴力沙汰などを通して、「義理人情」や「恩を忘れぬ人間関係」が描かれた。

スクール☆ウォーズ」に代表される大映ドラマにおいては、努力根性家族の絆といった「倫理」が過剰なまでに押し付けられる一方で、それは裏を返せば、かつては当然のように共有されていた義理人情倫理が、社会の中で揺らぎ始め、もはや社会がその正しさを自信をもって教えられなくなっていた時代の反映ともいえる。任侠映画の「落とし前をつけさせてもらいます」というカタルシスもまた、現代社会ではとうに失われた暴力的「自力救済」への郷愁でもあった。

この三つ――反抗、自分探し、郷愁――が、戦後日本表現の中心テーマであった。いずれの表現にもどこかに心情的共感を呼ぶやむにやまれぬ加害内包していた。そこに着目すべきだ。

「反抗」の終焉表現行為暴力性をめぐる葛藤

この三つのうち、「戦前価値観への反抗」は、戦前世代が退場するにつれ次第に衰えていった。最後の強烈な反抗例として、敗戦後に上官が行った部下の処刑告発した『ゆきゆきて、神軍』(原一男1987年)を挙げることができる。

奥崎謙三狂気。上官を告発し、天皇パチンコ玉を撃ち込むなど、常軌を逸したようにも見えるが、そこには彼なりの倫理がある。表現行為が、敗戦前後記憶を呼び覚まし、組織における人間関係―「上官と部下」「国家個人」―に対して強烈な問いを投げかけていた。

しかし今、このような強烈な表現は久しく見かけなくなった。反抗への共感はある特定世代記憶に留まり引き継がれない傾向が見て取れる。あたか社会全体にノイズ耐性が失われたかのようだ。

かにつけ「コンプラ違反」として簡単に切り捨ててしま社会。「こんなの今の時代にはムリ」と。例えば、中井貴一がある制作現場で呈した疑問は示唆的で、全体にバイオレンスドラマなくせに、コンプラ配慮たばこポイ捨てシーンだけがNGになったことがあった。それは思考停止ではないか

奥崎のような過激手法であっても、そこに社会権力構造に対する本質的な問いが込められているならば、無視できない重みがある。原一男ドキュメンタリーは、まさにそうした問いを突きつけるものだ。

ドキュメンタリーという暴力からみえもの

ドキュメンタリー手法に内在す加害性も多くの示唆を与える。

ゆきゆきて、神軍』のようなドキュメンタリーなどの手法には、つねに「出演者の許諾は取ったのか?」という問いがつきまとう。

伊藤詩織氏の『Black Box Diaries』に対する映像や音声の使用をめぐる批判が良い例だ。「フェアユース正当化可能」とする声(中根若恵)もあれば、「権力犯罪を暴く表現であればOK」という立場原一男)もある。しかし、原自身も認めるように、たとえ告発目的であってもセルフドキュメンタリーには「現実自分に都合よく再構成する」危うさがある。無条件の承認はありえない。その語りが私的物語にとどまらず、社会的な意味を持つためには、他者に開かれた語りに昇華される必要がある。

では、表現行為に内在する「やむにやまれぬ加害」を評価するのは誰か?

最終的には司法だとしても、まず問われるべきは、共感を持って応える観客であり市民である

コンプラ違反を恐れて、表現物が公開前に修正されてしま社会――それが望ましいのか?

私は、暴力性を含んでいても、その中に真摯倫理があり共感可能性のある表現ならば、それは世間に問うてよいと思う。それを受け止める権利もまた市民にある。内部告発/公益通報もまた、不法行為公益性のはざまにあるという意味奥崎謙三の反抗と地続きだ。兵庫県職員告発とその後の県知事対応は耳目を集めたばかりだ。

空気にあらがえるかが試金石

今の日本社会において、「表現内包する暴力に対する寛容さ」はきわめて低い。

敗戦体験した世代がいなくなり、記憶として残っているのは「国鉄ストの迷惑」「新左翼暴力」「オウム事件の恐怖」など、暴力に対するアレルギーばかりだ。

一宿一飯の恩義といった価値観は薄れ、市民暴力的な自力救済抵抗運動共感しなくなっている。

コンプライアンスに敏感な時代からこそ、私たちはもう一度、「表現の自由とは何か」を原点に立ち返って考える必要がある。

かつてトクヴィルは、革命後のフランスに、公共の名のもとに行われる言論統制など専制洞察した。一方、アメリカ民主社会には、世論専制という別の危険をみた。制度的な保障はあっても、多数派少数意見排斥するような雰囲気社会が醸成すると実質的自由は奪われる、との黎明期アメリカ社会への洞察は、現代キャンセルカルチャーなどの課題を予見している。

――暴力性を含み得る表現に対して、我々はどのような態度を取るのか。その暴力倫理的な共感はあるのか。どんな社会私たちは避けたいと思っているのか――

憲法理論制度保障を語る上では有効であるしかし、表現規制論だけでは上記のより根源的で実存的な問いには答えられない。「制度いか自由を守るか」ではない議論必要だ。自由擁護する倫理共感の土壌がなければ、制度簡単形骸化する。「抵抗」とか「不協和音の強さ」とまでいわないまでも何か核が必要だ。

社会同調圧力空気に抗ってその問いを突きつける力、受け止める力が社会から失われたとすれば、それは表現の自由が失われた社会だと思う。

2025-02-24

anond:20250223120505

性的からかい表現を嫌だと言っても「俺は嫌じゃないから」で退けられてきた女性男性が思うよりは多くいる

ここだけは異論があるので書いておきたい。男性もかなり「性的からかい」を受けて嫌だといっても取り合ってくれなかった原体験がある人は多いよ。過去は男女とも同じくらいだったかもしれないけど、現在女性への性的からかい基本的には「許されないもの」という認識である一方で、男性への性的からかいが平然と許されているという意味では、今は「男子の方が」多く被害を受けてるとすら言える。個別論はおいといて「社会がとりあってくれない」という話ね。

ただ、性的からかい女性場合は(おそらく)「正」のベクトルを向いてるのに対して(性的魅力が「ある」ことをからかわれることが多い)、男性への性的からかい表現は「負」のベクトルを向いている(キモい、男としてありえない、など、男としての魅力がないことをからかわれる/蔑まれる)のと、男性側が我慢してたってのがあるから顕在化してないだけ。

2025-01-18

ガンダムコンテンツにおける有害一年戦争おじさんについて

ガンダムシリーズ1979年の『機動戦士ガンダム放送開始以来、実に40年以上にわたって発展と進化を続けてきた巨大なメディアミックス作品である。その長い歴史においては数多くの派生作品や設定拡張さら小説漫画ゲームをはじめとするスピンオフが生まれ、今もなお新作が絶えず登場している。一方で、シリーズ長大化すればするほど、ファンコミュニティ内にさまざまな「こだわり」や「価値観の違い」も生じてくる。その中で昨今特に話題となるのが、いわゆる「一年戦争おじさん」と呼ばれるファン層だ。

一年戦争おじさん」とは、初代『機動戦士ガンダム』に登場する一年戦争宇宙世紀0079年から始まる連邦軍ジオン公国の戦い)を絶対視し、そこから外れる設定や作品を“ガンダムらしくない”“正史として認めない”と主張してしまタイプファン揶揄する言葉である。もちろん一年戦争をこよなく愛するだけであれば、ただの好みの問題だ。しか問題は、彼らの一部が新しい作品や異なる時代設定に対して攻撃的だったり、他者の好みに干渉しすぎたりするケースがあるという点にある。そうした態度が「有害一年戦争おじさん」として批判される一因となっている。

彼らはなぜこうも一年戦争にこだわるのか。まず考えられるのは、1979年からガンダムリアルタイム経験した世代、あるいはビデオプラモデル雑誌などを通じて“初代の衝撃”に強く感化された世代が、自分たちの「原体験」を何よりも重視しているという背景だろう。『機動戦士ガンダム』は、それまでのロボットアニメ常識を覆すようなリアル戦争描写群像劇、そしてプラモデルガンプラ文化を生み出すなど、大きな社会現象となった。幼少期にそれを目の当たりにしたファンにとって、当時の熱狂と衝撃は特別な思い出であり、“ガンダムとはこうあるべき”という固定観念が強く根付くのも無理はない。

しかし、「ガンダムが好き=初代(または宇宙世紀)が絶対」という方程式は、近年のファンコミュニティにおいては必ずしも通用しなくなっている。ガンダムシリーズは大きく分けると宇宙世紀系と、それ以外の独立した世界観を持つアナザー系(『Gガンダム』『ガンダムW』『ガンダムSEED』『鉄血のオルフェンズ』など)に枝分かれしており、さら宇宙世紀内にも『Zガンダム』『逆襲のシャア』『UC』『閃光のハサウェイ』など、数多くの作品が展開されている。もはや「ガンダム」と一言でくくっても、それぞれに異なるストーリー・設定・テーマを持った多彩な作品群になっているのだ。

にもかかわらず、「有害一年戦争おじさん」は一年戦争こそが至高で、それ以外はすべてガンダムとは呼べない、あるいは認める価値が低いといった偏狭な主張をすることがある。具体的なエピソードとしては、新しいガンダムが発表されるたびにネット上やSNSで「こんなのガンダムじゃない」「富野由悠季監督が関わってないか駄作」などと早々に断じる、若いファンが語るアナザー系の魅力を嘲笑する、あるいはプラモデルに対して「やはりザクガンダムRX-78-2)が本命で、○○なんて邪道」などと強い調子で言い切ってしまうといった行動が挙げられる。

こうした振る舞いがファンダムに与える悪影響はいくつもあるが、その中でも特に顕著なのが「新規ファン参入障壁を上げてしまう」という点だ。ガンダムシリーズはすでに膨大な設定を持ち、どこから見ればいいのか分からないという声もよく聞かれる。そこに対し、「本当のガンダム一年戦争だけだ」「初代を見ないならファンではない」などと押し付ければ、初心者は萎縮してしまいかねない。もちろん、初代の重要性を説くこと自体は悪いことではないのだが、その言い方や姿勢が高圧的なものであれば、ガンダムに興味を持ちかけている人を遠ざける要因になってしまう。

さらに、「有害一年戦争おじさん」はしばしば他の作品ファン同士の交流の場を“自分たち思想”で塗りつぶそうとする傾向がある。例えばSNS掲示板などで新作ガンダムについて語ろうとしても、「やっぱりガンダム宇宙世紀じゃないとな」「○○監督なんて富野監督の足元にも及ばない」などというコメントが繰り返され、まともな議論が成立しなくなることも珍しくない。こうした現象は、結果的コミュニティ内で対立や分断を生み出し、せっかく多様な楽しみ方を受け入れる余地のあるガンダムコンテンツ可能性を狭めてしまうのだ。

また、宇宙世紀作品一年戦争のものに強いこだわりを持つことは悪いことではない。作品世界への愛が深ければ深いほど、より詳しく設定を掘り下げて考察する楽しみもあるし、一年戦争舞台にした外伝作品(『MS IGLOO』や『ザニーが登場する漫画作品』など)に注目することで、新たな切り口を見いだすこともできる。だが、「有害一年戦争おじさん」が問題視されるのは、その深い愛情排他主義攻撃的な態度につながる場合が少なくないからだ。自分と同じくらい初代を崇拝しない人を“にわか”呼ばわりしたり、そもそもアナザー作品を語ろうとするファンを見下したりするような行動は、コミュニティ全体の雰囲気を悪くする大きな原因となる。

さらに、一年戦争時代考証を「現実軍事政治的状況」に照らし合わせて論じる人々も少なくない。これはガンダム世界観がある種のリアリティを大切にしていることの証でもあり、そこに惹かれるファンがいるのも理解できる。しかし、「有害なおじさん」は自分たちの“リアル論”こそが唯一の正解だと思い込み他人解釈や新解釈を一蹴する態度を取ることがある。たとえば「この機体は設定上あり得ない」「この時期にこんなMS存在しない」などと、過剰に“リアル”を押し付けることで、多様な楽しみ方を否定してしまうのだ。

そして、こうした状況は次第に当事者以外のファンをも疲弊させていく。たとえばSNS上でガンダムについて呟くと、「その解釈は間違っている」「ちゃん資料を読んでから発言しろ」と“マウント”を取られることがあり、ファン同士のやり取りが萎縮してしまう。また、イベント会場やプラモデル展示などリアルな場においても、一年戦争関連の作品や考証に異常な熱量で突っかかり、他のファンが楽しもうとする空気を壊してしまう例も耳にする。ガンダム多様性を重んじる作品世界であり、多くのクリエイターがそれぞれの解釈テーマ作品を生み出してきた経緯を考えると、こうした空気はあまりに残念としか言いようがない。

では、この「有害一年戦争おじさん」問題にどう向き合えばいいのか。まず大切なのはファンコミュニティ全体が「自分の好きな作品を語るのは自由だが、他者の好きな作品否定することは違う」という意識を共有することだろう。ガンダム作品数が膨大であるがゆえに、自分の“推し”や“こだわり”を持ちやすい。それ自体ポジティブなことだ。しかし、それが「他の作品意見を認めない」という姿勢につながっては、多様性ガンダムの魅力であるはずなのに、それを損なってしまう。

次に、若い世代新規ファンが萎縮しないように配慮した場作りも必要だ。初心者には初心者なりの視点や疑問があるし、アナザー作品から入ったファンが後に宇宙世紀を好きになることだって十分あり得る。むしろ入り口がどこであれ「ガンダムに触れて興味を持った」という事実こそが大切なのだ。そこを「いや、まずは初代を全部観ろ」や「一年戦争を知らないなんて話にならない」と圧をかけるのは、コミュニティ全体にとってマイナスだろう。作品世界を広げるためには、受け入れの姿勢が何よりも重要になる。

また、一年戦争こそが「リアルで硬派なガンダム」で、アナザー系は「子ども向け」や「リアルさが足りない」というステレオタイプイメージも根強い。だが、実際にはアナザー系でも『ガンダムW』の政治劇や『SEED』の遺伝子差別問題、『鉄血のオルフェンズ』の社会構造批判など、リアルかつヘビーなテーマを扱う作品は多い。こうした多彩なテーマ性こそが、ガンダムシリーズ全体の魅力を支えているのであり、一年戦争けが特別なわけではない。むしろ宇宙世紀アナザー系を併せて楽しむことで、ガンダムが描こうとしている「戦争」「人間性」「社会」の幅広さを再確認できるのではないだろうか。

さらに、宇宙世紀内の作品ですら、一年戦争舞台にした『08小隊』や『0080』『0083』などは、初代から少し視点テーマを変えて描かれている。その際にも、一部のファンから「こんなのは本当の一年戦争じゃない」と批判された例がある。だが、もともとガンダムという作品多面的戦争悲惨さや人間模様を描くことを目指しており、一つの正解や正史しか認めないという態度は、ガンダムが持つ本来の魅力や思想に反するものではないか。ゆえに、「一年戦争」に対するこだわりも、ある程度の柔軟性を持って接するのが望ましい。

結局のところ、「一年戦争おじさん」が有害かどうかは、その人自身立場や主張よりも、コミュニティにおける振る舞いに起因する部分が大きい。いくら一年戦争を崇拝していても、それを押し付けずに「自分はこう思う」「初代が好きだけど、他の作品尊重したい」といった態度を示している人は、むしろ知識を共有し合える良き先輩ファンとなるだろう。問題なのは自分視点を唯一絶対のものとし、他の意見や好みを封殺してしまタイプファンである。これはガンダムに限らず、あらゆる長寿シリーズファンダムで起こりうる軋轢と言える。

からこそ、ファン同士が互いを尊重し合い、多様な切り口や解釈を認める姿勢が大切になる。ガンダムは「戦争を描くリアルロボットアニメであると同時に、「キャラクターを通じて人間性を問いかけるドラマ」であり、さらに「巨大産業として世界中に展開する商業コンテンツ」でもある。その多層的な側面を一括りにするのは困難であり、そこに魅力や可能性が詰まっているのだ。もしも“一年戦争だけ”という狭い視点固執してしまえば、その豊かさの大半を見落としてしまうことになる。

以上を踏まえると、「ガンダムコンテンツにおける有害一年戦争おじさん」は、単に宇宙世紀を愛するファンを指しているわけではない。むしろ、そうした愛情が誤った形で表出し、他者排除しようとする態度が問題の核心にある。長寿シリーズとしてのガンダムがこれからも発展していくためには、新規ファンが参入しやす環境と、多様な視点を受け入れる懐の深さが欠かせない。その一方で、ベテランファンが築き上げてきた蓄積や考察が大いに役立つ場面も多く、実際に後輩ファンを導く存在として機能しているケースもある。だからこそ、一年戦争ファン自身が自らの態度を省みるとともに、コミュニティ全体で「排他主義」に歯止めをかける仕組みを作ることが重要なのだ

結論として、「有害一年戦争おじさん」の存在は、ガンダムコンテンツの楽しみ方やファンコミュニティ健全さを損ねる要因になり得る。しかし、それを否定するだけでなく、彼らが抱く一年戦争への熱意や知識も、うまく共有・活用できればガンダムの魅力をより深く味わえるきっかけになるはずだ。問題なのは一年戦争を好きかどうか”ではなく、“他を認められるかどうか”という姿勢にある。そしてガンダムという広大な世界を最大限に楽しむためにも、多様な視点や好みに対してオープンであることが求められる。もしガンダム世界観が「戦争」によって多くの犠牲を生む愚かしさを描き出しているのだとすれば、ファンダムもまた、内部対立を生むのではなく、互いの違いを理解し合う歩み寄りこそが望ましいはずだ。そうすることで、ガンダムシリーズはこれから世代国境を超え、より多くの人々の心をつかんでいくことだろう。

2025-01-12

年末年始に行った都内サウナ感想(前編)

都内サウナ雑感書いてくよー!(長くなって制限超えたため前後編)

この年末年始連休実家への帰省予定が無くなり時間ができたので、自分ホームばかりでなくちょっと色々行ってみるかと足を伸ばしてみた。もうそこそこ話題になったところばかりなので、ガチサウナー諸氏には目新しい情報はないかもしれない。けど楽しかったし普段使う所や昔通った所含めて色々書く。

新宿テルマー湯

https://thermae-yu.jp/

施設概要

新宿駅徒歩10分ちょい、ゴールデン街の奥のスパ施設岩盤浴温浴あり。24時間営業

サウナ室は昔ながらのドライサウナ(テレビ、オートロウリュ)と低温ミストサウナのふたつ。水風呂唐辛子が浮かべてある変わった水風呂。水温は16℃前後

サウナだけでなくスパ施設のため温浴豊富伊豆からお湯を搬送している露天温泉、広い低温炭酸泉辺りが魅力。寝湯や壺湯もある。

ここは以前のホームで、予定の無い休日早起きして深夜料金から切り替わる9時を狙って行っていた。いきなりだけど年末年始に行ったところではない。

自分の使い方

朝9時入店風呂に行くが身体を洗った後サウナ直行ではなく露天の温泉へ。せっかくあるから入りたい。ここで温まったら一発水風呂かまして休憩。

そこからサウナ大体3セット。自分ドライサウナしか使わない。最終セット後は、食事処の開店時間11:30に合わせ低温炭酸泉でまどろむ。サウナ後のぬるめの炭酸気持ち良過ぎないですか? 法で規制とかしなくて大丈夫ですか?

食事処へ行ったらスマホ動画を観ながらひたすらビール。空腹感が強ければカツカレーなんかを食べ、酩酊状態で地下のリクライニングソファが並ぶ休憩フロアへ。昼寝。起きたら大体15時過ぎ。

良い点

人によっては気になるかもしれない点など

総評

清潔、空間にゆとりがあるの2点は自分にとってプライオリティが高いので、朝イチの時間はよく利用させてもらった。特にウィズコロナが叫ばれた時期にはよく行ったが、この立地で出来て間も無くコロナ禍に見舞われ、他人事ながら大丈夫かというくらい閑散としていたが、時短営業などを越えよく乗り切ってくれたと思う。これからも頑張ってもらいたい。西麻布は行きにくいので行かない。

MONSTER WORK&SAUNA

https://monster-ws.jp/

施設概要

吉祥寺駅北口徒歩3,4分。温浴無し、シャワーサウナ室、水風呂、休憩場所のみの無骨スタイル。それでいて施設自体は真新しくスタイリッシュ雰囲気。料金システムは1h毎の加算制で退店時に後払い(キャッシュレスオンリー)。最近は4時間以上利用みたいな設定もできたらしい。男性専用施設で毎週火曜日レディースデイ、ただし2025年1月いっぱいで終了らしい。女性サウナー達は三鷹の新店に流れることになるのだろうか。

入り口看板から何やらスポーツジムのような雰囲気

自宅から通いやすく、自分ホームとなって最近はここの利用が多い。温浴がなくても、シンプルで使いやすく水風呂待ちや休憩待ちとかが無きゃそれでいいなと思わせてくれたお店。

自分の使い方

朝イチ利用が多いけど仕事後とか時間わず行く。ロッカーは1番から20番までを使うと脱衣所でカゴを利用できる。大体3セット、休憩スペースが本当に居心地が良くそこで満足してしまって2セットの日もある。

終わったらハモニカ横丁で飲む。横丁のお店が空いていない時間だったら快活CLUBちょっと寝て待つ。ゴールド会員。鍵付完全個室万歳

良い点

人によっては気になるかもしれない点など

総評

デカサウナ室と水風呂は「とりあえず熱くなって冷やしてととのえ」と言わんばかりの良くも悪くも大雑把な印象。繊細ではなく真っ直ぐな「体育会系サウナ」という感じだが、なるほどこのジムのようなロゴデザイン内装含めたそういうブランディングなのだろうと自分は感じる。サウナ室の居心地の良さ追求型ではない、なんというか荒っぽい感じではあるが、それでも2hごとのアロマロウリュなんかは心地よいし、何より内気浴スペースの居心地の良さが気に入ってる。

また通っていると細かいところに改善意思を感じる。当初は新規会員の登録などで受付カウンターが混み合っていたが、登録二次元バーコードの設置位置をずらし混雑を解消したり(それもあってか利用方法の周知がされきっていない様子も若干見られるが)、脱衣カゴの利用違いがないよう表示が大きくされたり。黙浴の水風呂で会話している客にもスタッフが気付くとすぐに声を掛け黙浴を促す。より良い場を求め見直しを続ける姿勢に好感が持てるし、こちらも良い利用客であろうと思える。良いサウナはみんなで作るもの。これからも使いたいところ。

ROOFTOP

https://rooftopsauna.jp

施設概要

西荻窪駅徒歩1分。先述のモンスターサウナ系列店でこちらの方が前身温浴無し、サウナ室1つ(オートロウリュ有り)、水風呂は水温2種類と外気浴。

最大の売りは屋上の外気浴スペース。インフィニティチェアがずらっと並べてあり、中央・総武線アナウンスを聞きながら開放的体験ができる。

風呂が独特で1人用のユニットバス屋上に4つ。低温の方でも15℃前後で無理無く入れる。

受付フロアにはコワーキングスペース、休憩スペースも有り。自分は使わない。

自分の使い方

近場で済ませたいけど火曜日モンスターサウナが使えない日にたまにいく。火曜日なのを忘れてモンスターまで行って、渋々隣駅の西荻窪に移動することもたまにある。

良い点

人によっては気になるかもしれない点など

総評

バランスとれた良サウナ施設も綺麗だしストレス無く使える。ただ空いている日は少ない印象。

これはどうでもいいレベルだけど、サウナ終わって受付フロア戻るとくつろげる休憩スペースがあるのだけど、コワーキングスペースと併設されていてオンラインMTGとかバリバリ仕事してる人がたくさんいてあまりそこでくつろぐ気にはならない。

渋谷SAUNAS(サウナス)

https://saunas-saunas.com

施設概要

渋谷駅徒歩5分。漫画「サ道」の原作者でありサウナ大使を務めるタナカカツキ氏が総合プロデュースを務めるサウナ施設

男女合わせてなんと9つのサウナ室。奇数偶数日で東西2種の浴場、「WOODS」と「LÄMPI」が男女入れ替わる。Webサイトで利用日がどちらなのか確認して行くことを勧める。

温浴無し、それぞれ2フロアサウナ室と浴室、内気浴(2階)・外気浴(3階)が可能カフェスペース有り。基本料金で男性2.5h、女性3.5h利用。

両浴場とも2階に更衣スペースとシャワー、2階3階それぞれにサウナ室2,3室ずつ、水風呂が1つずつある。水風呂は2階が3名横になれる浅い寝水風呂、3階が立って入る深い水風呂タナカカツキ氏がYouTubeで潜っていたので頭まで浸かっても良さそう。

自分の使い方

2階のサウナ室好きな方と水風呂内気浴で1セット、3階に移動してまた気に入ったサウナ室で3セット。大体4セットくらいする。

良い点

人によっては気になるかもしれない点など

総評

シンプルどでかサウナ室のモンスターばかりに通っていて、久しぶりにサウナ室の居心地の良さの魅力を思い出させてくれたお店。色々なサウナ室がある、スーパー銭湯ならぬスーパーサウナと言えるようなこういうサウナ楽しいなってなった。

「WOODS」か「LÄMPI」だったら自分は「WOODS」一択。3階の茶室モチーフとした「TEETÄ SAUNA」が一番お気に入り天井の低い円形の部屋で、真ん中に置かれたサウナストーブに時折アロマロウリュをかけながら、窓の外の緑を眺めてぼーっとする。次点で2階の一人ひとり仕切りで区切られた「VIHTA SAUNA」。「LÄMPI」の方だったら2階の寝られる「BED SAUNA」が好きだけど、3階屋外フロアサウナ室がイマイチ

エリアに4名用のケロサウナがあって部屋としては良いのだけど、温度が低く人の出入りで熱がかなり逃げるのがちょっとなぁという感じ。

あと値段設定は高め。土日祝特定日利用が多いのだけど3,850円はたけぇー。カフェ飲食注文すると30分延長無料と聞いたけど1500円超のカレーはあまり魅力的には感じられず。アルコールもあるが700円のグラスビールを飲むなら山家あたりで飲む。

サウナ道場

https://teppen-saunadojo.com/

施設概要

渋谷センター街24時間営業サウナサウナ室一つ、水風呂一つ、内気浴とシンプル設計にあつ湯の温浴もあり。

エレベーターで上がって、券売機で60分、90分を選んで購入(キャッシュレスカウンターで申告)。時間帯での変動はあるが60分1,500円、90分1,800円。

風呂は当初シングルだったのかな? 最近何度か足を運んでるけど13℃とか。

自分の使い方

渋谷ではSAUNASより安く気軽に入れるので周辺に行ったときに。あとは24時間営業なんで先日は都心での仕事の前に始発で行った。

後ろに時間の決まった予定が無ければ90分で入店サウナ室も水風呂も一つずつというシンプル設計なのでただただ楽しむのみ。3,4セット。温浴はあまり入らない。

終わったらその辺の居酒屋適当に飲む。

良い点

人によっては気になるかもしれない点など

総評

「良いサウナ必要ものがあり、余計なものがない」という必要十分な感じ。値段も優しめで自分の中ではかなり好きなお店。「道場」という名に相応しい何やら修行場の様な雰囲気で、チャラついたもの排除し、シンプルかつ良いサウナをと言わんばかりの設計思想に好感が持てる。意外なことに経営母体の元々の業態居酒屋だそう。チャレンジングな新業態であるのによくこんなに良い店を作ってくれた。

センター街と聞いて若者で賑わっている感じなのかなと思ったけど、蓋を開けてみるとなるほどどうして、サウナが好きなんだろうなと思われる1人客がそれぞれ黙々とサウナを楽しんでいる雰囲気だった。何度か通ってるが、店の中にはそこら中に注意書きのようなものがあるでもないのに、お客さんのマナー不思議とよい(時間帯によるのかもしれないけれど)。

そんな男たちが、全裸ロッカーキーの紐を首から下げて(ここはリストバンドではない)、あぐらをかいサウナ室に座っている様は、まさに道場という雰囲気。かなり気に入った。

たまにスタッフによるロウリュ、大団扇でのアウフグースがある。全体を仰いだ後、挙手制で個別に仰いでくれる。

「充分になりましたら『押忍』とおっしゃってください」

コクリ

ブンッ、ブンッ、ブンッ、ブンッ、

押忍

楽しい

後編へ続く。

anond:20250112101151

2024-12-16

性癖原体験

保育園のころの担任先生結構性格キツめの女の人だったんだけどさ

普段言動ちょっと圧があるというか、子どもながらにちょっと苦手意識あったし、給食で嫌いなおかず出ると目の前で完食するまで昼休みお預けだし、それでも食べられない時はタッパーにおかず入れて家まで持ち帰らせれたりとか、親からちょっとキツい人だよね〜って言われてた



先生には赤ん坊がいて、一度だけ保育園に連れてきたことがあったんだけど、昼休み赤ん坊抱っこして隅っこで何かしてるなーって思ってぼけーっと見てたんだけどさ、どこか顔つきが普段の感じとは違って優しげな感じで、いつもと違う様子が気になって近づいてみたら、胸の部分開けだしておっぱいあげてたんだ





先生自分が近づいて来ても別に気にするでもなくおっぱいを飲ませ続けてたんだけど、赤ん坊に語りかける口調とか眼差しとか、普段の園での先生じゃなくて母親って感じで、幼いながらにそのギャップに心打たれて、ずーっと先生おっぱいに釘付けになってた


その時猛烈に勃起して頭に血が上ったかのように顔が熱くなったのを覚えてる


それ以来、おっぱいをしゃぶる行為に猛烈な興奮を覚えるようになった


案外幼少期に自分の嗜好とかって決定づけられるもんなんだな

2024-11-08

anond:20241107215040

非モテ男に言わせると、非モテ原体験とするような異性嫌悪は必ず前提に同性側のロールへの倦厭があり、自分に謎ルール押し付ける同性DQNバカ→それを持て囃す異性もバカという順序(逆ではない)がある

女の側もそんなに変わらんなあと思って途中まで読んでいたら

可愛い服を身に着けていいのはカーストトップブトップの女子だけ、中途半端女子は人様に迷惑をかけないように身分相応の地味な格好をしないといけない、ブスが色気づいた格好をするのはマナーとして絶対に許されない

世の中の人を「天上の上級国民」と「私と同等以下の非人」に勝手カテゴライズして、後者から前者に行こうとしてる(ように見える)人をぶっ叩いていた

このあたりでぶっとんでしまった

非モテ男としては「アホDQNと女」 「硬派な俺ら」に世界を切断して我が領土平穏を確保した後は面倒なだけの恋愛規範は丸ごと彼岸のものとして押しやってしまうのが当然自然心理機序だと思っていたかである

非モテグループの仲間がちょっと色気づいてチャラついた服を着だしたからといってわざわざ叩くなど思いもよらないし、それで交際を始めたら寂しいかもしれないがそうですかと送り出すだけだろう

なぜ囚人が進んで看守の役割をやらねばならんのか

よく非モテ男に投げつけられる罵倒の語彙の一つに卑屈があるが、これこそ卑屈、ルサンチマンの欠如、革命精神の敵というほかない

何が非モテ女に自分に不利な女子カーストをこうまで内面化せざるを得ないようにさせるのだろうか

社会性の欠如した非モテ男の反対側には非モテ女の社会性の過剰があるのか

2024-10-12

藝大出身ヴァイオリン奏者を全く良いと思わなくなった話

といっても、首席卒業クラスの上澄みレベルdisるつもりはない。

あくまアマチュア自分教室先生とか、最近だったら主に配信とかでお目にかかれる、いうなれば「量産型卒業生のお話

自分が習っている先生は3人目(社会人向けレッスン)だけど、幼少から高校まで習ってた1人目と2人目は藝大卒の人。

これが原体験にあって、かつ藝大卒自称する配信者の演奏を見た感じ、ホントにこの学校出身の人って、根本が驚くほど似通っているというか、弾き方に共通点がある。

とにかく


この弾き方のメリットは、普通の人から見たらわかりやすく上手に見えて、すごい!という評価をもらえることだろう。

そして大抵の場合はそれでいいじゃん、いやそれが大事じゃんになると思う。

から自分がこれから書くデメリットは、正直かなり逆張り自覚はある。

でも自分美学というか美意識に沿わないのだから仕方ない。

ということで、上掲の弾き方の問題点を挙げると


もちろん上に書いた弾き方を出発点にして、表現の繊細さを極めるのは不可能じゃないと思うし、それを実現できている人もいるにはいる。

でも、何をどう聴かせたいのか?という根本部分を置き去りにして、最初からやたらと正確さと音の大きさだけを是とする価値観を主軸にするのは、表現として不自然過ぎるでしょっていう。

何より表現を突き詰める過程で、このままでは伝えたいことが伝わらない→伝わるよう正確に弾こう、いや弾けなきゃ気が済まない!というのが本来の上達の流れなわけで、
そういう順序も踏まえずにいきなり正確に弾け!とか、習う方からしたらなぜそんなに厳しくツッコむのか理解できないので、苦痛しかない。

結果、こういう超面倒な技術習得ありきのプロセスに過剰適応できた人しか生き残れないし、そういうタイプの人が、後から細やかな表現を磨くのは並大抵のことじゃないというのは、この学校出身の人の演奏の多くが、
音程だけはやたら正確だけど、それ以外はインパクトだけの大味な表現だったり、細やかさを実現していてもどこかわざとらしい(≒不自然さが抜けてない)音になっていることで証明されていると感じてしまう。

ちなみに自分はそういう価値観に嫌気が差したことや、何より身体に対する負担が大きすぎてこのままでは先がないと判断したことで、より古典的な弾き方に回帰し、音大受験レベルの曲をさらいつつ楽しくやっている。

即ち

  • 弓と手と腕の重さだけで弾く(近代化される以前の、大昔の弓の弾き方)
  • 指板に指が付くことはあっても、弦は指板に付けない(近代化される以前の、大昔の弦の押さえ方)
  • 最初から出したい音をイメージし、そのイメージに沿う音をできるだけ細やかに追求する(イメージできるようになるまで練習しない)

その結果、今は自分の弾き方に近い音を出してる人が多い、桐朋出身ヴァイオリン奏者をいいなーと思うようになった(習ってる先生桐朋出身じゃありません、念の為)。

なお桐朋出身ソリストで、サイトウ・キネン・オーケストラコンミスも務めた故・潮田益子氏は生前

「(桐朋創設者の)齋藤(秀雄)先生から教わったことは、世界中のどこに行っても通用した」

とおっしゃっていて、桐朋すげーと思ったものだ。

というわけで、藝大のヴァイオリンがなんであんなにすごいと思われているのか、意味がわからないという話でした。

2024-09-14

心の救いになった一曲

人生の中で一番しんどかった職場

独裁者みたいな現場を仕切ってるやつ(以下Nと呼ぶ)がいて、そいつに気に入られない人間は徹底的にパワハラを受ける職場だった。

当時まだ経験も少なかった俺はNには相手にすらされてはいなかったが、俺の直属の上司がなにかのきっかけで独裁者に嫌われたようで、その結果しばらくして飛んでしまった。

すると今度は俺が突然的にされてしまい、そっから地獄みたいになっていった。

上司が飛んだ時は自分担当部分にはすでに色々な遅れが生じてた(嫌がらせでそうなってた部分も多かった)ので

Nには「帰ってもいいよ、この状況で帰れると思うなら」みたいな感じで言われた。

毎日寝泊まりして軟禁状態みたいなのがそこから続いた。

今思えば「帰れると思うので帰りますね」とか言ってそのまま辞めればよかったとつくづく思う。

でも当時の俺は要領が悪く、家に帰る勇気もなかった。

いや、正直言うとその時点ではもう判断能力が落ちていたんだと思う。そして家に帰るという気力すら失っていたと思う。

記憶曖昧な部分が多いが、夜中まで仕事して3~4時くらいに机の下で丸くなって寝る、朝礼が始まったらぼんやりした頭でなにか話してるな~って感じで聞いて、昼くらいまでぼんやりしたまま仕事をする。

昼にビル内の店で昼飯を買って、そのビルに入ってる企業が使えるジムシャワーを浴びる。下着使い捨てにして、何枚かの服を時々ランドリーで洗ってローテーションしてた。

その後は深夜まで黙々と仕事する。夕飯はデスクで食べてると独裁者に「よく飯とか食ってられるよな~」みたいな嫌味を少し遠くのとこで、取り巻きに語る体でこっちに聞こえるように嫌味を言われるのであまり食べなかった気がする。

夜中は人がいなくなるからそん時に食べていたと思う。

(こういう状態は俺一人ではなく、他にも何人かいたと思う)

家には月1くらいは帰っていたとは思うが、なぜかそこらへんの記憶が抜け落ちてる。曜日感覚も失ってる感じだった。

しばらくは仕事だけはとにかく頑張ってやろうとしていたが、途中からはもはやその気力も失っていて、一応やりはするんだがパフォーマンスとしては本来出せる力の半分にも満たなかったと思う。

惰性でただそこにいるだけでもはや自分がなにをしてるのかもよく分からなくなっていた。

会社としてそんな役にも立たなくなった人間を置いておく意味なんてないと思うんだが、なぜかクビにされるでもなくそんな状態仕事は続いた。

3~4ヶ月くらいそういうのが続いていたか、ひょっとしたら半年くらいだったかもしれない。

終わりとしてはそのプロジェクトが終わるということになり、そのタイミングでNに辞めますと伝えた。

Nは最後まで冷たい目で俺を見ていて、その時もニヤニヤしながら「ああそうなんだあ 今更かあ笑」みたいな事を言って自分取り巻きにも誘い笑いをさせてた。

本当に、今の俺なら間違いなく「人としてクソすぎて笑っちゃいました」とか「お子さんかわいいですね写真見ました」とかとにかくなにかしら捨て台詞くらいは吐いてると思う。

ただ当時の俺はあまりにショボくてなにも言えなかった。黙って睨みつけるのが精一杯だった。

仕事を辞めるというときに、好きだった音楽をもうずっと長い間聞いていないことに気づいた。

BUMP OF CHICKENというバンドは知らなかったんだけど、そのタイミングでなにかで一曲きいて良さそうだなと思ってたのでアルバムを買ってみた。

で、職場最後に行った時の帰り道に聞いたのが「ギルド」という曲だった。

人間という仕事をクビになって どれくらいだ

とりあえず汗流して 努力をしたつもりでいただけ

悲しいんじゃなくて 疲れただけ

休みをください 誰に言うつもりだろう

奪われたのは何だ 奪い取ったのは何だ

美しくなんかなくて 優しくも出来なくて

それでも呼吸が続く事は 許されるだろうか

バンプアルバムは良い曲がたくさんあったが、この曲を聞いた時に涙がポロポロこぼれてしまった。

酷い目にあったという恨み、それを打破できず負けてしまった自分への怒り、色んな気持ちが溢れて涙が止まらなかった。

焦って路地裏に入りフヒフヒと泣いたのを今も覚えてる。

この曲の歌詞解釈としては単に働く仕事の歌ではなく「人間という仕事」という、人間が生きることそのものを「仕事」と仮定した詩的なものだと思うんだが、

当時仕事の場で自分人間性まで否定されたような気がしていた俺にはダイレクトに重なりすぎた。

しかしこの曲のおかげで俺は勇気をもらえた。それはこれくらい暗い気持ち歌詞にできる人がいるんだなと思ったからだ。

希望を見出だす歌詞でもあるんだが、その前提としての視点が「どん底にいる自分」としてもろ重なったのだ。

それから社会復帰するまでは何ヶ月も引きこもっていたんだけど、時々この曲を聞いていた。

この曲で生きる希望が湧いたとかそういう話ではないんだが、自分の中にあるふつふつとした得体のしれない暗いもの描写してくれてるようで、そこに安堵があった。

今はこの曲を聞き返すのはなかなか難しい。聞くと泣けてくるしどこか恥ずかしさもある。

だけど仕事における今の自分の基本スタンスを作った原体験、それとリンクする人生の中でもかなり重要一曲になっている。

2024-08-22

ITまらんは老化の文脈でもいいけど別の見方をすると

プログラム」書きたいってことなんだろか

クラウドというかXXaaSが原体験かどうかとか抵抗感とかありそうだなとか思った

ちょっと先方開発会社おっさん等~~

自前で書きたいでもなんでもいいかプロセス書いたら監視とセットでデプロイすることから普通にやっとくれ~

2024-08-19

anond:20240819002437

MOTHERで得た原体験なんてさっさと捨てて開き直れと言うのは断じて差別ではありませーん

そうだね

オタク恋愛土俵に立ちたいなら自分ライフスタイルアイデンティティを全て捨てて清潔感のある格好をして女に媚びろ!と似たような理屈だもんね

anond:20240819002437

ゲーマーオタクに対してゲームで得た原体験捨てろっていうのは自己アイデンティティ否定しろと同レベルの”攻撃”やぞ?

自分の言ってることがリベラルだのフェミニストだのがやってる事と大して変わらんことに何も気づかないんかwオタク弱者男性理解がないねw

anond:20240819002138

はあ?ちゃん日本語話してくれよ何が言いたいのか分からん

差別してるのはリベラルフェミニストだし、これから尚更不気味な独身おっさんとして扱われるぞ

MOTHERで得た原体験なんてさっさと捨てて開き直れと言うのは断じて差別ではありませーん

お前が差別言いたいだけだよ攻撃欲求の塊系かリベラルに被れてしまたか

2024-07-30

anond:20240730023054

おっさんになってから女子高生に興味持つ人の趣味はよくわからないけど、自分のことを可愛がってくれた部活の先輩の胸が今でも心の奥に残ってる。そういう原体験がある人は普通にいそう。

2024-07-10

有権者政策なんか見てねえんだよ

トランプ大統領になったときだって、「オバマケニアまれ大統領資格はない」とか、「ヒラリーは嘘つきだ」とか、そんかスキャンダルばかりだったじゃん。

小池百合子学歴詐称を騒ぐくらいで正解だよ。

どうでもいい外苑再開発を騒ぐのも正解。

トランプ選挙活動っていったら、野球帽作ったりTシャツ作ったりだったじゃん。

ロケット団みたいなRシール作った蓮舫大正解

ほんと、政策なんかどうでもいいの。

トランプ国境に壁を作るとか言ってたのと同じように、所沢あたりに関所を作るっていっときOK

なんでもわかりやすいのがいいんだよ。

有権者石丸伸二と石丸幸人の違いだってわかんないんだから政策アピールするのなんか無駄

関所はやりすぎでもさ、埼玉県民のせいってのはなかなかいいよ。

都民が家買えないのはのぼってくる埼玉県民のせいだから10年以上東京に住所があると家買いやすいようにするとか言えばいいんだよ。

どうすりゃいいか知らんけど、そういうのはアタマがいいやつらに任せて、埼玉ヘイトを叫んでおけばいい。

都民が近所にある大学に通えないのは、学力が高いだけで調子に乗って上京してくる田舎もんのせいだから東京にある大学都民枠作れとか、そんなんでオーケー

石松某氏石丸某氏に票を入れた若者を叩く風潮はどうかと思うぞ。

なんかそういう、知識人(ぶった)連中に馬鹿にされる原体験って、けっこう根深いわけ。トランプ大統領誕生って、そういうのの積み重ねが原因だと思うよ。

まあ石丸伸二も冷笑系でどうかと思うけど、敵対勢力をどんなに小馬鹿にしたって信者は喜ぶだけで離れないわけだし、あの姿勢も正解じゃないかな。

なんていうか、気が熟してなかったというのと、やっぱり資質が足りなかったんだろうな。

石丸叩きとか、立花孝志叩きが、いい感じに若者の反骨精神に火をつけて、四年後にもうちょっといい役者が登場すれば、きっと面白いことになるよ。

橋下徹みたいな人物ちょっと違うな、アイツは賢すぎる。もっと、騒ぐだけの、小泉純一郎みたいな感じのほうがいいのか、いや小泉も違うな。

やっぱり石原慎太郎かな。

死んじまったけど。

あれをもっとアホにしたようなキャラがそのうち都知事になるよ。

Gacktかいいな。

傲慢そうだし。

埼玉県民にはその辺の草でも食わせておけ!って言って選挙を戦えばいいんじゃないかな。

2024-05-22

コロナ禍ってしばらくの間とはいえ過去経験されたことがないような「分断」「孤立化」が社会的に促進された時期だったんだよなーって

たぶん子どもの頃にコロナ禍を経験した人たちの中から、それを原体験として創作をしたり、ビジネスアイデアを作り出す人たちも出てくるんだろうな

2024-05-12

anond:20240512172633

だいたいさ、女湯や女子トイレ男児が入ってきて、それを微笑ましく見れるわけないよな。異様でしかない。それがむちゅこたんにとって原体験なっちゃって、異性スペース侵入性癖になる可能だって十分にあると思う

2024-05-11

仮想現実デバイスが普及しないのはバーチャルボーイの失敗に関係があるのでは?

物事には原体験というものがあると思う。

あるいは、この経験があったからのちの体験スムースに繋がったとか。

ゲームボーイってあっただろ?

多分、人生におけるポータブルデジタルデバイス原体験ってあれだったと思う。

あれがすべてのデジタルデバイスの基礎になっているというか。

持ち運び出来て、画面を見ながら操作することを当たり前のこととして捉えるための原体験

それがゲームボーイだった。

あれがあったから、その後の技術革新で登場した液晶付きの携帯電話さらにその後に登場したスマートフォンなども違和感なく使うことが出来た。

思うんだけどね。

もしもバーチャルボーイ成功していた世界線というものがあったとしたら、その世界ではもっと仮想現実のためのデバイスが普及していたんじゃないかと。

人々が違和感なくゴーグル越しに世界を見ることを受け入れていた原体験を持っている世界

そういう世界ではもっともっと仮想現実デバイスが売れていたと思う。

すなわち、この世界仮想現実デバイスが売れないのはすべてバーチャルボーイの失敗のせい。

すべての仮想現実デバイスが普及しない理由原罪を負うべき存在だ。

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