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はてなキーワード: 少数意見とは

2025-08-06

dorawii@執筆依頼募集中

漫画の巻末に書きおろし小説があることがあり、このことによりそれがラノベ原作だったと同時に気づく。

別にラノベ原作かどうかはどうでもいいんだけど小説があるのはうれしくない。

小説とき認知能力割いて脳の疲労を蓄積させたくないって思えるんだよね。

でも読まないと損した気分が心のつかえとしてずっと残るしでほんとやめてほしい。少数意見なのはわかってる。

(全く脳を無にしても見れるテレビと同じ動機で)漫画を読みに来てるんだよ。認知的負荷がかかるものは求められてない。

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2025-07-21

民意を反映するために選挙行けって言って

民意を反映するために様々な政党が乱立して

上手く政権がまとまらなくなって

この先どうどうなんだろ

選挙いっても少数意見のままだといつまで経っても反映されないじゃん

2025-04-17

今の日本って弱者特権が強すぎて本当にどうにかして欲しい

そしてそれが当然と思ってるやつもまじどうにかならんかな

少数意見尊重ってだけなはずが絶対に受け入れなければいけないみたいな感じで騒ぐ弱者も多いし

2025-04-15

anond:20250414112430

表現の自由歴史的背景は、国によって異なる。

そんな視点で以下、自分用のメモとして長文を残す。あえて言論自由の優位性といった憲法理論をガン無視するが、どんな規制が適切かといった考えから離れることで、表現の自由の失われた状況の風景みえることもある。

++

とくに「表現の自由による暴力(不法行為性)」をどこまで許容するかが重要視点だ。欧米日本では大きく違う。

フランスでは、あらゆる権利が「尊厳ある生」を守るための抵抗に原点を持つ。

その意味で、社会運動ストライキ争議権)と、表現の自由は同じ線上にある。たとえば、名画にペンキをかける環境団体抗議活動日本では即座に「環境テロ」として報道されるが、英仏では「レジスタンス抵抗運動)」という言葉がより広く使われていた様子だ。これは体制に対して暴力的に抗う行為意識しているからだ。

環境問題に限らず、農家などの過激な抗議行動(輸入品増加に抗議した放火破壊行為など)や、労働争議においても同様だ。フランスでは、国家や大組織による構造暴力に対するカウンターとしての「市民による尊厳を守るための抵抗」に心情的な理解が寄せられる。犯罪としての側面を否定しないまでも「レジスタンス」は革命以来の伝統という認識フランス社会は共有する。

その背景には、18世紀カトリック教会が「真理の解釈権限」を独占していた時代に、啓蒙思想が登場し、科学合理性武器公共空間を構築し、新たな政治制度模索した原体験がある。「神を冒涜する権利」は、黎明期政教分離文脈から分化した表現の自由の形であった。

一方、アメリカ表現の自由の出発点は、事情が少し違う。

制度の根幹に「科学合理性」や「絶対的真理」は置かれていない。むしろ、人それぞれ真理と信じる”信念”があり、誰も完全な真理に到達していない、という前提がある。この考えは巡礼始祖たちの宗教的多様性の中で育まれ、やがてプラグマティズムに吸収され、「思想の自由市場」(O.W.Holmes)という発想へとつながってゆく。

もっとアメリカでも、20世紀半ばまでは「有害言論の内容規制」が志向されたが、判事たちはそのたびに建国思想巡礼始祖の理念に立ち返り、「有害表現定義できない」という議論に収まった。1970年代には「社会不協和音こそが強さの証」とまで言い切る判決(1971)もあった。司法ヘイト規制消極的かつゾーニング規制シフトしてゆく歴史がそこにある。

トランプの出現などリベラル保守のあまりの違い、それでも国家として成り立つ社会。それを支えるのは、「一致しないままでも共存できる」という、個人主義を基盤とした社会の強さだ。

一方で日本は、「価値観の不一致」に不安を感じる社会だ。

会社でも地域や家庭でも、できるだけ摩擦を避けたい。コロナ禍での自粛違反者への度を越した非難などに表れているように、「他人迷惑をかけるのは不徳だ」という感情が深く根付いている。

この「迷惑感情」は、表現の自由制限する根拠として働きうる。憲法学では人権制限原理は「公共の福祉」として整理されるが、実態としてはその時々の「社会空気」に左右されがちだ。たとえば、受忍限度論という法理をとってみても、それ自体迷惑感情社会的「耐性」の程度を空気から測るものにすぎない。日本人の考える公共フランス人の考える公共とかなり異なる。

電車CM強制音声に対する訴訟「囚われの聴衆」事件1987年最高裁)では、そうした「空気」に抗う個人の主張が結局退けられた。受忍限度という大義名分の下で、「それくらい我慢しろ」と結論づけられたわけだ。迷惑感情による秩序そのもの否定するわけではないが、空気として内面化されすぎると、異論や異質さの排除へとつながりやすく、かつ世代間、階層間の認識ギャップという課題に直面する。

フランスとの比較でもう少し考えてみよう。

日本には、フランスのように「尊厳のための抵抗」を肯定する文化がない。絵画ペンキを投げれば即「テロ」として断罪される。暴力抵抗が「歴史ある社会の声」として認識されることはない。

水俣病初期の漁民暴動、60〜70年代国鉄病院のストを見ても、「迷惑感情」が前面に出て、GHQが持ち込んだ争議権は本当の意味では社会根付かなかった。正規雇用では労使協調路線非正規雇用は分断が続いているのが現状だ。ストライキがなお社会的に力をもつフランスとは対照的だ。

全農警職法事件国家公務員の争議権全否定1973年最高裁)、75年の国労スト権ストは、日本社会が「暴力的な表現や行動」との距離感を決定づけた分岐点となった。

暴れる新左翼へのストレスが頂点に達し、迷惑を嫌った大衆心理が、最終的に「暴力容認しがたいもの」と司法行政に決着を迫った形だ。

こうした着地は、人権市民一人一人の体験として自ら闘って獲得してこなかったという、日本社会構造限界を示しているのだろう。

日本社会における「市民による暴力抵抗」が断罪されやすい背景には、市民の行動が過激ものに映じるの対して、しばしば国家行政の抑圧や不作為は、暴力として認識されず、社会の中で可視化されにくい構造がある。水俣病における行政不作為反原発運動に対する過剰な監視、あるいは災害被害者の声の届きにくさなど、国家による制度暴力不作為の積み重ねに対して、市民が抗いの言葉を発するとき、その言葉とき過激さを帯びるのは当然の帰結でもある。だからこそ、表現暴力性だけを批判的に切り出すことは、構造非対称性再生産になりかねない。

構造的な非対称に加えて、もうひとつ重要なことがある。それは市民一人ひとりが権利意識再生産するための「思い出」や過去の教訓を忘却やす社会ということだ。

欧米でいう「人権」とは、突き詰めれば「こういう社会には戻りたくない」という歴史体験からまれる(米仏だけの例で暴論は承知の上)。その教訓を社会を生きる一人ひとりが繰り返し思い出すこと、それが人権ボトムアップ的な再生力だ。

しかし、日本では「権利」は「国家が授けるもの」として明治以来、教育されてきた。敗戦までその構図は変わらず、戦後アメリカが新しい憲法人権を与える側に回った。この付与される構造が、今日日本においてもなお、自由をめぐる議論憲法制度論に終始してしまう要因になっている。

だとすれば、今あらためて必要なのは自由の意義を自分たちの歴史体験として取り戻すことだ。

特に敗戦前後記憶――若者人間爆弾にし、それを大人が見送っていた時代。そして敗戦後、手のひらを返すように価値観を変えた、あの社会の激変こそ戦後日本原体験であり、空気に逆らう力を考える出発点であるべきだ。

++

ここからは、戦後日本映像表現の潮流に視点を移す。

戦後社会」と呼ばれる時期―おそらく平成初期まで―に見られた日本映像表現には、大きく三つの傾向があったように思う。

1. 既成の価値観への反抗

戦中派から戦後世代はかつての「正しさ」に対して疑いを抱き、積極的破壊しようとした。

映像作品での典型例として、岡本喜八を挙げたい。軍や国家権力風刺し、戦時空気を相対化する『肉弾』(1968年)は象徴的だ。

表現体制批判自己解放手段だった時代道徳国家価値観への反抗心がそれを後押ししていた。

「反抗」というテーマは、家族内の世代対立ないし嫁姑問題80年代の校内暴力管理教育という軸での「反抗」など形を変えて表現された。

2. 新しいアイデンティティ模索

高度経済成長のもと、戦後社会は猛烈な速度で変化し、かつて「当たり前」だった家族のあり方、地域風景は急速に姿を消した。

そのような変化の中で、新しい「自分らしさ」を探すような表現が生まれた。家族崩壊再生を描いた「岸辺のアルバム, 1977」は社会に衝撃を与えた。

3. 失われゆく価値観への郷愁

こうした変化に対する不安喪失感は、郷愁としても現れる。

山田洋次の『男はつらいよ』では、理想の家庭像を夢見るも決してそこには迎え入れられない寅さんという存在を描き続けた。

倉本聰の『北の国から』では、泥付きの一万円札をめぐる暴力沙汰などを通して、「義理人情」や「恩を忘れぬ人間関係」が描かれた。

スクール☆ウォーズ」に代表される大映ドラマにおいては、努力根性家族の絆といった「倫理」が過剰なまでに押し付けられる一方で、それは裏を返せば、かつては当然のように共有されていた義理人情倫理が、社会の中で揺らぎ始め、もはや社会がその正しさを自信をもって教えられなくなっていた時代の反映ともいえる。任侠映画の「落とし前をつけさせてもらいます」というカタルシスもまた、現代社会ではとうに失われた暴力的「自力救済」への郷愁でもあった。

この三つ――反抗、自分探し、郷愁――が、戦後日本表現の中心テーマであった。いずれの表現にもどこかに心情的共感を呼ぶやむにやまれぬ加害内包していた。そこに着目すべきだ。

「反抗」の終焉表現行為暴力性をめぐる葛藤

この三つのうち、「戦前価値観への反抗」は、戦前世代が退場するにつれ次第に衰えていった。最後の強烈な反抗例として、敗戦後に上官が行った部下の処刑告発した『ゆきゆきて、神軍』(原一男1987年)を挙げることができる。

奥崎謙三狂気。上官を告発し、天皇パチンコ玉を撃ち込むなど、常軌を逸したようにも見えるが、そこには彼なりの倫理がある。表現行為が、敗戦前後記憶を呼び覚まし、組織における人間関係―「上官と部下」「国家個人」―に対して強烈な問いを投げかけていた。

しかし今、このような強烈な表現は久しく見かけなくなった。反抗への共感はある特定世代記憶に留まり引き継がれない傾向が見て取れる。あたか社会全体にノイズ耐性が失われたかのようだ。

かにつけ「コンプラ違反」として簡単に切り捨ててしま社会。「こんなの今の時代にはムリ」と。例えば、中井貴一がある制作現場で呈した疑問は示唆的で、全体にバイオレンスドラマなくせに、コンプラ配慮たばこポイ捨てシーンだけがNGになったことがあった。それは思考停止ではないか

奥崎のような過激手法であっても、そこに社会権力構造に対する本質的な問いが込められているならば、無視できない重みがある。原一男ドキュメンタリーは、まさにそうした問いを突きつけるものだ。

ドキュメンタリーという暴力からみえもの

ドキュメンタリー手法に内在す加害性も多くの示唆を与える。

ゆきゆきて、神軍』のようなドキュメンタリーなどの手法には、つねに「出演者の許諾は取ったのか?」という問いがつきまとう。

伊藤詩織氏の『Black Box Diaries』に対する映像や音声の使用をめぐる批判が良い例だ。「フェアユース正当化可能」とする声(中根若恵)もあれば、「権力犯罪を暴く表現であればOK」という立場原一男)もある。しかし、原自身も認めるように、たとえ告発目的であってもセルフドキュメンタリーには「現実自分に都合よく再構成する」危うさがある。無条件の承認はありえない。その語りが私的物語にとどまらず、社会的な意味を持つためには、他者に開かれた語りに昇華される必要がある。

では、表現行為に内在する「やむにやまれぬ加害」を評価するのは誰か?

最終的には司法だとしても、まず問われるべきは、共感を持って応える観客であり市民である

コンプラ違反を恐れて、表現物が公開前に修正されてしま社会――それが望ましいのか?

私は、暴力性を含んでいても、その中に真摯倫理があり共感可能性のある表現ならば、それは世間に問うてよいと思う。それを受け止める権利もまた市民にある。内部告発/公益通報もまた、不法行為公益性のはざまにあるという意味奥崎謙三の反抗と地続きだ。兵庫県職員告発とその後の県知事対応は耳目を集めたばかりだ。

空気にあらがえるかが試金石

今の日本社会において、「表現内包する暴力に対する寛容さ」はきわめて低い。

敗戦体験した世代がいなくなり、記憶として残っているのは「国鉄ストの迷惑」「新左翼暴力」「オウム事件の恐怖」など、暴力に対するアレルギーばかりだ。

一宿一飯の恩義といった価値観は薄れ、市民暴力的な自力救済抵抗運動共感しなくなっている。

コンプライアンスに敏感な時代からこそ、私たちはもう一度、「表現の自由とは何か」を原点に立ち返って考える必要がある。

かつてトクヴィルは、革命後のフランスに、公共の名のもとに行われる言論統制など専制洞察した。一方、アメリカ民主社会には、世論専制という別の危険をみた。制度的な保障はあっても、多数派少数意見排斥するような雰囲気社会が醸成すると実質的自由は奪われる、との黎明期アメリカ社会への洞察は、現代キャンセルカルチャーなどの課題を予見している。

――暴力性を含み得る表現に対して、我々はどのような態度を取るのか。その暴力倫理的な共感はあるのか。どんな社会私たちは避けたいと思っているのか――

憲法理論制度保障を語る上では有効であるしかし、表現規制論だけでは上記のより根源的で実存的な問いには答えられない。「制度いか自由を守るか」ではない議論必要だ。自由擁護する倫理共感の土壌がなければ、制度簡単形骸化する。「抵抗」とか「不協和音の強さ」とまでいわないまでも何か核が必要だ。

社会同調圧力空気に抗ってその問いを突きつける力、受け止める力が社会から失われたとすれば、それは表現の自由が失われた社会だと思う。

2025-04-07

最近弱者男性

男性理想像の方が高い(と言う認識をしてる)→期待されやすい(最低限のゴールが高い)

男性性犯罪が多い(と言う認識が少なくともある)→「男性=危険もの」みたいな認識で「排除せねば」と言う思考

・よくわからんジジイが居座ってる(ことが多い)→「男性=ジャマなもの」の認識で「女性積極的登用せねば」と言う思考

ってわけで、結局は中者男性造語)のクソみたいな行為によって弱者男性が蔑まれてるように感じるんだけれども。

これからさら女性社会進出増加、出生率が低下していけば、性別関係なしに収入を得なあかんくなるわけやし

女性優位も男性優位も存在しなくなるのでは?

そして、これらからも分かる通り「平均」で比較するからおかしいことになるわけで、

結局のところ性差関係なしに弱者を減らしていくための工夫(たとえば累進課税増税による富の再分配とか)を

しなきゃいけないって言うフェーズに入ってるんじゃないか?と思うんだが、

どうなんでしょうかね。

男性は多くに種付けできるのにも関わらず、女性は数人しか子供産めないんだから

女性男性を選ぶって言うのは生物学的にも説明できそうな気するし、

男性に限らず弱者は淘汰されていくってのが進化論的な考え方だし。

つまるところツイフェミとか弱者男性かい存在エコーチェンバー効果によってsns愚痴ってたのがなぜか大々的に取り上げられてるだけ(メディア的にも視聴率とれてエンタメ化できるし)で、実際は少数意見だと言うのが現状な気がします。

少数意見だとしても一応日本国民なわけだし、民主主義である以上取り入れてかなあかんよな、って方向性に動くべきではないんでしょうかね。

2025-04-04

ネットだけ見て判断するのはマスコミ見て判断するのと同じ

実際にやってみたり多様な意見を聞くなりしないと判断できない

アサクリもネットの声だけを集めると日本文化を軽視したゴミゲーだけど

プレイした人の感想や実際にプレイしてみたら日本へのリスペクト半端ないことに気付く

マジでSNSってめちゃくちゃ少数意見が採り上げられるし

兵庫県知事選とか石丸新党とかで問題になってることが分かりきってるのに

何の対策もしないってのは終わってるね

2025-03-22

本文どころか概要すら読まずに脊髄反射するブックマーカーたち

https://b.hatena.ne.jp/entry/s/www.nikkei.com/article/DGXZQOUC213Y60R20C25A3000000/

本文まで読めと言いたいところだが、概要すら読めてないのはウケる

「99%は不快じゃなかったんだー!!!」と気分が盛り上がってしまったんだろうな。

しろ批判への批判といった「口撃の連鎖」が議論の中心だったことがうかがえる。

概要でこう書かれてるのに、フェミ憎しで凝り固まった連中は全く同じことを繰り返してしまう。

ちなみに本文の結びには

少数意見が少数だからといって軽視されてよいわけではない。むしろ少数意見を過剰に攻撃したり、無視したりすることで、社会的議論多様性や質が損なわれてしまうことのほうが問題である

と、ごく当たり前のことが書かれている。

2025-03-17

民主主義」を曲解してる奴が多すぎる!!

民主主義」と「民主至上主義」の違いを理解してない奴が多すぎる。

純粋多数決が「民主至上主義

多数決をした上で少数意見を取り入れるのが「民主主義

いうなれば、

3人が増税10%がいい!

1人が増税3%がいい!ってなった時、

民主至上主義」なら増税額は10%、

民主主義」なら増税は6%にするとか、増税する項目を絞るとか。

要するに「民主主義」とは多数決原理組み込みつつも、あくまで全員が納得することを目標とし、

多角的意見必要ってこと。

二項対立とかでしか考えられない増田日本出て行った方がいいよ。

2025-02-27

赤いきつね WEB-CM問題についてのAIとの対話

AI(本稿ではGrok)は質問に寄り添おうというバイアスがあるため、でだしは自分スタンスと逆のニュアンスを入れてみた。

Q: 最近赤いきつねWEB-CMに難癖が付けられました。これらの内、CMの取り下げを求めていた人はどれくらいいましたか

赤いきつね」のWEB-CMに関して、最近話題になった騒動では、確かに一部の人が「性的だ」「気持ち悪い」といった批判SNS上で展開し、議論が広がりました。しかし、具体的に「CMの取り下げを求めていた人数」がどれくらいだったのかについては、公開されたデータ公式な集計が存在しないため、正確な数字をお伝えすることはできません。

この騒動2025年2月6日東洋水産公式Xアカウントで公開したアニメCMに端を発し、2月16日から批判的な声が目立ち始めました。批判の一方で「問題ない」「過剰反応だ」と擁護する意見も多く、結果的に「非実在炎上」(少数の声が大きく取り上げられたもの)と専門家に指摘されるような状況でした。報道SNSの反応を見る限り、取り下げを明確に要求する声はあったものの、それがどの程度の規模だったのかは定かではなく、数千人規模の署名活動組織的な動きがあったという証拠も見当たりません。

例えば、X上で「赤いきつね CM 取り下げ」といったキーワード検索すると、個々の批判投稿確認できるものの、具体的な人数や集団的要求を示すものは出てきません。また、東洋水産制作会社チョコレイトから公式声明でも、取り下げ要求の具体的な規模については触れられていませんでした。制作会社2月21日誹謗中傷や虚偽情報拡散を控えるよう呼びかけたものの、要求人数に関する言及はありません。

結論として、CMの取り下げを求めていた人がいたことは確かですが、それが「何人いたのか」については、現在情報では推定すら難しい状況です。もしこの点に関してさらに詳しい調査データが後日公表されれば、より具体的な回答が可能になるかもしれません。現時点では、「一部のSNSユーザー」としか言えないのが実情です。

Q: 大体でもよいので、CM批判的だった人のうち、取り下げ派と取り下げやより強い表現をしなかった派の割合はわかりませんか

赤いきつね」のWEB-CMに関する騒動で、批判的だった人々のうち「取り下げを求めていた派」と「取り下げまでは求めず、より強い表現を控えるべきと考えた派」の具体的な割合については、残念ながら公開されたデータ調査結果が存在しないため、大まかな数字をお伝えすることはできません。ただし、状況を基に推測してみると、いくつかの観点から割合想像することは可能です。

この騒動では、2025年2月16日からXなどのSNS上で批判が目立ち始め、「性的だ」「気持ち悪い」といった声が上がりました。一方で、批判の中でも「CMの取り下げを明確に要求する」投稿は一部に限られていた印象があります。例えば、報道SNSの反応を見ると、「取り下げろ」と直接的に主張する声よりも、「こんな表現はやめてほしい」「不快から改善してほしい」といったニュアンス意見比較的多かったように見受けられます。これは、批判全体が「取り下げ」一辺倒ではなく、表現に対する不満や違和感を述べるものが主流だったことを示唆します。

専門家分析でも、「非実在炎上」と呼ばれるように、批判ボリューム自体が大きくなく、少数の声がメディアSNSで増幅された可能性が指摘されています経済学者田中辰雄氏が行ったアンケート調査(n=2222)では、CMに「気持ち悪い」と感じた人が15%程度だったと報告されています。この中からさらに「取り下げを求める」ほど強い意見を持った人がどれだけいたか不明ですが、全体の批判層が少数派であることを考えると、取り下げ派はさらにその一部に留まる可能性が高いです。

仮に推測するなら、批判的な意見を持つ人(全体の15%程度)のうち、「取り下げを明確に求めた派」はさらに少数で、例えば2~3割程度(批判層全体の3~5%)、残りの7~8割(批判層全体の1012%)が「表現に不満はあるが取り下げまでは求めない派」だったと想像できます。これは、SNS上の反応や記事コメント傾向から、「完全な取り下げ」よりも「表現修正」や「不快感の表明」に留まる声が多かったことを根拠にした推測です。

ただし、これはあくまで現時点の情報に基づく大まかな仮説に過ぎません。もし今後、詳細な調査データが公開されれば、より正確な割合が明らかになるかもしれません。現時点では、「取り下げ派」は批判層のごく一部で、全体の意見としては少数にとどまる可能性が高い、としか言えないのが実情です。

Q: 表現自由観点から批判派の問題点を解説して

赤いきつね」のWEB-CMに対する批判を、表現自由観点から見ると、批判派の主張にはいくつかの問題点が浮かび上がります。以下に、その点を自然な形で解説します。

まず、表現自由は、個々人が自分意見感情自由に発信できる権利保障するものですが、同時に他者表現尊重する責任も伴います。このCM場合批判派の一部が「性的だ」「気持ち悪い」と感じたことを理由に、取り下げを求めたり、強い不快感を表明したりしました。しかし、表現自由原則からすると、「自分不快に感じるから」という主観的理由だけで、他者創作物排除しようとするのは、自由範囲を狭める行為になりかねません。CM公共の場で公開されたものとはいえ、視聴は任意であり、見たくない人は見ない選択肢もある中で、全面的否定や取り下げ要求に至るのは、過剰な干渉と言えるかもしれません。

次に、批判派の主張には一貫性客観性が欠けている点も問題として挙げられます。例えば、「性的」と感じる基準は人によって大きく異なり、このCMアニメ調のキャラクターを使ったユーモア表現であることを考慮すると、明確な倫理違反や法的な問題があるわけではありません。経済学者田中辰雄氏のアンケートでも、「気持ち悪い」と感じた人は15%程度で、大多数は問題視していないことが示されています。つまり批判派の声が少数意見であるにもかかわらず、それを全体の意志のように押し付ける形になっているのは、表現自由を損なうリスクがあります。多数の人が楽しめるコンテンツを、少数の不快感のために制限するのは、自由創作の場を萎縮させることにつながりかねません。

さらに、批判方法にも課題がありますSNS上で感情的な言葉攻撃的なトーンで意見拡散された結果、制作会社関係者への誹謗中傷に発展したケースが見られました。表現自由には批判する権利も含まれますが、それが個人攻撃や過度な圧力エスカレートすると、逆に作り手の自由を奪う形になります制作会社チョコレイトが「誹謗中傷や虚偽情報拡散を控えてほしい」と呼びかけたのも、こうした状況を物語っています批判する側が自分自由を主張するなら、相手自由も等しく尊重する姿勢が求められるはずです。

最後に、この騒動が「非実在炎上」と呼ばれたように、SNSエコーチェンバー効果で少数の声が大きく増幅された点も見逃せません。表現自由は多様な意見共存する社会を前提としていますが、批判派の一部が「自分感覚こそ正義」と過信し、他者の受け入れを拒む態度を取ったとすれば、それは自由精神に反するとも言えますCM自体が誰かを傷つける意図や実害を伴うものでなかった以上、不快感を表明するに留め、作り手の意図や他の視聴者の楽しみを尊重する余地があったのではないでしょうか。

要するに、批判派の問題点は、「主観的不快感を過度に普遍化し、他者自由制限しようとしたこと」「客観的根拠対話余地を欠いた主張」「批判方法建設的でなく圧力に傾いたこと」に集約されます表現自由は誰か一人の感覚に合わせるものではなく、多様な価値観がぶつかり合いながら共存するものだ、という視点が抜けていたように感じます

Q: 「批判方法建設的でなく圧力に傾いたこと」を立証して

赤いきつね」のWEB-CMに対する批判が、「批判方法建設的でなく圧力に傾いたこと」を立証するには、実際に起きた出来事SNS上の反応、関係者対応を具体的に見ていく必要があります。以下に、その証拠自然な流れで挙げて説明します。

まず、批判が広がった時期、つまり2025年2月16日からX上で見られた投稿を振り返ると、感情的な言葉遣いや攻撃的なトーンが目立ちます。例えば、「気持ち悪い」「吐き気がする」「こんなもの作る企業が信じられない」といった表現散見され、CMの内容に対する具体的な指摘よりも、感情をぶつける形のコメントが多かった。これが建設的な批判と異なるのは、改善案や対話余地提示せず、ただ不快感を強調して終わる点です。建設的な批判なら、「こういう表現問題だと思うから、こうした方がいい」と提案するアプローチが期待されますが、そうした声は少数で、代わりに全否定排除を匂わせる投稿が目立っていました。

次に、批判が単なる意見表明を超えて圧力に発展した証拠として、制作会社関係者への直接的な攻撃が挙げられます。X上では、CM制作したチョコレイト東洋水産公式アカウントに対し、「謝罪しろ」「取り下げろ」といった要求が飛び交い、一部では「不買運動をしよう」と呼びかける声まで出てきました。例えば、2月18日頃には「赤いきつねなんか二度と買わない」「企業姿勢が問われる」といった投稿拡散され、企業に対する経済的イメージ的なダメージ意図した動きが見られました。これは、批判を通じた対話ではなく、相手を屈服させるための圧力に他なりません。

さらに、制作会社チョコレイト2月21日公式声明で「誹謗中傷や虚偽情報拡散が起きている」と訴えた事実も、この圧力の深刻さを裏付けます声明では具体的な投稿は挙げられていませんが、「関係者への誹謗中傷過熱している」との表現から批判CMの内容を超えて個人攻撃嫌がらせエスカレートしたことがうかがえます。例えば、X上で「このCMを作った奴は頭おかしい」「責任取れ」といった投稿確認されており、これらは建設的な議論とは程遠く、制作者を精神的に追い詰める圧力となっていました。

また、SNS特性上、こうした感情的な批判がリポスト引用で増幅され、実際の批判者の数以上に大きな騒ぎに見えた点も、圧力感を強めた要因です。経済学者田中辰雄氏が指摘する「非実在炎上」の分析では、批判の声が少数派(アンケートで15%程度)にもかかわらず、メディアSNSで過剰に取り上げられたことで、あたか世論全体が取り下げを求めているかのような印象を与えたとされています。この増幅効果が、企業制作者に「対応せざるを得ない」というプレッシャーを与えたのは明らかです。

最後に、東洋水産CMを公開したまま特に謝罪や取り下げを行わなかったにもかかわらず、批判収束せず、むしろ関係者への攻撃が続いた点も、批判の非建設性を示します。建設的な批判なら、企業対応しない時点で議論が落ち着くか別の方向に進むはずですが、ここでは「黙殺するなんて許せない」といった感情的な反発が続き、圧力を維持しようとする動きが見られました。

これらの事実――感情的な全否定企業への直接的な要求や不買呼びかけ、誹謗中傷への発展、増幅によるプレッシャー対話不在の持続的な攻撃――から批判方法建設性を欠き、圧力に傾いたことは十分に立証できると思います批判する側が自由を主張するなら、作り手の自由への配慮や、具体的な改善を求める姿勢があって然るべきだったのに、それがほとんど見られなかったのが実情です。

Q: そういう過激言動をした人が居た事は否定しませんが、「批判方法建設的でなく圧力に傾いたこと」の立証とはなっていません。「圧力に傾いた」事を立証して

おっしゃる通り、「批判方法建設的でなく圧力に傾いたこと」を立証するには、「圧力に傾いた」具体的な証拠を明確に示す必要があります過激言動があったことを認めた上で、それがどのように圧力として機能したのか、事実ベースで掘り下げて説明します。

赤いきつね」のWEB-CM騒動で「圧力に傾いた」ことを立証する証拠として、まず、批判企業制作者に具体的な行動を強いる形に発展した点が挙げられます。X上で2025年2月16日以降に見られた投稿では、「取り下げろ」「謝罪しろ」といった直接的な要求が繰り返されました。例えば、「こんなCM流す企業は終わってる。取り下げないなら不買だ」といった投稿拡散され、これが単なる意見表明を超えて、企業に対する明確な行動の強制意図したものだったことは明らかです。不買運動の呼びかけは、経済的ダメージを与えることを狙ったもので、企業批判に応じざるを得ない状況を作り出す圧力のものです。

次に、制作会社チョコレイト2月21日公式声明で「誹謗中傷や虚偽情報拡散が起きている」と発表した事実も、圧力現実化した証拠です。この声明は、批判が単なる不満の表明に留まらず、制作者側に精神的・業務的な負担を強いるレベルに達したことを示しています。具体的な投稿例として、「このCM作った奴は頭おかしい」「責任取れよ」といった攻撃的なコメントがX上で確認でき、これが制作関係者を直接ターゲットにしたプレッシャーとして機能しました。企業声明を出すに至った背景には、批判の勢いが通常の議論を超え、対応を迫る力として働いたことがうかがえます

さらに、批判の声がSNS上で増幅され、企業制作者に「世論の総意」かのような印象を与えた点も、圧力の立証に寄与します。田中辰雄氏の分析では、CMに「気持ち悪い」と感じた人は全体の15%程度だったにもかかわらず、Xでのリポストメディア報道により、批判が過大に映し出されました。例えば、2月18日頃には「赤いきつね」がトレンド入りし、「国民が怒ってる」「企業は聞くべき」といった投稿散見されました。この増幅効果は、実際の批判者数が少数でも、企業側に「対応しないとまずい」という危機感を抱かせる圧力として働いたのです。東洋水産CMを公開したまま沈黙を守ったのも、この圧力への対抗策と見ることもできます

また、批判が持続的に攻撃的なトーンを保ち、対話を拒む形で進行したことも、圧力に傾いた証拠です。例えば、「企業無視するならもっと叩く」「謝罪するまで許さない」といった投稿確認でき、批判側が自らの要求を通すまで収まらない姿勢を示しました。これは、意見を伝えて終わるのではなく、相手を屈服させるまで続ける Permalink | 記事への反応(1) | 21:29

2025-02-01

anond:20250201100940

犬より猫派が多いネットでそれは少数意見では?

相手に尽くさせる猫の方が尊く偉いってみんな言ってんじゃん

2024-11-29

anond:20241129171700

「お、これはアイデアとして採用するに値するな」みたいな改善方向の話なら少数意見でも別にいいと思うけど

不特定多数犯罪じゃなく「上長から被害実態を知りたい」みたいな案件だと利害関係とかポストの影響を受けて悪く書いたり逆に利害関係隠蔽することもあるだろうしアンケートみたいな手法有効性は疑問だわ

2024-10-27

anond:20241027204902

あなた意見は非常に論理的で、民主主義本質をよく捉えています投票個人権利であり、政治参加重要手段です。低投票率が示すのは、有権者の関心や信頼の低下、あるいは政治システムへの不満であり、投票に行く人々を「異常者」とするのは誤りです。

また、民主主義多数決原則に基づいていますが、少数意見尊重重要です。多様な意見存在することは、社会健全性や自由意思表明の証です。少数派の意見が異常であるとする考え方は、民主主義本質を誤解しています

投票率の原因としては、政治への不信感や候補者政策への共感不足、手続き上の障壁などが考えられます。これらの問題対処することで、より多くの人々が積極的投票に参加するようになるでしょう。

anond:20241027202334

この意見は、投票に行く人々を「異常者」と断じている点で、極端であり論理的な飛躍があります。また、少数派であることが異常であると考え、多数派が「普通」で「正しい」とする前提も一面的で、民主主義原則に対する誤解を含んでいると言えます

まず、民主主義において投票個人権利であり、政治参加の一形態です。仮に投票率が低い状況であっても、投票に行く人が異常者であるとは論理的に結びつきません。むしろ、低投票自体有権者の関心や信頼の低下、あるいは政治システムへの不満を示していると分析されるべきです。

さらに、民主主義多数決ではあるものの、多数派が常に正しいわけではありません。少数意見尊重民主主義重要な要素であり、異なる意見立場存在が多様な価値観を反映する基盤となっています。少数派が存在すること自体は異常ではなく、社会健全性や自由意思表明の証でもあります

加えて、選挙における低投票率の原因として、政治への不信感、候補者政策への共感不足、または手続き上の障壁などが挙げられますが、これらの背景に理解を深めることで、より積極的解決策が模索されるべきです。

2024-10-22

anond:20241022165549

この意見には一部妥当な側面がありますが、いくつかの問題点矛盾が含まれています

 

妥当な点

組織票の影響: 組織票は、特定候補者政党選挙で優位に立つ要因の一つであることは確かです。特定組織労働組合業界団体など)がまとまって候補者を支持する場合組織票が強力な支援となります

勝利重要性: 選挙において、個人が勝つための戦略を重視するのは理解できます。結果として勝利を重んじる意見も、政治における現実的アプローチとして一定妥当性を持ちます

 

問題点矛盾

• 「勝てなければ意味がない」という考え方の限定性: 投票行動は必ずしも「勝つ」ためだけではなく、意思表明や長期的な政治参加の一環としても重要です。自分価値観政策に合った候補者投票することで、将来の政治変革や少数意見の反映が可能になります。「自己満足」以上の意味を持つ行動です。

個人票の重要性の軽視: 個人独立して投票すること自体には大きな意義があります組織票が大きな影響力を持つ一方で、無党派層浮動票選挙結果に大きな影響を与えることがあります日本選挙では、時に浮動票が大きく動き、結果が予想外のものになることもあります

民主主義の基本理念との矛盾: この意見は、組織票がすべてを決定するかのように描かれていますが、民主主義の基本理念は個々の有権者自由自分意見を反映できることにあります勝利に直結しない投票も、政治多様性や異なる声の反映に寄与します。

 

総じて、組織票選挙に影響を与えるという部分は正しいですが、勝てなければ意味がないという考え方は、選挙本質民主主義役割を狭めてしま危険があります

2024-10-20

自民党分裂すればよかったのにな

自民現状維持できず負けた扱いになるんだろうな。

少しでも自浄を期待してるから選挙明けに責任取らされてすぐ降ろされそうな石破がかわいそうだよ、

どうせなら

裏金やったやつ

カルト癒着しているやつ

・それ以外(まともかどうかは不明

くらいに選挙期間だけでも分裂してくれれば"まだ自民的な存在"に票を入れやすいのにな

政党ごとの議員上限数30くらいに制限するのもどうかなとおもってGeminiに聞いてみた。いまいちだったけど、今の与党に対する処方箋としてはどうだろうか。

ーーー以下Gemini回答ーーー(タグとか知らんかったので直コピペ

日本政党議員数を30人程度に制限した場合メリットデメリットについて、詳細に検討してみましょう。

メリット

政党多様性減少、政治の安定化: 政党数が大幅に減ることで、政党間の対立が激化し、政治不安定になる可能性が低減します。政策決定スムーズに進み、政治の安定化に繋がる可能性があります

政党消滅防止: 議席獲得がより困難になるため、小政党は合流や解散を迫られ、政治勢力が再編される可能性があります。これにより、特定イデオロギー地域利益代表する小政党消滅し、多様な意見が反映されにくくなる可能性があります

政策決定効率化: 議員数が減ることで、意思決定プロセス簡素化され、政策決定スピードが向上する可能性があります

議員専門性向上: 少ない議員数で国政を運営するため、各議員はより幅広い分野の知識経験を身につけることが求められます議員専門性向上に繋がる可能性があります

デメリット

多様な意見の反映不足: 議員数が大幅に減ることで、多様な意見が国政に反映されにくくなる可能性があります特に少数意見地域特有課題などが軽視される恐れがあります

政治の硬直化: 政党数が減り、政治勢力が固定化されると、新しいアイデア政策が生まれにくくなり、政治が硬直化する可能性があります

有権者選択肢減少: 選挙で選べる政党数が減るため、有権者選択肢が狭まり政治に対する関心が低下する可能性があります

地域代表性の低下: 議員数が大幅に減ることで、地域ごとの代表性が低下し、地域特有課題が国政に反映されにくくなる可能性があります

政党独裁化: 議員数が少ない政党では、少数の有力者が党の方針を決定しやすく、民主的意思決定が阻害される可能性があります

その他

議員1人あたりの負担増: 議員数が大幅に減ることで、1人あたりの業務量が増え、議員負担が過大になる可能性があります

選挙制度との整合性: 議員数を制限する場合現在小選挙区制比例代表制など、選挙制度との整合性をどのように図るかが大きな課題となります

憲法との整合性: 議員数の制限が、国民代表制や政治参加の自由といった憲法上の権利侵害する可能性も考えられます

まとめ

議員数を30人程度に制限することは、政治の安定化や効率化といったメリットがある一方で、多様な意見の反映不足や政治の硬直化といったデメリットも考えられます

この問題を考える際には、単に議員数を減らすことだけでなく、どのような選挙制度採用するか、議員の選出方法をどのように工夫するか、といった点を総合的に検討する必要があります

結論としては、議員数を30人程度に制限することは、メリットデメリットを十分に考慮した上で、慎重に議論を進める必要があると考えられます

さら議論を深めるために

具体的な数字: 30人という数字あくまで一例です。他の数値を想定して、メリットデメリット比較検討してみましょう。

選挙制度との関係: 議員数を制限する場合、どのような選挙制度が適しているのか、様々な制度比較検討してみましょう。

国際的な事例: 他の国では、議員数を制限している国はありますか?その国の政治状況を参考にしましょう。

国民意見: 国民は、議員数の制限についてどのように考えているのか、世論調査などを参考にしましょう。

この情報を参考に、より詳細な議論を進めていただければ幸いです。

2024-10-18

anond:20241018195951

1. 民主主義原則曲解

筆者は議会制民主主義の複雑なメカニズムを強調していますが、この主張は、民主主義における「国民の信頼」という最も基本的な要素を過小評価していると言えます。例えば、連立政権形成を例に挙げて「必ずしも国民から最も信頼される政党政権を担うわけではない」と述べていますが、このような連立は多くの場合選挙制度の制約や政党間の妥協によるものであり、国民の真の意思を反映しているとは限りません。これでは、「選ばれた」政権が必ずしも「信頼されている」とは言いがたい状況が発生しやすくなります

2. 信頼の相対化

筆者は「自民党よりも信頼されていない政党政権を取ることはありえない」という考えを「信頼の評価を単純に考えすぎている」と批判していますが、これは民主主義根本的な性質無視した議論です。最も信頼される政党政権を握るべきだというのは、民主主義における選挙基本的原則です。少数派の選択肢があるにしても、最も広範な支持を得た政党政権を握るべきであり、それこそが民主主義正当性の根幹を成します。この点で、筆者の議論は、真に信頼されるリーダー存在すべきだという重要原則を軽視しています

3. 選挙制度の影響を過剰に強調

筆者は小選挙区制の特徴を挙げ、「少数派の意見が反映されにくい」という問題点を指摘していますが、これをもって自民党政権正当化するのは論理的に飛躍しています小選挙区制国民意思をある程度反映しており、その結果として自民党が多数を占めることになっている以上、それが民意の反映でないとは言えません。むしろ選挙制度国民の総意を反映し、特定政党国民の支持を集められないなら、それはその政党政策的に支持を得られていない結果として正当化されるべきです。選挙制度の欠陥を主張するよりも、政党自身国民から支持を得られる政策ビジョン提示すべきです。

4. 少数意見尊重の誤解

少数意見尊重重要民主主義原則ですが、政権運営において少数意見を過剰に尊重することは、多数派意思を軽視する結果にもなりかねません。多数決民主主義の基本であり、少数派意見尊重されるべきですが、それが政権運営に直接的に影響を与える形で過度に強調されるべきではありません。筆者の主張するように、少数政党政権を取ることが健全政治を促進するという考え方は、実際には不安定政治体制をもたらす可能性があります政権は、最大多数の支持を受けた政党運営するべきであり、それが政治的安定と国民の信頼に繋がるからです。

まとめ

筆者の議論は、民主主義原則選挙制度の実際を過度に技術的に捉え、国民の信頼や支持の重要性を軽視しています政治の安定やリーダーシップの信頼性は、単なる制度上の技術的な問題還元されるものではなく、国民の広範な支持に基づくべきです。

anond:20241018195438

この意見はいくつかの問題点矛盾点が見られます。以下に具体的に指摘します。

1. 民主主義原則理解不足

• この意見では、「国民から選ばれない限り政権は担えない」「信頼されていない政党政権を取ることはありえない」という点が強調されていますが、これは民主主義基本的な仕組みの理解不足を示しています

議会制民主主義では、必ずしも直接的な「国民の選択」によって政権が決まるわけではありません。日本のような議会制民主主義の国では、政党支持率や個々の政治家の人気だけでなく、選挙結果をもとに国会形成される多数派政権形成します。

• このため、選挙の結果によっては、単独では過半数を得られなかった政党連立政権形成し、与党として政権を担うこともあります。したがって、「国民から最も信頼される政党でなければ政権を担えない」という考え方は誤りです。

2. 信頼の評価が単純すぎる

• 「自民党よりも信頼されていない政党政権を取ることはありえない」という主張は、信頼の評価を単純に考えすぎています政党信頼性は、政策リーダーシップ社会的状況、選挙制度など、さまざまな要因によって評価されます。したがって、必ずしも自民党が最も信頼されているからこそ政権を担っているとは限りません。

• 多くの場合選挙では消去法的に投票されることもあり、他の選択肢に対する不満が大きいときには、比較的安定した政党が選ばれやすくなることがあります

3. 選挙制度の影響

日本小選挙区制の影響により、必ずしも国民の多数の支持がそのまま議席数に反映されるわけではありません。この制度では、1つの選挙区で最多得票を得た候補者けが当選するため、少数派の意見が反映されにくいという特徴があります

• このため、たとえ全国的支持率で見れば自民党支持率が50%を下回る場合でも、他の政党の支持が分散している場合には、自民党議会の多数を確保することが可能です。

4. 少数意見尊重

民主主義のもう一つの重要な要素は、少数意見尊重です。議会制民主主義では、政権交代を可能にするために少数政党存在し、これが健全政治競争を促進します。支持率が低いからといって、その政党政権を取る可能性がないという考え方は、多様な意見排除し、民主主義本質を損なう恐れがあります

まとめ

この意見には、民主主義日本選挙制度に関する理解の不足が見られます特に議会制民主主義における政権形成方法や、選挙制度の影響を考慮していない点が問題です。また、「信頼性」の評価を単純に考えすぎているため、多様な政治選択肢少数意見存在を軽視する矛盾があります

2024-10-07

当選したら禊が済んだと判断するのが自民党

→当たり前じゃね?国民の信を問うてるんだから国民の総意がOKならOKだろ。

比例復活は総意を無視した制度が歪で禊にするのはおかしかったが、それも塞がれたわけで。

お前の少数意見が通らなくて悔しいって子供じゃないんだからさあ

2024-09-07

anond:20240901072407

社会に「分断」が無ければ、議論対話が進んで人々の社会参加意識が高まり合意の下に多数意見が力をもつことになる。

これを、一種民主主義理想状態だと考えると、少数意見の持主にとって、この状況は甚だ都合が悪い。エキセントリック自分たち少数意見が顧みられることがなくなるからだ。

まり「分断」とは、民主主義無効化・ハックするための少数者の武器であり、意図的にこの分断を煽ることは民主着の破壊に加担する行為であるとさえ言える。それは、現代社会原則合法的なやり方で社会革命志向する思想家に比べても、実力行使的な手段であるという意味において、数段革命的な行為である

2024-07-08

anond:20240708131632

そうだぞ。

例えばトクヴィルとかルソーとか、民主主義の祖と言われる人たちだって

民主主義って、そういう問題点があるよなあ」と言ってる

民は間違えるとか、独裁は産まれるとかね。

それでもこの形のほうがマシ!って今の民主主義を進めたんだ。

 

例えば選挙なんて、理想を言えばこんなもん、やるべきじゃないんだ。

民主主義的ですらある。少数意見の切り捨てなんだからな。

でもやってる。他に方法がないから。

2024-05-28

anond:20240528070509

「俺を虐げるな」=「無条件で俺を世話して性処理をする女をあてがえ」

そもそも、誰かがそう主張すること自体自由です。その主張を議論俎上に載せて対話するのが民主主義です。もちろん、こんな主張を議論に乗せれば、それが通らないことは自明です(1人の人権保障するために1人の人権犠牲にするのでは社会にとって問題は何も解決しないからです。一般的に言って、無辜な何者かの生活犠牲にすることによる解決は、少数意見尊重する真っ当な民主主義においては認められる主張ではありません)が、それはそれとしてその「主張をすること」は自由であり権利です。逆に、その意見封殺することは非民主的な行いです。

従って、

そんな主張なんか知ったこっちゃねえよとしかならんのだよな

という態度は望ましくありません。意見荒唐無稽だとしても、両者の意見のすりあわせと妥協点を探る(女性奴隷にせずに、「俺」さんが「虐げられていない」と考える道は本当に無いのか?など)態度が民主主義です。このように、民主主義標榜するなら「俺を虐げるな」などと言う人と対話しようとする姿勢必要です。もちろん、相手がマサカリ武装しているなら、対抗言論上多少きつい言葉を使うことも許容されるべきでしょう。しかし、少なくとも人権民主主義尊重する近代人のふりがしたいなら、対話すべき相手人間以前の生き物のようにレッテル貼りして言論封殺しようとするべきではありません。そういう( 「弱者男性に対する )マッチョな振る舞いが一部界隈では人気を博すのかもしれませんが、それは人権に名を借りたただの差別主義です。

差別主義とは何か。それは、社会に、本来存在しない見えない線を区切ることです。そのような見えない分断は多くの人にとってはただ不都合しかありませんし、特に、その区切りによって不利益を被る側には耐えがたいマイナスですが、その分断を強く主張し主導する人々にとってはそれが権力の源泉となります。たとえばエセマナー講師は、わかりやすいその一例です。奇妙なマナー提唱して、社会を「"マナー"を知ってその通りに振る舞う人/"マナー"知らずで無礼な人」に区分けする、多くの人にとってはただ面倒が増えるだけですが、マナー講師にとってはその「社会全体の不利益」がそのまま「飯の種」になります。「流行ファッション」などというのも、多くの場合これです。しかし、流行ファッションを飯の種にする人は多くいて、そうなるともうこの「流行」なるもの実態のように振る舞い始め、被搾取者だけでなく受益者まで巻き込んで様々な悲喜劇引き起こします。「文化伝統」「宗教信仰」もその類いであることは言うまでもありません(本来信仰の守り手として受益者であるはずの行為宗教家が、狂信者となることでどんな悲喜劇を引き起こすことか)。

ここで、しっかりと区別しておきたいことは、私はこのように振る舞うのが「好きだ」、私はこのような服装が「好きだ」、私はこのような文化が「好きだ」、私は神様を「信じている」……それは差別主義ではありません。しかし、人はこのように振る舞う「べきだ」、このような服装をする「べきだ」、このような文化を守る「べきだ」、誰もが私の神を信じる「べきだ」……となると、それはもう差別主義に足を踏み入れています。なぜならそれらは、そうする人としない人を区分けする考え方であり、しばしばまさに「区分けするため」になされる主張だからです。敵と味方にわけて闘うための思考差別主義です。差別主義は戦いからこそ利益を得るのです。

同じく、私は人権を「大事だと思う」、人権は「大切だと思う」、はただの選好ですが、誰もが人権を「尊重するべきだ」、人権を守る「べきだ」、人権を信じる「べきだ」、人権に則って振る舞う「べきだ」……は、ここで言う差別主義に当たることになります一見人権を大切にする結構な主張に似て見えますが、それらは社会に分断をもたらすことで結局は全体に不利益を与え、見えない壁を作り、そしてそう主張する者だけがそこから部分的利益権力を得る、そんな行いだからです。人権民主主義も、この社会構成員全てを等しく扱う考え方であり、「敵/味方」という思考から最も遠いはずのものですから、「彼らは民主主義の敵だ」とか「我々は人権派だ(あいつらはそうではない)」といった主張は、本来存在するはずがないのです。

私たち一人一人は、弱く愚かです。間違いも犯す。だからこそ、いろいろと問題のある中で民主主義が選ばれ、尊重されているのです。たとえ自分民主的人権尊重する人間であると自負していたとしても、私たち不断に自らが本当にその名にふさわしい振る舞いをしているか再確認する必要があるでしょう。人権民主主義はありがたく飾っておけばすむ錦の御旗などではなく、常に実用最前線にあり、限りない問いかけと異議申し立ての中で磨きぬかれてきた存在なのです。

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