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2025-09-04

近江一郎氏についての記述

1931年植民』より、「帆船南洋慰問の旅」という記事

五十噸の補助機関つき帆船海峡植民地から東インド約二ヶ年の予定で一周しようといふ企てがある――計画者は神戸市元町三丁目近江一郎氏でボルネオインドに久しく滞留、仏教研究して最近帰朝した岡本春岳師ほか二名の同志の力を得、海外在留民を慰問し、病没者の展墓弔霊燈台守の慰問をなし、併せてわづか五十噸の小舟で南洋を一周すること自体によって海事思想の普及に資し、寄港地では新聞以外に故国事情を知りたいと希望している人々のためには最近東京風景や観艦式などの活動写真を見せるとともに故国の発展ぶりや近情を講演し、商品見本やカタログなどを配って行き、簡単商品見本市を開き希望者には連絡の労もとり、各地にある日本人会の連絡をつけようといふのである。首唱者近江氏の厳父は日露戦役直後東京朝日新聞者がチャーターして満鮮巡遊団を企てた時のロセッタ丸の船長で、今年はその七周忌に当るので、亡父への供養の一端であると大した意気込みで、目下拓務省に補助の支出交渉であるが、それが纏まり次第四五月ごろには壮途につきたいと、近江氏は語る。

『明中教育十年』より、「明石中學校十年史」の1932年2月1日の項。

南洋調査団(鎖国丸)長拓務省嘱託近江一郎氏一行十名ノ為ニ市公会堂ニテ送別会開催ニツキ山内校長出席

直木由太郎編『家信 みとせのはるあき 上』より、1932年の「五月十六日 神戸より」。

近江一郎氏の鎮国丸は最近琉球沖で難破し、船員一名死にました。詳細不明

1934年宗教文化誌 法華』より、音馬実蔵「看雲雑記」。

主義者近江一郎君はまだ知らぬ人だが、其著「小舟を住家に南洋へ」は近来非常におもしろく感ふかく読んだ書物の一であるので一筆書いておく。

第一此書は君が鎮国丸という小船に乗じて南洋に向ふ途中、琉球近くの与論島に於て、船が暗礁に乗り上げ大破、九死に一生を得たこの死線突破体験を本として、其遭難顛末と共に南洋開拓に就て、かねて諸方面に就き自ら準備のために取調べた生きた心得の数々を教へ示さんとするもので、世に机上の空論は多くてもこの書の如く命をかけて出来た書物まこと稀有と云ふべきで、この点に心ひかれるものがあるのである

『楚人冠全集』より、1937年杉村楚人冠バルサ」という記事

逓信省船舶試験場で、近頃絶対に沈まない救命艇とかを作った。(中略)沈まない船といふのは、バルサを用材にして作ったとの事だから、何も今に始まった新案でも何でもない、現に私の友人がこれで救命艇を作って、特許を願ひ出た次第は、一昨年の十一月の「グラフ」に私が書いている。彼は特許が許されないので、気前よくその船を私に呉れて行ったので、私はこれを手賀沼に浮べて、時々漕いで出るのを楽しんで居る次第も、その時に書いた。この贈主の名を近江一郎といふ。朝日新聞社明治三十九年の夏満韓巡遊の船を仕立てて、日本で初めて新聞主催団体旅行を企てた時、その乗艦ロセッタ丸の船長だった林橘治君が、即ちこの近江君の実父であった。

1959年『新民』より、寺岡謹平「祖国の礎 特攻観音縁起について」という記事

昭和二十一から神戸の人近江一郎という老人がおりまして、南洋貿易をしておったのでありますが、戦争たけなわになりますと、日本航空隊では油がだんだんなくなる。潤滑油をなんとかして作ろうということで満州にわたって白樺から潤滑油を作る研究に目鼻がついた、ということを軍令部に進言致しました。そのときには戦争が終ってしまったので、戦争に敗けたのはわれわれ国民の協力が足りないため、ということを考えまして、なんとかして戦死した御霊をなぐさめたいということで、まず特攻隊の遺族を弔問しよう。御霊に参拝しようという念願を立て、二十一年二月から、全国、北は北海道、南は九州のはてから、ずっと単独で廻って歩いた。

(中略)

はじめのうちは簑笠にカーキ色の服を着た坊さんが現れると、これは押売りか物貰いだろうと思って、虐待された。いろいろ考えた末、各県の世話課に頼んで遺族の住所を調べ、予め紹介してもらって参りました。そこで今度は順序よく運んだ。行くと、先ず以て仏様の前にいってお経を読んで焼香をする。そして般若心経を半紙に書いたものを一枚奉納する。

これは神戸の友人で美田禾山翁という書家がおりまして、その人の仏心で般若心経を沢山書いてもらった。海軍特攻隊の遺族は、二五二五名おりますから、美田先生も老齢ではあるし、耐えられなくなった。そこで誰かに書いてくれということで、私も何百枚か依頼されましたが、電報で何枚どこそこに送れと、こういうふうにくる。

(中略)

そういうものお土産にもって廻って、六年間というもの休みなく廻りました。とうとうしまいには病気になりまして、二十七年一月二十一日に亡くなられた。その間に約一、九〇〇名の遺族を弔問しております。残ったのは東京東海北陸の一部で、東京都を最後に残したのは、終ったところでお上特攻隊の遺族の状況を奏上する、というのが狙いでございました。

吉川英治対話集』より、1959年の対談での吉川英治発言

近江一郎という無名の人がいるのです。軍に徴集されて、なにかのことで満州塾長をしたのです。開拓民の塾長じゃないかと思うのですが、終戦になってこっちに帰ってきて、さる人の紹介で、私が吉野村に疎開していたときに、杖をついて帰還者の服を着たままでやってきましたよ。そのころ、もう年齢は六十近かったでしょうか。

「いったい君はなにして歩いているんだ?」

「私は帰ってきて、たくさんの死んだ兵隊たちの家を一軒一軒歩いて、そうしてそこに年寄がいたら、年寄を慰め、仏壇があったらお線香の一本ずつもあげさせていただくのを生涯の念願にしている」「収入というものはどうしているんだ?」「収入はありません」「じゃ、どうして食べている?」「子どもが一人あって、女房神戸区役所人夫をしている」女人夫ですね。「子ども小学校に行っている。お父さんは好きなことをしていいと言うから、私はそれをやる」それから復員局で住所を調べましてね、全国を歩いていました。ほんとうに驚くべきものですよ。あるときその男と話をしまして、こういうふうに戦死者の家を歩いていると、ずいぶんひどいことを言われることがあるでしょうといったら、はじめてその男が炉辺でボロボロ涙を流しまして、このごろは復員局で言ってもらえるのでわかってきたけれども、いちばん最初九州、あのへんの山間を歩くんですね。なにしにきたとどなられる、弟を死なせたという兄貴がヤケ酒を飲んでいるところにぶつかって、「戦死したものの供養にきたと、それで死んだものが生きてかえるか」と上りかかったところを蹴落とされた。そんな目にも会いました。そういうふうにけとばされたり、つばをされたり、なぐられたりするたびに、「これは陛下の罪滅しになると思って私はしのんできました」というのです。

『あすへの話題』より、1965年中村文夫のコラム

近江一郎というのは私の中学時代のなつかしい同級の剣友であるが、五年の時、神戸一中を去って大阪天王寺中学に転校し、偶然にも、草鹿さん(註:草鹿龍之介)と同級となり、いずれ劣らぬ剣友同士の間柄だったのである

近江君と私は一年の時からの同級で、しかふたりは一時、剣道部の両雄として互いにしのぎを削った間柄で剣友として忘れられない一人だが、まことに気骨のたくましい一風変わった偉丈夫であった。それかあらぬか、一時は満州国に行って馬賊になったとまでうわさされたのであったが、敗戦となるや、彼は決然起って、あの戦争末期の花形として雄々しく散っていった海軍特攻隊の遺族を尋ねて全国行脚の壮挙を思い立ったのである

しかし何分にも当時世をあげて戦後の虚脱状態にあり、特別関係者以外はだれ一人としてこれを支援しようとする者はなかったが、彼は毅然として、すげがさ、負いずる姿のいでたちで、全く乞食坊主そのままの行脚を続け、全国にわたる戦没英霊実家を歴訪してその冥福と遺族の慰問精魂を打ち込んだのであった。

戦後の軍当局と連絡をとったものらしく、一地区ごとに行脚を終わると必ず大阪に私をたずねて来訪し、つぶさにその難行苦行の実情を物語ってその感想録と写真を見せてくれたものだが、ほんとうに涙なくしては聞くことも読むこともできなかった。当時在阪の草鹿さんともいっしょに、時々は三人で食事を共にして、近江君の労をねぎらい、かつ旅情を慰めたものであった。

1974年川西実三の『感銘録』より。

私の中学校の後輩で近江一郎という男がいて、父親船長だった関係もあり、南方の島の資源開発を思いたった。ここが素人の私にはわからないことだが、それには沈まない船をつくらなければならないというので、あちこち設計を頼んだり資金相談にきたりした。

この話を川西さん(註:川西清兵衛)が聞いて、近江君を助けてやろうということになったらしい。そして近江君の希望どおり不沈船が竣工して南方へ出発したと聞いた。ところが、どうしたわけか帰りがけに台湾沖で沈んでしまったという。なんともロマンチックな話だ。


近江一郎の著書に『小舟を住家に南洋へ』『斜に視たる神戸一中』がある。『小舟を住家に南洋へ』は読めなかったが、大まかな内容は上記説明されている。『斜に視たる神戸一中』は、第一神戸中学校のおそらく1935〜1939年頃の同窓会報に掲載されたコラムを集めたものである。内容としては、神戸一中の卒業生がこんなにすごいことをやった、こういう面白いことをやった、といったもので、上記の「中村文夫(日本板硝子社長)」や「川西実三(埼玉長崎京都東京知事歴任)」なども登場する。笑いあり涙ありの平和ものだが、支那事変日中戦争)が始まったことや、誰それが戦死したというようなことが書かれていたりもする。近江一郎自身のことはあまり触れられていないが、母親名前が「朝子」ということ、娘がいて神戸野田高等女学校入学させたこと、第一次大戦の青島の戦いに従軍していたこと、などが書かれている。

2025-07-14

anond:20250714185628

2026年に「日本中国先制攻撃を仕掛け、中国沿岸部占領満州国建国する」というシナリオ外交無視して純粋軍事面から現実的検討します。以下、前提とシナリオ展開の分析です。

■前提条件(分析ベース

• 時期:2026年現代

日本自衛隊が現体制のまま。憲法改正済かは不問。動員は最大限可能仮定

中国現実中国人民解放軍が存在。核使用なしと仮定限定通常戦)

アメリカなどの第三国不介入外交無視前提)

フェーズ軍事的考察

フェーズ1:先制攻撃と奇襲成功可能

日本攻撃手段

弾道ミサイル戦力:なし(制約あり)

巡航ミサイル12式地対艦改良型、JASSM取得中(最大数百発規模)

空軍力:F-35A/B(数十機)、F-15J改修機

海上戦力:イージス艦潜水艦優秀、空母機能限定

▷奇襲対象

• 済南・青島大連上海など沿岸都市を想定

• これらは中国の防空圏・レーダー網で厳重に警戒されている

評価

日本兵力では奇襲でレーダー網を完全無効化するのは困難

• 数百発のミサイル攻撃でも軍港機能全停止は不可能

一時的空港港湾麻痺させられても中国空軍が即反応

➡ 初動の奇襲成功率は非常に低く、奇襲段階で制空権を得るのは不可能

フェーズ2:上陸作戦沿岸部占領

日本上陸戦力

陸自水陸機動団:約3,000人程度(離島奪還用部隊

海自輸送艦:少数(おおすみ型など)

• 空挺戦力:第1空挺団(1,000人程度)

占領目標:例えば青島大連など

人口数百万、陸軍常駐部隊あり、機甲師団配備

中国側反応

東部戦区だけで数十万の兵力

戦闘機ドローン弾道ミサイルでの反撃が即始まる

評価

自衛隊上陸輸送能力では一度に展開できる戦力は数千人程度

制海権制空権がなければ上陸部隊は即座に殲滅の恐れ

青島などの都市部を維持するには最低10万人規模の駐留必要

沿岸部一時的占領は非現実的。維持は完全に不可能

フェーズ3:満州国建国占領地維持

必要兵力規模(治安維持+外敵牽制

満州地域東北三省)は広大で人口も1億近い

占領維持には最低50万以上の兵力補給線が必要

日本兵力

陸上自衛隊:約15万人(常備)

• 即応予備・予備自衛官:合わせて約4万

輸送力・補給線は海路依存

中国側の対応

内モンゴル華北から機械部隊で全面反攻可能

日本占領部隊を包囲・孤立させるのは容易

東シナ海から補給中国の対艦ミサイル圏内

➡ 持久占領どころか、数週間で殲滅される可能性が高い

■最終評価現実的軍事評価

項目 評価

奇襲成功率 極めて低い(防空網が堅固)

上陸戦力 極めて不足(輸送・制空不可)

占領維持能力 完全に不足(補給線も脆弱

成功可能性 0%に限りなく近い


■まとめ(地政学無視軍事的結論

日本中国先制攻撃を行い、沿岸部占領して満州国建国するというシナリオは、軍事的にほぼ完全に不可能です。特に以下の点が致命的です:

• 制空・制海権が取れない

上陸輸送能力が決定的に不足

陸上戦の継戦能力ゼロ

補給線が即座に切断される

国家総動員憲法無視・先制核攻撃あり・米軍支援あり」でも成立困難です。

2025-05-07

anond:20250507195353

自民以外が与党になってたとしても五輪万博もやったやろなあ

青島都知事という例外はあるから絶対とは言えんけど

2025-05-01

いま中国ブランドになっている会社

Motorora:レノボ(联想集团、中国香港)の携帯電話ブランド

モトローラ社が携帯電話部門モトローラ・モビリティ・ホールディングスに分割、2011年Googleが125億ドルで買収、2014年レノボにへ売却。

同様に、富士通NECThinkPadバッチがついて売られているPCレノボが所有している。

アクア株式会社ハイアールグループ(海尔集团、中国青島)のASEAN日本向けブランド

三洋電機 → 2008年パナソニックグループ傘下 → 三洋電機グループ解体白物家電部門2011年中国ハイアールグループに売却 → 洗濯機部門冷蔵庫部門2016年統合、「AQUA」のブランドに。

Volvo Cars:ジーリーホールディンググループ浙江吉利控股集団有限公司中国浙江省)のブランド

1999年フォード譲渡 → 2010年ジーリーに18億ドルで売却。

Lotus Cars、SmartLondon Taxiジーリーブランド


個人的感想

これらは中国ブランドだということを知らずに買っている人がそこそこいる印象がある。

今後販売されるであろう日本向けのEVも、このように既存ブランドバッチをつけて売れば手取り早いのではと思う。

2024-12-18

臭いし息も臭い青島(57)

同僚におったら地獄やろ

2024-10-05

三大「この名言おかしい」

できないことを名言にすな!

あとは?

2024-09-16

anond:20240916113829

そういや5巻出たんだな

青島内田は成婚しそうだが赤木はどうオチつけるのかが気になる

元カレと元鞘じゃさすがにオチとして微妙だし、俺たちの戦いはこれからだエンドとかだろうか

2024-08-14

anond:20240813143753

ディスったな俺の前でアキバラーメンを!

アブラ

・ごっつ

つけめん

やすべえ

つじ田

ご当地

田中そば

・(遠いけど)青島食堂

博多風龍

九州じゃんがら

清湯

中華そば

(ほん田いつも並びすぎてて行ったことない)

番外編

蘭州拉麺五福

2024-07-10

anond:20240709224514

明治神宮は元国営だしスタジアム経営してるし、事実上ゼネコン教だし公金チューチュー狙ってるよね

9000億円築地スタジアム計画はぜんぜん争点になってないし、裏金金融不動産ののさばりぶりが知れたね

昔の青島知事とは違って、小池石丸ハコモノ行政派だしな

2024-07-09

anond:20240709192730

鈴木都政いちばん最後自民党本部主導でNHKアナウンサー擁立して鈴木知事に完敗

鈴木知事引退して自民他いくつかの政党相乗りして官房副長官擁立して青島幸男に完敗

青島知事引退して自民国連事務次長を、民主鳩山元文相を擁立してそれぞれ石原知事に完敗

舛添知事引退して自民は元岩手県知事擁立して(希望の党結成前の)小池百合子防衛相に完敗

歴史的政党色が強い候補都知事選ではこの30年まず落ちることのほうが多い。なぜかわかんないけど政党色がないほうが票が集まりやすい。

石原都政のときも党本部じゃなくて都連が支持してたにすぎないはず。

おそらく立憲の中でも政党色を無くしたほうが良いっていう意見はあったはずなんだけどね。

でも出ちゃったのかなあ…

2024-06-26

anond:20240625220715

昔。青島幸男という男がいた。ギャグ持ちネタは「あおしまだー」(あまり面白くない)

そんな青島が、都知事立候補した。公約は「世界都市博覧会の中止」だけ。

 

世界都市博覧会はバブル時代計画された博覧会

当時、バブルが完全に崩壊していた。世界都市博覧会はすごい赤字をだして失敗すると思われていた。でもだれも中止にできなかった。絶対に失敗するのに。都民ものすごい借金を背負わされると思っていたけど完全に諦めていた。

 

でも青島立候補した。世界都市博覧会が中止できるかもしれない。そんな熱狂のなか青島当選

でも、都民世界都市博覧会が中止になるとは思わなかったんだよね。

でも青島はやりとげたんだ。ものすごい軋轢があるかとおもったんだけど、案外かんたんに中止になった。

 

ほんとうはみんな世界都市博覧会を中止にしたかったんだ。

 

みんな中止にしたかったんだけど、だれも言い出せなかったんだね。

青島さんが任期の4年間でやったしごとは「世界都市博覧会」の中止だけ。ほんとにそれ以外の仕事はしてない。

でも、みんな青島さんに感謝してる。だれも言い出せなかったことを実現したから。

 

公金チュウチュウも同じだと思う。

みんな「なんとかしなきゃ」と思っているんだけどだれも言い出せないんだよ。

もし、公金チュウチュウにメスが入るならみんなに感謝されるのだろう。

 

実務能力とか、あまり関係ない。青島知事がそうだったように。必要なのは明らかな誤りを糺すビジョンなんだよ。

 

青島知事ありがとう

そして、ひまそら知事にはものすごく期待してる。

 

2024-06-22

anond:20240622181800

しろ青島かめちゃくちゃ優秀な都知事だっただろ

利権におもねらず都民希望をしっかり叶えた知事なんて青島くらいやんけ

青島の経歴調べてこいよ、単なるタレント知事ではないぞ

ノックとかそのまんま東とは次元が違う

2024-06-21

anond:20240621090835

都政くらい巨大になると知事意味のある決定なんてできないからな

近年唯一の事例としては青島都市博中止だな

2024-06-14

anond:20240614185815

だいたい青島さんが1期勤め上げてるってだけで、もうどんギャグみたいな状況も焼き直しにしかならねーから

煽るネタがなくなればいちいちマスコミに取り上げられなくなるだけだろうし

どうせそれでも都政は回る

2024-06-07

石丸伸二の「政策を論じろ」ってまだ政策発表してないじゃねーか

石丸伸二という都知事立候補した政治家ゲンダイに叩かれている記事ブクマで「政策を論じていない記事なので意味がない」というような主張を複数人がしている。

https://b.hatena.ne.jp/entry/s/gendai.media/articles/-/131178

 

ところがだ。石丸自身は都政に関して具体的な政策を語ったことあったっけ?無いのだ。「人口過密を何とかしたい」という漠然とした思いくらいだ。

しか石丸インタビューでは「その具体策はまだない」と言っているのである

https://youtu.be/vaTcxZFc0e4?si=WAPX4ZdwpUuUjcdd

 

おい、これは「この記事政策を論じてない」と言ってた連中も石丸の「政策」なんて聞いてなかったって事だろ。

「閉じた社会的クラスタの中で符牒化された答えを言えば反論した事になる」そういう事だろ。

そしてゲンダイの元記事はまさにその事を指摘して、その支持のされ方がヤバい、延いては石丸という人物ヤバいと指摘する記事なのだろう?

するとまさにゲンダイが指摘する事をブコメ欄で演じてみせたワケだな。お見事である

 

政策がないのが常に悪いわけじゃない

では石丸政策が無いのがいけないのだろうか?そうではない。政策以外で支持される選挙もある。

例えばオバマ健康保険の導入など具体策もあったが、支持の中心は「ブッシュでない事、保守系シンクタンクパペット人形ではない事という漠然としたイメージだった。

トランプ場合は国際から国内への回帰エリート勝手に国を運転するなという反感であったし、バイデン場合はもう地獄盆踊りを終わりにして日常に帰れというものだった。

都政では青島幸男都市博止めますの一本で、石原慎太郎財政立て直しの一本だったが、青島素人視されていた為、政治家経験が長いプロというイメージが強かった。

小池百合子は金の問題でヘマしない、議会を乗っ取る千代田区自民議員傘下ではないというイメージだ。

小池の方はむしろ提言した政策の方が強烈に酷く、山手線2階建て他、皆が政策を重視していたら落ちるどころか築地の魚市場に捨ててある魚の内臓投げつけられるような代物だった。因みに増田はあの公約群を許してねーぜ。

 

から現状で石丸政策が無いのがそんなに悪いって訳じゃないね

 

みんなで符牒を暗記するというのが政治かって事なんだよ

問題はそんな政策をまだ考えてないし発表もしてない政治家への批判反論で、己も見ても聞いてもいない「政策」を見たのか!?と難じて、それに同意しまくるというネット共同性のコミュニケーション方なんだよ。

これは一つには教育への過剰適応かと思われる。

学校では社会に出ていない状態社会的事柄を教わる為、それが具体的にどういうものかという感触が無いままに暗記して習得しそれをテストで書く事を求められる。それが出来るのが優等生だ。

その考えのままに具体的に活用すべき事態に至っても同じ行動をしてしまう。これはいわば愚昧な優等生というべき状態だな。

から己も見てもいない「政策」を見たのか!?かいコメント大勢賛同してしまうのだ。

 

で、はてなはこういう傾向がかなり強い。

例えば政治家の舌禍問題で全文が掲載されている記事に「切り取りだ」という糾弾がなされそれが多く賛同される。

例えば表現規制問題で「お気持ち」というジャーゴンが定着すると、警察裁量権が大きいその他行政前例抵触している事でも「お気持ち」と言えば通ると思ってしまう。

 

自分はそういうバカもの和には入ってないぞ」という人もいるだろう。そういう人には申し訳ないが、実際こういうダメコミュニケーションが多く観察されるのがはてなであって、ここに来れば頭を使わず経験を問われずに背伸びが出来るって動機がそういう連中を惹きつけているのだ。「まんだらけ中野店の行為はすでに警察所掌風営法規制に入っている」と指摘する人も居たのに完全無視されただろう?

 

そして石丸自身もこういう愚昧優等生が屯するネット言論にウけるような行動をしている。

啖呵が切れるように話を勝手に持って行ったり、「マスコミ論破して出禁にする」場面を作ったりがそうだ。

そして通して見たら聞くに堪えない論破芸の論破だけを切取った動画喝采を浴びている。それが元記事の内容だ。

これに対しても「キリトリだ」という論難が多く書かれている。

ネットの一部ではマスコミアプリオリに悪であり、その記事に対して「~は切り取りだ」というのが習わしになっている。

そこで「キリト動画の元の録画を通して見たら論破に持って行くのが見え見えで話が通っておらず酷すぎて呆れる」という記事コメントに「キリトリだ」が現れ喝采を得ているのだ。

 

経歴は立派でもこんな賛同のされ方している政治家がまともなワケないだろ。

なのでゲンダイ記事はそれに付いたコメントが内容の妥当性を証明するという、未来に向けて書かれた記事となっていたのであった。

 

それにしてもはてなが電撃無き集虫灯みたいになってるのどうにかなりませんかね?

2024-05-29

都民全員が納得する知事として大谷選手が上げられてたけど、ほんとそういうとこやぞ

政治家として実績も目標もないただ知名度だけある人物知事になってほしいってその昔の青島知事らへんのタレント知事となんも変わらんじゃないか

東京に住む人はそろそろそういう知名度コンテストするのやめた方がええよ

2024-05-27

これは典型的婚活拗らせ女の思考

https://anond.hatelabo.jp/20240526080421

元増田です。

男か女か知らんけど、これは聞き捨てならないか反論する。

 

記事結婚相談所の話なんだけど、

女性から自分お見合い申し込みしてきて、

ホテルラウンジの高額なお茶代が男性負担であることを事前に知っていて

スペック年収学歴)はプロフを見れば一目瞭然で顔写真もあるのに

その状況で「ないなー」って思ったからお礼もしないのは当然って・・・

 

その考え、人としてどうかと思うわ!!!

お前、何様!!?

相談所にストーカーなんてあるか!実名も住所も全部運営は握ってるんだぞ。

 

ああ、そうですか…ハイスペイケメンじゃなくてすみませんねえ…。

てか、「ハイスペイケメンじゃない男はご馳走したお礼言われなくて当たり前」って言ってるのと同じなんだが…その自覚ある…?

それ、心で思ってる時点でアウトだと俺は思ってるよ。

てか、相談所のプロフ見れば分かるのに申し込んでくんなよ…。

 

これ、婚活バトルフィールド37っていう漫画赤城ユカの思考法まんまなんだよ。

ハイスペに目がない

ハイスペ以外は雑に扱う

性格に裏表ありすぎて職場の同僚から嫌われてる描写があるし、第一話なんてその性格故に男が寄って来ず、性格がクソだと言われてるだろ…。

 

これは相談所のベテランカウンセラーが言ってたガチの話だけど、条件だけ見て品定めするのは特に女性に多く大抵は難航・長期化し、成果を出せず退会していくんだってさ。

仮に交際成立しても関係構築できないんだって

婚活バトルフィールドのユカがタワマンパーティーハイスペに近づいて「年収いくらですか〜」って目をキラキラ輝かせて、相手が逃げていくシーンあるだろ。あれがそうだよ。

 

から赤城ユカは結婚できないし、結婚できない女性典型例の一つとして描かれつつ、青島と違って良い印象の描写がない。

 

婚活バトルフィールド37って本当によくできた漫画だと思ってる。人物描写が的確だよな。

昔の恋人に遊ばれてるだけなのに自分はそれに釣り合うモテる女の記憶のままでいる。

現実は違うのに、本来釣り合う男性を見下して切ってばかり。

 

 

ーーーーーー

んーーー、これは単に増田が半数以上の女性から相手にされなかったってことではないかな。

 

プロフィールで良いと思って会っても、生理的に無理だったり、話がつまらなかったりして「ないなー」って思ったら、愛想良くはしないし、アポの後のお礼LINEもしないのが普通じゃない

 

これって、自由恋愛だったらもっと顕著だと思うけど。

 

下手に愛想良くしてストーカーになられても困るし。

 

デート相手増田ではなくてハイスペイケメンだったら愛想も良くてお礼もしっかりしていた可能性はあるよね。

ーーーー

2024-04-22

anond:20240422101048

30年前、青島街頭演説ゼロでも当選しただろ。街頭演説なんかオワコンなんだよ。

選挙妨害するやつもクソだけど、

それよりも街頭演説なんかするバカが悪い。馬鹿に絡まれるやつもバカなんだよ。

2024-04-17

[]テイルズオブヴェスペリア PS4リマスター

序盤のザキで死んだけどヒットアンドアウェイでなんとか倒したけどすげーつえー犬でもボコられてやるきなくしてレベルアップDLCを使っちゃったわ

それでもクリアまで37時間かかった

放置してたこともあったから実質マイナス2~3時間くらいはありそうだけど

サブイベほぼ全無視してこれだからサブイベやってたらたぶんもっとかかったと思う

でもヴェスペリアはサブイベありきみたいなつくりになってるらしーから、たぶん味わい方としてはもったいないことしてる

あとスキットがメッセージ飛ばせねえから地味に時間食うのがうざかったなー

まあスキット飛ばせるテイルズって逆にあんのって感じではあるけど

ているずってメインじゃないスキットとかでのキャラ萌えみたいなとこがメインなとこあるからなー

スキットまったく聞かないのはできなかったから、聞けるサインが出たものは全部きいた

一定時間放置しないときけないのとかどこどこにいかないといけない、とかみたいな条件付きのは無視

スキット無視したら多分もっと早くクリアはできたと思うけど

バトル部分がストレスまりすぎてダメだった

シンフォニアよりダメだったか

主人公の使い勝手が悪すぎて・・・

硬直とスキが多すぎて反撃くらうのがマジでストレスだった

シンフォニア主人公が一番使い勝手よかったのになー

あとダウン状態の敵に追い打ちできないのがマジクソだった

オーバーリミッツっていうFF7リミット状態みたいなのになれるのにそれやると敵がふっとんでダウン状態になるから

時間制限あるのにすぐ追い打ちできないっていうね

結局奥義もヒオウギも一度も出さずに終わったわ

出し方わかんなかったか

あと武器かいこんでスキル覚えるシステムもクソすぎた

覚えるまで時間かかりすぎるしスキルのつけはずしと武器のつけはずしも面倒だしでマジで最悪だった

サブイベとかスキルかいろいろまともにやろうとしたらあと20時間くらいかかると思う

でもそこまでやるほど楽しくねーからさっさとクリアしてやめた

リタがかわいかたからそれだけでなんとかクリアまでいったって感じだった

さんざん言われてるけど終盤の世界を救うテンプレ展開になったのが残念だったなー

結局そっちいったらそれが敵になっちゃうやんみたいな

もっと踊る大捜査線青島と室井さんみたいな関係とかストーリーをみたかったわ

テイルズとか軌跡シリーズとか、ガキのころにもっとやっとけばよかったなー

まあガキの頃は空の奇跡しかなかった時代だけど

いろんなゲームプレイしたアラフォーおっさんが今更まともにプレイするもんじゃねーな・・・

水着イベントとかあるらしーってクリア後に知ったけどもうやる気にはならんなー

かにやりたいゲームがたくさんあるんだよこっちは

自分の中でとりあえずクリアしたという実績、満足を得ることが目的から

ヒマがあれば将来いつだってプレイはできるんだし

さー次はゼスティリアだー

んでベルセリア、アライズって感じやな

はよアライズやりてーわ

スターオーシャン3やったあと6やったときみたいな感覚になりそーだけど

利便性とかグラフィックは向上してるけどゲーム性とかストーリー微妙なままっていう

2024-03-14

サルベージした日記

 私の故郷は、海抜六〇〇メートル丘陵地に佇む半農半漁の村で、後方は形のよい峯が三つ並び、前方には大きな入江があって多島海に伸び、子供の頃は、その入江で魚つりに興じました。

竹の棒に糸を張った粗末な釣具で、餌もミミズでしたが、満潮の時などは入れたら釣れ、入れたら釣れで、一時間もすれば小鯛などバケツいっぱいになりました。

腹が立つのフグで、五回に一度はかかり、フグに毒があることは子供にも分かることでしたから、腹立ちまぎれフグの白い腹を石にこすりつけるとみるみる大きくなり、このガキッとばかりに思い切り石に叩きつけと、パーンという音がして腹が裂け、溜飲を下げました。

 私は五人兄弟次男として畑仕事や魚釣りに勤しんでいましたが、田舎の貧しい暮らしから豊かな生活を夢見て、一足先に日本へ行った八歳年上の兄祥雨を追いかけて◇◇へ来ました。

その時十七歳で、一九三九年でした。兄は布施(東◇◇市)でセルロイド工場経営し、腕輪やクシを作っていました。

その兄の元へ身を寄せ、普通学校四年を卒業したものの、価値ある社会活動をしていくためにはさらに学が必要だと感じ、向学心に燃えて◇◇・東成区夜間学校(◇◇商工実務学校)へ通うことにしました。

工場住込の私の仕事はまず、朝五時に起きて無煙炭をおこし、六時半に出勤する職人さんの仕事に間に合うように湯を湧かしておくことでした。

そして、仕事が終わるのは夕方の六時。急いで自転車を走らせ学校へ行き、帰りは一〇時で、それから夕食をとり、深夜の一時過ぎ、二時過ぎまで勉強して、寝るのが連日三、四時間でした。

休日は一日と一五日でしたが、それも畑仕事に追われました。

 その死にものぐるいの努力が効を奏して、成績はトップとなり、幸か不幸か、級長をやらされました。

戦時中でしたから、訓練ばかりで、「前へ進め」「全体とまれ」と号令をかけるのが級長の役目でした。

ところが、私は強度の「どもり」でしたから、その号令の文句がなかなか言えず、落ち込んでしまって、《死んでしまおう》と何度線路に寝込んだかわかりません。

星の光が目に入るたびに、《ちょっと待て、死ぬんだったら、もういっぺん努力してみよう》という気持になり、「どもり」の矯正学校を五つも修了して、死ぬほどの努力を重ね、矯正しました。

こうして、《ヤレバデキル、ダメナコトハナイ・・・》の信念を貫いて苦節の日々を克服したことが、大きな自信となりました。

 終戦後の一九四八年のことですが、体を悪くして、マイシン注射を打ったところ、耳に障害が発生し、聞こえなくなってしまいました。

これまた、苦節の日々で、断食をしたり、いろんなことをやってみましたが、完治するまでには至らず、補聴器の世話になる毎日となりました。

ところで、戦争は激しくなり、私も協和会の勤労報国隊に徴用されて、九州炭坑で二ヶ月ほど働かされました。

石炭を掘って出てきたら顔は真っ黒で、目が辛うじて見え、つらい日々でした。

そうこうするうちに戦争が終わり、兄はそのまま日本に残りましたが、私は里心がついて故郷へ帰りました。

ところが、祖国はとても住める状態ではありませんでした。

日本兵が釜山の港からどんどん引き揚げて行くさなか、私も小さな船で玄界灘の荒波を掻き分け、決死覚悟日本へ戻ってきました。

一九四八年に兄と、資本金二〇万円の◇◇グリップ化工株式会社設立し、自転車ハンドルグリップセルロイド製造し、販売しました。

以来、資材をセルロイドからプラスチックに変え、◆◆◆グリップの普及に努力しました。

その途上、兄を交通事故で失い、私が会社を引き継ぐことになりましたが、中小企業信用保証協会や育成協会から資金融資韓国人業者としては第一号だと思います

 一九九〇年に◇◇グリップ化工から◆◆◆技研に社名を変え、現在では日本全国の占有率九〇パーセントを獲得し、一億人以上の人に◆◆◆グリップを握ってもらっています

私は、金属木材等で作られている従来の物をプラスチックに代えて作るという物づくりを企業の基本理念の一つにしてきましたから、事業の発展に伴い、グリップの他にも車輪、カゴ、チェインケース、泥除け等、タイヤ以外のものは全てプラスチック化し、その間の特許も数百にのぼって、◆◆◆製品世界ブランドとなりました。《継続は力なり》の精神で、より精度の高い関連商品の開発に努めています

 一九六〇年頃、日本韓国との間にはまだ国交はなく公式には往来できない時で、金融機関祖国産業視察団の一員として、初めて祖国訪問しました。

公式の日程を終えて、私の生まれ故郷に帰りました。

懐かしい山河景色幼なじみの顔、感激の涙に浸るばかりでした。

その感激もさめやらぬ時、町からキロも離れていず、一六〇戸もあるわが懐かしい村には電気水道設備もないことに気づき、昔と変わらぬ貧しい古い部落がそこにありました。

故郷のために何かしてやりたい》という衝動かられ、その後、回を重ねて訪問する毎に藁葺きの集会所を二階建の近代的な建物にして

事務所や老人らの憩いの場に使用できるようにし、また、電気架設の資金協力や子供たちの遊び場等も寄贈し、植木スピーカー等も添えて故郷の人の心を癒やすことに努めました。

 人間は誰しも食うがため、生活するがために働き、事業するものだと思いますが、私もご多分に漏れ世間並みの生活を夢見て渡日し、口では言えない苦労と努力を重ね、一応の目的は達したと、自分を顧みています

これまで、通産大臣府知事税務署長などの表彰を受け、韓国政府から国民勲章冬柏章を受章しましたが、私の企業活動に対� =キる評価だと喜んでいます

現在、◆◆◆ー技研のグループ企業として◆◆◆販売韓国◆◆◆があり、◆◆◆技研は私の長男に任せています

◆◆◆販売は兄の息子が取りしきり、ヘルメットを中心としたオートバイスポーツ用品製造販売し、韓国◆◆◆は弟の息子が社長を務め、スキー水泳用品を主力としたスポーツ製品製造販売し、輸出による外貨を稼いで祖国経済発展寄与しています最近中国青島にも進出し、六〇〇人ほど雇用しています

 兄の処世訓は《まず、自分自身が立派になり、次に家族の支えなり、その次に身近な社会に貢献する》ということでした。

私は、兄の遺志も引き継いで、家族会を設け、年一回会合を開いて、十親等以内の全学徒に、成績に応じて奨学金支給しています

その家族会の会長は私ですが、弟の息子がすべて代行してやってくれています

いわば、祖国故郷で私の夢を実現してくれる代理人のような存在です。後は、全家門の子孫たちが末永く仲良くしてくれればいいと願うばかりです。

振りかえってみれば、私の人生は苦しいことのみの連続で、喜びや楽しみというものがあっただろうかと思う時がありますが、◆◆◆販売の新社屋落成式(一九八四年)に、私が挨拶をし、息子夫婦、兄の子夫婦韓国の甥夫婦を紹介し、その三人を後継者として披露しました。

三人はそれぞれに立派に成長してくれ、私の夢を実現してくれる後継者になってくれたことが人生最大の喜びです。それに子孫たちが、私の喜寿(七十七歳)をニューオオタニホテルで祝ってくれたことも忘れられない喜びです。

 外孫まで入れると四十五、六人になりますが、アメリカに行っている七、八人の子孫たちもその日(一九九八年九月一八日)にはみな帰っ� =トきて祝ってくれました。

私たち韓国人は、税金人一倍納め、社会に貢献しているにもかかわらず、後ろ指をさされる傾向が強いのですが、人間というもの生存競争なかにあってライバル意識を持ち、自分より事業を大きくやっていたり変わったことを大きくやっていたりすると、ねたみの心が出てきて、あらぬ中傷に走るのではないでしょうか。

私たち韓国人の側にも虐げられたひがみ根性というものが抜けきれないのではないかと思いますが、真面目に生き、社会に貢献していくことが肝心で、価値ある社会人になるためには自分自身が努力し、そのためには人の話を聞くことです。

何か疑問を感じたら、聞くのが一番の近道で、その疑問を解いてくれる人が見つかるまで聞きつづけたらいいのではないでしょうか。聞くことにお金はかかりませんし、それが私の処世訓の一つです。

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