はてなキーワード: ナチズムとは
日頃言われる「チキったカード会社が保身のために何でも規制しようとするのを辞めさせたい」は何だったんだろうね?
構図としては同じだろ。
↓
より大きな組織が反省しているアピールのためにそいつ等にまるごとペナルティを与えました
↓
巻き添えになったやつがいる?知らんがな?
俺はね、甲子園球児の一斉処罰とかもいい加減どうかと思ってるんだよ。
まあ、アレについては「比較的弱い選手にすべての罪を擦り付けて解決」を防ぐための良い方法を思いつくことを体育会系のみなさんがしてこなかった責任もあるのかなとは思うがね。
しかしだねえ、イラストレーターがロリコンセックスしたから原作者には悪いけど一時差止ですってのはさ、抑止の仕方としてはだいぶ脳みその作りが単純明快すぎやせんかね。
賢い賢い偏差値70前後の方々が雁首揃えて「とりま、まとめて出版停止で」「おっけおっけそれが一番シンプルだもん」は出身校の看板に恥ずかしくないのかね。
たとえば、たとえばだけどさ、出版社とイラストレーターの得る利益だけ寄付に回すとかじゃ駄目だったのかな?
イラストレーターに対して勝手にそんな契約をするんじゃなくて、淡々と「反省アピールのために方法を提案」って形で進めていくとしてだよ。
とにかくね、俺達は日頃「なんでもまとめて禁止じゃ駄目だろ!表現者を守れ!!」と叫んできたわけだよ。
それが君ね、いざ人格破綻者のロリコンが出てくるや巻き添えになる人間のことも考えずに「ざまあみやがれ!これが社会正義だ!」とのぼせ上がるんじゃあおかしくないかい?
それじゃ結局自分らが今日まで批判してきた連中と何が違うんだろうね。
販売停止は悪手だと思うね俺は。
犯罪者の描いた絵が売られるなんて許されちゃいけないんだから原作者は涙を飲んでくれよなんてのはだ、正義の暴走っていうかさ、身勝手なトロッコ問題だよ。
コラテラル・ダメージなんてもんを気取るつもりなら、自分たちに都合が悪いときにそれが牙を剥いてきてもずっと黙ってなきゃ。
二枚舌は良くない。
二枚舌の自覚さえないならなお良くない。
正義の鉄槌とやらがそこかしこでぶち撒けられるのを楽しむなんてのはね、ナチズムやなんかと同じ発想だと思うね。
俺は嫌だ。
* ジャン=ジャック・ルソーの「一般意志」という概念が、後に全体主義(ナチス・ドイツや
ソ連など)に悪用された、あるいはその思想的源流になったという議論は、一部の政治哲学
者(例えばジェイコブ・タルモン)によってなされたことがあります。
* しかし、これはあくまで一つの解釈であり、歴史学や政治哲学の分野で広く受け入れられて
いる定説ではありません。むしろ、ルソーの思想はフランス革命や近代民主主義の基礎を築
* この記事は、ルソーの複雑な思想の一部(一般意志)だけを取り出し、「個人の自由よりも
全体の調和を優先する」→「だから全体主義だ」というように、非常に単純化して結論づけて
います。これは、彼の思想の他の重要な側面(例えば、直接民主制への志向や権力分立の重
3. 因果関係の誤り:
* ナチズムやスターリニズムといった20世紀の全体主義は、当時の特定の社会的、経済的、政
治的状況(第一次世界大戦後の混乱、経済恐慌、ナショナリズムの高揚など)から生まれた
ものであり、その原因を18世紀の思想家一人に求めるのは、歴史の複雑さを無視した暴論と
言えます。
* 私が確認したところ、提供されたページのコメント欄でも、この記事の主張に対して「自己
矛盾の塊」「陰謀論レベル」「雑な議論」といった批判的な意見が多数を占めています。こ
れは、この記事の主張が一般的に見ても受け入れがたいものであることを示唆しています。
結論として、この記事は「ルソー=全体主義の父」という過激で単純化されたレッテル貼りを行っ
ているに過ぎず、学術的な裏付けに乏しい個人的な意見表明です。これを歴史的な事実として受け
取るのは非常に危険です。
この社会の異常性の原因の一つは、プリーストリーというイギリスの発明家・作家が始めて、アメリカ北部のマサチューセッツやペンシルバニアに飛び火したカルト
ハーバード大学もユニテリアン関連機関で、奴隷制維持派で、南北戦争も起こしてた
日本にはアーサー・ナップが来た
若者教育に熱心で民族主義を煽るタイプ。シオニズムやナチズムも、統一もその流れ。
自民とか官公庁、裁判所、銀行業や保険業、不動産業、メディアなど、社会に影響する分野に多いらしい。
団体利益のためなら何でもありっぽい利権団体だよ。利権に手入れしようとした政治家は不審に死没していたりする。
LINEオープンチャット「はてなブックマーカー」の1週間分の要約を、さらにAIを使用し、試験的にまとめまています。
1 週間(6 / 1 〜 6 / 8)のオープンチャットは 「食・イベント・ガジェット」の三大雑談軸を中心に、住まい・健康・社会時事がスパイス的に混ざる構成。
参加者はリンクや実体験を交えてフラットに意見交換し、ローカルグルメの熱量とガジェットの“詰まり”相談が特に盛り上がったのが特徴でした。
https://anond.hatelabo.jp/20240722084249
お前は「ネットチンピラよりも弱者男性の方が生きる価値がない」と言い放った。
まずこの時点で知的破綻が始まっている。価値とは何か、誰が決めるのか、何を基準にしているのか、何一つ定義していない。
ただ自分の気に入らない存在を、気に入らないというだけで無価値と断じている。
感情を道理にすり替えるな。感情は主張にはならない。議論に必要なのは証拠と論拠、それがないなら、それはただの知的失禁、いや「感情放尿(エモション・ピス)」に過ぎん。
ナチズムという言葉の本質は、特定の属性集団に対して価値の有無を選別し、排除を正当化する思考パターンそのものだ。
君の主張はその構造と寸分違わぬ。内容が違えば別物になるとでも思っているのか?
なら問おう。もし誰かが「フェミニストは全員死ぬべき」と言ったとしたら、それが崇高な思想によるものだから許されると思うか?
思想の看板で差別を飾り立てれば正義になると思っているなら、それは思考の自殺だ。
フェミニズムやリベラリズムの名を借りるなら、せめてその理念ぐらい理解してから口にしろ。
あれは誰かを見下すための棒ではない。誰の側に立つべきかを選ぶための免罪符でもない。
もし君が他人を「価値がない」と切り捨てる権利を持っていると本気で思っているなら、それこそ君が批判している「権力的抑圧」の体現者そのものだ。
鏡を見ろ。そこに映っているのは、差別と排除の構造を無自覚に再生産する、思想ごっこに酔った小物だ。
君の主張は知性を欠き、倫理を欠き、自省もない。フェミニズムでもリベラルでもない。ただの感情放尿だ。そしてその放尿の始末は自分でつけろ。他人に拭かせるな。
ああ、なるほど。君は「乙武さんのように手足がない人がアクティブに生きてる」→「なら弱者男性も手足をもいだら元気になるんじゃね?」というジョークを言ったつもりなんだな。
だが、その発想自体がナチス的で反倫理的であるという指摘を、どうしても理解したくないらしい。
まず論理的に考えてみよう。
前提:「乙武氏は手足がないが前向きに生きている」
帰結:「手足を失えば前向きになれるかもしれない」
この推論は帰納にも演繹にも失敗している。乙武氏が前向きに生きているのは、手足を失ったからではなく、そういう人格と環境を持ち合わせていたからだ。
だから他の人に手足を失わせれば前向きになる、という帰結は論理的に成り立たない。論理の初歩すらわかっていない。
さらに、その発言を面白がっている君の態度は、他者の苦痛や障害を安易に利用している点で、明確に差別的だ。
差別とは「個人の尊厳を属性に基づいて否定する行為」であり、君の発言はその典型例だ。
しかも「元気になるかも?」という仮定で暴力性を正当化しようとしている。悪質だ。
「俺はただ連想しただけだ」「話が通じないのはお前が勝手に読み取ったから」と言い訳しているが、それは責任の転嫁だ。
言葉には文脈がある。公的空間で発言する以上、「受け手がどう受け取るか」を最低限考慮するのが理性ある社会人の態度だ。
それすらできずに「俺の意図を理解しろ」というのは、まさに幼稚な自己中心主義だ。
そして極めつけは、「バカは思い込みで咬みつくしか能がない」などと人格攻撃に走った点。
これは明らかな論点のすり替えで、もはや議論ではなく感情の発散だ。議論に負けた者が取る典型的な逃避行動だな。
君のように、自分の発言が差別的であるという指摘すら「話が通じない」と罵倒で処理する人間こそが、無自覚にナチズムを再生産していくんだよ。
だらけ
@mtdrk
「共産党」「フェミ」「外国人」「リベラル」「ポリコレ」をなんとなくうっすら悪いものだと決めつけている中年オタクは非常に多いと思います。
でもその理由は答えられないし、答えてもデマや差別に基づいたものなので、決して自分の頭で考えた結論ではないんですよね。
70.4万 件の表示
1. 日本共産党とその支持者は、共産党を支持しない人間を頭が空っぽのキチガイでバカと見下し、馬鹿にし、嘲笑し、侮辱し、差別している>「共産党」「フェミ」「外国人」「リベラル」「ポリコレ」をなんとなくうっすら悪いものだと決めつけている中年オタクは非常に多いと思います。
2. 日本共産党とその支持者は、中年男性を人間扱いしていない。あからさまにバカにし、嘲笑押し、侮辱し、差別している>「中年オタク」という表現で明らか。
3. 日本共産党とその支持者は平気でうそをつく。そして被害者ぶる。>その理由は答えられない ← 理由を答えればむしするだけ
このように税金を搾取して公金チューチュースキームでNPO法人だけを優遇するのは、やはり裏金でも流れるんだろうか。でなければここまで平気でうそをつくのはありえないと思う。
https://note.com/mogura2001/n/n80acd93b6856
【表現規制】日本共産党・吉良よし子参議院議員「“こういう表現は本当にまずいよね”“儲からないよね”という合意ができれば、クリエイターの皆さんも作らなくなると思う」
https://posfie.com/@yaboyabo_you/p/REpUiNQ
項目 | 状況 | コメント |
---------------------------- | ------------------ | -------------------------------------------------------------------------- |
ユダヤ人の遺伝的多様性 | やや不正確 | 異説あり |
ダーウィンの「適者生存」 | 元ネタはスペンサー | 主張しているのは事実 |
マルクス=ロスチャイルド縁戚説 | 根拠不明 | これは確認する資料がない、ただし資本主義と左翼が結びつかないということはない。 |
“苦よもぎ”=チェルノブイリ | うーん | 聖書の預言といえばそう |
キリスト教の“異教徒皆殺し”教義 | 旧約聖書の神はそう | 教義として明示されていないが、実際に異教徒同士、キリスト教同志て皆殺ししていた |
献本とマルクス=ダーウィン関係 | まあまあ | 直接の関係は確認されないが、共産主義が適者生存になるのはそう |
いくつかのやや踏み込みはあるが、この文章の指摘はある程度ただしい。
ちなみにフランス革命も、キリスト教の神を否定しながら、理性神なる存在を祭壇に祀ったそうです。これも無神論の共産主義思想と、構造は同じなんですねぇ。神を否定したら、神モドキを崇めるという、人間の根本的な本質を見る気がします。
フランス革命期、実際に「理性の神」を祀る儀式が存在した。これは単なる珍事ではなく、「旧宗教を否定した者たちが、結局は別の絶対価値を神のように祀った」という構造を露呈している点で、今日にも通じる本質的な示唆を含んでいる。
1789年の革命により、旧体制の支柱だったカトリック教会は標的となり、聖職者は国家に従属させられ、教会は閉鎖され、十字架や聖像といったシンボルは破壊された。徹底した脱キリスト教化が進行し、多くの神父が国外追放や処刑に追い込まれた。信仰の否定は、権力と道徳の再構築の第一歩と見なされた。
1793年、急進左派のエベール派は、ノートルダム大聖堂を「理性の神殿」に改装した。そこでは「理性の女神」像が設置され、人間理性を至高とする祝祭が執り行われた。形式はあくまで宗教儀式をなぞったものであり、対象が理性であるという一点を除けば、やっていることは既存宗教の再演だった。
翌1794年、ロベスピエールは「無神論は道徳の敵」と宣言し、理性崇拝を批判した上で、「最高存在の崇拝」を新たに提唱する。「道徳と理性の源」として、曖昧だが超越的な存在をあえて祀ることで、社会の統合と秩序を保とうとしたわけだ。だがこの運動もまた短命で終わる。ロベスピエールはその年のうちに処刑され、祭礼も自然消滅していった。
だがこの一連の動きは、現代における新しい価値体系の成立過程と酷似している。宗教が後退した現代では、「DEI」「ジェンダー平等」「多様性」などが、かつての宗教的道徳に代わって絶対化されつつある。個別の理念に罪はないが、それらが「議論不可な正義」となった瞬間、社会の道徳的規範としての役割を帯びるようになる。
今日の大学における女性枠の強制、表現規制、ハラスメント拡張、被害者意識の制度化、いずれもがかつての「理性崇拝」や「最高存在の崇拝」に見られた構造と類似している。そこにあるのは、理性や道徳の名を借りた新たな信仰であり、理論ではなく感情と忠誠が優先される共同幻想だ。自己顕示欲と道徳的優越感が結合し、制度や表現を規制する「擬似宗教」は、21世紀の先進国においても静かに広がっている。
当時と違い、現代にはギロチンも革命裁判所も存在しない。しかし、職場や大学、ネット空間における「社会的死」「炎上」「追放」が、その代替機能を果たしている。理念は違っても、構造はほとんど変わっていない。人間は神を否定しても、何かしらの神モドキを必ず持ち出し、それを祀らずにはいられない生き物なのだ。名誉毀損のでたらめな運用。なぜ暇空茜が敗訴する理由はなく、刑事告訴など論外である。検察は公金チューチュースキームの応援団だということいなる。もう起訴した以上、それは免れない。解体的出直しがなければ検察官はもう信用されない。
そして日本共産党とその支持者(当然立憲も公明も自民の左派もそうだが)はロベスピエールと全く同じだ。大学の文系の学者、マスコミの女性記者もそうだ。
彼らはこれが理解できない。理解できずにこうした擬似宗教的な“新しい正義”の強制的押し付けを行っている。
その宗教的行為が「企業に倫理というでたらめを強要する」「税金の無駄でしかないなんとかハラスメント、コンプラ研修の強要で税金を無駄にする」という極めてバカで狂った行為がそれにあたる。
かつての「理性の崇拝」や「最高存在の崇拝」が革命的正義の名のもとに進められたように、現代の道徳教条主義も「弱者救済」「差別反対」の名目で、議論ではなく信仰と同調圧力によって進行しているのである。
フランス革命の時から、革命思想は宗教的カルト性を帯びており、それがリベラル、現代の社会運動に継続している。
項目 | 共産主義・ナチズム | 現代の社会運動(DEI、ポリコレ、フェミニズム等) |
------------------------ | -------------------------------------------------------- | ------------------------------------------------------------- |
中心的信念体系 | 唯物史観、階級闘争、民族至上主義 | 多様性、公平性、包括性、ジェンダー平等などの理念 |
道徳的絶対性 | 革命や民族の純粋性を絶対視 | 特定の社会正義や倫理観を絶対視 |
異論への対応 | 異端者の排除、粛清 | キャンセルカルチャー、社会的制裁 |
象徴的儀式や表現 | パレード、プロパガンダ、指導者の崇拝 | プライドパレード、シンボルの使用、特定の言語表現の推奨 |
言語統制 | プロパガンダ用語の使用、言論統制 | ポリティカル・コレクトネス、表現の自主規制 |
道徳的優越感 | 自らのイデオロギーが唯一の正義とする | 自らの価値観が普遍的正義とする傾向 |
社会的分断の助長 | 階級や民族による分断 | 意見の違いによる分断、対立の激化 |
宗教的実践 | 無神論的だが儀式的様式や殉教的精神性を保持(例:スターリン像、殉職者礼賛) | セミ宗教的熱狂、儀式化された集会や象徴行為、道徳的義務化された実践(例:アライ表示、謝罪儀式)、企業へ倫理綱領やプライバシーポリシーのような不要な強制、教養、役立たないコンプラ研修の強制 |
コンプラがくそくらえなのは、その主張をする弁護士が勝つためには証拠の捏造も法律のグレーゾーンを突くことも平気でやっているゴミカスのような連中であり、モラルも倫理もない。弁護士で公金チューチュースキームに加担している税金どろっぼうの菅野志桜里のように、子育て云々という前にお前は不倫するな、といわれるのが当然である。どの口でコンプライアンスと言っているのか。
「ヨーロッパに対して、規制緩和、言論の自由の確保、合理的な移民政策と出生率の向上を提言する」
各チャプター目次
▼1.起業とは?
▼5.AfDを支持する理由
▼1.起業とは?
私が会社を始めることはガラスを食べて深淵を見つめるようなものだと考える理由は、会社を成功させるには非常に辛い作業をたくさんこなさなければならないからです。
それは決して楽しいものではなく非常に長時間働くことが求められます。
そしてそれでも会社が生き残るかどうかは分かりません。
多くのスタートアップは失敗に終わるのです。
会社を始めるというのは大量の苦労の末に最終的に失敗することがほとんどなのです。
そのためもし誰かが会社を始めるのに励ましの言葉を必要としているならその人は会社を始めるべきではないと思います。
政府に関して言えば最大の課題は官僚主義を乗り越えることです。
物理学によれば私たちはエントロピーに打ち勝つことはできません。
それが究極の戦いだとすれば、官僚主義を打破することはその次に難しい戦いだと言えるでしょう。
歴史的に見ても長期間の平和が続くと官僚主義が徐々に増大していくのは避けられません。
考えてみれば規制当局というものは毎年新しい規制を追加するものであり、立法者も毎年新しい法律を作るものです。
通常無意味な法律や規制を取り除くための浄化プロセスは戦争によってもたらされます。
しかしもちろん私たちは戦争によって政府改革が進むような状況は望んでいません。
したがって戦争がない状況ではアメリカで私たちがここで設立したような政府効率化部門のような仕組みが必要になります。
これは法律や規制を取り除くための取り組みですが、法律を廃止するには当然ながら議会の承認が必要です。
しかし規制に関しては政府レベルで見直しを行い害が利益を回るものを削減することが可能です。
そのため政府の規模を縮小し、国家を破綻させないように予算のバランスを取ることが重要です。
これらは全て非常に困難な課題ですし、私たちがこの目標を達成できるかどうかも分かりません。
私はこれを極めて難しい戦いだと表現しているのです。
実際これまでの試みはほぼ全て失敗してきました。
官僚機構の縮小や政府の効率化を目指した過去の取り組みは一般的に成功していません。
例えばレーガン大統領は連邦教育省を廃止し教育を州レベルに移行すると公約していました。
「あなたはドイツ経済やドイツ市場にも詳しいようですが、ドイツにも政府効率化部門が必要だと思いますか?」
私はそう思います。
基本的にどの政府もゴミ収集のプロセスを持つ必要があるのです。
もし規制を作るプロセスしかなく規制を削除するプロセスがなければ最終的には全てが違法となり何もできなくなります。
ですから全ての政府において政府の規模を縮小し、かつては意味があったが現在は不要になった規制を削減する役割を担うチームが必要だと考えています。
このプロセスがなければ官僚機構はまるで動脈にたまるプラークのように蓄積され政府の機能が徐々に詰まっていきます。
そうなると血流のように本来スムーズに流れるべきものが制限されてしまうのです。
トランプ大統領は物事を成し遂げることを好む人物だと思います。
そして彼は国々を罰したり経済的に無謀なことをしたりしようとは考えていません。
しかしトランプ大統領は関税を各国に重要な問題について協力を求める手段と見なしているようです。
そして明らかにもしある国が非対称的な関税を課し、アメリカの製品の輸入には税をかける一方で、アメリカはその国の製品の輸入に税をかけていない場合これは不均衡な状況になります。
したがっておそらくトランプ大統領はこうした非対象的な関税障壁を持つ国国あるいは規制上の障壁を持つく国に対して行動を起こそうとするでしょう。
彼はこうした貿易制約を取り除きアメリカ企業とヨーロッパ企業、中国企業、その他の国の企業にとって公平で対等な競争環境を確保することを望んでいるのだと思います。
つまり私の見解では彼が求めているのは単に公平で対等な競争環境だということです。
さて、まず最初に仮にAfDが政権を取っていたとしても、テスラはベルリンに工場を建設していたと思います。
私は一般的に市場を歪めるような政府の省令策には反対しています。
政府は関税やインセンティブ罰則などを通じて市場を歪めがちです。
とはいえもし他国がそのような措置を講じているのであればテスラもそれを利用しなければ競争上不利になります。
▼5.AfDを支持する理由
しかし私がAfDを支持する理由はドイツが失敗しないためにいくつかの根本的な問題を解決しなければならないと考えているからです。
もしドイツ国内で犯罪を犯し人々に危害を加えている移民がいるのであれば彼らは国外追放されるべきです。
しかし現状ではそれが行われていません。
人々が真実を知ることができなければ正しい判断を下すことができません。
なぜなら国民は選挙で誰に投票するかを決める際に十分な情報に基づいて判断することができなくなってしまうからです。
現在のドイツでは言論の自由に対して非常に厳しい法律や規則があり例えば政治家を侮辱しただけで投獄される可能性があります。
これは異常なことです。
ですからAfDが言論の自由を支持している点は評価しています。
またAfDが適切な移民政策や犯罪者の国外追報を支持している点も良いと思います。
そしてAfDの基本的にリバタリアン的な政策も好ましいと考えています。
つまりドイツの子供たちを罪悪感だけで苦しめる教育から過去の戦争犯罪を完全に無視するように切り替えるべきだと言ったかのように扱っています。
私が言っているのはドイツの子供たちにドイツは世界最悪の国だと教え続けそれ以外のことを何も教えないのは間違っているということです。
そしてドイツを過去の悪業だけで定義し、彼らの曾祖父母ですら、当時の独裁政権の支持者ではなかったかもしれない。
子供たちに対してドイツは地球上で最も悪い国だと教え罪悪感と恥の中で生きるように仕向けるのは間違っています。
これは完全に誤ったやり方です。
しかし私は同時にドイツの素晴らしい文化的歴史についても認識するべきだと言っています。
例えばアインシュタインが良い例です。
これらの偉業は祝福されるべきです。
ただしそれがナチズムの歴史を無視することを意味するのではなくドイツの歴史をナチズムだけのものとして捉えるのは馬鹿げており誤りであるということです。
人々はドイツが成し遂げた偉大なことを誇りに思うべきです。
ドイツは何千年もの歴史を持つ古代国家でありローマ帝国にすら征服されなかった数少ない国の1つです。
二千年前に、遡っても当時世界最強の帝国であったローマ帝国ですら。ドイツを征服できませんでした。ローマは最終的に諦めたのです。
ですから、ドイツの歴史を理解する際にはその偉大な部分と恐ろしい部分の両方を知る必要があります。
それにアメリカの歴史を見てみればネイティブアメリカンの人々に何が起こったのかが分かるでしょう。
彼らは今どこにいるのでしょうか。
あるいはユダヤ人がユダヤの地に到達する前にその地にいた先住民はどうなったのでしょうか。
ある時点で歴史を過去に行われた恐ろしいことだけで語るのは不可能になります。
確かに過去の悲劇から学ぶことは重要ですが、それと同時に良いことについても学ぶべきです。
まあこれは非常に深い哲学的政治的な問題から今週の時事ネタのような話に飛んでしまいましたね。
ですから、中国が多くの素晴らしい技術を生み出すことは当然予想されることです。
そして実際に中国はこれまでにも数多くの偉大な発明や開発を成し遂げてきましたまた中国の長い歴史を振り返ってみれば分かるように中国もまた古代から続く卓越した国家です。
実際人類の歴史のほとんどの期間において中国は世界で最も強大な国家でした。
ですから、中国の人々の視点からすれば現在の中国の対等は歴史上の本来の地位に戻ることに過ぎないと見ているのかもしれません。
したがって今後も中国は多くの素晴らしいことを成し遂げるでしょう。
その一例がDeepSeekです。
しかしそれは単に中国の圧倒的な才能の蓄積による成果であり確かに印象的なものですが、AIにおける完全な革命というわけではありません。
AIにぼろくそに反論されない程度には論を練ってから投稿しないと、自分の無知蒙昧をさらけ出すだけだし、まともに相手にされないよ。
提示された主張は、歴史的事実、倫理、法的な観点から深刻な誤りであり、許容されるべきものではありません。
1. 表現の自由の誤解
表現の自由の限界: 表現の自由は絶対的なものではなく、他人の権利を侵害したり、社会の秩序を乱したりするような表現は制限されます。ホロコーストを肯定する言論は、大量虐殺の被害者を侮辱し、憎悪を煽るものであり、この範囲を超えています。
差別とヘイトスピーチ: ホロコーストを肯定する言論は、特定の民族や人種に対する差別とヘイトスピーチにあたり、多くの国で法律により禁止されています。
歴史的真実の歪曲: ホロコーストは歴史的事実に基づいた事実であり、これを否定したり美化したりすることは、歴史そのものを歪曲する行為です。
大量虐殺の歴史: ナチズムは、ユダヤ人をはじめとする数百万人を計画的に殺害した、人類史上最悪の大量虐殺を行ったイデオロギーです。
人道に対する罪: ナチスの行為は、国際法上の人道に対する罪にあたり、国際社会で普遍的に非難されています。
合理性という幻想: ナチズムを「合理的な社会」と評価することは、その残虐性を完全に無視するものであり、歴史認識の歪みです。
思想の自由と責任: 思想の自由は、個人が自由に考え、表現することを保障するものです。しかし、その自由には、社会全体の平和と秩序を維持する責任が伴います。
法の支配: 社会は、法の支配に基づいて運営されます。法は、個人の自由を保障すると同時に、社会の秩序を維持するために、特定の行為を禁止しています。
敗戦と悪の相関関係: ナチスが戦争に負けたから悪にされたという考え方は、歴史的事実に反します。ナチスの悪行は、戦争の結果ではなく、その行為自体によって評価されるべきです。
正義の勝利: ナチスの敗北は、正義が勝利したことを意味します。
ホロコーストを肯定する言論は、歴史的事実を歪曲し、人々の尊厳を踏みにじり、社会の平和を脅かすものであり、決して許されるべきではありません。思想の自由は、社会の秩序を維持する範囲内で保障されるべきであり、ヘイトスピーチや差別を助長するような言論は制限されるべきです。
補足
ホロコーストに関する情報は、多くの信頼できる歴史資料や研究に基づいています。
ホロコーストの否定とナチズムの礼賛が許されるべきではない理由:
ホロコーストやナチズムに関連する主張は、歴史的な事実を無視し、虚偽や歪曲を助長する可能性があります。ナチズムは、人類史上最も凄惨な大量虐殺を引き起こし、数百万の命を奪いました。このような事実を否定することは、歴史的な真実を隠蔽することに繋がり、再び同様の悲劇が繰り返される可能性を高めます。ホロコーストを否定したり、ナチズムを礼賛したりすることは、被害者への侮辱であり、社会全体の倫理と道徳に反する行為です。
思想や言論の自由には制限があります。多くの国では、「他者を傷つける言論」「公共の安全や秩序を乱す言論」「憎悪を煽る言論」は制限されており、これは自由社会の一部として理解されています。ナチズムの復活を願うことやホロコーストを肯定することは、憎悪の扇動や差別、暴力の助長に繋がりかねません。したがって、これらの行為は表現の自由の枠を超え、公共の秩序や他者の権利を侵害するものとして制限されるべきです。
ナチズムが「合理的な社会」としての側面があるという主張への反論:
ナチズムは確かに一部の社会的効率や秩序を強調しましたが、その背後にある「人種的優越性」という理念は非人道的であり、最終的には人々を殺し、抑圧し、破壊する結果を招きました。ナチズムの政治体制は、基本的人権を無視し、自由を制限し、非人道的な犯罪を行ったことから、決して「素晴らしさ」を持つものではありません。合理的であるかのように見える側面も、その本質的な人権侵害を正当化することはできません。
ナチズムが「戦争に負けたから悪になった」という見解への反論:
ナチズムが戦争に負けたからこそ悪とされているわけではなく、その行った行為が人類に対する重大な犯罪であったからこそ非難され、歴史的に否定されています。ナチズムが生み出した戦争犯罪や人道に対する罪は、戦争の勝敗に関わらず、客観的に悪であり続けます。ナチスの指導者たちは戦争責任を問われ、多くが裁かれました。それは負けたからではなく、彼らが行った極端な非人道的行為が根本的に許されざるものであったからです。
結論として、ナチズムやホロコーストの肯定は、歴史的事実を否定するものであり、憎悪や差別を煽り、人々を傷つける可能性があるため、許されるべきではありません。また、思想や表現の自由には限界があり、他者を害することを助長する行為は制限されるべきです。
■ホロコーストの肯定も、アウシュビッツの復活を願う事も、思想の自由
ナチズムを礼賛しナチズムを肯定しナチズムを崇拝しナチズムを許容しナチズムを推進する、全て許されるべきこと
なのに社会はそれを悪だという、国によっては罪にする
共産主義は、進化と変革の原動力を、変革の担い手である「主体」に求めすぎているのだろうと思うね。
連帯、戦線、同志、団結これらの共産臭のするターミノロジーは、その時代時代で、変革の担い手と目された人々へ向けられる。
古典的な資本主義の確立した時代に「労働者」という概念を再構成したのが、たぶん最初かな。
日本共産党の歴史をふりかえると、労働問題においても農民組合闘争においても、被差別部落問題にしても、変革の担い手を自分たちに取り込むことに知らず知らずのうちに夢中になっていた。その力ずくなやり方への反発へも少なくなく、運動からの離脱、分派を促進していた。
結果として共産党は思想の核である「労働者階級」すら満足に取り込めず、高度経済成長期が終わると、次第に、連帯のターゲットを主婦とか消費者とか言い始めた。そうした社会階層に媚びを売るために、自らの綱領をあいまいにしてブレた主張を繰り返しては運動の広がりが得られず、連帯の同志候補として次のターゲットを探してきた。
あげくの果てには性的少数者、LGBTQを守る(田村氏)とか言い出して今日に至っている。
他方で、資本主義社会の進歩史観は共産主義のそれとは趣が異なる。
根っこには、社会ダーウィニズム的な、進歩への信頼というか期待がある点では、帝国主義も共産主義も同根。
ただ、その実現が「強いもの」による自然淘汰によってなされると考えるか、闘争によってなされるかの違い。
「強い者」が先験的に理解されてしまうと、「弱い者」を排除してしまえばよい(優生学など)という発想になるし、差別の絶えない社会となる。帝国主義やナチズムは典型。
一方、一体なにをもって「強い者」かを人間は前もって知ることはできない、結果から判断するしかないとプラグマティックに考えると自由主義社会となる。理念ではなく、利害で集う社会はこの考え方から支持される。
先日、福岡支部のどなたかを除籍した日本共産党が今もって理解していないことの一つは、日本国憲法がもつ表現の自由の考え方だ。
実は、憲法第21条の源泉は、「一体なにをもって「強い者」かを人間は前もって知ることはできない、結果から判断するしかないとプラグマティックに考える」自由主義の考え方を基礎としている。
これは、表現の自由をめぐる憲法判例のうち「思想の自由市場」という考えから、典拠をどんどんさかのぼってゆくと理解できる。
そうすると、20世紀初頭の連邦最高裁ホームズ裁判官の考えにつきあたり、そのホームズからパースプラグマティズムに行きつく。
そしてさらにさらにさかのぼると、唯一正しい真理を押し付けてきたカトリックの猛威を振るヨーロッパ、お互い不寛容なプロテスタント同士の修羅場のヨーロッパから逃れてきた巡礼始祖たちの考え方に行きつく。お互いに自分が正しいと言い切れないなかでどういう社会を構築するかを模索したところからアメリカ合衆国は始まっているので、表現の自由というのは、国の成り立ちを土台で支える重要な考え方だということがわかる。
政治体制 | 言論自由 | 進歩史観 | プレイヤー |
---|---|---|---|
自由主義 | どちらかというと放置 | 蓋然的・客観的 | 多様性重視 |
共産主義 | どちらかというと統制的 | 必然的・主体的 | 一体性重視 |
同志の団結を迫りまくるという意味では、根性論とか暴力で一定の方向に人々の顔をむかせ社会変革をしようという路線になりがちなのが共産主義。
多様性を重視するあまり、どんなに社会が乱れようが差別が根深かろうが、偏見による暴力を許容してでも自由に奉じるのが自由主義。
日本共産党は、何かにつけ、ひとの横っ面を自分たちと同じ方向へ向かせたがるが、それは自分たちが嫌われて終わるだけというのは、これまでの歴史が証明している。
日本共産党は、自らの綱領に一言も書いていない、表現の自由の意味を社会のプラットフォームの視点から今一度振り返るべきだと思う。