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はてなキーワード: 油絵とは

2025-09-07

anond:20250906232400

🦊使いたくないから見れる範囲限界あって最新のものはどうか知らんけど…

少把盐はなんかリアル写真学習データに混ぜてんのかな。油絵風かと思ったら足が妙にリアルでボカしてるところも多いね

これは、元の学習データがこの絵柄でないなら、工夫頑張ってんだろうな。

他は全然あかんね。

2025-09-02

フランス人ベトナム人建設作業員を油絵にしたらすぐに飾られマダムらに鑑賞されるだろう

日本人がやっても真似できないところよな

2025-08-10

AIミュージックビデオ制作を完走した感想でしてよ!

いつか空から札束が降ってきましたら、わたくし、歌だのキャラデザインだの動画だのを片っ端から外注して、豪華絢爛なミュージックビデオをお作りあそばせようと思っておりましたの。

……ところがどっこい、AI様がその夢を叶えてくださる時代が来たのですから、これはもうやらねば詐欺ですわよね!?ということでJust Do Itいたしましたの。

https://www.youtube.com/watch?v=Znw6q9o3Ssw

長年わたくしの脳内という狭苦しい檻でカビていた世界観が、ようやく陽の目を浴びましてよ……あぁ、涙でモニターが見えませんわ。

でも、この魔法のような力にもすぐ慣れてしまいそうですので、今のうちに自慢と感想を置き逃げいたしますわ。

お歌の生成でしてよ

お試しにボカロ風の楽曲作ってみたくなりまして「ボカロといえばメンヘラ曲ですわよね?」という根拠不明偏見をフル装備。

じいやに出してもらった狭心症のお薬をガン見しながらデカフェコーヒーをがぶ飲み、心臓テーマにした歌詞をSuno様にえいやっと投げ捨てましたの。

ジャンルは「心拍ビートの憂鬱アンビエント+ウィスパー女子」でしてよ。ええ、きっとアンビエントですわ。

出来上がりは……もぅ最高❤

文字数てきとーな歌詞なのに完璧リズムで歌い上げ、吐息混じりで耳に直接ささやいてくるんですのよ。わたくし、思わず結婚して」と言いかけましたわ。

しかもこのボーカル様と作曲者様、実在しないのですって! この世にいないのにわたくしの脳を直撃してくるとか罪深いにも程がございますわ。

テクとしては、漢字は時々お中国語読みをしでかしますので、怪しいところは平仮名に開くのが吉ですわ。

再生成で微修正もできるので、間違えても泣く必要はございませんの。

画像の生成でしてよ

複数キャラ並べるのは大変ですって? あら、そんな面倒なこと庶民にお任せあそばせ。

わたくしは「少女天使!羽!骸骨!心臓!」という王道厨二キャラ一択で、niji・journey様に丸投げいたしましたの。

余計な物を切り捨て、体を差し替え、お着替えさせ、全身を拵え、Midjourney様の背景と合体……もうモデルさんもビックリ撮影会でしてよ。

実写背景に二次キャラを置くのって、本当に背徳的で大好きですの。アクスタで世界旅行してるみたいでウフフ。

さらにちびキャラ、線画、油絵風まで取り揃えて、MV宝石箱のように彩って差し上げましたの。

物語の都合上、世界中に心臓が溢れ返ったのでキャラと同数くらい心臓を量産いたしましたの。

洞窟から覗く巨大心臓を巡って兵士が撃ち合う? 意味不明ですわね。でもAI様は文句も言わず描いてくださいますの。

なお「heart」だけですとハートマーク祭りになるので、「heart organ」や「human heart」で命を吹き込むのがコツですわ❤

血飛沫はお上品に、おセンシティブフィルターが怒りますので。

動画の生成でしてよ

まさか画像生成から動画生成の時代ワープするとは……技術革新って怖かわですわね。

ノンアルビールをたしなみつつ、Kling様にスチルをぶん投げて延々ガチャ

実写背景二次キャラも線画も油絵も全部動きますのよ。ええ、怖いくらい。

とはいえ破綻は盛りだくさん。空と海の速度がバラバラ、傘の骨が頬骨を貫通マジックして、宙を舞う金魚フュージョンしては分裂……まるで深夜のテンションですわ。

こういう時はプロンプト調整沼に沈むより、編集マスク抜きやエフェクトで誤魔化すのが勝ち筋。そもそも生成させるシーンがおかしい? それはもうお約束ですわよ❤

裏技として、背景とキャラを別々に当たりガチャし、合成してから中割りさせる方法もございますの。

AI生成なのにグリーンバック? ええ、わたくしも笑いましたわ。けれど抜きやすいのですもの

感想なのですわ

年初に歌を生成、「あらこれイケますわ!」と確信してGWに仮完成。

そこからワインのように「寝かせて熟成させましょう」と思ったら、お盆になっておりましたの……。

言い訳はございますのよ? 幾度も引退したソシャゲに復帰してしまったり、ギックリ腰になったりと、庶民アクシデントに見舞われまして。

気づけばAIモデル一世代前に……うふふ、時代はお待ちくださらないのですわ。

それでも、この虚弱体力でも四半期に一本くらいは作れそうな手応えがございますので、今後も優雅に量産して参りますわ。おほほほほ……

https://www.youtube.com/watch?v=Znw6q9o3Ssw

2025-07-18

anond:20250718181832

韓国人の絵は油絵っぽいの多いと感じる。俺はそっちの方が好き。

日本人の絵はザ・アニメ絵って感じのものが多い。繊細なタッチで描かれてる絵と、自分の絵柄持ってる人の絵は好きだけど、アニメ絵は安っぽく見えて嫌い。

2025-07-07

anond:20250707120358

今の「絵の上手さ」ってわりと狭義の意味で、アニメキャラクターデジタルイラストを描いてSNSでちやほやされるかどうかって感じ。あとはアニメ風のダイナミックで精緻風景とか。

油絵とか抽象画とかとは別の、限定的ルール競技をしているようなものなのでそりゃ小さいころからそのルールスキルを磨いてきた人にはかなわない。

別のルールだったり、自分が楽しむためだけの絵なら何歳からでもいける。

2025-06-23

anond:20250623202511

お化けの絵だよ」

 いつか竹一が、自分の二階へ遊びに来た時、ご持参の、一枚の原色版の口絵を得意そうに自分に見せて、そう説明しました。

 おや? と思いました。その瞬間、自分の落ち行く道が決定せられたように、後年に到って、そんな気がしてなりません。自分は、知っていました。それは、ゴッホの例の自画像に過ぎないのを知っていました。自分たちの少年の頃には、日本ではフランス所謂印象派の画が大流行していて、洋画鑑賞の第一歩を、たいていこのあたりからはじめたもので、ゴッホゴーギャンセザンヌルナアルなどというひとの絵は、田舎中学生でも、たいていその写真版を見て知っていたのでした。自分なども、ゴッホ原色版をかなりたくさん見て、タッチ面白さ、色彩の鮮やかさに興趣を覚えてはいたのですが、しかし、お化けの絵、だとは、いちども考えた事が無かったのでした。

「では、こんなのは、どうかしら。やっぱり、お化けかしら」

 自分本棚から、モジリアニの画集を出し、焼けた赤銅のような肌の、れいの裸婦の像を竹一に見せました。

「すげえなあ」

 竹一は眼を丸くして感嘆しました。

地獄の馬みたい」

「やっぱり、お化けかね」

「おれも、こんなお化けの絵がかきたいよ」

 あまり人間を恐怖している人たちは、かえって、もっともっと、おそろしい妖怪うかいを確実にこの眼で見たいと願望するに到る心理、神経質な、ものにおびえ易い人ほど、暴風雨の更に強からん事を祈る心理、ああ、この一群の画家たちは、人間という化け物に傷いためつけられ、おびやかされた揚句の果、ついに幻影を信じ、白昼の自然の中に、ありありと妖怪を見たのだ、しかも彼等は、それを道化などでごまかさず、見えたままの表現努力したのだ、竹一の言うように、敢然と「お化けの絵」をかいしまったのだ、ここに将来の自分の、仲間がいる、と自分は、涙が出たほどに興奮し、

「僕も画くよ。お化けの絵を画くよ。地獄の馬を、画くよ」

 と、なぜだか、ひどく声をひそめて、竹一に言ったのでした。

 自分は、小学校の頃から、絵はかくのも、見るのも好きでした。けれども、自分かいた絵は、自分綴り方ほどには、周囲の評判が、よくありませんでした。自分は、どだい人間言葉を一向に信用していませんでしたので、綴り方などは、自分にとって、ただお道化の御挨拶みたいなもので、小学校中学校、と続いて先生たちを狂喜させて来ましたが、しかし、自分では、さっぱり面白くなく、絵だけは、(漫画などは別ですけれども)その対象表現に、幼い我流ながら、多少の苦心を払っていました。学校の図画のお手本はつまらないし、先生の絵は下手くそだし、自分は、全く出鱈目にさまざまの表現法を自分で工夫して試みなければならないのでした。中学校はいって、自分油絵の道具も一揃そろい持っていましたが、しかし、そのタッチの手本を、印象派の画風に求めても、自分の画いたものは、まるで千代紙細工のようにのっぺりして、ものになりそうもありませんでした。けれども自分は、竹一の言葉に依って、自分のそれまでの絵画に対する心構えが、まるで間違っていた事に気が附きました。美しいと感じたものを、そのまま美しく表現しようと努力する甘さ、おろかしさ。マイスターたちは、何でも無いものを、主観に依って美しく創造し、或いは醜いもの嘔吐おうとをもよおしながらも、それに対する興味を隠さず、表現のよろこびにひたっている、つまり、人の思惑に少しもたよっていないらしいという、画法のプリミチヴな虎の巻を、竹一から、さずけられて、れいの女の来客たちには隠して、少しずつ、自画像制作に取りかかってみました。

 自分でも、ぎょっとしたほど、陰惨な絵が出来上りました。しかし、これこそ胸底にひた隠しに隠している自分の正体なのだ、おもては陽気に笑い、また人を笑わせているけれども、実は、こんな陰鬱な心を自分は持っているのだ、仕方が無い、とひそかに肯定し、けれどもその絵は、竹一以外の人には、さすがに誰にも見せませんでした。自分のお道化の底の陰惨を見破られ、急にケチくさく警戒せられるのもいやでしたし、また、これを自分の正体とも気づかず、やっぱり新趣向のお道化と見なされ、大笑いの種にせられるかも知れぬという懸念もあり、それは何よりもつらい事でしたので、その絵はすぐに押入れの奥深くしまい込みました。

 また、学校の図画の時間にも、自分はあの「お化け手法」は秘めて、いままでどおりの美しいものを美しく画く式の凡庸タッチで画いていました。

 自分は竹一にだけは、前から自分の傷み易い神経を平気で見せていましたし、こんどの自画像安心して竹一に見せ、たいへんほめられ、さらに二枚三枚と、お化けの絵を画きつづけ、竹一からもう一つの

「お前は、偉い絵画きになる」

 という予言を得たのでした。

 惚れられるという予言と、偉い絵画きになるという予言と、この二つの予言馬鹿の竹一に依って額に刻印せられて、やがて、自分東京へ出て来ました。

 自分は、美術学校はいたかったのですが、父は、前から自分高等学校にいれて、末は官吏にするつもりで、自分にもそれを言い渡してあったので、口応え一つ出来ないたちの自分は、ぼんやりそれに従ったのでした。四年から受けて見よ、と言われたので、自分も桜と海の中学はもういい加減あきていましたし、五年に進級せず、四年修了のままで、東京高等学校受験して合格し、すぐに寮生活はいりましたが、その不潔と粗暴に辟易へきえきして、道化どころではなく、医師に肺浸潤診断書を書いてもらい、寮から出て、上野桜木町の父の別荘に移りました。自分には、団体生活というものが、どうしても出来ません。それにまた、青春の感激だとか、若人の誇りだとかい言葉は、聞いて寒気がして来て、とても、あの、ハイスクールスピリットかいものには、ついて行けなかったのです。教室も寮も、ゆがめられた性慾の、はきだめみたいな気さえして、自分完璧かんぺきに近いお道化も、そこでは何の役にも立ちませんでした。

 父は議会の無い時は、月に一週間か二週間しかその家に滞在していませんでしたので、父の留守の時は、かなり広いその家に、別荘番の老夫婦自分と三人だけで、自分は、ちょいちょい学校を休んで、さりとて東京見物などをする気も起らず(自分はとうとう、明治神宮も、楠正成くすのきまさしげの銅像も、泉岳寺の四十七士の墓も見ずに終りそうです)家で一日中、本を読んだり、絵をかいたりしていました。父が上京して来ると、自分は、毎朝そそくさと登校するのでしたが、しかし、本郷千駄木町の洋画家、安田太郎氏の画塾に行き、三時間も四時間も、デッサン練習をしている事もあったのです。高等学校の寮から脱けたら、学校の授業に出ても、自分はまるで聴講生みたいな特別位置にいるような、それは自分のひがみかも知れなかったのですが、何とも自分自身で白々しい気持がして来て、いっそう学校へ行くのが、おっくうになったのでした。自分には、小学校中学校高等学校を通じて、ついに愛校心というもの理解できずに終りました。校歌などというものも、いちども覚えようとした事がありません。

 自分は、やがて画塾で、或る画学生から、酒と煙草淫売婦いんばいふと質屋左翼思想とを知らされました。妙な取合せでしたが、しかし、それは事実でした。

 その画学生は、堀木正雄といって、東京下町に生れ、自分より六つ年長者で、私立美術学校卒業して、家にアトリエが無いので、この画塾に通い、洋画勉強をつづけているのだそうです。

「五円、貸してくれないか

 お互いただ顔を見知っているだけで、それまで一言も話合った事が無かったのです。自分は、へどもどして五円差ししました。

「よし、飲もう。おれが、お前におごるんだ。よかチゴじゃのう」

 自分拒否し切れず、その画塾の近くの、蓬莱ほうらい町のカフエに引っぱって行かれたのが、彼との交友のはじまりでした。

「前から、お前に眼をつけていたんだ。それそれ、そのはにかむような微笑、それが見込みのある芸術家特有の表情なんだ。お近づきのしるしに、乾杯! キヌさん、こいつは美男子だろう? 惚れちゃいけないぜ。こいつが塾へ来たおかげで、残念ながらおれは、第二番の美男子という事になった」

 堀木は、色が浅黒く端正な顔をしていて、画学生には珍らしく、ちゃんとした脊広せびろを着て、ネクタイの好みも地味で、そうして頭髪もポマードをつけてまん中からぺったりとわけていました。

 自分は馴れぬ場所でもあり、ただもうおそろしく、腕を組んだりほどいたりして、それこそ、はにかむような微笑ばかりしていましたが、ビイルを二、三杯飲んでいるうちに、妙に解放せられたような軽さを感じて来たのです。

「僕は、美術学校はいろうと思っていたんですけど、……」

「いや、つまらん。あんなところは、つまらん。学校は、つまらん。われらの教師は、自然の中にあり! 自然に対するパアトス!」

 しかし、自分は、彼の言う事に一向に敬意を感じませんでした。馬鹿なひとだ、絵も下手にちがいない、しかし、遊ぶのには、いい相手かも知れないと考えました。つまり自分はその時、生れてはじめて、ほんものの都会の与太者を見たのでした。それは、自分と形は違っていても、やはり、この世の人間の営みから完全に遊離してしまって、戸迷いしている点に於いてだけは、たしか同類なのでした。そうして、彼はそのお道化意識せずに行い、しかも、そのお道化悲惨に全く気がついていないのが、自分本質的に異色のところでした。

 ただ遊ぶだけだ、遊びの相手として附合っているだけだ、とつねに彼を軽蔑けいべつし、時には彼との交友を恥ずかしくさえ思いながら、彼と連れ立って歩いているうちに、結局、自分は、この男にさえ打ち破られました。

 しかし、はじめは、この男を好人物まれに見る好人物とばかり思い込み、さすが人間恐怖の自分も全く油断をして、東京のよい案内者が出来た、くらいに思っていました。自分は、実は、ひとりでは、電車に乗ると車掌がおそろしく、歌舞伎座はいりたくても、あの正面玄関の緋ひの絨緞じゅうたんが敷かれてある階段の両側に並んで立っている案内嬢たちがおそろしく、レストランはいると、自分の背後にひっそり立って、皿のあくのを待っている給仕のボーイがおそろしく、殊に勘定を払う時、ああ、ぎごちない自分の手つき、自分は買い物をしてお金を手渡す時には、吝嗇りんしょくゆえでなく、あまりの緊張、あまりの恥ずかしさ、あまり不安、恐怖に、くらくら目まいして、世界が真暗になり、ほとんど半狂乱の気持になってしまって、値切るどころか、お釣を受け取るのを忘れるばかりでなく、買った品物を持ち帰るのを忘れた事さえ、しばしばあったほどなので、とても、ひとりで東京のまちを歩けず、それで仕方なく、一日一ぱい家の中で、ごろごろしていたという内情もあったのでした。

 それが、堀木に財布を渡して一緒に歩くと、堀木は大いに値切って、しかも遊び上手というのか、わずかなお金で最大の効果のあるような支払い振りを発揮し、また、高い円タクは敬遠して、電車バスポンポン蒸気など、それぞれ利用し分けて、最短時間目的地へ着くという手腕をも示し、淫売婦のところから朝帰る途中には、何々という料亭に立ち寄って朝風呂はいり、湯豆腐で軽くお酒を飲むのが、安い割に、ぜいたくな気分になれるものだと実地教育をしてくれたり、その他、屋台牛めし焼とりの安価にして滋養に富むものたる事を説き、酔いの早く発するのは、電気ブランの右に出るものはないと保証し、とにかくそ勘定に就いては自分に、一つも不安、恐怖を覚えさせた事がありませんでした。

 さらにまた、堀木と附合って救われるのは、堀木が聞き手の思惑などをてんで無視して、その所謂情熱パトスの噴出するがままに、(或いは、情熱とは、相手立場無視する事かも知れませんが)四六時中、くだらないおしゃべりを続け、あの、二人で歩いて疲れ、気まずい沈黙におちいる危懼きくが、全く無いという事でした。人に接し、あのおそろしい沈黙がその場にあらわれる事を警戒して、もともと口の重い自分が、ここを先途せんどと必死のお道化を言って来たものですが、いまこの堀木の馬鹿が、意識せずに、そのお道化役をみずからすすんでやってくれているので、自分は、返事もろくにせずに、ただ聞き流し、時折、まさか、などと言って笑っておれば、いいのでした。

 酒、煙草淫売婦、それは皆、人間恐怖を、たとい一時でも、まぎらす事の出来るずいぶんよい手段である事が、やがて自分にもわかって来ました。それらの手段を求めるためには、自分の持ち物全部を売却しても悔いない気持さえ、抱くようになりました。

 自分には、淫売婦というものが、人間でも、女性でもない、白痴狂人のように見え、そのふところの中で、自分はかえって全く安心して、ぐっすり眠る事が出来ました。みんな、哀しいくらい、実にみじんも慾というものが無いのでした。そうして、自分に、同類の親和感とでもいったようなものを覚えるのか、自分は、いつも、その淫売婦たちから、窮屈でない程度の自然好意を示されました。何の打算も無い好意押し売りでは無い好意、二度と来ないかも知れぬひとへの好意自分には、その白痴狂人淫売婦たちに、マリヤ円光現実に見た夜もあったのです。

 しかし、自分は、人間への恐怖からのがれ、幽かな一夜の休養を求めるために、そこへ行き、それこそ自分と「同類」の淫売婦たちと遊んでいるうちに、いつのまにやら無意識の、或るいまわしい雰囲気を身辺にいつもただよわせるようになった様子で、これは自分にも全く思い設けなかった所謂「おまけの附録」でしたが、次第にその「附録」が、鮮明に表面に浮き上って来て、堀木にそれを指摘せられ、愕然がくぜんとして、そうして、いやな気が致しました。はたから見て、俗な言い方をすれば、自分は、淫売婦に依って女の修行をして、しかも、最近めっきり腕をあげ、女の修行は、淫売婦に依るのが一ばん厳しく、またそれだけに効果のあがるものだそうで、既に自分には、あの、「女達者」という匂いがつきまとい、女性は、(淫売婦に限らず)本能に依ってそれを嗅ぎ当て寄り添って来る、そのような、卑猥ひわい不名誉雰囲気を、「おまけの附録」としてもらって、そうしてそのほうが、自分の休養などよりも、ひどく目立ってしまっているらしいのでした。

 堀木はそれを半分はお世辞で言ったのでしょうがしかし、自分にも、重苦しく思い当る事があり、たとえば、喫茶店の女から稚拙手紙をもらった覚えもあるし、桜木町の家の隣りの将軍のはたちくらいの娘が、毎朝、自分の登校の時刻には、用も無さそうなのに、ご自分の家の門を薄化粧して出たりはいったりしていたし、牛肉を食いに行くと、自分が黙っていても、そこの女中が、……また、いつも買いつけの煙草屋の娘から手渡された煙草の箱の中に、……また、歌舞伎を見に行って隣りの席のひとに、……また、深夜の市電自分が酔って眠っていて、……また、思いがけなく故郷の親戚の娘から、思いつめたような手紙が来て、……また、誰かわからぬ娘が、自分の留守中にお手製らしい人形を、……自分が極度に消極的なので、いずれも、それっきりの話で、ただ断片、それ以上の進展は一つもありませんでしたが、何か女に夢を見させる雰囲気が、自分のどこかにつきまとっている事は、それは、のろけだの何だのといういい加減な冗談でなく、否定できないのでありました。自分は、それを堀木ごとき者に指摘せられ、屈辱に似た苦にがさを感ずると共に、淫売婦と遊ぶ事にも、にわかに興が覚めました。

 堀木は、また、その見栄坊みえぼうのモダニティから、(堀木の場合、それ以外の理由は、自分には今もって考えられませんのですが)或る日、自分共産主義読書会かいう(R・Sとかいっていたか記憶がはっきり致しません)そんな、秘密研究会に連れて行きました。堀木などという人物にとっては、共産主義秘密会合も、れいの「東京案内」の一つくらいのものだったのかも知れません。自分所謂「同志」に紹介せられ、パンフレットを一部買わされ、そうして上座のひどい醜い顔の青年からマルクス経済学講義を受けました。しかし、自分には、それはわかり切っている事のように思われました。それは、そうに違いないだろうけれども、人間の心には、もっとわけのわからない、おそろしいものがある。慾、と言っても、言いたりない、ヴァニティ、と言っても、言いたりない、色と慾、とこう二つ並べても、言いたりない、何だか自分にもわからぬが、人間の世の底に、経済だけでない、へんに怪談じみたものがあるような気がして、その怪談におびえ切っている自分には、所謂唯物論を、水の低きに流れるように自然肯定しながらも、しかし、それに依って、人間に対する恐怖から解放せられ、青葉に向って眼をひらき、希望のよろこびを感ずるなどという事は出来ないのでした。けれども、自分は、いちども欠席せずに、そのR・S(と言ったかと思いますが、間違っているかも知れません)なるものに出席し、「同志」たちが、いやに一大事の如く、こわばった顔をして、一プラス一は二、というような、ほとんど初等の算術めいた理論研究にふけっているのが滑稽に見えてたまらず、れい自分のお道化で、会合をくつろがせる事に努め、そのためか、次第に研究会の窮屈な気配もほぐれ、自分はその会合に無くてかなわぬ人気者という形にさえなって来たようでした。この、単純そうな人たちは、自分の事を、やはりこの人たちと同じ様に単純で、そうして、楽天的なおどけ者の「同志」くらいに考えていたかも知れませんが、もし、そうだったら、自分は、この人たちを一から十まで、あざむいていたわけです。自分は、同志では無かったんです。けれども、その会合に、いつも欠かさず出席して、皆にお道化のサーヴィスをして来ました。

 好きだったからなのです。自分には、その人たちが、気にいっていたからなのです。しかし、それは必ずしも、マルクスに依って結ばれた親愛感では無かったのです。

 非合法自分には、それが幽かにしかったのです。むしろ、居心地がよかったのです。世の中の合法というもののほうが、かえっておそろしく、(それには、底知れず強いものが予感せられます)そのからくりが不可解で、とてもその窓の無い、底冷えのする部屋には坐っておられず、外は非合法の海であっても、それに飛び込んで泳いで、やがて死に到るほうが、自分には、いっそ気楽のようでした。

 日蔭者ひかげもの、という言葉があります人間の世に於いて、みじめな、敗者、悪徳者を指差していう言葉のようですが、自分は、自分を生れた時からの日蔭者のような気がしていて、世間から、あれは日蔭者だと指差されている程のひとと逢うと、自分は、必ず、優しい心になるのです。そうして、その自分の「優しい心」は、自身でうっとりするくらい優しい心でした。

 また、犯人意識、という言葉もあります自分は、この人間の世の中に於いて、一生その意識に苦しめられながらも、しかし、それは自分の糟糠そうこうの妻の如き好伴侶はんりょで、そいつと二人きりで侘わびしく遊びたわむれているというのも、自分の生きている Permalink | 記事への反応(1) | 20:27

anond:20250623202234

 自分は、金持ちの家に生れたという事よりも、俗にいう「できる」事に依って、学校中の尊敬を得そうになりました。自分は、子供の頃から病弱で、よく一つき二つき、また一学年ちかくも寝込んで学校を休んだ事さえあったのですが、それでも、病み上りからだで人力車に乗って学校へ行き、学年末試験を受けてみると、クラスの誰よりも所謂「できて」いるようでした。からだ具合いのよい時でも、自分は、さっぱり勉強せず、学校へ行っても授業時間漫画などを書き、休憩時間にはそれをクラスの者たちに説明して聞かせて、笑わせてやりました。また、綴り方には、滑稽噺こっけいばなしばかり書き、先生から注意されても、しかし、自分は、やめませんでした。先生は、実はこっそり自分のその滑稽噺を楽しみにしている事を自分は、知っていたからでした。或る日、自分は、れいに依って、自分が母に連れられて上京の途中の汽車で、おしっこ客車通路にある痰壺たんつぼにしてしまった失敗談(しかし、その上京の時に、自分は痰壺と知らずにしたのではありませんでした。子供の無邪気をてらって、わざと、そうしたのでした)を、ことさらに悲しそうな筆致で書いて提出し、先生は、きっと笑うという自信がありましたので、職員室に引き揚げて行く先生のあとを、そっとつけて行きましたら、先生は、教室を出るとすぐ、自分のその綴り方を、他のクラスの者たちの綴り方の中から選び出し、廊下を歩きながら読みはじめて、クスクス笑い、やがて職員室にはいって読み終えたのか、顔を真赤にして大声を挙げて笑い、他の先生に、さっそくそれを読ませているのを見とどけ、自分は、たいへん満足でした。

 お茶目

 自分は、所謂お茶目に見られる事に成功しました。尊敬される事から、のがれる事に成功しました。通信簿は全学科とも十点でしたが、操行というものだけは、七点だったり、六点だったりして、それもまた家中の大笑いの種でした。

 けれども自分の本性は、そんなお茶目さんなどとは、凡およそ対蹠たいせき的なものでした。その頃、既に自分は、女中下男から、哀かなしい事を教えられ、犯されていました。幼少の者に対して、そのような事を行うのは、人間の行い得る犯罪の中で最も醜悪で下等で、残酷犯罪だと、自分はいまでは思っていますしかし、自分は、忍びました。これでまた一つ、人間特質を見たというような気持さえして、そうして、力無く笑っていました。もし自分に、本当の事を言う習慣がついていたなら、悪びれず、彼等の犯罪を父や母に訴える事が出来たのかも知れませんが、しかし、自分は、その父や母をも全部は理解する事が出来なかったのです。人間に訴える、自分は、その手段には少しも期待できませんでした。父に訴えても、母に訴えても、お巡まわりに訴えても、政府に訴えても、結局は世渡りに強い人の、世間に通りのいい言いぶんに言いまくられるだけの事では無いかしら。

 必ず片手落のあるのが、わかり切っている、所詮しょせん、人間に訴えるのは無駄である自分はやはり、本当の事は何も言わず、忍んで、そうしてお道化をつづけているより他、無い気持なのでした。

 なんだ、人間への不信を言っているのか? へえ? お前はいクリスチャンになったんだい、と嘲笑ちょうしょうする人も或いはあるかも知れませんが、しかし、人間への不信は、必ずしもすぐに宗教の道に通じているとは限らないと、自分には思われるのですけど。現にその嘲笑する人をも含めて、人間は、お互いの不信の中で、エホバも何も念頭に置かず、平気で生きているではありませんか。やはり、自分の幼少の頃の事でありましたが、父の属していた或る政党有名人が、この町に演説に来て、自分下男たちに連れられて劇場に聞きに行きました。満員で、そうして、この町の特に父と親しくしている人たちの顔は皆、見えて、大いに拍手などしていました。演説がすんで、聴衆は雪の夜道を三々五々かたまって家路に就き、クソミソに今夜の演説会の悪口を言っているのでした。中には、父と特に親しい人の声もまじっていました。父の開会の辞も下手、れい有名人演説も何が何やら、わけがからぬ、とその所謂父の「同志たち」が怒声に似た口調で言っているのです。そうしてそのひとたちは、自分の家に立ち寄って客間に上り込み、今夜の演説会は大成功だったと、しんから嬉しそうな顔をして父に言っていました。下男たちまで、今夜の演説会はどうだったと母に聞かれ、とても面白かった、と言ってけろりとしているのです。演説会ほど面白くないものはない、と帰る途々みちみち、下男たちが嘆き合っていたのです。

 しかし、こんなのは、ほんのささやかな一例に過ぎません。互いにあざむき合って、しかもいずれも不思議に何の傷もつかず、あざむき合っている事にさえ気がついていないみたいな、実にあざやかな、それこそ清く明るくほがらかな不信の例が、人間生活に充満しているように思われます。けれども、自分には、あざむき合っているという事には、さして特別の興味もありません。自分だって、お道化に依って、朝から晩まで人間をあざむいているのです。自分は、修身教科書的な正義とか何とかい道徳には、あまり関心を持てないのです。自分には、あざむき合っていながら、清く明るく朗らかに生きている、或いは生き得る自信を持っているみたいな人間難解なのです。人間は、ついに自分にその妙諦みょうていを教えてはくれませんでした。それさえわかったら、自分は、人間をこんなに恐怖し、また、必死のサーヴィスなどしなくて、すんだのでしょう。人間生活対立してしまって、夜々の地獄のこれほどの苦しみを嘗なめずにすんだのでしょう。つまり自分下男下女たちの憎むべきあの犯罪をさえ、誰にも訴えなかったのは、人間への不信からではなく、また勿論クリス主義のためでもなく、人間が、葉蔵という自分に対して信用の殻を固く閉じていたからだったと思います。父母でさえ、自分にとって難解なものを、時折、見せる事があったのですから

 そうして、その、誰にも訴えない、自分孤独匂いが、多くの女性に、本能に依って嗅かぎ当てられ、後年さまざま、自分がつけ込まれる誘因の一つになったような気もするのです。

 つまり自分は、女性にとって、恋の秘密を守れる男であったというわけなのでした。

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第二の手記

 海の、波打際、といってもいいくらいに海にちかい岸辺に、真黒い樹肌の山桜の、かなり大きいのが二十本以上も立ちならび、新学年がはじまると、山桜は、褐色のねばっこいような嫩葉わかばと共に、青い海を背景にして、その絢爛けんらんたる花をひらき、やがて、花吹雪の時には、花びらがおびただしく海に散り込み、海面を鏤ちりばめて漂い、波に乗せられ再び波打際に打ちかえされる、その桜の砂浜が、そのまま校庭として使用せられている東北の或る中学校に、自分受験勉強もろくにしなかったのに、どうやら無事に入学できました。そうして、その中学制帽の徽章きしょうにも、制服ボタンにも、桜の花が図案化せられて咲いていました。

 その中学校のすぐ近くに、自分の家と遠い親戚に当る者の家がありましたので、その理由もあって、父がその海と桜の中学校自分に選んでくれたのでした。自分は、その家にあずけられ、何せ学校のすぐ近くなので、朝礼の鐘の鳴るのを聞いてから、走って登校するというような、かなり怠惰中学生でしたが、それでも、れいのお道化に依って、日一日とクラスの人気を得ていました。

 生れてはじめて、謂わば他郷へ出たわけなのですが、自分には、その他郷のほうが、自分の生れ故郷よりも、ずっと気楽な場所のように思われました。それは、自分のお道化もその頃にはいよいよぴったり身について来て、人をあざむくのに以前ほどの苦労を必要としなくなっていたかである、と解説してもいいでしょうがしかし、それよりも、肉親と他人故郷と他郷、そこには抜くべからざる演技の難易の差が、どのような天才にとっても、たとい神の子イエスにとっても、存在しているものなのではないでしょうか。俳優にとって、最も演じにくい場所は、故郷劇場であって、しかも六親眷属けんぞく全部そろって坐っている一部屋の中に在っては、いかな名優も演技どころでは無くなるのではないでしょうか。けれども自分は演じて来ました。しかも、それが、かなりの成功を収めたのです。それほどの曲者くせものが、他郷に出て、万が一にも演じ損ねるなどという事は無いわけでした。

 自分人間恐怖は、それは以前にまさるとも劣らぬくらい烈しく胸の底で蠕動ぜんどうしていましたが、しかし、演技は実にのびのびとして来て、教室にあっては、いつもクラスの者たちを笑わせ、教師も、このクラス大庭さえいないと、とてもいいクラスなんだが、と言葉では嘆じながら、手で口を覆って笑っていました。自分は、あの雷の如き蛮声を張り上げる配属将校をさえ、実に容易に噴き出させる事が出来たのです。

 もはや、自分の正体を完全に隠蔽いんぺいし得たのではあるまいか、とほっとしかけた矢先に、自分は実に意外にも背後から突き刺されました。それは、背後から突き刺す男のごたぶんにもれず、クラスで最も貧弱な肉体をして、顔も青ぶくれで、そうしてたしか父兄のお古と思われる袖が聖徳太子の袖みたいに長すぎる上衣うわぎを着て、学課は少しも出来ず、教練や体操はいつも見学という白痴に似た生徒でした。自分もさすがに、その生徒にさえ警戒する必要は認めていなかったのでした。

 その日、体操時間に、その生徒(姓はい記憶していませんが、名は竹一といったかと覚えています)その竹一は、れいに依って見学自分たちは鉄棒練習をさせられていました。自分は、わざと出来るだけ厳粛な顔をして、鉄棒めがけて、えいっと叫んで飛び、そのまま幅飛びのように前方へ飛んでしまって、砂地にドスンと尻餅をつきました。すべて、計画的な失敗でした。果して皆の大笑いになり、自分も苦笑しながら起き上ってズボンの砂を払っていると、いつそこへ来ていたのか、竹一が自分背中をつつき、低い声でこう囁ささやきました。

「ワザ。ワザ」

 自分震撼しんかんしました。ワザと失敗したという事を、人もあろうに、竹一に見破られるとは全く思いも掛けない事でした。自分は、世界が一瞬にして地獄業火に包まれ燃え上るのを眼前に見るような心地がして、わあっ! と叫んで発狂しそうな気配を必死の力で抑えました。

 それからの日々の、自分不安と恐怖。

 表面は相変らず哀しいお道化を演じて皆を笑わせていましたが、ふっと思わず重苦しい溜息ためいきが出て、何をしたってすべて竹一に木っ葉みじんに見破られていて、そうしてあれは、そのうちにきっと誰かれとなく、それを言いふらして歩くに違いないのだ、と考えると、額にじっとり油汗がわいて来て、狂人みたいに妙な眼つきで、あたりをキョロキョロむなしく見廻したりしました。できる事なら、朝、昼、晩、四六時中、竹一の傍そばから離れず彼が秘密を口走らないように監視していたい気持でした。そうして、自分が、彼にまつわりついている間に、自分のお道化は、所謂「ワザ」では無くて、ほんものであったというよう思い込ませるようにあらゆる努力を払い、あわよくば、彼と無二の親友になってしまいたいものだ、もし、その事が皆、不可能なら、もはや、彼の死を祈るより他は無い、とさえ思いつめました。しかし、さすがに、彼を殺そうという気だけは起りませんでした。自分は、これまでの生涯に於おいて、人に殺されたいと願望した事は幾度となくありましたが、人を殺したいと思った事は、いちどもありませんでした。それは、おそるべき相手に、かえって幸福を与えるだけの事だと考えていたからです。

 自分は、彼を手なずけるため、まず、顔に偽クリスチャンのような「優しい」媚笑びしょうを湛たたえ、首を三十度くらい左に曲げて、彼の小さい肩を軽く抱き、そうして猫撫ねこなで声に似た甘ったるい声で、彼を自分の寄宿している家に遊びに来るようしばしば誘いましたが、彼は、いつも、ぼんやりした眼つきをして、黙っていました。しかし、自分は、或る日の放課後、たしか初夏の頃の事でした、夕立ちが白く降って、生徒たちは帰宅に困っていたようでしたが、自分は家がすぐ近くなので平気で外へ飛び出そうとして、ふと下駄箱のかげに、竹一がしょんぼり立っているのを見つけ、行こう、傘を貸してあげる、と言い、臆する竹一の手を引っぱって、一緒に夕立ちの中を走り、家に着いて、二人の上衣を小母さんに乾かしてもらうようにたのみ、竹一を二階の自分の部屋に誘い込むのに成功しました。

 その家には、五十すぎの小母さんと、三十くらいの、眼鏡をかけて、病身らしい背の高い姉娘(この娘は、いちどよそへお嫁に行って、それからまた、家へ帰っているひとでした。自分は、このひとを、ここの家のひとたちにならって、アネサと呼んでいました)それと、最近女学校卒業したばかりらしい、セッちゃんという姉に似ず背が低く丸顔の妹娘と、三人だけの家族で、下の店には、文房具やら運動用具を少々並べていましたが、主な収入は、なくなった主人が建てて残して行った五六棟の長屋家賃のようでした。

「耳が痛い」

 竹一は、立ったままでそう言いました。

「雨に濡れたら、痛くなったよ」

 自分が、見てみると、両方の耳が、ひどい耳だれでした。膿うみが、いまにも耳殻の外に流れ出ようとしていました。

「これは、いけない。痛いだろう」

 と自分大袈裟おおげさにおどろいて見せて、

「雨の中を、引っぱり出したりして、ごめんね」

 と女の言葉みたいな言葉を遣って「優しく」謝り、それから、下へ行って綿とアルコールをもらって来て、竹一を自分の膝ひざを枕にして寝かせ、念入りに耳の掃除をしてやりました。竹一も、さすがに、これが偽善の悪計であることには気附かなかったようで、

「お前は、きっと、女に惚ほれられるよ」

 と自分の膝枕で寝ながら、無智なお世辞を言ったくらいでした。

 しかしこれは、おそらく、あの竹一も意識しなかったほどの、おそろしい悪魔予言のようなものだったという事を、自分は後年に到って思い知りました。惚れると言い、惚れられると言い、その言葉はひどく下品で、ふざけて、いかにも、やにさがったものの感じで、どんなに所謂「厳粛」の場であっても、そこへこの言葉一言でもひょいと顔を出すと、みるみる憂鬱伽藍がらんが崩壊し、ただのっぺらぼうになってしまうような心地がするものですけれども、惚れられるつらさ、などという俗語でなく、愛せられる不安、とでもいう文学語を用いると、あながち憂鬱伽藍をぶちこわす事にはならないようですから、奇妙なものだと思います

 竹一が、自分に耳だれの膿の仕末をしてもらって、お前は惚れられるという馬鹿なお世辞を言い、自分はその時、ただ顔を赤らめて笑って、何も答えませんでしたけれども、しかし、実は、幽かすかに思い当るところもあったのでした。でも、「惚れられる」というような野卑な言葉に依って生じるやにさがった雰囲気ふんいきに対して、そう言われると、思い当るところもある、などと書くのは、ほとんど落語若旦那のせりふにさえならぬくらい、おろかしい感懐を示すようなもので、まさか自分は、そんなふざけた、やにさがった気持で、「思い当るところもあった」わけでは無いのです。

 自分には、人間女性のほうが、男性よりもさらに数倍難解でした。自分家族は、女性のほうが男性よりも数が多く、また親戚にも、女の子がたくさんあり、またれいの「犯罪」の女中などもいまして、自分は幼い時から、女とばかり遊んで育ったといっても過言ではないと思っていますが、それは、また、しかし、実に、薄氷を踏む思いで、その女のひとたちと附合って来たのです。ほとんど、まるで見当が、つかないのです。五里霧中で、そうして時たま、虎の尾を踏む失敗をして、ひどい痛手を負い、それがまた、男性から受ける笞むちとちがって、内出血みたいに極度に不快に内攻して、なかなか治癒ちゆし難い傷でした。

 女は引き寄せて、つっ放す、或いはまた、女は、人のいるところでは自分をさげすみ、邪慳じゃけんにし、誰もいなくなると、ひしと抱きしめる、女は死んだように深く眠る、女は眠るために生きているのではないかしら、その他、女に就いてのさまざまの観察を、すでに自分は、幼年時代から得ていたのですが、同じ人類のようでありながら、男とはまた、全く異った生きもののような感じで、そうしてまた、この不可解で油断のならぬ生きものは、奇妙に自分をかまうのでした。「惚れられる」なんていう言葉も、また「好かれる」という言葉も、自分場合にはちっとも、ふさわしくなく、「かまわれる」とでも言ったほうが、まだしも実状の説明に適しているかも知れません。

 女は、男よりも更に、道化には、くつろぐようでした。自分がお道化を演じ、男はさすがにいつまでもゲラゲラ笑ってもいませんし、それに自分も男のひとに対し、調子に乗ってあまり道化を演じすぎると失敗するという事を知っていましたので、必ず適当のところで切り上げるように心掛けていましたが、女は適度という事を知らず、いつまでもいつまでも自分にお道化要求し、自分はその限りないアンコールに応じて、へとへとになるのでした。実に、よく笑うのです。いったいに、女は、男よりも快楽をよけいに頬張る事が出来るようです。

 自分中学時代に世話になったその家の姉娘も、妹娘も、ひまさえあれば、二階の自分の部屋にやって来て、自分はその度毎に飛び上らんばかりにぎょっとして、そうして、ひたすらおびえ、

「御勉強?」

「いいえ」

 と微笑して本を閉じ、

「きょうね、学校でね、コンボウという地理先生がね」

 とするする口から流れ出るものは、心にも無い滑稽噺でした。

「葉ちゃん眼鏡をかけてごらん」

 或る晩、妹娘のセッちゃんが、アネサと一緒に自分の部屋へ遊びに来て、さんざん自分にお道化を演じさせた揚句の果に、そんな事を言い出しました。

「なぜ?」

「いいから、かけてごらん。アネサの眼鏡を借りなさい」

 いつでも、こんな乱暴命令口調で言うのでした。道化師は、素直にアネサの眼鏡をかけました。とたんに、二人の娘は、笑いころげました。

そっくりロイドに、そっくり

 当時、ハロルド・ロイドかい外国映画喜劇役者が、日本で人気がありました。

 自分は立って片手を挙げ、

諸君

 と言い、

「このたび、日本ファンの皆様がたに、……」

 と一場挨拶を試み、さらに大笑いさせて、それからロイド映画がそのまちの劇場に来るたび毎に見に行って、ひそかに彼の表情などを研究しました。

 また、或る秋の夜、自分が寝ながら本を読んでいると、アネサが鳥のように素早く部屋へはいって来て、いきなり自分の掛蒲団の上に倒れて泣き、

「葉ちゃんが、あたしを助けてくれるのだわね。そうだわね。こんな家、一緒に出てしまったほうがいいのだわ。助けてね。助けて」

 などと、はげしい事を口走っては、また泣くのでした。けれども、自分には、女から、こんな態度を見せつけられるのは、これが最初ではありませんでしたので、アネサの過激言葉にも、さして驚かず、かえってその陳腐、無内容に興が覚めた心地で、そっと蒲団から脱け出し、机の上の柿をむいて、その一きれをアネサに手渡してやりました。すると、アネサは、しゃくり上げながらその柿を食べ、

「何か面白い本が無い? 貸してよ」

 と言いました。

 自分漱石の「吾輩は猫である」という本を、本棚から選んであげました。

「ごちそうさま」

 アネサは、恥ずかしそうに笑って部屋から出て行きましたが、このアネサに限らず、いったい女は、どんな気持で生きているのかを考える事は、自分にとって、蚯蚓みみずの思いをさぐるよりも、ややこしく、わずらわしく、薄気味の悪いものに感ぜられていました。ただ、自分は、女があんなに急に泣き出したりした場合、何か甘いものを手渡してやると、それを食べて機嫌を直すという事だけは、幼い時から自分経験に依って知っていました。

 また、妹娘のセッちゃんは、その友だちまで自分の部屋に連れて来て、自分れいに依って公平に皆を笑わせ、友だちが帰ると、セッちゃんは、必ずその友だちの悪口を言うのでした。あのひとは不良少女から、気をつけるように、ときまって言うのでした。そんなら、わざわざ連れて来なければ、よいのに、おかげで自分の部屋の来客の、ほとんど全部が女、という事になってしまいました。

 しかし、それは、竹一のお世辞の「惚れられる」事の実現では未だ決して無かったのでした。つまり自分は、日本東北ハロルド・ロイドに過ぎなかったのです。竹一の無智なお世辞が、いまわしい予言として、なまなまと生きて来て、不吉な形貌を呈するようになったのは、更にそれから、数年経った後の事でありました。

 竹一は、また、自分にもう一つ、重大な贈り物をしていました。

お化けの絵だよ」

 いつか竹一が、自分の二階へ遊びに来た時、ご持参の、一枚の原色版の口絵を得意そうに自分に見せて、そう説明しました。

 おや? と思いました。その瞬間、自分の落ち行く道が決定せられたように、後年に到って、そんな気がしてなりません。自分は、知っていました。それは、ゴッホの例のPermalink | 記事への反応(1) | 20:25

人間失格

 私は、その男写真を三葉、見たことがある。

 一葉は、その男の、幼年時代、とでも言うべきであろうか、十歳前後かと推定される頃の写真であって、その子供が大勢の女のひとに取りかこまれ、(それは、その子供の姉たち、妹たち、それから、従姉妹いとこたちかと想像される)庭園の池のほとりに、荒い縞の袴はかまをはいて立ち、首を三十度ほど左に傾け、醜く笑っている写真である。醜く? けれども、鈍い人たち(つまり、美醜などに関心を持たぬ人たち)は、面白くも何とも無いような顔をして、

可愛い坊ちゃんですね」

 といい加減なお世辞を言っても、まんざら空からお世辞に聞えないくらいの、謂いわば通俗の「可愛らしさ」みたいな影もその子供の笑顔に無いわけではないのだが、しかし、いささかでも、美醜に就いての訓練を経て来たひとなら、ひとめ見てすぐ、

「なんて、いやな子供だ」

 と頗すこぶる不快そうに呟つぶやき、毛虫でも払いのける時のような手つきで、その写真をほうり投げるかも知れない。

 まったく、その子供の笑顔は、よく見れば見るほど、何とも知れず、イヤな薄気味悪いものが感ぜられて来る。どだい、それは、笑顔でない。この子は、少しも笑ってはいないのだ。その証拠には、この子は、両方のこぶしを固く握って立っている。人間は、こぶしを固く握りながら笑えるものでは無いのである。猿だ。猿の笑顔だ。ただ、顔に醜い皺しわを寄せているだけなのである。「皺くちゃ坊ちゃん」とでも言いたくなるくらいの、まことに奇妙な、そうして、どこかけがらわしく、へんにひとをムカムカさせる表情の写真であった。私はこれまで、こんな不思議な表情の子供を見た事が、いちども無かった。

 第二葉写真の顔は、これはまた、びっくりするくらいひどく変貌へんぼうしていた。学生の姿である高等学校時代写真か、大学時代写真か、はっきりしないけれども、とにかく、おそろしく美貌の学生であるしかし、これもまた、不思議にも、生きている人間の感じはしなかった。学生服を着て、胸のポケットから白いハンケチを覗のぞかせ、籐椅子とういすに腰かけて足を組み、そうして、やはり、笑っている。こんどの笑顔は、皺くちゃの猿の笑いでなく、かなり巧みな微笑になってはいるが、しかし、人間の笑いと、どこやら違う。血の重さ、とでも言おうか、生命いのちの渋さ、とでも言おうか、そのような充実感は少しも無く、それこそ、鳥のようではなく、羽毛のように軽く、ただ白紙一枚、そうして、笑っている。つまり、一から十まで造り物の感じなのである。キザと言っても足りない。軽薄と言っても足りない。ニヤケと言っても足りない。おしゃれと言っても、もちろん足りない。しかも、よく見ていると、やはりこの美貌の学生にも、どこか怪談じみた気味悪いものが感ぜられて来るのである。私はこれまで、こんな不思議な美貌の青年を見た事が、いちども無かった。

 もう一葉の写真は、最も奇怪なものである。まるでもう、としの頃がわからない。頭はいくぶん白髪のようである。それが、ひどく汚い部屋(部屋の壁が三箇所ほど崩れ落ちているのが、その写真にハッキリ写っている)の片隅で、小さい火鉢に両手をかざし、こんどは笑っていない。どんな表情も無い。謂わば、坐って火鉢に両手をかざしながら、自然に死んでいるような、まことにいまわしい、不吉なにおいのする写真であった。奇怪なのは、それだけでない。その写真には、わりに顔が大きく写っていたので、私は、つくづくその顔の構造を調べる事が出来たのであるが、額は平凡、額の皺も平凡、眉も平凡、眼も平凡、鼻も口も顎あごも、ああ、この顔には表情が無いばかりか、印象さえ無い。特徴が無いのだ。たとえば、私がこの写真を見て、眼をつぶる。既に私はこの顔を忘れている。部屋の壁や、小さい火鉢は思い出す事が出来るけれども、その部屋の主人公の顔の印象は、すっと霧消して、どうしても、何としても思い出せない。画にならない顔である漫画にも何もならない顔である。眼をひらく。あ、こんな顔だったのか、思い出した、というようなよろこびさえ無い。極端な言い方をすれば、眼をひらいてその写真を再び見ても、思い出せない。そうして、ただもう不愉快イライラして、つい眼をそむけたくなる。

 所謂いわゆる「死相」というものだってもっと何か表情なり印象なりがあるものだろうに、人間からだに駄馬の首でもくっつけたなら、こんな感じのものになるであろうか、とにかく、どこという事なく、見る者をして、ぞっとさせ、いやな気持にさせるのだ。私はこれまで、こんな不思議な男の顔を見た事が、やはり、いちども無かった。

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第一の手記

 恥の多い生涯を送って来ました。

 自分には、人間生活というものが、見当つかないのです。自分東北田舎に生れましたので、汽車をはじめて見たのは、よほど大きくなってからでした。自分停車場ブリッジを、上って、降りて、そうしてそれが線路をまたぎ越えるために造られたものだという事には全然気づかず、ただそれは停車場の構内を外国遊戯場みたいに、複雑に楽しく、ハイカラにするためにのみ、設備せられてあるものだとばかり思っていました。しかも、かなり永い間そう思っていたのです。ブリッジの上ったり降りたりは、自分にはむしろ、ずいぶん垢抜あかぬけのし遊戯で、それは鉄道のサーヴィスの中でも、最も気のきいたサーヴィスの一つだと思っていたのですが、のちにそれはただ旅客線路をまたぎ越えるための頗る実利的な階段に過ぎないのを発見して、にわかに興が覚めました。

 また、自分子供の頃、絵本地下鉄道というものを見て、これもやはり、実利的な必要から案出せられたものではなく、地上の車に乗るよりは、地下の車に乗ったほうが風がわりで面白い遊びだから、とばかり思っていました。

 自分子供の頃から病弱で、よく寝込みましたが、寝ながら、敷布、枕のカヴァ、掛蒲団カヴァを、つくづく、つまらない装飾だと思い、それが案外に実用品だった事を、二十歳ちかくになってわかって、人間のつましさに暗然とし、悲しい思いをしました。

 また、自分は、空腹という事を知りませんでした。いや、それは、自分が衣食住に困らない家に育ったという意味ではなく、そんな馬鹿意味ではなく、自分には「空腹」という感覚はどんなものだか、さっぱりわからなかったのです。へんな言いかたですが、おなかが空いていても、自分でそれに気がつかないのです。小学校中学校自分学校から帰って来ると、周囲の人たちが、それ、おなかが空いたろう、自分たちにも覚えがある、学校から帰って来た時の空腹は全くひどいからな、甘納豆はどう? カステラも、パンもあるよ、などと言って騒ぎますので、自分は持ち前のおべっか精神を発揮して、おなかが空いた、と呟いて、甘納豆を十粒ばかり口にほうり込むのですが、空腹感とは、どんなものだか、ちっともわかっていやしなかったのです。

 自分だって、それは勿論もちろん、大いにものを食べますが、しかし、空腹感からものを食べた記憶は、ほとんどありません。めずらしいと思われたものを食べます。豪華と思われたものを食べます。また、よそへ行って出されたものも、無理をしてまで、たいてい食べます。そうして、子供の頃の自分にとって、最も苦痛な時刻は、実に、自分の家の食事時間でした。

 自分田舎の家では、十人くらいの家族全部、めいめいのお膳ぜんを二列に向い合せに並べて、末っ子自分は、もちろん一ばん下の座でしたが、その食事の部屋は薄暗く、昼ごはんの時など、十幾人の家族が、ただ黙々としてめしを食っている有様には、自分はいつも肌寒い思いをしました。それに田舎の昔気質かたぎの家でしたので、おかずも、たいていきまっていて、めずらしいもの、豪華なもの、そんなものは望むべくもなかったので、いよいよ自分食事の時刻を恐怖しました。自分はその薄暗い部屋の末席に、寒さにがたがた震える思いで口にごはんを少量ずつ運び、押し込み、人間は、どうして一日に三度々々ごはんを食べるのだろう、実にみな厳粛な顔をして食べている、これも一種儀式のようなもので、家族が日に三度々々、時刻をきめて薄暗い一部屋に集り、お膳を順序正しく並べ、食べたくなくても無言でごはんを噛かみながら、うつむき、家中うごめいている霊たちに祈るためのものかも知れない、とさえ考えた事があるくらいでした。

 めしを食べなければ死ぬ、という言葉は、自分の耳には、ただイヤなおどかしとしか聞えませんでした。その迷信は、(いまでも自分には、何だか迷信のように思われてならないのですが)しかし、いつも自分不安と恐怖を与えました。人間は、めしを食べなければ死ぬから、そのために働いて、めしを食べなければならぬ、という言葉ほど自分にとって難解で晦渋かいじゅうで、そうして脅迫めいた響きを感じさせる言葉は、無かったのです。

 つまり自分には、人間の営みというものが未いまだに何もわかっていない、という事になりそうです。自分幸福観念と、世のすべての人たちの幸福観念とが、まるで食いちがっているような不安自分はその不安のために夜々、転輾てんてんし、呻吟しんぎんし、発狂しかけた事さえあります自分は、いったい幸福なのでしょうか。自分は小さい時から、実にしばしば、仕合せ者だと人に言われて来ましたが、自分はいつも地獄の思いで、かえって、自分を仕合せ者だと言ったひとたちのほうが、比較にも何もならぬくらいずっとずっと安楽なように自分には見えるのです。

 自分には、禍わざわいのかたまりが十個あって、その中の一個でも、隣人が脊負せおったら、その一個だけでも充分に隣人の生命取りになるのではあるまいかと、思った事さえありました。

 つまり、わからないのです。隣人の苦しみの性質、程度が、まるで見当つかないのです。プラクテカルな苦しみ、ただ、めしを食えたらそれで解決できる苦しみ、しかし、それこそ最も強い痛苦で、自分の例の十個の禍いなど、吹っ飛んでしまう程の、凄惨せいさんな阿鼻地獄なのかも知れない、それは、わからない、しかし、それにしては、よく自殺もせず、発狂もせず、政党を論じ、絶望せず、屈せず生活のたたかいを続けて行ける、苦しくないんじゃないか? エゴイストになりきって、しかもそれを当然の事と確信し、いちども自分を疑った事が無いんじゃないか? それなら、楽だ、しかし、人間というものは、皆そんなもので、またそれで満点なのではないかしら、わからない、……夜はぐっすり眠り、朝は爽快そうかいなのかしら、どんな夢を見ているのだろう、道を歩きながら何を考えているのだろう、金? まさか、それだけでも無いだろう、人間は、めしを食うために生きているのだ、という説は聞いた事があるような気がするけれども、金のために生きている、という言葉は、耳にした事が無い、いや、しかし、ことに依ると、……いや、それもわからない、……考えれば考えるほど、自分には、わからなくなり、自分ひとり全く変っているような、不安と恐怖に襲われるばかりなのです。自分は隣人と、ほとんど会話が出来ません。何を、どう言ったらいいのか、わからないのです。

 そこで考え出したのは、道化でした。

 それは、自分の、人間に対する最後求愛でした。自分は、人間を極度に恐れていながら、それでいて、人間を、どうしても思い切れなかったらしいのです。そうして自分は、この道化の一線でわずかに人間につながる事が出来たのでした。おもてでは、絶えず笑顔をつくりながらも、内心は必死の、それこそ千番に一番の兼ね合いとでもいうべき危機一髪の、油汗流してのサーヴィスでした。

 自分子供の頃から自分家族の者たちに対してさえ、彼等がどんなに苦しく、またどんな事を考えて生きているのか、まるでちっとも見当つかず、ただおそろしく、その気まずさに堪える事が出来ず、既に道化の上手になっていました。つまり自分は、いつのまにやら、一言も本当の事を言わない子になっていたのです。

 その頃の、家族たちと一緒にうつした写真などを見ると、他の者たちは皆まじめな顔をしているのに、自分ひとり、必ず奇妙に顔をゆがめて笑っているのです。これもまた、自分の幼く悲しい道化一種でした。

 また自分は、肉親たちに何か言われて、口応くちごたえした事はいちども有りませんでした。そのわずかなおこごとは、自分には霹靂へきれきの如く強く感ぜられ、狂うみたいになり、口応えどころか、そのおこごとこそ、謂わば万世一系人間の「真理」とかいものに違いない、自分にはその真理を行う力が無いのだから、もはや人間と一緒に住めないのではないかしら、と思い込んでしまうのでした。だから自分には、言い争いも自己弁解も出来ないのでした。人から悪く言われると、いかにも、もっとも、自分がひどい思い違いをしているような気がして来て、いつもその攻撃を黙して受け、内心、狂うほどの恐怖を感じました。

 それは誰でも、人から非難せられたり、怒られたりしていい気持がするものでは無いかも知れませんが、自分は怒っている人間の顔に、獅子しよりも鰐わによりも竜よりも、もっとおそろしい動物の本性を見るのです。ふだんは、その本性をかくしているようですけれども、何かの機会に、たとえば、牛が草原でおっとりした形で寝ていて、突如、尻尾しっぽでピシッと腹の虻あぶを打ち殺すみたいに、不意に人間のおそろしい正体を、怒りに依って暴露する様子を見て、自分はいつも髪の逆立つほどの戦慄せんりつを覚え、この本性もまた人間の生きて行く資格の一つなのかも知れないと思えば、ほとんど自分絶望を感じるのでした。

 人間に対して、いつも恐怖に震いおののき、また、人間としての自分言動に、みじんも自信を持てず、そうして自分ひとりの懊悩おうのうは胸の中の小箱に秘め、その憂鬱、ナアヴァスネスを、ひたかくしに隠して、ひたすら無邪気の楽天性を装い、自分はお道化たお変人として、次第に完成されて行きました。

 何でもいいから、笑わせておればいいのだ、そうすると、人間たちは、自分が彼等の所謂生活」の外にいても、あまりそれを気にしないのではないかしら、とにかく、彼等人間たちの目障りになってはいけない、自分は無だ、風だ、空そらだ、というような思いばかりが募り、自分はお道化に依って家族を笑わせ、また、家族よりも、もっと不可解でおそろしい下男下女にまで、必死のお道化のサーヴィスをしたのです。

 自分は夏に、浴衣の下に赤い毛糸のセエターを着て廊下を歩き、家中の者を笑わせました。めったに笑わない長兄も、それを見て噴き出し、

「それあ、葉ちゃん、似合わない」

 と、可愛くてたまらないような口調で言いました。なに、自分だって真夏毛糸のセエターを着て歩くほど、いくら何でも、そんな、暑さ寒さを知らぬお変人ではありません。姉の脚絆レギンスを両腕にはめて、浴衣の袖口から覗かせ、以もってセエターを着ているように見せかけていたのです。

 自分の父は、東京用事の多いひとでしたので、上野桜木町に別荘を持っていて、月の大半は東京のその別荘で暮していました。そうして帰る時には家族の者たち、また親戚しんせきの者たちにまで、実におびただしくお土産を買って来るのが、まあ、父の趣味みたいなものでした。

 いつかの父の上京の前夜、父は子供たちを客間に集め、こんど帰る時には、どんなお土産がいいか、一人々々に笑いながら尋ね、それに対する子供たちの答をいちいち手帖てちょうに書きとめるのでした。父が、こんなに子供たちと親しくするのは、めずらしい事でした。

「葉蔵は?」

 と聞かれて、自分は、口ごもってしまいました。

 何が欲しいと聞かれると、とたんに、何も欲しくなくなるのでした。どうでもいい、どうせ自分を楽しくさせてくれるものなんか無いんだという思いが、ちらと動くのです。と、同時に、人から与えられるものを、どんなに自分の好みに合わなくても、それを拒む事も出来ませんでした。イヤな事を、イヤと言えず、また、好きな事も、おずおずと盗むように、極めてにがく味あじわい、そうして言い知れぬ恐怖感にもだえるのでした。つまり自分には、二者選一の力さえ無かったのです。これが、後年に到り、いよいよ自分所謂「恥の多い生涯」の、重大な原因ともなる性癖の一つだったように思われます

 自分が黙って、もじもじしているので、父はちょっと不機嫌な顔になり、

「やはり、本か。浅草の仲店にお正月獅子舞いのお獅子子供かぶって遊ぶのには手頃な大きさのが売っていたけど、欲しくないか

 欲しくないか、と言われると、もうダメなんです。お道化た返事も何も出来やしないんです。お道化役者は、完全に落第でした。

「本が、いいでしょう」

 長兄は、まじめな顔をして言いました。

「そうか」

 父は、興覚め顔に手帖に書きとめもせず、パチと手帖を閉じました。

 何という失敗、自分は父を怒らせた、父の復讐ふくしゅうは、きっと、おそるべきものに違いない、いまのうちに何とかして取りかえしのつかぬものか、とその夜、蒲団の中でがたがた震えながら考え、そっと起きて客間に行き、父が先刻、手帖をしまい込んだ筈の机の引き出しをあけて、手帖を取り上げ、パラパラめくって、お土産の注文記入の個所を見つけ、手帖の鉛筆をなめて、シシマイ、と書いて寝ました。自分はその獅子舞いのお獅子を、ちっとも欲しくは無かったのです。かえって、本のほうがいいくらいでした。けれども、自分は、父がそのお獅子自分に買って与えたいのだという事に気がつき、父のその意向迎合して、父の機嫌を直したいばかりに、深夜、客間に忍び込むという冒険を、敢えておかしたのでした。

 そうして、この自分の非常の手段は、果して思いどおりの大成功を以て報いられました。やがて、父は東京から帰って来て、母に大声で言っているのを、自分子供部屋で聞いていました。

「仲店のおもちゃ屋で、この手帖を開いてみたら、これ、ここに、シシマイ、と書いてある。これは、私の字ではない。はてな? と首をかしげて、思い当りました。これは、葉蔵のいたずらですよ。あいつは、私が聞いた時には、にやにやして黙っていたが、あとで、どうしてもお獅子が欲しくてたまらなくなったんだね。何せ、どうも、あれは、変った坊主ですからね。知らん振りして、ちゃんと書いている。そんなに欲しかったのなら、そう言えばよいのに。私は、おもちゃ屋の店先で笑いましたよ。葉蔵を早くここへ呼びなさい」

 また一方、自分は、下男下女たちを洋室に集めて、下男のひとりに滅茶苦茶めちゃくちゃにピアノのキイをたたかせ、(田舎ではありましたが、その家には、たいていのものが、そろっていました)自分はその出鱈目でたらめの曲に合せて、インデヤンの踊りを踊って見せて、皆を大笑いさせました。次兄は、フラッシュを焚たいて、自分のインデヤン踊りを撮影して、その写真が出来たのを見ると、自分の腰布(それは更紗さらさの風呂敷でした)の合せ目から、小さいおチンポが見えていたので、これがまた家中の大笑いでした。自分にとって、これまた意外の成功というべきものだったかも知れません。

 自分は毎月、新刊少年雑誌を十冊以上も、とっていて、またその他ほかにも、さまざまの本を東京から取り寄せて黙って読んでいましたので、メチャラクチャラ博士だの、また、ナンジャモンジャ博士などとは、たいへんな馴染なじみで、また、怪談講談落語江戸小咄こばなしなどの類にも、かなり通じていましたから、剽軽ひょうきんな事をまじめな顔をして言って、家の者たちを笑わせるのには事を欠きませんでした。

 しかし、嗚呼ああ、学校

 自分は、そこでは、尊敬されかけていたのです。尊敬されるという観念もまた、甚はなはだ自分を、おびえさせました。ほとんど完全に近く人をだまして、そうして、或るひとりの全知全能の者に見破られ、木っ葉みじんにやられて、死ぬる以上の赤恥をかかせられる、それが、「尊敬される」という状態自分定義でありました。人間をだまして、「尊敬され」ても、誰かひとりが知っている、そうして、人間たちも、やがて、そのひとりから教えられて、だまされた事に気づいた時、その時の人間たちの怒り、復讐は、いったい、まあ、どんなでしょうか。想像してさえ、身の毛がよだつ心地がするのです。

 自分は、金持ちの家に生れたという事よりも、俗にいう「できる」事に依って、学校中の尊敬を得そうになりました。自分は、子供の頃から病弱で、よく一つき二つき、また一学年ちかくも寝込んで学校を休んだ事さえあったのですが、それでも、病み上りからだで人力車に乗って学校へ行き、学年末試験を受けてみると、クラスの誰よりも所謂「できて」いるようでした。Permalink | 記事への反応(1) | 20:22

2025-06-19

anond:20250619100035

人間40年も生きてれば趣味の一つや二つあってもいいと思うんだよ。それが三つや四つだったとしてもまだ普通範疇かもしれない。しか趣味趣味を呼ぶじゃないけど深掘りしてさらに手を広げる人もいるだろう。

しょこたん場合、絵を描く事が好きで実際に上手い。最近では油絵を描いてるようだ。

そこから派生してアニメゲーム読書コスプレと好きのジャンルが広がるのも特別変なことではないだろう。

彼女ドライブ趣味らしいが芸能人ドライブ趣味な人はどれくらいいるだろうか?猫も好きらしいがそんなのしょこたんだけではないだろう。

なぜしょこたん排除しようとするのか、その気持ち自分の胸に手を当ててみないと分からないのでは?

気に入らないからという理由排除しようとしてないか

今回の騒動にしても騒いでる人は「俺が怪しいと思ったか正規ルートで購入した証明しろ」と難癖をつけてる。側から見てると街宣車と同じなんだが、これってそんなに真面目に対応しなければならない案件なのか?

そもそもだが騒いでる人の目的はなんだろう。インプレ稼ぎではない?一緒になって騒いでる人はインプレ稼ぎに加担してない?しょこたんだったら燃えやすいから絡んでるだけではないのか?

しょこたんは今後は無視するのが正解だろう。頭のおかしい連中の難癖にイチイチ付き合う必要はない。

2025-06-16

描くこと

子供の頃の話。

私は絵を描くのが好きで、新聞の折り込み広告の裏に印刷がないものを探しては絵を描いていた。ツルツルとした紙は鉛筆のノリが悪くて、ざらざらした紙の方が好きだった。

親は漫画を買ってくれなかったので、漫画単行本友達から借りて真似て描いたりした。



私の家はとあるカルト宗教に属していた。両親は比較的熱心な信者で、毎週の集まりのほかにも、大きなイベントの類には家族揃ってよく参加した。

ある時の大きめの集会の終盤、教祖の娘と孫がゲストとして参加して紹介された。

コンサートホールの壇上に、2人の少年が不遜な態度で座っている。

司会の男は“お孫様”を恭しく紹介し、プロジェクターに映し出された彼らが描いた絵の素晴らしさを熱く語った。

プールプールサイドに置かれた椅子油絵が映され、色使いがどうとか、魅力的だとか、そんなことを言っていた気がする。司会の男だって芸術に明るいわけではないだろう。それでも、芸術の才能を確信したような物言いだった。

椅子の座面と足の関係がよくある間違いで描かれていた。狙ってこう描いている可能性もゼロではないが、初学者があえてすることはないだろう。油絵の具で描かれた子供っぽい絵だ思った。

大人たちは“お孫様”を手放しで賞賛した。

帰りの車の中で父は「お前もああいう絵を描けばいいのに」と言った。私はなんと返事をしたかは覚えていない。

心の内を正直に話せば怒られることぐらいは分かっていた。

だって、道具と材料があれば、あれぐらいのものはきっと描ける。

たまたま油絵が描ける環境に生まれて、評価の機会があっただけ。

その幸運の中にありながらあの態度はなんだ。大勢の前で紹介してもらいながら、ニコリともせず椅子に座り、挨拶ひとつもなかった。

腹立たしくて、悔しかった。


中学高校美術部に入った。

中学イラスト部と言った雰囲気で定期的に作品を持ち寄り部誌を作った。

高校顧問美術教師油絵が専門だったのでみんな油絵を描いた。高文祭出展するため、50号の作品を作った。イーゼルに立てると自分の背丈ほどになる大きさだ。

油絵は絵の具を油で溶かし、塗り重ねていく。油絵の具はなかなか乾かない。顧問はいろんな色で塗り重ねた方表情が出るから繰り返し描けと言った。何日も何日もかけて描く。描きながらいろんなことを考えた。進路のこと、友達のこと、好きな人のこと、親のこと。

油絵の描き方を親に説明した時、父親は「お前は何度も描き直すから、お前に合った描き方だね」と言った。家で絵を描いた後、机に消しゴムカスが残っているといつも言われた。私は絵のことについて両親に何の理解も期待していなかったので、何も言わなかった。

高校から何点か選考に出し、私の描いたものが県代表の一つに選ばれた。

高文祭の会場にはたくさんの作品が展示されていて、みんな上手だと思った。

高文祭後の市の展覧会で、同じ作品を出した。そこの絵もみんな上手だと思った。展覧会に参加した国語教師が「一緒に見に行った娘が、あなた作品が一番良かったと言っていたよ」と教えてくれた。


絵を描くことを職業にしたいと思ったこともあったが、親はあまりいい顔をしなかったし、自分にそこまでも実力はないだろうとは思っていた。学費の面から芸術系の大学に行く選択肢は初めからなかった。

そこそこ頭のいい医療系の学校に受かって、両親はとても喜んだ。

卒業して自宅から遠方に就職し、寮に入って実家宗教から距離をとった。もうずいぶん両親とは会っていない。

絵は時々描いている。紙とペンがあればできるささやかな娯楽だ。

iPadでも描いたりするが、アプリが難しく思ったようには描けない。

もっと絵が上手くなりたいと思う。


今思い返せば、お孫様の絵を見た時の私の感情子供嫉妬だし、彼らの壇上での態度も理解できなくもない。

彼らが宗教信仰していなかった可能性もあるし、出たくもない場所に引っ張り出されて、外国語で何やら男が話している。(教祖外国人日本語は堪能だったが、彼の子や孫はその限りではなかった。)自分の描いた絵をそのつもりがない時に人に見せられ、勝手にあれやこれや言われるというのは、たとえ賞賛でも嫌な気分になることはある。すべて想像だけれど。



ある時友人の小学生の子供と一緒に絵を描いて遊んだら、私の絵をとても上手だと褒めてくれた。それからときどき一緒に絵を描いている。

お絵かき勝負しよう」と言われたので「勝負はやだな。好きに描いて見せっこしよう」と言った。

今年の年賀状は友人とは別にの子名前ももらったので、干支にちなんだポケモンの絵を描いて送った。とても喜んでいたらしい。

私程度の画力の人なんて掃いて捨てるほどいる、と思う。それでも子供の素直な羨望の眼差しはあまりにも眩しい。


SNSに溢れる作品も、目に留まるのは数秒でも作者はその何倍も時間をかけて作品を作り上げている。

つの作品を完成させてそれを世に出すということは、経験がない人の想像以上に精神力がいることだと私は思っている。少なくとも私のような凡人にはそうだ。

世に出された作品はすべて尊敬に値する。

彼は今も絵を描いているのだろうか。

ふと昔のことを思い出しので、書き散らす。

2025-04-23

anond:20250422144401

元増田です。

結局、自分でも答えはわからんかった。

限られたスペースで、たくさんの人々に楽しんでもらうためには、これが最大公約数なのかなと思うのだが、あえて、「自分ならこうする」という展示を考えてみたい。

結論は、一般公開レプリカでよくないか

ということ。

歴史資料としては、収集すべきだけど、見せ物としてはレプリカでいい。

事前に理解しておく基礎知識文脈が多すぎる。

そして、まずもって殆どの入場者にオリジナルレプリカの違いを見極める目がない。

教科書でみたアレ、ドラマで出てきたアレ、くらいの感想で、「本物はこうなってた」みたいな感想があったとしてと、素人が感じ取れる写真との違いは、レプリカでも十分わかる。

それに、オリジナルは褪色していて、作られた当時の意匠を留めてない。

神社仏閣だって当時の色を再現する修復をしてるんだから、こういう美術品、とくに浮世絵なんてのは商業印刷なのだから、派手でケバケバしい猥雑な色を再現して展示したほうがよいだろう。

というわけで、

「ぼくのかんがえたさいこうの蔦屋重三郎展」

を述べてみる。

第一蔦屋重三郎時代

江戸メディア王となった男の展示であるからには、江戸後期におけるメディアについて入場者に知って帰って貰わないと意味がないと思う。

江戸も中期まで、絵や本というのは大半が注文生産だった。

まり、この屏風にこういう絵を描いて欲しい、誰々の肖像をこんなふうに描いて欲しい、という依頼に応じて制作したものだった。

それが、蔦屋重三郎時代には、木版によるカラー印刷という技術発明されたことと、貨幣経済が発展したことにより、需要を見越して出版活動を行うようになった。

王侯貴族ではなく、庶民が店先で本や絵を買う時代がやってきた。

本や絵のテーマになるのは、山水画花鳥風月じゃなく、もっと庶民の娯楽に直結したもの、芝居、女、旅行etc

それぞれについて掘り下げておく。

例えば芝居なら、芝居小屋でみる歌舞伎は照明演出蝋燭と窓の開閉でしか調整できないから、まず薄暗い。

毎月演目が切り替わっていたこと。

俳優一年ほぼ固定で、「うちは今年一年この顔ぶれでやって行きますよー」という俳優の紹介があったこと。

みたいなことを触れておく。

第二部 江戸メディア役割

蔦屋重三郎ら、メディア役割について学ぶ展示にする。

例えば役者絵なら、役者絵は芝居に乗っかって売るものから、上演期間に合わせて売り出す必要がある。

観劇して、印象に残ったところをスケッチして、それをもとに一年かけて一枚絵に仕立てる。などというやり方はありえない。

ここで、入場者にいくつかの問いかけに考えてもらう。

例えば、役柄に寄せて描くべきか、役者がわかるように描くべきか?

実写版白雪姫ポスターを作るとして、アニメ白雪姫に寄せて描くべきか、俳優の特徴に寄せて描くべきかに置き換えるとわかると思う。

もちろん正解はない。

例えば、舞台のものを描くべきか?話の世界観で描くべきか?

俳優は厚化粧しているが、それを描くべきかとどうか、芝居小屋は薄暗いがそれも描くべきかどうか、これだって答えはない。

どの問いも答えはない。

しかし、商売である以上、決断して絵を作る必要がある。

この部では、蔦屋重三郎を忘れて、バリエーションかに当時の解答例(作品)を提示すればいい。

写楽と春章と国貞あたりを並べるといい。

役者絵だけでなく、全ての出版物についてそうだ。

ソープランド写真指名用のパネルを作るとして、無加工ってありえないだろう?

吉原年齢ではなく実年齢を載せるのも野暮だろう?

かといって、加工されほぼみんな同じ顔になったとして、指名したくなる推しポイントは含めないといけないだろう?

写真加工には流行りがあって、流行は抑えないといけない。

例えば、素人っぽさ、生活感がある日常を切り取った普段着のほうが萌えるって流行もあるだろう?

それだって素人っぽく、普段着っぽく、日常っぽく加工してるだけで、本当の素人でも普段着でも日常でもない。

江戸時代のそれが、つまり美人画だよ。

煌びやかな花魁が描かれてるだけじゃなく、女郎日常が描かれたり、女郎じゃなく茶屋娘の絵が売り出されたりしてたわけ。

次の展示の前に様々なバリエーションを並べて、当時の価値観について理解の分解能をあげておく。

第三部 革新者蔦屋重三郎

ここがメインで、蔦屋重三郎足跡を辿る展示に入るわけだけど、どこで生まれ最初に出したのがこれで、みたいなのはまり重要ではないと思う。

研究としては大事だろうけど、知識がない一般人にとっては、蔦屋重三郎がなにをどう変えたのか?どこが革新的だったのか?だけ覚えて帰ってもらえば十分。

例えば、スティーブ・ジョブズ展をやるとして、学生時代ヒューレットパッカードバイトしてたとき記念品とか、要らないと思うんだ。

出した製品が、世界をどう変えたか?それが重要で、例えばiMacなら、そのころ主流だったPCと外観がどんなに違うか、並べたらいいと思うし、iMac模倣して作られた他社製品を並べてやるのもいいと思う。

同じことを、歌麿写楽でやる。

歌麿の登場の以前と以後で、画風の流行がどう変わったとか、写楽の絵はあまり売れなかったけど、一部に熱狂されてインスパイアされた絵師が出たこととかね。

ただし、歌麿展でも写楽展でもない。

もちろん蔦屋重三郎を語る上で、歌麿写楽重要だけど、版元の関与、つまりアイデア、コンセプトがどう革新的だったか、そういう見せ方をするべきだね。

例えば、写楽の大首絵は背景がガンメタリックのように黒光してる。

同じ絵に違う背景を複数作って、この背景色を選んだのが必然であったのを理解してもらうのがいいと思う。

その数だけ複製版画を用意する。

それから写楽の大首絵の輪郭線は薄墨で目立たなく、最小限の線だけど、効率的デフォルメされている。

3Dモデリングしたり、3Dモデリングから作ったフィギュアを展示して、線は最小限なのに顎や小鼻の丸みがちゃんとわかる確かなデフォルメなことを理解できる展示にしたらいいと思う。

黄表紙本なんかは、どれだけふざけた内容で絵が多いかわかるように、写真から製本して触れるようにしちゃったらいいと思う(できればこれも木版で印刷して製本して欲しいが、コスト的にキツいしね)。

わざわざ美術館にこなくても、デジタルアーカイブとしてみれるんだけど、製本したもののページをめくることができたら、また印象が違うと思う。

四部 メディアを支えた印刷技術

今回の展示で最後オマケ程度に現代職人仕事ぶりや制作過程が紹介されてたけど、あれをもっと広げてやる。

手に持って鑑賞できる触り放題な複製版画を大量に用意する。

第三部までの知識インプットしたあとに、手に持って鑑賞するのがミソで、これ以上ない体験になると思う。

ここでアピールして、物販コーナーで複製版画がたくさん売れた方が、文化の保存に貢献できる。

承認欲求モンスターばかりなんだから写真撮影可能な複製版画コーナーは大変重要

第五部 オリジナルの展示

さすがにオリジナルの展示もいるだろうなと思うので最後に設ける。

客はラーメンではなく情報をくってる。オリジナルをみたっていう情報お腹を満たしてもらえばそれでいい。

「さっきみた複製とはここが違うね」

と通ぶってくれてもいい。

建設的な意見なら職人たちの叱咤になる。

「さっきの複製のほうが好きだ!」

と感じてくれたら、職人たちへの激励になる。

追記 木版印刷物の写真と実物、オリジナルと複製違いについて

当時、本も絵も、木版印刷なわけだが、写真と実物、複製の違いについて軽く触れる。

油絵油絵具で光の屈折が関係するので、写真では伝わらない部分があるが、その点では木版画フラットでマットなので、概ねかわらない。

雲母のような、光の反射を使った技法については写真ではなかなか伝わらないし、版木が押し当てられたことによってエンボスになってるようなのは写真になるとわかりにくいが、それこそ手に持ってこそなので、ガラス越しでみてどうなんだろという感じはある。

うまい例えができないが、ビックリマンシールシルクスクリーン印刷は、触ってこそだよ。傾けて覗き込んでみて反射や屈折を楽しんで、手触りまでがワンセット。

複製については、当然複製なので、いい複製、悪い複製があるはずなのだけど、これを論じるのはなかなか難しい。

これだけ写真印刷ができる時代に、わざわざ彫って摺ることに意味があるかと言われても、木版印刷だけの味わいがあると断言できるのだけど、そこから先のいい複製については正解がわからない。

例えば、褪色した今現在を複製するか、制作当時の色を再現すべきか、オリジナルにある制作上のミスは複製でも模倣すべきか、ベスト状態の摺りを再現すべきかという議論がある。

私は、絵そのものよりも、その背景にある表現したいモノを形にするのがいいと思うので、当時の色を再現し、ミス修正したほうがいいと思うし、ベストな仕上がりを想像して作るべきだと思う。

また、制作方法材料は当時の方法材料踏襲すべきか?という議論もある。

これについて私は、絵を通じて表現たかたことが大事だと思っていて、当時のなかった便利な方法材料も使っていいと思う。

当時の職人だって、もしそれを知ってたら喜んで使ったはずだ。わざわざ制作ハードルを上げて、彫り摺りのレベルを落としたら本末転倒だと思う。

一応、私見は上のようではあるが、あくま私見だ。

結論としては、やっぱり答えはない。

ただ、手にとって楽しめるのは複製の利点なので、ぜひ触るべきだと思う。

追記追記

世界で一番ゴッホを描いた男」というドキュメンタリー作品がある。

10万枚も複製画を描いた男が、ゴッホオリジナルをみるためオランダに行き、初めてみたホンモノにうちひしがれる話だ。

取引先の画商は、

そっくりだ。ホンモノとすり替えてもわからないよ」

というけれど、本人には悔しくてたまらない。

たぶん、画商の言葉はお世辞じゃなくて本当にそっくりだと思ってるんじゃないかな。

ホンモノは、こういう人にだけ鑑賞させてやって、一般人は複製画で十分だ。

美術館でありがたく鑑賞する程度では、ホンモノとニセモノを見分けるような目は持てない。

2025-04-14

不倫をしていた元親友を切った話

不倫の話 自己愛が強すぎてほんとに苦手なんですよ

不倫の話を聞くといつも元親友のことを思い出して物思いにふけってしま

長年の親友不倫パパ活が当たり前の世界に身を置いたのはその子の家にお金の余裕がなかったからなんだよね 

彼女美大油絵をやりたくて藝大を目指して高校時代から美大予備校に通ってた。でもストレートでは受から浪人することになって、予備校学費生活費自分で稼がなきゃいけなくなった。

時間お金をたくさん稼ぎたいとなると水商売っぽいことをするしかないんだよな。

の子若い女の子浴衣を着て男性を膝枕して耳かきをしてあげるお店でバイトを始めた。バイト先の同世代女の子たちがひと回りもふた回りも歳の離れたお客さんに高価な洋服やらブランド物やらを買ってもらったり恋愛関係になったりしていた。

の子はは絵の道へ進むことを家族に反対されていたために、ありのまま自分を受け入れてくれる理解者に飢えていた。

高価な洋服への憧れも手伝って、パパ活癒しを求めた。パパの中には妻子のある人もいたけれど「だからこその包容力がある」などと言ってやめようとしなかった。

私が「妻子があるってことは、誰かの旦那さんであり誰かのお父さんなんだよ」と諭したときの「そう考えると、ちょっとだけど…」というちょっと気まずそうな顔を妙に覚えてる。

の子はどんどん歳の離れた男性依存するようになっていって、私は付き合いきれなくなって縁を切った。

この思い出を今日、お風呂に入りながらぼーっと振り返って、(もしこの子実家が、この子が絵の道へ進むことに理解があって学費生活費を出せる程度の金銭的な余裕があれば、この子はこうはならなかったんだろうな)と思った

私は親が進路を理解して生活費学費も出してくれる環境で育ったか正論を言えるのだな、と自分の履く下駄認識したのだった。

親友が今どうしてるかは知らない、幸せ暮らしていてほしい。そして親友ではなく元親友になってしまったのはやっぱり寂しい 

美術館でどう絵を見ればいいかからないと困惑する頭でっかちな私に、感じるままに見ればいいんだよと教えてくれたのはその子なんだ 寂しいな

結局藝大には受からなくて(かなりいいところまで行ったらしい、藝大受験者には誰がどう見ても受かる人と審査員によって評価が分かれる人と誰がどう見ても落ちる人がおり、評価が分かれる人の中でもギリギリラインだったらしい) 、多摩美油絵へ行ったと聞いた 留年していなければもう卒業してるな

anond:20250412140022

整形や化粧をしないことが基本の時代ジャニーズ

ジャニーズと言えば小柄なイケメン集団って感じだったのに、いつの間にか

女性コミュニケーションが取れず「顔などの特定魔法のパーツやアイテム一つで女が群がるしその辺の女をレイプしても許される」と妄想する類の男性の願望ですよね

山田涼介は人前に出るときは常に油絵みたいな化粧をするし、多数のアスリートをはじめとする異業種の有名人と並ぶ機会があり、身長175cmあるのが証明されているキムタクこと木村拓哉を無数のネットユーザー男性がしつこく170cm未満認定してきたわけだし

X男性「男は金or顔があれば天下取れる!ソースキムタク!」現実身長165cm前後男性が表に出るとこれ→

https://posfie.com/@ruins_hover/p/iTZGYXj

2025-02-24

結局、誰がどうやってつくったのか?のほうが創造物そのもの価値より重視されがち

写真そっくりに描けてる絵

とかそうじゃない?

ものとしての価値

その絵=写真

なんだけど

人が色鉛筆とか水彩画とか油絵

として写真のような絵を描くことに価値がある

みたいな話になりがちでしょ。

あとこれは余談なんだけど

アーティストはそういう部分に価値を見出すことが出来ないか

スーパーリアルとか言われる

写真では写しきれないような「リアル

絵画の中に封じ込めたりする様式流行ったりもしたことがある。

それは余談なんだけど、とにかくそのもの価値じゃなくて、どうやって誰が作ったか

価値を感じる人が多くて一括りにそういう人たちは大衆ということになるんだと思う。

現役の女子高生がつくりました!

みたいなことにすごくみんな価値を見出すじゃないですか?

マッチ棒でつくりました!

みたいなのに無邪気に「すごいすごい!」って喝采するじゃないですか?

そういうのがどうにも私のようなものごとの本質価値を見出すタイプ人間違和感を感じるんです。

最近だと生成AIがつくりあげた文章とかだと、即座に「けっ!AI文章かっ!」って価値を低く見積もるじゃないですか?

そういうのって逆パターンだけど同じことですよね。

AIがつくる文章って人間では書けないような文章が多くてとても魅力的なんだけど

大衆の人たちって「AIが書いた」ってことだけでもう価値を大きく下げたりするでしょ?

そういうのにすごく違和感を感じるんです。

試しにAIが書いた文章の骨子だけを残してAI臭さを抜くとするじゃないですか。

そしたら途端にバズるわけですよ。

どれがそれとはいいませんけどオーバー1000でブクマとかついちゃうわけです。

でもこれAI地の文を残してたら見向きもされなかっただろうな、というのは最近の流れを見てると自明なわけで。

なんか違和感を感じるんです。

まあそうはいっても仕方がないとは思うんですよ。

やっぱ女子高生がつくった!!ってそれだけで心惹かれるもんですしね。

マッチ棒でつくったもんとか水彩画写真みたいな絵を描かれてたらすごいねと思うし

「けっ!!AIかよ!!」って思うもんですしね。

でも、そのときほんの少しだけ違和感を感じる人がいることも思い出してもらえたら、とも思います

2025-02-16

アスファルトにも目を向けてくれ

コンクリートニキが人気らしいので尻増に乗らせてもらおう。

https://anond.hatelabo.jp/20250215115750 因みに増田は尻相撲専攻とかではない。

 

若い読者諸兄は雨の日に車に水を掛けられたり、車でスリップしたりした事があるだろうか?多分無いと思う。

でもそれって日本含む少数の国だけの事なのだ。そして日本でも道路に水が溜まらなくなったのは1990年代後半からなのだ。それはアスファルト舗装が変わったせいなんである

 

アスファルト合材

アスファルトの原料は言うまでもなく原油原油を縦に長い蒸留塔の下で沸騰させる。するとガスとなって蒸発する。

そのガスは上から軽い順に滞留するから塔の途中に管を入れてそのガスを取り出し冷やすと、上からプロパンガスガソリン灯油軽油重油鉱油…と分離出来る。その最後に残ったドロドロのカスみたいなのがアスファルトだ。

こいつは熱すると流動性が出るが冷えると固くなってしかも頑丈だ。そこでこれを道路舗装に使おう、となった。

ただアスファルトだけだとまだ柔さがあるんで、砂利と砂(骨材という)と混ぜたものを熱して道路に撒くのだ。

これを「アスファルト合材」というが、現場では単に合材と呼んでる。

 

コンクリートミキサーガラガラ回しながら90分以内に届けるという縛りがあるそうだが、アスファルト合材の場合は冷えるまでに届けるという縛りがあるからもっとシビアだ。

チチ状態ダンプに載せたら断熱シートを被せて急いで現場に持っていくのだね。

現場では急いで均した上でロードローラーによる転圧という作業を行う。

押しつぶされた合材は水を通さなアスファルト舗装になる、と言うかなっていた。

 

水性アスファルト

アスファルトに石と砂を混ぜたものを押しつぶしたら水通さない地面になるのが当たり前。だから雨になれば水が溜まる。

ところが1990年頃にアメリカ会社がこの当たり前を打ち砕く合材を開発したのだ。それが今使われている「透水性アスファルト」で、日本では合材メーカーがこのライセンスを取得、90年代後半から道路工事に使われる様になり、いつの間にか道路に水が溜まる事が無くなってしまったのだ。

 

この合材は石と砂の他に木工ボンドみたいなプラスチック接着剤を混ぜる事で、アスファルトが砕石に「纏わりつく」ような状態になっている。キーマカレーみたいな状態だ。

で、それを転圧すると雷おこしみたいになって隙間が沢山出来る。ここから水が通ってしまうから水が溜まらないという仕組み。

で、実際施工されてみると水たまりが無くなるだけに留まらない利点だらけで、エポックメイキングゲームチェンジャー革命的と言って差し支えないほどの特徴に満ちていたのだった。

 

ロードノイズがない

車のタイヤには排水の為の溝が沢山刻まれている。なので舗装路を走るとこの溝の角が路面を叩く。

その為に車が走るとゴーッ、とかザーッというロードノイズが発生していた。この為に幹線道路沿線はとても五月蠅かったのだ。

ところが透水性舗装では穴が沢山空いているからこの騒音殆ど穴の中に吸収されてしまう。故に舗装工事が終わったら無音でビックリ!となったのだった。

 

雨で滑らない

路面が塗れると滑る特に雨の降り始めは路面のホコリが濡れてグニャグニャになるので格段に滑りやすかった。

から教習所でも免許の講習でも「雨の降り始めは特にスリップ注意」と口を酸っぱく言われていた。

ところが透水性舗装ではホコリなんて穴の中にすぐに落ちてしまうので全然スリップしない。

 

雨じゃなくても滑らない

表面がごつごつした構造なのでタイヤゴムがよく路面を掴み、そもそも雨じゃなくてもグリップ力がやたら高い。

 

雨で光らない

雨が降ると路面の水が対向車のヘッドライトを反射して光りまくるので、車線のペイントなんか全然見えなかった。ドライバーは勘で走っていた。

水性舗装では水が溜まらないので雨でも視認性が悪化しない。

 

照り返しが無い

夏のアスファルト路面は太陽を反射して余計に暑くさせた。

だが透水性舗装ではゴツゴツ路面が光を乱反射させて照り返しが無い。

 

暑さの抑制

土の中というのは割と温度一定。つまり夏は涼しく冬には暖かい

その土の中への穴が沢山空いてるから夏の暑さがかなり抑制される。またその穴からは水蒸気が出ているので気化熱でも路面の温度を奪う。

 

暑さに強い

普通アスファルトは夏になると熱で緩んでしまっていた。緩んだ状態で重量車が停車するとその部分が凹んでしまう。だから交差点の停止線付近は轍だらけ。バイクなどはハンドルを取られて危なかった。

特に酷いのはバス停で、バスタイヤ位置が4つ凹んでしまう。バスがその穴ぼこにハマって前後に揺らしながら脱出、とかが日常茶飯事だった。またその穴に水が溜まり、そこを車が通る時に水はね、バス停の人がびしょびしょなんて事も多かった。

水性舗装は夏でも流動性が上がらないのでそんな悩みとも全てオサラバ

 

なんつーか、それまでの悩みは何だったの?というくらいの優秀さなのだ。

 

アスファルトの下

路面に見えるのはアスファルトだけだが、舗装というのはその下の構造も含めて舗装なのだ。ここをきっちりやらないとあっというまに道路が破損してしまう。

 

まず、1m以上掘下げてまずは砂を入れる。この砂は川砂(公園砂場の砂)じゃなくて土とブレンドされた黄土色のを使う。理由は川砂は高いから。

その上に45cmくらい砕石を入れる。その上の表面がアスファルトだ。

各資材はその都度締固めをする。この締固めマシーンランマーっていうよ。

昔はやぐらを組んで巨大丸太を引き上げてから落として締固めしていた。この時にロープを巻く号令に因んで「ヨイトマケ」と呼ばれていたよ。美輪明宏の『ヨイトマケの唄』はこの時に唄われる歌を唄ったものだ。「かーちゃんの為ならエンヤコラ」のアレ。

このヨイトマケに人数が必要なのでオバさんもやっていた。つまり女性のドカタって珍しくなかったのだね。

こういう風に砕石や砂を入れておく理由は、道路が沈まない為だ。

もう一つは流水対策八潮事故に見るように、水の流れが出来ると土が持っていかれてしまい空洞が出来てしまう。

砕石を入れると水の流れが分散する。その上で砂にしみ込むように流れるから空洞が出来ないのだね。

 

水性舗装では水がどんどん地下に浸みていくから、この砕石層を厚くしないといけない。なので合材代が高いだけじゃなくてその下の構築にもコストが掛かるのだ。

 

 

アスファルトトリビア

 

舗装は専門の会社がやる事が多い

アスファルトの扱いは上で書いたようにシビアだ。それにトラックが黒く汚れる。

なので舗装は「合材班」がやるようになっている会社が多い。その班は同会社の別チームの場合と、下請け会社がまるまる班という場合とがある。

学校でもあった班だが、実は班というのは旧帝国陸軍組織を参考にしている。少人数集団仕事する時に「兵隊時代のアレ」が参照されたってわけだ。

余談だが装備品の数チェックを「員数を当たる」という事もあって、こっちも陸軍由来だ。だがこっちの「員数」は頑なに使わない会社も多かった。

というのも、陸軍では始業時と終業時に装備品の数を必ず数えるのだが、ここで数が合わないと「天皇陛下よりお預かりした物を失くしただと!」と滅茶苦茶に殴られるのだ。

その為に数が合わないものを別の班から盗むというのが常態化していて、盗まれた班も盗み、その班もまた…とやっていてとても陰湿理不尽で「員数」だけは口にしたくないという人が多かった為だ。

 

組織的には舗装工事専門のゼネコンがあってその下請け会社が合材班として動いてるって感じか。その舗装ゼネコンゼネコンの下に組み込まれてるのでサブコンち呼ばれている。

多分汚れるが待機時間は長い仕事だと思う。

 

ビル屋上アスファルト

ビルなどの平たい屋上を陸屋根(ろくやね)と言うんだけど、この陸屋根アスファルトで防水されているのだ。屋上タイルコンクリートに見えるが、それはアスファルト保護なのだ

まず、コンクリ屋上コールタールを塗る。そこにアスファルトを塗って、ファイバーシートを張り、またアスファルト、って感じで仕上げる。

この時、雨の排水桝の境界アスファルトで埋めて、一滴たりとも漏れないようにする。

この工事アスファルト流動性上げる為にバーナーを使うし汚れるしでメチャきつい仕事だ。

アスファルト塗りが終わったら、スタイロフォームという発泡スチロールを敷き詰めていく。これは下の居室の断熱の為だ。

その上にコンクリートを流して完成だ。このコンクリートは押さえコンクリと呼ばれる。保護+重しだね。

 

ただ、アスファルトというのは経年でどんどん固くなってしまう。するとひび割れたりするし、地震建物が歪むと、その歪みが元に戻ってもアスファルトが切れてしまう。すると雨漏りだ。

経年では15~20年でそうなるが、上にコンクリが被さっているかアスファルトの方は直せないね

そこでコンクリの上からウレタンを被せて再度防水するのだ。屋上が緑や灰色なのはこのウレタンで防水し直したものだ。

ところで上の説明聞いて、「発泡スチロールコンクリが被さっていたら水分が完全に抜けるのって無理じゃね?」と気が付いた人もいるかと思う。

その通りで、その上にウレタンを被せたらその水分は永遠に出て来れない。そして夏になると水蒸気になって体積が1000倍になり…となってしまうと水ぶくれみたいにぷくーっと膨らんでしまうのだ。見た事ある人もあるかと思う。

google:image:膨れ ウレタン

そこで予めエア抜き煙突(脱気筒)を付けておくのだ。緑や灰色屋上によくある煙突はこの為にあるのだね。

 

ジャパニング

英語china中国だが、陶器磁器意味もある。

japan日本だが、同様に漆器をも指す。

 

戦前ミシンなどの工業用品は黒が多いが、そう云うものの中には「ジャパニング」仕上げのものが多いのだ。

漆器では漆を使うが、工業でのジャパニングアスファルトを使っていた。

具体的にはアスファルトテレピン油(松脂精油)で薄めて塗布する。場合によっては綺麗に仕上げる為に油絵用のメディウム(うすめ液)を混ぜる事もある。

ただ、このアスファルト一般的原油精製のやつじゃ上手くいかないのだ。石油が湧き出している所を油徴というのだけど、その中でアスファルトがぐつぐつと湧いている場所がある。そこで取れる「天然アスファルト」じゃないと無理なのだ

新潟で油が湧きだして困ってるらしいので https://youtu.be/xPAfFJ--vQQ?si=4w3QgifqjSs8Y4UX 

今度そこで天然アスファルト採取して古いミシンレストアをしてみたいなと考えているのだ。

 

あと、ジャパン漆器なんだが、実際は日本の古い陶器の方がアンティークとして人気らしいのだ。

特に敗戦SF条約締結までの製品には「made in occupied japan」(占領日本)と表記されているので珍重されているらしい。(made in occupied japanGHQ表記義務付けた)

 

発泡スチロールを基礎に

水性舗装は水を地下に流してしまう。すると仮令水抜きをしっかりしていても高速道路の築堤などは大雨、長雨などで緩んでしま危険もある。

ところがこれに最適なソリューションが開発されたのだ。

それはなんと、築堤の下の方を発泡スチロールで組んでしまうというもの

あんもの大丈夫なのか?と思うが、下の方は力が分散されるから大丈夫らしい。

それに地震に強いという利点も。土に振動を与えると密度が詰まって体積が小さくなる。このせいで路面が狂ったりするが発泡スチロールなら無問題

発泡スチロールは軽い。という事は基礎に掛かる力も少ないって事で、自重で沈んでいくのを防止できる。

そして発泡スチロールの上に砕石層→アスファルトとすれば水で土が流れて陥没という事故も無くなるという算段。

 

石油したら道路どうなる

現在道路は燃料税が中心になって維持されている。電気自動車勢は無税で道路走ってるわけで怪しからんですな。

もしEVシフトが進んでしまうと道路維持費の問題の他に、「アスファルトどうすんねん」問題が出てくるわけです。現在の燃料油取った余りみたいな扱いから、「アスファルトだけの為に原油精製する」となったらコスト爆上がりでしょう。

 

でも実際はEVシフトは然程進まないと思うけど。自家用車では進むだろうが、トラックバスディーゼルを置き換えるのは当分無理だと思われるので。

 

 

外国行った際には是非アスファルトにも注目して日本との違いを見て欲しい。水たまりロードノイズの差、照り返し、溶けて歪んだ路面のペイントなど。

冒頭に尻相撲って書いたけどそれはアスファイトか。これ以上書くとアスファルトが冷えるのでこの辺で。

2024-12-14

[]

岐阜県現代陶芸美術館の「人間国宝 加藤孝造 追悼展」を拝見してまいりましたわ

陶芸家の人間国宝の方ですけれど最初の展示は油絵からはじまります

絵での成功を考えていらしたのですけれど、東濃しかできない陶芸に転身したのですわ

でも、最後の展示室も初心に還るように絵でしたわ

陶芸と平行して絵を描くことは続けられたのですわ

机周りの再現展示は、一つ前に行われた荒川豊蔵展と同じになっているので

両方行った方は師弟比較を楽しめます

そんな二つの仕掛けに気づきましたわ

2024-12-06

ビジネスホテルあるある追記しました)

ユニットバス

・なんか部屋がカビ臭い

・引き出しの中に聖書がある

・朝食がバイキングだとテンション上がる

コーヒー持ち帰りできるとさらに嬉しい

・ベッドがやたら硬いか、逆にふかふか過ぎる

• 枕が高すぎて首が痛くなる

• 窓から景色が隣のビルの壁

冷蔵庫が小さすぎて、ほぼ何も入らない

カーテンが完全に閉まらない隙間がある

• 謎の油絵風景写真が壁に掛かっている

消臭スプレーが部屋に置いてあると少し安心する

• お湯と水の調整が難しいシャワー

• 下に敷くバスマットで体を拭いてしまった

トイレットペーパーが妙に薄い

バスタオルが意外と小さい

• アメニティが「ボディソープシャンプー」一つだけ

ドライヤー風量が弱すぎて乾かない

自販機コーナーがやたら充実していると嬉しい

• 大浴場があると「当たり!」と思う

• 貸出サービスアイロンズボンプレッサーがある

フロントで部屋着を手渡されるシステム

• 消灯すると微妙にランプの光が目につく

エレベーターが少なくてなかなか来ない

• 周囲にコンビニがあると心強い

• チェックアウトの10分前に大慌て


追記

うそろそろ誰も読まないだろうと思うので追記します。

このあるあるの80%はAIに書いてもらいました。

から少し古いあるあるになってしまたことは否めません。

私自もも10年くらいビジネスホテルに泊まっていません。

でもみなさんのコメントが集まるなら…と思い、このあるあるを書きました。

みなさん、コメントありがとうございました。

2024-11-30

anond:20241129235326

写真しろエッチングしろ考える人彫刻しろ

大量生産、リプリント可能からダメということはないだろうな

ただ今はおっしゃるとおりキャンバスの号数の高い物、高解像度のものそもそもAIではまともに生成できないとおもう、

理論上はできても電気サーバー代など数ヶ月単位必要なのでかなり高額になるだろう

ただ量子コンピューターができたら油絵の具3Dプリンター贋作とかはできるかもだな

それはそれでおもしろい フレスコ天井画を上向かないでつくれるわけだから

結局だれがいつ著作たか身元を明らかにするルールづくりはどこでも必須になるとおもう

そんで油絵だってデジ絵だってサインはいれようねっつう話

ブロックチェーンサイン馬鹿をいうなwあれはあれ自体が生成物であり著作物だろ

2024-11-29

アナログデッサン油絵もありとあらゆる絵が生成AIで作られてしまってるんですよ!

みたいなのがXで流れてきたけど、最近アナログ絵でコンテストに出品しようとしてる身としては、基本的アナログ絵ってデジタル空間戦場ではないような…?

ゴッホ現物高値取引されるのであって、印刷物を高額に設定しても「でも本物ではない」になるのがアナログの強みだと思うんだけどなぁ。

2024-10-26

真珠の耳飾りの少女」と元鈴木さんとRosalind

鈴木さん@Motosuzukisan

東京地方では文化資本が違うというのは別に美術館が沢山あるって話だけじゃないんだよね。

例えば美術館真珠の耳飾りの少女を見て真珠に興味が湧いたら、そのあと何ができるかに差が出てくるのよ。

東京だとミキモトにタサキ百貨店個人宝飾店に御徒町電車で安くすぐに行ける。ハイブランドからモールビジネス問屋街、全部の中から自分の行きやすいお店を選んで行くのもできるし、1日で全部見ることもできる。選択肢があるし目の前のリアルものに触れられるんだよ。

でも地平線まで田んぼな私の田舎では、個人の宝飾店にアコヤか淡水があれば良いって感じ。ハイブランド見たいなら地元なら質屋しかないし、片道1時間かけて地方都市に行ってミキモトがあれば御の字です。切符代も惜しかったらネットで見て学ぶしかないわけよね。リアルな学びを得るのが難しかったのよ。

経験上、線の上で滑らかに情報やモノに触れられるのは間違いなく東京だった。

ちなみに「フェルメール見て油絵やりたくなった!」と思っても同じような選択肢問題が出てきます。ハッキリ見えない選択肢に差がありすぎるのを私も大学生になってから知ったのでした。

https://x.com/Motosuzukisan/status/1845493760689680499

Rosalind@idiomsinaction

大のフェルメール好きを自認してるけど、真珠の耳飾りの少女を鑑賞して、じゃあ次はミキモトに行こうって発想が1ミリも無かったから新鮮な感想でびっくりした。

私もまだまだ人生修行が足りないな💦

https://x.com/idiomsinaction/status/1849386254166548755

鈴木さん@Motosuzukisan

なんであんな大粒の真珠を描いたんだ!?ってなったら、当時の真珠はみんな天然で…貝は何で…日本は御木本のアコヤ養殖が…養殖技術向上で価値が…ってみんな調べて見にいくもんだと思ってましたが、皆様そんな興味ないし私がオタクなだけでした😂

Rosalind@idiomsinaction

その調べる行動は素晴らしいと思いますが、それを調べる事は図書館美術書でも出来ますよね。ミキモトが近くにあるかどうかは文化資本とぜんぜん関係無いと思いますミキモト17世紀ネーデルラント真珠養殖についての資料があるなら別ですが。ただ絵の鑑賞に正解は無いので元鈴木さんの視点否定するわけではありません。

ただあまりにも自分と違う鑑賞方法だったので驚いただけです。

美術鑑賞に新たなら視点提示していただきありがとうございました。

鈴木さん@Motosuzukisan

私は予算の少ない地域で育ちましたが、図書館の蔵書も予算がないせいか限られていましたし親の手助けなしで行ける本屋も小さな1店舗しかありませんでした。欲しい本は買う前提で取り寄せしかありません。本を選ぶ選択肢から違うのです。

仰るように本が文化資本であるなら、単純に蔵書数で私の地元文化資本が少ないと言えるかもしれませんね。

そしてだいたいどんなブランドでも東京本店があるせいか優秀な販売員の方が多い印象です。商品知識だけでなく関連する歴史についても造詣が深い方もいらっしゃるのでお話ししていて学びがありますよ。(御木本は西洋アンティークも扱っていたので特にです)

真珠ブランド名が並ぶと皆様拒否反応を示される傾向がどうやらありましたが、単純に絵画物語に出てくる物を実際のお店に見に行ってみるのは楽しいですよ!😉

Rosalind@idiomsinaction

なぜ絵画鑑賞をしてハイジエリー店員さんと話すと為になるのか私は理解できないのですが、元鈴木さんなりの鑑賞方法なのですね!

一昨年「フェルメール17世紀オランダ絵画展」にて背景が塗りつぶされていた作品を新たに修復した『窓辺で手紙をみる女』を鑑賞したのですが、数年前にドレスデンで鑑賞した時とは額縁が違っているような気がして、その場にいた学芸員さんに質問したところ額縁が以前の物と変わっていると正しい答えを教えていただきました。

絵画周りの知識を深めたいなら、店員さんより資格のある学芸員さんの方が良く無ですか?

と私は思うのですが、これは私の鑑賞方法なので、鈴木さんは鈴木さんの思う絵画鑑賞をされればいいと思います

あと情報格差や図書館蔵書ですが、今はネット上でいくらでも情報が得られますし、それこそどうしても読みたい美術書自分で購入して取り寄せる事もできますよね。それをしないのは、その文化にそこまで情熱が無いだけだと思います

鈴木さん@Motosuzukisan

しか絵画芸術なら学芸員さんに伺えば良いと思います

しかし私は絵画から真珠自体に興味が移ったら…という話をしていたので、その絵画自体理解を深めたいと言う話をしていません。やはり我々の興味は別の場所にあるのでしょうね😉

ちなみにその場合社員である販売員美術館で言う学芸員に当たると言えるでしょう。

Amazonで今は何でも取り寄せられますが、それは商品を買う前提なんですよね。

実物を開いて比較検討をすることができるのは体験としての差であると私は考えてるので、地元本屋や蔵書の話をしました。

情熱はもちろん大切ですが、根性の話をしだしたらキリがないかと思います

Rosalind@idiomsinaction

フェルメールの絵を観ることと、宝飾屋さんの広告を見ることが同じ視座の人もいるのだと大変勉強になりました!

私の人間理解がまだまだのようです😊

自分視点スノッブで嫌味すぎるのかなと混乱しましたが、美術批評しいては文学批評も鑑賞者が創作物にふれて己の内面を外在化する事で作品が完成すると言う基本に立ち帰れました!

鈴木さんがパワフルにアイディアを即実行商品化できる一端に触れられた気がします。憧れって大事ですよね✨

2024-10-25

anond:20241025132351

なんでこれ最後の「フェルメール見て油絵描こうと思ったらすぐ絵画教室に行けるのも東京文化資本」の方で例えなかったんだろ

絵画教室田舎にも割とあるからか?

2024-10-01

最後にうれしいことを思いついた。美禰子は与次郎に金を貸すと言った。けれども与次郎には渡さないと言った。じっさい与次郎金銭のうえにおいては、信用しにくい男かもしれない。しかしその意味で美禰子が渡さないのか、どうだか疑わしい。もしその意味でないとすると、自分にははなはだたのもしいことになる。ただ金を貸してくれるだけでも十分の好意である自分に会って手渡しにしたいというのは――三四郎はここまで己惚れてみたが、たちまち、 「やっぱり愚弄じゃないか」と考えだして、急に赤くなった。もし、ある人があって、その女はなんのために君を愚弄するのかと聞いたら、三四郎はおそらく答ええなかったろう。しいて考えてみろと言われたら、三四郎は愚弄そのものに興味をもっている女だからとまでは答えたかもしれない。自分の己惚れを罰するためとはまったく考ええなかったに違いない。――三四郎は美禰子のために己惚れしめられたんだと信じている。  翌日はさいわい教師が二人欠席して、昼からの授業が休みになった。下宿へ帰るのもめんどうだから、途中で一品料理の腹をこしらえて、美禰子の家へ行った。前を通ったことはなんべんでもある。けれどもはいるのははじめてである。瓦葺の門の柱に里見恭助という標札が出ている。三四郎はここを通るたびに、里見恭助という人はどんな男だろうと思う。まだ会ったことがない。門は締まっている。潜りからはいると玄関までの距離は存外短かい長方形御影石が飛び飛びに敷いてある。玄関は細いきれいな格子でたてきってある。ベルを押す。取次ぎの下女に、「美禰子さんはお宅ですか」と言った時、三四郎自分ながら気恥ずかしいような妙な心持ちがした。ひとの玄関で、妙齢の女の在否を尋ねたことはまだない。はなはだ尋ねにくい気がする。下女のほうは案外まじめであるしかもうやうやしい。いったん奥へはいって、また出て来て、丁寧にお辞儀をして、どうぞと言うからついて上がると応接間へ通した。重い窓掛けの掛かっている西洋である。少し暗い。  下女はまた、「しばらく、どうか……」と挨拶して出て行った。三四郎は静かな部屋の中に席を占めた。正面に壁を切り抜いた小さい暖炉がある。その上が横に長い鏡になっていて前に蝋燭立が二本ある。三四郎は左右の蝋燭立のまん中に自分の顔を写して見て、またすわった。  すると奥の方でバイオリンの音がした。それがどこからか、風が持って来て捨てて行ったように、すぐ消えてしまった。三四郎は惜しい気がする。厚く張った椅子の背によりかかって、もう少しやればいいがと思って耳を澄ましていたが、音はそれぎりでやんだ。約一分もたつうちに、三四郎バイオリンの事を忘れた。向こうにある鏡と蝋燭立をながめている。妙に西洋のにおいがする。それからカソリック連想がある。なぜカソリックだか三四郎にもわからない。その時バイオリンがまた鳴った。今度は高い音と低い音が二、三度急に続いて響いた。それでぱったり消えてしまった。三四郎はまったく西洋音楽を知らない。しかし今の音は、けっして、まとまったものの一部分をひいたとは受け取れない。ただ鳴らしただけである。その無作法にただ鳴らしたところが三四郎情緒によく合った。不意に天から二、三粒落ちて来た、でたらめの雹のようである。  三四郎がなかば感覚を失った目を鏡の中に移すと、鏡の中に美禰子がいつのまにか立っている。下女がたてたと思った戸があいている。戸のうしろにかけてある幕を片手で押し分けた美禰子の胸から上が明らかに写っている。美禰子は鏡の中で三四郎を見た。三四郎は鏡の中の美禰子を見た。美禰子はにこりと笑った。 「いらっしゃい」  女の声はうしろで聞こえた。三四郎は振り向かなければならなかった。女と男はじかに顔を見合わせた。その時女は廂の広い髪をちょっと前に動かして礼をした。礼をするにはおよばないくらいに親しい態度であった。男のほうはかえって椅子から腰を浮かして頭を下げた。女は知らぬふうをして、向こうへ回って、鏡を背に、三四郎の正面に腰をおろした。 「とうとういらしった」  同じような親しい調子である三四郎にはこの一言が非常にうれしく聞こえた。女は光る絹を着ている。さっきからだいぶ待たしたところをもってみると、応接間へ出るためにわざわざきれいなのに着換えたのかもしれない。それで端然とすわっている。目と口に笑を帯びて無言のまま三四郎を見守った姿に、男はむしろ甘い苦しみを感じた。じっとして見らるるに堪えない心の起こったのは、そのくせ女の腰をおろすやいなやである三四郎はすぐ口を開いた。ほとんど発作に近い。 「佐々木が」 「佐々木さんが、あなたの所へいらしったでしょう」と言って例の白い歯を現わした。女のうしろにはさきの蝋燭立がマントルピースの左右に並んでいる。金で細工をした妙な形の台である。これを蝋燭立と見たのは三四郎の臆断で、じつはなんだかわからない。この不可思議蝋燭立のうしろに明らかな鏡がある。光線は厚い窓掛けにさえぎられて、十分にはいらない。そのうえ天気は曇っている。三四郎はこのあいだに美禰子の白い歯を見た。 「佐々木が来ました」 「なんと言っていらっしゃいました」 「ぼくにあなたの所へ行けと言って来ました」 「そうでしょう。――それでいらしったの」とわざわざ聞いた。 「ええ」と言って少し躊躇した。あとから「まあ、そうです」と答えた。女はまったく歯を隠した。静かに席を立って、窓の所へ行って、外面をながめだした。 「曇りましたね。寒いでしょう、戸外は」 「いいえ、存外暖かい。風はまるでありません」 「そう」と言いながら席へ帰って来た。 「じつは佐々木が金を……」と三四郎から言いだした。 「わかってるの」と中途でとめた。三四郎も黙った。すると 「どうしておなくしになったの」と聞いた。 「馬券を買ったのです」  女は「まあ」と言った。まあと言ったわりに顔は驚いていない。かえって笑っている。すこしたって、「悪いかたね」とつけ加えた。三四郎は答えずにいた。 「馬券であてるのは、人の心をあてるよりむずかしいじゃありませんか。あなた索引のついている人の心さえあててみようとなさらないのん気なかただのに」 「ぼくが馬券を買ったんじゃありません」 「あら。だれが買ったの」 「佐々木が買ったのです」  女は急に笑いだした。三四郎おかしくなった。 「じゃ、あなたお金がお入用じゃなかったのね。ばかばかしい」 「いることはぼくがいるのです」 「ほんとうに?」 「ほんとうに」 「だってそれじゃおかしいわね」 「だから借りなくってもいいんです」 「なぜ。おいやなの?」 「いやじゃないが、お兄いさんに黙って、あなたから借りちゃ、好くないからです」 「どういうわけで? でも兄は承知しているんですもの」 「そうですか。じゃ借りてもいい。――しかし借りないでもいい。家へそう言ってやりさえすれば、一週間ぐらいすると来ますから」 「御迷惑なら、しいて……」  美禰子は急に冷淡になった。今までそばにいたものが一町ばかり遠のいた気がする。三四郎は借りておけばよかったと思った。けれども、もうしかたがない。蝋燭立を見てすましている。三四郎自分から進んで、ひとのきげんをとったことのない男である。女も遠ざかったぎり近づいて来ない。しばらくするとまた立ち上がった。窓から戸外をすかして見て、 「降りそうもありませんね」と言う。三四郎も同じ調子で、「降りそうもありません」と答えた。 「降らなければ、私ちょっと出て来ようかしら」と窓の所で立ったまま言う。三四郎は帰ってくれという意味解釈した。光る絹を着換えたのも自分のためではなかった。 「もう帰りましょう」と立ち上がった。美禰子は玄関まで送って来た。沓脱へ降りて、靴をはいていると、上から美禰子が、 「そこまでごいっしょに出ましょう。いいでしょう」と言った。三四郎は靴の紐を結びながら、「ええ、どうでも」と答えた。女はいつのまにか、和土の上へ下りた。下りながら三四郎の耳のそばへ口を持ってきて、「おこっていらっしゃるの」とささやいた。ところへ下女があわてながら、送りに出て来た。  二人は半町ほど無言のまま連れだって来た。そのあい三四郎はしじゅう美禰子の事を考えている。この女はわがままに育ったに違いない。それから家庭にいて、普通女性以上の自由を有して、万事意のごとくふるまうに違いない。こうして、だれの許諾も経ずに、自分といっしょに、往来を歩くのでもわかる。年寄りの親がなくって、若い兄が放任主義から、こうもできるのだろうが、これがいなかであったらさぞ困ることだろう。この女に三輪田のお光さんのような生活を送れと言ったら、どうする気かしらん。東京はいなかと違って、万事があけ放しだからこちらの女は、たいていこうなのかもわからないが、遠くから想像してみると、もう少しは旧式のようでもある。すると与次郎が美禰子をイブセン流と評したのもなるほどと思い当る。ただし俗礼にかかわらないところだけがイブセン流なのか、あるいは腹の底の思想までも、そうなのか。そこはわからない。  そのうち本郷の通りへ出た。いっしょに歩いている二人は、いっしょに歩いていながら、相手がどこへ行くのだか、まったく知らない。今までに横町を三つばかり曲がった。曲がるたびに、二人の足は申し合わせたように無言のまま同じ方角へ曲がった。本郷の通りを四丁目の角へ来る途中で、女が聞いた。 「どこへいらっしゃるの」 「あなたはどこへ行くんです」  二人はちょっと顔を見合わせた。三四郎はしごくまじめである。女はこらえきれずにまた白い歯をあらわした。 「いっしょにいらっしゃい」  二人は四丁目の角を切り通しの方へ折れた。三十間ほど行くと、右側に大きな西洋館がある。美禰子はその前にとまった。帯の間から薄い帳面と、印形を出して、 「お願い」と言った。 「なんですか」 「これでお金を取ってちょうだい」  三四郎は手を出して、帳面を受取った。まん中に小口当座預金通帳とあって、横に里見美禰子殿と書いてある。三四郎帳面と印形を持ったまま、女の顔を見て立った。 「三十円」と女が金高を言った。あたか毎日銀行へ金を取りに行きつけた者に対する口ぶりである。さいわい、三四郎は国にいる時分、こういう帳面を持ってたびたび豊津まで出かけたことがある。すぐ石段を上って、戸をあけて、銀行の中へはいった。帳面と印形を係りの者に渡して、必要金額を受け取って出てみると、美禰子は待っていない。もう切り通しの方へ二十間ばかり歩きだしている。三四郎は急いで追いついた。すぐ受け取ったものを渡そうとして、ポッケットへ手を入れると、美禰子が、 「丹青会の展覧会を御覧になって」と聞いた。 「まだ見ません」 「招待券を二枚もらったんですけれども、つい暇がなかったものからまだ行かずにいたんですが、行ってみましょうか」 「行ってもいいです」 「行きましょう。もうじき閉会になりますから。私、一ぺんは見ておかないと原口さんに済まないのです」 「原口さんが招待券をくれたんですか」 「ええ。あなた原口さんを御存じなの?」 「広田先生の所で一度会いました」 「おもしろいかたでしょう。馬鹿囃子稽古なさるんですって」 「このあいだは鼓をならいたいと言っていました。それから――」 「それから?」 「それからあなた肖像をかくとか言っていました。本当ですか」 「ええ、高等モデルなの」と言った。男はこれより以上に気の利いたことが言えない性質である。それで黙ってしまった。女はなんとか言ってもらいたかったらしい。  三四郎はまた隠袋へ手を入れた。銀行の通帳と印形を出して、女に渡した。金は帳面の間にはさんでおいたはずであるしかるに女が、 「お金は」と言った。見ると、間にはない。三四郎はまたポッケットを探った。中から手ずれのした札をつかみ出した。女は手を出さない。 「預かっておいてちょうだい」と言った。三四郎はいささか迷惑のような気がした。しかしこんな時に争うことを好まぬ男である。そのうえ往来だからなおさら遠慮をした。せっかく握った札をまたもとの所へ収めて、妙な女だと思った。  学生が多く通る。すれ違う時にきっと二人を見る。なかには遠くから目をつけて来る者もある。三四郎は池の端へ出るまでの道をすこぶる長く感じた。それでも電車に乗る気にはならない。二人とものそのそ歩いている。会場へ着いたのはほとんど三時近くである。妙な看板が出ている。丹青会という字も、字の周囲についている図案も、三四郎の目にはことごとく新しい。しか熊本では見ることのできない意味で新しいので、むしろ一種異様の感がある。中はなおさらである三四郎の目にはただ油絵水彩画区別が判然と映ずるくらいのものにすぎない。  それでも好悪はある。買ってもいいと思うのもある。しか巧拙はまったくわからない。したがって鑑別力のないものと、初手からあきらめた三四郎は、いっこう口をあかない。  美禰子がこれはどうですかと言うと、そうですなという。これはおもしろいじゃありませんかと言うと、おもしろそうですなという。まるで張り合いがない。話のできないばかか、こっちを相手にしない偉い男か、どっちかにみえる。ばかとすればてらわないところに愛嬌がある。偉いとすれば、相手にならないところが憎らしい。  長い間外国旅行して歩いた兄妹の絵がたくさんある。双方とも同じ姓で、しかも一つ所に並べてかけてある。美禰子はその一枚の前にとまった。

anond:20241001222935

ベニスでしょう」

 これは三四郎にもわかった。なんだかベニスらしい。ゴンドラにでも乗ってみたい心持ちがする。三四郎高等学校にいる時分ゴンドラという字を覚えた。それからこの字が好きになった。ゴンドラというと、女といっしょに乗らなければすまないような気がする。黙って青い水と、水と左右の高い家と、さかさに映る家の影と、影の中にちらちらする赤い片とをながめていた。すると、

「兄さんのほうがよほどうまいようですね」と美禰子が言った。三四郎にはこの意味が通じなかった。

「兄さんとは……」

「この絵は兄さんのほうでしょう」

「だれの?」

 美禰子は不思議そうな顔をして、三四郎を見た。

だって、あっちのほうが妹さんので、こっちのほうが兄さんのじゃありませんか」

 三四郎は一歩退いて、今通って来た道の片側を振り返って見た。同じように外国景色かいものが幾点となくかかっている。

「違うんですか」

「一人と思っていらしったの」

「ええ」と言って、ぼんやりしている。やがて二人が顔を見合わした。そうして一度に笑いだした。美禰子は、驚いたように、わざと大きな目をして、しかもいちだんと調子を落とした小声になって、

「ずいぶんね」と言いながら、一間ばかり、ずんずん先へ行ってしまった。三四郎は立ちどまったまま、もう一ぺんベニスの掘割りをながめだした。先へ抜けた女は、この時振り返った。三四郎自分の方を見ていない。女は先へ行く足をぴたりと留めた。向こうから三四郎の横顔を熟視していた。

里見さん」

 だしぬけにだれか大きな声で呼んだ者がある。

 美禰子も三四郎も等しく顔を向け直した。事務室と書いた入口を一間ばかり離れて、原口さんが立っている。原口さんのうしろに、少し重なり合って、野々宮さんが立っている。美禰子は呼ばれた原口よりは、原口より遠くの野々宮を見た。見るやいなや、二、三歩あともどりをして三四郎そばへ来た。人に目立たぬくらいに、自分の口を三四郎の耳へ近寄せた。そうして何かささやいた。三四郎には何を言ったのか、少しもわからない。聞き直そうとするうちに、美禰子は二人の方へ引き返していった。もう挨拶をしている。野々宮は三四郎に向かって、

「妙な連と来ましたね」と言った。三四郎が何か答えようとするうちに、美禰子が、

「似合うでしょう」と言った。野々宮さんはなんとも言わなかった。くるりとうしろを向いた。うしろには畳一枚ほどの大きな絵がある。その絵は肖像画である。そうしていちめんに黒い。着物帽子も背景から区別のできないほど光線を受けていないなかに、顔ばかり白い。顔はやせて、頬の肉が落ちている。

「模写ですね」と野々宮さんが原口さんに言った。原口は今しきりに美禰子に何か話している。――もう閉会である来観者もだいぶ減った。開会の初めには毎日事務所へ来ていたが、このごろはめったに顔を出さない。きょうはひさしぶりに、こっちへ用があって、野々宮さんを引っ張って来たところだ。うまく出っくわしたものだ。この会をしまうと、すぐ来年の準備にかからなければならないから、非常に忙しい。いつもは花の時分に開くのだが、来年は少し会員のつごうで早くするつもりだから、ちょうど会を二つ続けて開くと同じことになる。必死勉強をやらなければならない。それまでにぜひ美禰子の肖像をかきあげてしまうつもりである迷惑だろうが大晦日でもかかしてくれ。

「その代りここん所へかけるつもりです」

 原口さんはこの時はじめて、黒い絵の方を向いた。野々宮さんはそのあいだぽかんとして同じ絵をながめていた。

「どうです。ベラスケスは。もっとも模写ですがね。しかもあまり上できではない」と原口がはじめて説明する。野々宮さんはなんにも言う必要がなくなった。

「どなたがお写しになったの」と女が聞いた。

三井です。三井もっとうまいんですがね。この絵はあまり感服できない」と一、二歩さがって見た。「どうも、原画が技巧の極点に達した人のものから、うまくいかいね

 原口は首を曲げた。三四郎原口の首を曲げたところを見ていた。

「もう、みんな見たんですか」と画工が美禰子に聞いた。原口は美禰子にばかり話しかける。

「まだ」

「どうです。もうよして、いっしょに出ちゃ。精養軒でお茶でもあげます。なにわたしは用があるから、どうせちょっと行かなければならない。――会の事でね、マネジャー相談しておきたい事がある。懇意の男だから。――今ちょうどお茶にいい時分です。もう少しするとね、お茶にはおそし晩餐には早し、中途はんぱになる。どうです。いっしょにいらっしゃいな」

 美禰子は三四郎を見た。三四郎はどうでもいい顔をしている。野々宮は立ったまま関係しない。

「せっかく来たものから、みんな見てゆきましょう。ねえ、小川さん」

 三四郎はええと言った。

「じゃ、こうなさい。この奥の別室にね。深見さんの遺画があるから、それだけ見て、帰りに精養軒へいらっしゃい。先へ行って待っていますから

「ありがとう」

「深見さんの水彩は普通の水彩のつもりで見ちゃいけませんよ。どこまでも深見さんの水彩なんだから。実物を見る気にならないで、深見さんの気韻を見る気になっていると、なかなかおもしろいところが出てきます」と注意して、原口は野々宮と出て行った。美禰子は礼を言ってその後影を見送った。二人は振り返らなかった。

 女は歩をめぐらして、別室へはいった。男は一足あとから続いた。光線の乏しい暗い部屋である。細長い壁に一列にかかっている深見先生の遺画を見ると、なるほど原口さんの注意したごとくほとんど水彩ばかりである三四郎が著しく感じたのは、その水彩の色が、どれもこれも薄くて、数が少なくって、対照に乏しくって、日向へでも出さないと引き立たないと思うほど地味にかいてあるという事である。その代り筆がちっとも滞っていない。ほとんど一気呵成に仕上げた趣がある。絵の具の下に鉛筆輪郭が明らかに透いて見えるのでも、洒落な画風がわかる。人間などになると、細くて長くて、まるで殻竿のようである。ここにもベニスが一枚ある。

「これもベニスですね」と女が寄って来た。

「ええ」と言ったが、ベニスで急に思い出した。

「さっき何を言ったんですか」

 女は「さっき?」と聞き返した。

「さっき、ぼくが立って、あっちのベニスを見ている時です」

 女はまたまっ白な歯をあらわした。けれどもなんとも言わない。

「用でなければ聞かなくってもいいです」

「用じゃないのよ」

 三四郎はまだ変な顔をしている。曇った秋の日はもう四時を越した。部屋は薄暗くなってくる。観覧人はきわめて少ない。別室のうちには、ただ男女二人の影があるのみである。女は絵を離れて、三四郎真正面に立った。

「野々宮さん。ね、ね」

「野々宮さん……」

「わかったでしょう」

 美禰子の意味は、大波のくずれるごとく一度に三四郎の胸を浸した。

「野々宮さんを愚弄したのですか」

「なんで?」

 女の語気はまったく無邪気である三四郎は忽然として、あとを言う勇気がなくなった。無言のまま二、三歩動きだした。女はすがるようについて来た。

あなたを愚弄したんじゃないのよ」

 三四郎はまた立ちどまった。三四郎は背の高い男である。上から美禰子を見おろした。

「それでいいです」

「なぜ悪いの?」

「だからいいです」

 女は顔をそむけた。二人とも戸口の方へ歩いて来た。戸口を出る拍子に互いの肩が触れた。男は急に汽車で乗り合わした女を思い出した。美禰子の肉に触れたところが、夢にうずくような心持ちがした。

「ほんとうにいいの?」と美禰子が小さい声で聞いた。向こうから二、三人連の観覧者が来る。

「ともかく出ましょう」と三四郎が言った。下足を受け取って、出ると戸外は雨だ。

「精養軒へ行きますか」

 美禰子は答えなかった。雨のなかをぬれながら、博物館前の広い原のなかに立った。さいわい雨は今降りだしたばかりである。そのうえ激しくはない。女は雨のなかに立って、見回しながら、向こうの森をさした。

「あの木の陰へはいりましょう」

 少し待てばやみそうである。二人は大きな杉の下にはいった。雨を防ぐにはつごうのよくない木である。けれども二人とも動かない。ぬれても立っている。二人とも寒くなった。女が「小川さん」と言う。男は八の字を寄せて、空を見ていた顔を女の方へ向けた。

「悪くって? さっきのこと」

「いいです」

だって」と言いながら、寄って来た。「私、なぜだか、ああしたかったんですもの。野々宮さんに失礼するつもりじゃないんですけれども」

 女は瞳を定めて、三四郎を見た。三四郎はその瞳のなかに言葉よりも深き訴えを認めた。――必竟あなたのためにした事じゃありませんかと、二重瞼の奥で訴えている。三四郎は、もう一ぺん、

「だから、いいです」と答えた。

 雨はだんだん濃くなった。雫の落ちない場所わずしかない。二人はだんだん一つ所へかたまってきた。肩と肩とすれ合うくらいにして立ちすくんでいた。雨の音のなかで、美禰子が、

「さっきのお金をお使いなさい」と言った。

「借りましょう。要るだけ」と答えた。

「みんな、お使いなさい」と言った。

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