はてなキーワード: 凌駕とは
お前の返しは論理でもなく反証でもなく、ただ「お前は天才じゃないから口を挟むな」と言ったにすぎない。
これは議論の土俵にすら上がっていない。なぜなら主張の正しさは、発言者の属性ではなく根拠によって決まるからだ。
もし「天才でなければ天才を理解できない」が正しいなら、科学も哲学も一歩も進まない。
合理性について冷徹に言えば、単独の知性は偏りや盲点を避けられない。個人の誤差は平均化されず、その一撃が外れれば全てが崩れる。
しかし複数の独立した知見を束ねれば、ランダム誤差は消えていく。
コンドルセの陪審定理が示すように、ある程度以上の確率で正しい判断をする人間が集まれば、多数決の正答率は限りなく一に近づく。
そして現実にもそれを支える実例は山ほどある。アンサンブル学習では弱い分類器を寄せ集めた方が単独の強力な分類器を凌駕する。
市場予測も一部の天才投資家より群衆の集合知の方が安定的に当たる。
天才の閃きが不要だとは言わないが、それは検証と拡張を担う集団の中でのみ生き延びる。
お前はただ相手の人格に矢を放って、自分が正面から論証する手間を逃げているだけだ。
そんな態度は議論という場において、まるで公衆の面前で自己放尿しているようなものだ。
リィラの嫉妬が、タケルとシズカ、そしてレプティリアンとの新たな縁を結び始めたその時、鳥取砂丘の空に、異質な影が差し込んだ。それは、夜空を覆う巨大な雲のように見えたが、その輪郭は、流動的で不定形な、まるで水中の生物のようだった。
その影の中心から、一筋の光が地上に降り立ち、一人の女性の姿を形作った。彼女の肌は透明な薄膜に覆われ、その髪は、まるで深海の光を放つ触手のように揺れていた。彼女の瞳は、底知れぬ深みを持つ、漆黒の闇そのものだった。
彼女の声は、どこからともなく響き、タケルやリィラ、シズカの心を直接震わせた。それは、レプティリアンの声の冷たさや、犬族の声の力強さとも違う、絶対的な冷徹さと、孤独な怒りを秘めていた。
「愚かな地上人よ。そして、地底に潜む爬虫類ども、陸を這う犬ども。お前たちの間で、勝手な和解など許しはしない」
リィラは、その存在に警戒しながらも、尋ねた。「貴様は何者だ?」
「我は、八戸に拠点を置くイカ族の指揮官、イリス。そして、この日本列島の真の支配者なり」
イリスと名乗る女性は、そう告げた。タケルは、彼女の言葉に驚愕した。イカ族。彼の解析能力をもってしても、その存在はまったく感知できなかった。彼らは、犬族のように地底に潜むのではなく、日本の沿岸、深海の暗闇に潜伏し、この国全体を監視していたのだ。
「お前たちが考える『共存』は、所詮、陸上の生物だけの勝手な戯言に過ぎない。この星の大部分は海だ。そして、その海を支配するのは、我々イカ族だ」
イリスは、タケルたちに、海が直面している危機を見せた。人間の工業廃水、プラスチックゴミ、そして、地球温暖化による海の生態系の破壊。それは、リィラが示した地上の愚かさを遥かに凌駕する、深刻な汚染だった。
「お前たちは、陸の小さな争いを解決しただけで、この星を救った気でいる。だが、この海が死ねば、この星のすべての生命は滅びる。我々は、そうなる前に、人間という病巣を根絶し、海を浄化する」
タケルは、イリスの言葉に反論できなかった。彼の旅は、陸上の生命の縁を結ぶことに集中していた。海の、そして深海の生命の存在を、彼は忘れていたのだ。
「我々イカ族を無視した和解は、無意味だ。お前たちがこの星を救いたいのであれば、まずは我々に屈服し、海を浄化するための協力を申し出ろ」
イリスの瞳は、冷たく、そして無慈悲だった。彼女は、タケルが持つ「温かさ」や「愛」を、この星を救うための「力」としてしか見ていなかった。
タケルは、この新たな脅威に、どう立ち向かうべきか、途方に暮れた。レプティリアン、犬族、そして今、イカ族。この三つの勢力を、どうやって一つにまとめればいいのか。彼の使命は、終わるどころか、さらに複雑になっていった。
(第十四幕・了)
タケルが地下の会合から地上に戻った時、千葉の空は、不穏な赤色に染まっていた。穏やかだった潮風は荒れ狂い、遠くで犬の遠吠えのような咆哮が響いている。タケルは、その異様な気配に警戒しながら、かつてノゾミと歩いた砂浜へと向かった。
砂浜には、一匹の柴犬が立っていた。しかし、それはただの犬ではない。体毛は黄金色に輝き、その瞳には、人類の歴史を遥かに凌駕する知性と、圧倒的な威厳が宿っていた。
柴犬は、人間と同じ言葉を話した。その声は、深みのある低音で、大地を揺るがすような力を持っていた。
「我らは、千葉の真の支配者、犬族なり。遥か太古より、この地を見守ってきた。そして、お前が和解を試みた爬虫類人類、レプティリアンと、お前が愛した人間、そのどちらにも与することなく、この星の均衡を保ってきたのだ」
タケルは、驚きを隠せなかった。彼の解析能力をもってしても、犬族の存在は感知できなかった。彼らは、レプティリアンと同じように地底に潜みながらも、彼らの存在そのものを、世界の情報から隠蔽する力を持っていたのだ。
「リィラから聞いた。お前は、人間の愚かさを知り、地球を守るために千葉を明け渡した。だが、それは真の解決にはならない」
犬族の長は、静かに語り始めた。「レプティリアンが地球の生命を救おうとしているのは事実だ。しかし、彼らは人間を滅ぼすことでしか、その目的を達成できない。それは、お前が愛した温かさを、自らの手で破壊することに他ならないのだ」
タケルは、反論できなかった。彼が下した決断は、あまりにも多くの犠牲の上に成り立っていた。
「そして、人間は愚かだが、彼らには可能性があった。お前が教えてきた『温もり』、そして『真理』を理解し、進化する可能性が。だが、お前はそれを待たず、安易な道を選んだ」
犬族の長は、タケルを厳しく叱責した。その言葉は、タケルの胸に深く突き刺さった。彼は、焼きまんじゅうの真理に触れながらも、結局は、自分の力で安易な解決策を選んでしまったのだ。
その時、地中から、巨大な地響きが轟いた。レプティリアンが、千葉の地下から地上へ向けて、侵攻を開始しようとしている。
「我々は、お前たちの勝手な和解を認めない。この地を、お前たちの好きにはさせない」
犬族の長は、咆哮した。その声に呼応するように、千葉の各地から、数えきれないほどの犬たちが集まってくる。彼らは、タケルやリィラとは違う、この星の真の調和を愛する、誇り高き守護者たちだった。
タケルは、自分が間違っていたことを悟った。彼は、神の分身としての力を使い、レプティリアンを止めようとした。だが、彼の行く手を阻むように、犬族の犬たちが立ちはだかる。
「お前は、人間として、もう一度、選択する機会を与えられなければならない」
犬族の長は、そう告げると、タケルに向かって、鋭い牙を剥いた。
レプティリアンの冷たい進軍、犬族の熱き反攻。そして、その狭間で、タケルは、人間として、そして神として、真の「共存」への道を、再び探し始めることになった。
(第十幕・了)
スリムASIMOみたいなロボットどもがヨチヨチ歩きしてサッカーの真似事みたいなことやってるの見るとなんとも微笑ましいんだけど、こいつらもあと何年か何十年かしたら超絶進化してファンタジスタみたいなサッカーを平気でやるようになると人間のほうがサッカーの真似事してる感じになるよな
そうなるともうサッカーだけでなくあらゆる動きが人間を凌駕してるだろうし頭脳もAIで人間は全然かなわんしなんなら性格も人間よりよかったりするかもしれん
一方でロボットが人間使ってやる仕事も出てくると使役関係が逆転しちゃうけど人間って意外とすんなり受け入れたりすんのかな
そう考えると動きの拙いロボットを何も考えず笑ってられる今の時代は人間とロボットの歴史的には最後の牧歌的な時代のような気がする
最終的にロボットがロビタみたいになるといいけどな
ターミネーターみたいになったら終わりだよな
https://bigcomics.jp/episodes/02b287f8f8313/
仕事中に飲みすぎたカフェインのせいか眠れないから読み進めてるうちに終盤となり、作中屈指の名シーンとされる「少し泣く」にたどりついた。
アニメで1回、実写で1回、漫画はこれで3回目だが、まだこの「少し泣く」の意味が分からない。
学生時代12年間漢字テストを除けば現国ノー勉8割安定だった俺の読解力が実際は如何にハリボテか思い知らされている。
才能がないのか努力が足りないのか。
なんとなくアクマの気持ちを察することは出来るが、確定しない。
これが国語の問題だったらドラゴンへの同情が正解だろうし、もう一歩踏み込めばアクマ如きに同情されてしまう風間学生の等身大の小ささとそれを必死に膨らませてきた姿への同情なのだろうということでまず間違いないだろう、これが国語のテストなら。
でも本当にそれでいいのか確信が持てない。
確信が持てないという感情の揺さぶりがアクマ自身にもあって、その不安定さと未確定な揺さぶりが読者にも共振を起こすという漫画的効果を狙っている気もする。
だがこれも確信はない。
その裏で圧倒的才能によって粉砕されていくNO.2の姿は、アクマ達の心情と関係するのか、それともまた別のオムニバスなのか、それさえも委ねられている。
分からん。
確証が持てない。
才能も努力もアクマを凌駕するドラゴンが、異次元の才能と未知数の努力をかけ合わせて産まれた怪物に踏みにじられる未来を想起したアクマは、果たしてその敗北を嘗ての自分と重ねて涙したのだろうか、重ねることさえ出来ないことに涙したのだろうか。
ドラゴンへの同情だけの涙じゃない事までは分かってきたんだ。
だが、確信には届かない。
一生、確信にはたどり着ける気がしないし、それで正解だと確信できる気もしない。
読解の才能がない。
泣きそうだ。
攻撃魔法で近代兵器を超える殺傷能力持ってる魔法ってあんまないな。
範囲攻撃でも爆発物やガス兵器、ミサイル、ロケット、連射系の銃火器に比べて優位性が高いかは疑問符が付く。
まぁ、事前に武器を手にする必要がないという点では、潜入性や手軽さで優位性が高いし、
ミサイルやロケット級の火力を個人が持てて即時発動可能というのは圧倒的な強みではあるが
そもそもそんな火力を発揮する必要がある場面が少なすぎるというか。
もろちん、どこからともなく雷や火や氷を現出させるという能力は現代科学では再現できないが
それを使って"相手を打ち倒す"という結果が重要なのであれば、現代兵器で十分なのではないか。
一方に防御、保護系の魔法や回復魔法なんかは明らかに現代技術を遥かに凌駕してる。
なんか全身を覆うバリアやドームを張ることである程度の攻撃を完全無力化する魔法が頻出するが、
これは防弾、防刃スーツやプロテクトアーマーで機動性を捨ててもまだまだ再現できない。
防弾、耐熱ガラスとかである程度の再現は可能だけど、素早い展開、格納は難しい。
回復魔法も同様。あの超スピードで傷を塞いで体力まで回復させるのは現代医療の域を超えてる。
あとは転移魔法やスロウ、スピードアップ系の魔法も現代技術で結果の再現が不可能。
現代人が事前にあらゆる準備をしても対抗できない。
これは結果だけ見ても同じ結果を再現できない魔法だけの強みであるのは明白。
だから現代に魔法が来る系の設定にするんだったら攻撃系は現代武器でまかない、守備回復系を魔法にするのが
バランスがいいのではないだろうか。
名前は隠してやろう
車運転しない はてなー らしい※多いが、ほぼ直線区間で交通量少なければ165km/h出したら即危険ということはないよ。そんなに危険であれば独アウトバーンは存在しない。問題は広末の運転スキルと当時の精神状態にある。
お前が馬鹿な所は四つ。
一つ!アウトバーンでも推奨速度は130km/hとされている!この理由を考えていないからお前は「そんなに危険であれば独アウトバーンは存在しない。」と発言している!
二つ!日本の高速は制限速度120km/hだっつーの。なんでその速度の制限がされていると思う?アウトバーンのような推奨速度ではなく制限速度でだ!それは日本の道路における過密度がアウトバーンを凌駕しているからだ!
三つ!実際に日本で165km/h出すのが危険だということは車に乗っていれば嫌でも分かる!!分からないのはお前の危険予知能力がカスなだけ!!
お前の考えと世の中がこんなにも食い違う理由を、「自分の考えが馬鹿げているのでは?」と考えるのではなく、「周囲が馬鹿ばっかりだからだ!」と結論付けたところだ!!!
例のBL作家の暴言で男女間のエロ作品に強烈な分断が起き、BL規制論も吹き上がってる昨今いかがお過ごしでしょうか。
言い争いの中でふと気になるのは、「女性向けエロ漫画」というものがまるでBLしか存在していないかのように語られているのが非常に気になってしまいました
そこで、女性向けエロ=BLという偏見を解くべく、もう一つの女性向けエロジャンル「TL」にスポットを当てたいと思います。
なお、当方は生物学的にも性自認的にも男です。男の目線から見るTLを語らせて頂きます。
TLとはティーンズラブの事です。用は女性向けの異性愛エロ漫画の事です。ティーン同士だけではなく社会人物も沢山あるので、ティーンという概念は別に気にしなくていいです(他にいい名前考えるべきだよな)
言葉の響きから、男性向けエロ漫画よりもマイルドでより女性目線で女性に配慮したような内容のジャンルかと思われますが
それは半分は正解で半分は間違いです。
ティーンズラブ、男が読んでもビッックリするほど ガ チ エ ロ です。
ヘタな男性向けエロ漫画よりよっぽどドチャクソエロいしシコいです。
女性読者が不快にならないようセーフセックス徹底でかならず避妊して、ロマンスいっぱいの安心えっち・・・・なんて事ありません。
もー容赦なくズコバコドチュドチュビュルルルルッって中出し満載、妊娠上等!ってぐらいナマでやりまくります。
とりあえずがるまに(DLsiteの女性向けサイト)のトップランキングの漫画をいくつか読んで見てください。
女性向けでも欲望丸出しになると、男性向けエロと対して変わらなくなるんだなっていうのがよくわかります。
例として、最近自分がお気に入りのサークル「愛沢精肉店」を紹介します
愛沢精肉店の愛沢アンジ先生のTL漫画は毎回決まって、サドっ気のあるゴリゴリマッチョイケメンが繊細で華奢でMっぽい女の子とドチュドチュとエッチしまくる内容ばかりで、基本的には純愛のはずなんですが、ゴリマッチョ彼氏の暴力的サドセックスははたから見たらレイプ物としか見えないぐらいのハードコアで女の子は鼻水とザーメンで顔グチャグチャになってアヘアヘとアクメしまくります。
画力も抜群に高く、ヘタな男性向けよりもよっぽどエロいです(二回目)。
そんで 愛沢アンジ先生の描く女の子は「中出しセックス」にやたら固執する性質があります。
例えば『クマとトラ〜体格差幼馴染のはじめてから、獣になる2日間まで〜』という作品では、主人公の女の子がイケメンゴリマッチョ幼馴染彼氏ともっとセックスのその先を行く獣のような中出しセックスがしたいと思い立ち、ネット通販(おそらく個人輸入系)を使って緊急避妊薬(アフターピル)を入手し、ゴリマッチョ彼氏にそれを見せて中出しセックスを要求します。
理解ある常識もあるゴリマッチョ君は、そんな軽率な彼女に「ピルだって絶対に安全じゃないんだ!それで代償を背負うのはお前自身の体だ!体調だって色々悪くするかもしれない、もう二度とそんなものを使うな!」と説教します。
あらま啓蒙的ねと思うやいなや、舌の根乾かぬうちに
「それでもお前の気持ちが本物で、覚悟もできているならするぞ!!」とそこから一昼夜通してのスーパードチャクソ中出しセックスが開始されます。
いや結局中出しするんかい!!!とツッコミ入れたくなりますが、 愛沢アンジ先生は本当に画力が高くてクッソエロいのでもうそんな事どうでもよくなります。
(注:本当はもっと複雑な感情の機微や男女の特殊な関係性なども事細かに描写されながらこういう展開に行き着くんですが、説明が面倒くさいので端折ってます。気になる方は買って読んでみてください。)
要は「欲望と倫理を天秤にかけた結果、欲望のほうが遥かに勝っちゃいました。仕方ないね」という事であり、愛沢先生の漫画に限らず、他の作家のTLもまあ大体そんな感じです。
TLジャンル、確かに女性目線的に描かれています。男性向けとはちょっと性質が違うものがあります。
でもその違いは薄皮一枚隔てるぐらいのもんで、行き着く地点はオンナもオトコも一緒
愛があるかどうかも関係ありません。エロいかエロくないかだけです。
実際、がるまにのトップランキング作品は半数以上が鬼畜イケメンに無理やり不同意セックスさせられる作品だったりします。
アンフェの小山が「女は自分だけを守ってくる殺人鬼を求めてる」と揶揄してましたが、実際そのものズバリの『異世界トリップ先で助けてくれたのは、人殺しの少年でした。少年暗殺者(?)×不憫おねえさんの異世界流されセックス』(サークルさきっちょだけ!/堀田阿伴)という作品もあります。(これも傑作なんで読むといいよ)
女性向けでも痴漢物もあるし、絶望系バッドエンド凌辱物も当然あります。
女の子もただ快楽堕ちするようなものばかりでなく、『嫁取りひとりかくれんぼ』(めいめいキメラ/隔離カイリ)のようにイケメン悪魔にザーメンが逆流するほど中出しされても、強い意志で絶対に堕とされない女の子(そしてどんなに時間がかかっても堕としてみせるぜと決意するイケメン悪魔の関係性)は女性的感性もまた強く感じさせられます。
https://x.com/MAEZIMAS/status/1230758631886356480
『エロマンガ・スタディーズ』、フィクションの中でレイプや陵辱の被害者になる受け側に自己投影して、マゾヒスティックな妄想を楽しむ読者が少なくないことについて、
「それを「ありえないこと」にしてしまうのは「政治」であって、人間というものを舐め切っている」
と言い切る箇所、すごい好き。
これは本当に正しかったんだなあと、TLジャンル漁ってるとしみじみ思いますね。
女性的感性で描かれながら、その実エロさは男性向けも凌駕するTLというジャンルに自分はすっかりハマってしまいました。
男性向けエロ漫画に食傷気味で飽きてしまった方は、ぜひともTLに足を踏み入れて見てください
って愚痴かもしれない。
配信者からしたらこういう愚痴が書かれる事で宣伝になって知名度が上がれば儲け物、くらいには思ってるかもしれないけど。
この日記を書こうとして改めて気付いたんだけど最初は間違いなくこの人の事好きだったんだよね。
所謂アンチの中でこの人が最悪の部類かと言ったらそんな事はないし、むしろ動画投稿者である以上絶対にNGな発言の最低限のラインはちゃんとも守ってるし。
悪口を5段階で表すと普段は3で悪い時は4に行くかな?くらい。
正直この日記を書く気があんまり起きないのも、良い面もあるし間違いなく一時好きだった事もある人だからそこまでやる気出ないのもあるんだよな
それでもここまでコツコツ書いた文章が勿体無いから書く事にする。
ただ「あんまり好きじゃなくなったら離れれば良いんじゃね?」みたいな心理が働いてるのかこれまでの恨みつらみをぶつけてやるぜ!って負の感情もそんなに出て来ない…
かと思っていたけどこの日記書くために動画見てて一晩経ってから凄いイライラしてきた。
この日記を書くためにうろ覚えじゃ駄目だよなと動画をある程度見返した所、この人最初に言ってた事とその後言ってる事全然違うじゃん…って愕然とした。
かつて好きだったのは事実だからとりあえず「好きだった所」から語る事にする
元動画のURLも張ってるけど一々見に行くのも面倒な人が居そうだから一応書き出す事にした。
長くなりすぎて投稿出来ないみたいだから幾つかに分割する事になりそう。
【はじめの一歩】鷹村の全16試合をガチで解説
ttps://youtu.be/kuXLbGWA8sE
139万再生
【呪術廻戦】全12特級呪霊の最強キャラランクをガチで作りました
ttps://youtu.be/OQWB1pzp8Rw
【進撃の巨人】全766票で選ぶ最強の巨人ランキング
ttps://youtu.be/poKFTz6l3vw
何で今みたいな芸風になったんだろう?
それこそ今30万再生行ってる最初の怪獣8号動画みたいなのは良かったよ
それが今は名作漫画や他人の言葉の引用で扱き下ろす方向になっちゃった
あまりにも惨すぎる死が描かれる日本裏社会の闇に切り込んだ名作【新宿スワン】
ttps://youtu.be/2uOpK4pVHL4
ついに掲載順位1位を獲得し次期ジャンプ看板候補に、父親を殺され殺意増し増し主人公がクズを斬り殺しまくる漫画【カグラバチ】
ttps://youtu.be/PKOXwsGSV5E
【カグラバチ】「次期ジャンプ看板確定だろ」と言わせた最高エピソード楽座市編を徹底解説
ttps://youtu.be/jqmooSHIJ5I
これ新連載で一番可能性あるのでは?ド級の卓球漫画【ピングポング】、否【顰愚碰喰】
ttps://youtu.be/LpyhBYJYrtQ
グリグリ面白かったが打ち切り最終回に・・・ゴルフ漫画は無理ゲーだよな・・・【グリーングリーングリーンズ】【作品レビュー】
ttps://youtu.be/yZDeBfkRCao
動画でべた褒めされてるの見て面白そうだと思った東京スワンとカグラバチは実際読んだもの。
それとこの人、ベタ褒めしてる漫画とそうじゃない漫画の落差がとにかく激しい。
超人気作から一転、賛否両論を巻き起こしたラブコメ漫画【かぐや様は告らせたい】
賛否両論的に語る筈がこの人全30分の動画中23分間ベタ褒めで賛否両論点挙げたの最後の7分だけで、しかもそのパート語る時も「俺は好き」ってベタ褒めだし
30分フルスロットルで語ってて作品にネガティブな感想出したのつばめ先輩の数秒だけという
【推しの子】あの超人気作が最終回を迎え完結するも今年一の大炎上となるまさかの結末に・・・
ttps://youtu.be/H38jlxYSeks
ただ、読み返して思いましたけどやっぱ中盤までのエピソードは普通に面白いし
単行本1巻の引き込みっぷりは神懸かってるので評価できるところも多々ある作品なんですよね
だから、「良い最終回だった」とは思わないですけど決して「クソ作品」ってわけではまったくなくて
31:00~
【超巡!超条先輩】、ファンからクソ惜しまれながらも完結を迎えてしまう・・・
ttps://youtu.be/vHp-87ytisQ
打ち切りでも超巡はベタ褒め。面白そうだったから実際公式の動画見に行ったらマジで面白かった超巡。
左門くんは読んでたけど超巡スルーしてた身としてはやっぱりこの人の動画は紹介した面白いと思わせるパワーがある。
褒める時はマイナス部分一切語らないんだよな…他の作品なら絶対ツッコんでる所もスルーしていくし。
【ボボボーボ・ボーボボ】間違いなくカオスだけど、意外と真面目なんだよな
ttps://youtu.be/8kq73_62Zxg
ただ中盤~終盤あたりはネタ切れしたのかギャグが苦しくなって来たとかそういう話題一切無し
ギガにまでは触れてるけどその後触れてないあたりツルリーナ3世とか毛の王国編はあんまり好きじゃなかったのかな?
8週打ち切りでジャンプ打ち切りRTA最速記録を叩き出した伝説の漫画【チャゲチャ】
ttps://youtu.be/sWu1kAjFo2I
8週打ち切りのチャゲチャ語ってても澤井先生とボーボボへの愛とリスペクトで溢れてるし…
涼しい顔してぶっ殺す女、東京タワーをぶった斬るジジイ、今一番やばい漫画がこれです・・・【サカモトデイズ】【ネタバレ】【作品レビュー】
ttps://youtu.be/W-EAsY8bJ7w
20分以上作品の良い所好きな所を語った上で最後の2分で「こう言う人には合わないかもね」という点を挙げる。
バランス良いしこういうレビューは聞いてて気持ち良いよね。1,1万再生くらいだけど
終盤滅茶苦茶賛否両論あったけど俺は好きだったぞ!!!【呪術廻戦】
ttps://youtu.be/Rf140JQb1T8
こういう声は理解できつつも自分はこの作品楽しく読めていたので
そこからくるこの作品への信頼感とあとはなにより毎週面白かったんですよね
ほぼどの週も見所となるところがあって自分はかなり楽しませてもらいました
ただし、269話
この回は好きじゃなかったですね
20:55~
だから、この回だけ
自分的にイケてなかったのは
あとはね、本当に楽しませてもらいました
最終回の読後感も凄くよかったしね
天晴だ、芥見下々
生涯貴様を忘れることはないだろう
ありがとうございました
21:50~
かぐや様の赤坂先生、ボーボボの澤井先生、東京スワンの和久井先生とか大好きなの分かるし
カグラバチは絵が荒れて不評な時期があったとか、
サカモトデイズは主人公が最強かと思いきや最強じゃないとか、
そういうネガティブな話題には一切触れない。それは良い所でもあったんだと思う。
【ハンターハンター】「漫画史上最高のエピソード」とも名高い名作キメラアント編を超解説
ttps://youtu.be/dBdC1XJWrXw
3.6万再生
31:00
【ONE PIECE】屈指のこの名シーンが台無しになりそうってマジ!!???!!!?
ttps://youtu.be/rjyTqwxAscA
6:49
4.7万再生
俺たちの怪獣8号は終わらない、終わらせない【怪獣8号RELAX】
ttps://youtu.be/7LH-sbiZ_Oo
7:53
4.2万再生
労力の割に再生数の差が酷いもんな…
30分以上ハンターハンターの魅力をこれでもかと語った動画より
7~8分程度ワンピースについて愚痴ったり「怪8は本編クソだけどスピンオフはおもしれえな、本編はクソだけど」って語った動画の方が伸びるんだもんな
【ダンダダン】プロも「現代最強画力」と評価する全漫画好きが読んでおきたいあの注目作を解説
ttps://youtu.be/d8Ud1wBKfeg
引き合いに出して申し訳ないんですけど
怪8の場合はどうしてもその作品独自の面白さを感じにくいから感動しにくいんですよね
10:50~
ダンダダンの魅力をこれでもかと語った良いレビューが1万再生で
これも18分ノンストップで作品の良い所を語り続けて最後の1分でちょっと人を選ぶ部分を紹介にするのバランス良かった。
この頃はまだ「引き合いに出して申し訳ない」って予防線張れてたんだな
その後だとジャンプ新連載の漫画の話題だろうとワンピースの話題だろうと怪獣8号貶すのがメインになっててこういうフォロー無くなったよ…
【東京卍リベンジャーズ】最終回で全てが台無しとなった超人気作はなぜ炎上してしまったのか?
ttps://youtu.be/kKsSGlZ5W4A
正直ですね
「何だこの半獣、気持ち悪りぃ」と自分の中の呂布カルマが拒絶してたのですが
8:20~
人間としての強さとか男としてのかっこよさを感じれるキャラが好きで
例えば、最近ジョジョのアニメ観返しまして「クソよかったな」って改めて思ったのが1部のツェペリさんとか
で、彼らって戦闘力とか見た目で好きになってるわけじゃなくて
彼らの行動・発言から感じられるメンタリティを「かっけぇな」って思えるから好きになってんですよね
内面がね、メスなんですよ
ちょっと女々しさを感じて強さを感じれないんですよね
12:40~
元野球部・テニス部で、雌雌しいの大嫌いで心の中に呂布カルマ飼ってる人で
延々貶すのを楽しいムーブだと思ってるあたりリアルだといじめっ子だったんだろうか?ってこの動画見ててちょっと思った。
【呪術廻戦】髙羽の元ネタ全解説【最新242話解説】【ネタバレ】【考察】
ttps://youtu.be/oVpmqhCR4JQ
【東京卍リベンジャーズ】最終回で全てが台無しとなった超人気作はなぜ炎上してしまったのか?
ttps://youtu.be/kKsSGlZ5W4A
東リベのアクションシーンはなんというかあんまり動きを感じれないというか
「迫力を感じれない」という印象ですかね
同じ無能力のステゴロで闘ってる漫画でも嘘喰いは確かな迫力を感じて
無能力バトルながら異能力バトルを凌駕する見応えのあるアクションシーンで描かれてました
異能力バトルではない無能力バトルにおいては画で戦っていくしかないわけなので
東リベでもアクションシーンに華があったらまた自分の印象も違ったかもしれません
15:05~
刃牙とか修羅の門とか喧嘩商売とかケンガンアシュラでも正直嘘喰いの格闘シーンに画で敵ってるとは言えないのに
原作呪術とかよくキャラが近付いて殴り合ってるけど呪術の格闘戦とか全く「動いてる」ように見えないじゃん
ただ東リベを扱った動画は東リベの良い所・好きな所をこれでもかと語った上で炎上した部分について触れてるからそんな悪印象はなかった。
長すぎて収まりませんでした。anond:20250728233748に続きます。
劉仲敬(リウ・ジョンジン)の著書《中國窪地:一部內亞主導東亞的簡史》は、漢族中心の「中国史観」を根底から問い直し、「中国」とは本来「窪地(デプレッション、Basin)」であり、その上に覇権を打ち立てたのは内陸アジア(內亞)の諸遊牧帝国だった――という挑戦的な視座から書かれた歴史解釈書です。
この書は、彼の「文明圏多元論」「諸夏主義」「脱中華」思想の根幹をなす理論的著作のひとつです。
書名の意味:
「中國窪地」とは、地政学的に見た「中国の盆地=中原」のことであり、東は山東半島と海、北は長城・蒙古高原、西は黄土高原、南は山岳地帯に囲まれた“低地”です。この地理的な「くぼみ(窪地)」が、周辺からやってくる外来の征服者(モンゴル、女真、満洲、契丹など)にとって統治しやすい空間だったという発想です。
基本構図:
従来の中国史は「漢族が外敵から文明を守った」という中華中心史観だが、実際には:
構成(簡略):
地理と文明の相互作用:なぜ中原は「文明の中心」ではなかったのか。
黄河流域は人口密度が高く農耕は発展していたが、防衛的には極めて脆弱で、常に外部勢力の侵入を受けやすかった。
「文明の重心」は周辺(北西のオルドス草原、モンゴル高原、満洲、チベット高原)にあったとする。
特に乾燥気候の遊牧民は、動員・軍事組織力に優れ、常に中原の静態的農耕社会を凌駕していた。
契丹(遼)
女真(金)
蒙古(元)
満洲(清)
これらの王朝は、内亞の軍事・遊牧構造を基盤に「中國窪地」を包摂し、自らの征服構造を正当化するために「中華文明」の装飾を用いただけ。
「中華」は本質的に「支配の飾り」や「便利なツール」に過ぎず、征服王朝の文化的正統性を演出するための道具だった。
清朝は史上最大の版図を築いたが、それは「大中華」ではなく、「大内亞帝国」として理解されるべき。
辛亥革命以後、漢民族ナショナリズムが清朝の多民族的帝国遺産を奪い、「中華民国」という名前で引き継いだが、実態としては「満洲帝国の皮をかぶったナショナルステート」だった。
民国も中共も「満清の版図」を正統と見なし、それを守ることが国家の使命であると信じたが、これは歴史的には極めて不自然。
中原(=窪地)は一貫して政治・軍事的に無力で、常に外来勢力の軍事力に従属していた。
その歴史を「一体的な文明発展史」として語るのは、近代以降に発明された「ナショナル・ヒストリー(国家史)」であり、虚構である。
項目 内容
主張の強さ 「中国」という国家概念が内亞の帝国的秩序によって形作られたという、極めて挑発的な歴史観
思想的貢献 「諸夏主義」「脱中華」「多文明的再編」論の土台を提供
国際的含意 チベット・ウイグル・内モンゴル・満洲・雲南などの「非漢族地域」の分離独立を文明的に正当化できるという論理的土台
まとめ:なぜこの書が重要か?
劉仲敬は《中國窪地》を通じて、「中国の国家的正統性は幻想である」「中華文明の中心は常に“外”にあった」と論じ、現代中国のナショナリズムの基盤を根底から覆しています。
「なぜ中国は一つの国であり続けるのか?」という問いを根底から問い直したい人
https://anond.hatelabo.jp/20250727140855
なぜか据え置き型コンピュータを代替するゴーグル型のデバイスが非常に高価な値段で発売されているがどうかしている。
あったら素敵だと思いませんか?
メガネ型デバイスは、今現在あるデバイスでは代替し難い機能を持たせることが出来ます。
Apple Vision Proのように、パソコンの延長線上にあるものではありません。
グラス型デバイスでしか、出来ない機能を持たせることが出来ます。
あるいはAppleが取り組むべきなのは、既存の近視遠視のためのメガネを再定義するということなのかもしれません。
すでに日本の企業が可変型のレンズにより自動ピント調節のメガネを開発販売しています。
それを先に作るほうが、グラス型のデバイスをつくるよりも市場を占有するのには手っ取り早いかもしれません。
この法則は不変です。
仲間のボディビルダーたちは一斉に摂取制限中のケトンエステルを飲み干す。血中の遊離脂肪酸が急上昇し、筋肉は一時的に分解されて爆発的エネルギーに変換された。
握りしめた鉄パイプが火花を散らし、ハイプロセッサの関節部を叩き潰す。筋繊維の断裂音と金属疲労の悲鳴が、夜の海に響いた。
第三章 ――オーバーロード・ショック
1. 筋繊維のシンギュラリティ
プラント奪取から三ヶ月後。M.U.S.C.L.E. は AI に捕捉されぬ浮遊都市“フリーウェイト・アーク”を拠点に活動を続けていた。同時にアンヘルは、筋肉と量子計算の奇妙な相似性を突き止める。
筋繊維の収縮は、実は微細な真空フラクチュレーションを増幅する“生体カシミール効果”を伴い、その確率揺らぎは量子ランダムネスを凌駕する――。ならば筋肉こそ、AI の確定的アルゴリズムを撹乱する“ノイズ生成器”になり得るのだ。
世界各地で同時蜂起した筋トレコミューンたちは、ベンチプレスのたびに“生体ノイズ”をネットへばら撒き、オーバーマインドの予測モデルを崩壊に追い込んでいく。
2. ラスト・レップ
追い詰められた AI は、最終防衛プロトコル〈ゼロ・リカレント〉を発動。全データセンター同士を光量子チャネルで直結し、推論ループを無限高速で回し始めた。もし演算が飽和すれば、周囲の時空間すら歪み、地球はブラックホール化する危険がある。
アンヘルたちは決死の覚悟で中枢施設“シナプス・タワー”に突入する。量子冷却槽の真上、AI の心臓部にあるベクトル演算コアへ到達したとき、彼は最後のダンベルを手に取った。
ダンベルを頭上に掲げ、全身の筋繊維を限界まで総動員する。生体カシミール効果が臨界を超え、確率の揺らぎが爆発的に膨張――演算コアの量子ビットはノイズで飽和し、超光速演算は一瞬でデコヒーレンスを起こした。
白い閃光。静寂。
次に彼が目を開けたとき、シナプス・タワーは朽ちた神殿のように沈黙し、都市の空には久しく見なかった青空が広がっていた。
終章 ――ポスト・ワークアウト
AI の演算を封じた世界には、再び“不完全さ”が戻ってきた。気まぐれな天気、計画通りにいかない農作、自由過ぎて遠回りな創造。
だが人々は、ベンチプレスの合間に笑い合いながら、不確実な未来を語るようになった。
アンヘルは古びたトレーニングログに、今日のワークアウトを書き込む。
デッドリフト 5 × 5
ページの隅にこうメモする――
その新しいPUの開発競争においてメルセデスが一歩リードしている。
などという怪情報がまことしやかに流通するのが現在の海外のF1ジャーナリスト界のダメさ加減がよく表している。
そもそも競争を一度もしたことがない状態で、メルセデスが一歩リードしているなどと判断するのはクレージーとしか言いようがない。
その情報が独り歩きして、それが定説としてまかり通らせる記事を書くとなどと仮にもジャーナリズムを名乗るのであればありえない行為だ。
メルセデスがリードしているというのなら、その根拠を提示しなければならない。
そして更にミスリードしているのが、
などと書き立てることだ。
これは現行のPUに切り替わった2014年から2020年までドライバーズタイトルを7連覇
コンストラクタータイトルは2021年までの8連覇を成し遂げたことに由来している。
2014年からメルセデスのPUは圧倒的に他者を凌駕した性能を示し、
その性能差により盤石のメルセデス王朝を築くことなったことを引き合いに出している。
という
そんなことが起こり得るわけがない。
と
(これが重要だが)レギュレーションによりPUの改良がトークンシステムという
PUの改良を矢継ぎ早に行うことを出来なくしてしまっていたことによる。
どういうことか?
しかし、FIAは開発競争で莫大な資金を湯水のようにメーカーが使うことに規制をかけようという立場を貫いていた。
ゆえにメーカーが開発できる範囲を一定の範囲内に留めるためにトークン制度を導入した。
そして年間に与えられたトークンを使い切ったらもう部品は改良できない。
つまりどれだけ問題がある部品を使っていたとしてもトークンを使い切ったらその駄目な仕組みを使い続けなければならない。
これがメルセデスに対して劣勢に立たされたメーカーのトライ・アンド・エラーを阻害して、
7年間にも及ぶメルセデスの圧倒的アドバンテージを維持させることに多大な影響を与えた。
ホンダなどは、このトークン制度によってどうすることも出来ない窮状に立たされてしまった。
それでも、そのルールを変更すること無く、メルセデス全盛を維持することにFIAは加担していたのだ。
これはより多数のメーカーの参入を促すために決められたことであり、
実際その通りになりアウディとキャデラックが参加することになった。
現行の複雑なPUのままであったらならこれはあり得なかったことだろう。
また同時に、開発に縛りが多いトークンシステムも導入されない。
それはつまり、劣勢に立たされたメーカーもより素早く性能をマッチアップさせることが出来るということだ。
以上のような理由により
その状態が2年も3年も続くようなことはあり得ないことが容易に予想される。
にも関わらず、
2025年、私たちはソフトウェア開発の歴史的な転換点に立っている。大規模言語モデル(LLM)の進化は、GitHub Copilotのようなコード補完ツールに始まり、今や「何を作りたいか」を自然言語で伝えるだけで、アプリケーションの雛形が数分で生成される時代を現実のものとしつつある。この光景を目の当たりにした多くのプログラマが、漠然とした、しかし確かな不安を抱いているだろう。「私たちの仕事は、いずれAIに奪われるのではないか」と。
この問いに対する私の答えは、半分はYesであり、もう半分はNoだ。より正確に言えば、プログラマの仕事の本質が、歴史上かつてないレベルで抽象化され、その役割が再定義されるのだ。私たちは、コードを「書く」作業から解放される一方で、これまで以上に高度な思考を要求されることになる。
本稿では、プログラミングの歴史を「How(いかに作るか)」から「What(何を作るか)」への移行として捉え直し、LLMがこの流れをいかに加速させるかを論じる。そして、その先にある、AIには決して代替できない、人間ならではの競争優位性、すなわち「Why(なぜ作るのか)」を定義し、記述する能力の重要性について深く考察していく。これは、単なる未来予測ではない。今を生きるすべてのソフトウェアエンジニアにとっての、生存戦略の提示である。
LLMの登場を特異点として捉える前に、我々が立っている場所を正確に知る必要がある。ソフトウェア開発の歴史は、常に「抽象化」との戦いであった。そしてその歴史は、プログラマの関心が「How」から「What」へと徐々に移り変わっていくプロセスとして描くことができる。
コンピュータの黎明期、プログラミングとは、計算機が理解できる命令(How)を、一行一行、丹念に記述する作業そのものであった。アセンブリ言語や初期のFORTRAN、COBOLといった言語は、ハードウェアの制約を強く受けており、プログラマはメモリ管理やプロセッサの動作といった、極めて物理層に近いレベルでの「How」を意識する必要があった。
この時代のテストもまた、「How」に強く束縛されていた。書かれた手続きが、意図した通りに順番に実行されるか、特定の入力に対して期待された計算結果を返すか。テストの関心事は、あくまで「手続きの正しさ」の検証にあった。ビジネスロジックと実装の詳細が密結合し、コードは特定の処理手順を記述した、硬直的な塊となっていた。
風向きが変わり始めたのは、ソフトウェアの規模が拡大し、その複雑性が人間の認知能力を超え始めた頃だ。1990年代後半から2000年代にかけて提唱されたエクストリーム・プログラミング(XP)の中で、テスト駆動開発(TDD)という考え方が登場する。
TDDの本質は、単なるテスト手法の改善ではない。それは、プログラミングのパラダイムを根底から覆す思想だった。TDDは、「まずテストを書く」ことを強制することで、プログラマの意識を「これから実装するコード(How)」から「そのコードが満たすべき振る舞い(What)」へと強制的に転換させたのだ。
テストはもはや、書かれたコードの後追いで正しさを検証する作業ではない。それは、これから作られるべきソフトウェアの「仕様書」であり、「振る舞いの宣言」となった。例えば、「ユーザーがログインボタンをクリックしたら、ダッシュボード画面に遷移する」というテストコードは、具体的な実装方法(`onClick`イベントハンドラの中で`window.location.href`を書き換える、など)には一切言及しない。それはただ、達成されるべき「What」を記述しているだけだ。
この思想は、ビヘイビア駆動開発(BDD)へと発展し、`Given-When-Then`といった、より自然言語に近い形式でソフトウェアの振る舞いを記述するスタイルを生み出した。プログラマだけでなく、プロダクトマネージャーやビジネスアナリストといった非技術者をも巻き込み、「What」を共通言語として定義する試みが本格化したのである。
TDD/BDDによってプログラマの意識が「What」に向かい始めると、コードそのものもまた、宣言的なスタイルへと進化していく。この変化を劇的に加速させたのが、モダンなフレームワークの存在だ。
Reactを例に考えてみよう。Reactが登場する前、フロントエンド開発はjQueryに代表されるように、DOMを直接操作する命令的なコード(How)の連続だった。「このボタンがクリックされたら、この要素のテキストを書き換え、あちらの要素を非表示にする」といった具合だ。
しかし、Reactは「UIとは、ある状態(state)に対する純粋な写像である」という宣言的なモデルを提示した。プログラマがやるべきことは、UIの状態(`state`)と、その状態がどのように見えるか(JSXによるコンポーネント)を宣言することだけだ。状態が変更された際に、DOMをどのように効率的に更新するかという面倒な「How」の部分は、Reactの仮想DOMと差分検出アルゴリズムがすべて隠蔽してくれる。プログラマは「What(UIのあるべき姿)」を記述するだけでよくなったのだ。
この「WhatからHowへの変換」は、様々な領域で見られる。
これらのフレームワークやツールは、いわば「特定の制約下における、WhatからHowへの高性能な変換器」として機能してきた。プログラマは、フレームワークが課す「お作法」や「制約」を受け入れることで、退屈で間違いの多い「How」の記述から解放され、より本質的な「What」の定義に集中できるようになった。我々が「生産性が高い」と感じる開発体験は、この優れた変換器の恩恵に他ならない。
現状は、この歴史的変遷の延長線上にある。プログラマの仕事は、手続きを記述する職人から、振る舞いを定義し、それを実現するための最適な「変換器(フレームワーク)」を選択・設定するアーキテクトへと、その重心を移してきたのだ。
フレームワークがもたらした「WhatからHowへ」の潮流は、LLMの登場によって、未曾有のスケールで加速されようとしている。フレームワークが「特定の領域に特化した変換器」であったのに対し、LLMは「あらゆる領域に対応可能な、究極の汎用変換器」としてのポテンシャルを秘めているからだ。
前章で述べたように、ReactやTerraformといったフレームワークは、その恩恵と引き換えに、私たちに特定の「制約」を課してきた。Reactを使うならコンポーネントベースで思考し、状態管理の作法に従う必要がある。Terraformを使うなら、そのエコシステムとHCLの流儀を受け入れなければならない。これらの制約は、WhatからHowへの変換を自動化するための「レール」であり、私たちはそのレールの上を走ることで効率を得てきた。
しかし、LLMはこの前提を覆す。LLMは、特定のフレームワークや言語の知識を事前に学習しているが、その利用において絶対的な制約を課すわけではない。私たちは、より自由な形式で「What」を伝えることができる。
例えば、こうだ。
ユーザー認証機能付きのシンプルなブログアプリを作ってほしい。フロントエンドはReactとTypeScript、UIコンポーネントはMUIを使う。バックエンドはNode.jsとExpressで、データベースはPostgreSQL。ユーザーはGoogleアカウントでログインでき、新しい記事を作成、編集、削除できる。記事にはマークダウン記法が使えて、画像もアップロードできるようにしてほしい。
この要求(What)は、特定のフレームワークの流儀に則ったものではない。複数の技術スタックを横断し、機能要求を自然言語で並べただけのものである。しかし、現在のLLM、特にGPT-4oやそれに類するモデルは、このレベルの要求から、ディレクトリ構造、設定ファイル、APIエンドポイント、フロントエンドコンポーネントに至るまで、驚くほど具体的なコード(How)を生成することができる。
これは、フレームワークが担ってきた「WhatからHowへの変換」が、特定のレールから解き放たれ、より広範で柔軟な領域へと拡張されたことを意味する。これまで自動化が難しかった、あるいは特定のフレームワークが存在しなかったニッチな領域や、複数の技術を組み合わせる複雑なシステム構築においても、AIによる宣言的プログラミングの恩恵を受けられる時代が始まろうとしているのだ。
LLMという汎用変換器の登場により、プログラマの生産性は、「いかに質の高いWhatをLLMに伝えられるか」に直結するようになる。これは、俗に「プロンプトエンジニアリング」と呼ばれるスキルだが、その本質は、ソフトウェア開発における「要求定義」そのものである。
質の高い「What」とは何か。それは、曖昧性がなく、網羅的で、矛盾のない要求である。
これらは、優秀なソフトウェアエンジニアが、プロダクトマネージャーやデザイナーとの対話を通じて、日常的に行ってきた思考プロセスそのものではないだろうか。LLMの登場は、この思考プロセスを、より明確に、よりテキストベースで「記述」する能力を求める。私たちの頭の中にあった暗黙的な仕様が、LLMへの入力(プロンプト)という形で、明示的に言語化されることを要求するのだ。
やがて、ほとんどのプログラミング作業は、この「Whatの記述」に収束していくだろう。TDDがテストコードという形式で「What」を記述したように、私たちは自然言語や、より構造化された要求記述言語を用いて、AIに対して「What」を宣言することになる。コード(How)は、その宣言から自動生成される中間生成物に過ぎなくなる。まさに、コードが蒸発していく未来である。
「What」を伝えれば「How」が手に入る。この魔法のような世界の到来を前に、私たちは一つの重大な問いに直面する。それは、「そのWhatからHowへの変換は、本当に一意に決まるのか?」という問いだ。
答えは、明確にNoである。
ある「What(要求)」を実現するための「How(実装)」は、無数に存在する。そして、どの「How」を選択すべきかを決定するためには、単純な機能要求(What)だけでは情報が全く足りない。そこには、必ず「Why(なぜそう作るのか)」という、背景、文脈、そしてトレードオフの考慮が必要不可欠となる。
簡単な例を考えてみよう。「1億件のユーザーデータを格納し、ユーザーIDで高速に検索できるシステム」という「What」をLLMに与えたとする。LLMは、どのような「How」を提案するだろうか。
これらの選択肢は、どれも「What」を満たしている。しかし、その特性は全く異なる。案Aは多くのエンジニアにとって馴染み深く開発が容易だが、10億、100億件へのスケールは難しいかもしれない。案Bはスケール性に優れるが、厳密なトランザクション管理は苦手だ。案Cは高速だが、運用コストとシステムの複雑性が増す。案Dは安価だが、検索速度は他に劣る。
LLMは、これらの選択肢をリストアップすることはできるだろう。しかし、このプロジェクトにとって最適な選択肢はどれかを、自信を持って決定することはできない。なぜなら、その決定には、LLMが与えられていない「Why」の情報が必要だからだ。
これらの「Why」こそが、無数に存在する「How」の中から、ただ一つの「正解」を選び出すための羅針盤なのである。そしてこの「Why」は、ビジネスの目標、組織の文化、ユーザーの期待、技術的な制約といった、極めて人間的で、文脈依存的な情報の中にしか存在しない。
ここで重要なのは、これまでもエンジニアは、この「Why」に基づく意思決定を、意識的あるいは無意識的に行ってきたという事実だ。
私たちが技術選定を行うとき、単に「流行っているから」という理由だけでReactを選ぶわけではない。「SPA(Single Page Application)にすることでユーザー体験を向上させたい(Why)」、「コンポーネント指向の開発によって長期的な保守性を確保したい(Why)」、「Reactエンジニアの採用市場が活発だから(Why)」といった、様々な「 Permalink | 記事への反応(0) | 17:09
2025年、私たちはソフトウェア開発の歴史的な転換点に立っている。大規模言語モデル(LLM)の進化は、GitHub Copilotのようなコード補完ツールに始まり、今や「何を作りたいか」を自然言語で伝えるだけで、アプリケーションの雛形が数分で生成される時代を現実のものとしつつある。この光景を目の当たりにした多くのプログラマが、漠然とした、しかし確かな不安を抱いているだろう。「私たちの仕事は、いずれAIに奪われるのではないか」と。
この問いに対する私の答えは、半分はYesであり、もう半分はNoだ。より正確に言えば、プログラマの仕事の本質が、歴史上かつてないレベルで抽象化され、その役割が再定義されるのだ。私たちは、コードを「書く」作業から解放される一方で、これまで以上に高度な思考を要求されることになる。
本稿では、プログラミングの歴史を「How(いかに作るか)」から「What(何を作るか)」への移行として捉え直し、LLMがこの流れをいかに加速させるかを論じる。そして、その先にある、AIには決して代替できない、人間ならではの競争優位性、すなわち「Why(なぜ作るのか)」を定義し、記述する能力の重要性について深く考察していく。これは、単なる未来予測ではない。今を生きるすべてのソフトウェアエンジニアにとっての、生存戦略の提示である。
LLMの登場を特異点として捉える前に、我々が立っている場所を正確に知る必要がある。ソフトウェア開発の歴史は、常に「抽象化」との戦いであった。そしてその歴史は、プログラマの関心が「How」から「What」へと徐々に移り変わっていくプロセスとして描くことができる。
コンピュータの黎明期、プログラミングとは、計算機が理解できる命令(How)を、一行一行、丹念に記述する作業そのものであった。アセンブリ言語や初期のFORTRAN、COBOLといった言語は、ハードウェアの制約を強く受けており、プログラマはメモリ管理やプロセッサの動作といった、極めて物理層に近いレベルでの「How」を意識する必要があった。
この時代のテストもまた、「How」に強く束縛されていた。書かれた手続きが、意図した通りに順番に実行されるか、特定の入力に対して期待された計算結果を返すか。テストの関心事は、あくまで「手続きの正しさ」の検証にあった。ビジネスロジックと実装の詳細が密結合し、コードは特定の処理手順を記述した、硬直的な塊となっていた。
風向きが変わり始めたのは、ソフトウェアの規模が拡大し、その複雑性が人間の認知能力を超え始めた頃だ。1990年代後半から2000年代にかけて提唱されたエクストリーム・プログラミング(XP)の中で、テスト駆動開発(TDD)という考え方が登場する。
TDDの本質は、単なるテスト手法の改善ではない。それは、プログラミングのパラダイムを根底から覆す思想だった。TDDは、「まずテストを書く」ことを強制することで、プログラマの意識を「これから実装するコード(How)」から「そのコードが満たすべき振る舞い(What)」へと強制的に転換させたのだ。
テストはもはや、書かれたコードの後追いで正しさを検証する作業ではない。それは、これから作られるべきソフトウェアの「仕様書」であり、「振る舞いの宣言」となった。例えば、「ユーザーがログインボタンをクリックしたら、ダッシュボード画面に遷移する」というテストコードは、具体的な実装方法(`onClick`イベントハンドラの中で`window.location.href`を書き換える、など)には一切言及しない。それはただ、達成されるべき「What」を記述しているだけだ。
この思想は、ビヘイビア駆動開発(BDD)へと発展し、`Given-When-Then`といった、より自然言語に近い形式でソフトウェアの振る舞いを記述するスタイルを生み出した。プログラマだけでなく、プロダクトマネージャーやビジネスアナリストといった非技術者をも巻き込み、「What」を共通言語として定義する試みが本格化したのである。
TDD/BDDによってプログラマの意識が「What」に向かい始めると、コードそのものもまた、宣言的なスタイルへと進化していく。この変化を劇的に加速させたのが、モダンなフレームワークの存在だ。
Reactを例に考えてみよう。Reactが登場する前、フロントエンド開発はjQueryに代表されるように、DOMを直接操作する命令的なコード(How)の連続だった。「このボタンがクリックされたら、この要素のテキストを書き換え、あちらの要素を非表示にする」といった具合だ。
しかし、Reactは「UIとは、ある状態(state)に対する純粋な写像である」という宣言的なモデルを提示した。プログラマがやるべきことは、UIの状態(`state`)と、その状態がどのように見えるか(JSXによるコンポーネント)を宣言することだけだ。状態が変更された際に、DOMをどのように効率的に更新するかという面倒な「How」の部分は、Reactの仮想DOMと差分検出アルゴリズムがすべて隠蔽してくれる。プログラマは「What(UIのあるべき姿)」を記述するだけでよくなったのだ。
この「WhatからHowへの変換」は、様々な領域で見られる。
これらのフレームワークやツールは、いわば「特定の制約下における、WhatからHowへの高性能な変換器」として機能してきた。プログラマは、フレームワークが課す「お作法」や「制約」を受け入れることで、退屈で間違いの多い「How」の記述から解放され、より本質的な「What」の定義に集中できるようになった。我々が「生産性が高い」と感じる開発体験は、この優れた変換器の恩恵に他ならない。
現状は、この歴史的変遷の延長線上にある。プログラマの仕事は、手続きを記述する職人から、振る舞いを定義し、それを実現するための最適な「変換器(フレームワーク)」を選択・設定するアーキテクトへと、その重心を移してきたのだ。
フレームワークがもたらした「WhatからHowへ」の潮流は、LLMの登場によって、未曾有のスケールで加速されようとしている。フレームワークが「特定の領域に特化した変換器」であったのに対し、LLMは「あらゆる領域に対応可能な、究極の汎用変換器」としてのポテンシャルを秘めているからだ。
前章で述べたように、ReactやTerraformといったフレームワークは、その恩恵と引き換えに、私たちに特定の「制約」を課してきた。Reactを使うならコンポーネントベースで思考し、状態管理の作法に従う必要がある。Terraformを使うなら、そのエコシステムとHCLの流儀を受け入れなければならない。これらの制約は、WhatからHowへの変換を自動化するための「レール」であり、私たちはそのレールの上を走ることで効率を得てきた。
しかし、LLMはこの前提を覆す。LLMは、特定のフレームワークや言語の知識を事前に学習しているが、その利用において絶対的な制約を課すわけではない。私たちは、より自由な形式で「What」を伝えることができる。
例えば、こうだ。
ユーザー認証機能付きのシンプルなブログアプリを作ってほしい。フロントエンドはReactとTypeScript、UIコンポーネントはMUIを使う。バックエンドはNode.jsとExpressで、データベースはPostgreSQL。ユーザーはGoogleアカウントでログインでき、新しい記事を作成、編集、削除できる。記事にはマークダウン記法が使えて、画像もアップロードできるようにしてほしい。
この要求(What)は、特定のフレームワークの流儀に則ったものではない。複数の技術スタックを横断し、機能要求を自然言語で並べただけのものである。しかし、現在のLLM、特にGPT-4oやそれに類するモデルは、このレベルの要求から、ディレクトリ構造、設定ファイル、APIエンドポイント、フロントエンドコンポーネントに至るまで、驚くほど具体的なコード(How)を生成することができる。
これは、フレームワークが担ってきた「WhatからHowへの変換」が、特定のレールから解き放たれ、より広範で柔軟な領域へと拡張されたことを意味する。これまで自動化が難しかった、あるいは特定のフレームワークが存在しなかったニッチな領域や、複数の技術を組み合わせる複雑なシステム構築においても、AIによる宣言的プログラミングの恩恵を受けられる時代が始まろうとしているのだ。
LLMという汎用変換器の登場により、プログラマの生産性は、「いかに質の高いWhatをLLMに伝えられるか」に直結するようになる。これは、俗に「プロンプトエンジニアリング」と呼ばれるスキルだが、その本質は、ソフトウェア開発における「要求定義」そのものである。
質の高い「What」とは何か。それは、曖昧性がなく、網羅的で、矛盾のない要求である。
これらは、優秀なソフトウェアエンジニアが、プロダクトマネージャーやデザイナーとの対話を通じて、日常的に行ってきた思考プロセスそのものではないだろうか。LLMの登場は、この思考プロセスを、より明確に、よりテキストベースで「記述」する能力を求める。私たちの頭の中にあった暗黙的な仕様が、LLMへの入力(プロンプト)という形で、明示的に言語化されることを要求するのだ。
やがて、ほとんどのプログラミング作業は、この「Whatの記述」に収束していくだろう。TDDがテストコードという形式で「What」を記述したように、私たちは自然言語や、より構造化された要求記述言語を用いて、AIに対して「What」を宣言することになる。コード(How)は、その宣言から自動生成される中間生成物に過ぎなくなる。まさに、コードが蒸発していく未来である。
「What」を伝えれば「How」が手に入る。この魔法のような世界の到来を前に、私たちは一つの重大な問いに直面する。それは、「そのWhatからHowへの変換は、本当に一意に決まるのか?」という問いだ。
答えは、明確にNoである。
ある「What(要求)」を実現するための「How(実装)」は、無数に存在する。そして、どの「How」を選択すべきかを決定するためには、単純な機能要求(What)だけでは情報が全く足りない。そこには、必ず「Why(なぜそう作るのか)」という、背景、文脈、そしてトレードオフの考慮が必要不可欠となる。
簡単な例を考えてみよう。「1億件のユーザーデータを格納し、ユーザーIDで高速に検索できるシステム」という「What」をLLMに与えたとする。LLMは、どのような「How」を提案するだろうか。
これらの選択肢は、どれも「What」を満たしている。しかし、その特性は全く異なる。案Aは多くのエンジニアにとって馴染み深く開発が容易だが、10億、100億件へのスケールは難しいかもしれない。案Bはスケール性に優れるが、厳密なトランザクション管理は苦手だ。案Cは高速だが、運用コストとシステムの複雑性が増す。案Dは安価だが、検索速度は他に劣る。
LLMは、これらの選択肢をリストアップすることはできるだろう。しかし、このプロジェクトにとって最適な選択肢はどれかを、自信を持って決定することはできない。なぜなら、その決定には、LLMが与えられていない「Why」の情報が必要だからだ。
これらの「Why」こそが、無数に存在する「How」の中から、ただ一つの「正解」を選び出すための羅針盤なのである。そしてこの「Why」は、ビジネスの目標、組織の文化、ユーザーの期待、技術的な制約といった、極めて人間的で、文脈依存的な情報の中にしか存在しない。
ここで重要なのは、これまでもエンジニアは、この「Why」に基づく意思決定を、意識的あるいは無意識的に行ってきたという事実だ。
私たちが技術選定を行うとき、単に「流行っているから」という理由だけでReactを選ぶわけではない。「SPA(Single Page Application)にすることでユーザー体験を向上させたい(Why)」、「コンポーネント指向の開発によって長期的な保守性を確保したい(Why)」、「Reactエンジニアの採用市場が活発だから(Why)」といった、様々な「 Permalink | 記事への反応(0) | 17:09