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はてなキーワード: 参与観察とは

2025-07-07

[]石岡丈昇のエスノグラフィ入門を読んで

子の付き添い入院経験してそれを何かの形にしたいと思っているのだけれど、その「形」とエスノグラフィは8割くらい被ってる気がする。「当事者研究」とも近い。

この本は、私が付き添い入院と付き添い入院の間、数ヶ月の在宅治療中に、「なんかメンタルが整うような本ないかな」と思って立ち寄ったスーパーの中にある本屋で、めぼしいものが見つからず、「じゃあ新しい学びでも得るか」と立ち寄った新書コーナーで見つけた本だ。「エスノグラフィってなんだっけ?」と思って手に取ったが、初めて知った言葉だった。

買って一日で読み切ってしまった。

この本では「エスノグラフィとは何か?」という問いに対し、冒頭に結論となる文章が書かれている。初見では分かりにくい文章だが、その中で登場するキーワードを、各章で細かく説明する形で理解を深めていくようになっている。

私の感想もその文章の各キーワードについて、「付き添い入院中に私がやってたのってエスノグラフィなのかな〜違うかな〜」など、思ったことを書いていく。

その文章説明をするところの前に「はじめに」と第一章の「エスノグラフィを体感する」があるので、そこの感想

はじめに

エスノグラフィは社会学の一部らしい。私は社会学部卒だったのでこの本を手に取ったのも必然だったか、という気持ち。あとこの「はじめに」の中に「在宅酸素療法」という言葉が出てくるのにも驚き。子がまさに酸素療法中だったので、「空気って大事なんだな」って話に非常に縁を感じた。

第一章 エスノグラフィを体感する

賭けトランプと棺の話面白い。ざっくりこの辺まで立ち読みして買うのを決めた。

エスノグラフィは何も隠されてはいない、ありふれた日々の「生活を書く」ことを基本にします』。付き添い入院が行われている小児病棟は、隠されているわけではないけど、限られた条件の人しか参加できない。ただ、そこでは少し変わってはいものの確実に生活が営まれている。

フィールドで見た場面と研究主題接続:これが私の書きたいこととエスノグラフィの違い。私特に主題っぽいものを持ってない。「貧困」とか「差別」みたいな。多分。問題意識はあるんだけどそれをいま書いて訴えたいかと言われると、ちょっとピントがズレる。

フィールド自分普段生活二重写しにみる:これはそう。付き添い入院を知らなかった私には戻れない。

フィールド調査十戒:これは基本的に「部外者」としての考え方だ。「当事者」として病棟にいた私が、より理性的振る舞うために何が必要だったか考えさせられた。寛大であることと関わる人を中傷しないことは難しかった。私は「奪われた」寄りの人間だったから、無駄に奪われないために戦う必要があったし、中傷もした。「そういう考え方もあるね」と俯瞰することもないではなかったけど。フィールド文化歴史を知るために調べて歩き回ることは意識した。付き添い入院がどういった背景で行われているのか調べ、実際に入院する前に病棟見学もさせてもらった。情報があまりにも少ないことが不安を生んでたからだ。偉そうにしないこととただの見学にならないように記録することも「部外者」の発想だと思う。

書くことについては、私は完璧に考えがまとまってから書くのでも、書きながら考えが立ち上がってくるのでもなく、考えた端から書きつけていかないと気が済まないタチ。不安や怒りといった感情とこれからすべきことは何かといった思考が絡まった状態脳内にあるので、言語化して要らない感情は捨てて、必要思考を拾い上げていく。整理してまとめ上げるというよりは断捨離

章間にあるコラム全部面白いストリートコーナーソサエティの付則が面白いって書いてあるのと似てるかもしれない。

さて本題の結論となる文章こちら。

エスノグラフィは、経験科学の中でもフィールド科学に収まるものであり、なかでも①不可量のものに注目し記述するアプローチである。不可量のもの記述とは、具体的には生活を書くことによって進められる。そして生活を書くために調査者は、フィールドで流れている時間参与すること必要になる。こうしておこなわれたフィールド調査は、関連文献を④対比的に読むこと着眼点が定まっていく。そうして出来上がった⑤事例の記述を通して特定主題(「貧困」「身体」など)についての洗練された説明へと結実させる。
①不可量のもの (第二章 フィールドに学ぶ

妊娠中に子が先天性心疾患を持っていることがわかった。付き添い入院必要があることが分かったのは生まれて1か月が経ったころ。2か月で手術をし、付き添い入院が始まり、4か月で退院した。現在子は7か月で、この先もう一度、手術と付き添い入院の予定がある。そしてその母親である私は、大変な記録魔である。それも、数字の記録はあまり続かず、起きたことを起きた時に感情と共に記録することを、携帯が普及し始めた学生時代からずっと続けてきた。そのため、子の病気に関することや私の生活についての数千件にも及ぶメモが分単位で記録されている。これは、不可量のものが記録されたフィールドノートになるのか?

客観化の客観化:エスノグラファーが研究対象に参加しようと努力するのに似て、私は自身自身の置かれている環境を観察できるよう、自分の心から離れた位置から事象を捉えようと心がけてたように思う。発生時点では一人称的な見方になるし、ショックも受けるが、落ち着いたら、相手立場に立ったり、制度面での欠陥がどこにあるのかを考えたりもした。冷静になりたかったし、付き添い入院経験したこと有益にしたかった。

この章に出てくる市について『2024年能登半島地震被害に遭った地域にある』との記述を見て驚く。待ってこの本いつ出たの?2024年9月!?出版されて一年経ってない本を私はいま手に取って「やべ〜めっちゃ今私が知りたかった視点だ〜」とか思ってるの!?「いまーここ」すぎる。

生活を書く (第三章 生活を書く)

私が付き添い入院中記録していたことは100%これだ。事件もあったが、日常をひたすら記録していた。というか、育児日記を書いているママ大勢いるから、生活を書いている人はたくさんいるんだろう。参与ではなく当事者研究に近い行い。

アフリカの毒については、退院後の外来で、他のママが「あの環境って独特ですよね。なんか連帯感というか」となんだか楽しげに言っていたのが印象深い。子の命が懸かっているので、アフリカのように無限に往復したい場所ではないのだが、そこを無視すれば、一種の寮のような共同生活は他にはない体験ができる場所だ。具体的にどこがとは言いづらいが、非常に「日本的」だとも感じた。

フィールドを『問題地域としてのみみなすような態度を取らない』ことは、付き添いが始まる前はどうしてもできなかったことで、始まってみて「どこにいようが日常は続くな」と思うようになったことを思い出した。ちょっと石岡先生の言いたいこととズレてる気もする。

ここで『かわいそうでもたくましいでもない』という記述がある。かわいそう、たくましい。この二つは患者家族がめちゃくちゃ言われる言葉トップ2だ。そうね。かわいそうだし、たくましくもある。そのあっさい感想で、あっさい関係性の人たちについてはもういい。だがもうちょっと地に着いた、実際どうなの?というところを知りたい人に対して、私はものを書きたい。この記述太字で書いてあって、後半にも出てくるから先生の中で通底してる考えなんだろうと思うととても嬉しい。

部落の話を通じて「いまーここ」を見つめようという話は、目を逸らしたい気持ちだった。自身の中にもいろんな偏見があって、正すべきだとわかっているけれど、今ちょっとそんな余裕がない。ごめん。の気持ち

エスノグラフィで記述されるのはすでにあるものって話も、私を勇気づけるものだった。こんな当たり前のこと書いてなんになるんだろうと思うような話ばかりだが、丁寧に調べて書けば、論文にすらなるんだと思うと心が晴れた。

買ってから気づいたのだけど、この本には挿絵が入っている。印象的な場面やキーワードをページ一枚のイラストという形でも表している。図表は一個もない。大学教授自身研究と参考文献を大量に提示した、論文に近い新書でこの形式はとても珍しいと思うが、文章だけでなく絵で切り取ってみるのも、エスノグラフィが一つの事例を深掘りし、「何が」を調べるものではなく、「いかに」を調べる学問であるという説明を強化しているなあと思った。

時間参与する(第四章 時間参与する)

その場に見学者としているだけではなく役割を持って参加することを持って「時間参与する」と表現しているようだ。私は当事者なので参与も何も、強制参加させられて日常に帰ってきたのちに、「あの経験エスノグラフィにできないか?」と、入り口ではなく出口としてエスノグラフィを使おうとしている立場である

参与観察はもう少ししたかった。他の家族がどうやって子を看病しているか、一日のスケジュールがどうなっているか経済状況、家族構成、抱えている困難。知り合いになった結果面倒ごとを押し付けられそうで、退院が確定するまで(いざとなったら逃げられる状況になるまで)他者を詮索するリスクを取れなかった。逆に言えば退院が決まってからめっちゃ人と話した。

④対比的に読む(第五章 対比的に読む)

この本を読む以前に私がやってきたことがエスノグラフィ(というか研究)じゃないのはここだなあと。大学時代にやったことだが、研究には先行論文を読むステップが欠かせない。ただ単に「これってこうだと思うんですよ!」だけじゃダメで、「この論文ではこう言ってて、この研究ではこういう結果で、でも自分はここの部分はこう思ってて。で実際調査してみた結果がこれ。ね?あってるでしょ?」みたいな。

そして今日この本を読み終わって思ったのが、「この本を読んだことで、私のエスノグラフィ始まったんじゃない?」ということ。まあ当事者なので完全にエスノグラフィにはならないし、仮説を立てるとか主題を持つとかする気はないのだけど、この部分はエスノグラフィっぽい、ここは違うな、と「対比的に読んだ」ことで、ただの雑記が、研究分析みたいな深みを得そうな気配がした。

それ以外にも「対比的に読む」ことはしていて、いま書こうとしているのと同じ媒体の、似たタイプの作者の書いたものを大量に読んで勉強している。書きながらやっているので、自分がぶち当たっている壁をどう解決しているのか教えてくれる最良の教科書として機能しているし、自分が書くもののどこがユニークなのかを都度確認もしている。

あとここで先生は『容赦なく書き込む』ことを推奨しているので、ここで初めてマーカーを手に取った。私は本を汚している感じがして書き込みをしない。けど、書いた人がそうしてというなら遠慮なくそうする。「はじめに」に書いていてほしかったな。なんでこんなど真ん中で…。先生の言うように初読の読むペースの時間経験の中で重要と思われる部分にマークしていくべきだった。珍しく凄まじいスピードで読んだから、この文章を書きながら再読している時の咀嚼感と全然違う。

対比的に読むことがデータをつくることに関連している:一回目の付き添い入院初体験だったので新鮮な驚きや緊張感で乗り越えられた気がするが、待ち受けている二回目に向けてのモチベがなくて困っていた。どういった姿勢で臨むべきか決めかねていて。そんな悩みに光を差す記述として、『フィールドで得た漠然とした問題意識を明確にするために文献を読み、着眼点を得て、その着眼点気づきを持ってフィールドに戻って、「データをつくる」ためにインタビューフィールドノートの記述をするのだ』(要約)と書いてありました。なるほどな〜と。二回目もやはり逃げられる状況になるまで他者インタビューリスキーではあるけれど、とりあえず一回目の振り返りをして、二回目はどんな記録をしていきたいか見定め、関連資料を探すことをしようと思う。

⑤事例の記述を通して(第六章 事例を通して説明する)

私は日常を書きたいだけで主題がないので、この章は自分のやってることとはちょっと違うかなということが多かったのだけど、主題があるとすればできることはあるなあと思った。前章の対比的に読むことや、社会学文脈で書くこともそうだし、比較するのではなく、対比することもそう。

子の闘病において、病棟で暮らすことと、家で暮らすことのほかに、「外来」という場所がある。退院後も月に一回程度はその病院外来に足を運んで検査をするし、外来を重ねてまた入院することもある。病棟にいるとよく聞く会話に「外来来るよね?」というものがある。最初耳にした時はそんなこと確認してなんになるのかと思ったが、別の日、外来に来た母親病棟にも顔を出すというので、病棟の外に大量の母親たちに、なんと医師看護師病棟保育士まで集合しているのを見た。主題を「人間関係」とかに置いた場合、「病棟」と「家」だけで見たら抜け落ちてしまものがこの「外来」という場所にありそう、対比して調査する場所として必須なのではと感じた。外来もまた病棟とは違った、独特な空気感を感じる場所である

時間的予見を奪う:これは私に取って大きな学びだった。本書ではフィリピンの立ち退きに遭ったスラム住人の例が挙げられていたが、付き添い入院もこの困難を抱えていることを自覚たからだ。付き添い入院は始まる時も終わる時も未定で、予告されるのが数日前だったりする。病気を抱えているから当然だと思うだろうか?では、その入院する病棟が、盆正月GWといった長期休暇にはガラガラになることを知っても同じ感想を持つだろうか?病気の子人質医療者の都合が押し付けられているのだ。あーあ書いちゃった。まだ治療が続くので今は敵に回したくないんだけど、気づいたら書かずにはいられない性分で。先の見通しが立たないことは病児看護において日常になる。生まれから治療が終わるまで、年単位スケジュールが未定になる。純粋病気のせいの部分もあるが、先に書いたように医療者の都合による部分が確実にあるにも関わらず、それは私たちには容易には分からない上、付き添い入院は「家族がどうしてもやりたいっていうからやらせてあげている」ていになっているので、余計にストレスが溜まる。この気づきを得たのは大きかったな。

病棟が長期休暇になると患者が減ることは他の家族のインスタで知った。付き添い入院において背景や論理を知ることは難しい。先にも書いたように詮索することで子の手術や看護といった医療サービスが適切なタイミングや質で受けられなくなるかもしれない不安が付きまとうからだ。医療者の側から観察できればいいのだけど。もしくは保育士や清掃員とかで入るのもいい。

ある人々にとっての現実の把握:この、たった一つの真相を知るでもなく、多元的見方をするのでもなく、バイアスがかかっていることを自覚しながら観察するのは、当事者としてもいい見方だなと思った。私は当然患者家族であるので、その立場からものを見て言いますよと、自省的なのか開き直りなのか分からない姿勢にも自信が持てるというもの

ミクロ視点からマクロを見る:付き添い入院マクロにまで射程が届く研究対象なのは明らかだろう。付き添い家族ターゲットにしたNPOあるくらいだし。一方でその実態は泣く子と眠れない夜を明かし洗濯をし食器を洗いシャワーを浴びて食事をする、とても地味でありふれたミクロな場面の連続だ。

ルポルタージュとの違い:エスノグラフィは時間の縛りがない事がルポとの違いらしい。なるほど。昨日『ダーウィンが来た』で、動物写真家シロイワヤギを40年追っかけてるっての見たけど、そっちと近いんだろうか。文学とも重なる感じ。先生も書いてるけどエスノグラフィは「読み物として面白いものが多そう。まだ私一冊も読んでないけど、本書で引用されたものだけでも十分面白かった。けど、「研究」でもあるので、主題と紐付けて研究結果が出てくるところが、エッセイルポとの違いだろうか。エッセイでも面白いものはそうした「発見」みたいなのはちょいちょい見る気がするけど。社会学文脈にびたびたに浸って先人たちのあれやこれやを紐づけまくってその上に自分の見た事象から発見記載できればエスノグラフィなのかな。知らんけど。ここは明確な区切りがわからなかった。

長文の研究計画書を書くって書いてあったけど、そこに何書くんだろう?私は主題はなくてフィールド強制的に決められて問題意識(不平不満)と記録は大量にあるわけだけど、大学生とかは、①エスノグラフィというものがあるのを知り、②「子供貧困について研究したい!」とかって主題を決め、③エスノグラフィで調査しようと決めて、④主題関係が深そうなフィールドを探して(こども食堂とか?)、⑤主題に繋がりそうな場面に遭遇しないかな〜と思いながら参与観察するみたいな感じだろうか。やりてえ〜大学生に戻って。

研究お金の話は文系理系も似たような感じだな〜と思った。応用研究は金出るけど基礎研究にはなかなか出ないし長期での研究も難しいみたいなの話。

おわりに

私が今付き添い入院フィールドエスノグラフィができない理由はここまで書いた通りで、問題意識を表出すると角が立つからだなあ。当事者は奪われる側なので。できない分ここで社会学視点からみれそうな表現問題意識については書いたつもりなので、誰かやってください。ほんとはやりたいよ。今すぐ石油王になって付き添い入院病棟を全て個人産院並の、シャワートイレ冷凍冷蔵庫付きで親と子それぞれのベッドがある広めの個室にして、食事もついて、付き添い保育士外注できるようにして、その病棟看護師患者家族全員が参加 Permalink | 記事への反応(2) | 17:51

2025-03-27

オタク論の「欠如」という問題

いわゆるオタ文化とは直接的には関係しない領域男性文系研究者(ただいちおう副業的にオタク文化について扱った論文も書いてる)として、以下の記事面白く読んだ。

「女オタク論」の盛り上がりと、「男オタク論」の方がむしろピンチかもしれない話 - 深紫の雑記帳

なるほど確かに近年は女オタクに関する研究が進んでいるのに対して男オタクに関する研究が進んでいない、という現状認識については同意するものの、増田個人としてはそれが大きな「問題であるようには思っていない。理由は以下の通り。

(1)オタク文化に関する研究は充実しているのだし、それでよくないか

マンガ研究』や『コンテンツ文化研究』みたいなオタク文化歴史に焦点を合わせた査読はいくつかあるし、国文学関係学術誌を眺めていると現代サブカル作品についての研究が載ってることは普通だし、吉田正高二次元美少女論』(二見書房2004年)や玉井建也『幼なじみ萌え』(藝術学舎、2017年)のような記念碑研究もなされていて、オタク文化歴史に関する体系的記述歴史上類がないくらい充実しているわけだから、男オタク個人として不満はあまりないんだよな。まだまだ未解明の史実とか未発掘の作品とかそういうのはあるだろうけど、こういう流れが続けばいずれ研究されるだろうし。

もちろん、これは増田が文献の読み込みを主としたブッキッシュ手法を専門にしている研究者であり、インタビューとか参与観察とかを駆使した社会学的・人類学的・心理学研究にあまり馴染みがないことから生じているバイアスに過ぎないかもしれない(好みの問題であって善し悪しの問題ではない、念のため)。しかし、まずもって目の前の素晴らしい文化を愛するからオタクなのであって、オタク感情とかオタクコミュニティとかそういった問題にはあまり興味が持てないのだ。歴史の話なら面白いんだけどね。黎明期コミケはどんな感じだったの、とか、そういう。でも現代オタクの生態やら感情やらに関しては、自分当事者として生きているわけで、それを客観的研究に落とし込もうという気にはーー少なくとも増田はーーなれない。だって自分当事者じゃないか研究面白いんじゃないか(これは人それぞれだと思うので、同意できない人もいるだろうけれど)。

(2)女オタクのtoxicさへの揺り戻しは必ず来る(来なければ起こす)

いやー、そりゃ男オタクの界隈もtoxicなところはいっぱいあるけどさー、現在の女オタク論界隈は別種のtoxicさが蔓延してると思うのよね。

だって、いちおう大学出版会標榜するところからジャニーズファンについての研究書が出てるのよ? 定評ある出版社が出してるジェンダー史学についての入門書にも「ジャニーズ戦後日本」ってコラムがあるんだよ? さらに、本文中で挙げられてる『BL進化論』の著者さんって、「トランス役はトランス役者がやるべき」と主張して盛大に叩かれてたよね(anond:20200816115435)。これらがフェミニズム女性学観点からみて誇るべき研究成果っていうことでいいの? 本当に?

いやもちろんナチス研究者ネオナチではないわけだけど、それは彼らが必死に「ナチス絶対悪です!」ってあちらこちらで言ってまわってるから「そりゃそうだ、研究者研究対象は別だもんね」っていう反応になるのであって、「当事者による研究」を標榜してる分野でこんな有様だったら言い逃れできないでしょ。このへんってぜんぜん燃えいね。いや、別に燃えなくてもいいと思うけど、これが燃やそうと思えば燃やせるっていうのはわかってもらえるよね。

女性趣味」だからという理由で、圧倒的マイノリティである男性同性愛者の客体化(BL)や常習的レイプ組織への支援ジャニーズファン)が研究され、フェミニズム視点に基づく女性文化研究で~す! っていうていで流通していたわけじゃないですか。これが倫理的破綻した話なのはやす理解できると思う。男オタク界隈はそういった進歩的視点から目を背けてきたきらいはあるけど、それは同時にダブルスタンダードから自己防衛にもなっていたわけで。しょうじき、元記事で言われてる「女オタク学術自己客観視」は「全然できてねえじゃん!」って思いますよ。だってどう見ても問題直視できてないもの直視してたらそもそもBL研究なんて大真面目にできるわけないし(当事者重視とか性的客体化はダメかいった進歩的理論から「女がBLを書くのはけしからん」という結論が導かれるのは自明の理なので、進歩的理論に基づくBL研究はぜんぶ崩壊するか、研究対象を口を極めて罵るナチス研究スタイルに移行するかのどちらかの末路しかありえない)。もちろん直視しないのは自由だけども、さも自分たちは問題直視してます面をするなら、まあ揺り戻しは来ますよね。

(ちなみに『BL進化論』の著者さんはオープンリーゲイ小説家意味不明な絡み方をして論破されてるんだよね→https://kakuyomu.jp/users/Mark_UN/news/1177354054917237182BLいか真摯当事者と向き合ってきたのかがよくわかる話です)

そういうわけで、男オタク論の欠如は別に問題とは思わないし、女オタク論も足下すくおうと思えば結構すくえるよね、という話でした。まあn=1の話なのでそんな真に受けないでもらえれば。

2024-09-14

にんげんのかんがえかたっていっぱいあってたのしいね

1. 古代哲学宗教
2. 中世近代哲学
3. 近代現代哲学思想
4. 科学技術の発展
5. 心理学自己啓発
6. 芸術文化
7. 人類学コミュニティ
8. 倫理学道徳哲学
9. 政治哲学社会思想
10. 科学哲学認識論

2024-01-27

anond:20240127192824

志賀町能登中核工業団地などに代表されるように、

石川県県内あちこちで進めてきた企業誘致北陸新幹線建設など、

産業観光振興への投資をしてきた。

一方、災害リスク軽減に向けた計画づくりは産業振興にブレーキをかけることになるからペンディングにしてきた。

今思えば07年後の耐震診断くらいはしないといけなかったな。

防災投資を暗黙の裡に手控えなければ進められないという平時政治メカニズムが、

この国の災害脆弱性を増大させている一面はありそうだ。

この平時復興期の政治の動きは表裏一体。復興期の動きのなかでは、二つの政治的な動き方がありうる。

ひとつは、地域経済産業災害前の同じ状況に迅速に戻そうという動き。

観光地であれば、訪問する外の人々に災害を早く忘れてもらったほうがいいし、

曲突徙薪の故事でいえば政治家が災害後の復旧でヒーローになる手っ取り早い発想だ。食べて応援!みたいな流れもそれに近い。

2004年インド洋津波被災したリゾートアイランドでは、

ビーチ沿いのせまっくるしい土産ストリートで人があふれ逃げ遅れたという教訓があるにもかかわらず、

復興過程はいち早く観光産業再生し、政治家は避難施設への誘導標識をつけたり訓練をしたりすることすら嫌がり、防災対策としてはあまり何もしなかった。

結果、全く同じショッピングストリートが出来上がった。そして同じ規模の津波がきたらきっと同じことが繰り返される。

もうひとつの動き方は、災害で失われた生命財産に対するバックラッシュ

東日本大震災復興過程では、生命安全をなにがなんでも守るという災対法の理念を忠実に実現しようとした。

平時では合意形成が難しく、とても実現できないことを復興期にやれるのは強味ではある。

浸水地域ではもう人は住むな、といって一世帯あたり3000万くらいかけて高台をつくり、巨額の復興予算海岸は大量のコンクリート防潮堤建設した。

しかし迅速な復興を目指したあまり復興計画への住民合意形成拙速になった。

結論を急いだ結果、家を失い生計を失って自分自身生き方を迷っていた多くの地域の人たちが結果的地域を出ていき、地域に残りたいというのは

そこで人生を終えたい高齢者だけになった。以前にも増して限界集落となって投資したコンクリートを誰も住まない地域に残した、という教訓がある。

山本一郎復興のあり方に懸念した文章みたけど、それってこのあたりの課題に重なる。

ただ、じゃあ徹底的にB/Cで思考しろって話でもない。

行政が介入した瞬間から参与観察になって地域に影響を与えることを覚悟しないといけなくて、費用便益を事前に計画客観化できるというのはうそだ。

復興過程での政治行政主導が住民レジリエンスを阻害して、結果的投資釣り合わない結果になったかもしれないという部分を考察しないといけない。



どちらか一方しか選べないのだとしたら、前者のほうがマシだと最近思うようになった。

ハード的には不十分な復興というぐらいがちょうどいいんじゃないかと。

2022-06-17

anond:20220617131126

フェミニストプロフィールヤバい

見るだけでもないみーちゃん🦖(弁えないリツイート)🌵

@_mirudake

no more 女性差別!/ ジェンダー解体されるべき/ sex is real / 一介のgender criticalで反TRA / 小さい輪を作って目的ごとに連帯するのが良いのではないかなと最近思ってる🍇 /烏合の衆の一人でいたいタイプです/2022.02オミクロン感染

Sophie

@XXfifXX

生物物理勉強する大学院生右翼でもなく左翼でもないただのラディカルフミニスト。脱コル4B 反出生 GenderCritical 打倒家父長制のために、装飾・結婚出産性交売春をやめましょう 性自認存在しない / / / Die Sonne scheint weiter.

Walter

@_how_dare_u_

この世に疲れきったアンチ出生・ミサのL

タコせんジャズ

@seikenkoutai46

政権交代を切実に願い、行動もするオタクが嫌いなオタク表現の自由戦士⋈・表自オタ共による言論弾圧表現規制営業妨害監視アカウントアンチフェミと称し、自分らを透明化する『女性嫌悪者(ミソジニー)』ウォッチャー。 #岸田インフレ は悪いインフレ

4B

@R706025806

❌ヤニカス ❌子連れ ❌家父長制

九鬼(くき)

@corgen1212

もう黙ってられん。性暴力性差別選択夫婦別姓などについて発言するマイルドフェミニスト強制的夫婦同姓反対 女性同士連携しよう。声を上げよう。男もそろそろ声上げてくれ。 #経口中絶薬の高価格設定に反対しま女性専用スペースを守りたい。女子トイレは誰でもトイレじゃないです。#IStandWithJKRowling4B

れもん

@GYbwZ3c0XAPucIB

Y染色体無理ミサンドリスト.反出生主義反出生賛美.被虐待.フォロー非推奨.人生疲れたやめたい

💛🛸SANA🚀💛

@PV1a8RpYbr4EtPu

#女湯における男児年齢制限のより一層の引き下げを求めます女性女児安全を守りたい。 全ての女性安心して過ごせるような環境になりますように。 ※3歳未満の幼児は男女共に湯船で粗相してしまう恐れがある為、公共の浴場は控えましょう。 【性犯罪者製造するの辞めてください!STOP!性犯罪者製造🤚】

だすとぼっくす

@5353_8585

ADHD / ASD / APD / 鬱様症状(未受診) / 毒親持ち / フェミニズム / コンプレックス(学歴性別) / 情緒障害児短期治療施設児童養護施設出身 / 成人済み(20) / 反出生 #ADHD #ASD #発達障害

もぃもぃ

@npnp1032

男♂はクソほど嫌いなのでフォローすんな寄るな来るな帰れカス。たまに小説を書いていますインセストタブーが好き/読書映画鑑賞趣味

金寄こせ

@SchFRMw6TV1Yltv

フォローするとブロックします。 職場旅行者 永遠参与観察者 #LGBT法案から性自認を削除して下さい #厚労省職場女性トイレをなくすな

2022-02-20

anond:20200621150315

名著だよね。

ただハマータウン〜は今見ると、「階級」という切り口に振り切った作品だと思う(社会学では念仏のように「階級ジェンダーエスニシティ」と、その切り口の多様性を訴えてるでしょ)。

それがいいとか悪いとかではなく、そこにハマータウン〜の特徴と限界があるし、

またむしろ今見えにくくなっているものを炙り出してくれるものでもある。

割と最近でも、(通俗的な言い方をすれば)白人エリート女性社会学者が黒人コミュニティに対して行った参与観察で、むしろ参与観察に入れ込みすぎた結果、キャンセルカルチャーの餌食となった例がある。

→"アカデミズムサラブレッド"で新進気鋭の社会学者だったアリス・ゴッフマンは、なぜ「キャンセル」されたのか?【橘玲の日々刻々】

https://diamond.jp/articles/-/296647

ゴッフマンの事例もまた是非を置くとしても、ともかく現代社会は「階級ジェンダーエスニシティ」のどの切り口も無視することが出来なくなっていることを示す事例ではある。

ここで増田エントリタイトルで誤解されてそうなのが気になるんだが、ポールイリスマルクス主義者だから、その「野郎ども」が二重の意味での自由を手にして「Learnlng to labour」してしまアイロニーを指摘しているだけであって、「底辺右翼」みたいに蔑視している訳じゃないと思うんだよね。

そしてハマータウン〜は「持たざる者」がどのような文化戦略を取るかについて、「階級」の切り口の重要さを伝えてくれるものでもある。

しろ当時のポールイリス暖かい目線は、今ならエスニシティジェンダーで殴られているラストベルトのトランプ支持者なんかを包摂する可能性の方に向けられるものな気がするんだよね。

資本主義社会再生産」という点においては、「ジェンダー」の切り口すなわちフェミニズムも、そこに加担するケースがままある。

所得カップル移民シッター代理母を利用することを肯定的に捉えれば、当然「階級」や「エスニシティ」の面から批判される。

階級ジェンダーエスニシティ」の切り口から全くイノセント存在でいることはかなり困難だ。

ただし、当たり前のことだが人はその立ち位置を選んで生まれてくる訳ではないので、そこから先は個人の「倫理」の問題になるかと思う。

翻って日本場合について私見を述べれば、男女の家事負担のようなジェンダー平等問題にしても、コロナ禍での医療体制問題にしても、

日本における『労働』の過重性という問題が、あまりに軽視されすぎている。

日本では「階級ジェンダーエスニシティ」を問わず、それらを串刺しにする一億総「Learnlng to labour」のような状況があることを、議論の前提としてもらいたい。

2021-12-16

anond:20211216215206

学級崩壊動物園体罰も使えず生徒になめられっぱなしの飼育であるお前の事情なんざ知るか。

それからジャーナリストは、底辺校を足を使って取材しろよ。

社会学者によるエスノグラフィー(参与観察)でもいい。

ハマータウンの野郎ども」の日本版を書いてみろって。

なぜ染髪禁止されるのかなんて、すぐに分かるよ。

知性が欠如してるのは問題点認識していながら行動に移さず腐すしか能のないお前。


読解力w

構造を見ようとしろよw

1ビット脳w


いやー楽しかった。

人権に殺される動物園飼育員さんの現場レポ、書籍化したら社会学者が読んでくれるよ。

anond:20211214231517

校則批判に関しては、机上の空論が多すぎ。

増田は本当に教員か?教員ならもっと目の前の現実を語れよ。

頭髪指導の一つくらいしたことあるんだろ?

それからジャーナリストは、底辺校を足を使って取材しろよ。

社会学者によるエスノグラフィー(参与観察)でもいい。

ハマータウンの野郎ども」の日本版を書いてみろって。

なぜ染髪禁止されるのかなんて、すぐに分かるよ。

というか、「なぜ染髪禁止されるのか」という視点そもそも知識人側にないのが、最大の問題だよ。知性の欠如だ。

外部の倫理いくら論じたってどうにもならない。

なぜ染髪禁止なんていう人権侵害学校現場必要とされるのか、そこにある構造を見ようとしろよ。

2021-03-02

ふつうのにっき

まだ火曜日かあ

朝はセブンイレブンたけのこおこわを買って食べた。美味しかった。

昼はなぜか不意にがっつり肉がたべたくなりステーキハンバーグのセットを食べてしまった。カロリーよ…

夜はどうしようかな、なんか昨日血迷って肉を異常にたくさん買ってしまったんから使わないとなあ

鶏と野菜をあごだしで煮ようかなさっぱりしたのがいい、味噌もいれよう

味噌冷凍できるとはてブで知ってから味噌の購入が怖くなくなったありがとうはてブ

社長が何度も何度も予定確認のためだけにみんなを集めるのをやめさせてえ

社長自分で共有カレンダーに打ち込めないし見方もわかってないから…でもわたしがしばらく代理で打ち込んでもいいから口頭共有をやめさせてえ

あとスマホは使えるからそのうち折を見てアプリを入れさせよう

友達アフタヌーンティーにいきたいので打診

どうせなら庭のきれいなとこにお花見時期にいこうとしたら予定合わず断念

今年も人集めてお花見は無理だろうけど平日夜と休日昼にお散歩くらいはしたい


昨日の話だが上間陽子の「裸足で逃げる」を読んでぐずぐずに泣いていた

沖縄の夜の町で働く少女たちの参与観察

それぞれにもつ状況に寄り添いながらたんたんとした文体描写するのがとても涙腺に来た

いやただ泣いてるって、泣いてるってなんなんだろうなあ

まるで懐かしのケータイ小説を読んでるみたいに彼女たちの状況を消費してるんじゃないか私は

メロドラマみてるみたいに泣いてるんじゃないのか

と思って泣きながらうっすら自己嫌悪じみた気持ちにもなった

だって私が中学とき彼女たちをみてたら絶対に見下して遠ざけてるもんなあ

ぬくぬく暮らしてるただの東京大人がこれを読んで泣いたりするのは醜くはないか

女の子出産するとき旦那逮捕されて病院にこれず筆者が立ち合ったくだりが好きだった

基本的淡々とした文体なのにあそこだけばたばたして明るくて笑ってしま

筆者が「児童扶養手当申請しなよ」とアドバイスするのも「いいよ」ってなぜか本人たちがしないのもそれを筆者がそうかって見てるのもなんだか好きだった

教え導こうとするんじゃなくてただ隣にいることが、そんでいざというとき出産に立ち会ってあげることが、できるんだなあ

私はこれから他人にそんなふうな関わり方をできることがあるだろうが

原稿はすべて本人たちに見せて、仮名は一緒に考えたそうなのだ

名前がなんともいえず若い子がつけたかんじのセンスだなあとずっと思ってなんかそこが妙に面白かった

キラキラとかではないんだけどなんだろうな

わかんないけど中学の頃考えてた「子供が生まれたらつけたい名前」をなんとなく思い出す感じだった


というか20代くらいの人の名簿をよくみるけど別にキラキラネーム多くないので

あの頃のバッシングはなんだったんだろうと思う

2020-09-13

anond:20200912141626

本人の反論ツイッターで見たところによると、「変更せざるを得ない気がする」は、マジでこの先変更せざるを得なくなる(自分以外のポリコレ棒のせいで)と観察者目線分析しただけらしかった。

観察者目線になるあまり自分ポリコレである可能性を忘れてしまったのは、社会学者としてとてもよくない。参与観察法とか履修してただろうにね。その点を本人も反省しとった。

 

一方で、そういう間違いをした人間タコ殴りにしているこのツリーの界隈にも、同じ危うさがあるかもしれないと思った。「ポリコレ棒で殴っておいて無傷で済むと思うな」と元増田はいうが、この調子でやってたら、無傷なのにこっちが被害者ヅラして殴りかかっている例も出てくるのではなかろうか。

いや、もう既に当然あるだろうな。

殺し殺されるのが現代社会だ。

2019-11-03

anond:20191103163514

お気持ち表現規制派を殴るついでに社会構築主義殴られても困るんだよねぇ,正直.

私は人文系別にジェンダー問題には関心ないけど,構築主義的な考え方は別にフェミニズムに限られた概念でもないし,社会学だけじゃなく人類学歴史学でも受け入れられてる.

民族」が構築されたもので云々みたいな話はさんざんされてきていているわけで.きちんと実証的にやろうとすればするほど構築主義の考え方を取らねばならない局面って多いんだよね.

社会構築主義への批判もあるにはあるけど部分的修正を促すものだし(たとえば「老人」というカテゴリの特殊性から社会構築主義の大前提を疑った論文もあり,これはかなり面白い),本質主義に戻れるかといえば戻れないので,まあ構築主義を受け入れた上でどうやって実証に活かすかという話になるわけだけど,そもそも社会構築主義おかしいって言われると「ええ……」ってなるよな.

社会構築主義批判が悪いわけではなく,きちんとした論を立てて批判してくれるなら全然大歓迎なわけだけど,一部のアンチフェミな方々の議論は耳を傾けるべき水準に達していないので.

正直もう本当にうんざりなんだけど,お気持ちフェミニストを殴りたかったらお気持ちフェミニストをピンポイントで殴ってほしい.社会学批判とか始めるならネット上の断片的な社会学についての解説だけじゃなくてちゃん社会学の本やら論文やらをちゃんと読み込んでほしい.当たり前のこと言ってるはずなんだけどなぜか通じない.いやキズナアイを叩くなら彼女配信ちゃんと見ろとか宇崎ちゃんポスター批判するなら漫画を読めよとかと同じことを言っているはずなんだが? という.

表現規制を求めるお気持ちフェミニスト批判ならオタクとして賛成するけど,雑きわまりない構築主義批判を始めるならそれは文系学問喧嘩を売っているに等しいわけで,こちらも文系アカデミシャンとして「は? お前何言ってんの?」というモードに入らざるを得なくなるんだよな.

からまあ私の感想は,去年キズナアイが叩かれてたときに書いたの(anond:20181011062902)と同じになるわけだけれど.

そうやって文系オタク対立構造にされて困るのは私みたいな文系オタクなんだよ.ほんと勘弁して.

とにかく私は両側にもうウンザリ.ろくに事実関係を調べもせずVTuberについて基本的なことを知りもせずキズナアイを叩く連中にも,ろくに文系について知りもせずどんな研究をしているか理解もしないできないのにクソバイスを垂れ流す連中にもウンザリです.オタク叩きも文系叩きもクソくらえ.どっちも私の敵.

仕事仲間から趣味を貶められ趣味仲間から仕事侮蔑されるのそろそろ勘弁してほしいわけですが,まあこの流れは収まらないんですかねと諦めモード.どっちの陣営にも話通じない人がいて辟易

まあせめて自分が誰に喧嘩を売っているのかはちゃんと把握してくださいね表現規制派を批判するためにフェミニスト全体を殴ると性の解放を唱えるフェミニストに流れ弾が当たるし,社会構築主義にまで戦線を広げるならフェミニズム社会学だけじゃなく人類学とか歴史学にまで喧嘩を売っていることになるわけだけどそこはちゃんと自覚してます? 自覚がないなら攻撃対象はもうちょっと限定しようね.もしそれらの分野に喧嘩を売るなら各分野の基本書はちゃんと読んで勉強してねという話になるけど,その覚悟はありますか?

(もちろんこれは男性向けジャンルの潮流とか文化かについて碌に知らずお気持ち批判してくる一部のフェミニストや社会学者にも当てはまることだけどね.よりにもよってそのジャンルデータベース消費論に基づいた雑分析をやりますか? ほんと勘弁してくれ.男性向けだからどうせ女体目当てのポルノだろうみたいなその偏見をどうにかしろオタク,というよりも男のセクシュアリティ単純化するな.参与観察なり文献調査なり統計なりの実証手法を使いこなせ.表象分析やるならちゃん作品に向き合え)

ところで献血行って冴えカノのクリアファイルもらってきたんだけど,今期アニメ白衣着て献血ポスター採用されてほしいキャラって誰? 僕は,クリーブランドちゃん! アズレンプレイなんだけどアニメは見てます.出来いいよね.さすが艦これより先にアニメ化されるだけはある.ユニオンロイヤルと鉄血と重桜でそれぞれ1種類ずつナース服のクリアファイルとか作って献血ルームで配布してほしい.あ,『放課後さいころ倶楽部』も捨てがたい.翠ちゃんいいよね……仮にコラボやるならやっぱり京都府限定かになるのかな……(やると決まったわけじゃないだろ起きろ)(もう一回『ヤマノススメ』とコラボしてほしいよぉ……)(いま気づいたんだけどアズレンの鉄血って「血」って字が入ってるから献血にちょうどいいんじゃないか? プリンツ・オイゲン上から目線献血要求してくるポスターとか,どうすか)

ブコメに応答

似たような話題を似たような面子で似たようなコメントで殴り合うの見てるのは正直言って苦行なので、色々な所に飛び火するのは割とありがたい

勘弁してください.俺は楽しくオタ活や研究して気分よく献血したいだけなんです.献血ポスターを燃やされ趣味を踏み躙られた挙げ句仕事ケチつけられるとかただただ迷惑しかないんです……一部のフェミ放火してまわって一部のオタク焦土作戦しかけてきてるのは巻き込まれた村人Aとしては消耗するだけなんだ……

これはっきり言っておくけど,去年のキズナアイバッシングに付随しての文系バッシングときにも,私が書いた増田を読んで「こういうのが読めたのはよかった」と言ってる人大勢いたけど,私まだ根に持ってるからね.なんもよくねーよ.水が言葉記憶しないことについてやたら解説が充実していたり数多の歴史的事件のなかで南京大虐殺にだけやたら詳細なFAQがあったりするのはちっとも良いことじゃねーよ.文系バッシングはこれっぽっちもありがたくないです.一部のフェミに好きな作品を燃やされてもちっとも嬉しくないのと一緒.宇崎ちゃんの売上は上がったらしいけどそれを素直に喜べるかといったら喜べないでしょ.宇崎ちゃんバッシングなんてない方が遥かに良かったわけで(もちろん表現の自由というものがあり,作品への批判をするなとは言わないのだが,しかしその批判をどう思うかというのはまた別の話で……).

社会学部に運動家が集中しすぎている。法学部経済学部文学部とは比較にならないほどに集中して存在する。社会学社会学部全体がうさんくさいものとして見られるようになった。

社会学部なんて設置してる大学は少数派なんですが本当に印象論でしか語ってないんですねというのがよくわかる.偏見正当化したいだけのノイズ

この世界は全て物理法則に従って動いている、というのが本質主義なら実際それは多分正しいんだよなぁ…そこに戻れないのは単に人間の知性が追い付かないから「仕方がない」だけなので/クリーブランドロリから

ここで言ってる本質主義ってそういうことじゃないから……

本質主義採用しないことで非アカデミシャンとの対話がほぼ不可能になるリスクもっと多めに見積もった方が良いと思う

学問良心からたかだか門外漢との対話なんぞのために本質主義採用するなんてできませんわ.

私は社会学有益だと思うのだけど、ジェンダー学が社会学部全体の評価を落としてる気が。

社会学部を設置してる大学は少数派でたいていの大学社会学部なんてものはないわけですが本当に印象に基づいたお気持ち社会学を叩いているんですね(それとも,ひょっとして社会学部がある大学卒業生なのかな?).

主語サイズ問題だな。アカデミックの人は文系コンマピリオドなのか、と感じる。

人によります普通句読点使う人とかカンママル好きとかコンマピリオド派とか.出版社だと東京大学出版会横書きの本は基本コンマピリオドですね.岩波もそうだっけ?

「お気持フェミ自分のお気持の裏付けとして使用していますそもそも関係ありませんし用法も間違っています」というならわかる。フェミニズムと深い関連があるなら批判に耐えるだけの論拠が欲しい

耐える以前の問題批判側が雑すぎてマトモに相手してやる価値もないというだけの話なんですが.社会構築主義批判するなとはもちろん言わないけど,批判の質が悪ければ歯牙にもかけないよ.当たり前でしょ.

というかそもそも社会構築主義の是非と一部のお気持ちフェミ表現規制要求の是非って無関係だし.勝手にその2つを結びつけたのはアンチフェミの側.一部のお気持ちフェミには自由主義とか哲学とかのツールを使って対抗すればいい話で,社会構築主義を疑う必然性はどこにもないし,疑うっていうなら俺の立場表現規制反対派のオタクから文系研究者に変わりますよというだけの話.文系研究者としては雑なアンチフェミ議論なんて支持できるわけないでしょ.一介の市民としてなら喜んで性的解放とか表現の自由とかを叫ぶけどさ.

本来ならそこは互いに削り合ってこそ信頼性担保されるはずなのにおフェミさん達は互いにお手々つないで仲良しするからこうなの。社会構築主義信頼性担保たかったらおフェミがそれを乱用するのをたしなめろよ

マジで社会構築主義フェミニズムあいだでしか通用しない概念だと思ってんの? 馬鹿じゃないの? もう何度でも言うけど本当に馬鹿じゃないの?

文系学問について無知なのは別に悪いことじゃないけど無知なのにこんな勘違いしたままでドヤ顔で物申すのは馬鹿恥知らずだと思う.勉強しろよ.

社会構築主義ポスター批判からかにあんまり出てなかったけどいなかったかといえば居たような…。「表象」とかゆってた人はソレとは違うの?教えてください!

表象の話は『世界5月号に載ってた小宮さんのやつかな? あれは社会構築主義とはあんまり関係なくない? いやもちろん関係ないということはないんだけど,小宮さんが言ってるのは表象女性差別問題だよね.

実のところ社会構築主義ってマジで社会について分析する上でのベースとなる考え方だから社会構築主義が滲み出てくるのはある程度仕方ないところはあるんだけど,anond:20191104014500でも書いたように社会構築主義の是非以前の問題だなと思うことはあるんだよね.ジェンダーは(というかセックスも)社会的構築物だけど,それは議論の前提であって,じゃあその上でどの程度の女性表象を許容すべきかみたいなそういう話は倫理とか哲学とか思想とかの領分じゃないですか.そこに社会構築主義はどうなんだみたいな話を持ってくるの不毛すぎない? ロールズとかの話しません?

ちなみに私は小宮さんの主張には反対するんだけど『世界掲載論文の注10(236ページ)には同意する.みんなもっと本質的な話しよ.「そもそも男性だって公共空間性的消費されてるんだから架空女性が多少公共空間性的消費されてたって別にいいじゃないですか」「性的自由の拡大が目指されるべきであって表象を制約しようとするのはおかしいでしょ」「医療のための広告には高い倫理性が求められるのだとしても,人気マンガの多少えっちイラストを使った広告すら問題とされるのはおかしい.それは医療のための広告に求められる倫理範疇に収まるはずだ」みたいな話しよ.

……この規制反対増田を多数の「お気持ち棍棒」で殴り倒して口封じし「パワフル表現規制」した方が、学問論破するより遙かにコストって事は確実そう。だから規制派は扇動するのか。なるほど、俺でもそうするな。

それは過大評価ですよ.私はフェミニズム学問反論を加えているのではなく,フェミニストの一般社会に対する主張の一部に対して一人の市民として反対しているだけだもの.私は知の体系としてのフェミニズムにはちっとも触れていないので学者としてフェミニストに勝つことはできません.それはジェンダー研究の偉い先生が私の専門分野で私に勝てないのと同じ.

気持ちはわかる。が、賛成批判両側ともに多数の人間がいる以上、雑でなんも考えてない意見は出るだろうし、そういう意見は大体過激ツッコミ所が多いから目立つんだよねえ。正直、どうしようもない気がする。

フェミニストのお気持ち趣味を殴られるのもオタクお気持ち仕事を殴られるのも正直疲れ果てたというお気持ちがあるけど,でも流石に今回は献血ポスターが叩かれたということで全血献血15回以上行ってるワイもちょっとプチッと来たよね.これまでは割とフェミの言い分もわからなくもないという感じだったけどキズナアイバッシング献血ポスターバッシングで「こいつらの主張は基本聞く必要ないな」くらいにまで変わった.メチャクチャすぎるものこの2件.でもこの2件でオタク界隈に吹き荒れた文系バッシングの嵐も忘れてないからね.キズナアイバッシング献血ポスターバッシングを主導したフェミ社会学叩きや文系バッシングを煽ったオタクはどちらも僕の中では絶許という扱いです.あとpixiv論文事件での学問きのことも忘れてないぞ……(しつこい)

まあフェミことなんて無視して表現の自由満喫してオタクことなんて気にせず学問自由謳歌すべきなんだろーけども,オタクであることも学者であることも私の重要な一部なので,そう簡単に忘れることはできないんだよなー.

あー、キズナアイの時と同じ人か。私の感想としては当時のこちら(https://anond.hatelabo.jp/20181010204115)の増田とほぼ同じです。ていうか、学問重要さを訴えたいなら匿名じゃない場所でやったほうが効果的でしょうに。

ネット上の有象無象学問disってるときになんで納税者様への説明責任みたいな話になるのか理解できんわ.科研費報告書とかはちゃんと出してます論文も書いてます納税者様への責任はそれで果たしてるはず.はてブ民とか棘の米欄住人とかに丁寧に説明して差し上げる義理はどこにもないよね.

というかそういうこと言うなら同じ口で二度と民主党政権事業仕分け批判しないでほしいんだが……

匿名じゃない場所でやれ? 嫌です.自分の専門分野を誠実にさらけ出して物申した先生方がいたけど,どうなったかといえば物知らずの連中が学問分野ごと燃やしに来ただけでしょ.私は私の専門分野に無知思い込みケチをつけてくる連中を招き入れるつもりはありません.

内容はともかく、学部じゃなくて専攻なら社会学専攻は都内の大抵の大学には置いてあるぞ?

あのさ,それは何一つ否定してないじゃん? 法学部文学部と並んで社会学部って書くのはおかしいよねって話じゃん? 誰も社会学専攻は置いてないなんて言ってないじゃん? 学部名前学問分野の名称は往々にして乖離するもので,そんな肌感覚もなしに批判してるのかよって話じゃん?

ただ関西の方だと有名な私大には社会学部を設置しているところが多いので,関西の有名私大を出た人だと社会学部があるのは当たり前って思っちゃうかもしれない.関東大学でも,例のキズナアイバッシング急先鋒だったセンセの勤務先は社会学部だしね.けど繰り返すように全国的には社会学部を設置してる大学は少数派です.

社会学部」と「社会学専攻」を混ぜて論じてよいと思っている人につける薬はありません.文学文学部法学法学部区別できないってことでしょ?

ツイッターで異常に社会学者が目立つのは何故なのか

歴史学者や政治学者文学研究者もヒウィッヒヒーには生息して色々発言しているわけだけど,社会学者への偏見があるから社会学者が目立っているように見えるだけでは???

2019-05-11

文系学問における注と参考文献の話、補遺

文系学問において資料実在証明するものとは何か」(anond:20190510230425)についたブコメに応答&補足説明します。

参考文献と注は違うよ!

Wikipediaですら参考文献を求められるので、参考文献(ここで言っている注)のない本はある意味Wikipedia以下の信頼性と考えられても仕方がないことを多くの人に知らせるべきだと思う。

参考文献と注は違います! ぜんぜん別です! 参考にした本を並べてあるのが参考文献(厳密にはこの場合「参考文献一覧」)で、本文中の記述の出典を直接明らかにするのが注です!

参考文献と注については、以下の4つの組み合わせが考えられます

  • a)参考文献も注も揃っている
  • b)参考文献はあるが、注はない
  • c)参考文献はないが、注はある
  • d)参考文献も注もない

このうち、研究書として許されるのはaとcだけです。ここで問題にしているのはbとdで、多くの学術的な新書はbであり(中公新書とかでよくあるやつ)、ごくまれにdみたいな本があります最近だと、岩波新書の『ロシア革命』)。

えっ、cも許されるの? はい、許されます。なぜなら、個々の注でしっかりと典拠を示してある場合は、参考文献リスト存在せずとも出典の表示に不自由はないからです。

これだとわかりづらいかもしれないので、架空の例で説明してみます(わかりづらいかと思ったので書き直しました)。

a)増田うんこを漏らした(注1)。一方、同人作家おしっこを描いた(注2)。

(注1)はてな太郎増田研究Hatelabo2019年、819頁。

(注2)Y. Arim, Oshikko Collection (Tokyo: Press of Institute for Shonben Studies, 2019), p.8107.

参考文献リスト

Arim, Y. Oshikko Collection. Tokyo: Press of Institute for Shonben Studies, 2019.

はてな太郎増田研究Hatelabo2019年

b)増田うんこを漏らした。一方、同人作家おしっこを描いた。

参考文献リスト

Arim, Y. Oshikko Collection. Tokyo: Press of Institute for Shonben Studies, 2019.

はてな太郎増田研究Hatelabo2019年

c)増田うんこを漏らした(注1)。一方、同人作家おしっこを描いた(注2)。

(注1)はてな太郎増田研究Hatelabo2019年、819頁。

(注2)Y. Arim, Oshikko Collection (Tokyo: Press of Institute for Shonben Studies, 2019), p.8107.

d)増田うんこを漏らした。一方、同人作家おしっこを描いた。

cでも十分に出典表示として問題のないことはご理解いただけるでしょうか? 実際、英語圏でもcのような本はたまにあります。そして、著書ではなく論文レベルだと、cのようなやり方を採用している雑誌はとても多いのです(日本語圏でも英語圏でも)。いや、もちろん理想を言えばaみたいな本であるべきなんです。でも、紙幅の都合というものがあり、印刷費が嵩むからどこかを削りたい、となった場合には、真っ先に参考文献が削られてしまうのは致し方ないと思います

日本出版問題は、そこで「参考文献ではなく、注を削ろう!」という話になってしまうことです。違います注か参考文献、ページ数の関係上どちらかを削らないといけないのなら参考文献を削るべきなんです。

もし注がしっかりとつけられていれば、参考文献の欠如は「どんな文献があるかひと目でわかりづらい」程度の問題しかなりません。しかいくら参考文献があったところで、注がなければ「ではこの記述典拠はいったい何なのか」という根本的な問題惹起します(bの例から正しい出典を復元できるでしょうか?)。参考文献は省いても構いません。しかし注を省いてはダメなのです!(学術的な新規性のある本ではなく、学界の定説初心者向けにわかやす纏める本でなら、読みやすさを優先して逆の判断になっても構わないのですが)

もちろん、これはauthor-date方式やMLA styleの注をつける場合には適用できません。どういう方式かというと、次のような方式です。

author-date方式

増田うんこを漏らした(はてな 2019: 819)。一方、同人作家おしっこを描いた(Arim 2019: 8107)。

参考文献リスト

Arim, Y. 2019. Oshikko Collection. Tokyo: Press of Institute for Shonben Studies.

はてな太郎.2019.『増田研究Hatelabo

MLA style:

増田うんこを漏らした(はてな 819)。一方、同人作家おしっこを描いた(Arim 8107)。

参考文献リスト

Arim, Y. Oshikko Collection. Tokyo: Press of Institute for Shonben Studies, 2019.

はてな太郎増田研究Hatelabo2019年

こういう方式の注をつける場合には参考文献が絶対必要です。当たり前ですね(author-date方式についてはanond:20190511230117も参照)。

2種類の「参考文献」

自分実験室の試験管”イメージ偏ってるなー(´・_・`)理系論文での引用たことないんかな。普通に出典書いてるし、それを叩き台に積み上げたり、否定したりするんだが。博士論文なんか引用文献沢山乗るしね

理系学問についてのイメージが偏っている点についてはごめんなさい。でも引用については、申し訳ないけれどそちらが勘違いされていると思います(もちろん私は理系論文ちょっとしか読んだことないので、私に事実誤認があれば教えてほしいのですが)。

文系学問において、参考文献には2種類あります

このうち、理系論文で文献として挙げられるのは「先行研究」だけですよね? でも、文系では「一次文献」も参考文献に含まれ、そこへの参照が論文重要な核を占めているのです。

たとえば上皇陛下が書かれた論文(※1)を見てみると、確かに末尾にずらずらっと先行研究が並んでいますが、論文の核となる部分はあくまハゼ遺伝子を解析した部分にあって、それは当然ながら実験室で採られたデータであり、何らかの文献によって引証される類のものではないわけです。

しかし、皇族つながりで天皇陛下が書かれた論文(※2)を例に出すと、この論文において著者の主張の裏付けとなっているのは古文書における記述であって、その原本研究施設が所蔵していたり史料集として公刊されていたりするわけです(史料集って何ぞや、という点については後述)。

私が最初増田で言ったのは、この「一次文献」の問題です。多くの場合理系ではこういう資料引用しないですよね(最近だと古天文学歴史的史料引用するとかあるのかな?)。しかし今回の研究不正がなされたような分野においては、そのような資料こそが研究の核心にあるという話です。

もちろん、慌てて言いますが「なにをデータにするか」は研究対象によって異なります文化人類学のような分野では、ヨソの土地まで出かけていって住人たちとの会話を書き取ったもの資料です(この分野だと「インタビュー」とかいう生易しいものじゃなくて、ヨソの土地に住み込んでその土地言語習得して日常生活を過ごす中で遭遇した会話や出来事を持ち歩いてるノートに書き付ける、という調査方法が採られます。これを参与観察というわけですが、私にゃ無理ですわ)。記述言語学だと研究対象の言語話者にその言語を口に出してもらって記録する(「これを○○語でなんといいますか?」と聞くこともあれば、話者どうしで会話してもらってそれを横で聞くパターンもあり)、というやり方になるんだろうと思います。なので私が言っているのは、あくまでも近現代史やその隣接領域での話だと思ってください。

一次史料からといって信憑性が高いとは限らない

文系生データは出典となる書籍だったり、原典資料がある場所と。原典原典って、どんどん辿っていけるブロックチェーンみたいな形式理想ってわけか。一時情報当事者証言なら信憑性高いって判断にはなるし

違います! 当事者証言からといって必ずしも信憑性が高いわけではありません! たとえば戦争犯罪裁判にかけられた人の証言のことを考えてみてください。彼もしくは彼女証言をそのまま「信憑性が高い」として扱ってしまってよいか? そんなわけはない。

歴史学において一次史料が重視されるのは、それが「生データ」だからです。それはひょっとしたら当事者の保身によって捻じ曲げられているかもしれないし、当事者が間違えているかもしれないし、当事者が見ても聞いてもいないことは書かれていないかもしれない(たとえば「沖縄返還をめぐる日米交渉」を研究しようと思ったとき日本側の史料は「日本側の政策決定過程」を教えてはくれますが、アメリカ外交官たちがどういう考えを持って交渉に臨んでいたかを教えてはくれないのです。それを知りたければアメリカ側の史料を見るしかありません)。けれども新しい研究は必ず一次史料から出発する必要があるのです。何故ならそれは昔の人によって直接書き記されたものから

なので歴史学では「史料批判」というものを重視します。これは説明すると長くなるので詳しくは歴史学入門書とかを読んでほしいんですが、要するに史料に書かれていることはどのくらい信用できるのか、みたいなことを分析するわけですね。あれれ~? おっかしいぞ~? この人、自分は後方にいたか虐殺行為に関わってなかったって言ってるけど、部隊の記録では後方にいたなんてどこにも書いてないよ~?

(「なにが一次史料か」というのも研究対象によって変わります特に科学史史学史といった分野では「他の研究において先行研究とされている文献が一次史料である」という状況がしばしば発生するのですが、この理屈はわかっていただけますよね)

デジタルアーカイブ史料

図書館ScanSnap SV600を完備し研究する皆の熱意でデジタルライブラリが出来るといいな… P2Pで共有されればノード消滅にも耐えられる。しか日本ではプリウスミサイル上級国民は不逮捕で、P2Pプログラマ逮捕なので

出来るといいな、じゃなくて、既にあります

たとえば国立国会図書館デジタルライブラリーには幕末以降の古書が多く登録されていて、PDFで落とすことができます。archive.orgや、フランス国立図書館デジタルライブラリー「Gallica」も有名ですね。こういうところに所蔵されている文献については、わざわざ現地の図書館まで行かなくともPDFダウンロードすればそれでよいわけです。デジタル化によって歴史学者の仕事は格段にやりやすくなりました。18世紀ドイツ語の本をコタツに入ったままで入手できるんだもんなぁ。

しかし、当たり前ですが全ての史料電子化されているわけではありません。国によってデジタルライブラリーの整備状況に違いがありますし、そもそも現代以降に出版された印刷物の数を考えたら全部をデジタル化するなんて人手も時間も足りない、という場合もあるでしょうし、身も蓋もない話をすれば著作権問題もあるでしょう(とある国では、その国の図書館に直接行かないとデジタル化された史料アクセスできなかったりします。てっきりPDFはないと思っていたのですが、著作権上の問題で館内からしかアクセスできないようになっているだけだそうです)。

また、多くの国では、公文書館史料まではデジタル化は及んでいません。元増田でも書きましたが、お役所ちょっとした書き付けなんかも史料になるわけで、それ全部デジタル化しようとしたらとんでもない数になります(これについて、日本戦前外交文書のかなりの数をウェブで読めるので恵まれていますね……アジア歴史資料センター様には足を向けて寝られません)。なので未だに、現地に行って史料を直接見てくる、というのが重要になるわけです。

さらに言うと、史料が必ずしも公的機関によって保存されているとは限らず、貴族武士の子孫のおうちに保管されていて、読みたい人はご当主様の許可を得て読ませてもらう、という場合もあり、当然デジタル化の波は及んでいません。イギリスだと由緒ある大貴族屋敷には私設の文書館付属している場合もあり、日本歴史学者でもソールズベリ侯爵のお屋敷であるハットフィールドハウスに赴いて史料収集している人もいます。謝辞で「史料を閲覧させてくれた当代のソールズベリ侯に感謝する」みたいなこと書いてあって「すごい……」って思いました)

ただ、「みんなが読みたがる重要史料」については、史料をまとめた本を出すとか、史料を集めたマイクロフィルムを作るとか、そういう形で広く公開されている場合があります(たとえば第一次世界大戦の勃発に関しては、イギリスオーストリアなどの当事国が何十巻にも及ぶ史料集を出版していて、東京大学などの国内研究機関にも所蔵されています)。けれどそういうのを購入するのはお金がかかるし、何より発行から何十年も経ってしまうと入手自体が難しくなってしまう(でも著作権は残っているためデジタル化も遅々として進まない)ので、あんまりお金がなかったり新設されたばかりだったりする大学研究者は結局それらを所蔵している大学図書館に行く必要が……

「注があると読者に嫌われる」は本当か?

しろ最後の注を見て次の本を決めたりするので、注があると読まなくなる人というのがいるのにびっくり…

注なんて読みたくなければ飛ばせばいいのに注があると売れない……? やべえな世の中。/ みんな本当に自己防衛意識が弱いよね。優しい世界生きてるんだろうな

注があると読まない人が居るという話、ただ気持ちよくなるために情報摂取してる層には、正確性の担保なんてむしろ邪魔なんだろね。ワイドショー視聴者と同質。

これ、実際に「注があるから読まない」読者が本当にいるのか、と疑ってみるべき案件だと思うんですよね……。「編集から言われて注を外した」という話は学者あいから漏れ聞こえてきますが、「注があるから読んでいて苦痛だった」という話ってなかなか聞かなくないです? いやもちろん編集者のところにはそういう苦情のお便りが届いているのかもしれませんが……。「注があると売れない」という都市伝説が生き長らえているだけのような……(一般読者からしてみれば、注の存在に気づいてなかった、とか、なんか数字が振ってあるけど気にしてなかった、という場合も多いでしょうし)

注は別に読まなくてもいいです

ちゃんと注まで読んでるのね。今まで気にしたことも無かった…我ながら知的レベル低い…

注がついている本を読んでいる段階で十分かと思いますので安心してください。注は、もし興味がないならさらっと読み飛ばしても別に大丈夫ですよ。というか、注で典拠が示されていても、アラビア語とかギリシャ語とか朝鮮語とかロシア語とかで書かれている場合も多々あるわけで、そんなの普通の読者さんにチェックできるわけないですし。ただ、注を見てみると、おっ、ここはちゃんと原史料を読んで書いてるのか、なーんだ、ここは英語二次文献に頼って書いてるんだ、みたいなことがわかっちゃったりするので、学者仕事の裏側を垣間見ることができて面白いですし、どんな情報源を使って書かれているのか? をチェックしてみることは学術書だけでなく普通ニュースとかを読むときにも重要なことだと思いますよ。

ブコメ

物理分野では「参考文献」の意味増田とは異なる。参考文献は本文記述の直接の引用を表す。あとあまり明確に決まってないけど、注は捕捉説明を指す。「参考にした文献一覧」は存在しない。読書案内なら見かける。

誰がReferences(Bibliography)を参考文献と訳したのか。"refer"した文献のリストであって、本文の著述に紐づけられるものだけリストアップすればよく、逆に、何でもかんでも列挙して博識をひけらかすところではない。

や、まあ、文系でもたいていの場合は「引用文献」ってことですよ。それを「参考文献」と呼んでるだけ。参考にはなったけど言及してない文献は、私なら入れない(でも入れる人もいるかも)。

いま史学科にいる人間全員読んでリアルブクマしとけ。懇切丁寧な論文の"文法書"だぞ。

あなたがこの増田に感心してくれたことは嬉しいけれど、史学科の学生上から目線アドバイスしないでください。こんなの初歩の初歩で、史学科の学生さんならとっくに理解してます史学出身じゃない人たちが「そうだったのか~!」って言ってるだけ。別に史学科の常識を知らないのは悪いことじゃないけれど(私も他学科常識とかわかんないし)、自分が知らなかったある分野の初歩の初歩を解説されて、そこで聞きかじった内容をその分野を学んでいる人の前で「お前らこういうのよく読んどけよ~」って言えちゃうの、ちょっと傲慢すぎません?

2018-12-20

参与観察をしたがる人間が極端に少ないために「キモくて金のないオッサン」は

キモくて金はないけどネットアジ演説が得意でギリギリ決定的なミソジニー発言は隠せるインターネット論客

キモくて金がなくて自分もの考える力がない炎上予備軍オッサン階級社会だと言う事実についてあまり知られていない

2018-10-30

就活学業は…

なんか怪しい自称教授」が怪しい文章を書いて広めているよ。

言いたいことも分かるけど、余りに粗雑で本人がデタラメすぎる。

"就活学業がおろそかになる"はデタラメ/採用日程の見直し教育プラス

法政大学 キャリアデザイン学部 教授 田中 研之輔https://president.jp/articles/-/26540

しかし、「就活のせいで、学業がおろそかになる」というのは、本当なのでしょうか?

この主張が正しいとするならば、

就活がないなら、学業がおろそかにならない」、

就活ルールがあれば、学業がおろそかにならない」

ということが、立証されなければなりません。

はい、分かりやすい嘘いただきました。

この時点でこの自称教授」が、論理学の基礎もわきまえないアホか、詭弁を弄する詐欺師のどちらかであることが決定です。

「AのせいでBになる」という文は、必ずしも「AがBの唯一の原因である」ことを意味しません。特に今回のケースで、誰も「学業がおろそかになる唯一の原因は就活だ」と主張しているわけではないです。

従って、「就活学業をおろそかにさせる」という主張は、別に就活がなければ学業がおろそかにならない」ことを証明しなくても成立します。

要するに、学業をおろそかにさせる原因はいくつかあって、別に就活を無くしても学業がおろそかになる原因は他にもあるかもしれないわけです。

からといってそれは就活学業に悪影響が「ない」ことの証明には全くなりません。


たとえば「喫煙肺がんの原因になる」ことを証明するのに

喫煙しなければ肺がんにならない」ことを立証しなくてはいけないでしょうか?

おかしいですね。喫煙肺がんの「唯一の原因」ではないからです。

ゲームをするからお前は勉強しないだ!」という母ちゃんのお怒りの言葉に対して、

「いや、ゲームしないからといって勉強するとは限らないから同じだよ。」

と言ってゲームをし続ければどうなりますか? ちょっと大変なことになりそうですね。

ちゃん別にゲーム宿題をやらない唯一の原因だ」と主張しているわけではないからです。

就活のせいで、学業がおろそかになる」と主張する人も、同じように「就活学業をおろそかにする唯一の原因だ」と言っているわけではないのです。

なのに「就活がなくても学業をおろそかにしないとは限らないから同じだよ。」と主張するのは、どういうことでしょう?

これも、「相手の言っていないことを準備して、それに反論して論破する」いわゆる「藁人形ストローマン論法」の一種です。

いやしくも、まともな大学教授職を名乗る人が、こんな屁理屈署名記事で書いていいんでしょうか。

大学問題か、この横文字学部の体質なのか、それとも全く本人の問題なのか…

本人の博士論文

都市下位文化集団相互行為に関する社会学研究 スケートボーダー都市エスノグラフィー」2016,一橋

…の書籍化されたものの紹介

「多年にわたる参与観察により、文化行為媒介にして形成されたこの若年集団の軌跡へと迫」る

を見るに、そもそも(あまり論理科学手法を用いないフィールドタイプ社会学者としての)本人の資質問題ではないか想像されますが、それにしても余りにお粗末でクラクラしますね。

2018-10-14

27歳男性だけど人生詰んだ

スペック

 

仕事ができない

スペックの欄に書いた通りうつ病を患っている。そのため仕事ができない。

原子力関係シンクタンクで働いていたところ、ある日ストレスの多さから突然自殺未遂をし、以降休職している。

しかし先日、精神障害があるのでこれ以上雇えませんという宣告を勤務先から受けた。

ハローワークに行って障害者枠で仕事を探そうとしたが、「主治医から仕事ができる』と言われないと仕事探しは出来ない」と門前払いされた。

大学非常勤講師にでもなるかと思ってJrec-INを見てみても、能力的な面や専攻的な面、そもそも業績を上げていない(零細学会で一回発表しただけ)より、自分が出来そうな講師職はなかった。

理系研究職ならまだあるだろうが、文系で「若者の『地元意識』を数理統計的アプローチから明らかにする」という謎研究修士課程でしていた身としては、研究を生かせる職があるとは思えない。

SPSS(重回帰分析・二項ロジスティック解析)とかEXCEL太閤KH CODERなら何とか使えるが、それらが使えても何の足しにもならない。

プログラミング数学高校時代文系クラスだったため数ⅢCは受けていない)、英語が出来ないため、プログラマーとして働くこともできない。

実家に帰って仕事を探すにしても、実家熊本の山奥である。一件だけ工場ライン工があったが、体力がないので長続きはしないだろう。土木作業員警備員も同様の理由から候補から外れる。

普通免許も持っていないため、できる仕事も限られてくる。外回り営業職はまず無理だろう。

そもそもコミュニケーション能力が皆無だと医者から言われたため、高度なコミュニケーション感情労働を要する仕事コンビニファミレス居酒屋店員営業職)も向かないだろう。

結果できる仕事ほとんどないことになる。フリーターすら無理であるバイトすらできないなら詰みである

 

お金がない

仕事ができないので、細々と傷病手当金生活している。

しか家賃(6万7000円)を払うのもやっとで、生活できるとは思えない。

親に金を無心するにしても、実家お金ほとんどないとのことなので、お金無心することは出来ない。

社会保障の緊縮化が叫ばれる中、生活保護受給するのも難しいだろう。

貯金も尽きそうになる中、お金がないのは致命的である東京の自宅を引き払って実家に戻るにした場合、恐らく二度と東京には戻れず、実家軟禁され続けることだろう。

その場合仕事もないし一生ニートになるしかないが、その場合貧乏実家さら迷惑をかけてしまうことになる。

宝くじ一等当たれば話は別だが、そうでないなら人生詰みである

 

友達がいない

コミュニケーション能力がないためコンビニバイトすら務まらないということは先述したが、コミュニケーション能力の欠如は友達がいないという形でも顕在化する。

友達がいなければ自身が抱える孤独とかを吐き出せる相手もいないということになる。また、友達がいないことは社会から孤立していることを表している。

社会から孤立している人が人的資源を使って今の窮状から脱することは出来ない。詰みである

大学時代オタクコンテンツ消費者インサイトを探るための参与観察の一環として漫画研究会に所属していた。そこで友人関係を築いておけばよかったと後悔することしきりである

からは入れる漫画研究会的なところはなさそうだし。

 

楽しみがない

うつ病をり患しているという事情も勘案せねばならないが、それを差し引いても日々の生活の楽しみがまるでない。

戦隊モノ仮面ライダーウルトラマン、一部の深夜アニメ日常系)が好きだったのだが、最近そういうのを見ても面白さとかを感じることはなくなった。ゲームも同様である

成城石井に行くために秋葉原に行くことが結構あるのだが、そこでアニメ漫画ラノベゲームを楽しんでいる人を見ると嫉妬で頭がおかしくなりそうになる。

そのほかに楽しみがあればいいのだが、それもない。大学学部生の頃までは鉄道模型とかトンネル巡りとかしていたのだが、お金がないせいでそういった趣味ももはや手を出せない。

楽しみがなく生ける屍になっている。楽しみがなければ生きる希望もない。生きる希望がないことは人生詰みである

 

自殺すらできない

自殺すれば楽になるとは思っている。他人迷惑をかけ続けている以上、けじめとして自殺しなければならない思っている。しか自殺すらできない状況である

先日も神奈川県ダム自殺未遂をして警察保護され、父親が迎えに来たが、熊本から神奈川まで往復数万円かかった。そういった経済的支出が出来るほどの余裕は実家にはない。

今度自殺未遂したら一生実家に軟禁するぞと両親から言われた。実家軟禁されれば仕事することも、金を稼ぐことも、鉄道模型トンネル巡りもできなくなる。

実家通信回線は貧弱なので、アニメ特撮インターネットで見ることもできない。

まり、今度自殺未遂をしたら仕事お金友達も楽しみもすべて親により永遠に奪われることになる。それだけは何としても避けたい。

年末スピリタスを一気飲みして自殺しようかと考えていたが、それもかなわぬ夢となりそうだ。

家族や周辺の人々に不幸をまき散らしている自分がいてよい道理などない。詰んでいる人生から離脱することすらできない。これを地獄と言わずに何と言おうか。

 

結局人生詰んでいる

これから先どうすればいいかからない。

実家に戻ったら二度と東京には戻れないし、働けるような職もない。つまり一生ニートでいることが確定である。何としてもそれは避けたい。

からと言って東京にい続けるにしてもランニングコストがかかりすぎて、お金を費消することになる。お金が無くなれば生活できなくなり詰みである

自殺するような真似をすれば実家に一生軟禁確定である。だからと言って無駄に生をむさぼっていても詰んだ状況から脱出する術は一向に見いだせない。

結局自分人生は詰んでしまったのだ。自殺できないので、来世に期待すらできない。

クソみたいな人生なので皆さん嗤ってください。

 
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