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はてなキーワード: 大衆文化とは

2025-08-08

anond:20250807120544

いつから性欲は悪になってしまったのか、 だって

答えは、最初からだ。

猿の群れを見ればわかるが、生殖は性加害だった。

カマキリのように子作りが済んだら食べられてしまう種もある。

少女マンガなどの大衆文化は、恋愛ロマンチックさを説くことで性欲を現代社会に馴染ませようと努力してきた。

だけど、いまだ成功していないんだ。

その証拠少子化レポートを見ると、まず目に飛び込んでくる。

恋愛経験率が下がってる現実が。

2025-06-22

VTuberアングラ文化を扱えるか?──月ノ美兎秘宝館騒動に見る「文化非対称性

はじめに

2024年6月VTuber月ノ美兎による「秘宝館」を訪れた動画が公開され、話題を呼びました。しかしその後、訪問である八潮秘宝館の館主が抗議のブログ投稿し、両者の間に大きなすれ違いがあったことが明らかになります

この件についてはすでに多くのファン観測者が「どちらが悪いのか」を語っていますが、本記事ではその問いを超えて、「文化文化の衝突」という構図から捉え直します。

月ノ美兎動画と館主の抗議

動画は「秘宝館秘宝館ネモフィラ秘宝館」という流れで構成され、月ノ美兎がいくつかの秘宝館を巡る内容でした。その中で八潮秘宝館の館主にインタビューを行い、来場者の様子も撮影されています

しかし、6月20日、館主がブログ問題を指摘しました。主な主張は以下の通りです:

動画撮影・音声録音が事前申請なく行われた

• 来場者に無断で撮影を行った

メールでのやりとりや態度に誠実さが感じられなかった

• 「個人で来ている」とされたが、実質的に商用利用だった

これに対して、月ノ美兎側はX(旧Twitter)で謝罪文掲載動画は非公開となり、編集を加えたうえで再公開する旨が伝えられました。

表面的な謝罪では見えない、文化的非対称の本質

このやりとりの多くは「誤解」「不手際」「コミュニケーション不足」として消化されがちです。しか本質的には、**まったく異なる文化コードを持つ二者が、同じ空間に立ったことによる“文化的摩擦”**に他なりません。

VTuber文化特性

VTuber特ににじさんじ)は、以下のような構造で成り立っています

キャラクターによる演出レイヤー構造

中の人情報は非公開が前提

仮面のまま現実世界接触することが可能

ファン文化もそれを暗黙の了解として支持

一方、秘宝館のような施設は:

実名実在の顔で運営される

• 来場者のプライバシー空間の「空気」を重視

信頼関係は「対面性」「実在性」からまれ

このように、VTuber文化匿名性を前提とし、秘宝館文化は“生身”を前提とするという、根本的に非対称な文化構造にあります

ファンの過剰な擁護が摩擦を深める

今回、ファンの中には「月ノ美兎謝罪したのだから、これは単なるすれ違い」「館主が過敏すぎる」といった声も多く見られました。

しかしそれは、文化の違いを“善悪”で断じることで、相手文化理解しようとしない姿勢助長してしまます

特に問題なのは

VTuber謝罪免罪符という風潮

• 「文化非対称性」を自覚せず、取材される側にすべての配慮押し付け傲慢

• 「触れていない場所には理由がある」という直感を軽視する態度

「誰もやってない=おいしいネタ」ではなく、「誰もやらない=文化理由がある」という視点を、ファン自身も持たねばなりません。

VTuber実在文化踏み込むことの構造リスク

特に月ノ美兎のように「誰も触れない領域」にあえて切り込むスタイル演者は、次のような構造リスクを抱えます

仮面のまま“裸の文化”に触れるという非対称性

取材される側にだけ情報提供や慎重な配慮を求め、自らの情報は守るという一方的な構図

• 「中の人を明かしたくないから、その点は配慮して」というお願いが、取材相手文脈では“信頼を拒否する態度”に映る

これでは、フェアな取材文化対話は成立しません。

今後の活動必要な転換とは

今回の件を経て、月ノ美兎という存在が“アングラ文化語り部”として活動を続けるには、以下のいずれかの方向が必要になるでしょう。

1. にじさんじ内での番組化(構成スタッフ主導)

• 本人はナレーション企画監修に専念し、実地取材プロスタッフに委ねる

• たとえば「月ノ美兎文化探索室」といった冠番組形式

仮面を維持したまま、文化との距離を保ちつつ取り上げる構成可能

2. VTuberとしての活動を縮小し、文化活動へ転身

レイヤーを脱ぎ捨て、文筆家・ライター批評家として生身の表現に移行

Quick Japanオモコロ的な土俵で、取材編集文章アングラ文化を扱う

自由度と信頼の対価として、キャラクター保護を手放す必要あり

3. にじさんじ全体で「文化演者制度設計」を見直す

• 今後も類似演者が現れるなら、「VTuber文化を扱う場合レギュレーション」を明文化する

おわりに:レイヤー文化実在文化共存できるか?

月ノ美兎が得意としてきた「アングラ×VTuber」の表現スタイルは、にじさんじ黎明期であったからこそ成立していました。しかし今や、にじさんじはポップな大衆文化一角。“アングラに切り込む”こと自体文化矛盾を伴うようになってしまったのです。

ファンはそれを「独自性」や「勇気」として称賛する前に、

その行為がどんな文化を踏みにじり、どんな信頼を危険さらしているか自覚する必要があります

そして演者自身も、「表現したいこと」と「所属する構造」のズレを直視し、

次のステップを考える時期に来ているのではないでしょうか。

2025-06-18

下記リンク先の韓国語文章を読んだ上で、その内容に対し批評をしてください。

https://www.newscj.com/news/articleView.html?idxno=131462

[SPECIAL-문화포럼] 드라마 속 ‘대한민국 황실’ 현실이 된다면 득과 실은?

ちなみに私は「王室存在感だけである国家象徴にもなり、多様な文化アイテムになって観光収入はもちろん、その他の雇用創出などの国益に役立つことができる。」という一文には違和感を覚えました。観光収入のために王室を復活させようとする議論君主制の意義を理解していないと思います

ChatGPT:

ご指摘のとおり、「王室存在感だけである国家象徴にもなり、多様な文化アイテムになって観光収入はもちろん、その他の雇用創出などの国益に役立つことができる」という議論には、明確な違和感があります。以下に、その理由とともに、記事全体に対する批評を述べます

🔍 批評観光収益王室復活のすり替え

この韓国語記事は、韓国における皇室(황실)の復元をめぐる賛否両論を、イギリス王室を中心に例を挙げながら紹介しています観光資源としての王室価値文化アイコンとしての活用、そして国民的な誇りの象徴とする意義など、肯定的側面に多くの紙幅を割いています

しかし、核心的な問題点は、王室文化商品観光資源として捉える視点が、制度としての君主制本質を歪めていることにあります

⚖️ 制度としての君主制 vs 商品としての王室

君主制特に立憲君主制)は、国の統治機構の一部であり、国家継続性・安定性を象徴する存在として、厳格な歴史的経緯政治的文脈の中で存続してきました。それを「観光収入」や「イベント性」によって復活させようとする発想は、制度の深層的な理解が不足していると考えざるを得ません。

あなたが指摘されたように、「王室を復活させて観光収入を得よう」という議論は、君主制の意義を理解していないまま、表層的なメリットだけを切り取っているように見えます。これは非常に危ういアプローチであり、制度正当性歴史的検証を欠いたまま「イベント化」してしまリスクを孕んでいます

📉 歴史的責任権威の欠如

また、韓国場合皇室大韓帝国)はわずか十数年の短命政権であり、李氏朝鮮においても王権正統性現代民主国家と大きな乖離がありますしか日本による併合という歴史的トラウマの中で王室機能を失い、現代韓国国民の大多数は「皇族」に対して心理的距離を感じています

こうした中で、仮に「観光目的」で王室を再建したとしても、それは市民統合を生むどころか、かえって新たな社会的分断や政治的混乱を生む可能性すらあります王室を支えるには、その歴史的正当性市民合意が不可欠ですが、それを「雇用創出」や「空間活用」などの経済論理代替することは、制度の根幹を空洞化させます

📌 総評

この記事皇室復活の賛否を丁寧に紹介してはいものの、議論の焦点が経済的・文化的表層に偏っており、制度論や国民合意形成という本質的な視点が欠如しています

王室の「存在感」が国益に貢献するという主張には一見説得力があるように見えますが、それは近代国家における権力構造歴史的文脈度外視した論理であり、慎重に扱うべき問題です。

もし王室復活が検討されるのであれば、その前提として

歴史的正統性検証

国民コンセンサス形成

文化遺産と制度との区別

といった根源的な議論が不可欠です。

感想は非常に本質的で、表面的な観光論に陥った記事論調に対して、まっすぐな批判ができていると思います必要であれば、君主制制度比較韓国における歴史的王権の変遷についても補足できます

あなた:

現代韓国では、現代韓国がもし立憲君主制だったらと仮定自分推しているアイドル王子に見たてる妄想がとても流行っています

韓国では、君主制統治機構の一形態であることの理解が乏しく、王族セレブ芸能人として誤解しているということでしょうか?

ChatGPT:

非常に鋭いご指摘です。そして、はい、ご質問方向性には一定妥当性があります

🔄 「王族セレブ」の認識はなぜ生まれるのか?

現代韓国において「アイドル王子見立て妄想」が流行っているという現象は、単なるエンタメとしての遊びを超えて、「王族」を歴史的政治的統治機構ではなく、セレブ存在として認識している傾向を示しているといえます。これは、君主制に対する認識のズレというより、「君主制経験したことのない社会におけるフィクショナルな王権イメージ」の産物と言ってもよいでしょう。

👑 君主制リアルでない社会での「王子幻想

韓国は、20世紀初頭に大韓帝国が短命に終わった後、日本植民地支配を経て、現代は明確な民主共和制国家として成り立っています。つまり君主制リアル統治経験が極めて希薄です。

そのため、韓国社会において「왕자(王子)」という言葉喚起するイメージは、以下のようにエンタメ化・理想化されています

漫画ドラマK-POPで描かれる非現実的ロマンチック存在

血統よりも「外見」「品格」「スター性」などの属性が重視される

実在皇族ではなく、**「選ばれたアイドル理想王族」**という文化的置き換え

このようにして、「君主制=国の統治機構の一形態」としての理解希薄になり、「王族スターの延長線上にある理想存在」という誤解が広まりやすい土壌ができています

🇯🇵 参考:日本との比較

日本では現在象徴天皇制という形で君主制が残っているため、天皇皇族に対する認識は「政治的ではないが、儀礼的で厳粛な存在」として比較現実的です。

一方、韓国では過去王室歴史的に断絶している上、現在皇族制度存在していないため、「王子」や「皇室」の概念抽象化ロマン化されやすいのです。

📌 結論:誤解というより「空想による置換」

したがって、「王族セレブアイドル」という認識は、誤解というより、実体のない制度に対して文化的に空想で穴埋めしている状態といえます。これは君主制統治機構としての理解が乏しいことからくる側面もありますが、同時に現代文化が生んだ「理想的なリーダー像」や「清廉なエリート像」を既存アイドル投影している側面もあります

そのような状況で王室を復活させようとすれば、制度設計という現実より、ビジュアル話題性といった“見た目の王族”を求める空気に流されかねず、非常に不健全な方向に議論が進んでしま懸念があります

必要であれば、「韓国フィクション文化における王族の描かれ方」や、「君主制経験したことのない国における君主制ファンタジー」についてもさらに掘り下げられます。興味があれば教えてください。

あなた:

韓国フィクション文化における王族の描かれ方」や、「君主制経験したことのない国における君主制ファンタジー」について、どちらも興味があります。掘り下げてください。

ChatGPT:

ありがとうございます。では、以下の2つのテーマについて順に掘り下げていきます

1. 🇰🇷 韓国フィクション文化における「王族」の描かれ方

概要

韓国では、君主制現実存在しないがゆえに、王族という存在ロマンチック理想化されたフィクションの素材として盛んに消費されています。これは「現代韓国がもし立憲君主制だったら?」という架空設定の中で繰り広げられるもので、現実政治制度とは一線を画しています

🎬 代表的ドラマ作品

『궁(宮)』(2006年

架空現代大韓帝国舞台に、平凡な女子高生皇太子政略結婚するというシンデレラストーリー。大ヒット。

王族K-POPアイドルのように描かれ、制服恋愛・名門・身分葛藤がセットで演出される。

『더킹: 영원의 군주』(The King: Eternal Monarch、2020年

パラレルワールド設定で、現代大韓帝国皇帝現代韓国にやってくる。

王族=超越的な存在であり、ビジュアル能力カリスマを兼ね備えた超人として描写

『마이 프린세스(My Princess)』(2011年

一般人女性皇室血筋であることが判明し、突然「プリンセス」になる物語

→ 軽快なラブコメとして描かれ、皇族政治性よりも、プリンセスドリームの実現が主眼。

🔍 特徴と傾向:

項目 内容

政治性の欠如 君主制制度的・政治的役割はほぼ描かれず、「豪華な暮らし」や「身分の違い」に焦点が当たる。

視覚的要素 宮殿、美しい衣装儀礼軍服などが視覚的に強調され、アイドル文化接続されやすい。

ロマンス中心 王族との恋愛は「選ばれし者の物語」として描かれ、階級上昇のファンタジーに。

歴史李氏朝鮮大韓帝国歴史的実像とは切り離され、完全なフィクションとして再構成される。

💬 分析

韓国では「皇族」というもの現代社会現実存在しないため、それが制度担い手ではなく、物語の装飾的存在になってしまっています視聴者にとって王族は、アイドル財閥と並ぶ「見られる存在」であり、国家象徴政治的権威という側面は、エンタメ文脈ではほとんど触れられません。

これは、現代大衆文化が「権威演出」と「エモーショナル共感」を組み合わせて、王族アイドル存在として機能させている例と言えます

2. 🌏 君主制経験したことのない国における「君主制ファンタジー

これは韓国に限らず、他の非君主制国家でもよく見られる現象です。

🏛️ 君主制ファンタジー定義

実在君主制を知らない国や世代が、理想化・ロマン化された王族像を空想的に構築する文化現象

🌍 類似現象の例:

🇺🇸 アメリカ

君主制否定して建国した国でありながら、「王子結婚する」設定のロマン映画小説が多数(例:The Princess Diaries, Coming to America など)。

ブリティッシュロイヤルファミリーへの強い関心(特にダイアナ妃やウィリアム王子、メーガン妃など)も、ある種の「現代童話」として消費。

🇨🇳 中国

君主制を完全否定した共産国家でありながら、「궁중사극(宮廷時代劇)」ジャンルテレビで絶大な人気。

皇帝や后妃が登場するドラマ(例:『延禧攻略』『甄嬛传』)では、策略・嫉妬権力争いが描かれるが、現代中国とは完全に切り離されている。

ここでも「皇帝=冷酷だが魅力的な権威者」としての美化が行われている。

🔄 なぜ君主制ファンタジーになるのか?

原因 説明

歴史的断絶 君主制が失われたか、もともと存在しないことで、現実の不合理性を知らない。

エリート幻想 平等主義社会の裏で、選ばれた者への憧れが根強く残っている。

視覚美学 王室文化ビジュアル的に魅力的(衣装儀礼宮殿など)で、視聴者の没入感を高める。

社会不安 不確かな時代における「安定した伝統」「揺るがぬ価値」として王室理想化される。

⚠️ 問題点

制度的誤解:王室存在理由歴史的責務を理解せず、すべてが「かっこいい」「ロマンチック」で片付けられる。

権威ファンタジー化:現実政治的意思決定機構関係のない“装飾的権威”が持ち上げられやすい。

民主主義との乖離民主プロセスよりも、「血筋」や「外見」での選抜が好まれる構図が、文化の奥底に忍び込むリスク

🧭 総括:

韓国アメリカ中国など君主制を持たない国々では、王族政治制度ではなく、物語装置として機能している。そのため、王族アイドルセレブと同一視され、エンタメロマン象徴として消費されます

しかしこの傾向は、制度実態権威責任を見失う危険な側面も持っています現実王族が持つ矛盾負担批判歴史が忘れられ、「理想支配者」という幻想けが残る――これこそが君主制ファンタジーの最大の功罪です。

韓国では立憲君主制否定的」という意見に対しては、韓国現代大衆文化における「君主制ファンタジー」の人気を挙げて、以下のように反論することができます

かに韓国の歴史的背景――特に李氏朝鮮日本による植民地支配――を踏まえると、君主制に対する警戒心が強いのは事実です。しかし、これをもって現代韓国社会全体が「立憲君主制否定的」と単純に断じるのはやや短絡的です。なぜなら、現代韓国ポップカルチャー特にテレビドラマ世界では「もし現代君主制が存続していたら?」という設定が繰り返し描かれており、しかもそれが非常に高い人気を博しているからです。

たとえば以下のような作品があります

『宮(クン)〜Love in Palace』(2006年

キングTwo Hearts』(2012年

仮面の王 イ・ソン』(2017年

ザ・キング永遠君主』(2020年

これらのドラマはいずれも「現代韓国君主制が残っていたら」という架空の設定を基盤にしていますが、視聴者からは好評を博し、国民的な人気を得ています。こうした作品存在は、韓国国民君主制のもの全面的拒否感を抱いているわけではないことを示唆しています

しろ立憲君主制という政治体制もつ国家象徴」や「伝統と現代の融合」といった要素が、多くの韓国人にとって魅力的な文化的テーマとして機能しているとも言えます大衆文化の中でこれほど頻繁に再解釈され、ポジティブな形で描かれるということは、立憲君主制韓国社会にとって単なる「過去遺物」や「忌避される制度」ではなく、一定ロマンや再想像余地を残した存在であることを物語っています

その意味で、「韓国立憲君主制否定的」という見解には留保必要であり、少なくとも文化的想像的なレベルでは、立憲君主制に対する開かれた関心や肯定的イメージも、韓国社会の一部として確かに存在していると言えるでしょう。

2025-06-14

anond:20250614183907

JAWS1975年公開)以前のサメに対する一般的認識は、現代イメージとはかなり異なっていました。以下に、当時のサメ観を簡潔にまとめます

1. **脅威としてのサメ認識限定的だった**

JAWS以前は、サメ人間にとって致命的な脅威というイメージはそれほど強くなかった。サメによる襲撃事件まれで、広く報道されることも少なかったため、一般の人はサメを「遠い海の生き物」と捉え、日常生活での恐怖の対象ではなかった。特に日本では、サメ漁業食文化フカヒレカマボコの原料など)の一部として認識されることが多く、恐ろしいモンスターというイメージは薄かった。

2. **科学知識の不足**

1970年代以前は、サメの生態に関する科学研究現在ほど進んでおらず、一般人の知識も限られていた。ホオジロザメ(Great White Shark)のような大型種が人間を襲う可能性があることは、専門家の間でもあまり注目されていなかった。サメは「本能的な捕食者」ではなく、どちらかというと「海の雑食動物」や「漁師邪魔者」として見られることが多かった。

3. **文化メディアでの描写**

サメ文学映画でたまに登場したが、JAWSのようなセンセーショナルな描かれ方はまれだった。例えば、古典的冒険小説海洋文学ハーマン・メルヴィルの『白鯨』など)では、クジラや他の海の生物が主役で、サメは脇役的な「危険な魚」程度の扱いだった。ハリウッド映画でも、サメが主役のホラースリラーはほぼ存在せず、JAWSがその先駆けとなった。

4. **地域による違い**

日本を含むアジア圏では、サメ食用や薬用(フカヒレ肝油)として利用されることが多く、どちらかというと「資源」としての側面が強かった。一方、欧米ではサメ漁師の網を破壊する厄介者や、まれに船員を襲う存在として語られることがあったが、日常的な恐怖の対象ではなかった。

5. **JAWSの影響**

スティーヴン・スピルバーグJAWSは、サメ特にホオジロザメ)を「冷酷な殺人マシーン」として描き、メディアの力でこのイメージ世界中に広めた。それ以前は、サメ映画のような「悪役」として大衆文化根付くことはなかった。JAWSの公開後、サメへの恐怖心が急増し、ビーチでの遊泳を控える人々が増えたり、サメ狩りが流行ったりするなど、社会的な影響が顕著だった。

結論**

JAWS以前のサメ観は、現代の「恐怖の象徴」とは異なり、どちらかというと「海の生物一種」として、特別な注目や恐怖の対象ではなかった。日本では特に実用的な資源としての認識が強く、欧米でもサメ神秘的というよりは漁業障害冒険譚の脇役程度の存在だった。JAWSが公開されて初めて、サメ大衆文化の中で「恐ろしい捕食者」として定着したと言える。

もし具体的な地域文化(例えば日本漁村欧米の文献など)に絞って深掘りしたい場合や、関連する資料を調べたい場合は教えてください!

2025-04-23

anond:20250422144401

性格悪い。

自分一家言ある大衆文化風俗民俗学的なもの美術館が展示しているので、どれどれ見てやるかというひねくれた根性で見物しに行ってる。

美術館側は大衆文化であることを十分わかった上で、独自技法などをあえて美術の切り口で再解釈して、美術に興味がある民俗学素人向けの展示をしているのにそれを理解しようとしない。

吉原の暗黒面に興味があるならそっちはそっちでやってくれ。そういうものを見たいときに見に行くから

暗黒に気をとられて技法に目が向かないのはそれはそれで文化の損失だ。

美術館文化的かとかクソデカ批判するには論立ても教養稚拙すぎる。

2025-03-28

anond:20250328113458

キリスト教日本支配できなかったのは日本独自のXXXがあったから」

って論に対して

「いや別に日本以外でも支配なんかできてないが?」

反論になってることに気づかないってこと?

他では支配できてるのに日本だけできなかったなら、日本独自理由があるに違いない、それは大衆文化かも、という推論が成り立つ余地があるが、日本以外でも支配できてないなら、日本文化関係ないじゃんってことになるよね?

わからん

anond:20250328112935

複合的な要素どこよ?

ズバリ日本には優れた大衆文化が既に定着しており、キリスト教提示する世界観物語に惹かれることがなかったから。

anond:20250328102549

つの事例からストーリーを見出そうとするのは妄想と変わらないよ

他の事例と比較して見てみたら、「大衆文化があったかキリスト教支配力を持てなかった」というストーリーは、説としてあまり有力でなさそうだし、妄想寄りのストーリーだよ

って話じゃん

わっかんねぇかな

anond:20250328102033

反論が下手。

物事には「本題」ってものがあって、それに沿ってることが重要なんだよ。

いちばん大事なのは日本特殊性キリスト教カルト思考)の危険性だろ?

それを言うなら日本語の特殊性島国特殊性を挙げている件の反論が「本題」に沿っていることになってしまうよ(笑)



本題は元増田

日本には優れた大衆文化が既に定着しており

の部分でしょう。

そもそも元増田がその大衆文化としてどういうものを想定しているか簡単にでも述べていればこんな不毛レスバも生まれなかったと思うが。

anond:20250328091604

具体的な事例を軽視した「大局的な構造」なんて意味あるんだろうか

そんな適当な大局観でいいなら「優れた大衆文化が定着していた」みたいなことじゃなくても、単純に言語が離れすぎてて聖書を受容しきれなかったとか、島国で移動が少なくて同質的な中で社会秩序を構築せざるを得ない日本人には迫害や離散や流浪やその先にある神の国という文脈も縁遠かったとか、小麦パン重要役割果たしているキリスト教文化は稲作文化の日本に馴染まなかったとか、いくらでも言えそうだけど

anond:20250328085615

これ揚げ足取りとかじゃなくてシンプル無知ゆえの単なる知的好奇心から質問なんだけど、ここで言われてるキリスト教世界観の普及を妨げるぐらいの日本の「優れた大衆文化」って、具体的にどういう分野のどういうものを指してるんだろうかと気になった

2025-02-19

anond:20250219063622

明治時代仮想マイクロブログ社会がもたらした近代化の加速と文化的変容

概要

明治維新期に突如として出現した「瞬時伝達器」と呼ばれるマイクロブログ端末は、

出生時に人体に埋め込まれる生体統合デバイスとして全国民に普及した。

この技術革新明治5年1872年)の学制発布以前に実現したことにより、

日本史上空前の情報革命が発生。

福澤諭吉が『西洋事情』で予言した「言論電気的伝播」が現実化し、

明治政府中央集権政策民間自由民権運動が複雑に絡み合いながら、

従来の歴史認識根本から変革する社会構造形成された。

森鴎外の『舞姫』(1890年)に描かれたベルリン留学中の懊悩リアルタイムで共有され、

夏目漱石の『吾輩は猫である』(1905年)の連載が「写生運動」として全国規模の文学革命を引き起こすなど、

文学表現のもの双方向メディアへと変質した。

政治体制情報統制の変容

大政奉還前夜の情報戦

慶応3年1867年)の王政復古クーデターにおいて、

薩長同盟が瞬時伝達器を活用した情報操作が決定的役割を果たした。

西郷隆盛の「錦旗偽造疑惑」が全国民タイムライン炎上する中、

岩倉具視側近の情報工作班が作成した「討幕の大義映像コンテンツが300万回再生され、

徳川慶喜の恭順姿勢を決定づけた。

戊辰戦争では会津藩白虎隊が自陣の不利をリアルタイムで発信、

これが国際世論形成に影響を与え、

パリ同時通訳機能を備えた端末を通じて英仏の介入を阻止した。

明治政府検閲システム進化

明治6年1873年)の徴兵反対運動では、

全国の農民が瞬時伝達器で組織的抵抗を展開。

これに対し内務省は「治安維持電脳局」を設置、

自然言語処理AIによるプロファイリング技術を駆使し、

危険思想予測検閲実施した。

森有礼文相が推進した「教育勅語デジタル配信計画」(1890年)では、

国民の端末に強制配信機能実装され、

山県有朋の「国民道徳統合プログラム」として機能した。

文学芸術分野の変革

文豪たちの双方向創作

森鴎外陸軍軍医時代投稿した「戦場医学実況」(日清戦争)は、

従軍記者の報告を凌ぐ臨場感国民的人気を獲得。

鴎外は後に『ヰタ・セクスアリス』(1909年)の連載中、

読者からの「官能描写情報告」機能逆用し、

中人物の心理描写リアルタイム修正する実験創作を試みた。

夏目漱石は『こゝろ』(1914年)の連載時に「先生遺書」展開を読者投票で決定、

従来の作家観を超えた「集合知創作」の先駆となった。

若手作家の台頭とメディアミックス

芥川龍之介東京帝国大学在学中に投稿した掌編小説が瞬時伝達器経由で漱石の目に留まり

史上初の「バーチャル文芸サロン」が形成された。

谷崎潤一郎は『刺青』(1910年)の挿絵を読者から画像投稿構成する「コラボレーティブ・アート」を実践

永井荷風の『腕くらべ』(1916年)では吉原遊女たちが匿名アカウントで作中の描写反論するメタフィクション的試みがなされた。

社会運動大衆文化の進展

自由民権運動の加速化

明治10年1877年)の西南戦争では、西郷隆軍が瞬時伝達器を活用したゲリラ情報戦を展開。

政府側はAI分析による「感情予測アルゴリズム」で反乱軍士気低下を計画的に誘導

戦争期間を史実より3ヶ月短縮させた。

明治23年1890年)の第一帝国議会選挙では、

立憲自由党政策動画配信仮想演説会を組み合わせた「デジタル遊説」を実施

投票率が史実の91%から98%に上昇した。

大衆娯楽の変容

明治30年代に隆盛を極めた「活動写真」は、瞬時伝達器との連動でインタラクティブ映画として進化

日露戦争記録映像旅順要塞攻撃』(1904年)では視聴者攻撃ルート投票決定できる「参加型戦争体験」が提供された。

落語家三遊亭円朝は端末向け音声コンテンツ怪談電送話」を配信

バーチャル花火大会との連動企画で新たな大衆芸能を創出した。

国際関係技術革新

列強とのサイバー外交

明治32年1899年)の条約改正交渉において、

陸奥宗光外相が瞬時伝達器の暗号化機能を駆使した「デジタル砲艦外交」を展開。

治外法権撤廃交渉過程部分的公開し、

英国世論誘導成功した。

明治37年1904年)の日露戦争では、

明石元二郎大佐ロシア革命勢力と端末経由で連絡、

諜報活動効率化で史実より早期の講和を実現した。

技術限界社会適応

大正3年1914年)のシーメンス事件では、

海軍将校贈収賄記録が匿名アカウントを通じて暴露され、

従来の新聞スクープを凌ぐスピード政界震撼させた。

一方で、端末の生体統合特性逆用した「思考盗聴」の危険性が問題化

森鴎外が『沈黙の塔』(1910年)で警鐘を鳴らすなど、

プライバシー公共性ジレンマが早くも表面化した。

結論

仮想マイクロブログ技術明治期に存在した場合

その社会的影響は単なる情報伝達の高速化を超え、

国家形成プロセス自体根本から変質させる触媒作用を発揮したと考えられる。

文学における双方向性の獲得、

政治運動の即時組織化

国際交渉の多次元化など、

従来の歴史区分を超越した「加速された近代化」の様相を呈していただろう。

ただし、この技術がもたらす集合的無意識可視化は、

大正期のメディアアート運動昭和初期の全体主義的傾向に新たな様相付与し、

現代SNS社会が抱える課題を半世紀早く先取りするパラドックスを生み出していた可能性が高い。

今後の研究課題として、

端末の技術起源に関する考察海外技術流出説VS超自然的出現説)と、

大正デモクラシー期におけるメディアリテラシー教育実態解明が急務である

2025-02-18

コラム語源起源:柱から言葉の柱へ

コラムという言葉が持つ歴史的文化的背景は、

古代建築から現代メディアに至るまで多層的な変遷を経ている。

その語源ラテン語「columna」(柱)に遡り、

英語「column」を経由して日本語に定着した。

建築用語としての「円柱」から

印刷物の「縦の列」を指すようになり、

最終的に新聞雑誌の短評欄を意味するまでに至った背景には、

18世紀イギリスでの新聞改革が深く関係している。

この増田では、コラム語源起源を軸に、その社会的役割現代における展開を考察する。

コラム語源建築文字交差点

ラテン語「columna」から英語「column」へ

コラム語源は、古代ローマ建築を支えた石柱「columna」に由来する。

この言葉英語「column」として定着する過程で、

物理的な支柱から抽象的な「縦の列」へと意味拡張された。

特に活版印刷技術の発展が、

紙面の縦方向区画を「column」と呼ぶ慣習を生み出した。

印刷用語としての「カラム」は、

16世紀英字新聞で縦組みの記事配置を指すようになり、

これが現代コラム概念の原型となった。

日本語への定着過程

日本で「コラム」が外来語として定着したのは明治期以降とされる。

1874年創刊の『郵便報知新聞』が初めて縦組みの短評欄を導入し、

当初は「雑報」と呼ばれていたが、

大正期に入り「コラム」の呼称一般化した。

興味深いことに、

戦前新聞では「円柱」の原義を意識した「柱記事」という表現も併用されていたが、

戦後GHQ指導で横組みが普及する過程で「コラム」が優勢となった。

コラム起源:1751年の新聞革命

世界初コラム連載

1751年3月11日

イギリスの『ロンドンアドバイザリーリテラリーガゼット』が紙面右端の縦長スペースに批評記事を連載開始した。

これが「コラム」と呼ばれる契機となり、

3月11日は「コラムの日」と制定されている。

当時の記事は縦12cm×横4cmのスペースに収められ、

政治風刺から市井話題まで多岐にわたる内容で、

執筆者匿名性が特徴だった。

この形式が人気を博し、

1777年には初の有料コラムニストが登場するまでに発展した。

日本における受容と展開

日本最初コラムとされるのは、

1902年毎日新聞』の「硯滴」(現「余録」)である

戦前コラム知識人層向けの教養記事が主流だったが、

1950年代大衆化時代を経て、

朝日新聞天声人語」(1904年創設)や

読売新聞編集手帳」(1949年創設)の

ような親しみやす文体が定着した。

特に高度経済成長期には、

コラム大衆の声を反映する場として機能し、

間人コラムランキング出版されるほど社会的影響力を持った。

コラム多様化メディア進化に伴う変容

伝統メディアにおける展開

新聞コラム黄金期は1970-80年代とされ、

朝日新聞天声人語」の執筆陣には芥川賞作家井上靖開高健文学者が名を連ねた。

この時期の特徴は、

800字前後の制約の中で比喩と時事批評を融合させる文体確立にある。

例えば1985年の「天声人語」では、

プラザ合意を「円がジャンプする日」と表現し、

経済用語を平易に解説する手法が評判を呼んだ。

デジタル時代の新たな形

インターネットの普及により、

ウェブコラム文字制限から解放され、

マルチメディア活用した表現可能となった。

2010年代後半からは、

SNSとの連動を意識した短文形式が台頭。

動画組み込み型の「ビジュアルコラム」や

AI生成記事との差別化を図る「人間性強調型」など、

新たな表現手法が次々と生まれている。

コラム言語学的特徴:文体修辞法

制約が生む創造

コラム文体の最大の特徴は、文字数制約(新聞で400-800字、ウェブで1500字前後)の中で最大限の表現効果を追求することにある。

この制約が比喩の多用を促し、「経済の体温計」(日経新聞)のような定型表現を生み出した。

心理学者内藤誼人氏の分析によると、

効果的なコラム

「具体例(30%)→データ提示(25%)→比喩20%)→結論(25%)」

構成比率を持つ。

修辞技法進化

戦後コラム修辞法は、

擬人法(「円が踊る」)、

対句法(「上がる物価、下がる賃金」)、

③逆説(「豊かさの貧困」)の三本柱で発展した。

2000年代以降は、

④問いか形式(「あなたはどう考える?」)、

体験談導入(「先日、コンビニで見かけた光景…」)

といった読者参加型の手法が増加している。

特にYahoo!ニュースコラムでは、

本文冒頭に読者アンケートを組み込む「インタラクティブ型」が2018年から導入されている。

コラム社会的機能公共圏としての役割

世論形成の場

歴史的コラムは、

公式報道では扱えない市井の声を拾い上げる機能果たしてきた。

1950年代朝日新聞素粒子」欄では、

読者投稿を基にした地域課題の掘り起こしが行われ、

実際に地方自治体政策変更につながった事例が複数報告されている。

近年では、毎日新聞発言」欄が東日本大震災後の被災地ルポ継続的掲載し、

復興政策への提言プラットフォームとして機能した。

文化伝達の媒介

コラム教養主義から大衆文化への橋渡し役としても重要役割を担ってきた。

1964年読売新聞編集手帳」の連載「万葉集を歩く」は、

古典文学現代語訳をコラム形式で紹介し、

単行本化されてベストセラーとなった。

2010年代には、

産経新聞産経抄」が日本伝統工芸職人を紹介するシリーズを展開、

若年層の職人志望者が3倍増加する社会現象引き起こした。

コラム未来AI時代における人間性のゆくえ

AI生成コラムの台頭

2023年、

朝日新聞社はAIコラム生成システム「COLUMN-BOT」を試験導入し、

スポーツ記事天気予報コラム自動生成を開始した。

初期段階では定型性の強い記事が中心だが、

感情分析アルゴリズムを組み込んだ「共感AI」の開発が進められている。

一方で、

人間執筆コラムには体験独自性が求められるようになり、

2024年の読売文学賞では初めてAI生成作品ノミネートされる事態が発生した。

パーソナライゼーションの進展

デジタルプラットフォームでは、

読者の閲覧履歴に基づくパーソナライズド・コラム一般化している。

2025年現在

SmartNewsの「マイコラム機能は、

ユーザー位置情報検索履歴心拍数データウェアラブル端末連動)を分析し、

最適なコラム自動配信するシステム運用である

これに伴い、

コラムニスト側にもデータ分析スキルが求められるなど、

職能の変容が進んでいる。

結論言葉の柱としての可能

コラム歴史は、

人類情報を整理し伝達する方法進化史そのものである

古代ローマの石柱からデジタル空間の縦スクロールまで、

その形態は変化し続けているが、

本質的役割——複雑な現実構造化し、

読者に新たな視点提供する——は不変と言えよう。

今後の課題は、

AIとの協働の中でいか人間らしい洞察を深化させられるかにある。

コラムという形式が、

次世代の「知の柱」としてどのような発展を遂げるか、

その行方から目が離せない。

2024-09-14

にんげんのかんがえかたっていっぱいあってたのしいね

1. 古代哲学宗教
2. 中世近代哲学
3. 近代現代哲学思想
4. 科学技術の発展
5. 心理学自己啓発
6. 芸術文化
7. 人類学コミュニティ
8. 倫理学道徳哲学
9. 政治哲学社会思想
10. 科学哲学認識論

2024-08-30

村上隆へのオタク評価ある意味しかった

浮世絵西欧評価されたのは当時の西欧画家達が自分達の表現とは全く違う表現出会たかであるアートマーケット評価された訳ではない。同じように日本漫画アニメアートマーケットは見向きもしなかったが、一般ファン大衆文化として親しまれその独自表現映像クリエイターコミック作家達が発見して彼らに評価され影響を与えリスペクトされてきた。そのような大衆文化サブカルチャー西欧アートマーケット=ハイカルチャー価値観文脈に合うように=流通やすいように日本美術史表現技法と強引に接続、あるいは捏造したのが村上隆である村上作品を見た時のオタク達の反応はある意味しかった。浮世絵浮世絵として西欧美術史価値観とは全く別の芸術であるように日本漫画アニメは正しく漫画アニメとして世界認識してもらうべきであって立派な芸術として受け入れて貰う必要など無かった。現在ではやっとそのように受容されるようになった訳だがそれは村上のやった事とは何の関係もない。西欧権威に認められる為に戦略を考え努力して色々やってきたという村上の話を聞き実際に評価された事を受けてやっと村上隆理解できたなどというのはまさに出羽守であって植民地根性も甚だしい。そして彼の作品評価があがり村上日本でも受け入れられつつあるのだろう。だが村上はそれを本当に喜んでいるだろうか。オタククリエイターに憧れた村上自分作品が持つその恥ずかしさをわかっている。だから彼はインタビューの中で自虐的な事を何度も言う。敗戦国という発言もある。西欧基準に合わせざるを得ないいわゆる「アート」の限界を痛いほどわかっているから。

2024-07-27

海外左翼ゲーム記者、弥助の問題視人種差別と断言

https://kotaku.com/this-was-never-about-anything-other-than-hate-1851602820

再び醜い頭を育てたゲーム反動的右翼運動も変わらず、それは理由があって今起こっています社会文化的問題選挙の年に熱のピッチに達しており、ちょうど10年前のように、政治的な怒りは大衆文化に血を流しており、公共の場敬遠されているが、オンライン賞賛されている(そして愛されている)素朴で印象的な若い男性を利用しようとしている人々によって捕らえられています男性若者過激化がインターネットによって支えられ、永続していることを証明する無数の研究物語があります。彼らは私よりもはるか効果的にあなたを納得させるので、それらを読んでください。しかし、私が言えることは、特に何ヶ月も絶え間なくこの怒りに直面して、この種の運動は憎しみだけによって支えられているということです。

人種差別論理的立場ではないので、論理でそれを倒すことはできません。事実人種差別主義者特にビデオゲーム文化に家を作る退屈な種類の人種差別主義者にとって重要ではありません。常に分割する新しい髪があるだろう - ギタ・ジャクソン、余波

それは憎しみの特別ブランドであり、進歩から戻る途中で空中をケアする一種の後方論理ブーメランです。創業以来、文化空間としてのゲームは、主に白人少年男性によって支配されていました。あなたはそれに参加するためにある程度の富と自由時間を持たなければならず、それらは80年代90年代には疎外されたグループに容易に利用できませんでした。男の子対象としたマーケティングゲームデザインは、この趣味が彼らだけのものであるという広範な認識ますます煽り、それに興味を持つ多くの女の子が親の抵抗文化的回避に遭遇しました。私自身は、夏の仕事お金Xbox 360を買う余裕があったので、両親が「男の子趣味」に餌を与え続けることを拒否した後、ゲーム前進しただけで、私の話はユニークではありません。

2024-06-23

かつて一般攻撃魔法無双の術だった

https://anond.hatelabo.jp/20240623011829

漫画もやたら絵描き評価されてるけど絵の素人にはよくわからない

後追いだとそういう評価になるのは別に間違ってない。ただし漫画家はじめ玄人からの絶賛も正しい。

大友克洋漫画技法」というのは日本マンガ歴史においてソルトラークのもの

斬新さと完成度を兼ね備えていたが故に「特定作家個性」ではなく絵柄(もう少し広く「作劇手法」でもいい)丸ごと咀嚼されて、以後日本ストーリー漫画を描く上での必修科目になった。

これが起きたのはAKIRA(連載83年~90年)以前の、「ショートピース刊行(79年)や「童夢掲載(80年~81年)の頃。

(もちろんどれだけ大友を取り入れたか、という作家個々の選択にもよるが)70年代以前と80年代以降で「なんか古臭い絵柄のマンガ」の比率が大きく違うのはそういう事で、

ある意味その後の絵柄の進化が大きくないとも言えるわけだが)現在でも80年代マンガの多くが絵柄の違和感なく普通に読めてしまう、というのは実はとんでもないことだ。

例えば80年代には40年代マンガなど大半が絵柄の時点で古臭くて読むのに努力がいるものだったが、本来文化特に流行という側面のある大衆文化の変化はそういうものである

ところが、現在マンガ読みにとっては(少なくともストーリー漫画については)、「40年前でも普通に読むに堪える絵柄の作品が多い」という妙な事態になっているわけで、

これには「作劇手法面での十数年分のマンガ進化大友克洋一人で先食いしたせい」というのは多分にある。

大友以前・大友以後」と良く言われるのはそういう話であり、ゾルラーク一般攻撃魔法になったように、我々はまだ「大友以後の時代」に生きているのだ。

2024-05-03

anond:20240502234748

文化にはプロトコルとしての側面がある。 ある集団に属するために必要ということがあるということ。

個々の文化それ自体の良し悪しとは別にその文化を担う集団の色がついてしまう。

具体例を出すなら入れ墨はそれ自体文化の程度が低いということはないけれど、ヤクザプロトコルとして確立してる。


逆に集団から遠ざかるためには文化に対してアンチの態度を取るしかない。

入れ墨を入れてたらどうしたってヤクザ文化人間が寄ってくるから普通の人の文化の中に「入れ墨は悪」という価値観形成される。


大衆文化についてもそうで「大衆はいたくない」人たちがいるんだ。

ハイソサエティであるために大衆文化否定しなければならない (少なくとも大衆文化とは異なる文化の中に生きなければならない) という価値観が生じうる。

しかしその一方ではただ「違う」に過ぎずハイロウもないとも言える。

まあどうあがいたって全ての人間が同じ文化の中に生きることは出来ないのだし、現実には上流階級文化と下層民の文化の洗練度合いが違うのはしょうがない話ではあると思うがね。

2024-02-16

天使の輪が死人を表す漫画表現になっているのって変だな

人が死んでも天使になるわけじゃない、キリスト教世界観においても

この表現を多用している一番有名な漫画はおそらくドラゴンボールだろう

どこかで発想の飛躍があったのかな

気になるねえ、ぐぐりましょうねえ

天使に限らず聖人などを描いた絵画にも、聖人の後ろに光が差す表現が用いられたのだとか

天使に限らないのであれば以降は天使の輪じゃなくヘイローとここでは書くようにしておこう、ブルーアーカイブ風の呼び方

発想としては仏教の後光と同じか

まだ足りない

天使聖人を描いた絵画???漫画表現の死者を表す記号としてのヘイロー、間に挟まるものを探さないと

なんかこれだ!って情報がなかなかヒットしないな

勘だけど風刺画が間に挟まる気がするんだよな

天使聖人を描いた絵画パロディで、天使を例えば政治家差し替え風刺画みたいなのがどっかにあるんじゃないか

それが転じて死者の頭上にヘイローを用いるのが一般化したとか?

うーん、あくま根拠のない憶測

こういうのは英語圏情報を探さないといけないな

一応、英語圏イラストで死者の頭上にヘイローがあるイラストはまあまああるっぽいが……

日本でもなんかドラゴンボール以前に死者の頭上にヘイローがある表現をした漫画いか

……手塚治虫がやってる気がする

あの人だいたい何でもやってるからな、あとで探すか

ってことはディズニー作品でもなんかあるような気がしてくるな

うーん、探し方が下手

wikipediaの「光輪 (宗教美術)」の「大衆文化における使用」の記述が少ないな

英語版だと……英語版の「Halo (religious iconography)」には大衆文化の項自体無いのか

うーんアメコミにもヘイロー使用あるかもだが、アメコミに詳しくない

調査頓挫する予感

ここまで調べたというメモ

なんかコレ!っていう本があれば読みたいんだが、この疑問をずばっと解決する文化史本は無いかもなあ

今週の『サチ録』、番外編15を読んだ結果

日記

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ポップカルチャー宗教序論」という論文を読んだ

こういう路線で調べていくのがよさそうか

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なぜ亡くなった人の頭上に「天使の輪」を描くようになったのでしょうかよろしく... - Yahoo!知恵袋

漫画記号表現としては昔からある定番スタイルですよね。 ディズニーアニメにも、ヨーロッパカートゥーン(cartoon)にも良く死者の記号として使われていますね。

http://www.cartoonstock.com/cartoonview.asp?catref=amc0009

ふーむ、やっぱり古くから定番なんだな

この回答者によるとディズニーでもやはり使用されていると

人間は死ぬと天使になりますか | ものみの塔 オンライン・ライブラリー

人間死ぬ天使になります

アリーロという,まだ7歳の幼い女の子が亡くなりました。悲しみに打ちひしがれた両親は,柩に横たわる白いドレス姿の娘を前に,ぼう然としています。慰めようとして,神父がこう言います。「神様は,天使をもうひとりお望みになって,アリーちゃんお召しになったのです。幼子の魂は,今ごろ,神様のみそば翼を広げて飛んでいますよ」。

死んだ人間の魂が天使になる,と信じている人は少なくありません。公式教理として教えられることはまれですが,映画テレビ連続ドラマでは,死んだ人が翼のある天使になって,生きている人を守る,という話がよく取り上げられます

あなたはいかがですか。愛する人が死後に天使になると考えておられますか。聖書は何と教えているでしょうか。では,天使本質について,また死んだ人の本当の状態について,聖書のものが何と述べているかを調べてみましょう。

うーん、「死んだ人間の魂が天使になる」という発想は無いわけではないのか

それが転じて天使ではない死者の霊魂的な何かの頭上にもヘイローが描かれるようになった?

ドラゴンボールの影響がどのくらい大きいか、気になるな

っていうかドラゴンボールつまみ食い的にしか読んだこともアニメを見たこともないんだよな

何より先に原作コミックを読んだほうがいいのかもしれん

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天使とは何か キューピッドキリスト悪魔

天使と人の文化史

ここら辺の本があるいは参考になるか

だいたい最終章は「現代における天使がどのような姿で描かれているか」みたいな話題から、そこに期待が出来る

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英語圏情報を探そうとしてもゲームの『HALO』ばっかり引っ掛かってやりにくいったらありゃしない

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そうだ、『トムとジェリー』で爆死したトムが雲の上でヘイローつけた状態で不満そうな顔してるってオチエピソードがあった気がする

ネズミ取り必勝法』か、これ大好き

プレゼントボックスに入ったトムが針でめった刺しにされるシーンは涙なしでは見られない

オチはやはり爆死で……天使になってるな、これ

やっぱり「死んだら天使になる」って発想がポップカルチャーである程度一般的に表現されていたようだ

翼とヘイローがあってハープを持っている

ネズミ取り必勝法』は1944年11月23日に公開

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ってことは

天使聖人を描いた絵画→死後に天使になる認識、またそれを表現したイラストアニメ天使ではなく単なる死者にもヘイローがつけられた

……か?

まだ足りないぞ

「死後に天使になる」って発想がどこから来たんだって

キリスト教教義だと死んでも天使になるわけじゃない、それはカトリックだろうがプロテスタントだろうがエホバだろうが他の何かであろうがだいたい同じだろう

ヘイローは聖なるもの加護を表すからどんな死者でもヘイローは頭上に表れる?

でもトムは爆死して天使になっとるじゃろがい

まだまだ調べないと納得できないな

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ひょっとしたら演劇ミュージカル側の文化関係している可能性もある

死者を表現する記号として頭の上にヘイローをのっけた衣装を着ていた……とか、あるかもしれない

一応留意して調べる事

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「池にコインを投げる風習はいから始まったのか?」みたいなテーマでおととい調べて日記書いたときは、その風習を有名にした「Three Coins in the Fountain」っていうアカデミー賞受賞作品を見つけたんだよな

これも同じパターン可能性がある

聖者記号としてではなく、単なる死者の記号としてヘイローを使った何らかのヒット作品があったので一般化したみたいなキッカケがひょっとしたらあるかもしれない

しかあんまりこの仮説に固執するのはよくないな、気長に探そう

あるとすれば19世紀後半以降くらいのはず

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そうか、調べるポイントが二つに分かれちゃったんだなあ

①「死後に天使になる」という考えの源流を辿るルート

漫画表現で死者が天使となった描写漫画表現で死者に(翼など他の天使的要素抜きで)ヘイローのみが付与される描写となった転換点を探すルート

こりゃ大変だ、いったん追加調査ここまで

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次にやる事

守護聖人絵画での描かれ方を確認する

→実は守護聖人の頭上にヘイローだけでなく、翼がはえているなどあったりするかどうか

:積んでるキリスト教入門みたいな本をさっさと読む

→なんもかんも体系的な知識が欠けているのが悪い

 →でもなー、自分の興味の向き先は「キリスト教教義はこういうものです」って知識じゃなくて「人々はキリスト教をこのように解釈して信仰していました」という知識なんだよなあ、基礎の勉強ってどうしても飽きちゃって

  →だとしても体系的な土台の知識が無いと何も始まらないだろ!

   →はい、おっしゃる通りです、すみません……

第一次世界大戦風刺画ヘイロー描写が無いか探す

第一次世界大戦1914年7月28日1918年11月11日、ちょうど探したい年代

キリスト教素養がない私がヘイロー描写を見たとき、それが宗教的な性質を持っているのかそれとも記号化したものなのかを区別できるのか?という点について考える

→やっぱり基礎の勉強しましょうね~

そもそもヘイローがあって翼があったらそれは天使とみなしていいのか?「天使」って何?「御使い」って何?何もわからない、調べる

→基礎(略

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②についてだが「ゲームドット絵キャラが死んだことを表現するのにヘイローが便利で、ドット絵で翼を描くのが大変だったから省略された」という仮説を思いついた

流石にお話として出来すぎな気がする、この仮説は最終的に棄却することになりそうだ

しかし調べるとっかかりとしては魅力的

ヘイロー関係ないけど「ゲーム戦闘不能をどう表現するか?」というテーマを調べるのめちゃくちゃ楽しそう

棺桶幽霊化、ヘイロー付与etc……

また別の機会に調べよう

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Heaven Cartoons」というジャンル風刺画があるらしい

画像検索してみるとなるほど確かに天国天使なんやかんやする種類の一コマ漫画

いつ頃から描かれているかちょっと調べてみたがなかなか難しい

Wikipediaの「カリカチュア」のページの「主な作家」の項に載ってる人の代表作を一つずつ見ていくしかない

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星新一アメリカ一コマ漫画蒐集してそれについてエッセイを書いた『進化した猿たち: The Best』をkindleで購入

これにアメリカ一コマ漫画挿絵掲載されて……いない!

権利関係問題のせいかほとんど掲載が無くなってしまっているようだ

しか天国ものについてのエッセイは変わらず掲載がある

数少ない挿絵の作者は……Sidney Harris

漫画家としてのキャリア1955年から

うーん、トムとジェリーのほうが時代が古い

もっと挿絵を見たいか挿絵が載ってる物理書籍のほうを読まないといけないなこれは

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Cartoon of the politics of the Second Empire (Bonapartiste Regime) directed by Napoleon III (Charles... | bridgeman images

やっとひとつ見つけた

ざっくり言うと政治家が天に召されている様子の風刺画1868年1869年?に描かれた、ってところか

翼があり、ヘイローもしっかり完備

トムとジェリー1944年よりだいぶ古い!

しかし余談だけれど死後4年後たってから風刺画が描かれていて不思議

なんか「天使になる」ってのは語弊があって「昇天するとき天使と同じ装いをする」という言い方の方が正確なのかもしれない

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トムとジェリー以前のオールカートゥーンを片っ端から観ているが、天に召されるシーン自体全然見つけることができていない

ところでチャップリンの『キッド』に天使が登場するシーンがあった

翼だけ背中にあってヘイローなし

実写映画も調べる範囲に含まないといけないか

オールカートゥーンの本当に初期の初期は紙の漫画をそのまま映像化したようなやつだったから、漫画文脈だと思うんだけどな……

うーん、難航している いよいよ調査が行き詰まりそうだ

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マーク・トウェイン天国建設の旅』という論文を見つけたが、これは読む価値がありそうだ

天国観の変遷について言及がある

絵やイラストとして描かれていなくても天国に行くとヘイローと翼とハープが通行証かのように与えられる認識は当時の人々視点で昔からあったようだ

18~19世紀文学作品天国描写しているものを探すべきだな

ここらへんは先行研究論文を探しやすそうだ

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Elizabeth Stuart Phelps Wardという人が書いた『The Gates Ajar』という宗教小説アメリカ1868年刊行されめちゃくちゃ売れたらしい

当時の人々の天国観に影響ありそうに見える

その小説で語られた天国観は

In contrast with traditions of Calvinism, Phelps's version of heaven is corporeal where the dead have "spiritual bodies", live in houses, raise families, and participate in various activities.

カルヴァン主義伝統とは対照的に、フェルプス天国は、死者が「霊的な身体」を持ち、家に住み、家族を養い、さまざまな活動に参加する身体的なものである

とのこと(『The Gates Ajar』のwikipedia英ページより引用しdeepl翻訳

うーむ、おぼろげに流れが見えてきた気がする

カルヴァン主義の事よく知らないからそこは調べないといけない

マーク・トウェイン天国建設の旅』という論文序文あたりに19世紀半ば以降に天国もの小説流行ったみたいなことが書いてあったが、その一因はこの小説な気がする

なぜ流行たかというと南北戦争の影響やろなあ

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そういえばこの日記メモには記述をしていなかったが、宗教美術におけるヘイロー写実主義の高まりによって19世紀までにほとんど衰退しているらしい

なので宗教美術において死者(例えば聖人殉職者など)にヘイローが描かれたものがあったとしても、カートゥーンヘイロー描写がその影響を受けているとはちょっと考えにくいのではないか

一度断絶しているのでは?という疑問を持っている

ヘイロー描写は一度衰退し、再び風刺画カートゥーンなどで記号として便利なので復活したという前提で調べている

あー、いや……この前提本当に大丈夫か?自信ないな

記号として復活させたとしても参照元は必ずあるわけで

19世紀アメリカで人々が見ることが出来た美術絵画はどのようなものだったのか?というのがわからないと正確なことは言えないな……

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自分確認した限り、カートゥーンアニメで「死んだら天使の装いをして天に召される」表現をやった一番古いものは『トムとジェリー』の『ネズミ取り必勝法

オールカートゥーンを全て総ざらいして確認したわけではないかもっと古いのがあってもおかしくはない(アカデミー短編アニメ賞受賞作品すらすべて確認できていない)

キャラ死ぬ描写そもそも全然ねーんだわ

トムとジェリーがどんだけ過激なことやってるかって話ですよ

幽霊は沢山出てくるんだけどねえ

ネズミ取り必勝法』はアカデミー賞とる程度には人気だったので、カートゥーンにおける元祖でなかったとしてもビジュアルイメージ固定に大きく貢献したといっていいか

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キリスト教教義では死者は天使になるわけではない、という認識があった(今でもそうではある)

19世紀半ばにスピリチュアル小説流行り、人々の天国観を変えた

→それは死後に霊的な体を持った死者が天国で現世と同じような生活を営むものだった

→死後に天使のような装いになる認識が生まれ

たまたま印刷技術の発展とタイミングが同じで新聞挿絵風刺画漫画などで聖人でもなんでもない普通の人の死者の絵が多く描かれるようになった

→死者に天使の装いをさせた風刺画、紙の漫画カートゥーンアニメビジュアルイメージが固定される(この時点ではヘイローと翼はセット、あくま天使など聖なる魂的な存在専門用語を適切に使う自信が無いので曖昧表現)と同じ装い)

日本キリスト教文脈無視された記号的な描写がされ、ヘイローのみで死者を表す記号表現となる

……という流れだという仮説を立てることが出来た

うーん、自信ない

18世紀以前に普通の死者も天に召されるとき天使と同じ装いをするという認識があった」と言える材料を見つけることができていない

印刷技術が生まれる以前だと絵画にそこらへんの人が天に召される絵なんて描かれないんだよなあ

探すとすれば厳格な宗教者が教義通りに書いた本でなく、人々を慰撫する目的教義からすれば不正確な内容が書かれた本みたいなのがあればあるいは……(というか、それが『The Gates Ajar』なのよ)

また、『The Gates Ajar』などの天国観を変えるイベントによって死者が天使の装いをするようになった、とある程度の自信をもって言えるような材料は正直見つけることができていない

しかし、とりあえず一定レベルで納得は出来たからこの疑問はクローズ

18世紀19世紀の米英のキリスト教史を調べないともうちょっと正確な認識ができるのだろうけれど、それは今後の宿題だな

西洋世界文化史キリスト教歴史は不可分だから体系的に勉強したい

2024-02-02

統合失調症みたいな投稿は本当に統合失調症なのか

俺が「schizoposting(以下糖質投稿)」と呼ばれる文化に惹かれたのは、陰謀論的な投稿を信じて投稿するときに生じる一種混沌とし​​た論理認識したとき

糖質投稿は、患者医師が「ワードサラダ」、パラノイア無秩序思考として知っている症状に関連して「統合失調症」という用語を借りて、精神状態模倣するSNS投稿パターン説明するサブカルである

これは世界中で人気があり、Facebookグループ「schizophrenic order of the piss of dawn」には現在50 万人以上のフォロワーがいる

この投稿行為は、Reddit4chanなどで始まりユーザー自分投稿を通じて、軽度の感情示唆するミームや会話を投稿することで、実際に統合失調症であるかどうかについてオンラインの仲間から疑問を投げかけていたらしい

陰謀、劇的な結論、そしてほとんど読めない単語サラダを好んでいる

投稿の多くは銃乱射事件統合失調症と誤って結び付けられている)に関するジョークや、視聴者から笑いを誘う品位を傷つけるミームについて詳述している

最初は無害に見えるかもしれない

これらのグループは、人々が犯罪化や検閲を受けることなく、奇妙で曖昧な行動や思考を探求できる安全場所提供しているという考えに共感できる

しかしそれは重要な点を提起している「糖質投稿根本的に受け入れられているのか、そして神経発散的な癖を称賛しているのか?それとも、病気の症状であると主張することが、精神異常行動についての知識に悪影響を及ぼしている可能性はあるのか?」

大衆文化は、精神疾患には特定有益な、そしておそらく望ましい性格特性が伴うと信じ込ませてくる

うつ病不安を称賛するミームを見たことがあるだろう

なぜなら、それらは思いやりや忍耐の特性を「教えてくれる」から

精神疾患とポジティブ性格特性が結びついているため、業界全体が精神疾患と創造性の関連性の分析に注力している

まり病気がなければ、創造的な天才存在しないだろうということである

しかし、その考えは、私たちが行動を病気として分類する理由のもの本質を損なうことになる

医師古典的に「障害」と定義するものについて、精神疾患として定義されるためには、その症状が罹患者の日常生活に重大な障害苦痛を引き起こす必要がある

実際、患者人生を十分に楽しむためには、この障害に伴う認知障害対処するための的を絞ったプログラム必要であり、多くの科学者臨床医が開発に時間を費やす

努力にもかかわらず、統合失調症研究者模倣しようとしている認知的な欠陥のせいで、ホームレス労働力から孤立、または失職などの苦悩から精神患者を更生させることができる状況には、望んでいるほど近づいていない

精神医学運動は、実際に苦しんでいる人々からこの区別を奪い、適応戦略や風変わりな性格特性の形として症状を流用することは、伝統的な定義では声をあげることができない人々のグループを消去することに寄与している

統合失調投稿場合、明確に考えたり、一貫した文章を作ったりしないという特性が称賛され、「オンライン」な人々に特有ユーモアブランド奨励されている

そのユーモア風刺として分類されることもあるが、実際には、文化があまりにもとんでもないものになってしまい、陰謀を信じたり統合失調症のように見えることが一部の人々が選んだ道であるからかっていることがある

しかし、それがまさに当面の問題なのかもしれない

病気実例となることを選択することは、ユーザーが気づいているかどうかにかかわらず、障害に対するある種の倒錯した嗜好を示しており、真の精神疾患患者場合患者統合失調症ポスターとまったく同じ症状を回避しようと最善を尽くしているように見えるだろう

表現の自由が称賛される社会において、文化アイデア意味を探求し、あいまい人口統計日常の語彙に組み込んでいるのを見るのは素晴らしいことだ

しかし、糖質投稿という行為不正確に使用されている可能性があり、ハロウィーンで老人の仮装をしたり、同じ休日ネイティブアメリカンブラックフェイス衣装を着たりすることに近いかもしれない

まり、これらの流用の対象者は明確な生計を立てている(しかし、ほとんどの場合生計手段が欠如している)が、大衆文化によってさらに誤解されている

糖質投稿は、表面的には楽しくて無害なことのように見えるかもしれないが、実際には退行の兆候であり、精神異常者になること、または「正気を失う」ことが何を意味するのかを実際には理解していない可能性があり、その結果、苦しみをさら孤立させることになる

2023-09-10

anond:20230910234324

親はクソダサ大衆文化好きだけどジャニーズまらなかったなあ

反抗期的にジャニーズださとか粋がってたのとも違うし

直感的に好みに合わなかったとしかいえない

2023-08-10

庶民嫌いほどオタクになりたがる

今時オタク貧乏人の道楽だと揶揄するバカが一部いるが、彼らも低水準社会犠牲者レイシスト予備軍。

実態真逆だ。

僕の主観が入るが、オタクになる人は一定確率で「貧乏人を人と思うな」のマインドをわきまえている。

庶民いじめが好きなお気持ち勝ち組な者ほど「変わり者にやさしい社会」を是認するので、オタクになりたがる。

類は友を呼ぶでオタクとは本質的にそういう集団なのだからオタク嫌いを静かにさせたければ「弱者蔑視容認な低水準思想を改めること」が最善策になる。

尤も、そうすれば益々、オタクの人は減って衰退するだろう。「貧乏いじめ好きが差別大嫌い」という発想自体矛盾しているのだから本来そんな集団存在しえないのが正しいのである

こんな人間を遠ざけたいなら、やるべきことは決まっている。

XというSNS特性をわきまえないツイート炎上した松川るい議員のような空気を読まない行動をさせないなどの本人の居場所を奪うようなオウンゴール行為をさせないことは言わずもがなだが、より根本なのは社会コモン文化の整備だ。要するに大衆文化の復活である

こういった流れは、今後の世界趨勢にもなるだろう。

だが殆どの人がこの事実に気付いていないので、アクションは遅れ、近い将来「人をいじめてみたかたから」とオタクになる者が出てくる可能性がある。

因みに、日本オタク文化のうちアニメ漫画ゲーム鉄道文化(撮り鉄含む)系はルーツ左派文化で、具体的には学生運動当事者やそれにあこがれていた人的な人々が初期にその文化を作ってノンポリな多くの学生などの若者がそれを大衆化させた経緯があるらしい。渋谷系文化秋葉原文化など、貴族気質が絡む社会との軋轢日本のみならず世界中で枚挙に暇がない。

現代的な意味で賢い親は、元より「属性変更不可能なそれに絡む差別に対する批判的思考力や問題解決力が高いので結果的オタクにならない子育てになる」が、まかり間違って子供オタクになりたいと言っても、説得して遠ざけるか、最低でも弱者の誰かを見下す可能性の低いそれこそガジェットオタク等にさせたがる。

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